第一話 寄席ファン時代
毎々言うが、私の青春は暗黒だった。で、その頃寄席へ行って名人上手の至芸に接するたび、つくづくアベックで聴きに来ている人々がうらやましかった。ことに相手が美しい人たちだといっそうだった。俗にかみはくと仲間から呼ばれていた神楽坂演舞場へよく来ていた美男美女のカップルなど、二十余年を経た今日といえども、まざまざとそのあえかな面輪を羨ましく思い泛べることができる。かくして私はいつも自分一人か野郎同士で、品川の圓蔵を聴いた、圓石を聴いた、三代目小さんを聴いた、盲の小せんや先代文楽や先代志ん生や先々代市馬を聴いた、ただし、三代目小さんだけは、大震災直後、大阪南地の紅梅亭でたったいっぺんだけ久恋の人と聴いた。小さんは「堀の内」をその時演じ、その前にこれも震禍を避けて来阪中の伯山が関東震災記を例の濶達な調子で読んだ。
伯山のこの震災記がニットーレコードに間もなく二枚続きで吹き込まれたが、今日あったら珍品だろう。女は当時宝塚の人気スターで私より二つ上の二十二、私は二十で作家に成り立て、「文芸春秋」へ寄せた新作黄表紙が芥川さんに激賞されおよそ得意の絶頂時代だった。
余談ではあるが、今日、とにかく私を五十歳、六十歳の老人だと思っている向きが多いのは、好んで取材する世界が明治東京であることと、二十の年に家が潰れて以来二十余年の作家生活をしだしたのであるということとをまったく計算に入れていないからである。女は、その時私の帽子(たしかいまだ新秋で麦藁帽子)を自分の膝の上に置いてくれたことが、どんなにどんなに嬉しかったろう。こう書くと情緒
女はその年の暮れには健康
さて、そのごとく寄席ファン時代はアベックで名人たちを聴くことに憧れつづけ、次いで自分が高座へ上がるようになってからは何とか高座の人を情人として、なるべく彼女の上がった直後の高座へ上がりノメノメとしたことを言いたいなどと「湯屋番」の若旦那さながらの愚かな夢想を抱きそめた。同時に、鳴り物入りの落語を多く演じていた私は、その人に専門の下座(ツレ下座と仲間のテクニックでは言う)を兼業してもらいたいと念願していたこともまた事実だった。
よく青春期に耽読した文学は、その人の終生の人生観芸術観を支配するというけれども、私のこの二つの観念は、鬢髪しばらくに白きを加えた四十余歳の今日といえどもまったく変わらない。けだし、若き日において二つが二つとも叶えられなかったその心の打ち身の名残りであろう。今や顧みて不憫な奴めと思わざるを得ない。
しかし私は前にも言ったごとくたった一人、もしくは野郎同士ばかりで、毎晩毎晩寄席通いをした。今の桂文楽君は、当時の私の姿を高座の上から覚えていてくれて唯一の旧知である。私は灯が点くとさびしくなり、さびしくなるから寄席へ行った。蕩児のように。が、寄席へ行って太神楽や手品の、米洗いとか竹スとか
でも私は寄席通いが止められない。また行く。また、出かける。あまり毎晩毎晩同じ顔付けの寄席へばかり行っていたもので、とうとう一夜、誰がどんなギャグを言おうと全然笑えなくなってしまった。この時ばかりは打ち出しののち表へ出て、もうもう寄席もあまりにも食傷したから、当分行くまいと心に誓った。にもかかわらずあくる晩の灯点し頃がおとずれた時、私の姿はやはり同じ寄席の片隅に見出された。神田の花月だったろうか、それとも白梅だったろうか、ちょっと今記憶にないが、ともに今はない、たしか神田の寄席である。ところが昨晩に相違してこの晩はたいへん笑えた。じつに無邪気に無心に笑えた。そういっても、出てくる人出てくる人のギャグをひとつひとつ笑い得た。思うに私の寄席修業のこれが第一の「悟り」の日であったらしい。同じ頃神田立花亭主人大森君は、私に寄席の淫乱という尊称をあえて
年少から寄席を
急逝して私を
私が前述の宝塚の歌姫と別れた頃、三代目小さんはしばらく老衰しだし、しばしば高座で噺をまちがえるようになった(圓右は二世圓朝を襲名したまま倒れ、これにいなかった)。忘れられない痛ましい思い出は、帝国ホテルで松井翠声君が仏蘭西から帰朝した歓迎会が華やかにひらかれた席上でのことだった。私は徳川君にはもう別懇で(ばかりか半年後、東京を売って漂泊の途に上る時は同君と金語楼君とに旅費その他を恵まれた!)いたけれど、松井君には、この会でが初対面で、同君はその頃私が第一次「苦楽」誌上へ松井君のお祖父さんである先々代五明楼玉輔の自作人情噺「写真の仇討」についていささか書いたので、あなたによって祖父のことをいろいろ教えられたとにこやかに語られたことを記憶している。思えばあの頃も今日も少しも変わっていない若い若い松井君ではあることよ! 小山内薫氏がテーブルスピーチをされ、他に東健面、鈴木伝明、英百合子君らがいたように覚えている。三代目小さんは、この歓迎会の余興に来て「高砂や」を演り、いまだ前の謡のけいこの内に突如終わりの御詠歌をうたい出し「親類一同が婚礼に御容赦」と落ちを言ってさっさと下りて行ってしまったのである。多くの聴衆は夢中で拍手していたけれど、私はあんなにヒヤリとさせられたことはなかった。同時にあんなに暗いさびしいはかないものを感じさせられたこともまたなかった。左翼作家には珍しい抒情詩人しげる・ぬやま氏が、
じゃんこ面の小さん狂へり梅の頃
となげかれたのは恐らくやその頃のことであったろう。先々代正蔵と今日の三木助(当時は小柳)両君以外に、金語楼、小三治君が私の交友録の中に加わりだしたのもこの時代だった。私はこうした人たちの談笑の世界の中へ没入して、やっと失恋の哀しみを忘れていたのだったといえる。
小勝、三語楼らの横暴を憤って、少壮の不平児たちが落語協会を脱退。浅草の橘館と牛込亭へ立て籠って、当時台頭の左翼もどき、菜っ葉服よろしく自らサンドイッチマンとなってビラをまいて歩いたのも同じ頃だった。圓楽、小山三、小はん、龍生らの革新派。小はんはこの事件以後幇間となり、また渡支したりしたのが戦後復帰して大阪で働いている仁。龍生はのちに出世前後の広沢虎造君の一座へ入って台本を書き、またモタレへ出て落語を演っていた。そして圓楽が今の正蔵君、小山三がなんと今の今輔君である。恋失ってちかぢかに土地を売ろうとしていた私が、他人事ならずさびしい思い出、こうした不平不遇の青年落語家の高座を牛込亭に聴いたのはその年の晩秋の一夜だった。今輔君は今のような沢潟屋張りの声で、開口一番、「魔子ちゃんも上京してまいりました」とぐっと客席を睨み廻したので、一面すこぶる気の弱いところもある私は、たいていびっくりしたこっちゃない。魔子ちゃんとは、その前々年惨殺された大杉栄の遺児だったからである。それぞれが一席ずつ演ったあと、大喜利には全員がズラリ高座へお題噺のよう居並んで、各自五分間ずつの落語協会大幹部の
