尚白箚記

西周




 凡そ百科の學術に於ては、統一の觀有る事緊要たる可し。學術上に於て統一の觀立ては、人間の事業も緒に就き、社會の秩序も自ら定まるに至るべし。誠に人間各自の事業も緒に就きて、社會の秩序も定まり、苟も紊亂する事無れば、其結果は即康寧なる可し。是に努力(勉勵)の一元を加ふれば、其結果は家國天下の富強ぞかし。此康寧と富強との二元流行して、所謂生を養ひ死を喪し、人皆熈々として壽考の域に躋るは即福祉にして、福祉は人道の極功なり。故に福祉の極功に達せんと欲すれば、先百科の學術に於て統一の觀を立て、各自に其精微の極に臻る事より始まるなり。是學者分上の事業なり。其以上は作業者の事業にて、學者の事には非らず。然るに此學者分上の事業の中にも、統一の觀を立つると學術の精微を究むるとは亦分業の法二區の觀にて、一人の能く兼ね得る所に非らず。故に統一の觀を立つるは哲學家の論究す可き所と、學術の精微を究むるは各科の學術を專攻する者に存する也。
 墺居斯多オーゴスト坤度コント嘗て五學の模範を著はし、天上理學(天文學)、地上理學(格物學、化學)、生體學(バイオロジー)、社會學(ソシオロジー)と爲す。是現象の最概通單純なる者より最特別組織せる者まで、其理法の度に準じて定めたる者なれば、近世の諸名家も亦之を取れりと見ゆ。然れども余は未だ其生理と性理との相連結するの理趣を講明して、發見するの力に乏しければ、姑く心理と物理とを兩種と爲して之を説き、唯事業上に就きて其統轄隷屬する關係を説かんと
 心物兩理に分ちて説く前に、一口言ふ可き事有り。是理と言ふ辭の定義即理の本體なる者は如何と言ふ事也。其字は支那の古來よりの字にて、儒書は皆理を論じたる者也。中にも易の易象、易數の理など、中庸の中和の理、上天無聲無臭贊歎の理など、皆高妙なる理の説き法也。然れども理の字を用ゐたるは易の繋辭に「易簡而天下之理得」と説、卦に「窮理盡性以至于命」と二個所の用法並に孟子に「理義之悦我猶芻豢之悦我口」等にて、條理文理などの用法の外は多く見えず。唯宋儒以來は殊に此字を用うる事多く、理を解明する事も精密に至りたり。大學の補傳は易の字を取りて格物致知の義を説きたりと雖へども、宋儒の理の字の定義は是にて分明なり。元來説文の治玉の義にて、其れより脉理、條理、※[#「勝」の「力」に代えて「夭」、6-8]理、文理等に轉じ、其組織の整然條理有りて紊れざる事を指したる者なるを、又一轉して道理と云ふ尋常の觀念を徴する語と成り、今は此一字なれば專ら此觀念を示すなり。本邦の語にては「コトワリ」と訓ず。是「事分リ」または「言分リ」の義なる可く、孰れにても通ず。又「ハズ」と言ふ言有り。「發途」の漢語には非れども其意なり。矢のも同じ心にて、依りて以て處觀にては方向を定め、時觀にては遲速を定むる機の存する所を指すなり。故に機力發動を用言にて「ハヅム」と言ひ、其名言にて「ハヅミ」と言ふ。是發動力に因りて飛跳の勢を生ずるを言ふ。俗語の「來ル發途」「行ク發途」「言タ發途」「見タ發途」皆其初頭を證して後繼を兆する語也。又「ワケ」と云ふ言有り。此語は用言能動「ワクル」の轉用名言也。是理の體たる分解に供す可く、條分縷拆して始めて其因由の知る可きを以て也。俗語に「ワケガワカル」、「ワケガワカラヌ」と言ふ、皆理の分明不分明を指すなり。以上の三語とも習用にて稍異なる所有れども、皆理と云ふ觀念を徴したる語と知る可し。
 て理と云ふ辭、歐言にては的譯を見ず。其故にや、本邦從來の儒家は「西人未曾知理」(此語山陽先生の書後題跋に見ゆと覺ゆ、勿論當時は歐の學未だ開けざる故なり)と云へりと見ゆれど、是理を知らざるには非らず、指す所異なる也。蓋し歐洲近來の習にては、理を二つに言ひ分けたり。例すれば英語の「レーズン」、「ラウ・オブ・ネチュール」(「佛語は「リーゾン」、「ロワ・ド・ナチュール」、日語は「ヘルニュンフト」、「ナチュール・ゲゼッツ」、蘭語は「レィデン」、「ナチュールヱット」にて意義は皆同じ)の如し。「レーズン」は泛用にて道理と譯し、局用にて理性と譯す。此理性とは人性に具はる是非辨別の本源にて、所謂人の以て萬物に靈たる所以を指し、泛用の道理とは見解にもよ、決定にもよ、説にもよ、辨解にもよ、執りて以て其地を爲す者を指すなり。斯く字義を廣く用ゐたる時は、觀察上にも渉る者から、自ら天地の理にも及ぶ事有れども、人心にて是と定めたる者ならでは指さず。故に此理性道理と云ふ字義の内には、天理天道など云ふ意は含まぬ事と知る可し。て一方の「ネチュラル・ラウ」と云ふは、理法と譯す。直譯なれば天然法律の義なり。