秋色寄席懐古
秋になると、あたしの思い出に、旧東京の寄席風景のいくつかが、きっと、
京橋の金沢――あすこは、新秋九月の宵がよかった。まだ、暮れきって間もない高座が、哀しいくらい明るくって、二階ばかりの寄席(旧東京の、ことに、寄席にはこういう建築が多かった。神田の白梅、浅草の並木、みんなそうだった。明治の草双紙の、ざんぎり何とかというような毒婦ものでもひもといたらきっとこういう寄席のしじまは挿絵に見られる)から、それこそ錦絵そっくりの土蔵壁が、
三十間堀あたりの町娘や、

中将姫だよ
やっとよーいやさ
あーれはありゃりゃんりゃん
先の女房を虐げて追い出した(?)とかの祟りで、昔から寄席の儲かる時分になると、万橘は脳を患っては休むのが常だ――と、これも、自分は、金沢華やかなりし頃、嘘か、まことか、耳にしたことも、こうなると、いっそ秋寒い。
林家正蔵のスケをたのまれ、一度だけ自分はこの金沢の二世である東朝座の高座へ立つことがあったが、安支那料理屋みたいなペンキ塗りのバラックでそのかみのような下町娘は、金春芸者は、そして白壁は、広重は――もはや、見出せようよしもなかった。
桑名をながれる
本郷の若竹の銀襖を、晩夏の夜の
小せんは、通り庭になっている秋草の植えこんであるあたりを、きっと俥から下りると、前座に負われて楽屋入りした。――それが寄席からうかがわれるので、いっそ、我らに涙だった。
小せんの上がる前というと
バタバタと鳴る拍手――その拍手さえ小せんにおくるお客たちのは妙にさびしく遠慮がちだったのを、あたしは、忘れることができない。その晩小せんは「近江八景」という、惚れた遊女が果たして自分のところへくるか否か、易者にみてもらう、あの噺をやったけれど、
「おめえの顔なんざ、梅雨どきの共同便所へはだしで入って、アルボース石鹸で洗ったような顔だ」
云々という独自のクスグリを、ずいぶん身にしみて、聞いた記憶がある。
小せんは、あれからじき患いこんで、
これが、思い出の第二。
もう、文展のはじまる時分、曇った秋の午後三時を、上野の鈴本で聴いた圓蔵の噺も忘れられない。
品川の圓蔵と称えられる、先々代の圓蔵である。
故人芥川龍之介は、この人を讃えて、「からだじゅうが舌になったかと思われる」と叙したが、まことや、故圓蔵の、ピリオッドのない散文詩集をよむような、黄色い美酒の酔いごこちは、いま想っても、すばらしい。
明治、大正の噺家で、いくたり、あれだけの飄逸があろう?
この日は昼席の有名会で、我が圓蔵はたしか「八笑人」をやった。
喋っているうち、だんだん秋の曇り日が暗くなりだして(その頃、鈴本は、今のところの向こう側にあって、二階と三階とを寄席にあてているこしらえだったが)白い障子が
圓蔵の顔がしばらく、暗く、うすらかなしく、その中から、「八笑人」の、あの仇討のひとくさりの「ヤーめずらしや何の某……」。あすこのくだりばかりが、急速なテンポをもって、しきりと我らの胸に訴えられてきた。
広小路に早い
ついでにこの日、小さんは何を
思い出の、第三。
立花家橘之助は、今も六十近くをあの絶妙な浮世節の
あたしは、その頃、
橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれるときもその送別の席上、
「今度、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへお前は年に二回くらい出るようにしろ」
と、公は言われた。
「御前、それは、ほんとうですか」
