毎年一度の
虫干の日ほど、なつかしいものはない。
家中で一番広い客座敷の縁先には、
亡つた人達の
小袖や、年寄つた母上の若い時分の長襦袢などが、幾枚となくつり下げられ、其のかげになつて薄暗く妙に涼しい座敷の畳の上には歩く隙間もないほどに、古い蔵書や書画帖などが並べられる。
色のさめた古い衣裳の
仕立方と、紋の大きさ、縞柄、染模様などは、鋭い樟脳の匂ひと共に、自分に取つては年毎にいよ/\なつかしく、過ぎ去つた時代の風俗と流行とを語つて
聞せる。古い蔵書のさま/″\な種類は、其の折々の自分の趣味思想によつて、自分の
家にもこんな面白いものがあつたのかと、忘れてゐた自分の眼を驚かす。
近頃になつて父が
頻と買込まれる支那や朝鮮の珍本は、自分の趣味知識とは余りに懸隔が烈し過ぎる。古い英語の経済学や万国史はさして珍しくもない。今年の虫干の昼過ぎ、一番自分の眼を驚かし喜ばしたものは、明治初年の頃に出版された草双紙や綿絵や又は漢文体の雑書であつた。
明治初年の出版物は自分が此の世に生れ落ちた当時の人情世態を語る尊い
記録である。自分の身の上ばかりではない。自分を生んだ頃の父と母との若い華やかな時代をも語るものである。苔と落葉と土とに
埋れてしまつた古い石碑の
面を恐る/\洗ひ清めながら、磨滅した
文字の一ツ一ツを
捜り出して行くやうな心持で、自分は先づ第一に、「
東京新繁昌記」と言ふ漢文体の書籍を拾ひ読みした。
今日では
最早やかう云ふ文章を書くものは
一人もあるまい。「東京新繁昌記」は自分が
茲に説明するまでもなく、
寺門静軒の「江戸繁昌記」
成島柳北の「
柳橋新誌」に
倣つて、正確な漢文をば、故意に破壊して日本化した結果、其の文章は無論支那人にも分らず、又漢文の素養なき日本人にも読めない。所謂
鵺のやうな一種変妙な形式を作り出してゐる。この変妙な文体は今日の吾々に対しては著作の内容よりも一層多大の興味を覚えさせる。
何故なれば、其れは正確純粋な漢文の形式が
漸次時代と共に日本化して来るに従ひ、若し漢文によつて
浮世床や縁日や
夕涼の如き市井の生活の実写を試み
やうとすれば、どうしても支那の史実を記録するやうな完全固有の形式を保たしめる事が出来なかつた事を証明したものと見られる。又江戸以来勃興した
戯作といふ日本語の写実文学の感化が邪道に陥つた
末世の漢文家を侵した一例と見ても差支へがないからである。
「東京新繁昌記」の奇妙な文体は厳格なる学者を憤慨させる間違つた処に、その時代を再現させる価値が含まれてゐるのである。
此の如き漢文はやがて吾々が小学校で習つた
仮名交りの紀行文に終りを
止めて、其の後は全く廃滅に帰してしまつた。時勢が然らしめたのである。漢文趣味と戯作趣味とは共に西洋趣味の代るところとなつた。自分は今日近代的文章と云はれる新しい日本文が
恰も三十年昔に、「東京新繁昌記」に試みられた奇態な文体と同様な、不純混乱を示してゐはせぬかと思ふのである。かの「スバル」一派を以て、其の代表的実例となした或る批評の老大家には、青年作家の文章が丁度西洋人の日本語を口真似する手品使ひの
口上のやうに思はれ、又日本文を読み得る或外国人には矢張り現代の青年作家が日本文の
間々に挿入する外国語の意味が、余りに日本化して使はれてゐる為め、
折々は諒解されない事があるとか云ふ話も聞いた。大きにさうかも知れない。然しこの間違つた、滑稽な、
鵺のやうな、
故意になした奇妙の形式は、
寧しろ
言現された叙事よりも、内容の思想を
尚能く窺ひ知らしめるのである。
新繁昌記第五編中、
妾宅と云ふ一節の書始めに次のやうな文章がある。
方今女学之行
ルヽ也専
ラ明
ニシ二女子之道
ヲ一。稍

有
リ二男女同権之説
一。然
リ而
シテ別品之流行未
ダ下曾
テ有
中盛
ンナル二今日
ヨリ一者
上也。妻
ニ有
リ二正権
一妾
ニ有
リ二内外
一。一男
ニシテ而能
ク守
ル二一婦
ヲ一者甚鮮
シ矣。蓋
シ一男之養
フハ二数女
ヲ一則
チ男権之圧
スル二女権
ヲ一也。一女之遇