ところで私の方は、この時宝塚の女優と別れたのが原因で、西下放浪加うるにその前後、いかんとしても寂しさの棄てどころがなく、たいていもうやけのやん八になっていたので自ら文学の世界を放棄する(にも何にもお恥ずかしい話だが、てんで身心めちゃめちゃになってしまっていたのだった)と、落語家として出発することを堂々世間へ発表してしまった。破れ布に破れ傘、これも誰ゆえ小桜ゆえ。つまり亭主を芸者に奪われた女性がとたんに自らもダンサーか花街に身を投じたごとく、私もまたその歌姫への面当てに、落語家たらむとは決意したのだというところで、さて第一章の紙数が尽きた。
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第二話 落語家時代
私が、宝塚少女歌劇のスターとの恋を失って、そのため文士くずれの落語家たらむと志したに至るまでは、すでに書いた。
が、私のことにすると、単に寄席の高座へばかり上がりたかったのではなく、一個、変わり種の落語家として、じつはあっぱれ宝塚の大舞台へ一枚看板で押し上がり、彼女を見返してやりたかったのだ。でなければいくら当時の私の売文先が「苦楽」はじめ多く関西だったとしても、敵城近く乗り込んだりすることはなかったろう。そののち小林一三先生の辱知を得た時、先生は私に君は落語家でなく、役者になったらどうだ、それならうちの舞台を貸すがと言われたが、私は立ち上がって何かを演る方の自信はなかったので御辞退した。だから、またそののち数年、旧知古川緑波君がたしか山野一郎君と相携えて宝塚のステージへ一躍映画記者から転身出演し、花のおとめたちにかこまれて虹色のライトを縦横に浴び、いと華やかなフィナーレまで演じて、小林先生から当時の出演料で金一千円也をもらったと聞いた時には、嘘もかくしもなく、しんしんと私は羨ましかった。しかもその頃私は生まれてからはじめての困苦窮迫のどん底にいたのだったにおいてをや。が、それからさらに十年ののち、私は過去の落語家生活の体験を生かした『圓太郎馬車』という小説を書いて世に問い、それが緑波君によって宝塚系の劇場である有楽座に上演され、私の出世作とも更正作ともなったことを思えば、世の中のことはすべて廻り持ちであると言わざるを得ない。
ところで第一次「苦楽」の、たしか大正十四年早夏号の、私の寄席随筆の中へ、私は自らいよいよ落語家になりますという口上を書いている。そしてその自分の文章の中へは、徳川無声、林家正蔵(先々代)、正岡容の三枚看枝を並べてみたと覚えている。
けだし当時の徳川君は説明者としては第一流だったが、いまだいまだ話術家として高座へ現れてはいなかったから、この企画は超斬新であったのだ。またこの正蔵君はもちろん前に書いた流弁なりし先々代で、さらにその文章の中にはワクでかこんで先々代正蔵君の私の落語界入りのための口上文が書いてあったが、これは当時「苦楽」を
翌十五年一月号の「苦楽」へは、生まれてはじめて自作自演落語と題して「法界坊と
大阪放送局から毎月鳴り物入りの自作や西洋種の噺を放送しだしたのがその翌年あたりから。松竹座の花形説明者で私の美文たくさんで書いていた幻想小説が大好きで多少私張りの美文で情熱的な「椿姫」の説明などに全関西の女学生たちの憧れの的になっていた里見義郎君の紹介でニットーレコードへはじめて鳴り物入りの噺を吹き込み出したのが、その翌々年の春あたり。すなわち昭和二年頃であったと思う。ニットーレコードも、晩年は、タイヘイレコードと併合され、末路はかなくついえてしまったが、その頃関西から九州へかけての地盤はたいしたもので、今の山城少椽(当時古靭太夫)、観世左近、清元延寿太夫、吉住小三郎、関屋敏子、先代桂春團治、立花家花橘などがその代表的な専属芸術家で、かの「道頓堀行進曲」以来今日の流行歌や歌謡曲の前身をなすジャズ小唄なるものが台頭しだしてからは、故小花、それから美ち奴の両君もこの会社から華々しく打ってでたし、新人時代には、東海林太郎、松平晃、松島詩子君なども、この会社へみな吹き込んでいたものである。
文芸部長は戦争中歿した木村精君(長谷川幸延君と会うと私はよくこの亡友の話をする)で、その幕下に今も懇篤な作曲家草笛道夫君がいる。やがて三遊亭金馬君がこの社からさっそうと売り出すのであるが、あとで書こう。私は、こうした会社の異色レコードとして発売されたので、その第一回の宣伝広告のごときは、まったく今日のことにすると、馬鹿馬鹿しいほど、華やかなものだった。「サンデー毎日」「週刊朝日」の裏表紙の半分を割いて、大きく私の写真が出た。その頃の両誌は、ちょうど今日の倍の大きさだったのであるから、つまり今日のあの「週刊朝日」「サンデー毎日」一頁全部に私の広告が出たということになる。でもその当時はそうたいした宣伝だとも思っていなかった。正直のところが――。
話が相前後するが、この前年から私は三遊亭圓馬の門を叩いて、ことごとくその神技に傾投、間もなく圓馬の
のちに私が大谷内越山翁に話術の教えを仰いだ時、中学校の英語の教師から講談界に身を投じて露伴の「五重塔」、紅葉の「金色夜叉」、鏡花の「註文帖」「高野聖」、風葉の「恋慕流し」、涙香の「幽霊塔」、綺堂の「木曾の旅人」(この間、六代目と花柳章太郎君が演った「影」の原話である)を自在に使駆して文芸講談のジャンルを開拓した同翁は、やはり世の中には次々と自分のやったことの後継者が出てくるものだと私の志している道をたいそうよろこばれたが、今日、東西の落語界には、私の側近から桃源亭花輔(今日の梅橋)、三笑亭夢楽[#「夢楽」は底本では「夢薬」]、桂米朝君その他、文学徒の落語家が続出してきているし、私はいまだいまだあの頃の越山翁より十幾歳も若いが、今やほとんど同様の感慨に耽らざるを得ないのである。
