百花園

永井荷風




 友のきたって誘うものあれば、わたくしは今なお向島の百花園に遊ぶことを辞さない。これあたかも一老夫のたまたま夕刊新聞を手にするや、まずして講談筆記の赤穂義士伝の如きものを読むに似ているとでもうべきであろう。老人は眼鏡の力を借りて紙上の講談筆記を読む。その講談は老人の猶衰えなかった頃徒歩して昼寄席ひるよせに通い、其耳に親しく聴いたものに較べたなら、呆れるばかり拙劣な若い芸人の口述したものである。然し老人は倦まずによく之を読む。
 わたくしが菊塢の庭を訪うのもまたくの如くである。老人が靉靆めがねの力を借るが如く、わたくしは電車と乗合自動車に乗って向島に行き、半枯れかかっている病樹の下に立って更に珍しくもない石碑の文をよみ、また朽廃した林亭の縁側に腰をかけては、下水のような池の水を眺めて、猶且つ倦まずに半日を送る。
 老人が夕刊紙に目を注ぐのは偶然夕刊紙がその手に触れて、その目の前にひろげられたが故であろう。紙上に見渡される世事の報道には、いかに重大な事件が記載せられていても、老人の身には本より何等の痛痒をも感じさせぬので、り場のない其の視線はわずかに講談筆記の上につなぎ留められる。しかも講談筆記の題材たるや既に老人の熟知するところ。其の陳腐にして興味なきことも亦よく予想せられるところであるが、これ却って未知の新しきものよりも老人の身には心易く心丈夫に思われ、覚えず知らず行をって読過せしめる所以ゆえんともなるのであろう。この間の消息は直にわたくしが身の上に移すことが出来る。わたくしは近年東京市の内外に某処の新公園、または遊園地の開かれたことを聞いているが、わざわざ杖を曳く心にはならない。それよりは矢張見馴れた菊塢が庭を歩いて、茫然として病樹荒草に対していた方が、まだしも不快なる感を起すまいと思うのである。
 菊塢の百花園は世人の知るが如く亀戸村の梅園に対して新梅荘と称せられていたが、梅は次第に枯死し、明治四十三年八月の水害を蒙ってから今は遂に一株をも存せぬようになった。水害の前の年、園中には尚数株の梅の残っていた頃である。花候の一日わたくしは園梅の枝頭に幾枚となく短冊の結びつけられているを目にして、何心なく之を手に取った時、それは印刷せられた都新聞の広告であったのに唖然として言う所を知らず、興趣たちまち索然として踵を回して去ったことがあった。
 二三年前初夏の一日、神田五軒町通の一古書肆の店頭を過ぎて、偶然高橋松莚、池田大伍の二君に邂逅した。わたくしは行先の当てもなく漫然散策していた途上であった。二君はこの日午前より劇場に在って演劇の稽古の思いの外早く終ったところから、相携えてこの店に立寄られたのだと云う。店の主人は既にわたくしとは相識の間である。偶然の会合に興を得て店頭の言談には忽花がさいた。主人は喜んで新に買入れた古書錦絵の類を取出して示す。展覧に時刻を移したが、初夏の日は猶高く食時にもまだ大分間がある。さりとてこの人数袂をつらねて散歩に行くべき処もない。上野公園の森は目の前に見えているが無論行く気にはならない。兎に角一同自動車に乗ろうとする間際になって、ふと震災後向島はどんなになっているだろうと言うような事から、始めて車を東に向けさせることにしたが、さて吾妻橋を渡り枕橋を過ると、またしても行先が定まらないので、已むことを得ず百花園という事にきめた。向島へ来れば百花園で休むという事が曾て一般の習慣ならわしになっていた。その時代にわたくし達は人と成ったので、今之に対して異議を言うものは一人もない。わたくし達は又既に百花園の荒廃に帰して今更これを訪うべき価値のないことをも熟知していた。さればこの場合に之を云々するのは、恰も七十の老翁を捉えて生命保険の加入契約を勧告し、或はまた玉の井の女に向って悪疾の有無を問うにもひとしく、あまりにばかばかし過る事である。是亦車中百花園行を拒むもののなかった理由であろう。わたくし達は、又日々社会の新事物に接する毎に絶間なく之に対する批判の論を耳にしている。今の世は政治学芸のことに留らず日常坐臥の事まで一として鑑別批判の労をからなくてはならない。之がため鑑賞玩味の興に我を忘るる機会がない。平生わたくし達は心ひそかにこの事を悲しんでいるので、ここに前時代の遺址たる菊塢が廃園の如何を論じようという心にはなろう筈がない。これが保存の法と恢復の策とを講ずる如きは時代の趨勢に反した事業であるのみならず、又既に其時を逸している。わたくし達は白鬚神社のほとりに車を棄て歩んで園の門にいたるまでの途すがら、胸中窃に廃園は唯その有るがままの廃園として之をながめたい。そしていささかたりとも荒涼寂寞の思を味い得たならば望外の幸であろうとなした。
