佐渡が島を出て

江南文三




 足掛四年、丸二年半の佐渡の生活は、私を純粹の島男にしてしまひました。
佐渡に來ておけさをどりをせぬやつは木佛金佛石ぼとけなり
小佐渡來よ大佐渡も來よ文三とおけさをどりを共にをどらむ
 最後に親よりまして自分を慕つてくれる四十人あまりの青年と輪を作つて踊りました。
日本國どうなるとても佐渡が島おけさをどりて文三を待て
日本國どうなるとても文三はおけさをどりてまた歸り來む
 おけさと言ふ民謠はもともと新潟縣の出雲崎邊から佐渡に傳つたものらしいのですが、今では佐渡、佐渡のうちでも相川が本家のやうになつて居ります。相川の古いおけさ、小木の古いおけさ、新潟の新潟おけさと言ふのを年寄から聽きましたが、今の出雲崎おけさ及び柏崎おけさとよく似たものです。しかし町の人が酒も飮まずに歌ひ、それも一年中到る處でうたふのは佐渡の島うちでも相川だけでせう。私はおけさの譜を取つて見ましたが、その中佐渡のものだけで、それも極く粗い譜の取り方で節が二百近く集まりました。これが佐渡中の藝者の集まる鑛山祭をたつた二度しか見ない私の取つた節ですが、今後毎年鑛山祭を境として變つて行く節ですから、まだまだどの位新らしい節が出來るか分かりません。
 踊も昔から色色あつたらしいのですが、藝者踊や役者踊は宴會の席以外で藝者の顏を拜んだことのない野暮な私には覺えられませんので、大勢でする輪踊だけを覺えました。小佐渡が本家になつてゐる十六足踊、大佐渡が本家になつてゐるさし踊、このうち十六足の方は小木へ行かないと踊れない人が多いので、さし踊をよく踊りました。相川の人なら大抵の人は踊れるのですから愉快です。甚句の踊をやはらかにして手をぬいたもので、子供でも何でも踊れますから、野蠻人の私には一番氣に入りました。
 總べての人が知つてゐる歌をうたひ、すべての人の知つてゐる踊を踊るのは實際心持のいい事です。
大佐渡も小佐渡もかつて文三のおけさをどりしことを忘るな
 東京へ來ては駄目です。
都會人おけさを知らずあはれまるひとりをどりて何のかひかある
ああ都會しうとしうとめならびゐてわれにおけさを踊らざらしむ
古里かおけさをどりを知る人のあらざる里は旅にぞありける
手をうちてはやすものなしわれひとりいかで踊らむおけさをどりを
 時によると、
おけさふとうたはまほしくなりにけり佐渡の新平三味彈くらむか
 相川の南の峠一つ越したところに中山と言ふ村落があつて、そこに中山新平と言ふ三味線の大好な男がゐます。周囘五十三里の佐渡が島中に足跡到らぬ隈なく、到るところで飯を貰つてお祭を追つて歩いてゐます。三味線の音がすると軒下に立留まつて舌を脣の端から出してぢつと聽きとれてゐます。去年の相川祭のとき御輿を迎へる提灯を晝間早くから買つて手に持つてゐたのは私と此男と二人きりでした。途中で行き會つて大に共鳴した體で踊つてくれました。
先生としてはすこしく碌でなし人間としてあまりにかなし
文三がおけさをどりをせざる日の十日續けば空さへ曇る
佐渡の海鉛色なり文三のおけさをどらぬ日の重なれば
 或時はまた
佐渡一のやはらぎうたふおぢの來てうたをうたへばわれもうたひぬ
 やはらぎは相川の町の人も忘れてゐる昔の金掘うたです。四日か五日、鑛山に五十年勤めてゐると言ふおぢいさんに來て貰つて稽古しました。
 別れの踊ではあまり長く踊りぬいたのであとで目まひがしました。
泣きつらをごまかさむとて四十人一ときあまり共に踊れり
踊りうる原田なにとて輪に入らぬ泣きつらなせそわかるるきはに
輪に入りて踊らでひとり泣くもののある故足の亂るるにこそ
 全く狂亂の體で踊りました。
輪に入りて少しわすれし悲しさのをどり疲れにまた襲ひ來る
大佐渡も小佐渡もかつて文三のおけさをどりしことを忘るな
文三におけさをどりを教へたる佐渡はかなしきわがいもにして
おけさはや一人をどらじひとりして踊れば君の來てをどる故
おけさをどりひようげしをどり踊れども強情におはすわが思かな
おけさをどり君がつたへしものなれば人に傳ふることを難んず
君はただおけさをどりを教へけむわれはおぼえぬものおもふこと
わかるると言ふきはまではかくばかり思ふとわれをわれ知らざりき
手ぶり見でまなざしのみを見しわれのいつか覺えしおけさをどりぞ
今はただ心ゆくまで相川の濱にねそべりさて旅立たむ
 絶えずがらがらやかましく呶鳴りつけて、夜もろくろく眠らしてくれなかつた海は、立つ少し前には大人しくして居りました。
われにかはりかんしやくもちを發揮せし佐渡が海こそかなしかりけれ
家なき子また旅をせむ古里のごとく靜かに待ちてあれ佐渡
立ちわかれまた歸るべく思へどもおもへども命かぎりありけり
涙など面倒くさし此儘にいづくへなりとわれをもちされ
 相川を出るその朝から雨が降り出しまして、小木港で船待を五日しました。六日目は暴れのあとでしたけれどもうららかな日が照つて居りました。暴れのあとの斯う言ふ天氣をかしら日和と佐渡の船場で言つて居ります。
悲しみをひたにつつみて行くわれを柩に入れて船出せさせよ
わが佐渡よこひしき人ももろともに浪に沈むな船出するとき
佐渡の山こともなげなるおもてしてわれの船出を見送るものか
島にただひとりの君をのこしたるおもひをもちてわれ佐渡を去る
大佐渡と小佐渡とならびなかぞらを君がまなざし照らすその島
あなわびし都大路は路のべに小石のもてる喜を見ず
 赤玉や、青玉や、紫石英や、水晶を包んだ圓石を道普請に使つてゐる佐渡は、うなだれて歩かねばならない時にさへ、一人と言ふ感じがしませんでしたのに。      (一九二六年五月)





底本:「明星」「明星」發行所
   1926(大正15)年5月
初出:「明星」「明星」發行所
   1926(大正15)年5月
入力:江南長
校正:小林繁雄
2009年5月3日作成
2009年6月5日修正
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