書かでもの記

永井荷風





 身をせめて深く懺悔ざんげするといふにもあらず、唯臆面おくめんもなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴えつれきを語ると号し、或時は思出をつづるなんぞととなへて文を売り酒ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八しゃくはち吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地つきじへ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなほも古き机の抽斗ひきだしの底、雨漏る押入おしいれの片隅に、もしや歓場かんじょう二十年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書、さてはいづれお目もじの上とかく売女ばいじょが無心の手紙もあらばと、反古ほごさへ見ればの目鷹の目。かくては紙屑拾かみくずひろいもおそれをなすべし。
 つらつらここにわが売文の由来を顧みたずぬるにわれ始めて小説の単行本といふものいだせしはわが友巴山人はさんじん赤木君の経営せし美育社なり。数ふればはや十七年のむかしとなりぬ。巴山人は早稲田出身の文士にてさざなみ山人門下の秀才なりしが明治三十四年同門の黒田湖山こざん相図あいはか麹町三番町こううじまちさんばんちょう二七不動のほとりに居をかまへ文学書類の出版を企てき。その頃文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は紅葉こうよう露伴ろはんの門下たるにあらずんば殆どその述作をおおやけにするの道なかりしかば、義侠の巴山人奮然意を決してまづわれら木曜会の気勢を揚げしめんがためにを投じ美育社なるものを興し月刊雑誌『饒舌じょうぜつ』を発行したり。『饒舌』は寸鉄かへつて人を殺すに足るとて三十二頁の小冊子とし、黒田湖山主筆となりて毎号巻頭に時事評論を執筆し生田葵山いくたきざんとわれとは小説を掲げ西村渚山にしむらしょざんは泰西名著の翻訳を金子紫草かねこしそうは海外文芸消息を井上唖々いのうえああは俳句と随筆とを出しぬ。これと共に美育社は青年小説叢書と題してまづ生田葵山の小説『自由結婚』次に余の拙著『野心』西村渚山の『小間使こまづかい』黒田湖山の『大学攻撃』等を出版し、また星野麦人ほしのばくじんをして『古今ここん俳句大観』四巻を編纂せしめき。翌年美育社ますます業務を拡張し神楽坂上寺町通かぐらざかうえてらまちどおりに書籍雑誌の売捌店うりさばきてんをも出せしが突然社主赤木君故ありてその郷里に帰らざるべからざるに及び、惜しいかな事皆中絶するに至りぬ。雑誌『饒舌』は湖山一人いちにんの手に残りて『ハイカラ』と改題せられしが気焔また既往のごとくなるあたはず幾何いくばくならずして廃刊しき。
 これよりさき生田葵山書肆しょし大学館と相知る。主人岩崎氏を説いて文学雑誌『活文壇かつぶんだん』を発行せしめ、井上唖々と共に編輯へんしゅうのことをつかさどりぬ。『活文壇』は木曜会同人どうじんの作を発表するのかたわらひろく青年投書家の投書を歓迎して販売部数を多からしめんことを試みたり。然れども当時この種の投書雑誌には小島烏水こじまうすい子の『文庫』、田口掬汀たぐちきくてい氏の『新声』とうその勢力はなはだ盛なるあり。新刊の『活文壇』は再三上野三宜亭さんぎていに誌友懇談会を開き投書家を招待し木曜会の文士※(二の字点、1-2-22)こもごも文芸の講演を試むる等甚つとむる処ありしが、書肆しょし早くも月々の損失に驚き文学をうとんじて赤本あかほんを迎へんとするに至つて『活文壇』は忽ち廃刊となりき。
 ここに本町一丁目の金港堂きんこうどう明治三十五年の頃突然文学婦人少年等の諸雑誌ならびに小説書類の出版を広告して世の耳目じもくを驚かせしことあり。金港堂といへば人に知られし教科書々類の版元はんもとなり。この書肆の資金を以て文芸その他諸雑誌の発行に着手せんかこれまで独天下ひとりてんかの春陽堂博文館ともどもに顔色がんしょくなからんとわれひと共に第一号の発刊を待ちかねたり。やがて現はれたるものを見れば文学雑誌はその名を『文芸界』と称し佐々醒雪さっさせいせつを主筆に平尾ひらお不孤ふこ草村くさむら北星ほくせい斎藤さいとう弔花ちょうかの諸子を編輯員とし巻首にはたしか広津柳浪ひろつりゅうろう泉鏡花いずみきょうからの新作を掲げたり。されどこれらの新作さして評壇の問題とならず雑誌はまたいたずらに尨大なるのみにて一貫せる主張といふものなく甚締りなしとの非難ありき。されば従来の『文芸倶楽部』と『新小説』、依然として一は通俗的に一は専門的なる本来の面目を把持はじして長く雑誌界に覇をとなへ得たり。
 金港堂の『文芸界』は第一号の発刊と共に賞を懸けて長篇小説を募集しぬ。敢て選者の名をおおやけにせざりしかど醒雪子以下同誌編輯の諸子なりしや明なり。余が『地獄の花』とよべるいかがはしき拙作はこの懸賞に応募したるもの。選に入ることあたはざりしが編輯諸子の認むる所となり単行本として出版せらるるの光栄を得たるなり。原稿料この時七十五円なりき。さてこの折選に入りしもの一等に米光関月よねみつかんげつの『千石岩せんごくいわ』二等に斎藤渓舟さいとうけいしゅうの『残菊ざんぎく』、田口掬汀の某作等ありしと記憶す。これらの作家皆功成り名遂げて早くも文壇を去りしに、思へばわれのみ唯一人今に浮身を衆毀しゅうきちまたにやつす。哀むに堪へたりといふべし。
 懸賞小説といへばその以前より毎週『万朝報よろずちょうほう』の募集せし短篇小説に余も二、三度味をしめたる事あり。選者は松居松葉まついしょうよう子なりしともいひまた故人斎藤緑雨さいとうりょくうなりしといふものもありき。応募者には知名の大家折々小遣取こづかいとりにいたづらするもの多かりし由。当時懸賞小説さまざまありしがなかに『万朝報』の短篇最もすぐれたるを見ればかかる噂もまんざらの根なしごとにはあらざりしが如し。
 金港堂より単行本出せし後はどうやらかうやらわれも新進作家の列に数へ入れらるるやうになりぬ。たしか明治三十六年の春なりしと覚ゆ。新俳優伊井蓉峰いいようほう小島文衛こじまふみえの一座市村座いちむらざにて近松ちかまつが『寿門松ねびきのかどまつ』を一番目に鴎外先生の詩劇『両浦島ふたりうらしま』を中幕なかまくに紅葉山人が『夏小袖なつこそで』を大喜利おおぎりに据ゑたる事あり。またこの一座この度の興行にはわれらの知友たりし畠山古瓶はたけやまこへいといへる早稲田出身の文士、伊井の弟子となり初めて舞台へ出づべしといふに、いささか気勢を添へんものと或日風葉ふうよう葵山きざん活東かっとうの諸子と共に、おのれも市村座に赴きぬ。あたかもしその日は与謝野鉄幹よさのてっかん子を中心とせる明星みょうじょう派の人々『両浦島』を喝采かっさいせんとて土間桟敷に集れるあり。幕いよいよ明かんとする時畠山古瓶以前は髯むぢやの男なりしを綺麗に剃りて羽織袴はおりはかまの様子よく幕外に出でうやうやしく伊井一座この度鴎外先生の新作狂言上場じょうじょうゆるしを得たる光栄を述べき。一幕二場演じをはりてやがて再び幕となりし時、わがかたわらにありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森先生なれ、いで紹介すべしとて、わが驚きうろたへるをも構はずわれを引き行きぬ。われ森先生の謦咳けいがいに接せしはこの時を以て始めとす。先生はわれをかえりみ微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言はれき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし。いまだ電車なき世なりしかどそのわれは一人下谷したやよりお茶の水の流にそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず楽しき未来の夢さまざま心のうちにゑがきつつ歩みて家に帰りぬ。