是牛董ニュートン氏重力の理法、夾波列爾ケプレル氏行星軌道の理法、慕徹ボーデー氏の行星軌道逼近の理法等の如き、皆人事に關せざる者を指し、人の發明に因るとは雖へども、人心の想像して定めたる理と異にして、客觀に屬する者なり。此外に又「プリンシプル」(英)、「プランシープ」(佛)、「プリンチップ」(日)、「ベギンセル」(蘭)、原始の義にて、元理と譯する辭有り。又主義などとも譯し、何にても本づく所を指せば、必理のみにも非れども、理の時は例すれば仁とか義とか云ふ如き元始と立つる理象を指す也。又此外に「アイデア」(英)、希臘根源の辭にて、本語「イデア」、拉丁も同じ。(佛)「イデー」、(日)「フオルステルンク」又「イデー」とも、(和蘭)「デンキベールド」。此語本見ルと云ふ語の變化にて、照影、照像の義よりして、何にても物體の印象の心に留存する者を指すを本義と爲し、それより一般の理會、想像をも指す事と成れり。此語は今觀念と譯す。是は理の字と餘り關渉無き樣に見ゆれど、深く宋儒の指す理と同一趣の理を徴する語と成れり。是猶下に委しく論ず可し。然れど、歐人は理を知らざる所から、理と指す中にも色々の區別ありて、一層緻密也と謂ふ可し。然れど宋儒の如く何もも天理と説きて、天地風雨の事より人倫上の事爲まで、皆一定不拔の天理存して、此れよりはづるれば皆天理に背くと定むるは、餘りに措大の見に過ぎたりと謂ふべし。茲よりては踈大なる錯謬に陷りて、の日月の蝕、旱魃、洪水の災も、人君の政治に關係せりと云ふ妄想を生ずるに至る可し。(古人斯く思ひしは、當時人智の度卑き者から、咎む可きに非らず。宋儒諸氏も未だ歐學を知らざる者と爲れば亦咎む可きに非ざれども、今人其説を執りて是也と思ふは、皷を鳴らして攻む可き列にありと。)而して彌果には、伊勢の神風若くは南無妙法の旗にて、蒙古の船艦を覆したりと臆斷するも已む可からざる事也。畢竟事物の細大と無く理に依る者に差異有るまじけれども、其理には先天あり、後天有り、勢に從ひて消長有り、本支有りて、一概に論ず可き者には非らざるをや。
 然るに世人又動も爲れば、理外の理有り、或は理はしかなりと雖へども事必ず理と一つに行はる可き者に非らずと信ずる者多し。此言たるや理を以て一種の者と見るより斯く謂へる事なれども、是所謂理を知る者に非ざる也。蓋理の體たる細大遺す所無く、所謂之を放てば六合に渉り、之を卷けば退いて密に藏まり、其大外無く、其小内無き者なり。苟も其物たる二つ有る以上は、其際に必ず理無き事能はず。唯吾人之を究め得ざる所有るのみ。所謂理外の理と云ふ者は常理を以て論ず可からざる者たるに外ならず。然れども現象有るか若しくは作用有れば、必ず之を生じ、之を起すの源由有らざる事無し。又理は然なりと雖へども事實に合はずと言ふも、吾人未だ其事實に合する丈の精密なる理を發見し得ざるが故也。苟も一旦之を發見し得れば其理必ず其事實に適合す可し。今二つの柑子有り。之を二兒に平分せんと欲する時は一つづつなる可し。然れども其分量、大小等を論ぜば猶其精を得たりと爲す可からず。故に之を秤※(「禾+爾」、第4水準2-83-10)して分つ時は、稍其精を得るに近かる可し。然れども其酸甘等の化學上の事は秤量にても平分す可きに非らず。苟も其術を發見し得るまでは眞の平分は難かる可し。蓋人心の理を知るは唯稍其常有る所と其踈大なる所とを知り得るのみ。其他知らざる所の理固より多し。其みづから知の至らざるを以て之を理外と、之を事實に合せざる者なりと言ふは、是理の至らざるに非らずして、我の至らざるなり。吾人固より理の一端を知れども、其全體を知る事能はざる事有り。假令ば宇宙の如き此寰宇と唱ふる丈は如何にも有れ、限極有る可らずとは心に推して知る所なれども、其如何なるに至りては毫も知るなきが如し。理も亦此の如く、苟も二物有る以上は細大遺す事無くして、一定必然の者たりと云ふ一端は知れども、其全體は知るに由無き也。此言の世人の惑を解くに足らん歟。(明治壬申三月稿)





底本:「西周哲學著作集」岩波書店
   1933(昭和8)年10月20日第1刷発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。
入力:岩澤秀紀
校正:フクポー
2018年2月25日作成
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●表記について

「勝」の「力」に代えて「夭」    6-8


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