寄席風流

正岡容




寄席の庭


町中や庭持つ寄席の畳替
龍雨
 かうしたいまは絶えて見られなくなつてしまつた寄席の庭のおもかげ。いしくもそれをつたへてゐる尊い文献の一つに漱石が「硝子戸の中」の日本橋伊勢本を叙するの章りがある。全体「硝子戸の中」には講釈に関する随筆が少からず、のん/\南龍や琴凌をなのつてゐた時代の先代馬琴の読み口や、作者の生家たる牛込馬場下界隈の、年中廿人位のお客を相手に南麟と云ふ講釈師許りがかゝつてゐたさうな世にも佗びしい釈場の光景や、同じく馬場下のやつちや場の娘が貞水(恐らく先々代早川貞水だらう)と「死ぬの生きるのと」云つたと云ふ話や、随分いろいろと誌されてゐるのではあるが。
 さてその伊勢本の庭については、

「高座の後が縁側で、その先がまた庭になつてゐた。庭には梅の古木が斜めに井桁の上に突き出たりして、窮屈な感じのしない程の大空が、縁から仰がれる位に余分の地面を取込んでゐた。其庭を東に受けて離れ座敷のやうな建物も見えた。(中略)長閑な日には、庭の梅の樹に鶯が来て啼くやうな気持もした」

云々。
 この文章の中の「高座の後が縁側で、その先がまた庭」と云ふのは、いまのひとたちにはちよつと何のことだか分るまいが、大震災以前の釈場にはところによるといまの高座の構造とは全く別な仕組みの、つまり湯屋の番台をどうにかしたやうなこしらへものがニョポッと客席のよきところに築き上げられてゐたものだつたので、従つて出演の講釈師たちはみな客席の中にわたされてゐるながいながい歩みの板をわたつて来てはこの高座へと上がつたわけで、故人神田伯山が全盛の砌りなど浅草の金車では歩みから高座へと上り切るまで拍手むかいでの絶えなかつたことがあつたと、嘗て神田伯龍は私に談つた。金車のほかでは柳原寄りにあつた神田の小柳が私がおぼえてからの、番台式の高座だつた。いま漱石の文章の塩梅から想像して恐らくこの伊勢本の高座も亦さうだつたのではないかとおもふので、この機会にいまは絶えてなくなつてしまつたかうした高座の様式をわざ/\かいておいて見た次第だが、しかし私自身の伊勢本の記憶と云へば、ちいさいじぶんの冬の晩、どこのかへりだらう大叔母に手をひかれてもう半分ほど大戸を下ろしてしまつた、※(「にんべん」、第4水準2-1-21)にんべんだか山本だかで買物をすまし、おもてへでると、世にもけざやかな寒月の下江戸茶番大一座のその名前を世にも黒々と太文字で記した招き行燈の灯のいろが恋びとの眸のやうにまたゝいてゐたほかにはないのだから、果而伊勢本の高座がその番台様式のものだつたかどうか、そのへんは誰かに質して見ないと分らない。
 閑話休題――それにしてもいまは殆んどどこの寄席にも庭らしい庭がなくなつてしまつたけれども私がおぼえてからの寄席の庭ではやはり本郷の若竹だらう、客席の両側に並行してだだ長い庭があつて、向つて右側には席の名に因んでか、竹の叢りいと多かつた。左側は祠で、一番太鼓のとゞろきと共にそこへお燈明あかしがさし入れられ、ほんのりその灯が夏萩の茂みを濡らした。「本郷若竹亭」と前書して、
夏萩や小せんおぶはれ楽屋入り
の句が私にあるが、盲で腰の立たなかつた先代小せんを車夫がおぶつて楽屋入りして行く哀れの姿は、ほんたうは向つて右側の庭を通つていつたのだから、おそ夏の夜更け、病小せんの襟首冷やりと濡らしたものは、じつは夏萩ではなく丈高い若竹の葉の露であつたらう。
白き蝶来るなり昼の寄席の庭
寄席の庭や煙れるごとき藤の花
 
葡萄棚ありし釈場の西日かな
 未だ/\私には此らの拙吟があるが、前述の金車なども猫の額ほどの小庭に、盆栽の鉢五つ六つはおかれてあつた心地がしてならない。通新石町の立花にもお稲荷さまの祠があつたし、四谷の杉大門(若柳亭)の庭も哀れに趣深かつた。「葡萄棚ありし」釈場は八丁堀の聞楽で、中風にならなかつたころの若燕が「松葉屋半七」をギツチリのお客を前に続き読みしてゐた記憶がいとゞなつかしく消えない。
 さりながら此らの小庭は元より庭園法に協つたものでもなければまた庭造りが砕心の製作にかゝるものでもない。むしろその大反対のチヤチな安手なやつつけなもので、寄席の小庭のかそけさ美しさこそは、木下杢太郎氏が青春詩集「食後の唄」に、

