矢はずぐさ

永井荷風





矢筈草やはずぐさ』と題しておもひいづるままにおのが身の古疵ふるきずかたりでて筆とる家業なりわいせめふさがばや。


 さる頃も或人のたわむれにわれを捉へてなじりたまひけるは今の世に小説家といふものほど仕合しあわせなるはなし。昼の日中ひなかたれはばかるおそれもなく茶屋小屋ちゃやこやに出入りして女に戯れ遊ぶこと、これのみにても堅気かたぎの若きものの目にはうらやましきかぎりなるべきに、世の常のものなればひても包みかくすべき身の恥身の不始末、乱行狼藉らんぎょうろうぜき勝手次第のたはけをば尾にひれ添へて大袈裟おおげさにかき立つれば世の人これを読みて打興うちきょうじ遂にはほめたたへて先生とうやまふ。にや人倫五常の道にそむきてかへつて世に迎へられ人に敬はるるけいらが渡世たつきこそ目出度めでたけれ。かく戯れたまひし人もし深き心ありてのことならんか。この『矢筈草』目にせば遂にはまことにいきどおりたまふべし。『矢筈草』とはすぎつる年わが大久保おおくぼいえにありける八重やえといふの事をしるすものなれば。
 八重その頃はいえの妻となり朝餉あさげ夕餉ゆうげの仕度はおろか、いささかのいとまあればわが心付こころづかざるうちに机のちりを払ひすずりを清め筆を洗ひ、あるいは蘭の鉢物はちものの虫を取り、あるいは古書の綴糸とじいとの切れしをつくろふなど、余所よその見る目もいと殊勝しゅしょう立働たちはたらきてゐたりしが、ゆえあつて再び身を新橋しんばし教坊きょうぼうに置き藤間某ふじまなにがしと名乗りて児女じじょ歌舞かぶおしゆ。浄瑠璃じょうるりの言葉に琴三味線の指南しなんして「後家ごげみさおも立つ月日」と。八重かくてその身の晩節ばんせつまっとうせんとするの心か。我不われしらず


 そもそも小説家のおのれが身の上にかかはる事どもそのままに書綴かきつづりて一篇の物語となすこと西洋にては十九世紀のはじめかたよりようやく世に行はれ、ロマンペルソネルなどととなへられて今にすたれず。即ちゲーテが作『若きウェルテルのうれい』、シャトオブリヤンが作『ルネエ』のたぐいなり。わが国にては紅葉山人こうようさんじんが『青葡萄あおぶどう』なぞをやその権輿けんよとすべきか。近き頃森田草平もりたそうへいが『煤煙ばいえん小粟風葉おぐりふうようが『耽溺たんでき』なぞ殊の外世に迎へられしよりこのていを取れる名篇佳什かじゅう漸く数ふるにいとまなからんとす。わけても最近の『文芸倶楽部ぶんげいクラブ(大正四年十一月号)に出でし江見水蔭えみすいいんが『水さび』と題せし一篇の如き我身には取分けてきょう深し。されば我今更となりて八重にかかはる我身のことをたねとして長き一篇の小説をいださん事かへつてたやすきわざならず。小説を綴らんには是非にも篇中人物の性格をきわめ物語の筋道もあらかじめは定め置く要あり。かかる苦心は近頃やまい多く気力乏しきわが身のふる処ならねば、むしろ随筆の気儘なる体裁ていさいをかるにかじとてかくは取留とりとめもなく書出かきいだしたり。小説たるも随筆たるもむねとする処は男女だんじょの仲のいきさつを写すなり。客と芸者の悶着を語るなり。亭主と女房の喧嘩犬もはぬ話をするなり。犬は喰はねど煩悩ぼんのうの何とやら血気けっきの方々これを読みたまひてその人もし殿方とのがたならばお客となりて芸者を見ん時、その人もし芸者衆げいしゃしゅならばお座敷かかりてお客の前にでん時、前車ぜんしゃ覆轍ふくてつ以てそれぞれ身の用心ともなしたまはばこの一篇の『矢筈草』あにいたずらに男女の痴情ちじょうを種とする売文とのみさげすむを得んや。


 矢筈草は俗にげん証拠しょうこといふ薬草なること、江戸の人山崎美成やまざきよししげが『海録かいろく』といふ随筆第五巻目に見えたり。曰く、「矢筈草俗に現の証拠といふこの草をとりみそ汁にて食する時は痢病りびょうはなはだ妙なり又瘧病おこり及び疫病等えきびょうなどにも甚こうあり云々うんぬん」。
 この草また御輿草みこしぐさと呼ぶ。はぎ先生が辞典『ことばのいづみ』を見るに、「げんのしようこ※牛児ぼうぎゅうじ[#「特のへん+尨」、U+727B、116-2]。植物。草の名。野生やせいにして葉は五つに分れ鋸歯のこぎりばの如ききざみありて長さ一すんばかり、対生たいせいす。夏のころ梅の如き淡紅たんこうの花を開きのちをむすび熟するときはけて御輿みこしのわらびでの如く巻きあがる。茎も葉も痢病の妙薬なりといふ。みこしぐさ。」とあり。われこの草のことをば八重より聞きて始めて知りしなり。八重その頃(明治四十三、四年)新橋しんばし旗亭花月きていかげつの裏手に巴家ともえやといふ看板かかげて左褄ひだりづまとりてゐたり。好まぬ酒も家業なれば是非もなく呑過して腹いたむる折々日本橋通一丁目反魂丹はんごんたん売る老舗しにせ(その名失念したり)に人をつかわして矢筈草あがなはせ土瓶どびんせんじて茶の代りに呑みゐたりき。われ生来多病なりしかどその頃は腹痛む事稀なりしかば八重がしきりにかの草の効験ききめあること語出かたりいでても更に心にむる事もなくて打過うちすぎぬ。しかるをそれより三、四年にして一夜いちや激しき痢病に襲はれ一時いちじこころよくなりしかど春より夏秋より冬にと時候の変り目に雨多く降る頃ともなれば必ず腹痛みふさぎがちとはなりにけり。かつては寒夜客来茶当※(「缶+盧」、第4水準2-84-71)湯沸火初メテナリ寒夜かんやきゃくきたりて茶を酒につ ※(「缶+盧」、第4水準2-84-71)ちくろきてはじめくれないなり〕といへる杜小山としょうざん絶句ぜっくなぞ口ずさみて殊更煎茶せんちゃのにがきを好みし朱泥しゅでい※(「缶+并」、第4水準2-84-68)さへい、今は矢筈草押込みて煎じつめごとねむりにつく時持薬じやくにする身とはなり果てけり。
 八重近頃は身もいとすこやかになりしと聞く。さらば今は矢筈草も用なきこそ目出度けれ。