 かくて『文芸界』をはじめ『新小説』『文芸倶楽部』なぞに原稿を持ち行きても三度に一度はしぶしぶながら買つてくれるやうになりぬ。されど原稿は三月半年と買はれたるままおおやけにせられざれば、売名にのみ心あせるものの長くふべき所ならず。ここに詩人蒲原有明かんばらありあけ子新声社の主人と相知れるよしを聞き子を介して新声社におもむき『夢の女』と題せし一作三百枚ほど持てあましたるものをば原稿料は無用なればとて、ここに再び単行本一冊を出版したり。新声社はすなわちいまの新潮社が前名にて当時は神田錦町かんだにしきちょう区役所の横手にささやかなる店をかまへゐたり。この一書さして版元の損にもならざりしと見えつづいて『女優ナナ』の出版にこたびは原稿料三拾円を得たり。これ明治三十六年初夏のことにてその年の秋虫の声やうやく繁くなり行く頃われはふと亜米利加アメリカに渡りぬ。
 わが売文のむかしがたりのうちここに書漏かきもらせしはやまと新聞社に雇はれ雑報とつづきもの書きて月々拾弐円を得しことなり。そは明治三十四年なりしと覚ゆ松下某といふ人やまと新聞社を買取り桜痴居士おうちこじを主筆に迎へしよりその高弟榎本破笠えのもとはりゅう従つて入社しおのれもまた驥尾きびに附しけるなり。その時まで一年ほどわれは既に人にも語りし如く桜痴居士の門弟となり歌舞伎座にて拍子木打ちてゐたりしが、今の歌右衛門うたえもん福助より芝翫しかんに改名の折から小紋こもん羽織はおり貰ひたるを名残りとして楽屋を去り新聞記者とはなりぬ。過ぎしことなれば身の耻語りついでに語り出せば楽屋通ひよりまたまた二、三年前のことなり。われ講釈と落語に新しき演劇風の朗読を交へ人情咄にんじょうばなしに一新機軸をいださんとの野心を抱き、その頃朝寝坊むらくと名乗りし三遊派の落語家の弟子となりし事もあり。当今都下の席亭にむらくと看板かかぐるものはその頃の人とは同じからずといふ。
 余のやまと新聞社にりし時三面雑報欄を受持ゐたるは採菊山人さいぎくさんじん岡本綺堂おかもときどう子なりき。採菊山人はすなわち山々亭有人さんさんていありんどにして仮名垣魯文かながきろぶんの歿後われら後学の徒をして明治の世に江戸戯作者の風貌を窺知うかがいしらしめしもの実にこの翁一人いちにんありしのみ。さればわれ日々にちにち編輯局に机を連ねて親しくこの翁の教を受け得たる事今にして思へばまことに涙こぼるる次第なり。岡本綺堂子はその頃しきりにユーゴー、ヂュマなぞの伝奇小説を読まれゐたり。子は半蔵門外に居を構へおのれは一番町なる父のいえに住みければ新聞社の帰途堀端を共に語りつつ歩みたる事度々なりき。子はその頃よりはなはだ謹厳寡言かげんの人なりき。
 日比谷ひびやには公園いまだ成らず銀座通ぎんざどおりには鉄道馬車の往復ゆききせし頃尾張町おわりちょう四角よつかど今ライオン珈琲店コーヒーてんあるあたりには朝野ちょうや新聞中央新聞毎日新聞なぞありけり。やまと新聞社は銀座一丁目の横町いま見る建物なりしかば、表通岩谷天狗いわやてんぐの煙草店に雇われたる妙齢の女店員おんなてんいんいつもこの横町に集りて蹴出けだしあらはにしてしきりに自転車の稽古するさま折々目の保養となりしも既に過ぎし世のこととぞなりぬる。女の自転車と馬乗りとはその頃の流行なりしにや吉原品川楼よしわらしながわろうかかえ和鞍わぐらに乗りての遊山ゆさんまた新橋芸者しんばしげいしゃが自転車つらねて花見に出かけし噂なぞかしましき事ありけり。
 さてわが新聞記者たりしもわづか半年はんとしばかり社員淘汰のためとやらにて突然解雇の知らせを得たり。わが記者たりし時世に起りし事件にていまに記憶するは星亨ほしとおる刺客せっかくに害せられし事と清元きよもとようの失せたりし事との二つのみ。新聞記者をやめたる後は再びもとの如く歌舞伎座の楽屋にらん事をこいねがひしかど敬してとおざけらるるが如くなりしかばここに意を決し志を改めて仏蘭西フランス語稽古にと暁星ぎょうせい学校の夜学に通ひ始めぬ。巴山湖山両子の美育社を興せしはあたかもこの年の秋なれば話の順序ここにて初めに立戻るものと知るべし。
『あめりか物語』は明治四十年紐育ニュウヨウクより仏蘭西に渡りし年の冬里昂リオン市ヴァンドオムまちのいぶせき下宿屋にて草稿をとりまとめ序文並に挿絵にすべき絵葉書をも取揃へ市立美術館の此方こなたなる郵便局より書留小包にして小波さざなみ先生のもとに送り出版のことを依頼したるなり。この稿料いかほどなりしか記憶せず。翌年よくねん秋帰国せし時『あめりか物語』は既にいちに出でゐたりき。われはただちに仏蘭西滞在中及び帰航の船中にものせし草稿を訂正し『ふらんす物語』と名づけ前著出版の関係よりしてはるるままに再び博文館より出版せしめしが忽ち発売禁止のやくに会ひてこれより出版書肆との談判はなはだ面倒になりけり。わがかたにては最初出版契約の際受取りたる原稿料金百弐拾五円を返済すべしと申送りしを博文館にてはそれだけにてはこの損失はつぐなひがたし出版契約書の第何条とやらに原稿につきて不都合のことあり発行者に迷惑をおよぼしたる時は著作者はその責任を負ふべきむね明記しあれば既に御承知のはずなりと手強てごわく申出で容易に譲らざる模様なればわれはこの喧嘩相手甚よろしからずと思ひそのまま打捨て如何様いかよう申来もうしきたるも一切返事せざりき。わがの玄関には毎日のやうに無性髯ぶしょうひげそらぬ洋服の男来りて高声こうせいに面会を求めさうさう留守をつかふならばやむをえぬ故法律問題にするなどと持前もちまえのおどし文句をならべて帰るなぞ言語道断ごんごどうだんの振舞度々なりき。博文館編輯局にはその折木曜会の知友多かりき。小波先生はすなわち編輯総長の椅子にあり。『太陽』には浅田空花あさだくうか子『中学世界』には西村渚山人にしむらしょさんじん『文芸倶楽部』には思案外史石橋しあんがいしいしばしおのおのその主筆なりき。これらの人々と会合せし折博文館の文士に対するはなはだ礼なき事を語りしに、出版課に雇はれゐるものは皆かくの如し物のわかるものは一人もなければ打ちすて置きて心に留めたまはぬがよしといふ。かくて『ふらんす物語』損害賠償の談判は八年に渡りて落着せず大正五年籾山もみやま書店『荷風傑作鈔』なるものを出版し該書がいしょの一部を採録するに至り重ねて懸合かけあい面倒とはなりけり。かの薄気味わるき博文館使用人は再び頻々ひんぴんとしてわが玄関に来りて文句をならぶ。不愉快いふばかりもなし。さすがの余も遂に譲歩してここに旧著に類似したる『新ふらんす物語』なるものの編纂と出版発売を黙許しその代りとして旧著の版権を著者の方へ取り戻すこととなしぬ。されば過般博文館より発売せし『新ふらんす物語』なるものの芸術並に文学上の責任に至つてはごうも原著者のあずかり知る所にあらず。かの一書は実に原著者の意志に反して出版せられたるものなりかし。この事ありてより余は書肆しょしを恐れ憎むこと蛇蝎だかつの如くなりぬ。今の世士農工商の階級既に存せずといへども利のために人の道を顧みざる商賈しょうこやからは全く人の最下に位せしめて然るべきなり。