義太夫節のびらふだ
藍の匹田もすゞしげに (街頭初夏)

将た又
羽目はめに貼つたる浅葱刷あさぎずり
寄席の太夫のびら札まで (五月の頌歌)

と繰返し/\歌つてゐるビラ辰つくる巧みに季節々々の意匠をば採入れた辻びらの詩趣と共通で、それらを一顧し得る人々にしてはじめて含味鑑賞し得るところのものと云へよう。藍と薄曇美しき水だしあぶりだしの包装紙、縁日の葡萄餅屋が絵行燈の朱と萌黄と薄むらさき、大経師が店先の組上燈籠三枚続きのいのちにも似ると云つたら分るか。まことに以てしる人ぞしる市井の醍醐味至上味で、狩野派円山派アカデミイ美術の礼讃者に、貞秀が横浜絵芳藤が手遊絵さては三代広重が紫ぞ卑しき開化錦絵の下魚味感は、とこしへに風馬牛であると同じ理合でもあると云へよう。
 即ちくどいやうだが、寄席の庭こそは「寄席」と云ふ一つの市井風物詩篇の中の凡そ貴重な二行三行で、到底それらなきいまの寄席は季感なき自由律俳諧の無味蕪雑にも等しいとさへあへて云ひ度い私なのである。一見どうでもいいやうに見えて、じつは古歌舞伎に於る「音羽屋」「成田屋」「大番頭」など要所々々に於る大向の懸声が、ある場合ツケや拍木や本釣り以上の綜合効果を現してゐるのに例へてもいい。その廃滅を、切に哀惜して止まない所以である。
 次に四隣狭隘、持つに庭なき寄席は、入口に暗い細長い路次を用意してゐた。此がまた招き行燈の仄紅い燈火がかもしだす哀愁曲を合方にその路次の溝板踏み鳴らして行く市井風流さは格別なもので、浅草の並木、両国の立花家、本郷の岩本(のちの梅本)概ねこの路次系の寄席に属した。
 さらに庭なく路次なき寄席に至つてはまた二階席の風雅建築を誇つてゐた。入るとすぐ女郎屋をおもはせる大楷子があつてそこの二階三階が、高座と桟敷とに充てられてゐる。二階にゐながらじつは階下にゐるやうで、そのくせ窓外の眺めはまた正に歴然と二階で、この倒錯感がなかなかに愉しいものだつた。神田の白梅、銀座の金沢、浅草の並木、上野の鈴本(のちの鈴本キネマのところ)はじつにこの二階席系列に属し江戸末から明治へかけての殷賑街のみに見られる艶と実益とを兼ね備へた特殊建築の味感をば、十二分にと味はせて呉れた(浅草の並木に至つては路次と二階席の風流を両ながら具備してゐたと云へる)。
 此を要するに寄席の庭、路次、二階席――震災後日に/\烈しくなりまさつた泰西文化の理性反省なき模倣の大波濤は此らのいづれをも容赦なく過去の彼方へ奪ひ去つてしまつた。今次の大戦後講談落語席は復活繁栄多少の見る可きものがでて来たとは申せ、もはや佳き噺愉しき張扇の音に触るる可く、寄席に庭なく路次なくまた二階席の艶冶なきをいかゞすべきぞ。まことに是れ、雑炊食堂の大混雑裡に珍味佳肴を貪り喰ふの嘆きにして、鰻屋に乙な漬物なきも亦同様。アナトールフランスが年少の日の巴里巷間の追憶を綴つた長編小説「花咲く日」全篇を通読して以来、一そう私は、ありし日の寄席の庭への郷愁を、烈しく感じだしたものであることを、おしまひに白状しておかう。