 およそ人の一生血気のさかりを過ぎて、その身はさまざまのやまいおかされその心はくさぐさのおもいに悩みて今日は咋日にまして日一日と老い衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし。
 宿昔青雲志、蹉※(「足へん+它」、第3水準1-92-33)白髪年、誰明鏡裏、形影自相憐宿昔しゅくせき 青雲せいうんこころざし※(「足へん+它」、第3水準1-92-33)さたす 白髪はくはつとし。誰か知る明鏡めいきょううち形影けいえいみずかあいあわれむ〕とはこれ人口に膾炙かいしゃする唐詩なり。鏡に照して白髪に驚くさまは仏蘭西フランスの小説家モオパサンが『終局フィニイ』といふ短篇にも書綴かきつづられたり。
 われはついまだ白からず。しかも既にわれながら老いたりと感ずること昨日今日のことにはあらず。父をうしなひてその一週忌も過ぎける翌年よくねんの夏の初、突然烈しき痢病りびょうに冒され半月あまり枕につきぬ。元来酒をたしなまざれば従つて日頃悪食あくじきせし覚えもなし。ひて罪を他に負はしむれば慶応義塾けいおうぎじゅくにて取寄する弁当の洋食にあてられしがためともいはんか。そも三田みたの校内にては奢侈しゃしの風をいましめんとて校内に取寄すべき弁当にはいづれもきびしく代価を制限したり。されば料理の材料おのづから粗悪となりてこれをくらへば終日ひねもす胸苦むなぐるしきを覚ゆ。紅がらにて染めたるジャム鬢付びんつけのやうなるバタなんぞ見る折々いつも気味わるしと思ひながら雨降る日なぞはつい門外の三田通みたどおりまでで行くにものうく、その日も何心なにごころなく一皿のうち少しばかり食べしがやがて二日目の暁方あけがた突然はらわたしぼらるるが如きいたみに目ざむるや、それよりは明放あけはなるるころまで幾度いくたびとなくかわやに走りき。
 その頃わが住めるいえはいと広かりき。われは二階なる南の六畳に机を置き北の八畳を客間、梯子段はしごだんのぞむ西向の三畳を寝間ねまさだめければ、幾度となき昇降あがりおりに疲れ果て両手にて痛む下腹したはら押へながらもいつしかうとうととまどろみぬ。目覚めさむればに近し。召使ふものの知らせにて離れの一間ひとまに住み給ひける母上捨て置きてはよろしからずと直様すぐさま医師を呼迎よびむかへられけり。われは心ひそか赤痢せきりに感染せしなるべしと思ひ付くや人の話にてこの病の苦しさを知り心は戦々兢々せんせんきょうきょうたり。幸にして医師の診断によればわが病はかかる恐しきものにてはなかりしかど、昼夜ちゅうやたゆひまなく蒟蒻こんにゃくにて腹をあたためよ。肉汁ソップとおも湯のほかは何物もくらふべからず。毎朝まいちょう不浄ふじょうのもの検査すべければ薬局に送り届けよなぞ、医師はおごそかにいひ置きて帰り行きぬ。わがには父いませし頃より二十年あまりも召使ふ老婆あり。このもの医師の命ぜし如く早速蒟蒻あたためて持来もちきたりしかばそれをば下腹におし当てて再びうとうとと眠りき。
 南向の小窓に雀の子の母鳥呼ぶ声しきりなり。梯子段にれやら昇りきたる足音聞付け目覚めさむれば老婆の蒟蒻取換へにきたりしにはあらで、唐桟縞とうざんじまのおめし半纏はんてん襟付えりつきあわせ前掛まえかけ締めたる八重なりけり。根下ねさがりの丸髷まるまげ思ふさま髱後たぼうしろ突出つきいだ前髪まえがみを短く切りてひたいの上にらしたり。こはすぐる日八重わが書斎にきたりける折書棚の草双紙くさぞうし絵本えほんたぐい取卸とりおろして見せけるなか豊国とよくにが絵本『時勢粧いまようすがた』に「それしゃ」とことわり書したる女の前髪切りて黄楊つげ横櫛よこぐしさしたる姿のあだなる、今時の芸者もかうありたしとわれのたわむれにいひけるを、何事も気早きばやの八重、机の上にありける西洋鋏せいようばさみ手に取るより早く前髪ぷツつり切落し、鏡よ鏡よとて喜びさわぎしその名残なごりなりかし。
 八重その年二月の頃よりリウマチスにかかりて舞ふ事かなはずなりしかば一時ひとしきり山下町やましたちょう妓家ぎかをたたみ心静に養生せんとて殊更山の手の辺鄙へんぴを選び四谷荒木町よつやあらきちょうに隠れ住みけるなり。わがとはいち谷町たにまち窪地くぼちを隔てしのみなれば日ごと二階なるわが書斎に来りてそこらに積載つみのせたる新古の小説雑書のたぐひ何くれとなく読みあさりぬ。彼女もと北地ほくちの産。年十三にして既に名をその地の教坊きょうぼうとどめき。生来文墨ぶんぼくの戯を愛しよく風流を解せり。読書とくしょめば後庭こうてい菜圃さいほを歩み、花をみて我机上わがきじょうを飾る。今わが家蔵かぞうの古書法帖ほうじょうのたぐひその破れし表紙切れし綴糸とじいと大方おおかたは見事に取つぐなはれたる、皆その頃八重が心づくしの形見ぞかし。八重かくの如く日ごとわがに来りて夕暮近くなる時は、われと共に連れ立ちて芝口しばぐち哥沢芝加津うたざわしばかつといふ師匠のもとまで端唄はうたならひに行くを常としたり。
 前のも哥沢節の稽古に出でて初夜しょやすぐる頃四ツ谷まる横町よこちょうかどにて別れたり。さればわが病臥やみふすとは夢にも知らず、八重はふすま引明ひきあけて始めて打驚うちおどろきたるさまなり。