橘之助は、夢かとよろこんで、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで、橘之助高座へ上がると三味が鳴らない。ぺんとも、つんとも、まるで、鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ、橘之助、何十年と三味線をひいて、こんな例は一度もない。昔何とかいう三味線ひきが、品川であそんでいて、絃の音色で安政の地震を予覚したという話さえ思い出して、これは、遠からず何か異変があるのじゃないかとさえ、心、ふるえた。
そうして、いやいやながら顔だけ出そうと、ほかの席はすっかりぬいて、トリの恵智十へ入るとたちまち今度はスッと胸が晴れた、そういってもいつもよりかえってほのぼのとすがすがとなって弾いた、うたった。うたった、弾いた。いつもの五倍もはしゃぎにはしゃいで、さて、そのあくる日、湯島の家で昼風呂につかっているといとけたたましい号外の声。
はてなと小首をかしげる間もなくその号外は、
「伊藤公ハルピン駅にて暗殺さる」
云々。
はじめて心に橘之助、昨夜の怪異が深く深く肯かれたというのであるがあたしは橘之助の、あの狸のような顔が、何かその時もの凄いありったけに思えて、ぞっと水でも浴びたここちに、四谷の通りへ駆けて出ると、ここでも秋の夕の小寒い灯が何がなし、あたしの瞳にいぶかしく、うつった。
これが、思い出の、そうして、第四。
秋の思い出は、恋といわず、無常といわず、みんな、さびしい色ばかりだ。
(昭和三年夏)
[#改ページ]寄席のちらし
たのまれて書いた戯作調の広告文は、やはり寄席や噺家のが多い。
やがては散逸してしまうであろうから、この小片へ書きつけておくこととした。
口上
昔を今に百目
(昭和七年四月、神田立花亭、初めて古風な蝋燭仕立ての会をせし時)
口上
薫風五月夏祭、神田祭を今ここに、寄席へうつして短夜を、花万灯や樽神輿、さては揃いのだんだら浴衣、
正岡 容
(昭和七年五月、同じ寄席の「江戸祭の夕」の時)
つつしんで口上
広重の空、桔梗にぞ澄む早夏六月、おなじみ蝶花楼馬楽の会、丸一社中が花籠に、二つ
正岡容に候 こと実証
(昭和七年六月、国民講堂「馬楽の会」の時)
二人会への口上
ハナシカは雪くれ竹のむら雀、ジャズっては泣き、じゃずっては
(昭和七年十月、金車亭、馬風・百圓二人会の時)
……とまれ、こうしたいかにも昔の日本の素町人みたいな、たとうれば窓辺の
(昭和九年秋)
[#改ページ]モリヨリヨン
モリヨリヨンは、狂馬楽が先代文楽と、それぞれの前名千枝伝枝のお神酒徳利でつるんで歩いていた頃に創作した落語家一流の即興舞踊とつたえられる。最近では近時没した両者崇拝の可楽がよく
突如、それこそほんとうに突如、座敷の中でも、寄り合いの最中でも一人がツケ板のようなものでやたらにそこらを引っ叩いて、

思い起こす大正末年の歳晩、柳家金語楼、当時新進のホヤホヤで神戸某劇場の有名会へ初登場のみぎり、一夜、同行の先輩柳家三語楼、昇龍斎貞丈、尺八の加藤渓水の諸家と福原某旗亭において慶祝の小宴を催したが、興至るやじつにしばしば畳叩いて三語楼と

それにしても神戸の旗亭でモリヨリヨン踊りを見せられてから、はや二十余年の歳月が経つ。だいたい、死ぬと思われなかった貞丈まず逝き、次いで三語楼、渓水と後を追って、モリヨリヨンの同志、いまやわずかに生き残りいるは柳家金語楼と私とのみになってしまった。しかもそののち年ならずして人気、一代を圧倒した金語楼はもはや昔日の落語家ならず身辺多彩の喜劇俳優として不朽の青春をもてあそびおり、二十年一日、旧東京招き行燈の灯影を恋おしみ、寄席文学の孤塁を守りいるものは、私ひとりとなってしまった。