講談落語の愉しさ


 どうして講談また落語の世界に、私が一生涯をさゝげつくして悔ないかと云へば、嘗て伊藤痴遊も云つてゐたやうに、講談と落語とはこの日本国以外にはない話術の極致であるからだ。たゞ単に扇一本舌三寸で老若の悲喜を浮彫りにし、花の日の、月の夜の、雪のあしたの情景をありありと目前に蘇らせて呉れる芸術は、絶対に他国にはない。この点、歌舞伎や、浮世絵と全く同じく従つてもつともつと全世界から注目されていい日本独自の、芸術であるわけなのだが、惜しい哉、前二者のごとく「目」から「目」へ訴へる芸でなく、先づ耳へ次いで目へかよはせる芸であるため、ハツキリ何割かの損をしてゐるのだと云へよう。
 もう一つ痴遊の言を引用させて貰ふならば、屡々彼は昔の名人が演じた義士銘々伝は、上は城代家老の大石から下は足軽下郎の寺坂に至るまで、その身分の高下によつて自らそこに生じて来る人柄の相違をひとりひとり、即ち四十七人分立派に描写し分けたものだと嘆称してゐる。
 私が斯道の古老から親しく聞かされたところでは、昔、上野の袴越(いまの京成電車乗り場ちかく)にでてゐた大道講釈師は年中「太閤記」許りを読んでゐたが、この太閤記がなんと一年分――つまり三百六十五席あつて、しかも太閤秀吉の命日には私はこの人のおかげで食べさせて貰つてゐるのですからと云つて、いつもの投げ銭一切を断り、その日は往来の人たちへ終日無料で聴かせたと云ふ。今日も「太閤記」を読む講釈師はなきにしも非ずだが、到底、三百六十五席をこなし得る達人はゐない。大道芸人、一と口に乞食芸人と呼ばれる下民にして此丈けの芸達者があり、尚且此丈けの風流人があつた。この一事丈けを以てしても、この「道」の深さが分らう。
 さらに名人円喬の迫真の描写は、明治末年、近松秋江が徳田秋声の芸境に比較して絶讃してゐる。夏目漱石また、円喬を激しくたゝへて自分が見聞した凡ゆる文学音楽演劇舞踊美術よりも、彼の話術の方が上位であつたと嘆じたさうな。
 かうした特異な自国の芸術の佳さを、いままで掘り下げもしないで投つたらかしておいたのは明治御一新以来の日本人と云ふ奴に全然科学精神が欠如してゐたからに外ならない。
 では、ラヂオによる講談、落語がその道の全国的普及には大そう役立つたが、肝腎の眼の配りが見えないためいのちとするところの人物情景の描写がテレビにでもならないかぎり味到できない、丁どそのごとくに速記もしくは活字をとほしての講談や落語も亦、真の活写の呼吸は味へないかと云ふと、決して決してさうではない。
 現に、大円朝の尨大なる全集十三巻を見よ。あれを翻くと、円朝腐心の性格描写心理描写情景描写の巧さが手に取るごとく俯瞰される。屡々云ふが「真景累ヶ淵」の中のお久新吉相愛の二人が、始めてカップルで歩く夜の、いかにもウブそのものな新吉の会話の巧さは、かいなでの小説家では到底描けない。速記術を通してゞも円朝芸術の秀逸さは、このやうに無限に汲み取ることができるのだ。
 円朝に次いで、速記で読んで愉しいのは、その門人の円遊俗に鼻の円遊、と呼ばれた鼻の大きな爆笑落語の大家である。師匠の円朝とは全く世界を異にしたなんせんすの集大成であるが、全篇、小林清親や井上探景の「明治東京名所図絵」のやうな開化風景が展開されてゐて、じつに美しく愉しい。今日でも速記を読んでゐると、忽ちどこかそこらの居留地の丘から音匣オルゴールでも聞えて来さうだ。
 大正年代には、盲目で腰が抜け、釈台につかまつて落語を演つた柳家小せんの速記がいい。斎藤緑雨の崇拝者丈けあつて、前代の円遊を宗とする大正の東京風俗を描写しながら、しかもそれは単なる描写でなくて一種、痛烈な世界諷刺にさへなつてゐる。論より証拠、三芳屋からでた、三種の小せん落語集には、私の言葉を裏書するに足る故人の痛快なる口吻が、三十余年後の今日も歴々として生きのこつてゐる。
 他に「首提灯」の巧かつた品川の師匠円蔵のも、先代志ん生のも、狂馬楽のも、私の師父先代円馬のも、みな/\その速記が良心的でさへあれば、よくその独自な話風は写され、永遠に私たちを愉しませて呉れてゐる。現に私は空襲のころ某々口演の長編「関東七人男」(赤尾の林蔵)を通読したが、その背景とする北関東の暗鬱な風景描写など、田山花袋の小説や紀行の上を屡々私に聯想させ、稀に見る愉しさだつた。
 大震災以前、博物館からでた長編講談は、みな演者の名前がでたらめで、つまり本人の口演しもしないものをいいかげんにくつゝけ合はせたものであると聞いてゐるが、この習慣が追々流行しだしてから、活字で読む講談落語は頓につまらなくなり、且つ信用がおけなくなつた、すべて是れ速記者その人の心のあり方。くどいやうだが、ほんたうに演者の呼吸さへかよつてゐたら、速記による話術の世界また軽んず可きものではない。