 予め期するところは既に斯くの如くであった。これに対して失意のうらみの生ずべき筈はない。コールタを流したような真黒な溝の水に沿い、外囲いの間の小径に進入はいると、さすがに若葉の下陰青々として苔の色も鮮かに、漂いくる野薔薇の花の香に虻のむらがり鳴く声が耳立って聞える。小径の片側には園内の地を借りて二階建の俗悪な料理屋がある。その生垣につづいて、傾きかかった門のひさしには其文字も半不明となった南畝の※(「匸<編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第4水準2-3-48)へんがくきゅうって来りおとなう者の歩みを引き留める。門をはいると左手に瓦葺の一棟ひとむねがあって其縁先に陶器絵葉書のたぐいが並べてある。家の前方平坦なる園の中央は、枯れた梅樹の伐除かれた後朽廃した四阿あずまやの残っている外には何物もない。中井碩翁が邸址から移し来ったという石の井筒も打棄てられたまま、其来歴を示した札の文字も雨に汚れて読難くなっている。それより池のほとりに至るまで広袤およそ三四百坪もあろうかと思われる花圃は僅に草花の苗の二三尺伸びたばかり。花圃の北方、地盤のやや小高くなった処に御成座敷と称える一棟がある。百日紅の大木のわだかまった其縁先に腰をかけると、ここからは池と庭との全景が程好く一目に見渡されるようになっている。苗のまだびない花畑は、その間の小径も明かに、端から端まで目を遮るものがないので、もう暮近いにも係らず明い心持がする。池のほとりには蒹葭が生えていたが、水は鉄漿のように黒くなって、蓮は既に根も絶えたのか浮葉もなく巻葉も見えず、この時節には噪しかるべき筈の蛙の声も聞えない。小禽や鴉の声も聞えない。時節ちがいである上に、時間もおそいので無論遊覧の人の姿も見えない。わたくし達一同の視線は唯前栽の中に咲いている箱根ウツギと池の彼方に一本生残っている老松の梢に空しく注がれるばかりであった。園主佐原氏は久しく一同とは相識の間である。下婢に茶菓を持運ばせた後、その蔵幅中の二三品を示し、また楽焼の土器に俳句を請いなどしたが、辞して来路を堤に出た。その時には日は全く暮れて往来ゆききの車にはもう灯がついていた。
 昭和改元の年もわずか二三日を余すばかりの時、偶然の機会はまたもやわたくしをして同臭の二三子と共に、同じこの縁先から同じく花のない庭に対せしめた。嘗て初夏の夕に来り見た時、まだ苗であった秋花は霜枯れた其茎さえ悉く刈去られて切株を残すばかりとなっていた。そして庭の隅々からは枯草や落葉をく烟が土臭いにおいを園内に漲らせていた。
 わたくしは友を顧みて、百花園を訪うのは花のない時節に若くはないと言うと、友は笑って、花のいまだ開かない時に看て、又花の既に散ってしまった後来り看るのは、杜樊川が緑葉成陰子満枝の歎きにも似ている。風流とはこんな事だろう。他の一友は更に傍より、花壇に花のないのは、あるべき筈のものが在るべき処にないのだ。之を看てよろこぶのは奇中の奇を探るもの。世には風流を解しないものも往々この奇を知る。と言出したので、一同おぼえず笑って座を立った。
昭和二年六月草





底本:「日和下駄 一名 東京散策記」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年10月10日第1刷発行
   2006(平成18)年1月5日第7刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年2月
   「荷風全集 第十六巻」岩波書店
   1964(昭和39)年1月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年1月18日作成
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