ところで圓馬の忰になって本行どおり「寿限無」を教わった時の詳細はそっくりそのまま「寄席明治篇」というかつての長篇小説の中へ描写してあることを、この際ここで白状しておこう。孤児の私は、心から圓馬の芸と人とに傾倒し、ほんとうの親のようにも愛慕していた。圓馬夫人もまた近所の人たちに「おっちゃんが若い時東京で生ましてきた子なのやで」と言っていた。そう言われると近所の人たちも「ほんによう似てはる」と言ったものだ。が、師父圓馬と私とは若き日の谷崎潤一郎氏のごとく似かよってはいず、圓馬は角張り、私は細長い顔立ちであるが、濃い太い眉と、険しく大きい目とだけはいささか似ている。初手から父子だと踏んでかかれば、それでもどうやら見る方では勝手に類似点を発見して
いや、こう書いたら、その前にあなた方は言うだろう。かりにも正岡容ほどの侍がそんな青春二十一や二でいくら圓馬盲拝の結果とはいえ、どうしてくだらなく平凡な見合結婚をしてしまったのだ、と。仰せいかにもごもっともであるが、まあお立ち合いしばらく待ってください。人間目がでなくなるとこうもどじにいくものかと自分ながら呆れるほどその時代の私は人生万端駄目に駄目にとなっていき、つまり私はその相次ぐ不幸の連続にもろくも惨敗してしまったのである。まずその最初がこうである。大島得郎君の紹介で一夜京は島原の
心身荒漠としきっていたその頃の私は、のちにはこんな女を恋人として現実曝露の悲哀を見るであろうこと必定であるなどわかろうわけもなく、せめても現在の虚しさを忘れるべくかよい続けているうちにだんだん女の年の明けたのちの相談ぐらいまでするようになってはいたのである。その頃たまたま久しぶりに東京の席を休んで遊びに西下した先々代林家正蔵君は、私に会うが否や今度の旅行ではじめて島原へ行きましてねとニヤニヤ額を光らせながら談った。で、フフンおいでなすったな島原のことなら近頃この俺に聞けと「五人廻し」の通人よろしく顎を撫で廻した私は、して何という花魁がでましたとことさらに訊ねた。エーそれがねえ、S太夫というので……と次の瞬間あっさりこう答えられてしまった時のこの私の驚愕、落胆。ほんとうに落語の「近江八景」のあの職人じゃないが、その時の私は島原にもS太夫が二人あって甲乙に区別されており、私のは甲、今度正蔵君の買ったのは乙だったらよかったにと大真面目にそう考えずにはいられなくなったくらいだった。しかもあくまで冷たる
さてこの事件を
もちろん例外もないとはいえないが、全体に肉親の愛に飢えている天涯倫落の孤児ほどかえって恋愛に弱く、孤独のさびしさにも弱い人が多くはないか。四十五十まで双親の健在な人々の方に平気で女性をもてあそんだり独身でいられたりする人たちが多くはないか。菊田一夫君なども私同様の孤児であるとか聞いているが、同君の恋愛観など親近の人たちから
さあ、このへんで今度は大正末年の上方落語界について言及しよう。
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第三話 続落語家時代
戦後、吉本興行部の
が、そうした風だからくどいようだがあくまで商売は上手で客足もよく、大正末から昭和初頭の寄席不況時代も大阪の落語界はかなりに
私はその頃の吉本連がJOBK不出演なのをいいことにラジオへ出たり、レコードへ吹き込んだり、あとは臨時出演ばかりしていたが、「南極のラジオ」「ラジオ幽霊」「恋のケーブルカー」「マリアの奇蹟」「新気養い張」「禁酒」「競馬場騒動」「道頓堀行進曲」「流れ木」これらがその時代の私の主なるレパートリーだった。自作や古典の新釈のほかは、西洋人情噺と銘打ってアイッシェ兄弟や最近みまかったトリスタンベルナールの作品、もちろんそれを神戸あたりの世界に直し、随所に和洋楽をはさんで演じた。
大阪で最長期の出演は、千日前の楽天地(今の歌舞伎座)で、何とか座と題して武田正憲、金平軍之助、小笠原茂夫の三君が組織した喜劇グループの幕間余興、今の木下華声君も小猫八で出演していた。今日でいうならアトラクションで、十日ずつ演題を改めてちょうど二カ月出演したが、なにしろこの小屋、日本一台詞のとおりが悪く、どんな怒号する
当時は今日も隆盛な坂妻についで、市川百々之助とのちの伏見直江(当時霧島直子)のコンビの勤王剣戟映画の全盛期で、「東山三十六峰春の夜の眠りの中に……」云々と弁士が叫んでさえいれば大喝采の時代だったから、そこで苦しまぎれに私はどんな一席の終わりへもこの映画説明を演り、その時満場の照明を真紅にオーケストラボックスから「勧進帳」の合方を景気好く奏でてもらってフィナーレとした。こうさえすれば、どうやら受けて毎回お茶が濁せたこと、まるで昔、北海道の旅芝居ではいかなる劇中へも必らず義経が登場しては、お客さまを満足させたというあの珍談を宛らである。
しかも、北海道の義経の方は、芝居の筋にはかけかまいなく、ただ何となく来さえすればそれでいいのであるが、こちらは必ず何らかの形で理屈をつけて自演の落語と剣戟とを結んでいかねばならないのだから、ずいぶん無駄な苦労をした。もちろん、右のような雰囲気のお客だったから、会話の噺(つまり本来の落語様式)は全然駄目で、地噺(地の言葉が主でいく、たとえば「源平」や「お七」の様式)しか演れない。地噺へ和洋の鳴り物をふんだんにつかってなおかつ照明まで用いたものは、落語界はじまって以来私のほかにはたんとあるまい。
おかげで私は話術の世界へ飛び込んですぐ、噺の嫌いなお客に噺を頼んでつまり懇願して聞いてもらうという情ない卑屈な手法をまず覚えるべく余儀なくされてしまったが、これははしなくも今日、映画ファン七分というようなところで寄席文化講座をやった場合、はじめ十二分以上に映画を讃美しておいてガラリ居所変わりで寄席の世界のよさへ彼らを連れ込んでくるという方法を採ることにいかばかりか役立っていることよ。しかも今度の場合は昔日のように下からでて御機嫌をうかがわず、高所からでて説き来り、説き去れるに至っては演者たる私、快無上である。同時に剣戟映画の弁士の真似(それはあくどい上方流)をして塩辛声に
例の「サンデー毎日」や「週刊朝日」の裏表紙の広告へは私が大柄の揃いの浴衣で羽織と着物をこしらえたのを一着に及び、彼女、ふちなし眼鏡には支那服で三味線を弾いている写真が掲げられたのだから、浪華雀の噂はひとときはかまびすしく
この吹き込みの時、前述のごとく私は対の浴衣の羽織と着物とを着ていたのであるが、他に高座着は冬はオレンジ色、夏は水浅黄の羽織を別染めにして軽気珠の五つ紋をつけていた。西下以前、岩佐東一郎、藤田初巳君らと季刊雑誌「開花草子」を発行していた時、その扉絵に水島爾保布画伯が軽気珠飛揚げの図を恵んでくだすった。私の羽織の紋はこれを下図に縫わせたのであって、私の芸術全体を明治開花の軽気球は最もよく象徴していてくれていると考えたからである。黒と鼠と牡丹色の大きな水玉のあるリボンを巻きつけた麦藁帽子を見つけて、得意で冠って歩いていたのもその頃なら、
