夏すがた

永井荷風





 日頃懇意の仲買にすすめられて云わば義理ずくで半口はんくち乗った地所の売買が意外の大当り、慶三けいぞうはそのもうけの半分で手堅い会社の株券を買い、残る半分で馴染の芸者を引かした。
 慶三は古くから小川町辺に名を知られた唐物屋とうぶつやの二代目の主人、年はもう四十に近い。商業学校の出身で父の生きていた時分には家にばかり居るよりも少しは世間を見るが肝腎と一時横浜の外国商館へ月給の多寡を問わず実地の見習にと使われていた事もある。そのせいか今だに処嫌ところきらわず西洋料理の通を振廻し、二言目には英語の会話を鼻にかけるハイカラであるが、酒もさしては呑まず、遊びも大一座で景気よく騒ぐよりは、こっそり一人で不見転みずてん買いでもする方が結句物費ものいりが少く世間の体裁もよいと云う流義。万事はなはだ抜目のない当世風の男であった。
 されば芸者を引かしてめかけにするというのも、慶三は自分の女が見掛こそ二十一、二のハイカラ風で売っているが、実はもう二十四、五の年増で、三、四年も「分け」で稼いでいる事を知っている処から、さしたる借金があるというでもあるまい。それゆえ遊ぶ度々の玉祝儀ぎょくしゅうぎ待合の席料から盆暮の物入ものいりまでを算盤そろばんにかけて見て、この先何箇月間の勘定を一時に支払うと見れば、まずは月幾分いくぶの利金を捨てる位のもので大した損はあるまいと立派にバランスを取って見た上、さて表立っての落籍なぞは世間の聞えをはばかるからと待合の内儀ないぎにも極内ごくないで、万事当人同志の対談に、物入なしの親元身受と話をつけたのであった。
 そこで慶三が買馴染の芸者、その名千代香ちよかは女学生か看護婦の引越同様、わけもなく表の車屋を呼んで来て、柳行李やなぎごうりに風呂敷包、それに鏡台一つを人力じんりきに積ませ、多年稼いでいた下谷のお化横町ばけよこちょうから一先ひとまず小石川餌差町えさしまち辺の親元へ立退く。ぐその足で午後の二時をば前からの約束通り、富坂下とみざかした春日町かすがまちの電車乗換場で慶三と待合せ、早速二人して妾宅をさがして歩くという運びになった。
 五月初めの晴れた日である。慶三は大島の初袷はつあわせ節糸ふしいとの羽織を重ね、電車を待つふりで時間通りに四辻の乗換場にたたずみ三田行と書いた電車の留まる度、そこから降来おりくる人をば一人一人一生懸命に見張っていた。すると千代香は定めの時間よりは十分とは遅れず、やがて停車する電車の車掌台へと込合う乗客に混って、押しつ押されつしながら立現われた。これも大島の荒いかすり繻子入しゅすいりめしの半ゴートを重ね、髪を女優風に真中から割っていた。千代香は車掌台の上から早くも路傍に立っている慶三の姿を見付けた様子で、此方こなたを見ながらにこにこ嬉しそうに笑いながら車を下りるやいなや、打水うちみずのしてある線路の敷石をば、蹴出けだしの間から白いはぎを見せるまでにぱっと大股にまたいで、慶三の傍にスタスタと歩み寄り、腕先に金鎖きんくさりで結びつけた時計をば鳥渡ちょっとかざして見せながら、
「そんなに待ちやァしないでしょ。随分いそいだのよ」と云いながら、今更のように慶三の顔を見て「羽織の襟が折れていない事よ。あなたの内儀おかみさんはじつがないね。」
「その代り何にも御存じなしさ。結句無事だ。」と慶三は自分で羽織の襟を直す。
「全くね。」と女は手にした傘をさし、「どっちへ行きましょう。きめて頂戴よ。」
「どこがよかろう。お前あてがあるか。」
「そうね、神田辺はあんまりお店に近いし、本郷の方もぞっとしないわね。」
「行先がきまらなくっちゃ電車にも乗れない。まアぶらぶら歩きながら話そうじゃないか。」
 二人は砲兵工廠こうしょうの赤煉瓦塀に添うて足の向くまま富坂を小石川の方へと上って行った。
「これから夏向なつむきにゃ山の手も悪かアあるまい。」
「そうねえ、なまじっか町よりか静かでいいかも知れないわ。」
白山はくさんに芸者家が出来たって云うはなしだがあの辺はどうだ。矢張やっぱり芸者家のある土地の方が仕出屋しだしやや何かの便利がきくからね。」
内々ないないで浮気も出来ますしね。」
「何を云うんだい。」
「それだっていささか心配だわ。人情ですもの。」
 慶三はいかにも満足らしくはははと笑ったが、千代香は坂をまだ半分とは上らぬうちに突然、
「あなた。もう歩けないわ。私。」と鼻をならして、「手でも曳いて頂戴なねえ、不実よ。」と突如いきなり懐手ふところでして歩いている慶三の袖口へ手を入れた。
 慶三は真昼間まっぴるまの往来とて、少し面喰めんくらって四辺あたりをきょろきょろ見廻したが、坂地の道路が広いだけに、通行の人は誰も気のつくものがないらしいので大きに安心して、じっと袖の中で千代香の手を握りながら、
真直まっすぐに行けば伝通院前だが、あの辺じゃ家をさがしたって仕様がないから、電車に乗って江戸川か牛込辺まで出て見よう。」
 二人は大曲おおまがりで下りた後江戸川端から足の向く方の横町へとぶらぶら曲って行ったが、する中にいつか築土つくど明神下の広い通へ出た。鳥居前の電車道を横ぎると向うの細い横町の角に待合のあかりが三ツも四ツも一束になって立っているのが見えて、その辺に立並んだ新しい二階家の様子なぞ、どうやら頃合な妾宅むきの貸家がありそうに思われた。土地の芸者が浴衣ゆかたを重ねた素肌の袷に袢纏はんてんを引掛けてぶらぶら歩いている。中には島田をがっくりさせ細帯のままで小走こばしりにお湯へ行くものもあった。箱屋らしい男も通る。稽古三味線も聞える。互に手を引合った二人は自然と広い表通よりもこの横町の方へ歩みを移したが、すると別に相談をきめたわけでもないのに、二人とも、今は熱心にこの土地の貸家札かしやふだに目をつけ始めた。