 八重申しけるはわが身かつて伊香保いかほに遊びし頃谷間の小流こながれみ取りて山道のかわきをいやせしゆえはからず痢病りびょうに襲はれて命もあやうき目にひたる事あり。その幾年月いくとしつき人の酒興しゅきょうを助くる家業なりわいの哀れはかなき、その身の害とは知りながら客の勧むるさかずきはいなまれず、いえに帰らば今宵こよいもまた苦しみあかすべしと心に泣きつつも酒呑みてくらせし故腹のやまいはよく知りたり。養生の法とても、わが身かへつて医師にまさりてあきらかならん。医のととのへ勧むる薬は元よりおこたり給ふな。さりながら古老の昔よりいひ伝ふるものには何事に限らず霊験れいげんある事あり。わが身いまだ妓籍ぎせきを脱せざりし頃絶えず用ひたるかの矢筈草今も四谷のいえにあり。煎じて参らすべければいささかその匂ひの悪しきを忍びたまへとて、ただちに人をせて矢筈草取寄せ煎じけり。
 われ生れて煎薬せんやくといふもの呑みたるはこれが始めてなり。この薬たしかに効能あるやうに覚えければその後は風邪心地かざごこちの折とてもアンチフェブリンよりは葛根湯かっこんとう妙振出みょうふりだしなぞあがなひて煎じる事となしぬ。例へば雪みぞれのひさしを打つ時なぞ田村屋好たむらやごのみの唐桟とうざん褞袍どてらからくも身の悪寒おかんしのぎつつ消えかかりたる炭火すみび吹起し孤燈ことうもとに煎薬煮立つれば、夜気やき沈々たる書斎のうち薬烟やくえんみなぎり渡りてけしのさらにも深け渡りしが如き心地、何となく我身ながらも涙ぐまるるやうにてよし。


 八重が心づくしにて病はほどもなくえけり。芍薬しゃくやくの花散りて世は早くも夏となりぬ。梅雨つゆのあくるを待ち兼ねてその年の土用どようるやわれは朝な朝な八重にいざなはれて其処そこ此処ここと草ある処におもむきかの薬草むにいそがしかりけり。
 矢筈草はちよつと見たる時その葉よもぎに似たり。覆盆子いちごの如くそのくきつるのやうに延びてはびこる。四谷見附よつやみつけより赤坂喰違あかさかくいちがいの土手に沢山あり。青山あおやま兵営の裏手より千駄せんだくだる道のほとりにも露草つゆくさ車前草おおばこなぞと打交うちまじりて多く生ず。きたりてよく土を洗ひ茎もろともにほどよくきざみて影干かげぼしにするなり。
 われは東京市中の閑地あきち追々おいおい土木工事のためにり開かるべきことを憂ひて止まざるものなれば、やがては矢筈草生ずる土手もなくなるべしと思ひ、その一束ひとたばをわがの庭に移し植ゑぬ。われその年の秋母のゆるしを得て始めて八重を迎へいえを修めしめしが、それとてもわずか半歳はんさいの夢なりけり。その人去りて庭のまがきには摘むものもなくて矢筈草いたずらひはびこりぬ。万事傷心のたねならざるはなし。その翌年よくねん草の芽再び萌出もえいづる頃なるを、われも一夜いちや大久保を去りて築地つきじ独棲どくせいしければかの矢筈草もそののちはいかがなりけん。近頃あらたに住む人ありと聞けば廃園の雑草と共に大方は刈除かりのぞかれしや知るべからず。