かくして、私はその頃関西には漫談も新落語(小春團治君の救世軍の落語がアッピールしたのはこの「ハムレット」吹き込みの翌々年あたりである)もなかった頃のこととて、技、いまだしであってもたしかに一方のいい格になれていたのであるが、肝腎の精神生活が全然駄目だった上に、二十三や四や五では「金」の使い方が、全然なっていなかったので、ほんとうの成功は見られなかった。私は生来、決して欲張りではなく、子供の時分から気に入った人にはずいぶん愛蔵の本やレコードも惜し気なくくれてやるという風な気性であると多少は他からもほめられてきていた方だったが、なおさら、お坊ちゃんの崩れだけに生きたお金はつかえなかったのだ。急所のお金、捨石のお金がちっともまけず、マネージャーをやとってそれにいくらかでも持っていかれるなどということはまた、なまじ肚からの芸人ではなくて近代の学問もしているだけにどうも馬鹿を見るようで、要するにつまりひと口に「金」の性能がまったくにわからなかったのである。だから私はいい生活のでき得たのが、自分からことさらにその機会を追い払っていたのだということが今日になってじつによくわかる。
現にこの前後、私は年に幾度か上京して、先々代正蔵、金語楼、金馬、現下の正蔵の諸君に二人会を演らせてもらったことがある。と今だからこう殊勝らしく書くが、当時は堂々上記の人々と二人会を演ったと本人は思っていた。もっとも一般の寄席はもう大不況で、下手でも何でも漫談家とか我々とかがメンバーで特殊会をやるほうが多少客足のよかったことは事実であるが――。それにしても金語楼君には報知講堂で、金馬君、正蔵君とはそれぞれ神田の立花亭で、別に先々代正蔵君のは銀座の東朝座での独演会を一席助演した。マ、それはいいとして、今日考えても冷汗三斗に堪えないのは二人会の場合、金語楼君なり金馬君なり正蔵君なりがその晩の上がり(収入)を折半して多分私には大阪からわざわざきたからとてやや余計分よこしてくれただろう、それを平気でノメノメもらってきてしまったということである。なぜその時、自分の方でそれへ
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第四話 続々落語家時代
金竜館もやはり今日のアトラクションで、九郎とか五蝶とか扇蝶とか、子供の時分五九郎一座の舞台で顔馴染みの人たちばかりが喜劇春秋座で常打ちに出演しており、他に木下八百子に三河家荒二郎合同の歌舞伎劇がひと幕あった。昭和三年の七月末から八月へかけて一ヵ月間、昼夜二回(日曜は三回だったろうか)ここでも私は楽天地で演ったような演題のものをいろいろと演ったのだったが、これは楽天地よりもむしろやりにくかった。というのは文芸部がとんだ大べら棒で、「モダン漫才」という看板を上げ、そうプログラムにもまた印刷してしまったからだった。かりにも蕎麦だと看板を上げてある以上、どんなに美味しい与兵衛や
ところで繰り返して言うが、その頃の東京の落語界はほんとうに大不況で、江川の大盛館には今の柳橋君が二人羽織の余興などで悲壮に立て籠っていた。また私が楽天地にいる頃は、弁天座の万歳大会(漫才と書いた第二次の流行期ではない。これは砂川捨丸の黄金時代で、かのエンタツなどは菅原家千代丸という老練につかわれてお尻ばかり振る惨めな高座をいまだ勤めていた)へは、今の三木助君が一度は戦災死したかの二代目岩てこの、一度は今の
「師匠、小林(三木助君の本姓)は」私が訊ねると、「坊ッちゃん……」とわざと目を細めながらこう呼んで笑って、二階の方を小首でしゃくりながら三木さんは、「まだ寝ンねですわ」と穏やかに眉をしかめた。この真夏のカンカン天気に、嘘にも内弟子が師匠より遅くそれも十時までも寝ているという法はない。その上、訊いて見ると夜も師匠よりは早く寝てしまうのだと言う。いよいよ私は恐縮し、たとえ昼寝をしてなりとも朝は師匠より早く、夜は師匠より遅く寝るべきであると、元来私の十五歳からの友だちだからさっそく三木男君を呼びつけて厳談に及ぶと、しばらく黙ってジーッと聞いていた同君、やがてのことにムックリあの白い兎に似た顔を持ち上げると、とたんに言ったね。
「いえ私ア昼寝もしているんで」
……じゃ、のべつたらに寝てるんだ。いまだいまだこのあとで、続けてその時述懐した彼の言い分がまたじつにおもしろいからついでに紹介してみよう。
曰く「それに私が師匠のところへ来たてには前の公園で共進会があってね、毎朝九時てぇときっとドカーンと大きな音をして花火が揚がったもんでびっくりして目がさめたんだけれど、あいにく共進会が先月でおしまいになっちまった。で、以来寝坊をするようになったんだが、だから今だって花火さえ揚げてくれりゃ[#「くれりゃ」は底本では「くれりや」]……」云々。
冗談だろう、いくら大阪市に冗な費用があったって、彼のために毎朝花火は揚げられない。
閑話休題――私は、この東奔
以上のうち私の自殺未遂の時がちょうど北村兼子君との「ハムレット」吹き込み前後で、妓との馴れそめが楽天地時代、世帯を畳み、また圓馬一家との確執が金竜館出演時代、アルコール中毒に悩んだのがこれから書く生涯にたったいっぺん南地花月、北の新地花月この二つの吉本系の檜舞台の寄席へ出演した時代前後数年のことである。
さて私の吉本出演は、昭和四年の二月頃だったのではなかろうか。どうもこのあたりからこの物語の終末に至るまでの月日がおよそハッキリわからなくってしまっていることを今これを書きながらもしきりに感じるのであるが、けだし忌なこと続きだった私の半生の中でもとりわけ忌だった精神生活の部分であるから、多分心の中で早く忘れたい忘れたいと思っているためいっそう年月の記憶がアヤフヤになってはいるのだろう。で、かりに早春としておくが、吉本系の寄席へ金語楼君、大辻司郎君が十日間出演していたのが、そのうちのひと晩だけ大辻君が前から受け合っていた警視庁の余興に帰らなければならなかった。で、急にその南と北のそれぞれの花月へ代演をしろという白羽の矢が、突如この私に立ったのである。金語楼君はその時南も北も私よりは遅い出番で、どちらの寄席も私の直前にはのちの五代目[#「五代目」は底本では「五台目」]松鶴君(その頃枝鶴)が登場し、まくらで如才なく口上を言ってくれた。