フハ二四男
ニ一則
チ女権之勝
ル二男権
ニ一也。合
二算
シテ此等之権
ヲ一以
テ為
ス二男女同権
ト一耶。
妾宅といふやうな
不真面目極る問題をば、全然其れとは調和しない形式の漢文を以て、仔細らしく論じ出して、更に戯作者風の頓智滑稽の才を
振つて人を笑はす。かう云ふ著者の態度は飽くまで其の時代一般の傾向を示したものである。丁度其れと同じやう、現代の年少詩人が日本にも随分古くからある
天竺牡丹の花に
殊更ダリヤといふ洋語を応用し、其の花の形容から失へる恋、得たる恋の哀楽を叙して、忽ち人生哲学の
奥義に説き及ぶが如き、
亦よく吾々の時代思潮を語るものでは無からうか。似て非なる漢文の著述は時代と共に全く断滅してしまつた如く、吾々の時代の「新しき文章」も果して
幾何の生命を有するものであらう。或はこれが日本文の最後の
定つた形式として少くとも或る地盤を作るものであらうか。自分は知らない。
天保年間の発行としてある「江戸繁昌記」と此れに模して著作された「東京新繁昌記」とは、単に其の目次だけを比較して見ても、非常な興味を以て、時代風俗の変遷を眺める事が出来る。明治の初年に於ける「文明開化」と云ふ通り言葉は如何なる強い力を以て国民を支配したであらう。「新繁昌記」の著者が牛肉を讃美して、「
牛肉ノ
人ニ
於ケルヤ
開化之薬舗ニシテ
而シテ
文明ノ
良剤也」と言ひ、京橋に建てられた
煉瓦石の家を見ては、「
此ノ
築造有ルハ
都下ノ
繁昌ヲ
増シテ
人民ノ
知識ヲ
開ク
所以ノ
器械也」と叫んだ如きわざと誇張的に滑稽的に戯作の才筆を揮つたばかりではなからう。今日の時代から振返つて見れば、無論此の時代の「文明開化」には如何にも子供らしく馬鹿馬鹿しい事が多い。けれども時代一般の空気が如何にも
生々として、多少進取の気運に
伴つて奢侈逸楽等の弊害欠点の生じて来る事に対しても、世間は多くの
杞憂を
抱かず、清濁併せ呑む勢を以て大胆に猛進して行つた有様はいかにも心持よく感じられる。これを四十四年後に於ける
今日の時勢に比較すると、吾々は殊にミリタリズムの暴圧の下に萎縮しつゝある思想界の現状に
鑑みて、
転た夢の如き感があると云つてもいゝ。然し自分は断つて置く。自分はなにも現時の社会に対して経世家的憤慨を
漏さうとするのではない。時勢がよければ自分は都の花園に出て、時勢と共に喜び楽しむ代り、時勢がわるければ黙つて退いて、象牙の塔に身を隠し、自分一個の空想と
憧憬とが導いて行く好き勝手な夢の国に、自分の心を逍遥させるまでの事である。
寧ろかう云ふ理由から、自分は今
正に、自分が此の世に生れ落ちた頃の時代の
中に、せめて虫干の日の半日
一時なりと、心静かに遊んで見
やうと
急つてゐる最中なのである。
大方母上が若い時に着た衣装であらう。
撫子の裾模様をば肉筆で
描いた
紗の
帷子が一枚風にゆられながら下つてゐる
辺りの縁先に、自分は明治の初年に出版された草双紙の種類を沢山に見付け出した。
古河黙阿弥の著述に
大蘇芳年の絵を
挿入れた「
霜夜鐘十時辻占」。
伊藤橋塘と云ふ人の書いた「
花春時相政」といふ
侠客伝もある。「
高橋お
伝」や「
夜嵐お
絹」のやうな流行の毒婦伝もある。「
明治芸人鑑」と題して俳優
音曲落語家の人名を等級別に
書分けたもの、又は、「
新橋芸妓評判記」「
東京粋書」「
新橋花譜」なぞ
名付けた小冊子もある。
此等の書籍はいづれも
水野越州以来久しく圧迫されてゐた江戸芸術の花が、維新の革命後、如何に
目覚しく
返咲きしたかを示すものである。芝居と
音曲と花柳界とは江戸芸術の生命である。
仮名垣魯文が「いろは新聞」の全紙面を花柳通信に費したのも怪しむに足りない。芝居道楽といふディレツタントの劇評家が
六二連を組織して各座の劇評を単行本として出版したのも不思議ではない。
二世国貞、
国周、
芳幾、
芳年の如き浮世絵師が
盛に
其製作を刊行したのも自然の趨勢であらう。支那画家の一派も
亦時としては
柳橋や
山谷堀辺りの風景をば、
