佐渡が島のこと

江南文三




 東京を立つたのが震災後の十一月、まだバラツクが十分に建たないうちでした。例年になく夏が長かつた東京でも折折は秋らしい夜も顏を出しかけて居ましたので、私の住んでゐた代代木新宿附近では白地の單衣の儘の人、當時盛に賣出してゐたニコニコ絣を着た人、袷を着た人、セルを着た人、種種雜多な服裝で往來して居ました。燒け出された人達と地方から見舞や見物に來た人達とで、今では三つ四つの子供が遊んでゐる郊外の町が、淺草の仲見世のやうな雜沓でした。捲つた腰は既に下ろして居り、リユツクサツクを脊負つた人も見えなくなつて居ましたが、まだ火傷の痕を濃い白粉で塗り潰した女や、鬘の下から赤黒い引吊の見える女が、どうしたものか急に華美になつた風俗の中に交つて歩いて居ました。
 山の手に黒襟の掛つた着物の人を澤山に見掛けました。毛絲の服を着た女の子が澤山中央線の電車に乘つてゐました。
 しかし一方には半洋袴を穿いて尾久の假屋から市内の燒跡まで食べ物を賣りに家内中で脊負つて出るのも居ました。
 二晩か三晩恐ろしく寒い晩があつたので、布團を脊負つて遠方の親戚に運ぶものも居ました。
 郊外で東京の言葉が聞かれました。
 華美な洋裝をした上方の女と男とを見ると撲りたくなるやうな氣分もありました。
 折折襲つて來る秋の氣候を防ぐだけの着物さへ持たない人と頓狂なほど派手ななりをした人とが不調和と亂雜とで玩具箱を引繰覆しては居ましたが、大體セルやネルの季節だつたのでした。
 私は佐渡へ行くと言ふので途中輕井澤邊の寒さを豫想して冬服の上に秋外套を引つかけて出ました。
 上野驛には手荷物預所も出來てゐませんでした。
 御名殘に上野の山から市中を見渡しました。海の上に漁船が澤山出てゐる時のやうな感じがする眺でした。
 三等の外乘らない私が上野からだと言ふので二等に乘つたのでしたが、三等でも樂な位にすいてゐました。
 驛前に新聞を賣つてゐる子供の數は大したものでした。それがカオオルを賣りに出る子供や讚岐の孤兒院の子供のやうな職業的の厭な點の見えない本當の罹災者の子供ばかりでした。
 小學校にまだ這入らないか位の子から三四種の新聞を買つて汽車の中で見ますと、新潟邊は低氣壓で暴れて居ると出てゐました。
 寒からうと豫想した輕井澤はスチイムで暑くて困る位でしたが、私のやうに厚着をしてゐる旅客が見えませんので温度を加減さすのも憚られて我慢して通しました。
 中央山脈を越すと雨でした。出る時の東京は風と砂埃とで眼も開けられないやうでしたが。
 新潟へ近づくにしたがつて降りは益激しくなる、汽車の窓から見える田は一面の湖でした。新潟で船を待つ間に小學校で教はつた先生で今は縣の物産陳列所の長をしてゐる人を訊ねて色色の話を聞いた時、田が湖なのはしよつちゆうの事で、苗下しにも船でやり刈取るのも船で、刈つたあとは信濃川の肥沃な土が次の年の準備をしてくれる儘に放つたらかしである土地だと聞きましたが、見たときはさうとは知らず隨分驚きました。
 新潟で汽車から下りようとするとプラツトホウムは全部雨の横しぶきで濡れてゐます。改札口まで横しぶきです。船は勿論出ないと車夫の話でした。
 宿へ着いてから三日泊つて船待をして居りましたが、老婆で息子の病氣が重いので佐渡へ歸ると言ふので私より三日ほど前から宿についてゐると言ふのがありました。
 東京ではやうやく麥藁帽子を脱ぎ捨てたばかりなのが此方は外套を二枚重ねて着てゐる、ストウヴを焚いてゐる。十分に寒さの用意はして來たつもりでも肌着や洋胯下や靴下が冬支度でないので風を引いてしまひました。オウヴアシユウズは誰もしてゐない。此邊では長靴でなければ駄目だと高等學校の八田さんの話、眞つ直に降る雨は見られないと言ふ事でした。