そのあとへ上がって私は「南極のラジオ」を二十分演じた。南の方が和洋合奏で、お客も派手なので演りよかった。北は伴奏が和楽ばかりの上にひねったお客いわゆる笑わざるをもって大通とするお客が多かったから、南よりやや演りにくかったが、それとても楽天地や金竜館のお客に比べれば天地雲泥の相違だった。嘘もかくしもなくその晩私は、ここで、というのとはこうしたお客の前で、ひと月ふた月勉強させてもらえたならば、どんなに自分の腕が上がるだろうとしみじみ考えさせられたことだった。なにしろ伴奏が本格で、お客がまた本筋だったから、それに助けられてまずまず私の噺も実力以上によく演れたのだ。とこう書いたらたまたま当夜北の花月の桟敷に来合わせておられた故渡辺均君は、なんだちっとも巧くもなんともありはしないや、あの晩の君の噺は、と冥途からこう言われるかもしれないが、均君よ、私の平常落語以外の小屋で演っているときよりは、という意味なのであるから、なにぶん諒解してちょうだい。呵々。それにしてもたった一夜代演のこの私を、吉本では大きな立看板にじつにいろいろと口上文を書き、華々しく飾ってくれた。大局から見ては落語界に絶対プラスしなかった吉本ではあるが、この点の商売熱心だけは、再びここで特筆称揚しておきたいのである。
私の大辻君代演の一夜はたまたま吉本への手見せとなり、吉本でもどうにか
この前後、師父圓馬と難波駅近くで口論格闘して号泣したこと、

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続わが寄席青春録
第一話 正蔵君 金馬君 米若君
私が正式に東京に帰ってきたのは昭和四年の春だった。つまり四年めに故郷の土を踏んだわけであるが、宝塚スターの恋愛時代だった大正大震災前後も一年の半分は下阪していたのだったから、今度の帰京はずいぶん久しいもののように思えた。
もっともその前年の秋あたり、先代三木助に言われる前から、うすうす帰京のことは考えており、当時は博文館から「文芸倶楽部」「講談雑誌」の二誌が発行されていて、前者は横溝正史君が活発に編集しており、後者も師、吉井勇をはじめ長田秀雄、長谷川伸、畑耕一、サトウハチロー諸家が力作を寄せていた時代で、ともに私の明治開化小説を例月載せてくれていたから、いっそう帰ってくる気にもなれたのだった。しかし、当時の私の開化小説などは我流の書きなぐりで、かかるがゆえに、大半以上を後年破棄し、近年朱を加えて単行本へ収めたのは、わずかに「キネオラマ恋の夕焼」一作しかない。その少しのちに「講談雑誌」へは、サトウ君の「浅草」と二枚看板で、青春自伝「道頓堀」をも連載したが、これもまた不本意の作品なのでのちに火中に投じてしまった。なによりアルコール中毒のひどい時で、朝来、冷酒を煽っては執筆、いい加減どろんけんで書くのだから、いっぺんなんか挿絵を担当してくれた山口艸平画伯をひどく面喰らわせた珍談があった。それはかつて浪花政江一座という中流の安来節のコーラスガールで、川口の中華料理の女給になっている女との情事をテーマとした小説だったのであるが、一夜、その飯店の中国人たちと私は懐中していた下駄を振り廻して渡り合いかけた事件があった。そこだけはあくまで私の体験した実話だったので、酔余かいているうちにだんだん実感が迫ってき、はじめは主人公をスマートな洋服姿で登場させていたのに、乱闘の章へきたら、俄然この洋服のはずの主人公が懐中へ忍ばせておいた下駄を取り出して啖呵を切った、云々と書いてしまったのだった。こうしたらたちまち山口画伯から手紙がきて、「洋服か和服かどちらかにしてくれ」仰せいちいちごもっともの次第で、我ながらこういう下らないところ、あくまで私は文士くずれの落語家だった。さてそういう風に売文の瀬踏みにちょいちょい上京していた前年の秋、私は今の八代目林家正蔵君の雑司ヶ谷の家へ長いこと草履を脱いでいた。圓楽から蝶花楼馬楽になって何年にもならない時分で、けだし同君の貧乏生活の絶頂だったろう。いい奥さんになり、いま可愛い娘さんのできている同君のお嬢ちゃんが、いまだその今の娘さんぐらいのじぶんで、「艶色落語講談鑑賞」の「牡丹燈籠」の中でも書いたが、貧しい中から遠来の泊まり客たる私に朝に晩にきっと正蔵君はお膳へ一本付けてくれた。永らく阪地にあった私には、久し振りに故郷へ帰ってその時同君の宅で食べた秋刀魚や
「つまりは貧乏人の御馳走さ」
とすすめてくれたが、戦後の今日は牛肉よりも豚肉が高級品。
これも「牡丹燈籠」で言及したが、この頃、神田の立花亭で連夜大切に芝居噺を演じていた正蔵君は、千秋楽には霜深い夜道具を荷車に積んで、印絆纏を着て自ら雑司ヶ谷まで曳いて帰ってきた。
「ああこの人は今に売れる。この熱心だけでも売れ出す」
感嘆して私は心にそう思ったが「芸」の神様はなかなか一朝一夕には白い歯を見せてくれないもの。同君の話技がようやく円熟の域に入ったのは、戦後、八世正蔵襲名以後で、前述の「牡丹燈籠」(お峰殺し)や「春風亭年枝怪談」や「ちきり伊勢屋」の秀作はまさしく瞠目に価するとよろこんでいる。昨夏も私の
「あなたのお師匠さんとは二十三年のお交いですよ」
と言ったそうだが、事実、お互いに汲む時も同君は、この雑司ヶ谷時代を語っては深い感慨に耽るのである。
こうして翌年四月、上京したとたんに快弁の先々代林家正蔵が胃病で歿り、旧知の急逝に私は銀座裏で安酒を煽って涙し、目が醒めたら牡丹桜の散る吉原のチャチな妓楼で眠っていた。間もなく日暮里の花見寺での葬儀では、落語家の座席の哄笑爆笑、さすがに今はもうあんなバカバカしいお
「お通夜(お艶)殺してんだよこれを」
と洒落のめしていたにおいてをや。この滞泊中に、私の専属だったニットーレコードが上京して、東京側芸能人の吹き込みを開始したので、先代春團治と金語楼君以外はてんで落語レコードの売れなかったその時代、私は一計を案じて同君の十八番「居酒屋」のA面冒頭へさのさ節を配し、B面で夜更けの感じに新内流しを奏でさせて吹き込んだ。同じく私の推称した先代木村重松の「慶安太平記」(善達京上り)とともにこれが大ヒットして、トントン拍子に金馬君は旭日昇天の人気者になった(重松の善達もこのニットーの節調が一番哀しく美しいのに、私は今パルロフォンのややできの劣った方をのみ蔵している)。