 毎朝勝手口に御用ききに来る出入商人始めはいかにも正直らしく見せ掛け次第々々に品物を落して不正の利をむさぼるを常とす、米屋酒屋薪屋皆然らざるはなし。書肆の月刊雑誌を発行するや最初は何事も唯々諾々いいだくだく主筆のいふ処に従ふといへども号を追ふに従つてあたかも女房の小うるさく物をねだるが如く機を見折を窺ひまずたゆまず内容を俗にして利を得ん事のみ図る。理想は文士の生命にして利は商人の生命よりも首よりも更に大事とする所なり。両者到底水火相容るるものにあらざるはけだしやむをえざるなり。
 わが著書のその筋より発売を禁止せられしもの『ふらんす物語』についで『歓楽』と題せし短篇集あり。後にまた『夏姿』といふものあり。『歓楽』の一篇は初め『新小説』に掲載せし折には何事もなかりし故その頃飯田町いいだまち六丁目に店を持ちたる易風社えきふうしゃの主人にはるるままその他の小篇と合せて一巻となし出版せしめたるに忽ち発売禁止となりぬ。易風社はその以前謝礼として壱百円を贈り来りしが発売禁止となるも博文館の如く無法なる談判をなさざる故わが方にても重々じゅうじゅう気の毒になりいそぎ『荷風集』一巻の原稿をつぐなひとして送りけり。この著さいわいにして版を重ねき。易風社店を閉ぢし時籾山書店『歓楽』の紙型を買取り店員某の名儀を以て再びこれを出版す。然る処この度は何の御咎おとがめもなく今に至つてなほ販売せりといふ。
『夏すがた』の一作は『三田文学』大正四年正月号に掲載せんとて書きたるものなりしが稿成るの後みずから読み返し見るにところどころいかがにやと首をひねるべき箇所あるによりそのまま発表する事を中止したりしを籾山書店これを聞知り是非にも小本こぼんに仕立てて出版したしと再三店員を差遣されたればわれもその当時ははなはだ眤懇じっこんの間柄むげにもそのこい退しりぞけかね草稿を渡しけり。然れどもその折出版届にわが名はすまじ万一の事ありても当方にては一切責任を負はざればその辺よくよく御承知あれと念に念を押してやりけり。果せるかなこの小冊子発売禁止となりしのみか、籾山書店はその筋へ始末書を取られ厳しきお叱を蒙りけり。籾山書店今に折々人に語りて永井さんのおかげでは度々ひどい目に逢ひますと。かくては罪まつたく作者にあるが如し。
 寛政のむかし山東庵京伝さんとうあんきょうでん洒落本しゃれぼんをかきて手鎖てぐさりはめられしは、板元はんもと蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうふれにかまはず利を得んとて京伝にすすめて筆を執らしめしがためなりといひ伝ふ。とかくに作者あまり板元と懇意になるは間違のもとなり。
伊波伝毛乃記いわでものき』といふものあり。これ曲亭馬琴きょくていばきんあんに人をそしりておのれをたこうせんがために書きたるものなりとか。おのれがこの『嘉加伝毛乃記かかでものき』いささか名は似たれどもゆめゆめさる不都合の下心あるにあらず。書かでもよきこと書くは唯いつもの筆くせとしかいふ。


 このごろ雑誌『新潮』の記者見るにも足らぬわが著作をりこれをもといとして余が文学年表なるものを編輯し該誌上がいしじょうに掲載すべければとて過ぎし日のことどもさまざま問合せ来りぬ。これによりて日頃は全く忘れ果てたりし事どもここに再び思浮ぶる節々多くなりぬ。
 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、『すだれの月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町うしごめやらいちょうなる広津柳浪ひろつりゅうろう先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしがひとばしなる校舎におもむく日とてはまれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席よせを見歩きたまさかいえにあれば小説俳句漢詩狂歌のたわむれに耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念ようやく押へがたくなりければ遂に何人なんびとの紹介をもたず一日いちにち突然広津先生の寓居ぐうきょを尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしはあらかじめ電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中いまどしんじゅう』、『黒蜥蜴くろとかげ』、『河内屋かわちや』、『亀さん』とうの諸作は余の愛読してあたはざりしものにして余は当時紅葉こうよう眉山びざん露伴ろはん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂かぐらざかを上りて寺町通てらまちどおりをまつすぐに行く事数町すうちょうにして左へ曲りたる細き横町よこちょうの右側、格子戸造こうしどづくり平家ひらやにてたしか門構もんがまえはなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木すくなからず手水鉢ちょうずばちの鉢前には梅の古木の形面白くわだかまりたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人長谷川濤涯はせがわとうがい机を置きぬ。)それより四枚立まいだてふすまを境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。とこには遊女の立姿たちすがたかきし墨絵の一幅いっぷくいつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張いっかんばりの極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳のとの境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生へいぜい物に頓着とんじゃくせず襟懐きんかい常に洒々落々しゃしゃらくらくたりしを知るに足るべし。
