改札口の高い壁の上に裝置してある時計には故障と書いた貼紙がしてあるので、時間はわからないが、出入の人の混雜も日の暮ほど烈しくはないので、夜もかれこれ八時前後にはなつたであらう。札賣る窓の前に行列をする人數も次第に少く、入口の
色の白い奧樣は改札口から
季子は今夜初てこゝに來たのではない。この夏、姉の家の厄介になり初めてから折々憂欝になる時、ふらりと外に出て、蟇口に金さへあれば映畫館に入つたり、闇市をぶらついて立喰ひをしたり、そして省線の驛はこの市川ばかりでなく、一ツ先の元八幡驛の待合所にも入つて休むことがあつた。その度々、別に氣をつけて見るわけでもないが、この邊の町には新婚の人が多いせいでもあるのか、夕方から夜にかけて、勤先から歸つて來る夫を出迎へる奧樣。また女の歸つて來るのを待合す男の多いことにも心づいてゐた。季子はもう十七になつてゐるが、然し戀愛の[#「戀愛の」は底本では「變愛の」]經驗は一度もした事がないので、さほど羨しいとも
この前來た時には短いスカートからむき出しの兩足を隨分蚊に刺されたが、今はその蚊もゐなくなつた。二人づれで凉みに來たり、子供を遊ばせに來る女もゐたが今はそれも見えない。時候はいつか秋になり、その秋の夜も大分露けくなつた。と思ふと、ます/\現在の家にゐるのがいやで/\たまらない氣がして來る……。
季子は三人
さういふ家庭であるから、季子はそれほど居づらく思ふわけの無い事は、自分ながら能く承知してゐるのだ。自分の方から進んで手傳ふ時の外、洗ひものも掃除も姉から言ひつけられたことはない。兄はまた初めから何に限らず小言がましく聞えるやうな忠告はした事がなく、郵便を出させにやる事も滅多にない。日曜日に子供も一緒に夫婦連立つて買物方々出歩かうと云ふ折など、「季ちやん。一緒に行くかね。」と誘ふこともあるが、是非にと云ふ程の樣子は見せず、さうかと云つて留守をたのむとも言はない。季子はおのづと家に居殘るやうになると、却て元氣づき、聲を張り上げて流行唄を歌ひながら、洗濯をしたり、臺所の物を片づけたりした後、戸棚をあけて食殘りの物を皿まで嘗めてしまつたり、配給の薩摩芋をふかして色氣なく
季子はどうして姉の家にゐるのがいやなのか、自分ながらその心持がわからなかつたのであるが、
どんな職業でもかまはない。季子は女中でも子守でも、車掌や札切でもいゝから、どこにか雇はれたいと思つてゐるが、それは姉夫婦が許してくれさうにも思はれない。人に聞かれても外聞の惡くないやうな會社や役所の事務員には、疎開や何かの爲高等女學校は中途で止してしまつたまゝなので、採用される資格が無い……。
ふと思ひ返すと、市川の姉の家へ引取られて、わづか四五日にしかならない頃であつた。一番上の姉よりもずツといゝ處へ片付いてゐる二番目の姉が鎌倉の屋敷から何かの用事で尋ねて來た時、話のついでに此頃は復員でお嫁さんを搜してゐるものが多いから、季子も十七なら、いつそ今の中結婚させてしまつた方がいゝかも知れないと言つてゐたのを、
その當座、季子は落ちつかないわく/\した心持で、茶ぶ臺に坐るたび/\姉や兄の樣子ばかり氣にしてゐたが、その話は今だに二人の口からは言出されない。季子は自分の方から切出して見やうかと思つたこともあるが、氣まりが惡いまゝ、それもいつか、それなりに、季子は日のたつと共に自分の方でも忘れるともなく忘れてしまつた。
見

その時季子は烟草の匂につれて其烟が横顏に流れかゝるのに心づき、何心なく見返ると、
「京成電車の驛は遠いんでせうか。」ときくものがある。
いつの
「京成の市川驛へはどつちへ行つたらいゝんでせう。」
季子はスマートな樣子に似ず妙な事をきく人だと思ひながら、
「京成電車にはそんな驛はありません。」
「さうですか。市川驛は省線ばかりなんですか。」