わが寄席俳句抄


 空襲激化の昭和二十年の日記を繙いて見ると、一月十七日の項には、さる十三日物故せる師父三遊亭円馬よと前書して、
大雪や噺の中のコツプ酒
 ありし日の豪快なりし高座振りを偲んだところの拙吟がある。
 同じ日、また、さるほどに空襲下の寄席は午後二時開演、夕かたまけて打出しぬ、と前書して、
初席のがら/\の入りでありにけり
 古来、初席を材とした俳句にしてこのやうなのは稀有と云へよう。
 二月十一日には、小石川音羽蓮光寺に喇叭の円太郎を掃墓して、
春風や屋根に草ある朱き門
 三月廿九日は、ただ只管に平和ぞ恋しく、ありし日の寄席景情を偲べばとの前書下に、
初席や梅の釣枝太神楽
春の夜や花籠二つ鞠の曲
春の夜の囃子の中の米洗ひ
 やがて四月十三日と五月廿五日と、二ど焼かれた私たち一家は、羽後山村へ、ランプの村に起臥四ヶ月、折柄の月明には、佗びしき朽縁に端坐して、
佗居うたた木村重松おもふ月
風悲し重松ありしころの月
と諷ひ、同じころ、現三笑亭可楽と、角舘町に於る、寄席芸術に関する講演に赴いて、偶々席上にて旧著『円朝』へ題句を求められた砌りには、
東京ふるさとの寄席の灯遠き夜長かな
と、即吟した。わが郷愁は、こゝに極まり、きはまつてゐたのである……。

朧夜


 もうぢき、やがて朧夜が来る。春夜しゅんやかな、と俳句に諷はれてゐるような、朧おぼろの市井の景色は、一年中で最も私の溺愛するところの季節である。なればこそ、六年前かいた「寄席明治篇」と云ふ小説の中でも、私は主人公のわかい落語家今松とお艶とを、殊更に朧夜の浅草新堀端で訣別させた。
 毎度かくが、昔の東京の寄席は、よく細路次の突当りにあつた。この薄暗い路次の奥に仄見える木戸の燈火は、雪の夜もいいがやはり朧夜が一段と甘くなつかしいしゞまが美しく感じられた。尤も、路次の情調は大阪の法善寺などもそれで、あすこは大正末年まで花月と紅梅亭と二つの寄席が常に庇を並べてゐたので、
逢ひに来たやうに紅梅亭を覗き
と云ふ、当時誰やらが川柳すらある。「逢ひに来たやうに」が、じつによくあの路次の魅惑を描破してゐる。
 寄席の招き行燈も、四谷の喜よしを最後に絶えてなくなつたが、此は東京特有で、此へ灯が入り筆太のびら字がぼつと浮上がる塩梅も亦、雪によく秋の夜長にも決してわるくはなかつたが、私はどこまでも朧夜を採り度い。行燈に描かれた芸人の名を見上げてゐるとき、場内から遠く花やかに太神楽や手品の囃子のながれて来るのも、じつに春宵である。
 終戦直後は、美味不美味を問はず、飲食店さへあるとお客が殺到したが、今日では質がよくないとお客が来ない。寄席の場合も漸くに一と通り建ち揃つたならば、今度は内容外観追々に季節々々の美しさを調和するやうなデザインが欲しい。衣食足つて礼節。何も古風な招き行燈や木戸口でなくていい、近代風でしかも新鮮な美観が欲しいと云ふのである。某々文化人の政治家は古来の門松は不用だと叫びながら、代りに爾来は例へばアマリリスの花をもて門の辺を飾れよとは決して云はなかつた。破壊あつて建設なし。世の指導者が此では困る。わが寄席丈けはこの顰に做ひ度くないとおもふ。

傷春抄


寄席坂と云へる麻布の朧かな
 溜池から六本木へとつうじてゐるあの道ほど、どの横町を覗いても小さな狭い坂の多いとこはなからう。芝の海ならね正しく「横丁に一つづつある」急坂である。
 その坂の上り口には必らず小さな石標が建つてゐてそこに坂の名が刻してあつたが、その中の一つで最も六本木ちかいところの坂の名に寄席坂と云ふ名があつた。商売柄私はその名にひどく親しみをおぼえたけれど、さりとてその坂に添ふて寄席のあるわけでもなかつた。『江戸名所図会』を翻いてもさうした坂の由緒などは誌されてゐない。嘗てその、いかにも山の手々々々したさびしい坂の上あたりに、此も亦いかにも山の手々々々した端席でもさびしい灯かげを坂みちかけて投げかけてゐたのであらうか。
 私は、何となく色気のある名を持つてゐるこの坂の、むらさきも濃き春夜のいろを切りにおもつて、嘗てこの拙吟をばあへてした。
春愁の町尽くるとこ講釈場
 花曇りの深川高橋を北へわたつて、伊勢喜のどぜう屋の看板を右に見て、薄青いペンキ塗りのさびしい塀に沿つて曲ると、そこに人の世から取残されたやうな小さな招き行燈がポツネンと一つ上げられてゐた。さうして「伊東陵潮」とか「神田松鯉」とか「桃川燕楽」とか「宝井馬秀」とか、常に決して花やかな人生のフットライトを浴びてゐないそのくせ達者な瓢逸な軽妙な講釈師たちが佗びしく張扇をば打鳴らしてゐた。好んで私は暇あるとこの木戸をくゞつた。その寄席の名は「永花」と云つた。
君が家も窓も手摺りも朧かな
 女の家は山の手の花街のはづれにあつた。男はそこからよくかへるたび振仰ぐと、いま歓語して来た許りの二階の窓の灯が、その灯かげに浮きだしてゐる細い手摺りが、さうしてさして広からぬ女の家全体が、おぼろ/\の夜の帳りの中にいかにもいとしくなつかしく花やけき感じで見えてゐた。
 やがて男の恋は成就して、その家へ共に住むやうになつたが、在ること四年にして兵火に焼かれた。焼かれた晩も亦、八重桜ちる朧夜であつたことを何としよう。
 以上、嘱されて自句自釈をば試みたが、第三句許りでなく、第一句のその坂も、第二句のその町もみな同じやうに焼けてしまつた。故あつて俳句の吟詠を廃した今日の私に最早句と云へばみな旧詠のおもひで許りしかないやうに、私の東京の街々に関する談叢も亦みな過去のこと以外にはなくなつてしまつた。おもへばさびしい。
(昭和丁亥浅春)