 初めて余のおそるおそる格子戸けて案内を乞ひし時やや暫くにして出できたられしは鼻下にひげたくわへし四十年配のまなこ大きく色浅黒き人なりき。その様子その年配正しくこの主人あるじらしく見ゆるにぞ、この人こそわが崇拝する『今戸心中』の作者なるべけれと思へば、にわかにをののく胸押静め、漸くに名刺差出し突然ながら先生にお目にかかりたき由言出いいいでしに髭ある先生らしき人は訳もなく主人あるじは唯今不在なれば帰宅次第そのおもむき申伝ふべしといはるるに我は是非なくさらば明朝また御邪魔にお伺ひ致すべしとそのまま格子戸を立去りしが、どうも今の人が柳浪先生らしき気がしてならぬ故そつと建仁寺垣けんにんじがきれ目より庭越しに内の様子を窺へば、残暑なほ去りやらぬ九月の夕暮とて障子しょうじけ放ちし座敷の縁先えんさき、かの髭ある人は煙草盆引寄せ悠々ゆうゆうとして煙草のみつつ夕風さそふ庭打眺めつ。さてはわが想像にたがはざりけり。何人なんびとの紹介状をも持参せず突然たづね行きける故主人自ら立出でしまま不在といひて謝絶せしなるべし。かくてはわが熱心の先生に通ぜん日まで幾度いくたびとなく尋ね行くより外に道なしと翌日の夕暮再び案内を乞ひしにこの度は女中らしきおうな取次に出でてただち此方こなたへと奥の間に通されぬ。見れば床の間の前なる一閑張の机に物書きゐる人あり筆をきて此方に向直むきなおらるるに、昨日きのう取次に立出でられし人に瓜二つともいふべきほどよく似たれども、近く対座して重ねてよくよく見れば年も少しく若く身体からだつきもまたすこし痩せたる別人なり。後日に至りて先生の話に聞けば取次に出でし人は先生の令兄れいけいにて日頃地方を旅行せらるる肖像画家なりとの事なりき。
 さてそのゆうべわれは是非にも門人となりたき由懇願せしに先生なかなか承知したまはず、小説家なぞにならんと思立つはだいなる心得違なり、君今学業を放擲ほうてきしてかかる邪道に踏み迷はば他日必ず後悔ほぞをかむ事あらん文筆を好まば唯正業の余暇これをなして可なりかつはまたわれは尾崎や川上とは異なりてかの人々の如く多く門生を養ひ教ふるのはんへざるものなり、今までも度々人に頼み込まれし事あれど皆ことわりぬ。されば到底貴下の満足する如く丁寧に教ふる事はかなひがたかるべし。もしそれにてもよければやむをえざる故唯折々いとまあらん時遊びにきたられよ。我もまたいそがしからずば君が草稿の字句仮名遣かなづかいの誤ぐらゐは正すことを得べしといはれけり。わがよろこび誠に筆紙のつくすべき処ならず幾重いくえにもよろしくとてその日は携へ来りし草稿『すだれの月』一篇を差置きもぢもぢして帰りけり。
 柳浪先生の繍眼児めじろを飼ひて楽しみとせられしはあたかも余の始めて先生を見たりしその頃より始まりしなり。最初『簾の月』一篇を置きて帰りし折には胸のみとどろきし故にや小鳥の籠の有無うむには更に心もつかざりしが、その後重ねて教を乞ひにと行く度々鳥籠は一ツ二ツときたりてその年の冬には六畳の間の片隅一間の壁に添ひて繍眼児の籠はさながら鳥屋の店の如く積重ねらるる事二、三段にも及びやがて鶯の籠さへかの墨絵の遊女が一幅かけたる薄暗き床の間に二ツまで据ゑ置かれぬ。先生がその内相ないしょうを失はれたるはこの前年なりしといふ。されば守るにその人なき家の内何となく物淋しく先生独り令息俊郎としお和郎かずおの両君と静に小鳥を飼ひてたのしみとせられしさまいかにも文学者らしく見えて一際ひときわわれをして景仰けいこうの念を深からしめしなり。それより後明治三十六年に及びてわれ亜米利加アメリカに渡らんとするの時暇乞いとまごひに赴きし折には先生は麻布龍土町あざぶりゅうどちょうきょを移され既に二度目の夫人を迎へられたりき。
 先生が矢来町の閑居には小鳥と共に門人もまた加はり来りぬ。最初に長谷川濤涯君次に中村春雨なかむらしゅんう君また女流の作家にてその名失念したれど妙齢の人代る代るかの六畳の間に机を据ゑたり。余は一番町いちばんちょうなる父の家より一週に一、二度は欠かさず草稿を携へて通ふ中やや読むに足るべきもの二、三篇先生の添刪てんさくを経たる後博文館または春陽堂の編輯局に送られき。これと共にわれはまた川上眉山、小栗風葉、徳田秋声等の諸先輩折々矢来の閑居にきたるを見ておのづから辱友じょくゆうとなることを得るに至れり。かくて明治三十二年七月わが小説『薄衣うすごろも』と題せし一篇柳浪先生合作の名義にて初めて『文芸倶楽部』の誌上に掲げられたり。当時文壇に勢力ある雑誌はいづれも新作家が作を掲ぐる事を好まざりしよりかくは先生の許を得てその名を借用せしなり。この年朝日新聞記者栗島狭衣くりしまさごろも牛込下宮比町うしごめしもみやびちょうの寓居に俳人谷活東たにかっとう子と携提けいていして文学雑誌『伽羅文庫きゃらぶんこ』なるものを発行せんとするや矢来に来りて先生の新作を請へり。時に先生筆硯ひっけんはなはだ多忙なりしがため余に題材を口授こうじゅにわかに短篇一章を作らしむ。この作『夕蝉ゆうせみ』と題せられふたたび合作の署名にて同誌第一号に掲げられぬ。『伽羅文庫』は二号を出すに及ばずして廃刊しき。
 その頃わが一番町の書斎に大山吾童おおやまごどうとよぶ人しばしば遊びに来りぬ。当時尺八の名人荒木竹翁あらきちくおうの門人にて吾童といふはその芸名なり。余もまた久しく浅草代地あさくさだいちなる竹翁の家また神田美土代町かんだみとしろちょうなる福城可童ふくしろかどうのもとに通ひたる事あり度々『鹿しか遠音とおね』『月の曲』なぞ吹合せしよりいつとなく懇意になりしなり。この人生れてより下二番町しもにばんちょうに住み巌谷小波いわやさざなみ先生の門人とは近隣のよしみにて自然と相識あいしれるがうちにも取りわけ羅臥雲らがうんとて清人しんじんにて日本の文章俳句をよくするものと親しかりければ互に往来する中われもまた羅君と語をまじえるやうになりぬ。羅氏俳号を蘇山人そさんじんと称す。大清だいしん公使館通訳官浙江せっこうの人羅庚齢らこうれいの長子なり。この人或日の夕元園町もとぞのちょうなる小波先生の邸宅に文学研究会あり木曜日の夜湖山こざん葵山きざん南岳なんがく新兵衛しんべえなんぞ呼ぶ門人多く相集まれば君も行きて見ずやとてわれを伴ひ行きぬ。これ余の始めて木曜会におもむきしいはれなり。木曜会の事はここにいはずとも既にその主人が手記せるもの『こまのいななき』といふ書の中に掲げられたれば就きてるこそよけれ。