 神楽坂かぐらざかの大通を挟んでその左右に幾筋となく入乱いりみだれている横町という横町、露路という露路をば大方歩き廻ってしまったので、二人は足の痛むほどすっかり疲れてしまったが、しかしそのかいあって、二人は毘沙門びしゃもん様の裏門前から奥深く曲って行く横町のある片側に当って、その入口は左右から建込む待合の竹垣にかくされた極く静な人目にかからぬ露地の突当りに、またとない誂向あつらえむきの二階家をさがし当てた。表の戸袋へななめに張った貸家札の書出しで差配はすぐ筋向すじむこうの待合松風と知れている処から、その家の小女を案内に一応うちの間取を一覧し、早速手付金を置いて契約を済ました。その時千代香が便所はばかりを借りにと松風の座敷へ上ったが、すると二人は何しろ疲れきっているので、もう何処どこへも行く元気がなくそのままこの松風の奥二階へ蒲団を敷いて貰うことにした。
 裏窓を閉めた雨戸一枚に時ならぬ宵闇よいやみをつくった四畳半の一間、二人が昼寝の枕元にぱっと夕方の電燈がつく時、女中がお風呂はいかがで御座いますと知らせに来る。二人は共々に帯もしめぬ貸浴衣の寝衣ねまきのまま、勝手の庭先へと後から建増したらしい狭い湯殿へ下り、一人やっと入れる程な小さな浴槽ゆぶねの中へと無理やりに、二人一緒に裸身はだみを抱合せるように押入れた。慶三は箱根に行こうが塩原に行こうが到底とてもこんない心持のお湯へは入れまいと思った。にしろ半日ほど歩いてく運動した後、女と一緒にぐっすり一寝入してその汗ばんだ身体からだを湯の中へつけた時には、五体の節々のみか生命いのちも共に延び延びしたようで、慶三は幸福と云おうか愉快と云おうか、ただもう夢のような気がした。それから二階へ上って来るとぐうぐういう程腹のすいた処へ晩餐の熱燗。これがまたうも云いようのない味を覚えさせるので、彼は女房や子供の事また店の事までその瞬間は全く忘れてしまって、心の中にはこれから先毎晩こういう風に千代香を囲者かこいものにしてからの楽しさのみが、かえって切ないほど果てしもなく想像されるのであった。慶三は二、三杯熱いのを続けざまに引掛けると、既に恍惚たる精神は更に淘々然とうとうぜんとし、入湯して柔かくなった身体は足の指手の指の先まで何処ということなく一体にむずがゆいように慾情の震動を伝え出すので、到底とても慶三は妾宅へ引移ひきこしの準備が出来るまで、このままぼんやり待っては居られないような気がした。彼は待合の内儀を呼上げ妾宅で使う女中の周旋を頼むのみか、万事新世帯に入用な品物を買入れる事まで何くれとなく依頼したのであった。


 千代香はいよいよ素人しろとのお千代になって、ここに目出度めでたく神楽坂裏の妾宅に引越し、待合松風の世話で来た五十ばかりの老婢ばあやを相手に一日ごろごろ所在なく暮す身分となった。
 旦那の慶三は毎日夕方から欠かさず通って来る。慶三は学校にいる時分から既に遊びはなかなか巧者な方であっただけ、一時は商売人を引かして囲者なぞにしなくとも、女を好自由すきじゆうにする手はいくらもある。そんな馬鹿気た金を使うのは余程間抜けた人間のするわざのように悪く云っていた事もあったが、さて今度始めて経験して見ると、そこには云うに云われない味がある事を悟った。既に半年以上も買馴染んだ女ではあるが、改めて自分一人ぎりのものにして折々は丸髷まるまげにも結わして見るとその結立ての丸髷が翌日あくるひの朝無惨に崩れている有様なぞ、今までは左程にも思わなかったそれ等の事が、妙に不思議な新しい刺戟を覚えさせ、一刻も放したくないような心持がしてならぬのである。最初慶三はたとえ毎晩遊びに行っても決して家は明けないつもりで居たのであるが、その第一夜に彼は何のわけもなく宿とまり込んでしまった。そしてその翌日もひる少し前に帰って夕方はあかりのつくかつかないうちに戻って来た。
 慶三は我ながらどうしてこう急にお千代が可愛くなったのかと、今更不思議に思うばかりである。以前芸者で呼んでいる時分にはそれ程執心という訳では決してなかった。同じ土地の芸者で手を出して見たいと思う女は幾人もあった。千代香が余所よその座敷へ出ていて来られない折なぞを幸いに、慶三は既に度々ほうきをやって見た事もあった。しかしそういう時に限って、面白そうだと思って呼んで見た芸者に気に入ったものは少く、殊には四畳半へ廻って燈を消してからなおなお後悔するような事がある処から、矢張呼び馴れた奴が一番無事だと結局千代香が一番長続きしたというに過ぎない。