 暴風雨のあとの海を渡る船は高さと長さと同じ位に見える黒い汚い船でした。二等にはとても乘れたものではないと言ふ佐渡の人の忠告に從つて一等に乘りましたが、一等室の天井は低くて立つことは出來ず、客は這ひ込まねばならないのです。ボウイに命じて上沓の入れてある包を取り寄せさせようとしましたがとうとう持つて來ませんでした。夏靴下一枚の足が冷えて堪らないのと荷物のやうに詰め込まれた部屋の中の空氣が厭なので甲板の日の當る處に出て居りましたが、その中手擦から浪の上に白いものを吐く人を見て、その前からむかむかし出してゐた胸が我慢出來さうもなくなつて來たので、周章てて船室に這入りますと、ただでさへ一杯に詰め込まれた船客が盡く横になつて居ますので這入り場處がなく、やうやくの事で體を丸くして人の足先を顏近く戴いて横にさせて貰ひました。とうとう上陸するまで珈琲一杯貰へず、朝飯を宿で食べたきりで夕方島に着きました。
 島で馬車を寄せて食事をしようとしましたが船の醉は食慾を封じてしまつて居りました。
 船から見た金北山の雪は凄じいやうでした。
 馬車の中でスヱツタを取り出して上着の下に着ました。靴の上にはスパツツをかぶせました。オウヴアシユウズも附けました。
 島の東岸から西岸までの距離は案外短いのに驚きました。
 西岸の町へ來たとき、最早あたりは眞つ暗になつて居ましたが、道はぬかるみで馬車は人を乘せては動けないと言ふので、同勢の三人は下ろされて、道の兩わきの軒下の溝の石をつたはつて歩かせられました。車輪が殆ど泥の中に沒してゐるのです。足元をあやまつた私は膝の邊まで泥にしてしまひました。
 其處を拔けると山でした。恐ろしいでこぼこの峠でした。荷があるので馬車を雇つたのは私達の幸でした。山にはパンクした自動車のタイヤが澤山捨ててありました。自動車に乘つた新潟からの連は途中で人力車で私達を追ひ越して行きました。
 私達の住まなければならない相川の町は、車がやうやく擦れ違ふことの出來るだけの町幅を持つてゐる眞つ暗な町でした。
 私達の宿は五室でして、それに電燈が十燭と十六燭と二つだけ點いてゐました。十燭は東京の二燭よりも暗く十六燭は五燭よりも暗かつたのです。そこにその家の宿主であり私達の世話をしてくれると言ふ老婆がまづい業業しい御馳走をして待つて居てくれました。眼葢の赤く爛れた汚らしいしかも年にも似合はず色氣の殘つてゐるやうな婆さんでした。
 電燈は駄駄を捏ねて五十燭を着けて貰ひましたが、その五十燭がまるで十燭にも足りない光力なので、東京で七十燭の下で本を讀んでゐた私にはとても眼が疲れて夜は物が讀めないので氣が滅入つて堪りませんでした。
 町の有志の歡迎會と言ふのが土地第一の旗亭壽司嘉でありましたが、薄暗い光の下で斯う言ふ會の行はれるのが不思議な感じがしました。
 それから佗しい冬が續いたのです。最早夏は容易に歸つて來ないことになつてしまつたのです。秋をとうとう見ることなしに夏から冬に飛び込まうとは思ひも掛けないことでした。そしてその冬は東京ではまるで想像の付かない佗しい冬でした。人間が日光から見放されるほど辛いことはないのは誰しも理窟では分かつてゐることですが、毎日毎日の暗い空の下の穴の中のやうな生活、そして夜の電燈にさへ惠まれない島の生活は、またこれから歸つてしなければならないと言ふ考だけで身が竦むやうです。
 それでも折折は雲の割目から日光が射すこともあるのです。或時は雪を降らせながら射すこともあります。さう言ふ時の喜びは南の國の人にはとても想像の付かないものです。