 乙羽いつう庵主人大橋氏きてのち『文芸倶楽部』の主筆に三宅青軒みやけせいけんといふ小説家ありけり。日頃人に向ひて『文芸倶楽部』はわれを戴きて主筆とせしよりたちまち発行部数三、四万をこゆるに至れりと誇顔ほこりがおに語るを常としき。また人の文学を談ずる事あれば当今小説家と称するもの枚挙にいとまあらざれど真に文章をよくするものに至つてはもし向島むこうじま露伴ろはん子をきなば恐らくは我右にいづるものあらざるべしと傍若無人ぼうじゃくぶじんしきりに豪語を放ちて自ら高うせしかば新進気鋭の作家一人として青軒を憎まぬものはなかりけり。されど『文芸倶楽部』によりてその作を発表せんには是非にも主筆の知遇を待たざるべからずとて怒を忍び辞を低うして虎の門そとなるその家をふものもすくなからず。一日いちにちおのれも菓子折に生田葵山いくたきざん君の紹介状を添へ井上唖々いのうえああ子と打連れ立ちて行きぬ。日頃噂に聞く大家の事なれば最初はまづ門前払なるべしと内々覚悟せしにわけもなく二階の書斎に通され君らは巌谷の門生なりとか。これまでに何か書きたる事ありやと話は容易たやすく先方より切出されぬ。唖々子はその頃しきりに斎藤緑雨が文をよろこび雅号を破垣花守やれがきはなもりと称ししばしば緑雨が『おぼえ帳』に似たるものを作りゐたり。このも一文を懐中にせしままおそるおそる取出とりいだして閲覧を請ひけるに青軒子仔細らしく打見て墨を濃く摺り書体を叮嚀ていねいに書かるるは若き人に似ず感心なりとそれよりそろそろ世の新進作家なるものの生意気なる事をさまざま口ぎたなく痛罵したる後君たち文章を書かんと思はば何はさて置き漢文をよく読み給ふべしそれも韓柳かんりゅうの文のみにて足れりといふにあらず艶史えんし小説のたぐい殊に必要なり。されば支那小説の事に関してはわれもまた露伴子と共に決して人後に落つるものならずと言ふ。唖々子はかつて文学博士島田篁村しまだこうそん翁の家塾にあり漢学の素養浅からざるの人。おのれもまたいはゆる門前の小僧習はざれども父よりききかじりたる事なきにあらざりしかば問はるるがままにいささか答ふる処ありしにぞおおいに青軒翁の信用を博しその携へ行きける我が原稿は唖々子のものと共に即座に『文芸倶楽部』誌上に掲載の快諾を得たりき。
 この青軒先生こそはやがてわれをば桜痴おうち居士福地ふくち先生に紹介の労を取られし人にてありけれ。されどこのたびの訪問は初めて硯友社けんゆうしゃの諸先輩を歴訪せし時とは異りて容易に望を遂ぐる事能はざりけり。福地先生のていはその時合引橋あいびきばし手前木挽町こびきちょう河岸通かしどおりにて五世音羽屋ごせいおとわや宅の並びにてありき。一番町のわがよりかしこまでは電車なければかなりの遠路なりしを歩み歩みて朝八時頃われは先生が外出したまはざる前をと思ひて三、四度、また夕刻帰邸の時分をはかりて五、六回、先づ青軒翁が紹介状を呈出し面談のえいを得ん事を請願せしが、或時は不在或時は多忙或時は不例ふれい或時は来客中とばかりにて遂に望の叶ふべき模様もなかりけり。さすがの我もいささか疲労しかつはまたこの上ひんには礼を失するに至らん事をおそれせめてわが芝居道熱心の微衷びちゅうをだに開陳し置かばまた何かの折宿望を達するよすがにもなるべしと長々しき論文一篇を草しそつと玄関の敷台に差置きて立ち去りぬ。やがて半月あまりを経たりしに突然福地家の執事榎本破笠えのもとはりゅう子よりかねて先生への御用談一応小生よりうけたまわおくべしとの事につき御来車ありたしとの書面に接し即刻番地を目当に同じく木挽町の河岸通なる破笠子が寓居に赴きぬ。これ明治三十三年わが二十二歳の夏なりき。
 さて破笠子はおのれが歌舞伎座作者部屋に入り芝居道実地の修業したき心底とくと聞取りし後ともに出でて福地家に至り勝手口より上りてやや暫くわれをば一間ひとまに控へさせけるがやがてこなたへとて先生の書斎と覚しき座敷へ導きぬ。川風凉しき夏の夕暮は燈火とうか正に点ぜられし時なり。福地先生は風呂より上りし所と見えて平袖中形牡丹ひらそでちゅうがたぼたん浴衣ゆかた縮緬ちりめん兵児帯へこおびを前にて結びだいなる革蒲団の上に座しおもむろに銀のべの煙管キセルにて煙草のみてをられけり。破笠子はうやうやしく手をつき敷居際しきいぎわよりやや進みたる処に座を占めければ伴はれしわれはまた一段下りて僅に膝を敷居の上に置き得しのみ。破笠子の口添を待ちわれは今夕こんせきはからず拝顔の望を達し面目めんもくこの上なき旨申述ぶる中にも万一先生よりわが学歴その他の事につきて親しく問はるることあらば何と答へんかなぞさながら警察署へ鑑札受けに行きし芸者の如く独り胸のみ痛めけるが、先生は更にわがかたには見向きもしたまはず破笠子を相手に今朝こんちょう巴里パリー川上かわかみ(壮士役者音二郎が事なり)より新聞を郵送しきたれりとて巴里劇界の消息を語出かたりいだされぬ。かくて三十分ばかりにて我は再び破笠子に伴はれ福地家を辞して帰りしがそれより三、四日にして歌舞伎座盆興行の稽古となるやわれはここに榎本氏請人うけにんにて歌舞伎座へ証文を入れいよいよ梨園りえんの人とぞなりける。証書の文言もんごん左の如し。
一 私儀わたくしぎ狂言作者志望につき福地先生門生もんせい相成あいなり貴座きざ楽屋へ出入被差許候上者でいりさしゆるされそうろううえは劇道の秘事楽屋一切の密事決而けっして口外致間敷いたすまじく依而よって後日ごじつのため一札如件いっさつくだんのごとし
 歌舞伎座稽古は後々のちのちまで三階運動場を使用するが例なり。稽古にかかる前破笠子より葉書にて作者部屋のものを呼集め手分てわけなして書抜かきぬきをかく。当日われは破笠子より作者の面々に引合されつづいて翌日本読ほんよみにと先生出勤の折には親しく皆のものへよろしく頼むとの一言いちごんこれまことに御前ごぜんの御声掛りにして作者の面々おのずからわれをば格別の客分たらしめんとするにぞわれは破笠子にはかりて客分の待遇は小生の願ふ所にあらず旦那芸はかへつてはなはだしき耻辱なれば何卒なにとぞ楽屋古来の慣例に従ひ寸毫の遠慮なく使役せられん事をうて止まざりしかば破笠子さればとて重ねて先生へ申上げわれをば竹柴七造たけしばしちぞうといふ作者の預弟子あずけでしとなしこの人より楽屋万端の心得拍子木ひょうしぎの入れ方など見習ふ事となしぬ。時に歌舞伎座作者部屋には榎本氏を除きて四人の作者あり。竹柴七造竹柴清吉たけしばせいきち黙阿弥もくあみ翁の直弟子じきでしにて一は成田屋づき一は音羽屋付の狂言方きょうげんかたとておも団菊だんきく両優の狂言幕明まくあき幕切まくぎれを受持つなり。他に竹柴賢二たけしばけんじ浜真砂助はままさすけといふ作者ありき。賢二といへるは寺内河竹新七じないかわたけしんしちの弟子なればなほ血気盛けっきざかりの年頃なりしが真砂助は先代瀬川如皐せがわじょこうの弟子とやらよほどの高齢なるに寒中も帽子をかぶらず尻端折しりはしょりにて向脛むこうずねを出し半合羽はんがっぱ日和下駄ひよりげたにて浅草山あさくさやま宿辺しゅくへん住居すまいより木挽町楽屋へ通ひ衣裳かつら大小だいしょうの道具帳を書きまた番附表看板とうの下絵を綺麗に書く。この老人猿若町三座表飾さるわかまちさんざおもてかざりの事なぞくわしく知りゐたり。
 さてわが始めて劇部の人となり親しく稽古を見たりし盆興行は団菊両優は休みにて秀調しゅうちょう染五郎そめごろう家橘かきつ栄三郎えいざぶろう松助まつすけら一座にて一番目は染五郎の『景清かげきよ中幕なかまくは福地先生新作長唄所作事しょさごと女弁慶おんなべんけい』(秀調の出物だしもの)二番目家橘栄三郎松助の「玄冶店大喜利げんやだなおおぎり」家橘栄三郎の『女鳴神おんななるかみ常磐津ときわず林中りんちゅう出語でがたりなりき。作者見習としてのわが役目は木の稽古にと幕ごとに二丁にちょうを入れマハリとシヤギリのとめを打つ事幕明幕切の時間を日記に書入れ、楽屋中へ不時の通達なすべき事件ある折には役者の部屋々々大道具小道具方衣裳床山囃子方等とこやまはやしかたとう楽屋中漏れなく触れ歩く事等なり。着到ちゃくとうの太鼓打込みてより一日の興行済むまでは厳冬も羽織を着ず部屋にても巻莨まきタバコを遠慮し作者部屋へ座元ざもともしくは来客の方々見ゆれば叮嚀に茶を汲みて出しその草履ぞうりを揃へまた立作者たてさくしゃ出頭しゅっとうの折はその羽織をたたみ食事の給仕をなし始終つき添ひ働くなり。わがしばしば草履をそろへ茶を汲みてせし楽屋のお客様には大槻如電おおつきじょでん永井素岳ながいそがくなどありけり。