大津絵雑感


 木村荘八先生は自ら三絃を取上げられ※(歌記号、1-3-28)雨の夜ににつぽんちかくと……」云ふ異国情緒の大津絵を謳はれるが、私も好んで酒間、いろ/\の大津絵を謳ふことが寡くない、あの節調の中には江戸世紀末の悲哀が、深く美しく滲みだしてはゐるからである。
 先日、故飯島花月翁の大津絵に関する小研究を読んだら、翁は「松の葉」にある大津絵踊りをその起原とされてゐる※(歌記号、1-3-28)吃の又平かいたる大津絵、みな/\抜けたア」と謳ひだす梅坊主一座の俗曲を、子供のじぶん私は片面盤のレコードで持つてゐたが、その節は大津絵ではなく、むしろ「桃太郎」にちかいものであつたやうな記憶がする。また花月翁は昔の大津絵の歌詞は今日の節で謳ふと行数が足りなくて謳へないから、大昔は別の節だつたのだらうと云つてゐられるが、私もたしかにさうだとおもふ。吃又の大津絵を作旨としたものが大津絵節の元祖である以上、梅坊主のその変つた節の大津絵は、或は原始時代の節廻しにちかいものだつたのかも知れない。
 また文句入りの大津絵の引例には大江戸の芝居風景に雪のゐつゞけの二つが挙げられてゐて、それは例へば「けさの雪」と諷ひだしたあと「もつとこつちへよんなましよウ」と云ふ風に一々登場人物の台詞をあしらつて行く方法なのであるが、私は此を読んで亡き柳家枝太郎の「両国」の大津絵をおもひださずにはゐられなかつた。枝太郎の「両国」にはたしかに唄と唄との間に楊弓場や水茶屋の男女の口吻が一々巧みに採入れられてあり、今日似て非なる両国を諷う音曲師はあつても、この複雑巧緻な文句入りの手法を踏襲し得るものは全くない。いまにしても枝太郎のは、やはり非凡であつたと称讃しないわけにはゆかない。
 それには今日の音曲師の大半は殆んど大津絵の性能を弁へないで諷つてゐる。嘆かはしいと私は云ひ度い。