 餓ゑた雀が山から風を冐して町に集つて來ます。庭でも往來でも無數の雀が遊んでゐます。土地の人は捉まへたら食べてしまふのにも構はず、偶偶の日當りに細目に開けた硝子障子の間から縁に遊びに來ます。或は風と雪とに堪へかねて一寸した隙から飛び込んだ雀が臺處でこぼれ幸を拾つてゐることもあります。
 スキイと言ふものが習へるだらうと言ふのが豫想の一つにありましたが、高田と海一つ隔てた此島には思つたほどの雪が積らないので、相川の町の青年會にも一つ備へてはあるが、私の越した前の冬にたつた一囘使用したきりであつたとの事です。同じ島でも風當りの弱い東海岸や、國中と稱する南北兩佐渡の山の間に挾まれた米の出來る細長い土地などでは少しは積もるさうですが、國中から峠を越して北部の斷崖がぢかに海に接して居る海岸一帶の地は風當りの強いため一向積もらないのだと言ふ話、それに驚く程の暖い日が三日乃至九日置き位の寒い日の間を點綴して二日乃至四日位續くので折角降り積みかけた雪もだらしなく溶けてしまつてびちやびちやの道を作るのです。暖い日には風は死んだやうになくなります。此間です、人が日光を羞明しい樣な白雲の間から見られるのは。秋にも見られない樣な澄んだ月が溶け殘つた雪を強く照らして暗い電燈の點つた部屋の中へ射し込みます。小春日の樣な暖さは夜の夜中まで島を包んで放しません。少し長く日の射してゐる時には上着を寒中に脱がさせられるのです。海の浪も此暫の息繼の期間だけは音を低くします。船が通ふので東京から便が一塊りになつて來ます。すぐ後から來る寒さと暗さと嵐との豫想が心の上に重い壓迫を加へてゐるにしても、岩屋から岩屋へ移される囚人の喜びを感ぜずには居られません。
 良人の旅に出た留守に初めてその愛を感じる妻のやうに、私は太陽に對して今まで無頓着であつた自分の心が恥かしくなりました。初戀のやうな心持で太陽を求め太陽を迎へました。
 然し斯う言ふ氣持の好い日がからかふやうに顏を出した後に峻巖な冬が續くのです。霙と霰と雪とが代はる代はる風に吹かれて窓を打ちます。沖となく岸となく荒れ狂ふ白浪は、今まで吹き付ける白いものの途絶へた隙から見えてゐたと思ふと見る見るうちに吹き散る雪や霰で見えなくなります。ただがうがうと荒れる浪の音ばかりで、岸で碎ける浪のしぶきと粉になつて散る雪とが交つて、町全體の屋根にかぶさります。濱が一面の怒濤に覆はれて濱深く立つた家の土臺の石垣を洗ふのです。
 斯う言ふ日に早く暇を得た時には私は山に登りました。
 相川といふ町は、町家と鑛山の熟練職工と漁夫との家が崖下の荒磯の上に海に沿つて一里近く竝んでゐるのと、之と丁字形に山の一つの尾の上に長く延びた邸町と鑛夫部屋とから出來てゐます。私の最初着いた時の家もその後荷物が來てから移つた家も磯に立つた部分の町なのです。最初はとにかく構はずに長靴でスヱツタ着て頭巾にもなる帽子をかぶつて出掛けました。山の上の町をはてまで行つて奉行時代の廣大な町の跡を見て驚きました。一里近くの山奧に石の垣の遺物があり墓石ばかりの寺の跡があります。この山の尾の北の谿谷を北澤、南の谿谷を南澤と言つて、北澤は鑛山の入口精錬所の建物に奧深くまで占領されて居り。南澤には荒寺に交つて民家と僅かばかりの田があるのです。北澤は春先雪割草岩鏡などの咲き亂れる雪解の遲い谿で、夏は此附近で一番凉しい處です。南澤は寧ろ冬暖かな谿で春は櫻や梅の咲く處です。山の尾も山のせも單調に延びてゐません。せの中に尾があり尾の中に小さなせがあり、すべて岩石の間を節の高い身のしまつた竹と金屬性の力を持つた這松茨藤蔓などが岩を割るやうにして生えて居ます。