ところで「青春録」と上げた看板の手前、ここらでまた少しく当時の情痕をも振り返らせてもらうならば、依然として恋愛面は暗闇地獄の連続で、上京前後、堀江の妓女との恋愛にももう終止符が打たれるばかりになっていた。養生方々、近来成功者となった近県の伯父の許へ行くとて去った彼女だったが、その行先は少しもわからず、堀江の自家宛の通信の中へさらに封筒の周りを小さく折り畳んで入れた私宛の手紙がくる。それを堀江の家から、同じく妓女上がりの義姉が、私の宿へ運んで来てくれるのだったが、何とも言えないその感じの寒さ情なさ。森田屋へ、三千歳を預けた直はんもかくやで、いくら大べら棒の私でもたいていそれがどんな種類の「伯父さん」だかくらいはもうわかっている。にもかかわらず、一方では妙に乗りかかった舟というか、よもや引かされてというか、入った原稿料を三分しては一を彼女の落籍料の内金に堀江の留守宅へ送り、一を別れた妻子に送り、残りを自分の生活費(アルコール代を含む)に充てていた。吉本出演に際して襟垢云々と言われたのも、かくては無理がなかったかもしれない。彼女は四月の上京寸前に帰阪したが(というが、市中に囲われていたのかもしれない。堀江の茶屋では、その旦那を片眼で焦脚の山本勘助のような醜い老爺であると罵っていた。いやはや!)、その時ふと洩らした告白によると、教養なく古風な教育のみを受けてきた妓だけに、正直に私が妻子への送金を告白したため、てっきり元木へ戻ると誤解し、素早く身を隠したのに一向に私が家庭へ戻らなかったため、何が何だかわからなくなっていたものらしい。しかし、その時の私は、もう妙にチグハグな心持ちで、ハリスのところから帰ってきたお吉を迎える鶴松にもさも似ていた。でも、元々が好きな女だったので、いまだ一、二回は上京後も送金していたろうか、近松秋江の「黒髪」や「津の国屋」を読むたんび、この作者の悲恋に似た境涯から早く足を洗えた自分自身を心から祝福しないではいられない。その代わり生涯かかっても、私の述作はついに秋江文学の靴の紐を結ぶにも至らないが――。
堀江の女の
その前後、「文芸落語」と銘打って(酒井雲が文芸浪曲とて、菊池寛や長谷川伸文学を上演していた最盛期だった!)名古屋の御園座と新守座とへ、それぞれ名人会で出演した。御園座の時は、死んだ先代の丸一小仙、柳橋で幇間になった先代三遊亭圓遊、今の桂文楽君と私とで、その前講に看板へ名もつらねず出演していたのだが、数年後めきめきと売り出したのが寿々木米若君で、この時は第一回渡米から帰り立ての青年浪曲師だった。劇場前の宿屋の二階で、初夏の朝、眼を醒ましたら、
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│ 香取幸枝 │
│正岡容さん江 │
│ 春日恵美子│
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ののぼりが、へんぽんと[#「へんぽんと」は底本では「へんぼんと」]薫風にひるがえっていてびっくりした。香取君は、文豪独歩の遺児国木田虎雄君の最初の夫人で、虎ちゃんが戯れに松竹蒲田のエキストラだった時、同僚として知り合って結婚、のちに別れて松竹関西系の舞台女優としてたまたま来名、一座の春日恵美子とで私にのぼりを祝ってくれたのだった。香取君は薄手細おもての美人で春日君は子供子供した愛嬌のある少女。ともに、のち松竹家庭劇へ参加し、事変の頃は香取君は松竹の社員と江州彦根で結婚生活に入ったと聞いたが、その後の消息をようとして知らない。「│ 香取幸枝 │
│正岡容さん江 │
│ 春日恵美子│
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翌年の夏の新守座出演は、水死した先代
いい落ちとしたが、昭和四年春帰京、高円寺にいた西村酔香君のそばの下宿に旬日いたが、今日では見られない、入り口へ宿泊人の生国と名前を小さく木札へ書いて提示してある、宇野浩二氏の「恋愛合戦」に出てくるような下宿屋で、その田臭に、純東京育ちの私はとうてい耐えられなくて、金馬君のところへ逃げ込んだ。大阪ではいつも旅館の一室ばかりを借りていたから、私にも辛抱ができたのである。
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第二話 浪曲師たち
春は
日夜、荒れてばかり、私はいた。
こうした私の荒涼生活の中に、音曲師の小半次が、今の小せん(当時三太楼)が、今の圓太郎(当時百圓)が、いた。三人とも定命に達した今でもなかなかコワイ彼らが、当時はみな三十歳前後だったのだから、川柳点にいわゆる「片棒を担ぐゆうべの
なにしろ家庭がつまらなくて、原稿料を取るとすぐ狭斜街へ、大半以上を費い果たしては帰ってくる私だったのだから、お台所が持つわけがない。酒屋から米屋から肉屋から肴屋、およそ借金だらけにして、たしか昭和七年のはじめ頃か、東京へ夜逃げをしてしまった。北条秀司君の令弟が土地の電灯会社につとめていて、溜った電気代を私の家へ請求にきたが、ついにもらえなかったと、これものちに北条君から聞かされて私は、大恐縮した。
この小田原の生活の中で、今考えてもおかしくてならなかったことがさらに三つある。ひとつは、私の上京中、師吉井勇が、旅行の帰りに立ち寄られた時のことである。師もあの頃は一年の大半を旅ばかりしていられた時代であるから、その時もどこかの旅のお帰りで、かなり旅塵にまみれていられたにちがいない。そうしたら、留守番をしていた小半次が応接に出て、私の帰庵後こう言ったものだ。
「ねえ先生、先生の留守に
って、あくまで自分の了見から割り出して考えたところが小半次らしくてとんだおかしい。
ひと夏、湯河原の映画館へ、小半次、三太楼、百圓の三人会で私のスケ(あまりいいメンバーじゃない!)で二日間興行に行ったことがある。古風な馬車で太鼓を叩いて町廻り、私は車上からビラを撒きながら、長田幹彦先生の出世作「旅役者」で、作者が北海道を漂泊中、紙芝居の群れに入って町廻りをしたひとこまを哀しく嬉しく思い出していた。この時不動祠畔の茶店で麦酒を飲んだら、小せんが出てきた
「ねえさん、この滝の水の色変わったのは……」
とこわごわ茶店の娘に訊いたら、
「今日はこの上の川で土木工事をしてるんですよ」