 お千代は円顔の鼻低く目尻が下っているのみならず猪首いくびでお尻が大きく、女同志の目からははるかに十人並以下どころの事ではない、むしろ醜婦の中に数えられる位の容貌であった。しかし男の好心すきごころから見る目はまた別である。そのしまりのない口元と目尻の下った目付とは、この女の心の片意地でない証拠と見え、また幅狭い帯の下から隆起した大きなお尻の円味と、下締したじめがよく締まらないのかと思われるような下腹のふくらみ塩梅あんばいは、浴衣なぞ着た折は殊に誘惑的に見られるのであった。されば二十四、五の年増になっても十七、八の若い同様にお客の受けがよく、一度呼ばれれば屹度きっと裏が返るという噂さえあった。土地の待合ではしつッこい年寄のお客へなら千代香さんでなくてはならぬようにいつも目星をさされていただけ、朋輩の評判ははなは宜敷よろしからず、第一がケチでしみったれで、あんな無性な汚らしい女はないと後指をさされていた。全くの処、お千代には本場で腕を磨いた江戸育ちの芸者のような潔癖というものは微塵もない。家で着ている寝衣ねまきなんぞは襟垢えりあかが光るほどになっても一向平気だし、髪も至って無性で、抱主かかえぬしからうるさく云われて初めて三日目か四日目位に結う位、銭湯へもお座敷のいそがしい時なぞは幾日も入らず、彼方あっちの待合や此方こっちのお茶屋で汗になった身体をそのまま、次の座敷がかかれば剥げかかった白粉おしろいの上塗をしただけで平気で済ましている。癇性かんしょうの朋輩が見るに見兼ねて時々、「千代ちゃん、お前さんもちッたア自分で身体を大事におしなさいよ。お馴染さんならいいけれど、初めての方なんざんな病気がないとも知れないからね。」としみじみ意見する事もあったが、一向その忠告の用いられないのを見て、しまいには、千代香見たような汚いはない。私が男なら到底買う気にゃなれないねえ。とついには影口をきくようになった。
 しかし朝風呂の熱いのに飛込んで、ゆで蛸のようになって喜ぶような江戸子えどっこ風の潔癖は、時勢と共にお客の方にもうなくなっている。慶三はお千代の云わばじじむさいような、小股のきりりとしない着物の着様やら、ちりの身体付の何処となく暖かく重いような具合やら、これに対すると何となく芸者らしくない濃厚と自由の気味合を感じるのが、折々は活動写真なぞで見る西洋のモデル女の裸体のような妙な気をさせるのであった。洒脱清楚を主とした昔風の芸者から見ればお話にならぬ大欠点が、つまり慶三の眼にはことごとくこの女の捨てがたい特色として見られたのである。
 芸者をしている時すら既にそうである。いよいよ妾にして自分一人のものとめてしまうと、お千代の身体からだから感じられる濃厚な重い心持は、一日一日とさながら飴でも※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)につめて行くようにますます濃厚になって行くように思われ、慶三は独りで往来を歩いている時または店で働いている時も、絶えずお千代の肌のにおいがもやもや身に付纏つきまとっているような心持がしてならなかった。
 女房や店の小僧どもの手前もあれば慶三は来る度々たんびもう今夜ぎり、明日からは決して宿とまらずに帰ろうと堅く心に誓いながら、宵に一杯やって二階の六畳にしけこむと、どうにもこうにも夜の明けるまでは床の中から起兼おきかねるのである。このまま中途半端でこの乱れた床の中に、帯紐解き乱したお千代の裸体を打捨てて行くには忍びない。打捨てて行くのはいかにも惜しいような勿体もったいないような心持になる。そこで帰りがけに慶三は既に帯まで締めてしまっても、いぎたなく取乱したお千代が、私ほんとに淋しいわと甘えるような調子を出したり、あるいはまたどうせ私はお妾ですからねと、本妻に対して嫉妬らしいような事でも云うと、慶三はもう無我夢中で、そのままお千代を抱きすくめたなり、ぐっすり宿込とまりこんでしまわねば、その場のおさまりがつかないような気になるのであった。


 二月ふたつきばかりは全く夢のように過ぎた。入梅が明けて世間はにわかに夏らしくなり、慶三が店の窓硝子まどガラスにもパナマや麦藁帽子が並び始めた。毎年の例として町内聯合で催す中元の売出しが始る頃から、町中の炎暑はめっきり加わって来た。本所の方で真症コレラが流行はやり出したという噂が毎日新聞を賑わした。暑い暑いと言出してから早くも半月ばかり雨は一滴も降らず、日毎きびしく照りつける日の光に、町中はどこも彼処かしこも焼跡のようなごみだらけで、歩道のほとりの並木は大分枯れかかっている。区役所から水道を無益につかわないようにという達しが出た。近郷近在は無論干魃ひでりだという噂である。店の手代は昨日は九十度、今日は午前からもう八十三度だと云っていたが、しかし慶三の身にはこの堪えがたい酷暑が今年ばかりは春や秋よりもかえって面白い楽しい有難い時候であるように思われた。何故なぜというに慶三は最早もはや着物を着たり帯をしめたりしているお千代の姿を見るいとまがなくなったからである。お千代は袖のない晒木綿さらしもめんの肌着をさえ脱捨てていつも膝位しかない短い腰巻一つでごろごろしている。ちゃぶ台で差向いにビイルを飲む時も、立って便所はばかりへ行く時も或は二階の蚊帳かや這入はいってからは猶更、慶三の目の前からは一瞬間たりとも残る隈なく電燈の光に照し出されたお千代の真白なぽっちりした裸形の消去きえさいとまがない。二階の六畳に下の座敷二間ふたまを入れた狭い妾宅中は、どこへ行ってもお千代の真白な身体に煌々たる電燈の光の反射せぬ処はないように思われた。
 まだまだそれのみでは無い、二十年この方ない暑さだという恐ろしい夏がこの上もなく慶三を喜ばした理由は、お千代の裸体と合せてお千代の住む妾宅のその周囲の情景であった。