 九月となりてわれはここに初めて団菊両優の素顔すがおとその稽古とを見得たり。狂言はたしか『水戸黄門記みとこうもんきとおしにて中幕「大徳寺だいとくじ焼香場しょうこうばなりしと記憶す。団十郎はその年春興行の折病にかかり一時は危篤の噂さへありしほどなればこの度菊五郎との顔合大芝居かおあわせおおしばいといふにぞ景気はふたを明けぬ中より素破すばらしきものなりけり。つづいて十一月には一番目『太功記たいこうき馬盥ばだらいより本能寺ほんのうじ討入まで団洲だんしゅう光秀みつひで菊五郎春永はるながなり中幕団洲の法眼ほうげんにて「菊畑きくばたけ」。菊五郎の虎蔵福助とらぞうふくすけの息女を相手にしての仕草しぐさ六十の老人とは思へぬほど若々しく水もたれさうな塩梅あんばいさすがに古今の名優と楽屋中にても人々驚嘆せざるはなかりけり。二番目は菊五郎の「紙治かみじ」これは丸本まるほんの「紙治」を舞台に演ずるやう河竹新七かわたけしんしちのその時あらた書卸かきおろせしものにて一幕目ひとまくめ小春こはるかみすきのにて伊十郎いじゅうろう一中節いっちゅうぶしの小春をそのまま長唄ながうたにしての独吟あり廻つて河庄茶屋場かわしょうちゃやばとなる二幕目ふたまくめ竹本連中たけもとれんじゅう出語でがたりにてわれら聞馴れし炬燵こたつ引返ひきかえして天満橋太兵衛殺てんまばしたへえごろしとなる。当時の劇界いまだ鴈治郎がんじろうを知らず「紙治」はいと珍しきものなりしが如し。菊五郎と鴈治郎とはもとより雲泥うんでいの相違あるものなれば並べていひいづるは誤りなれども近頃鴈治郎を見馴れし目より当年の菊五郎を思へば幕明きし時定木じょうぎを枕に後向うしろむきに横はりし音羽屋おとわやの姿は実に何ともいへたものにはあらず小春が手を取りよろよろと駆け出で花道はなみちいつもの処にて本釣ほんつりを打ち込み後手うしろで角帯かくおび引締めむこうを見込むあたり全く二度とは見られぬものなりけり。この狂言書卸かきおろしの事とて稽古に念を入れし事到底今人こんじんの思ひも及ばぬ処なるべし。書抜の読合よみあわせ済みし日音羽屋は茶屋三州屋さんしゅうや二階に竹本相生太夫たけもとあいおいたゆうを招き置きて「紙治」一段を語らせこれを登場俳優一同に傾聴せしめ、なほ浄瑠璃すみしのちは親しく役々やくやく言葉の語りやうをば太夫へ質問するなぞ苦心のほど察するにあまりあり。初日を出せし後にも二、三度合方あいかたを替へそれにてもなほ落ちつかぬ模様なりけり。
 芸談に耽らば限りなき事なれば筆をとどむ。歌舞伎座今はほとんどその外観を変じたれど元より改築したるにあらねば楽屋の部屋々々今なほかつてわが見たりし当時に異ならず。十年の後われ遠国えんごくより帰来してたまたま知人をここに訪ふや当時の部屋々々空しく存して当時の人なく当時の妙技当時の芸風また地を払つてなし正に国亡びて山河さんがとこしえにあるの嘆あらしめき。長々しく昔をのみ語るの愚を笑ふなかれ。当時楽屋口を入りて左すれば福助松助のしつあり右すればすぐに作者頭取とうどり部屋にして八百蔵やおぞうの室これに隣りす。それより小道具衣裳方あり廊下のはずれより離れて団洲だんしゅうの室に至る。小庭こにわをひかへて宛然さながら離家はなれやていをなせり。表梯子おもてはしごのぼれば猿蔵さるぞう染五郎二人ににんの室あり家橘栄三郎これに隣してまた鏡台を並ぶ。それより床山を間にして間口まぐちはなはだひろきものはすなわち菊五郎の室にして隣りは片岡市蔵かたおかいちぞうそれよりやがて裏梯子の降口おりくちに秀調控へたりき。三階は相中大部屋あいちゅうおおべやなればいふに及ばざるべし。団八梅助頭取をつとめき。


 秋暑しゅうしょ一日いちにち物かくことも苦しければ身のまはりの手箱用箪笥ようだんす抽斗ひきだしなんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生きて既に三年今年の忌日きじつもまた過ぎたり。駒光くこう何ぞするが如きや。
 おのれ始めて上田先生が辱知じょくちとなるを得たりしは千九百八年三月先生の巴里パリーに滞留せられし時なり。これより先わが身なほ里昂リオン正金しょうきん銀行に勤務中一日公用にてソオン河上かじょう客桟きゃくさん嘲風姉崎ちょうふうあねざき博士を訪ひし事ありしがその折上田先生の伊太利亜イタリアより巴里にきたられしことを聞知りぬ。わが胸はいまだその人を見ざるに先立ちて怪しくも轟きたり。何が故ぞや。そもそもその年月としつきわが身をして深く西欧の風景文物にあこがれしめしは、かの『即興詩人』『月草つきぐさ』『かげぐさ』の如き森先生が著書とまた『最近海外文芸論』の如き上田先生が著述との感化に外ならざればなり。わが身の始めてボオドレエルが詩集『悪の花』のいかなるものかを知りしは上田先生の『太陽』臨時増刊「十九世紀」といふものに物せられし近世仏蘭西フランス文学史によりてなりき。かくてわれはいかにかして仏蘭西語を学び仏蘭西の地を踏まんとの心を起せしが、さいわいにして今やその望みなかば既に達せられし折柄、あたかもし先生の巴里にきたれるを耳にす。わがよろこたとへんに物なし。やがてわれは里昂の銀行を辞職し巴里に入りて拉甸区ラテンくの一客舎きゃくしゃに投宿したり。然れども巴里にはもとより知る人ひとりもなかりしかば先生の旅館も知るによしなく紹介を求めんにもそのつてなかりき。われは初めて北米に遊びてよりこの年月としつき語るに友なき境涯に馴れ果て今はひて人を尋ねもとむる心もおのづからに薄らぎゐたりしかば、唯ひとり巴里のちまたの逍遥にうつらうつらと日を過すのみなりき。
 ある元老院門前の大通なる左側小紅亭コンセール ルージュとよべる寄席よせに行きぬ。この寄席もまた巴里ならでは見られぬものの一なるべし。木戸銭安く中売なかうりばば珈琲コーヒーなぞ売るさまモンマルトルの卑しき寄席にことならねど演芸は極めて高尚に極めて新しき管絃楽またはオペラの断片にて毎夜コンセルヴァトアルの若き楽師きたつて演奏す。折々定連じょうれんの客に投票をひ新しき演題を定めあるひは作曲と演奏との批評を求むるなどこの小紅亭の高尚最新の音楽普及に力をつくす事一方ひとかたならぬを察すべし。おのれドビュッシイ一派の新しき作曲大方漏すことなく聴き得たるはこの小紅亭のゆうべなり。初て上田先生を見たるもまたこの小紅亭の夕ぞかし。
 小紅亭の定連は多く拉甸区の書生画工にして時には落魄らくはくせる老詩人かとも思はるる白髪のおきなを見る。そのゆうべ中入なかいりも早や過ぎし頃ふとわれは聴衆の中にわが身と同じく黄いろき顔したる人あるを見しが、その人もまたわれを見て互に隔たりし席よりいぶかしげに顔を見合せたり。然れども何人なんびとなるやを知らざれば言葉もかはさで去りぬ。これすなわち上田先生にして、そのゆうべ先生は英吉利西イギリス風の背広に髭もまた英国風に刈り鼻眼鏡をかけてゐたまひけり。