……出演した映画館は、湯河原だけに泊めてくれた自宅の方に温泉が湧いており、なかなか愉しかったが、もちろんお客は不入り。従って二日目を打ち上げても一文ももらえるお金はないはずを、中年の好人物らしい主人は、忘れもしない五十銭銀貨で二十何円かを番頭役の百圓の圓太郎に支払ってくれた。実演興行にはまったく不馴れな主人は、我々の賃金の方から差し引くべき二日分の税金を、全額自分の収入で支払ってしまったから、こちらへそんなもらい分が増えたのである。その二十何円をおよそもっともらしい顔で財布の中へしまってしまうと圓太郎先生、
「御主人、我々落語家は正直だが、旅を行く万歳(当時はいまだ漫才とは書かなかった)や安来節にはひどい奴があるからお気をおつけなさい」
とヌケヌケと言ったものではないか。どっちがひどい奴だかわかりゃしない。凱歌を上げて一同が近くのそば屋へ、冷めたい麦酒で祝杯を上げていたら、小半次だけは浮かない顔、
「百さん(圓太郎の前名)、その金だけは気の毒だから返したらどうだえ」
他の顔を見るとすぐ「五十銭(戦後は暴騰して百円になった!)くれ」と手を突き出すくせに、一番彼が気の弱いところのあるのも、浪曲界の元老浪花亭峰吉を実父に、先代木村重友を養父に、しょせん名家の生まれだからか。
報知講堂で文芸落語旗揚げ祭をやった時には、前述の関係から峰吉老をはじめ、先代三語楼、今の正蔵(馬楽時代)、権太楼、春日清鶴、今の玉川勝太郎(次郎時代)諸君が助演してくれた。これも小田原時代だった。
小田原の清楽亭という寄席では、次郎時代の玉川勝太郎君と二人会も演った。いまだ牧野吉晴君が青年画家で、即興の浪曲自伝を唸り、夭折した詩人の宮島貞丈君は、顔面筋肉を伸縮させるだけの百面相を演り、大河内から栗島すみ子、酒井米子まで巧みに見せた。これはのちに私が推称して、「映画時代」編集長たりし古川緑波君を激賞せしめたが、これをそっくり覚えて今日も高座で活用しているのが、柳家三亀松君である。
私が関東浪曲の甘美な感傷を溺愛するようになったのが、前に書いた大正十五年浅春、長崎に少女期の志賀暁子君を訪れて、滞留中の金子光晴、森三千代夫妻にその醍醐味を説かれて以来であることはたびたび書いたが、なに事も究め尽くさないではやまない私の性情は、やがて勝太郎、清鶴両君から、木村重浦、友忠、先代重行、松太郎、小金井太郎の諸家と交わるに至った。
ことに上京後は師匠三語楼と義絶し、フリーランサーだった権太楼君と、故木村重行君の一座に加わって、場末の寄席を打って歩いた。浪曲の間で落語を演るのは辛かったが、かつての大阪楽天地や金竜館でのアトラクションを思えば、よほど気が楽だった。大岡山の寄席では、席亭である大兵肥満の一立斎文晁なる老講談師も一席、力士伝を助演した。今考えると、名人文慶の門派だったにちがいない。大森の弥生館、神田お成道の祇園、山吹町の八千代クラブ、その他、本所にも深川にも未知の寄席がじつに多くて浪曲をかけていた。あんなにたくさん席があったから、青年浪曲家は毎夜連続長篇の勉強ができ、腕も上がったわけである。それが今日では旅が多くて、一カ所を二日も打てば精一杯ゆえ、若手は二席も受ける読み物があれば事が足りるのは情ない。従って、語る(描写)はずの浪曲が、だんだん歌うだけの歌謡まがいに堕落していく。第一、指導者たるべき作者側に、自ら宇田王介(歌はうかい)の洒落の筆名の御人が存する以上、浪曲が「非芸」になっていっても仕方があるまい。
しかし、何といっても昭和初頭から事変以前までの浪曲と落語との無縁さ加減には、今昔の感に堪えないものがある。落語家は浪曲を場違いとばかり一蹴し、浪曲師はまた博徒のような気質が日常座臥に殺伐にのこって孤立していた。滑稽軽妙な先代重松は門人に始終落語を聴けと言っていたそうだし、同じく飄逸な至芸だったと聞く先代浪華軒〆友は八代目林家正蔵君とも盟友だった由であるが、他は多く犬猿の仲でないまでも、犬と猫ぐらいの不仲ではたしかにあった。落語家と浪曲家が笑顔で話し合うようになったのはかの東宝名人会へともに出演して以来で、それが事変から戦争へ、ともに慰問に出かけることによって、いよいよ両者の垣根は取り除かれた次第である。
柳家権太楼君と駒形の動坂亭へ立て籠ったのは、昭和七年の夏だったろうか。一座はいま中風になった二世三語楼や、戦後高齢で郷里高崎でみまかった蜃気楼龍玉老人や、今の正蔵君も時にスケにきた。近頃ラジオ研究の俳優グループに名をみいだした守登喜子君も、当時はいまだ若く妖婉で、「かんかん虫は歌う」(吉川英治原作映画主題歌)をレコードで踊ったりして、一味、新鮮な匂いを漂わせた。吉井師が牧野宮島両君と桟敷へ現れたり、久保田万太郎、村上浪六、岩田専太郎、野村無名庵諸家も、当時近隣におられたので、客席にそのお顔を見た。一夜、いつかかいた「マリアの奇蹟」という西洋芝居噺で、牧師が「罪を憎んで人を憎まず」と盗人をさとすのを、「人を憎んで罪を」と反対に言い、正直に「まちがいました」とさらに訂正したので客席が
私は、この時分権太楼君が独立していたので、旧師三語楼氏へ柳家を返上し、暁亭を樹立せよと極力勧めたことがある。すなわち、暁の鐘がゴンと鳴るという洒落である。しかるに、むしろ野暮な闘士に近い同君は、
「今に落語家も柳家Aだの、柳家Bだのができましょうよ」
とあくまでこの点モダーンボーイだった。幸いにして敗戦後の今日も、落語界にはむかし家今松だの、山遊亭金太郎だの、鶯春亭梅橋だのと、風流めかした芸名のみが栄えているのもまことにめでたく、A介B介などという名はかえって漫才の方に輩出しだした。
この動坂亭の興行はなかなかに有望だったが――と書いて今小憩し、ラジオへスイッチを入れたら、山野一郎君の「なつかしの活弁ジンタ」が音楽入りで「ラジオ東京」から放送され、私は目裏を熱くして聴いた。かくてわがこの回想録には、いっそうの拍車が掛けられることだろう。――では、どうして、その興行が中絶してしまったかといえば、当時の私が性格破産したアルコール中毒者なら、若き日の権ちゃんがあれでいて「天災」の紅羅坊名丸のいい草じゃないがすこぶる
この時代の権太楼夫人が、戦後、離婚して家庭裁判まで起こし世間を騒がせた女性で、弱り目に祟り目で相前後して権太楼君は記憶喪失症になって病床にあること多年だったが、昨秋からようやく再起、今度再婚もしたと聞く。往事を思えば、同君の回復もまた、速からんことをせつに祈りたい。
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第三話 談譚聚団
これから昭和八年の春、再び夜逃げをするまで私は、滝野川西ヶ原の
すぐ裏が寄席で、夜毎、寄席噺子が洩れ聞こえてくると、寄席へのノスタルジアに全身全魂が烈しく