 神楽坂上の土地の事とて横町全体の地盤が坂になっている処から妾宅の二階から外を見ると、大抵は待合か芸者家になっている貸家がだんだんに低く箱でも重ねたように建込んでいて、いずれもその裏側を此方こなたへ向けている。夏にならないうちは一向気が付かずにいたが、この頃の暑さにいずこの家も窓と云わず、勝手の戸口と云わず、いささかでも風の這入りそうな処は皆明けられるだけ明け放ってしまったので、夜になって燈火あかりがつくと障子に映る島田の影位の事ではない。芸者が両肌もろはだ抜いで化粧している処や、お客が騒いでいる有様までが、垣根や板塀を越しあるいは植込の枝の間を透して円見得まるみえに見通される。慶三は或晩あるばんそよとの風さえない暑さに二階の電気を消して表の縁側は勿論もちろん裏の下地窓をも明放ちお千代と蚊帳の中に寝ていた時、隣の家――それは幾代いくよという待合になっている二階座敷の話声はなしごえが手に取るように聞えて来るのに、ふと耳を傾けた。両方の家の狭間ひあわいへ通う風が何とも云えないほど涼しいので隣の二階でも裏窓の障子を明け放っているに違いない。喃々なんなんとして続く話声の中に突然、
「あなた、それじゃ屹度きっとよくって。屹度買って頂戴よ。約束したのよ。」という女の声が一際ひときわ強くはっきり聞えて、それを快諾したらしい男の声とつづいて如何いかにも嬉しそうな二人の笑声がした。お千代も先刻から聞くともなしに耳をすましていたと見え、突然いきなり慶三の横腹を軽く突いて、
「どうもおやすくないのね。」
「馬鹿にしてやがるなア。」
 慶三はどんな芸者とお客だか見えるものなら見てやろうと、何心なく立上って窓の外へ顔を出すと、鼻の先に隣の裏窓の目隠しが突出ていたが、此方こちらは真暗、向うにはあかりがついているので、目隠めかくしの板に拇指おやゆびほどのおおきさの節穴が丁度二ツ開いてるのがよく分った。慶三はこれ屈強と、覗機関のぞきからくりでも見るように片目を押当てたが、するとたちまち声を立てる程にびっくりして慌忙あわてて口を蔽い、
「お千代お千代大変だぜ。鳥渡ちょっと来て見ろ。」と四辺あたりはばかる小声に、お千代も何事かと教えられた目隠めがくしの節穴から同じように片目をつぶって隣の二階を覗いた。
 隣の話し声は先刻さっきからぱったりと途絶えたまま今は人なき如くしんとしているのである。お千代はしばらく覗いていたが次第に息使いせわしく胸をはずませて来て、
「あなた。罪だからもうしましょうよ。」
とこのまま黙って隙見すきみをするのはもう気の毒で堪らないというように、そっと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも借さず節穴へぴったり顔を押当てたまま息をこらして身動き一ツしないので、お千代も仕方なしに最一もひとツの節穴へ再び顔を押付けたが、兎角とかくする中に慶三もお千代も何方どっちからが手を出すとも知れず、二人は真暗な中に互に手と手をさぐり合うかと思うと、相方そうほうともに狂気のように猛烈な力で抱合った。
 かくの如く慶三はわが妾宅の内のみならず、周囲一帯の夏の夜のありさまから、絶えず今まで覚えた事のない慾情の刺戟を受けるのであった。あまりに飽き疲れてしまって慶三は或日あるひの午後今日ばかりは珍しく薄曇の涼しい空を幸い、久しく打捨てて置いた店の用事をたしに出たついで散髪屋へ立寄ると馴染の亭主が、
「旦那、大層お痩せになりましたな。今年の暑さには皆やられますよ。」
 そう云われて、鏡にうつる自分の顔を見ると気のせいか少し頬がこけたような気がしたので、いささ身体からだが心配になり、その日は不思議にも家へ帰って夜も早く寝てしまった。しかし翌日になるともう朝の中から何とも知れず身体中が薄淋しいような妙な心持がして、とても夕方までは待ちきれず午飯ひるめしをすますとすぐ赫々かくかくたる日中の炎天をも恐れず外に飛出してしまった。
 今まで毎日通うもののそれはいつも夕方からの事で、こんなに早く昼間の中から出掛けた事はなかった処から、神楽坂を上って例の横町へ曲ると、炎天の日の下に夜を生命いのちの世界は今しも寂と物音なく静まり返っている最中で、遠くの方に羅宇屋らうやの笛の音が聞えるばかり。人一人通らぬ有様に慶三はかえって物珍らしく初めて通る横町のような気がすると共に、両側の芸者家の明け放った窓や勝手口から、すだれやレースの間を透して、薄暗い家の中には暑さに弱り果てた女達がまるで病人のように髪も乱し浴衣の裾や胸をも乱して細帯をも解けたら解けたまんまで、居汚いぎたなくごろごろと寝そべっている様子が、通りすがりに覗きながら歩いて行く慶三の眼には、夜になって綺麗に化粧をして帯をきちんとめてしまった姿よりもはるかに心を迷わすように見えた。突然慶三はいつも言語同断な程寝ぞうの悪いお千代は一体この暑い日中、今頃はどんなざまをして昼寝しているだろうかと思付くと、もう駈出さずには居られない程気がせいて来る。道端の小石を蹴飛ばし勢よくがらりと妾宅の格子戸を明けたが、すると外からも見通される茶の間に洋服を着た見知らない若い男が胡座あぐらをかいていて、寝ていると思ったお千代は起きて話をしている。いつものように腰巻一ツの裸体はだかのままで片肱かたひじを高く上げた脇の下をばしきりと片手の団扇うちわであおぎながら話をしているのであった。