恰も水の多い南部支那の風景でもスケツチしたやうに全く支那化して
描いてゐるが、これは当時の漢詩人が
向島を
夢香洲、
不忍池を
小西湖と呼んだと同じく、日本の社会の一面には
何時の時代にもそれ/″\、外国崇拝の思想の流れてゐた事を証明する材料の一ツとして、他日別に論究されべき問題であらう。
自分は虫干の
今日もまた最も興味深く古河黙阿弥の著作を読返した。脚本のトガキだけを書き直して
其儘絵入の草双紙にしたもの、又は狂言の筋書役者の芸評等によつて、自分は黙阿弥翁が脚本作家たる一面に於て、忠実に其の時代の風俗を写生してゐることを喜ぶのである。同時に又、作者が勧善懲悪の名の
下に或は作劇の組織を複雑ならしめんが為めに
描き出した多種類の悪徳及び殺人の光景が、写実的なると空想的なるとを問はず、江戸的デカダンス思想の最後の究極点を示してゐる事を面白く思ふのである。
江戸文明の爛熟は久しく
傾城遊君の如き病的婦人美を賞讃し尽した結果、其不健全なる芸術の趣味の赴く処は是非にも毒婦と称するが如き特種なる暗黒の人物を
造出さねば
止まなかつた。自分は当時の
世間に事実全身に
刺青をなし
万引をして歩いたやうな毒婦が
幾人あつたにしても、其れをば
矢張一種の芸術的現象と
見倣してしまふ。
何故なれば
此当時の世の中には芝居が人心を支配した勢力と、芝居が実社会から捉へて来たモデルとの密接な関係が、殆ど或場合には引放す事の出来ない程混同錯乱してゐるからである。黙阿弥の劇中に見られるやうな毒婦は近松にも西鶴にも
春水にも
見出されない。
馬琴に至つて初めて「
船虫」を発見し得るが、講談としては已に
鬼神お
松其他に多くの類例を挙げ得るであらう。黙阿弥は其の以前と其の時代とに云伝へられた毒婦を一括して此れに特種の典型を付し、菊五郎と源之助との技芸化を経て、遂に一時代の特色を作らしめた天才である。毒婦は如何なる彼の著作にも世話物と云へば必ず現はれて来る重要なる人物である。観客はこの人物の悪徳的活動範囲の広ければ広いだけ、
所謂芝居らしい快感と興味とを感ずる。そして勧善懲悪の名の
下に一篇の結末に至つて此等の人物が惨殺
若しくは所刑せられるのに対して、英雄的悲壮美を経験するのである。
毒婦の第一の資格は美人でなければならぬ。其れも軽妙で、
清洒で、すね気味な強みを持つてゐる美人でなければならぬ。其れ故、毒婦が遺憾なく其の本領を発揮する場合には観客は道義的批判を離れて、全く芸術的快感に
酔ひ、毒婦の迫害に遭遇する良民の暗愚遅鈍を嘲笑する。「
木間星箱根鹿笛」と云ふ脚本中の毒婦は
色仕掛で欺した若旦那への
愛想尽しに「亭主があると
明けすけに、言つてしまへば身も
蓋も、ないて頼んだ無心まで、ばれに成るのは知れた事、云はぬが花と
実入りのよい
大尽客を
引掛に、旅に出るのもありやうは、亭主の為めと夕暮の、
涼風慕ふ夏場をかけ、
湯治場近き
小田原で、
宿場稼ぎの旅芸者、知らぬ
土地故応頼の、転ぶ噂もきのふと過ぎ、
今日迄すましてゐられたが、東京にゐた其の頃は、毎度いろはの新聞で、
仮名垣さんに叩かれても、のんこのしやアで押通し、
山猫おきつと名を取つた、
尻尾の裂けた気まぐれ者さ。」なぞ云つてゐるのは既に好劇家の暗記してゐる処であらう。
自分は黙阿弥劇の毒婦と又
白浪物の舞台面から「悪」の芸術美を感受する場合、いつもボオドレエルの詩集 F'leurs du Mal を比較せねばならぬと思ふ。無論両者の間には東西文明の相違せる色調に従つて、思想上の価値に高下の差別はあらうけれど、両者ともにデカダンス芸術の極致を示してゐる事だけは同じである。
審美学者ギヨオは有名なる其の著述「社会学上より見たる芸術」の巻末に於て犯罪者の心理に関するロンブロゾ
博士の所論を引用して、悪人は一種恐しい虚栄心を持つてゐるもので、単に世間を恐怖させるため、或は世間一般をして己の名を歌はしむる為に人を殺す事がある。悪人の虚栄心は文学者や婦人のそれよりも更に
甚しい事を記載し、「殺人者の