 次の日われサンジェルマンの四ツ角なる珈琲店カッフェーパンテオンにて手紙書きてゐたりしに、向側なる卓子テイブル二人ににんの同胞あり。相見れば一人いちにんはわが身かつて外国語学校支那語科にありし頃見知りたりし仏語ふつご科の滝村立太郎たきむらりゅうたろう君、また他の一人は一橋ひとつばしの中学校にてわれよりは二年ほど上級なりし松本烝治まつもとじょうじ君なり。この旧友二人はその夕クリュニイ博物館前なる旅館にありし上田先生のもとにわれをいざなひゆきたり。
 翌年あくるとし(明治四十二年)の春もなほ寒かりし頃かと覚えたりわれは既に国に帰りて父のいえにありき。上田先生一日いちにち鉄無地羽二重てつむじはぶたえ羽織はおり博多はかたの帯着流きながしにて突然おとづれ来給きたまへり。この時のわがよろこびは初めて巴里にて相見し時に優るとも劣らざりけり。なべて洋行中の交際としいへば多くはことわざにいふなる旅は道づれのたぐひにて帰国すればそのままに打絶ゆるを。先生のわが身に対する交情こそさる通一遍とおりいっぺんのものにてはなかりしなれ。火鉢を間にしてわれらは互に日本服着たる姿を怪しむ如く顔見合せ今更の如く昨日きのうとなりにし巴里のこと語出でて愁然しゅうぜんたりき。
 明治四十三年のはじめ森上田両先生慶応義塾大学部文学科刷新の事に参与せらるるやわが身もその驥尾きびに附していささか為す所あらんとしぬ。事既に十年に近き昔とはなれり。当時はあからさまに言ひがたき事なきにあらざりしかど十年一昔ひとむかしの今となりては、いかに慎みなきわが筆とて最早もはわざわいを人に及さざるべし。その頃われは父への手前心はもとより進まねど何処か学校の教師にてもやせんと思煩おもいわずらへる折からなり。ふと第三高等学校仏蘭西語の教師に人を要するやの噂ちらと耳にせしかば早速事を京都なる先生にはかりしことありき。これに対する先生の返書今偶然これを篋底きょうていに見出しぬ。再読するにまのあたり生ける先生の言を聞くが如し。みだりにこれを左に録する所以ゆえん感慨全く禁ずべからざるがためなり。
拝啓久しく御無沙汰に打過ぎ候段そうろうだんひら御宥免被下度ごゆうめんくだされたく候しかし毎度新聞雑誌にて面白き御作おさく拝見つかまつりわれら芸術主義ののためかつは徳川の懐かしき趣味のため御奮闘ありがたく奉感謝かんしゃたてまつり候、小生事去年の秋よりついつい上京の機を得ず帝都の眼覚めざましき活動に遠ざかりて残念至極に候まま明日あすは明日はと思ひつつ今日こんにちまでに相成あいなり候が今月末は是非とも東京へ参り御眼にかかりたくぞんじをり候実はただ今すぐにても御面会致し親しく懇願致度いたしたき事件出来しゅったい候が何分意にかさず候故手紙にて申上候
昨年御手紙にて当地高等学校仏蘭西語学教師の件御話これあり候が早速そのむきを探り申候処今年九月よりの事なれば何分まだ人選とうの事は校長にも深く考へをらず従つて御尊父様の御親交ある松井まつい博士の紹介あらば自然御就任の事となるべしと考へ小生もあまり騒立てぬ方かへつてよろしからむとひかえをり候しかし小生の心の底には別に一種の考ありて貴兄の御入洛ごじゅらくを小生自身にとりて非常なる幸福と存ずると共にただ今帝都にて新芸術の華々はなばなしき活動を試みさせ給ふ貴兄をして教育界の沈滞したる空気中に入れしかも京都の如き不徹底古典趣味の田舎へ移す事は貴兄自身にとりてもわが文学のためにも不得策ふとくさくにはあらざるかとやや心進まざるむきもこれあり種々熟考仕候その内段々時日を経てその後の経行なりゆきを観察仕候処一、二の候補者も出来できたれど、どれもまだ確定せず教授の細目も聞合せ候が仏語の極めて初歩のみを教へる事にておもに当地あるひは東京の仏蘭西法科へ入学する者のための如くしたがって狭い田舎の事なれば自然大学の教師なぞよりも幾分か注文も出るならむと考へ候かたがた取集めて考へればあまり面白き事業とは思へずまたたとへ忍び得る事としても貴兄の如き芸術家をかかる刺※[#「卓+戈」、105-5]の少き田舎に置く事はどうしても口惜しい事ならむと確信の度ますます強く相成申候それ故御返事を今日まで怠りをり申候この段まことに失礼に候ひしが何かもつと華々しき事業をと心掛けついつい今日に相成候然るに一月三十一日に至りて急に東京より来信これあり珍らしき事を聞込候
この事は非常に秘密にいたしをり候やうにうけたまわりをり候が実は今度東京の慶応義塾にてその文学部を大刷新しこれより漸々ようよう文壇において大活動をさむとする計画これありそれにつき文学部の中心となる人物を定むる必要を感じ候おもむきに候、そこで三田側の諸先輩一同交詢社こうじゅんしゃにて大会議を開き森鴎外先生にも内相談ないそうだんありしやうに覚え候が、義塾の専任となりてもろもろの画策をする文学家を選び候処夏目漱石なつめそうせき氏か小生をといふ事に相定候由、然るに夏目氏は朝日新聞の関係を絶つ事かたくして交渉まとまらずまた森先生より小生に頼むやうにと義塾の人が千駄木せんだぎを訪問したる時、森先生のいはるるには、京都大学の関係上小生の交渉もむづかしからむと申され候由、そこで先方の言ふには小生のことわりたる時誰がそれならば適当ならむとあるに答へて、森先生は貴兄を推薦なされ候、先方の申すには然らば小生に頼む時いつそ事情を打明けて小生の身上みのうえ動きがたき場合には直ちに小生より貴兄へこの事件交渉してもらひたしとの事に御座候、小生は森先生の手紙に対し種々考を述べ置候が要するにただ今京都を去る事は出来兼ね候おもむき返事いたし、また貴兄を推薦されし森先生の眼光に服しをる旨申送り候、右やうの次第万事打明け候が貴兄はこの交渉に御応じの御心おこころ如何にや、三田の中心となりて文壇にそれより御雄飛の御奮発は小生のひとえに懇願する所何卒御快諾の吉報に接したく存をり候もとより御内意を伺ふまでにて事定らば別に正式の交渉はこれあるべく候
委細の事は御面唔ごめんごの節と存候が小生の聞込みたる処にては、唯学校を盛にするだけの事ではなくもつとだいなる運動の序幕かと存をり候例へば帝国劇場の如きは義塾の側より殆ど自在に使ひ得られべきやう見受けられは言はずとも種々しゅじゅ面白き事ありさうに候、芸術家最高の事業はどうしても劇部にありと信ずる小生はこれを聞いてただちにモリエエルやグリックやゲエテ、ワグナアさてはアントワンを思出し何かの形にてこの愉快なる事業に助力したく自分でもおおいに心を動かし候なほ委しくは森先生と御相談あるもよろしかるべきが、以上の成行なりゆき筆紙にてニュアンスを尽しがたく候がざつと如斯かくのごとくに候
条件については決して不満足のなきやういたすべく、その方は殆どカルト・ブランシュの如き様子に候、これまた御承諾さへ相成らば森先生が万事御含おんふくみのやうに候とにかく芸術のためこの際御快諾の御報ごほうに接するやう祈上いのりあげ候 匆々そうそう
  二月五日
上田敏うえだびん
 永井荷風様侍史
張目飛耳ちょうもくひじ多き今の文界なれば万事決定まで何分内密に願上候
悦子えつこよりもよろしく申上候田舎にありて曾遊そうゆうの地を思ひつづけをり候ままかつてとまりしホテルの紙を用ゐ候