 慶三は意外の有様に片足土間へ踏み込んだまま立往生をしたが、お千代はさして驚いた様子もせず、「あら旦那。お暑かったでしょう。」と元気よく出迎えて、と寄添った耳元に口を寄せ、「下谷のねえさんとこの若旦那なのよ。構やしないのよ。」
 手を引張られて、慶三は黙ってその儘二階へ上ると、お千代もその後について上ったなり、一向下へは行かず、老婢ばあやを呼上げて氷を取り寄せ、
「姐さんと喧嘩をしてうちを飛出してしまったんですって。それで少しばかりお金がいるからッて相談に来たのよ。断ったんだから構やしないのよ。」と云って、その儘午睡ひるねでもする気か、自分から戸棚の枕を取出して横になった。その様子があんまり事なげに見えただけ、慶三には却って不審が晴れぬ。しばらくして便所へ下りて行くと、若い男はとうに帰った後と見えて、綺麗に片付いた茶の間には老婢が一人で居眠をして居た。
 慶三はその翌日からはほとんど時間を定めず八月の炎天を二時三時頃に来る事もあれば、朝の十時頃、または夜ずっとおそく十時過ぎに格子戸を明けて見ることもあった。しかしその後は更に怪しい男の出入りしたらしい様子もないので、慶三は二、三日ぱったり足を抜いて見た後、突然午後の四時頃半間はんまな時間を計って、わざと音せぬように格子戸を明けながら家の様子を窺うと下座敷には老婢も誰もいないので、慶三は見知らぬ他人の家へでも忍入しのびいるように、足音を忍んでいきなり二階へ上った。ふすまを明けると六畳の間には蒲団が引放ひきはなしになっていて、掛蒲団は床の間の方へと跳ねのけられ、白い上敷シイツ或処あるところにはいやに小襞こじわが沢山よっていた。もっとも枕は女のもの一ツしか見えなかったけれど、その傍に置いた煙草盆には灰吹から火入まで一ッぱいに敷島しきしまの呑さしが突さしてあった。
 慶三は矢庭やにわに掛蒲団を剥ぎのけた後、眼を皿のようにして白い敷布シイツの上から何物かを捜し出そうとするらしくやや暫く瞳子ひとみを据えた後、しきりに鼻を摺付すりつけて物のにおいでもかぐような挙動をした。そして更に手をば蒲団の下に突込んで隈なく何かをさがし出そうとしたらしかったが、しかしどれもこれも皆思うような充分の証拠を握ることが出来なかった。慶三はその場にどっしり胡坐あぐらをかき大きな息をついたが、また何か急に思付いたように立上って、まず押入の襖を明けてその中を窺った後、次には窓際からくび差伸さしのばして頻に下の様子を窺おうとした。
 格子戸の明く音がして外から帰って来たらしいお千代の声、それをば「奥さん。」と急に制するような老婢の声がしたなり後は火の消えたようにしんとして仕舞った。慶三はどうにかして二人の様子、二人の密談を窺おうと逆立さかだちするまでに頸と半身を窓の外に差出したが、八月の西日が赫々とさし込む台所には水道の栓から滴る水の音が聞えるばかりである。仕方なしに今度は梯子段の下口おりくちの方へ廻って見たが、矢張やっぱり同じこと家中はまるで人のいないも同様である。慶三は無暗むやみ咽喉のどが渇いて堪らなくなった。しかしこうなって見ると自分もうっかり階下したへは下りられぬ。お千代の顔を見るがいなやどうしてれよう、何と云ってやろう。先の出ようで此方こっちもそれ相応に一通ひととおりは量見をめてかからねばならぬ……。慶三は夜具を踏まえて二王立におうだちになったまま暫くは身動きも出来なかったが、突然下からお千代の泣声が漏れ聞えたのに、いささか不意を打れて梯子段の下口へ歩みで息を凝し耳をそばだてた。
老婢ばあや、お前が悪いんだ。すぐに二階を片付けて置かないからさ。どうでもお前の勝手にするがいい。」と泣きながら叱りつけるお千代の声に応じて、老婢は頻りに何やら申訳をしているらしいが、その言葉は明瞭はっきりとは聞取れなかった。しかし事実はもう殆ど明白である。慶三は夜具を蹴飛けとばし足音荒く二階から駈け下りるが否や、有合ありあう下駄をつッかけて物をも云わず戸外おもてへ飛出そうとした。いつまで二階に立ちすくんでも居られず、そうかと云って此方からのめのめと下へ降りて行くわけにも行かない。かくこの場合面と向って愚図愚図云合おうよりは勢を示して一先ひとまず外へ出た上、何とか適宜の処置を取ろうと思い定めたのである。
 二階から雷の落ちて来るような足音に吃驚びっくりしたお千代はそれと見るより、死力を出して慶三に取りすがった。慶三は早くも半身格子戸の外へ飛出しながら、
「放せ放せ。用はない。」
「まアあなた。待って頂戴。」とお千代は上框あがりかまちから滑り落ちながら、しっかり男の袂を押える。
「放さないか。畜生ッ。」
 慶三は平手でぴっしゃりお千代の横面よこづらを喰わしたが、お千代は大声で泣き出すばかり、なかなか押えた袂を放さない。老婢はうろうろして代り代りにまア旦那、まア奥さんとこれも半分は泣声である。