「えゝ。」と云つて息を引く拍子に、季子は烟草の烟を吸込んでむせやうとした。
「失禮。失禮。」と男は手を擧げて烟を拂ひながら立上り、出口から見える闇市の
列車の響と共に汽笛の聲がして、上りと下りの電車が前後して着いたらしく、改札口は駈け込む人と、押合ひながら出て來る人とで俄に混雜し初めたが、それも嵐の過ぎ去るやうに忽ちもとの靜けさに立返る。
季子は聲まで出して思ふさま大きな
夜店の女達は立止つたり通り過ぎたりする人を呼びかけて、
「甘い羊羹ですよ。
「あん
「もうおしまひだ。安くまけますよ。」
道の曲角まで來ると先程驛の事をきいた鳥打帽の青年が電信柱のところに立つてゐて、季子の姿を見とめ、
「もうお歸りですか。」
季子は知らない振もしてゐられず、ちよつと笑顏を見せて、そのまゝ歩き過ると、男も少し離れて同じ方向へと歩き初める。
江戸川堤から八幡中山を經て遠く船橋邊までつゞく國道である。立並ぶ商店と映畫館の燈火に明く照らされた道の兩側には、ところどころ小屋掛をしたおでん屋汁粉屋燒鳥屋などが出てゐて、夜風に暖簾を飜してゐる。
「お汁粉一杯飮んで行きませうよ。」
男はつと立止つて、さアと言はぬばかり、季子の顏を見詰めながら、一人
一杯目の汁粉を飮み終らぬ中、「もう一杯いゝでせう。割合に甘い。」と男は二杯目を註文した。
季子は初めから何とも言はず、わざと子供らしく、勸められるがまゝ、二杯目の茶碗を取上げたが、其時には大分氣も落ちついて來て、まともに男の顏や樣子をも見られるやうになつた。それと共に、かうした場合の男の心持、と云ふよりは男の目的の何であるかも、今は
汁粉屋を出てから、また默つて歩いて行くと、商店の燈火は次第に少く、兩側には茅葺の屋根やら生垣やらが續き初め、道の行手のみならず、人家の間からも茂つた松の
鳥打帽の男は默つてついて來る。季子は汁粉屋にゐた時の大膽不敵な覺悟に似ず、俄に歩調を早め、やがて道端のポストを目當に、逃るやうにとある
「お宅はこの横町……。」
「えゝ。」と季子は答へた。然し季子の家は横町を行盡して、京成電車の踏切を越し、それからまだ大分歩かなければならないのだ。
小徑の兩側には生垣や竹垣がつゞいてゐて、國道よりも一層さびしく人は一人も通らないが、門柱の電燈や、窓から漏れる人家の
季子が男の暴力を想像して、恐怖を交へた好奇の思に驅られ初めたのは、母と共に熊ヶ谷に疎開してゐた頃からのことで、戰後物騷な世間の噂を聞くたび/\、まさかの場合を、或時はいろいろに空想して見ることもあつた。この空想は鎌倉の姉が來て結婚のはなしを
突然季子は垣際に立つてゐる松の木の根につまづき、よろける其身を覺えず男に投掛けた。男は兩手に女の身を支へながら、別に抱締るでもなく、女が身體の中心を取返すのを待ち、
「どうかしました。」
「いゝえ。大丈夫よ。あなたも此邊なの。」
「僕。八幡の、會社の寮にゐるんです。今夜驛でランデブーするつもりだつたんです。失敗しました。」
「あら。さう。」
「あなたも誰かとお約束があつたんでせう。さうぢやありませんか。」
生垣が盡きて片側は廣い畠になつてゐるらしく、遙か向うの松林の間から此方へ走つて來る電車の灯が見えた。
季子はあたりのこの淋しさと暗さとに乘じて、男が手を
季子は男の腕が矢庭に自分の身體を突倒すものとばかり思込んで、
電車は松林の外を通り過ぎてしまつた。けれども自分の身體には何も觸るものがない。手を放し顏をあげて見ると、男は初め自分が草の上に
「田舍道はいゝですね。僕も失禮。」と笑を含む聲と共に、草の中に水を流す音をさせ始めた。男は季子の蹲踞んだのは同じやうな用をたすためだと思つたらしい。
季子は立上るや否や、失望と恥しさと、腹立しさとに、覺えず、「左樣なら。」と鋭く言捨て、もと來た小徑の方へと走り去つた。
やがて
季子はしよんぼりと一人家へかへつた。
(昭和廿一年十月草)