ここにいるうちに前年面識のあった大阪島の内柳屋画廊の女店員でAという娘と文通しだし、家庭生活に絶望していた私は、西下して忍び逢ったが、彼女の日記が寄宿先の伯母に発見され、たちまち郷里である山口県へ帰されてしまった。
昭和十九年夏、戦争非協力文学のゆえをもって私が禁筆の厄に遭っていた時、結婚三周年記念私家豪華限定版の名に隠れて『寄席噺子』なる随筆集をせめても開版した時、彼女と同じ山口県の某寺から一部を申し込んできた女性があった。姓名も筆蹟も違っていたが、十年の歳月は婚後その通称を改めることもあろうし、筆蹟もまたずいぶん変わるものである。「いつまでもおん睦じくあれと祈ります」という意味の手紙が送本後に届いたので[#「届いたので」は底本では「屈いたので」]、チラと私の心にありし日のA女の、仄白い顔が思い出されたことだった。
再び滝野川の陋宅をも失踪しなければならなくなったのは、その頃交りを結んだ小金井太郎一家が転げ込んで来て、毎晩酒乱で太郎が凶刃を
この時にことごとく蔵書とレコードとを入質して流してしまったが、そのレコードの中に、盲小せんの「ハイカラ」、初代圓右の「五人廻し」、先代文團治の「四百ブラリ」のあったのは惜しんでも惜しみ足りない。
小金井太郎は、今日の勝太郎君の兄弟子で、哀切果敢な江戸前の浪花節だったが、傷春乱酔、半生をまったく棒に振って夭折してしまったのである。彼については[#「彼については」は底本では「波については」]他日小説に書きたいのでここではあまり言及しないが、そののち一年、またまた居を移した杉並の私の家へ同居を強要し、酔余、槍の切尖を振り廻したのでついに杉並署へ連行され、昭和九年一月警察署の表で袂を分かったまま、翌夏、一度市川の映画館で武蔵、伯猿、それに故伯龍の珍しい顔触れで「屋代騒動」の後半を聴くこと間もなく酔中、急死してしまった。こう書くと何かよほど私が太郎に弱い尻でもありそうだが、こっちはあくまで彼の大ファンで、レコードへ世話をし、国民講堂で公演させ、揚げ句に転がり込まれて暴れられたのだからだらしがない。
この杉並の家ではさらにさらにひどい貧乏生活をおくった。文芸講談の大谷内越山翁に師事して、その独演会の前講を演じさせてもらい、話道の開眼をさせていただいたのも、この前後である。もちろん、私は翁の前講を無料で勉強させていただいたので、代わりに翁はいつも帰りには一杯飲ませてくだすったが、初対面が盛夏大下宇陀児氏らと武州飯能の座談会で、そのとき無闇に麦酒ばかり煽ったので、よほどの麦酒好きと私を思われたのだろう、以来厳寒の独演会の帰りにも常に麦酒の御馳走だったのには
昭和九年末、松崎天民氏歿後の雑誌「食道楽」主筆となってから、だんだんまた私の生活は軌道に乗り出し、その頃幾年か絆を断ちかねて苦しんでいた酒場女が、自分の方から私の原稿料を懐中に家出してしまってくれた。けだしわが半生であんな助かったと思ったことはない。お天道さまは見透しで、やっと自分は夜が明けそめた夜が明けそめたとしみじみ嬉しかった。
やがて亡妻を迎える前後に、一、二年続けていた、例月芝の恵智十という古い寄席でひらいていた創作落語爆笑会をおわり、談譚聚団同人となった。
爆笑同人には死んだ燕路、蝠丸(伸治の父)もいたが、出世頭は志ん生、今輔、圓歌、可楽、三木助の五君であろう。モダン雑文家でムーランルージュの女優高輪芳子と心中未遂を諷われ、のちに
談譚聚団の方は今も余興団体として残っているが、当時は徳川夢声を中心に雑誌「談譚」を月刊、牧野周一、木下華声、奈美野一郎、吉井俊郎、丸山章治、福地悟郎、東喜代駒、山野一郎に私などが同人格で、東宝小劇場で毎月の公演が催された。この中で徳川君以外に活躍しているのは、山野、牧野両君だけで、他の大辻、井口、西村君らの漫談家も今は鳴りをひそめてしまった(後註――こう書いて一、二カ月後には大辻君は航空事故で惨死した)。
これが私の話術修業の最後で、二・二六事件のあった夏頃私は一切の出演を辞し、すでに禁酒(前後六年間続いた!)もしていたので、再び文学勉強に専念しだした。
三十過ぎての火のでるような文学修業も辛かったが、禁酒六年の精進はどうやら数年後の暮れ、小説『圓太郎馬車』を世に問い、私は作家として返り咲き得た。
先年、拙著『雲右衛門以後』(浪曲史)出版記念演芸会に森三千代女史は、
「私たち夫婦で浪花節のよさを教えると、すぐ小金井太郎と共同生活までしてしまうし、まったく正岡さんという人はハラハラさせる人だけれど、その収穫はこうした一冊になった」
と講演してくだすったが、ほんとうに私に文学の、芸能の、ことに寄席の救いがなかったら、良家に生まれてその家が潰れ、思春期に天涯孤独の身となった自分は、今時分薄志の不良青年となり、与三郎同様、佐渡送りにでもなっていたろう。腕に桜の刺青は入ったが、遠山の金さんのラインで踏み留まることができたのは、再び言うが、文学の、芸能の、寄席のおかげであると言わなければならない。幸いに後継永井啓夫を得た今日、残生の大半を私は寄席文化の普及と探求とに、父子して尽くそう。
わが「寄席青春録」続編の執筆は、今村信雄君にも忰分啓夫にも勧められていたのが、今日やっとこうしてここに完結した。前篇を書いてから、いつしか五年の歳月が
その五年間にも、芸の、人生の悩みは尽きせず、定命近い今年になって、しばらく諸事順調に向かいつつあるが、最早それは青春録どころか、晩春録でもないのだから、ここでは触れまい。かつて村松梢風氏はその随筆中で、自分は生涯に三度廃業しようと思ったが、他に適業がないので、ついにこれで終始したと書いておられた。私もまた、しかりである。故三升家小勝も三度廃業を決意、明治中世から大正初世かけて「ムジナ」の異名で謳われた都々逸坊扇歌(先代)に至っては、七度も廃業しかけたと自伝中に述べている(人生行路の苦しさよ!)。
おしまいに、「落ち」をつけよう、「青春録」らしい落ちを。
それとてすでに数年前になるが、戦後新春、銀座街上でたまたま往年の宝塚スターに呼びかけられたが、老残衰貌、今も女優をしていながらも悪疾あるエキストラの夫をかかえて見るかげもなく、私は目をそらすのに骨を折った。少時、大好きだった初代松旭斎天勝の晩年に会談した徳川夢声君は、
「初恋の人に三十年も経って逢うものじゃない」
と書いておられたが、その時の私の幻滅はまさにまさにそれ以上のものだった。
でも、ただちに