 格子外には早くも通りがかりの人が三、四人も足を止めた。丁度湯帰りの近所の芸者も二、三人立ち加わる有様に、慶三も今はそう手荒く袂を振切って駈出すわけにも行かず、「静にしろい。見ッともねえや。」とぶつぶつ云いながら再びうちへ上らねばならなかった。こうなればうお千代の勝利である。お千代はたれようが殺されようが皆な自分が悪いんだから、どうなりと気の済むようにと云わぬばかりの態度で、いかにも物哀ものあわれにしくしく泣きながら事情を訴えて、結局同情を請おうと云うのである。無論最初は何と云っても慶三は返事をしなかった。しかしそんな事はお千代の問う処ではない。お千代は商売している時分、いつぞや洋服を着て来た男には盆暮その他折々世話になった事があるので、この間不意と銭湯の帰道で出会であわし、いやとも云われず家へ上げたのが間違まちがいのもとで、その後はぬしある身だからと断ってもずうずうしくやって来るので、実は私もどうしていいのか途法に暮れているのですと、結句その後始末の相談を慶三の方へ持掛けるような風にしてしまった。
 慶三はただ馬鹿野郎馬鹿野郎と怒鳴どなるばかり今更ったり蹴たりも出来ず、勝手にしろと云い捨てて外へ出てしまった。外へ出てから慶三は道々どう始末をつけようかとやや冷静に思案を廻し始めた。事ははなはだ簡単である。旦那の留守に以前のお客を引摺込ひきずりこんだのだから、このまま暇をやって仕舞えばよい。それでむこうも、何一ツ苦情を云うべきはずはない。しかし慶三はすぐそれに続いて、暇をやってしまった後お千代はどうするだろうかと考えた。二度芸者に出るか、そうでなければ以前からも大分金を使ったらしい洋服の若い奴が、俺の代りに這入込はいりこんで、俺のしたようにお千代を自由勝手にするに違いない、と思うと慶三はいくら腹が立っても、腹立ちまぎれに滅多に暇をやることは出来ない。暇がやられなければ今度の処は我慢して、この後は二度と再びあの男を近寄せぬように、厳重厳格に取締るより仕様がないと決心したが、さてしからばどう云う風に取締るかというその方法である。慶三はお千代が芸者をしている時分にはく今度の様な不始末を見せた女である事を思合おもいあわせた。よくよく考えて見るとお千代ほどだらしのない女はない。これほど男の玩弄物おもちゃになるのに適当した女は恐らくあるまい。お千代は玩弄物にされる事をば別に恥辱とも苦痛とも何とも思わぬ様子で、時には却て玩弄物にされるのを面白そうに嬉しがっているような風さえ見える。お千代は根からの売女ばいじょである。その身は心と共に誰にでも解放されているので、これほどわけもなく近寄り易い女はないが、その代りまたこれ程独占するに困難な女も恐らくあるまい。
 そもそも慶三が始めてお千代に馴染んだその発端からが、いささか常規を脱していた。それがその時慶三には一方ならずもてたように思われため、知らず知らずその後も呼びつづけるようになった訳である。唐物屋仲間の寄合のくずれに十四、五人の有志が大一座で上野辺の料理屋で二次会を開いた時、慶三は不図ふと目についたお千代が塩梅あんばいに便所へついて来たので、真暗な明座敷あきざしきの前を通るがまま無理にそこへ引入れて直接に談判を持掛けるうちにも、酔ったいきおいで手を出すのをお千代は更に何とも云わず、それなり為すがままに黙っていた。これはお千代に取っては別に手練でも手管でも何でもない。お千代は地体じたいたれに対してもそういう女なので、時と場合と相手によって意外な好結果をきたす事もあるが、またがらりと変って、あんな地獄見たような女はないと擯斥ひんせきの上にも擯斥される種を蒔く事もある。しかし当人はいずれにしてもつまりは空々若々くうくうじゃくじゃくである。自分はどういう訳で好かれるのか、またどういう訳で下賤さげすまれるのか、そんな事は更に考えはせぬ。お千代はお座敷で意地の悪い芸者から折々面と向って随分ひどい事を云われても、深くは感じない様子で、そんな事は人並より早く忘れてしまうらしい、至極呑気な鈍い性質であった。さればお客に対しても悪く物を強請ねだったり、故意にたくらんでだますような悪辣な処は少しもなかった。その代り無責任の事はまた想像意外といってもよい。何時いつ幾日いくかにはお仕舞をつけて待っていますから屹度きっとですよとお客に約束して置きながら、ほかから口がかかれば、もう前約はがらりと忘れてしまったようにその方へ行ってしまう。そして万一後日になって前約のお客からその不始末を厳しく責められでもすると、お千代はただもう吃驚びっくりしたように、身も蓋もなくその場合の事をば天真爛※(「火+曼」、第4水準2-80-1)に打明けてしまうので、怒りかけたお客も呆れて手がつけられぬという始末である。
 いつぞや慶三は池の端の待合でお千代の来方のあまりに遅いのを責めた事があった。そして髪の乱れているのと、帯の〆方しめかたの崩れている事を詰問した。するとお千代は極めて無邪気に、「あら、分って。」と問返した。この意外の反問に慶三は却て毒気を抜かれて眼ばかり円くして黙ってしまうと、お千代は矢張無邪気に、「あんまり急いだもんだから、髪なんぞ撫付なでつけていられなかったのよ。酔払よっぱらいで仕様がないお客なのよ。」と懐中鏡をだして外の座敷で乱して来た髪をばれいれいしく慶三の前で撫付けながら、
「どうせまたこわれちまうんだわねえ。あなた。」と色目を使って男の膝の上に身を投掛けた。待合の女中が這入って来てもお千代は一向居住居いずまいを直そうともせず、男の身体にしなだれかかったままで、「ねえさん済みません。失礼。」とお客よりも先に帯を解いてはばからぬ始末。全く人前も何にも構わない傍若無人の態度である。慶三は心中嫉妬の不快を包みながらも、並大抵の芸者にはとても銭金ぜにかねでは出来ない明放あけっぱなしなお千代の様子、それは同じ売女の身をまかすにしても、このお千代ほどその身を根こそぎ勝手自由にさせる女はないと思うと、つい多少の不快を忍び忍び呼びつづける事になるのであった。