阿呆陀羅経


 この間放送局の嘱に応へて聯曲「菊づくし」をかいたとき、その中へ阿呆陀羅曲を配さうとおもつたが、いま果してよくそれを歌ひ得る寄席の音曲があるか否かを考へ、残念ながら中止してしまつた。私自身は台本を読みながらなら歌つてのけられる自信があるが、作者自らが出演するわけには行かないから、結局その趣向は廃棄してしまつたのである。
 私は太平坊になつて残したかつぽれの名人初代梅坊主の阿呆陀羅経のレコード「ないものづくし」「日露戦争虫づくし」「出鱈目」「鳥づくし」の四種を愛蔵してゐるが、あの馴染深かつた故人の塩辛声が、大正年代の浅草風俗をまざまざ目先に蘇らせて来ていとなつかしい。もちろん、私が親しく見た時代の梅坊主は舞台でたゞの一ぺんも阿呆陀羅経など演らなかつたが、嘗て芝新堀の願人坊主の巣窟に人となり、浪花節草創期にはかつぽれ一座は彼らと芸人の融通もし合ひ、たしか共通で鑑札の下附を願つた時代すらもあつたはずだから、梅坊主が阿呆陀羅経のベテランであつたとて不思議はない。先代木村重松の世話に砕けた道中附のセメの中では必ずや一ヶ所ギヤグを弄するのところがあつたが、それは阿呆陀羅経の切り節直前の手法を踏襲してゐるのである。
 阿呆陀羅経、俗にちよぼくれと唱へて、豆木魚には早間の三味線。遠く江戸時代から時世諷刺御政道を云々したり、時局を痛憤揶揄したりした落首的のものが多い。勤王劇「野村三千三」では、四条河原の夏宵ちよぼくれの中に幕政を嘲笑した歌詞を三千三が諷ひ、幕臣と大立廻りになる件りがある。嘗て水野好美佐藤歳三ら新派俳優が上演、映画化されたものは浅草電気館で染井三郎が説明し、のち染井は東京レコードへも吹込んだ。昭和戦前、ジヤズ化された阿呆陀羅経は「笑の王国」が採上げて、渡辺篤三益愛子の両君が歌つた。
 さてまた梅坊主の話へ戻つて、私の蔵書に大正六年版「ニツポノホン音譜文句全集」があり、中に梅坊主「名所尽し」の歌詞が記載されてゐるが、その一節に※(歌記号、1-3-28)下野日光唐辛子旧幕人の裏見が滝」と旧幕臣が明治政府への怨恨を叙したところのあるを発見して、私は宛ら亡国の悲歌を聴くおもひがした。「名所尽し」の作者は落魄悲哀の江戸侍のなれの果てだつたにちがひない。

堀江亭発見


 いまから約五十年前、この新宿に堀江亭と云ふ寄席があつたが、それは今日のどの辺であるかと客席の後の方からかうした質問が浴びせられて来たが、八十翁の鶯亭金升さんも、いまは亡き四代目小さんも、知らなかつた。私にはもちろん分らなかつた。去年の花のちるころ、新宿の寄席末広亭で催された三十日会と云ふ寄席文化講座に於る質疑応答の場合にである。声の主はもう年配の、たしか絆纏を着た男だつた。
 堀江亭。
 以来、この五十年前に亡び去つた場末(当時の新宿はひどい場末だつたこと、古の句の見附から馬糞のつゞく四谷かな――にも明らかだらう)の寄席堀江亭の名前が、私の頭の中にはこびり付いて離れなかつた。即ち明治十四年版の『東京案内』寄席の項をひらいたが、分らなかつた。明治卅一年版『東洋大都会』の同じ項にも見当らなかつた。趣を変へて明治十二年二月版「講談浄瑠璃落語定席一覧表」と云ふ番附を取出して見たが、此も亦、徒労だつた。
 堀江亭。
 かの絆纏着の老人の云つたことは、果してほんたうか、啌だつたのか。この辺で私の探求も、一とたび迷宮入りとなつてしまはねばならないのか。かくて殆んど絶望状態に入りかけてゐたとき、念のため『むかしの寄席』(昭和十八年版)の中の「四十年前の東都の寄席」を翻いて見るとあつた! 正しく新宿追分堀江とある。あゝやつと此で席の実在丈けはたしかめられたが、では果してどの辺にあつたものなのだらう。尚もこの一点を疑念としつゞけてゐると、先代新宿末広亭主人によつて、この末広亭の前名が何と堀江亭だつたのだと偶々報告された。だとするとあの晩、間ふ人も問はれる人も嘗ての堀江亭の場内にあつて、その堀江亭の所在を探り合つてはゐたのである(最も当時の正確な所在地は伊勢丹の向ふ側だつたらしい)