だが、今にして私は思う、このモリヨリヨンというものを、モリヨリヨンの「本体」というものを。それは、その頃の落語家なるもの、一に話中の八さん熊さんと精神生活を等しうしてその狂態を活写すべく、まず常日頃よりおのれが身辺に妄動する小理性の閃きを皆無たらしめんとして、かかる愚かしきなんせんす舞踊の特技をば、ことさらに研き、身につけていたのではなかったか、と。あたかもそのかみの歌舞伎女形、「
「世の落語家のとにかく我々同様の愚かしきところを片相手に云々と紋切形のまくらを振るは、かくいいてまずその落語家自身の身辺にみなぎる常識、理性の色彩を抹殺せむ用意」
とかつて喝破せられしもまた、じつに同様の消息を語るものとぞ思わるる。
それ
教養過重にて、とにかく、底抜けの笑いを発散、開拓し得ぬ年少の落語家某君を連日にわたって戒めているうち、談、たまたま往年のモリヨリヨンが珍技に及び、私は感慨すこぶる量りなきものがあった。後日のしのぶ草また数え草、かくは書き留めておく
[#改ページ]
寄席朧夜
今から十二、三年前までは大阪の街の人たちは春がくると、美しい花見小袖を着、お酒やらお重詰やらをたくさんこしらえて堀江の裏の土佐の稲荷へお花見に出かけた。町も町も町のド真ん中のお花見だけれど、これがなかなか風流なもので昼は昼、夜は夜桜で、歌い、華やぎ、楽しんでいた。ばかりでない夏の七夕の時は町中が藪になるし、秋の地蔵盆にはどこの路地裏でも若い娘たちが三味線を弾いて踊っていた。つまりそうした古い懐かしい季節の風習を一つ一つ彼らは美しく慎み深く繰り返していったのだった。従ってその頃の大阪の落語家は、春がくると必ず春の行事を材とした落語を演り、マザマザとそうした市井の人情風俗を活写してくれた。松翁となった松鶴の「天王寺詣」にはやわらかに彼岸の日ざしが亀の池を濡らし、故枝太郎の「島原八景」は
そうした上方落語華やかなりしある春の夜、昔の大阪らしい春らしい人情絵巻を満喫したさに今夜も私は、オットリ灯の色を映し出している法善寺の路地の溝板を踏んでもう今はなくなった紅梅亭という寄席へ出かけていった。
逢いに来たやうに紅梅亭をのぞき
という川柳があったけれど、ほんとうにそうした慎しやかな中に何ともいえない艶気を含んだ古風の表構えだった。が――中入近くに入って行ったその寄席の高座ではフロックを着たノッポの男がカードの手品を見せていた。そのあとへは清元の喬之助婆さんが若い女の子を連れて上がってきた。かけもちの都合があるとみえて次の三木助は小噺一つであっさり踊って下りていった。いささか私はガッカリした。やっと顔を見せた染丸はなぜか季節に構わぬ「堀川」という噺をやった。
ひどい寝坊の男を、母親が朝起こすのに骨を折っていると猿廻しが浄瑠璃の「堀川」のサワリの替唄で起こしてやる。ここで下座の女に太棹の三味線を弾かせ、

といったようなあんばい式にやるのだが、いったいに長屋のしじまこそ滲んでおれ、主人公そのものが没義道な不快な性格で少しも愉しくなれない。聴いていて、だんだん私は今夜の清興の色褪せてゆくものを感じた。その上このクライマックスのさわりのところまでしゃべってきた時、プツンと下座の三味線糸が
そのすぐあとへ隠退した音曲師の橘家圓太郎が、この間没した圓生のような巨体をボテッと運んできた。「姐ちゃんいま染丸さんに怒られて気の毒だけどひとつぺんぺんを弾いておくンなさいな」、いと
三年後のある春の夜、街はもう堀江の木の花おどりの噂でソロソロ春らしく浮き立っていた。私は今別派をたてて上方落語のために苦闘している笑福亭枝鶴(今の松鶴)と南のある酒場で飲んでいた。その晩、彼はまだまだ私の耳にしていない昔の上方の春の人情を美しく織り出している落語のかずかずを、どっさり、差し向かいで聴かせてくれた。すっかりうれしくなってしまった私は、ふと思い出して何年か前の晩の紅梅亭の話をした。黙っておしまいまで聴いていた松鶴は、聞き終わるとあの髪の毛の薄い口の大きな仁王様のような赤ら顔を崩してゲラゲラ笑い出した。いつまで経ってもおかしくって笑いが止まらないようだった。やがて笑いやんだ時、彼は言った。