 慶三はお千代をば二円の御祝儀一時間二十五銭の玉代で買っていた時すら既にかくの如くであった。めかけに囲った今更になっては実のところ唯一人たったひとり以前のお客が入込いりこんだからとて、腹立まぎれに綺麗さっぱりと暇をやる勇気はない。まして女の様子や話工合はなしぐあいから想像するに、女の方から内々で呼出したという風は更にない。全く男の方からずうずうしく上り込んで無理やりに口説き寄ったに相違なさそうである。しかし慶三は知れた上にもなお事の真相を捜ろうものと、その次お千代と枕を並べてからも種々さまざまに問い試みた。
何故なぜ綺麗きっぱり刎付はねつけてしまわなかったんだ。」
「だから随分ぴどく刎付けてやったのよ。」
「刎付けられなかったんじゃないか。すぐにいいなり次第になったんだろう。」
「あらいい事よ。なんぼ私だって商売している時とはちがってよ。」
「それじゃ商売している時ア誰の云う事でもきいたのか。」
「誰でもッて。あんまりだわ。あなたも……。」
「だって商売してる時とは違うと云ったじゃないか。」
「それアそう云ったわ。商売してる時は仕方がないじゃないの。弱い家業ですもの。」
「そんなら商売をよしても云う事をきくのはどうしたんだ。惚れてやがるんだな。」
「あなた、もしかそうなら私はどこまでも隠してよ。惚て呼んだんなら私は、はばかりさまですが、こんなになにも打明けてしまやしない事よ。あなたに済まないと思うから私ゃ何も彼も隠し立てせずにお話したんだわ。ねえ、あなた。ほんとに私が悪かったんだから勘忍して頂戴よ。」
「これぎり屹度きっと家へ上げちゃならないぞ。今度やって来やがったら水でもぶっかけてやれ。」
 有耶無耶うやむやに一団落ついて慶三は従前通り妾宅へ通っていたが、また十日ほども経った或日あるひのこと、午後に夕立が降りそこなったなり、風の沈んだ蒸暑い晩をば、慶三は宵から二階へしけこみ、十一時の時計を聞いてそろそろ帰仕度をしようという時、丁度便所はばかりへと下りて行ったお千代が突然大きな声で、
「どのつら下げてのめのめと来られるんだろう、帰って下さいよ。」と怒鳴りつける。そして格子戸の音と共に表の方へ遠ざかって行く靴の音を聞いた。
 慶三はふんどし一ツ、蹶起けっきして下へ降りた。
「誰だ。彼奴あいつか。」
「追ッ帰してやったわ。」とお千代は細帯もしめない寝衣ねまきの前を引合せながら、「ほんとに何てずうずうしいんだろう。あの通りだから実際困っちまうのよ。」
 万事罪は向うにあるのだと云わぬばかりの調子でお千代は慶三の顔を見た。慶三は再び不安になって帰るに帰られず、と云ってその夜は翌日の商用の都合で是非にも帰らねばならぬ処から一時すぎまでぶつぶつ云っていた後ようやく意を決して立上った。
 電車もなくなって仕舞ったので、慶三は人力車くるまの上から夜更よふけの風に吹かれながら、更に再びお千代と怪しい男との間に潜んだ情交の真相を知らんと苦しんだ。慶三は今までの様子から事実お千代が左程にあの男に惚ているものとは思わなかった。さすればここには芸者時代から引つづいて何か金銭上の関係がありはせまいかと見当をつけて見た。
 慶三は最初お千代を妾にする時、将来の手当をば実は切詰められるだけ切詰めて置こうと思案して、月五十円の手当のうちで親元へ十円ずつの仕送りも、またこれから先入用いりようの衣服も皆その中で仕払うようにしろ。要するに大病とか何とかいう不測の災難以外にはすべて右の定額でやり繰るようにと、この事だけは如何いかにでれついた最中でも慶三はきっぱり云渡し、なお後日間違いのないようにと念に念を押して承知させて置いたのである。お千代はにしろ芸者をやめて素人になれるという嬉しさが先に立っている時でもあり、また今まで世帯の苦労をした事がないので、その時には月々五十円ありさえすれば結構やって行けるような気がして二ツ返事で承知した。最初の一箇月は何が何やら分らず仕舞じまいに過ぎてしまって、次の月の晦日に及んだ時、お千代は家賃と米屋炭屋酒屋肴屋等の諸払いを済すとそれでう手元には一円札の一、二枚がやっと残ったけで、とても親元へ十円の仕送りの出処でどころがない。晦日というその日に限って旦那も店がいそがしいと云うのでやって来ず、お千代は仕方がないので指環を質入して親元への仕送をすました。ここでお千代は始めて五十円じゃなかなか楽にやって行けるものじゃない。毎日の小使湯銭にも気をつけ、殊には多年の習慣になっている買喰をも節しなければならぬ。いやそれ処か、親元身受にして前借金を片付ける時、芸者時分の着物は大方抱主かかえぬしに引渡してしまった処から、この冬には早速外出の衣裳にも困るわけである。お千代はすっかり鬱込ふさぎこんでしまった。幾度も念を押された末、五十円ならばきっとやれますと立派に約束したそのそばから、殊には引く時前借の始末や引越ひきこしその他の物入をかけた後の事とて、そう手軽く月々の手当の増額を強請ねだるわけにも行かないと思うと、根が悪気のない女だけに、お千代は始めての世帯の苦労に、何となく身の行末までが心細くてならなくなった。家にいても気がふさぐというので銭湯へ行ったその帰り道、横町の曲角まがりかどで不意と出会ったのは、芸者の時分お千代に取っては慶三と同等にく大事なお客の中の一人であった葉山はやまという若い男である。世間にも一寸ちょっと聞えた実業家の若旦那で、だらしなく金を使うほうきさんで通ったお客である。