高座余艶


 私が寄席の木戸をくゞりだしたころ、歌子式多津の二美人は、已に高座から姿を消してしまつてゐた。しかし、退いてほんの直後のことだつたらしい。三遊の歌子、柳の式多津、当事の寄席フアンの若人たちにとつて、それ/″\大きな魅力だつたと聞く。歌子は浮世節を歌ひながら客席の四方八方へウヰンクをし、丁どその視線にぶつかつたものは、おや此は殊によると俺に……と脂下がつた由、徳川夢声君が青春懐古の随筆にいと詳しくかいてゐる。いまの安レビユーの踊り子たちが徒らに全裸にちかくなつてお客を呼ぶよりも、この方が余程イツトがあるし、同時に此がこの日本々来の余情でもあること、水洗便所と昔乍らの厠とを比較云々された谷崎潤一郎氏の「陰翳礼讃」を引用するまでもあるまい。尤も当時でも高座で姫御前のあられもなく赤いお腰をはづして振廻したのは名古屋から集団上京して来た端席(場末の寄席)廻りの源氏節芝居の女芸人たちだつた。彼女たちは多く岡本美根なにがしを名乗つて、源氏節出語りで芝居を演ることのちの浪曲劇に等しく、この芝居の中でいろいろ露骨な煽情的なことが行はれたのである。あとで一座惣出で源氏節丈けを語るところはまた、のちの安来節とよく似てゐた。
 源氏節は説教節と似かよつたやうな節で、いまは本元の名古屋へ行つても殆んど湮滅してしまつたらうが、師吉井勇の「走馬燈」と云ふ戯曲は、よくこの源氏節芝居の楽屋の景色を描破してゐる。「走馬燈」はたしか大震直後の帝劇の女優劇花やかなりしころ上演されて、未だ美しい盛りだつた初瀬浪子が、妖艶な舞台姿を見せた。私が源氏節芝居を見たのは、年少のころ本郷三丁目の燕楽軒と云ふレストランができる前そこが寄席で、一ど丈け見物したのだつたが、もうそのころは当局の弾圧が厳しくて、源氏節本来の名ではなく、娘コミツクの名に隠れてゐたやうであるが、一時は場末稼ぎのこの一座が本席第一流の講談落語を不入りにさせてしまつたと云ふのだから、悪貨蔓つて良貨を駆逐する経済学の法則は、蓋しいつの世にも絶えないと云つていい。大へん源氏節芝居の話へ深入りし過ぎてしまつたが本題へ戻つて、その歌子は私が寄席がよひをしだしたころじつは私共の先人岡鬼太郎さんのお楽しみとなつて、高座を退いてしまつてゐたのだつた。好敵手だつた常磐津の式多津も亦、そのころ歴とした旦那ができて高座を去り、こゝに大正中世の二美人は悠久に寄席から消え去せてしまつた。今日、歌子も式多津も共に健在で、それぞれ五十の大姥桜が満更美しくなくもないと云ふことは、二人共「芸」を廃めてゐないからだらう。式多津はいまも常磐津、歌子は本名の福原貴美子になつて流石に巧緻な俗曲を放送、私も満洲事変のころ喇叭節や奴さんの替唄をつくつてビクターレコードへ吹込んで貰つたことがあり、終戦後、宇野信夫君のところで運座のあつたとき、偶々隣室へ同女の訪れがあつた。けれど縁なくして未だ会ふ機会はない。式多津の方は旦那のできた当座今日のダツトサンのやうなものを旦那自らが運転して楽屋入りをしてゐた由だが、少しでも男の芸人に口を聞くと大そう旦那が怒つて揉める、そんなこんなで席から退いてしまつた。当時、歌子や式多津が楽屋で前座の汲んでだすお茶を飲残すと、それを飲むのが前座の役徳。いまの某々君などはその頃三遊派の前座で、即ち歌子のお茶の余徳には随分預つてゐた方だと、今村信雄君から聞いた。落語家らしくて、とんだ可笑しい。
 この歌子式多津以後の高座の明眸は、大正末年ちよつと現れてすぐ廃めた稲の家芝子であらう。阿母さんと二人高座で、母親の弾くお座附から三下りに小太鼓を叩いて美しい瓜実顔で微笑みながら満場を眺め廻す。そのときキラリ金歯の光るのが大そう媚かしかつた。金歯の魅惑は、この芝子以外では、私は歌手の奈良光枝君が緑波一座へ出演したとき感じさせられたのみである。この芝子が四谷の喜よしで高座を下りたら、とたんに高座の真下に陣取つてゐた学生たちがバラ/\とすぐかへつていつた。ありし日の式多津歌子の人気は、かうしたものであつたのだらうとそのとき私はおもつたことだつた。あとせめて三年か五年出演してゐたら大した人気となつたゞらうが、映画女優に転身するとて西下してしまひ、今日では関西の大実業家の正夫人になつてゐるはずである。関西と云へば、大阪では大正中世新内の鶴賀若呂光が細おもてで美しかつた。芝子が退いてから東京の寄席では娘義太夫の竹本静香(夭折した)ぐらゐでさしたる麗人も姿を見せず、寄席も激しい不振になり、この未曾有の不況は日華事変当初までつゞいた。昨今、落語界の盛況と共に未だ十二歳でありながらこぼれる許りの色気ある立花家小奴が登場して、小奴の高座に余念なく見入り、人知れず熱い溜息を洩らしてはかへつて行く少年たちが殖えて来たと屡々私は耳にする。小奴は、先代三遊亭円遊の忘れ形見で、それ故の「芸」の血なのである。とすると高座のイツトの喪失されてゐる間、いつの世も寄席の繁栄は空白であると云ふことにもなる。まことに/\落語家の振るまくらではないが、岩戸神楽の始めより女ならではの、千古不変の姿である。
雪の夜の高座をつなぐ一と踊りあはれにやさし君が振袖
美しう楽屋障子にをどる影もの云ふ影を誰とおもふや
悲しくも下座の三味の音ながれくる楽屋に君と語る夜の秋
つれなげに洲崎堤を語るとき君がかざしの揺れうごくとき
悲しさは小雪ふる日の昼席に常磐津ぶしを君唄ふとき
 この吉井勇イミティションの拙詠は、私が十八歳のころ詠み、十九歳の春に自費出版した歌集『新堀端』の中の作品である。ほんの只今のお笑ひ草に、抄出して見た。
 今日の高座の人たち、それも男の人たちの中で、話し口に何とも云へない色気の満ち溢れてゐるのは桂文楽、春風亭柳好の両君だらう。神田伯龍君の「小猿七之助」「吉原百人斬」「美の吉ころし」のあるシーンには、並々ならぬ色気があつて、為永春水の人情本そのまゝの情趣になる。蓋し当代話術界の至宝である。