 事新らしく自然主義の理論説き出づるにも及ぶまじ。この世をよしと言ひあしと観る十人十色といろの考その人々によりて異り行くも、一つにはその人々の健康によることなり。われその身の衰行おとろえゆくを知るにつけて世をいとふの念押へがたく日に日に弥増いやまさり行くこそ是非なけれ。
 わが知れる人々のうちにはいかにもして我国の演劇を改良なし意味ある芸術を起さんものをと家人かじんの誤解世上の誹謗ひぼうもものかは、今になほ十年の宿志しゅくしをまげざるものあり。聞くだに涙こぼるる美談ぞかし。然るにわれは早くもこころくじけてひたすら隠栖いんせいの安きを求めんとす。しかもそは取立てていふべきほどの絶望あるにもあらずはた悲憤慷慨のためにもあらず。唯劇場の燈火とうかあまりにあかるく目を射るにへざるが如き心地したるがためのみ。それに引換へて父の世より住古すみふるせし我家の内の薄暗く書斎の青燈せいとう影もおぼろにとこの花を照すさま何事にもかへがたく覚初おぼえそめたるがためのみ。茶屋といふものなくなりて、劇場内の食堂の料理何となく気味わるき心地せられしがためのみ。雨の降るなぞとぼとぼと遠道とおみちを帰り行くことの苦しくなりしがためのみ。これらのことその身すこやかなればもとよりいふにも足らぬことなれど、寒さを恐れて春も彼岸ひがん近くまで外出そとでの折には必ず懐炉かいろ入れ歩くほどの果敢はかなき身には、以上の事皆観劇のために払ふべきだいなる犠牲の如くに感ぜらる。新聞屋の種取たねとりにと尋来たずねきたるに逢ひてもその身丈夫にて人の顔さへ見れば臆面おくめんなく大風呂敷おおぶろしきひろぐる勇気あらば願うてもなき自慢話の相手たるべきに、しからざる身には唯々うるさくつらきものとなるなり。世上の文学雑誌にわが身のことども口ぎたなく悪しざまに書立つるを見てさへ反駁はんばくの筆るにものうきほどなれば、見当違ひの議論する人ありとて何事もただ首肯うなずくのみにてその非をあぐる勇気もなし。いはんやその誤を正さん親切気しんせつぎにおいてをや。時折遠国えんごくの見知らぬ人よりこまごまと我がつたなき著作の面白き節々ふしぶし書きこさるるに逢ひてもこれまたそのままに打過して厚きこころざしを無にすること度々たびたびなり。
 心地すぐれざるも打臥うちふすほどにもあらねばめりとはいひがたし。やまいなくして病あるが如き身のさまこそいぶかしけれ。下谷したや外祖父がいそふ毅堂きどう先生の詩に小病無名怯暮寒小病しょうびょうく 暮寒ぼかんおそる〕といはれしもかくの如き心地にや。老杜ろうと登高とうこう七律しちりつにも万里悲秋常ナル百年多病独登万里ばんり悲秋ひしゅう 常に客とる、百年の多病 独りだいに登る〕の句あり。
 正月二月の寒風に吹かれていえれば、眼くるめくばかり頭痛を催し、八月の炎天を歩み汗を拭はんとて物かげにいこひ風を迎ふれば凉しと思ふ間もなく、たちまち肌ひやひやとして気味わるき寒さを覚ゆ。冬の日はわれひと共に寒きものなればさして悲しとも思はねど夏はつくづく情なき事のみなり。夕方の行水ぎょうずいにも湯ざめを恐れ、咽喉のどかわきも冷きものは口に入るることあたはざれば、これのみにても人並の交りは出来ぬなり。人にさそはれ夕凉ゆうすずみいづる時もわれのみはあらかじめ夜露の肌をおかさん事をおもんばかりて気のきかぬメリヤスの襯衣シャツを着込み常に足袋たびをはく。酒楼しゅろうのぼりてもよる少しくけかかると見れば欄干らんかんに近き座を離れて我のみ一人葭戸よしどのかげに露持つ風を避けんとす。をちこちに夜番よばん拍子木ひょうしぎ聞えて空には銀河のながれ漸くあざやかならんとするになほもあつしあつしと打叫うちさけびて電気扇でんきせん正面まともに置据ゑ貸浴衣かしゆかたえりひきはだけて胸毛を吹きなびかせ麦酒ビールの盃に投入るるブツカキの氷ばりばりと石を割るやうに噛砕かみくだく当代紳士の豪興ごうきょう、われこれを以て野蛮なるかなや没趣味なる哉やと嘆息するも誠はわが虚弱のねたみに過ぎず。何事に限らずわが言ふ処まじめの議論と思給はばとんでもなき買冠かいかぶりなるべし。


 慶応義塾のつとめもかくては日に日に退儀たいぎとなりぬ。朝早く出掛でかけ間際まぎわに腹痛みいづることも度々たびたびにて、それ懐中の湯婆子ゆたんぽ懐炉かいろ温石おんじゃくよと立騒ぐほどに、大久保よりふだつじまでの遠道とおみちとかくに出勤の時間おくれがちとはなるなり。時雨しぐれそぼふる午下ひるすぎ火の乏しき西洋間の教授会議または編輯へんしゅう会議も唯々わけなくつらきもののうちに数へられぬ。何時いつ幾日いくかには遊びに行かんと親しき友より軽き約束申出もうしいでられてももしやその日に腹痛まば如何いかにせん、雨降らばにくからんなぞ取越苦労のみ重れば折角のきょうもとく消えがちなるこそ悲しけれ。
 心柄こころがらとはいひながらひてみずから世をせばめ人のまじわりを断ち、いえにのみ引籠ひきこもれば気随気儘きずいきままの空想も門外世上の声に妨げまさるる事なければ、いつとしもなくわれは誠に背もまるく前にかがみかしらに霜置くおきなとなりけるやうの心とはなりにけり。
 八重も女の身の既に三十路みそじを越えたり。始めのほどはリウマチスのやまいさへえて舞ふに苦しからずなりなば再び新橋にや帰らん新に柳橋にや出でんあるひは地を選びて師匠のふだをや掲げんなぞ思ひくわだつる処さまざまなりしかども、いつか我が懶惰らんだの習ひにや馴れ染めけん、かつは日頃親しく尋来たずねきたる向島の隠居金子かねこ翁といふ老人のすすめもありてや、浮世の夢をよそに、思出多き一生を大久保の里にうずめ、早衰のわが身が朝夕あさゆうの世話する事とはなりぬ。そは甲寅きのえとらの年も早や秋立ちめし八月末の日なりけり。目出度き相談まとまりて金子翁を八重が仮の親元に市川左団次いちかわさだんじ夫妻を仲人なこうどにたのみ山谷さんや八百屋やおやにてかたばかりの盃事さかずきごといたしけり。(金子翁名元助天保御趣意の前年江戸和蘭陀屋敷御同心の家に生るといふ清元の三絃をよくしまた宇治の太夫となりて金紫と号す瓦解の後商となり横浜に出で産を起し※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)上に有馬温泉を建つ二子あり坂東秀調はその長子藤間金之助はその次子なり)八百屋善四郎ぜんしろういえはその時庭の地揚じあげ土台の根つぎなぞ致すため客をことわりてゐたりしかど金子翁かつて八百屋が先代の主人とは懇意なりける由にて事の次第をはなして頼みければ今の若き主人心よく承知して池にのぞ下座敷したざしきを清め床の間の軸も光琳こうりんが松竹梅の三幅対さんぷくついをかけその日のみわれらがために一日いちにち商売あきないの面倒をいとはざりけり。
 この日残暑の夕陽せきよう烈しきに山谷の遠路えんろをいとはずしてわが母上も席につらなり給ひぬ。母は既に父いませし頃よりわが身の八重といふれそめける事を知り玉ひき。去歳さるとしわが病伏やみふしける折日々にちにち看護にきたりしより追々に言葉もかけ給ふやうになりてひそかにその立居たちい振舞を見たまひけるが、癇癖かんぺき強く我儘なるわれにつかへて何事も意にさからはぬ心立こころだての殊勝なるに加へて、殊に或日わが居間の軸を掛替かけかゆる折滬上こじょう当今とうこんの書家※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)こうようといふ人の書きける小杜しょうと茶煙禅榻さえんぜんとう七絶しちぜつすらすらと読下よみくだしける才識に母上このもの全く世の常の女にあらじと感じたまひてこのたびの婚儀につきては深くその身元のあしよしを問ひたまはざりき。
 八重竹柏園ちくはくえんに遊びて和歌を学びしは久しき以前の事なり。近頃四谷に移住うつりすみてよりはふと東坡とうばが酔余の手跡しゅせきを見その飄逸ひょういつ豪邁ごうまいの筆勢を憬慕けいぼ法帖ほうじょう多く購求あがないもとめて手習てならい致しける故唐人とうじん行草ぎょうそうの書体訳もなく読得よみえしなり。何事も日頃の心掛によるぞかし。