「ソラあんた今から三年前だッしゃろ、そうだッしゃろ。ほたら圓太郎はん上機嫌、当たり前や。ホレあの女義太夫に竹本美蝶いう
「フームそれにしても……」
やっぱり
「圓太郎は圓太郎だとしても、あの下座へ噛みつくように怒鳴った染丸の態度は悪いと思うな」
そう言う松鶴はもう一度さもおかしくてたまらないというように笑い出しながら、
「ソラ仕様ない、あの下座やったら、なんぼ染丸はんに勝手なこと言われたかて。なんでてあの下座、染丸はんのおかみさんだンがな……」
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草いきれ、かッたぁ
かッたぁ
この頃、山陽の「双蝶々」のスリルに魅かれて、小柳へ連日、かよいつめた。
スケに出る貞水の「頼朝小僧」も古風でおもしろく、伯治の「仙石評定」も渋谷の寺の手入れなど愉しかったが、あのしわがれ声の陵潮は「元和三勇士」の一節でとんだお景物を恵んでくれた。それは、出てくる江戸っ子の肴屋が、
「あッしァ、かッたぁ三河町でござんす」
と言ったことである。
かッたぁ――すなわち神田である。死んだ十二世雪中庵――故増田龍雨翁は、徳川の川は清かれと江戸っ子は濁音を嫌ったもので、「神田」は「かんた」「駒形」は「こまかた」「袢纏着」は「はんてんき」と当然言った。「かんだ」や「こまがた」や「はんてんぎ」では妙に近代的理性的で、つまり乙ゥ
なるほど、そうであろうと思っていたが、陵潮はさらにそいつを鉄火に実践して、「かッたぁ」「かッたぁ」と発音したのは、さすがと思う。
「アキハバラ」「タカダノババ」の今日では、今夏、あるところへ書いた私の小説など、校正注意と欄外へ朱書までしておいたのに、「駒形堂」を「こまんどう」とはルビしてくれず、むざんや、標準語で「コマカタドウ」でアリマシタ。
それはそれとし、「神田」をすべて「かッたぁ」で発音してしまうと「かッたぁの明神」「かッたぁ祭り」「かッたッ子」とくるから、物事万端すこぶる
「てやんでェ、はッつけめ。こッとらァ、かッたァ三河町でェ。
なら、聞いただけでも青春

草いきれ
寒さとか、暑さとか、吹雪とか、しまきとか、
その証拠には、今では野分とか、吹雪とか、しまきとかいうものの中に私たち多少、風流気のある奴は、一種いうべからざる趣をさえかんじつつあるからである。そうして草いきれなんかも、まさにその一つだろう。
かくいう私が、今の今まで草いきれというもの、愉しい、風流なものだとばかり、信じていた。信じきっていたから妙である。
そしたら、先月、釈場へいって西尾魯山の「東海白浪伝」――日本左衛門を聴いた(魯山は先代馬琴門下だからお家芸のこれを演るのだろうが、退屈で、渋滞で、はなはだ結構でない。いたずらに故陵潮の巧さを思い返させるのみだった。さらに私よりひと時代前の人たちは、当然の言として故馬琴の醍醐味に思い至ったことだろう)。はじめて聴いたくだりであるが、何か天竜川の近くで、昨日渡世人の足を洗ったばかりという老侠へ止むないことから喧嘩を挑みかかる日本左衛門の意気地を叙した一席だった。
その中で、サーッと大夕立が降ってくる。見附辺りの宿駅と思うが、旅人が逃げる、馬子が逃げる、女子供が逃げ惑う。その時、ある男が、いきなりこう言う。
「いいお
……思わず私は息を呑み、ウーと低く言った。草いきれそのもの、あの青臭く