 高座と云ふものの存在を落語の演出の中へ怜悧に応用して効果を挙げたものに、「せんきの虫」「居残り佐平次」「湯屋番」の落がある。「せんきの虫」は落がエロテイックなので最近演らなくなつたが、あの考へ落のやうなエロテイックな落を云つたあと、わざと演者自身小首をかしげ、腕拱きつつ下りて行くと云ふ余韻のある演り方がある。大阪の橘家蔵之助は常にこの演り方を採つてゐた。此を得意とした先代三遊亭遊三、「よかちよろ」の遊三はどうだつたのだらうか。「居残り佐平次」「湯屋番」のそれ/″\の最後、前者は「では左様なら」と云つてヒラリ高座から飛び下りそのまゝ客席をとほつてかへつてしまひ、後者は「お前さんはとても雇へない、おかへり/\」と云はれて「ヘイそれでは……」と一礼してそのまゝ楽屋へ下りて行くと云ふ極めて奇抜な演出があつた。後者は誰だつたらう。前者はいまから三代前、狂馬楽の前の二代目馬楽だつた。いまの柳橋君は「湯屋番」の主人公が番台で惚気を云ひながらだん/\前へ乗出して行き、ほんたうに高座から客席へと転がり落ちた。はじめ偶然転がり落ち、大へん受けたので、以来此を「型」としたのである。このごろのやうな土足の寄席では、怪我をするから到底かうした演出はでき得ない。

 土足の寄席と云へば、昔の畳敷きの寄席(いまでも人形町の末広はじめ二、三の畳の客席が焼残つてゐるが)では下足番の役目が頗る重大、且つ至難な技術をさへ要した。それはいざ終演と云ふと忽ち雪崩れを打つてでて来るお客たちから極めて迅速に下足札を受取り、代りに下駄をだしてやる、雨天ならば傘も一しよにだしてやる。明治中世までは往来が真暗だつたから提灯を持つて来るお客が殆んどだつたので、此らの提灯へ早足に灯を点してやらなければならない。多いときには何百人と云ふ頭数へたつたひとりの下足番で次々とこの芸当を演じて見せるのである。
 それ故に昔の真打は、下足の混雑、下足番の迷惑をおもひやつて、わざと自分の噺をとき/″\だらし、一席の内に二ども三ども何人かづつのお客をかへらせると云ふやうな放れ業をさへあへてして見せたと云ふ。此はなか/\の呼吸仕事で、ほんたうにだらしてしまつたら、お客がみんなかへつてしまふ、適当に何回に何人かづつかへらせ、あとへのこつた適量のお客丈けはしつかり押さへて、決してもう今度は終演まで一人と雖も座を立たせない、昔の真打にはかうした話術そのもの以外の大きな/\苦心があつたのだ。だから出来星の新真打がお客にかへられたら大変だと許り大熱演で聴かせると、一人も立つものゝない代りにはかへりの下足が大混雑で、未だこの真打はチヤチなもんさと大いに下足番に嗤はれた由である。
 近年、このお客をかへす秘密を掴んで自由に使駆してゐたものは、「うどんや」や「睨み返し」の巧かつた三代目小さん(先々代)で、今夜は廿人づつ三どにかへさうなどと云つて高座へ上がつて行くと、いつもピタリそのとほりになつたさうだ。先年歿した某々がその真似をして今夜は俺は卅人かへすと豪語して上がり、五十人かへしてしまつて青くなつたと云ふものも、当時有名な楽屋ばなしの一つだつた。

 ……この『東京恋慕帖』全巻をつうじて、兎角私は過去許りを談つた。それは徒らに感傷的な懐古癖からではゆめ/\ない。私は、ふらんす文化と同じやうに、既往の江戸文化及びその水尾を曳いてゐる明治大正の市井文化の方が、御一新以来のかの薩長閥文化よりも科学的に余程高度だと確信してゐるからである。全巻の了りに改めて云つておき度い。
(完)





底本:「東京恋慕帖」ちくま学芸文庫、筑摩書房
   2004(平成16)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「東京恋慕帖」好江書房
   1948(昭和23)年12月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:酒井和郎
2016年5月15日作成
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