酔」と題するボオドレエルの
乃公の女房はもう死んだ。
乃公は気随気儘の身になつた。
一文なしで帰つて来ても、
ガア/\喚く嚊アがくたばつて、
乃公は気楽にたらふく呑める。
と云ふ詩なぞを
掲げてゐるが、此れ等は何処となく、黙阿弥劇中に散見する
台詞「
今宵の事を知つたのは、お月様と
乃公ばかり。」また、「人間わづか五十年、一人殺すも千人殺すも、とられる首はたつた一ツ、とても悪事を
仕出したからは、これから夜盗、
家尻切り……。」の如きを思ひ出させるではないか。
ボオドレエルを始め西洋のデカダンスには必ず神秘的宗教的色彩が強く、また死に対する恐しい幻覚が現はれてゐるが、此れ等は初めから諦めのいゝ人種だけに、江戸思想中には
皆無である。其の
代に残忍
極る
殺戮の描写は、他人種の芸術に類例を見ざる特徴であつて、
所謂「殺しの場」として黙阿弥劇中興味の大部分を占めてゐる事は、今更らしく論じ出すにも及ぶまい。
毒婦と
盗人と人殺しと
道行とを仕組んだ黙阿弥劇は、丁度
羅馬末代の貴族が猛獣と人間の格闘を見て喜んだやうに、尋常平凡の事件には興味を感ずる事の出来なくなつた鎖国の文明人が、
仕度三昧の贅沢の揚句に案出した極端な凡ての娯楽的芸術を最も能く総括的に代表したものである。即ちあらゆる江戸文明の究極点は、此の劇的綜合芸術中に集注されてゐるのである。講談に於ける「怪談」の戦慄、人情本から
味はれべき「
濡れ
場」の肉感的衝動の如き、
悉く此れを黙阿弥劇の
中に求むる事が出来る。三味線音楽が
亦この劇中に於て、如何に複雑に且つ効果鋭く応用されてゐるかは、已に自分が其の折々の劇評に論じた処である。「殺しの場」のやうな
血腥き場面が、
屡その伴奏音楽として用ひられる独吟と、如何に不思議なる詩的調和を示せるかを聞け。
以上は黙阿弥劇に現はれたロマンチックの半面であるが、其の写実的半面は狂言の本筋に関係のない仕出しの
台詞や、其の折々の流行の
洒落、又は狂言全体の時代と類型的人物の境遇等に於て窺ひ知られるのである。維新後零落した旗本の家庭、親の為めに身を売る娘、新しい法律を楯にして悪事を働く代言人、暴悪な高利貸、傲慢な官吏、淫鄙な
権妻、
狡獪な
髪結等いづれも
生々とした新しい興味を以て写し出されてゐる。黙阿弥の著作は幕末から維新以後に於ける東京下層社会の生活を研究するに最も適当な資料であらう。
本所深川浅草辺の路地裏には今もつて三四十年
前黙阿弥劇に見るまゝの陰惨不潔無智なる生活が
残存して居る。
虫干の縁先には
尚いろ/\の面白いものがあつた。
大川筋の料理屋の変遷を知るに足るべき「
開化三十六会席」と題した
芳幾の綿絵には、当時名を知られた芸者の姿を中心にして河筋の景色が
描かれてある。自分は
春信や
歌麿や
春章や其れより
下つて
国貞芳年の絵などを見るにつけ、それ等と今日の
清方や
夢二などの絵を比較するに、時代の推移は人間の生活と思想とを変化させるのみならず、生理的に人間の容貌と体格をも変化させて行くらしい。吾々は今日の
新橋に「
堀の
小万」や「
柳橋の
小悦」のやうな姿を見る事が出来ないとすれば、其れと同じやうに、二代目の
左団次と六代目の
菊五郎に向つて、
鋳掛松や
髪結新三の原型的な風采を求めるわけには行かない。古池に飛び込む
蛙は昔のまゝの蛙であらう。中に
玉章忍ばせた
萩と
桔梗は
幾代たつても同じ形同じ色の萩桔梗であらう。然し人間と呼ばれる種族間に於ては、親から子に譲らるべき
其儘の同じものとては一ツもない。
自分は時代の空気の人体に及ぼす生理的作用の如何を論じたい……。然し夏の日足は已に傾きかゝつて来た。涼しい風が
頻と植込の
木の
葉をゆすつてゐる。縁先の鳳仙花は炎天に
萎れた
其葉をば早くも真直に立て直した。古い小袖を元のやうに古い
葛籠にしまひ終つた家人は片隅から一冊
宛古い書物を倉の
中へと運んでゐる。自分は又来年の虫干を待たう。来年の虫干には自分の趣味はいかなる書物をあさらせる事であらう。