 八重いえきたりてよりわれはこの世の清福限無かぎりなき身とはなりにけり。人はおいを嘆ずるが常なり。然るにわれはにわかに老のたのしみの新なるを誇らんとす。人生の哀楽唯その人の心一ツによる。木枯こがらしさけぶすがら手摺てずれし火桶ひおけかこみて影もおぼろなる燈火とうかもとに煮る茶のあじわい紅楼こうろう緑酒りょくしゅにのみ酔ふものの知らざる所なり。寝屋ねやの屏風太鼓張たいこばりふすまなぞ破れたるを、妻と二人して今までは互に秘置ひめおきける古きふみ反古ほご取出とりいだして読返しながら張りつくろふ楽しみもまた大厦高楼たいかこうろうを家とする富貴ふうきの人の窺知うかがいしるべからざる所なるべし。菊植ゆるまがきまたはかわやの窓の竹格子たけごうしなぞの損じたるをみずから庭の竹藪より竹切来きりきたりて結びつくろふたわむれもまた家をそとなる白馬銀鞍はくばぎんあん公子こうしたちが知る所にあらざるべし。わが物書くべき草稿の罫紙けいしは日頃いとまある折々われ自らバレン持ちて板木はんぎにてりてゐたりしが、八重今はたすきがけの手先墨にまみるるをもいとはず幾帖いくじょうとなくこれを摺る。かかる楽しみも近頃西洋紙に万年筆走らせて議論する文士の知らざる所とやいはん。
 わがには亡父なきちちのこし給ひし書籍盆栽文房の器具すくなからず。八重はわれを助けていえを修めんがため『林園月令りんえんげつれい』、『雅遊漫録がゆうまんろく』、『草木育種そうもくいくしゅ』、『庭造秘伝鈔にわつくりひでんしょう』、『日本家居秘用にほんかきょひよう』なぞいふたぐいの和漢の書取出して読みあさり、すずりの海の底深ういわのやうにこびりつきたる墨のかす洗ひ落すには如何いかにすればよき。蒔絵まきえの金銀のくもりを拭清ふききよむるには如何にせばよきや。堆朱ついしゅの盆香合こうごうなどそのほりの間の塵を取るには如何にすべきや。盆栽の梅は土用どよううち肥料こやしやらねば来春花多からず。山百合やまゆりは花終らば根を掘りて乾ける砂のなかに入れ置けかし。あれはかくせよ。これはかうせよと終日ひねもすたすきはづすいとまだになかりけり。
 わが父はこの上なく物堅き人なりき。然れども生前自ら選みたまひしその詩稿『来青閣集らいせいかくしゅう』といふを見れば
良辰佳会古難並 〔ときかいいにしえより並び難し
玉手※[#「てへん+參」、U+647B、128-8][#「てへん+參」、U+647B、128-8]酒幾巡  玉手ぎょくしゅ※※さんさん[#「てへん+參」、U+647B、128-8][#「てへん+參」、U+647B、128-8]としてさけ幾たびかめぐ
休道詩人無艶分  なか詩人しじん艶分えんぶんしと
先従花国賦迎春  花国かこくして春を迎えん
   新歳竹枝            新歳しんさい 竹枝ちくし

春鳥無心喚友啼 〔春鳥しゅんちょう無心むしんに友を喚びて
蘭舟繋在水祠西  蘭舟らんしゅうつながれて水祠すいし西にし
暖波一面花三面  暖波だんぱ一面いちめん はな三面さんめん
真個温柔郷此堤  真個しんこ温柔郷おんじゅうきょうなり つつみ
   看花七絶            看花かんか 七絶しちぜつ
の如き艶体えんたいの詩をしょうし得るなり。またかつて中国に遊び給ひける時姑蘇こそ城外を過ぎてに贈り給ひし作多きがなか
麗質嬌姿本絶羣 〔麗質れいしつ 嬌姿きょうし もとよりぐんぜっ
蘭房別占四時春  蘭房らんぼうわけても四時しじの春
相逢無語翻多恨  いてことばかえって多恨なごりお
桃葉桃根画裏人  桃葉とうよう 桃根とうこん 画裏がりひと

如在※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)香亭北看 〔沈香亭じんこうていきたりてるがごと
妖姿冶態正春闌  妖姿ようし 冶態やたい まさはるたけなわなり
多情卿是傾城種  多情たじょうきみ傾城けいじょうしゅ
不信小名呼墨蘭  信ぜず 小名しょうみょう墨蘭ぼくらんと呼べるを〕
の如きくわが記憶する所なり。現に城南新橋じょうなんしんきょうほとり南鍋街なんこがいの一旗亭きていにも銀屏ぎんぺいに酔余の筆を残したまへるがあり。
 われいえを継ぎいくばくもなくして妓を妻とす。家名をはずかしむるの罪元よりかろきにあらざれど、如何にせんこの妓心ざま素直すなおにて唯我につかへて過ちあらんことをのみうれふるを。何事も宿世しゅくせの因縁なりかし。初手しょては唯かりそめのちぎりとしぬれば人にいはれぬ深きわけ重なりてまことの涙さそはるる事もぬるなり。これらをや迷の夢と悟りし人はいふなるべし。世のそしり人のさげすみも迷へるものはかえりみず。われは唯この迷ありしがためにいはゆる当世の教育なるもの受けし女学生あがりの新夫人を迎ふる災厄をまぬかれたり。さかずき持つ妓女ぎじょ繊手せんしゅは女学生が体操仕込の腕力なければ、朝夕あさゆうの掃除に主人が愛玩あいがん什器じゅうきそこなはず、縁先えんさきの盆栽も裾袂すそたもとに枝引折ひきおらるるおそれなかりき。世の中一度いちどに二つよき事はなし。