 竹の葉に雪が載つてゐる。籔の中は薄暗いトンネルになつて居ます。分けると襟と言はず肩と言はず雪が降り掛かる。出鱈目に手を出すと何本かの竹が握れる。出鱈目に足を出すと必ず何本か密生して居る竹の根に引つ掛かる。これを手頼りとして何處までも昇つて行く。頭の上の竹の葉を渡る風の音は物凄い。いくら行つても籔ばかりで首の出せない時は此儘で歸れずに力が盡き腹が空つて體が冷えて死んでしまふのではないかと考へる。葉から降りかかつた雪は解けて脊中まで濡らしてゐる。手から一の何十分の一の外の手套の上には一旦溶けた雪が更に氷つて指の屈伸の跡を殘して氷り附いてゐる。それを囓る。
 しかし風當りの強い崖で首の出せる場處に來て遙か下を見下ろすのも心細い。空から上から下から横から吹き付ける雪。それを殊更に強調する樣にいきなり横つらから目に掛けて厭と言ふ程撲り付ける雪の塊と竹の葉。風の中で息をするために鼻と口とに手を翳す。片手で手頼りにしてゐる竹が無暗と搖れる。雪の凍り付いた眼金を外して舌で甜める。體が冷えて來る。堪らないので又雪の下に潛り込む。我無遮羅に攀登る。樹がある。捉まるとぽきんと苦も無く折れる。藤蔓を試しに引張る。
 頂上から向ふは急な崖だ。竹を兩側に掻込んで足をぶらさげる。股倉に何本かの竹がはさまる。その竹に片腕を掛けて脚を脱いで復ぶら下がる。
 竹が無くなる。樹から樹を覗つて飛んで行つては抱き附く。抱き附いた樹が生憎枯れて居て勢のために大きな枝を着けた儘轉がり出す。小枝が眼に這入る。雪の粉を飛ばして轉がる。
 斜面が來る。樹の一本もない斜面だ。尻を雪に埋めて兩足を前に出して辷る。兩臂で舵を取る。途中の小さな樹に片脚が掛かる。股が裂けさうになる。片手で樹に捉まる。それでも止まらずに轉げ落ちる。成るべく大の字なりになる。それでも止まらない。しまひに谿川に首と手を突込んで止まる。岩に足をふん張つて持つて來たキヤラメルをしやぶる。
 斯んな事をして歸つて濃い熱い茶を飮んで甘い蒸菓子を食べるのが一番いい冬の暮し方なのです。家の建築が粗末なので酒の飮めない私にはぢつとして居たら凍え死んでしまひさうなのです。部屋の中にゐても耳まで凍るやうなのです。壁は荒壁一枚張です。屋根は木つ葉に石を載せただけです。俗に壁通しと極寒い日を言つて居ます。隙だらけの壁と隙だらけの木つ葉の[#「木つ葉の」は底本では「木つ菓の」]間から粉雪が家の中に降り込んで、場所によつては相當積もるのです。
 いきなり冬を見た私は土地の人の風俗の質素なのに感心しました。夏になつて驚嘆したマイヨオルの作つたもののやうな脚のしつかりと地に着いた體格の女が、寒氣を防ぐためにありつたけの襤褸で武裝して、色の褪めた大シヨオルを頭からかぶつて素足に藁草履で歩いてゐるのです。虱は大抵の娘には附物です。シヨオルをかぶつて居ない女はマントを着てゐます。從つて私の女に對する好奇心は足にだけ集中されました。鋼鐵のやうな彈力を持つた引き緊まつた足首か、青銅のやうな重みのある足を持つてゐないものはありませんでした。東京附近の平原に住む女のやうに練馬大根のやうな細い太いのない足は見當りませんでした。
 男は新潟で見たやうに外套を二重に着て居るのは見掛けません。足駄の爪掛に毛の着いたのを着て居るのは相當見掛けますが、外套の襟手首などに毛皮を着けたのは一寸見て餘處の土地から來たと感じさせる位で皆無と言つて宜しいが、外套には、女のマントも同樣ですが、必ず頭巾が着いて居ます。外套の丈もマントの丈も殆ど踵まで屆くほどの長さです。
 來客があると炬燵のある部屋に案内する。客は遠慮なく炬燵に膝を突込む。炬燵の外に火鉢も出ると言つた調子です。