 この書信は維納ウィンナ客桟きゃくさんホテル・ブリストルの記章を印刷したる書簡箋にペンにてこまごまとしたためられたり文中悦子とあるは令夫人なり。諄々じゅんじゅんとしてわが身のことを説きさとさるるさまさながら慈母のを見るが如くならずや。この一書によりてわが三田に入りし当時の消息もまたおのづから分明ぶんめいなるべし。わが返書に対し折返して到着したる先生の書次の如し。その全文を掲ぐ。
二月七日の御手紙拝見仕候まずは過日の唐突なる願事御聞届被下くだされ候段深く感謝仕候その後森先生とも種々御打合せの御事と察し申候が何卒折角の壮挙ゆゑ三田の方御助力を懇願仕候御謙遜の御手紙なりしが決して貴兄ならば成功せざるはずなしと確信仕候殊に御自身教鞭を執らるるのみならずその上向後こうごの発展上一種の Elan を与へ奮心を惹起じゃっきする任務は普通の学究にては出来にくかるべしと思へばこそ貴兄へ懇請仕候ひしかと存候小生は本月末か来月早々上京のつもりに候故その時とくと御話申上ぐべく候
京都にては全く話対手はなしあいてなく困却仕候唯宅の者と散歩して食事でもするより他に致方なく候ただ本年は元日より今日まで毎日拙作を起草しそれにてまぎれをり候この地はとにかく読書にも創作にも不適当なるぶるじよあじいの国にて御話にならぬ無聊ぶりょうさとに候唯この頃はルウィエといふ伊東いとうさんのお嬢さんをめとつた若い海軍士官と往来しこのほかに先月より二、三人急に仏蘭西人が加はつてややおもしろく相成候
きのふの御作中柳橋やなぎばしの芸者が新橋しんばしといふ敵国を見る処おもしろく拝見仕候また先日のモリス・バレスが故郷の白楊はくようの並木をおもふ一節感服仕候当地の平田禿木ひらたとくぼく氏はボオ・ブラムメルの処を見て英国好えいこくずきの人なれば甚だ嬉しがりをり候文芸に型や主義は要らず縦横に書きまくるがしと考ふる小生は貴兄の作物さくぶつが鳥の歌ふ如く自然に流れでるのを羨ましく思をり候今後種々の方面へ筆を向けて、あとから追付かむとする評論家の息をはずませてやり給へと遥かに嘱望しょくぼう仕候
有楽座にて二十六日はヴィニエッチ氏の音楽と他に『椿姫』の芝居これあり候由もし上京して間に合はば幸福と存候がちとむづかしく候
過日同座にて一度御眼にかかりしのみなれど何卒御尊父様並に御母堂へよろしく御鳳声被下度ごほうせいくだされたく候 匆々
  二月十一日朝
上田敏
永井荷風様侍史
 かくの如く先生はわが拙作の世にいづるごとにあるいは書を寄せあるいはわが来給きたまひて激励せられき。『三田文学』第一号漸く出でんとするや先生の書簡はますます細事にわたりて懇切をきはめぬ。
拝啓益々御清適の段奉賀がしたてまつり候、その後『三田文学』御経営の事如何いかがに相成候や過日大倉書店番頭はらより他の事にて二回ほど書面これあり候ついでに、はじめは談判不調(もっと与謝野よさの君との間の略式の話について)次にはまた再度貴兄及び塾と談合をはじめたる趣を書添へをり候とにかく雑誌御経営の困難御察申候
これにつき森先生の意見は如何に候や小生の考にては原稿料は多少他よりも高く見積りて置く事必要なるは先日申したる如くに候が何もづぬけて高くするにも及ばずはじめよりあまり多く売らむと計りても無益かと存候、要するに二百頁の雑誌とすれば毎月三百円の総入費あらば事足りむか、自営にすればその幾分は確に戻つて来るはず、書肆しょしの方には一年に月数拾円の損として他方に広告機関ともなる利益もあるはずこの条件に近い所にて大倉もうけ合ひさうなものに候がどういふ工合ぐあいにて謝絶せしやら何はともあれ来月中旬にいづれ雑誌発刊のはこびと存候ついてはほぼ原稿締切期限等御示教被下度ごじきょうくだされたく候小生も何か一文いちぶん寄稿したく候
一昨日より家内および娘とともに宇治川に遊んで河沿かわぞいの宿にとまり翌朝奈良へまかりこして新築の奈良ホテルといふに休み、そこより車を雇ひて春日社頭かすがしゃとうの鹿をはじめ名所遊覧仕候がホテルの赤旗をつけた車にのつた所はまるでめりけんの観光団に御座候ひき、夢見ゆめみさととももうすべき Nara la Morte にはかりよんのおとならぬ梵鐘ぼんしょうの声あはれにそぞいにしえを思はせ候、その時またおもふやう安倍仲麿あべのなかまろがこの小さきむらを出でて大陸の支那しかも唐代の支那を見た時、とても帰られなくなりて今欧洲の大都たいとに遊ぶ人の心の如くに日本を呪詛じゅそせしものと存候このつぎ御来遊のせつは御一所に奈良へ出かけたきものに候さいよりよろしく 匆々
 三月二十一日
上田敏
永井荷風様侍史
 大正五年われ既に病みてつかれたり。まさに退いて世の交りを断たん事を欲し妓家ぎか櫛比しっぴする浅草代地あさくさだいち横町よこちょうにかくれ住む。たまたま両国大相撲春場所の初日に当りてあたり何となく色めき立てる正午ひる近くなり。われ銭湯せんとうより手拭さげて帰りきた門口かどぐち京都より東上とうじょうせられし先生の尋ねきたらるるに会ひぬ。さては先生の寛容深くわが放蕩無頼をとがめたまはざるかと、思へばいよいよ喜びに堪へず、直に筋向すじむこうなる深川亭ふかがわていにいざなひしが、何ぞはからんこの会飲永劫えいごうの別宴とならんとは。心ゆくばかり半日を語り尽して酒亭を出でしが表通は相撲の打出し間際にて電車の雑沓はなはだしかりければ、しばしがうちとて再びわが隠家かくれがの二階にしょうじて初夜過ぐる頃までも語りつづけぬ。わがの近くには豊沢松太郎とよざわまつたろう竹本播磨太夫たけもとはりまだゆう住居すまい妓家の間にまじりてありければにや、女の音〆ねじめには似も寄らぬ正しき太棹ふとざおの響折々漏れ聞ゆるにぞ談話は江戸俗曲の事また先頃先生のさる書肆しょしより翻刻を依頼せられしといふ『糸竹初心鈔しちくしょしんしょう』がことより、やがてはわがその頃の作品の批判に移りて、かかる種類のものにては笠森かさもりせんが一篇ことば最もおだやかにこころ最もやはらかに形また最もととのひしものなるべしと語られけり。
 数日の後先生再び京都におもむかんとせらるるや我いかにしけん今までは一度も先生を停車場に送りたる事なかりしを。あとにて思合おもいあわすれば虫が知らせしなるべし。このゆうべばかりは怪しくも中央停車場に出で行く心起りて、食堂の卓子テイブルに汽車出づる間際まで令夫人令嬢と共に珈琲コーヒーをすすりこの次夏の休みの御上京を待たんと言ひしがそは全くあだなる望にてありけり。
 大正五年七月九日先生のいまだおおやけにせられざるに先立ち馬場孤蝶ばばこちょう君悲報を二、三の親友に伝ふ。余倉皇そうこうとして車を先生が白金しろかねていに走らするに一片の香煙既に寂寞として霊柩れいきゅうのほとりに漂へるのみ。われこれを見し時咄嗟とっさの感慨あたかも万巻の図書咸陽一炬かんよういっきょけむりとなれるが如き思ひに打たれき。わが当代の文化や先生の訃によつてその失ふところ殆ど計り知るべからざる事を思ひたればなり。
大正七年稿





底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
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●表記について

「卓+戈」    105-5


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