十一


 親しき友にも八重との婚儀は改めて披露ひろうせず。祝儀しゅうぎの心配なぞかけまじとてなり。物堅き親戚一同へはわれら両人ふたりが身分をかえりみて無論披露は遠慮致しけり。人のいやがる小説家と世の卑しむ妓女ぎじょとの野合やごう、事々しく通知致されなば親類の奥様や御嬢様方かへつて御迷惑なるべしと察したればなり。然れども世は情知らぬ人のみにはあらず。我らがこのたびの事目出度しとて物祝ひ賜はるむきすくなからざりしかば、八重は口やかましき我が身が世話の手すきを見計みはからひて諸処方々返礼に出歩きけり。秋もたちまち過ぎ去りぬ。菊の花しおるるまがきには石蕗花つわぶき咲き出で落葉らくようの梢に百舌鳥もずの声早や珍しからず。裏庭ののほとりに栗みのりて落ち縁先えんさきには南天なんてんの実、石燈籠いしどうろうのかげには梅疑うめもどき色づきめぬ。
 初冬はつふゆの山の手ほどわがの庭なつかしく思はるる折はなし。人は樹木じゅもく多ければ山の手は夏のさかりにしくはなけんなど思ふべけれど、藪蚊やぶかの苦しみなき町中まちなか住居すまいこそ夏はかへつて物干台ものほしだい夜凉よすずみ縁日えんにちのそぞろ歩きなぞきょう多けれ。すだれ捲上まきあげし二階の窓に夕栄ゆうばえ鱗雲うろこぐも打眺め夕河岸ゆうがし小鰺こあじ売行く声聞きつけてにわか夕餉ゆうげの仕度待兼まちかぬる心地するも町中なればこそ。ひるがえつて冬となりぬる町の住居を思へば建込むいえにさらでも短き日脚ひあしの更に短く長火鉢置く茶の間は不断の宵闇よいやみなるべきに、山の手の庭は木々の葉落尽すが故に夏よりもあかるく晴々しく、書斎の丸窓も芭蕉ばしょう朽ちておだやかなる日の光終日ひねもす斜にさすなり。露時雨つゆしぐれ夜ごとにしげくなり行くほどに落葉朽ち腐るる植込うえごみのかげよりは絶えず土のくんじて、鶺鴒せきれい四十雀しじゅうから藪鶯やぶうぐいすなぞ小鳥の声は春にもましてにぎわし。げに山の手は十一月十二月かけての折ほど忘れがたく住心地すみごこちよき時はなきぞかし。
 八重諸処への礼歩きもすまして今はいえにのみあり。障子しょうじは皆新しう張替へられたり。家の柱縁側えんがわなぞ時代つきて飴色あめいろに黒みてひかりたるに障子の紙のいと白くのりの匂も失せざるほどに新しきは何となくよきものなり。座敷も常よりは明くなりたるやうにて庭樹にわきの影小鳥の飛ぶ影の穏かなる夕日に映りたるもまた常よりはあざやかなる心地す。夕風裏窓の竹を鳴して日暮るれば、新しき障子の紙に燈火とうかの光もまた清く澄みて見ゆ。冬となりてここにまた何よりも嬉しき心地せらるるは桐の火桶ひおけ置炬燵おきごたつ枕屏風まくらびょうぶなぞ春より冬にかけて久しく見ざりし家具に再び遇ふ事なり。去年の冬より今年も春なほ寒き折までは毎朝つやぶきん掛けてよく拭き込みたる火鉢、夏のうち仕舞ひ込みたる押入のちりに大分光沢つやうせながらしかも見馴れたる昔のままの形して去年ありける同じき処に置据おきすゑられたるさながら旧知の友に逢ふが如し。君もすこやかなりしか。我もまたさいわいに余生を保ちぬと言葉もかけたき心地なり。まこと初冬はつふゆの朝初めて火鉢見るほど、何ともつかず思出多き心地するものはなし。わが友江戸庵えどあんが句に
冬来るやまたなつかしき古火桶
 これいささかもたくむ所なくして然もその意を尽したる名吟めいぎんならずや。去歳こぞの冬江戸庵主人画帖がじょう一折ひとおりたずさきたられ是非にも何か絵をかき句を題せよとせめ給ひければ我止む事を得ず机の側にありける桐の丸火鉢まるひばちを見てその形を写しけるが、俳想乏しくて即興の句出でざる苦しさに、何やら訳もわからぬ文句左の如く書流したる事あり。
おりかがむ背中もやがて円火鉢まるひばち
  かどのとれたる老を待つかな
 それはさて置き、八重わがに来りてよりはわがおさなき時より見覚えたるさまざまの手道具てどうぐ皆手入よく綺麗にふき清められて、昨日まではとかく家をそとなる楽しみのみ追ひ究めんとしける放蕩のここに漸く家居かきょたのしみを知り父なきのちの家を守る身となりしこそうれしけれ。