 暖い日の週期が土地慣れない私には却つて辛く感ぜられました。暖い日の間に少し油斷の出た神經を更に復新手の寒氣が襲ふのです。そしてその寒い期間は晝夜の分かちなく冷えるのです。東京では寒く感じたりつめたく感じたりするのが、相川ではただ冷えると感じるのです。坐つて居る疊から骨を傳はつて全身を内部から冷やすのです。一枚の大きな石英岩を土臺としてゐる相川は家の柱の土臺石から凍り切つた地盤一面に總べての生物の温みを吸ひ取るのではないかと思はれるのです。霜柱一つ立ちません。温い日の間に溶けた雪が眞つ黒な板となつて甲鐵のやうな道を覆ひます。晝日中室内に居る人の鼻や口から絶えず煙草を吹かす人のやうに白い煙が出て居ます。東京ならば寒い戸外を急いで歩く時皮膚の表面は如何に冷くとも體内に抵抗力が潛んでゐて、室内乃至風の來ない日向に來れば反動として温かく感ずると言ふことがあります。相川ではさう言ふ樂しい豫想は全然ないのです。私のやうに酒の飮めない人間に取つては入浴と山登以外に體を温める方法はないのです。
 その湯がまた有難くない湯です。湯屋の數は町不相應に澤山ありますが最近に警察から命ぜられたとかで一軒例外の家が出來ましたが、それまでは全部湯屋湯屋で一日交代に立てるのです。午後三時から立つのですが、夜行くと湯船の底に臭い生温の水が膝つきりしかないのです。上がり湯は既に水になつてゐます。女湯と男湯とはすぐと上の方まで、もつとも天井は低いのですが、全然別に仕切られてゐます。湯氣がもうもうと籠もつて暗い電燈を包むのです。湯船もながしも石とコンクリイトです。湯垢が窪み窪みに溜つてぬるぬるして居ます。その上に板つぺらが投出してある。その板に尻を乘せてふちのすり減らされたぬるぬるの桶で體を洗ふのです。石鹸を生まれてから一度も使つたことのない人も居ます。知人に逢ふと東京ならば流しませうと言ふ處を掻きませうと言ふのです。文字通り爪で脊中の垢を掻き合つて居るのです。桶が今言つた通りなので男でも湯屋に金盥を持つて行く人が相當にあります。寒中でも上り湯がぬるいためか大抵の人は水を浴びてゐます。湯屋によると門口の戸一枚で中じきりの戸を寒中でも付けない家もあります。
 湯に入る前に體をしめす習慣もありません。女湯で歌をうたつてゐるのが聞かれます。
 歌の好きなことは他の町に比類がないかも知れません。年中町の到る處で男女の歌が聞かれます。おけさ、安來節、追分などが重なもので都都逸二上り新内のやうなものは滅多に聞かれません。中山晉平氏、本居長世氏のものも相當歌はれて居ます。女が一日働いて夜更けて友達を訊ねて歌ひ合ふ風もあります。芝居小屋の小さなのがあります。碌な役者は來ませんが浪花節だけは相當のものが來ます。いつも相當の入りを取ります。
 歌と踊の好きな町民が思ふさま歡樂を盡すのはしかし夏を待たなければなりません。
 四月に這入ると雪が雨になります[#「なります」は底本では「なるます」]。雨になるに連れて降る時間が一日の中の僅な時間だけになります。そして一日の中の何時間かは必ず日が照るやうになります。五月に入るとからりと晴れた日さへ見られることがあります。雪割草の淡紅から深紅乃至紫までの花が谿間に咲きます。次に岩鏡の紅色の房が艷艷した葉を覆ふやうにして咲きます。あまどころ、えんれいさう、その他名の知れない森林植物が咲きます。少し注意深いものには容易く雙葉葵の葉蔭に芳つてゐるのを發見することが出來ます。
 死んだやうに成つてゐた櫻や梅が急に芽を出して花を咲きます。東京の植物は落葉の時に既に小さな芽を落ちた葉の痕に持つてゐます。相川の植物は急激に襲ふ寒氣の爲に樹の表面は盡く死んでしまふものと見えて、冬を通して風當りのない谿間ではその葉を落としません。腐りもせず、落ちもせず恐らく黄葉もしなかつたらうと思はれる形で、青葉の儘毒を注射されでもして死んだのではあるまいかと思はれるやうに、その儘の形で枯れて枝についてゐるのです。恐らく堅い甲冑を着けてゐない枝の先は表面の皮の底まで通る寒さのために枝ごと死んでしまふのだらうと思ひます。どの樹も春になつて始めて生き殘つてゐる[#「生き殘つてゐる」は底本では「生き殘のてゐる」]部分から芽を吹くのです。本當の新芽から出る花や葉は實際に新鮮な色をして居ます。