十二


 おほよその人は詩をし絵をかく事をのみ芸術なりとす。われも今まではかく思ひゐたり。わが芸術を愛する心は小説を作り劇を評し声楽を聴くことを以て足れりとなしき。然れども人間の欲情もときわまる処なし。我は遂にむべきいえ着るべき衣服くらふべき料理までをも芸術のうちに数へずば止まざらんとす。進んでわが生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す。然らざればわが心遂にまことの満足を感ずる事あたはざるに至れり。我が生涯を芸術品として見んとする時妻はその最も大切なる製作の一要件なるべし。
 人はかかる言草いいぐさを耳にせばただち栄耀えいようの餅の皮といひつべし。されど芸術を味ひ楽しむ心はもと貧富の別に関せず。深刻の情致じょうちは何事によらずかへつて富者の知らざる処なり。わが衣食住とわが生涯を以てきたる詩活きたる芸術の作品となすに何のついえをか要せん。裏路地うらろじ佗住居わびずまいみずかやすんずる処あらばまた全く画興詩情なしといふべからず、金殿玉楼も心なくんば春花秋月なほ瓦礫がれきひとしかるべし。
 わがいえ山の手のはづれにあり。三月春泥しゅんでい容易に乾かず。五月早くも蚊に襲はる。いち喇叭らっぱ入相いりあいの鐘の余韻を乱し往来の軍馬は門前の草をみ塀を蹴破る。昔は貧乏御家人ごけにん跋扈ばっこせし処今は田舎いなか紳士の奥様でこでこ丸髷まるまげそびやかすの、元より何の風情ふぜいあらんや。然れどもわが書庫に蜀山人しょくさんじんが文集あり『山手やまのて閑居かんきょ』はよくわれを慰む。わが庭広からず然れども屋後おくごなほ数歩の菜圃さいほあまさしむ。款冬ふきせりたでねぎいちご薑荷しょうが独活うど、芋、百合、紫蘇しそ山椒さんしょ枸杞くこたぐい時に従つて皆厨房ちゅうぼうりょうとなすに足る。八重日々にちにち菜園に出で繊手せんしゅよくこれをみ調味してわが日頃好みて集めたるうつわに盛りぬ。
 つらつらおもふに我国の料理ほど野菜に富めるはなかるべし。西洋にては巴里パリーに赴きて初めて菜蔬さいそあじわい称美すべきものにふといへどもその種類なほ我国の多きに比すべくもあらず。支那には果実の珍しきもの多けれど菜蔬に至つては白菜はくさい菱角りょうかく藕子ぐうし嫩筍どんじゅん等のほかわれまた多くその他を知らず、菜蔬と魚介ぎょかいあじわい美なるもの多きはこれ日本料理の特色ならずとせんや。
 食器の清洒せいしゃ風雅なるまたおおいに誇るに足るべし。西洋支那の食器金銀珠玉を以てこれを製するあり、その質堅牢にしてその形の壮麗なる元より我国の及ぶ処ならず。洋人銀の肉叉にくさを用ひ漢人翡翠ひすいはしる。しかして我俗わがぞく杉の丸箸を以て最上の礼式とす。万事皆かくの如し。また思ふに西洋支那の食卓共に華麗荘厳の趣あれども四時しじを通じてその模様大抵同じきが如く、その料理とこれを盛る食器との調和対照に意を用ゆる事我国の如く甚しからざるに似たり。我国の膳部ぜんぶにおけるや食器の質とその色彩紋様もんよう如何いかんによりてその趣全く変化す。夏には夏冬には冬らしき盃盤はいばんを要す。たれまぐろの刺身を赤き九谷くたにの皿に盛り新漬しんづけ香物こうのもの蒔絵まきえの椀に盛るものあらんや。日本料理は器物の選択を最も緊要となす。ここにおいてその法全く特殊の芸術たり。盃盤の選択は酒楼にあつてはただちに主人が風懐ふうかい如何いかんうかがはしめ一家にあつては主婦が心掛の如何を推知せしむ。八重多年教坊きょうぼうにあり都下の酒楼旗亭にして知らざるものなし。くわうるに骨董こっとうの鑑識浅しとせず。わが晩餐の膳をして常に詩趣俳味に富ましめたる敢て喋々ちょうちょうの弁を要せず。いつも痒いところに手が届きけり。されば八重去つてよりわれまた肴饌こうせんのことを云々うんぬんせず。机上の花瓶かへいとこしなへにまた花なし。

十三


 八重何が故に我家わがやを去れるや。われまた何が故にその後を追はざりしや。『矢筈草』の一篇もとこの事を書綴りて愛読者諸君のお慰みにせんと欲せしなり。新聞紙三面の記事は世人せじんの喜ぶ所なり。実録とさへ銘打めいうてば下手な小説もよく売れるなり。作者くだらぬ長談義にのみ耽りて容易に本題に入らざる所以ゆえんのものそれ果して何ぞ。

十四


 目出度き甲寅きのえとらの年は暮れて新しき年もいつか鶯の初音はつね待つ頃とはなりけり。一日いちにちわれ芝辺しばへんに所用あつて朝早くよりいえを出で帰途築地の庭後庵ていごあんをおとづれしにいつもながら四方山よもやまの話にそのままをふかし車を頂戴して帰りけり。かどの戸あく音に主人の帰りを待つ飼犬のすそにまつはる事のみ常に変らざりしがいえの内なにとなく寂然せきぜんとして、召使ふ子女こおんな一人いちにんのみ残りて八重は既に家にはあらざりき。八畳の茶の間に燈火とうか煌々こうこうと輝きて、二人が日頃食卓に用ひし紫檀したんの大きなる唐机とうづくえの上に、箪笥たんすの鍵を添へて一通の手紙置きてあり。初め小婢しょうひのわが帰るを見るや御新造ごしんぞ様は御風呂めして九時頃お出掛になりやがて何処いずこよりとも知らず電話にて今夜はおそくなる故帰らぬよし申越されぬと告げけるが、その折にはわれさまでは驚かず、大方新橋あたりの妓家ぎかならずば藤間ふじまが弟子のもとに遊べるならんと思ひしに、唐机の上の封書開くに及び初めて事の容易ならぬを知りけり。

十五


『矢筈草』いよいよこれより本題にらざるべからざる所となりぬ。然るに作者にわかまどうて思案投首なげくび煙管キセルくわへて腕こまねくのみ。
 その年の桜咲く頃八重は五年振りにて再び舞扇まいおうぎ取つて立つ身とはなれるなり。好奇の粋客すいきゃくもしわが『矢筈草』の後篇を知らんことを望み玉はば喜楽きらくなり香雪軒こうせつけん可なり緑屋みどりやまたあしからざるべし随処の旗亭きていに八重をへいして親しく問ひ玉へかし。八重唯舞ふ事をくするのみにあらず哥沢節うたざわぶしは既に名取なとりなり近頃また河東かとうを修むと聞く。彼女もし問ふものに向つてあらはに事の仔細を語る事を欲せずとせんか、代るに低唱微吟ていしょうびぎん以てその所思しょしを託せしむべき歌曲に乏しからざるべし。凡そ人その思ふ所を伝へんとするや必ずしも田舎議員の如く怒号する事を要せざるべし。何ぞまた新しき女にならつてやたらに告白しむやみに懺悔ざんげするに及ばんや。われ近頃人より小唄こうたなるものを教へらる。
 ※(歌記号、1-3-28)三ツの車にのりの道ソウラ出た……悋気りんき金貸かねかしや罪なもの
また以てわが一時いちじの情懐を託するに足りき。