 紅の花が濟むとたんぽぽ、きんぽうげ[#「きんぽうげ」は底本では「きんぽぽうげ」]、その他名の知れない黄色の花が咲きます。
 それがすむと藤と桐との紫です。紫の花が咲き揃ふときは新緑がやや深くなりかけた時です。
 それから六月。眼まひのしさうな強烈な日光。黒い上一面に鼠色の泡を吹いてゐた海がいつの間にか藍色に染まつてゐる。山の急な斜面と海の平面とで作つた狹い空間に有らむ限りの日光を直射させるために、よろひの胸板のやうに平板な緑が空間のエエテル全部を荒い振幅で捩動させて居るので、何方を見ても景の遠近がなく總べてが生の色で人の顏を打つ。
 午前は凡ゆる陰が紫、午後は代赭色になる。午前の濃い藍色の海は正午にほんの僅磨き上げた鋼鐵の色を呈するだけで直ちに白緑とコバルトとロウズマダを流し合はせたやうになる。三つの色が絶えず右に流れ左に流れて交化する。岩の多い海藻の種類に富んだ海は岩と岩との間を黄に染め赤に彩り緑に染める。錨山の金鑛を碎いた水がその一部に乳色したうす紅を流す。
 毎日毎日の落日の變化。きんを流し、血を流す。或時は町一面を紅梅に染める。或時は緑の頂に燈かと思ひ違へるやうな朱を點ずる。
 天鵝絨の上にパステルで描いたやうな柔らかな朝。
 赤と強い黄の萱草が咲く、海を渡つて牛の草喰ひに行く島の横腹に。紫陽花が咲く、岩蔭の濃い緑の中に。
 斯うなると殆ど毎日毎日晴天續きです。
 あちこちの小學校中學校女學校で運動會が毎日のやうにある。町の村の婦人會の處女會の青年會のと引きつぎ引きつぎ初まる。レコオドコンサアト。オペラの出來損ひ。講演會。學藝會。追分會。おけさ會。プログラムは殆ど毎日を埋めて居る。
 七月に入るとお祭りが初まる。全島青年の競技會がある。
 十三日が相川町恩賜金記念日で町の有志の宴會が晝夜の二囘あるその翌日が鑛山祭です。
 鑛山で出來た町、鑛山で出來てゐる町、鑛山で食べてゐる町ですから、鑛山で東京の太神樂を招んで囃し立てるは勿論、町中の老若擧つて町中を踊つて歩くのです。唄はおけさ。島中の藝者が相川に集合して先頭となつて三味を引いて行く。それが幾組となく後から後から續く。太鼓、皷、笛、ブリキ鑵まで出る。馬車の喇叭まで出る。假裝のもの、印半纒のもの、浴衣のもの、多くは繰り拔いた窓のある編笠を目深にかぶつて。臨時の飮飯店が出來る。臨時の藝者の置屋が出來る。これが三日三晩續くのです。
 引續いて方方の盆踊がある。させ踊、稻扱踊、念佛踊、音頭踊。其他色色の踊があるやうです。
 昨年までは越後に面した村で男女の媾合に象たつ踊があつたさうです。
 私が始めて佐渡に渡つた時馬に蹴られましたが、佐渡の馬のよく蹴るのは、相川から南の峠を越した向ふの土地、相川の人の所謂ぜえ――在の意味です――の祭で馬の蹴合ひをやらすからだと聞きました。
 相川の北の海府では、最近までは男女共褌一つで踊つたさうです。男も女も六尺褌一つだつたさうですが、女だけは一方の腰にきれの餘をだらりと下げたさうですが、米の値の出た時から贅澤になつて着物を夏でも着るやうになつたのだと土地の人が聽かせてくれました。(以上十三年八月、東京で)





底本:「明星」「明星」發行所
   1924(大正13)年10月
初出:「明星」「明星」發行所
   1924(大正13)年10月
入力:江南長
校正:小林繁雄
2009年5月3日作成
2009年6月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について