十六


 昨日きのうとなれば何事もただなつかし。何ぞ事の是非をきわめて彼我ひがあやまちあきらかにするの要あらんや。青春まことに一夢いちむ。老の寝覚ねざめに思出の種一つにても多からんこそせめての慰めなるべけれ。きがひありしといふべけれ。石橋いしばしをたたいて五十年無事に世を渡り得しものは誠に結構と申すの外なし。一度ひとたび足踏みすべらせて橋下きょうかの激流におちいれば渾身こんしんの力尽して泳がんのみ。彼岸ひがんに達せんとすれどもながれ急なればすみやかに横断すべくもあらず。あるひは流に従つて漂ひあるひは巌角がんかくぢていこひ、おもむろにその道を求めざるべからず。ここにおいてか無事石橋を歩むものの知らざる処を知る。話の種多く持つ身とはなるなり。

十七


 芸者その朋輩ほうばい丸髷まるまげふを見ればわたしもどうぞ一度はと茶断ちゃだち塩断しおだち神かけて念ずるが多し。芸者も女なり。いやな旦那をつとめて好きな役者狂ひの口直くちなおしにも少し飽きが来れば、さだまる男一人ひとりにかしづいて見たい殊勝の願ひを起す。これ波瀾より平坦にるものけだし自然の人情なるべし、決してとがむべきにあらず。さればそんじよそこらのねえさんたちそれぞれよい客見付けて足を洗ひ、中には鳥子餅とりのこもちくばるもあれど、その噂朋輩の口よりまだ消えもやらぬに、早くもああくさくさしちまつたよと、泣いたり笑つたりした揚句の果はまたもとの古巣に還るものはなはだ頻々ひんぴん。去就出没常ならず。さればおかみにては一度ひとたび芸者の鑑札返上致せしものには半歳はんとしを経ざれば再びこれをげ渡さざるの制を設くといふ。けだし役人衆の繁忙を防がんがためなるべし。
 そんな事はどうでもよいとして、芸者何が故にかくは出たり引込んだり致すぞや。通人いふ。一度いちど商売したものは辛抱の置き処が違ふ故当人いかほど殊勝の覚悟ありても素人しろうとのやうにはかぬなり。これをたくみに使つて身を落ちつかせてやるは亭主となつた男の思遣おもいやり一ツによる事なり。年増盛としまざかりを過ぎて一度商売をめた女、また二度出るは気の毒なものと察してやるが訳知つた人のなさけなり。男の顔に泥塗るやうな事さへせぬかぎり大抵のことは大目に見てやるがよし。漢学者のやうにのたまわくで何か事あれば直ぐに七去しちきょおしえたてに取るやうな野暮な心ならば初めから芸者引かせて女房にするなぞは大きな間違ならんと。
 ばくするものは言ふ。芸者したものはいもあまいも知つてゐるはずなり。栄耀栄華えいようえいがの味を知つたもの故芝居も着物もさして珍らしくは思はぬはずなり。何があつても素人のやうには立騒がずともすむはなしなり。万事さばけて呑込み早かるべきはずなり。亭主の癇癪かんしゃくたくみにそらして気嫌を直さすべきはずなり。素人では気のつかぬ処に気がつく故にそれしゃはそれ者たる値打があるなり。もしそれ持参金つきの箱入娘貰つたやうに万事遠慮我慢して連添つれそふ位ならば何も世間親類に後指うしろゆびさされてまでそれしゃうちに入るるの要あらんや。
 いやにました人おつに咳払せきばらひして進み出でて曰く両君ののたまふ所おのおの理あり。皆その人とその場合とに因つてこれを施して可なるべし。素人も芸者も元これ女なり。生れて女となる。女の身を全うするの道古来唯従ふの一語のみ。従はざれば今の処日本にては女の身は立ちがたし。芸者気随気儘勝手次第にその日を送り得るやうに見ゆれどもさにあらず。元これ愛嬌商売なれば第一に世間に従つて行かねばならぬなり。お客に従はねばならぬなり。出先でさきの茶屋の女中に従はねばならぬなり。足を洗つて素人となる。すなわち旦那に従はねばならぬなり。そのいえに従はねばならぬなり。同じく皆従ふなり。一人ひとりに従ふと諸人しょにんに従ふとの相違のみ。そのいづれかを選ぶべきやはこれその人の任意なり。素人となれば素人の苦楽共にあり商売に出れば商売の苦楽また共に生ず。無事平坦を望まば素人たるべし。変化を欲せば芸者たるべし。これまたその人とその場合によつて論ずべきなり。孔明こうめい兵を祁山きざんいだす事七度ななたびなり。匹婦ひっぷ七現七退しちげんしちたい何ぞ改めて怪しむに及ばんや。唯その身の事よりして人にるいおよぼしために後生ごしょうさわりとなる事なくんばよし。皆時の運なり。素人とならばその日その日の金銭出入帳でいりちょう書く事怠らぬがよし。商売に出でなば勤めべき処よく勤むべし。朝起きた時奥歯に物のはさまつたやうな心持する事なくその日その日を送り得ばとなるも妻となるも何ぞ選ばん。あれも一生これも一生ぞかし。いづれにしても柔和は女徳にょとくの第一なり。加ふるに悋気りんきつつしまば妓となるとも人に愛され立てられて身を全うし得べし。いはんや正路せいろの妻となるにおいてをや。
 おつにすました人弁出べんじいだして尽くる所を知らず。これでは作者よりも皆様が御迷惑とここに横槍を入れて『矢筈草』を終る。
大正五丙辰暮春稿





底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「特のへん+尨」、U+727B    116-2
「てへん+參」、U+647B    128-8、128-8、128-8、128-8


●図書カード