「千代香じゃないか、丸髷に結ってやがるな。うまくやったなア。」としまりのない、大きな声でわざといけ粗雑ぞんざいな調子で物を云うのがこの男の癖である。お千代は黙って引いてしまった弱身よわみもあるので、「あら葉山さん」と云ったなり二の句がつげずにただ立止っていると、葉山はじろじろ女の様子を見ながら、
「千代ちゃん、お前どこにいるんだい。」
「ついこの先の横町です。」
「連れてっておれ、満更まんざら他人でもないだろう。皆な聞いて知ってるぞ。親指が留守なら構わないじゃないか。……いけないのか、いけなきゃア鳥渡ちょいとその辺の待合へ行こうよ。話があるんだ。」
 お千代は単刀直入にこう云われては以前の関係からそうすげなくも振切れないので、その日は慶三の来ぬのを幸い妾宅へ案内した。葉山は少し話をして帰りがけに五円札をお祝いにと置いて行った。これがそもそもの始まりで葉山は二、三日たつと、ふいとまたやって来て、格子戸の外から、夏の事とて明け放した下座敷をのぞきながら、お千代が窓のそばへ蹲踞しゃがんで足の爪を切っている姿を見るや、いなや、また例のしまりのない粗雑ぞんざいな調子で、
千代ちゃアちゃん千代ちゃん。」と呼びかけ、そっと親指を見せるのである。葉山はかくの如くしていつかお千代に関係をつけてしまった。その時葉山はお千代が何とも云わぬ先に毎月三十円やると云って現金を女の懐中に捻じ込み、
「僕ア毎日遊んでるんだから、旦那のいない時、夜中でも朝腹あさっぱらでもいつでもいいよ。旦那が来たら裏口から内所で逃げてってやらア。こんな訳のわかった色男はあるまい。」と葉山は一人で喜んで一人で承知して帰ったのである。


 慶三はお千代と葉山の関係をば図星をさしてこうとはっきり推量する事は無論出来なかったけれど、従前からの行掛ゆきがかりでお千代の方に相応の弱みがある為め、どうしても手強く排斥して仕舞う事が出来ないのだという位の事は、追々おいおいに想像する事が出来るようになった。そしてお千代が口先ではもう断じて家へ上げないと云っているけれど、それが決して信用するに足りない証拠をば、慶三はその後においても幾度いくたびか発見した。妾宅からの帰途横町の曲角で見覚えのある葉山に摺違すれちがった事もあった。見馴れない男持の巻煙草入まきたばこいれがお千代の用箪笥の上に載せてあるのを見た事もあった。しかし慶三は最早もはや最初ほどには驚きもせずまたどういう訳かそれ程に女の不貞をいきどおる気も起らなかった。最初はあの男の為めに全然お千代を奪い取られるような気がしたのであったが、その後早くも一箇月ばかり過ぎている間度々たびたび怪しい男の出入りした様子があるにも係わらず、お千代の自分に対する勤め振りには少しも変りがない。かえって以前よりも一層慶三の気に入るような勤め振り、それは絵本で見る昔の御殿女中がお宿下りの折の役者くるいとて、まさかこれほどではあるまいと思われるような有様を見せるので、慶三はどうかすると自分の方が却て金を貰って勤めをしているような心地さえする事があった。それゆえその瞬間には必ず充分の満足と安心を覚えるのであるが、しかし一度ひとたびお千代を離れて妾宅を出るが否や、入替りにあの洋服をきた葉山が自分と同様なあるいはそれ以上の快楽を横取りしにやって来るのだと思うと、どうにもこうにも我慢が出来なくなる。いかに我慢が出来ないからとて、こればかりは実に為すべき手段がない。慶三は云わば途法に暮れ果てた月日を送る中、いつか世間はすっかり秋になってしまった。朝夕、日毎にまさる肌寒さ、慶三はお千代の身体からだに触れて見る感覚に、いよいよ云い知れぬ捨てがたさを覚える。それにつけていよいよ葉山が邪魔になるものの、今更どうする事も出来ないとすれば、この腹癒はらいせには何かうまい口実を見付けて、手当の五十円を半分に引下げてさえしまえば、つまり二人で一人の女を抱えたという名義が立つ、それより外に気の済む方法はないと商売人だけに復讐の方法を全く金銭上の事に移してしまった。丁度その月も晦日近く、慶三は増々ますますこの事のみに心を費しながら、夜も十時頃今夜は宿とまり込むつもりで妾宅の格子戸を明けようとすると、家の中で何やらしきりに高声に云いののしる男の声が聞える。慶三は耳を済ます間もなく、障子の音荒く立出たちいでる気色に周章あわてて物蔭にひそむと、がらりと格子戸を明けて外へ出たのはかの葉山である。慶三は前後を忘れいかりの発するがままに、「おい、君。」とうしろから声をかけた。葉山は既に慶三の顔を見知っていたものと見え、軒燈の光に振返って少時しばし睨み合ったが、たちまち嘲るような調子で、
「君、用心したまえ。僕ばっかりじゃないぜ、あの女にゃまだいろんな男がついている。非常な淫婦だ。」
 云い捨ててそのまま逃げるがように見向きもせず表通の方へ行ってしまった。慶三は追掛けても行かれず、と云ってこの儘妾宅へも這入はいれず、横町の角に立往生して代る代るに葉山の姿の消去った彼方かなたの町と我が妾宅の軒燈とを見比べるばかりであった。
 慶三はその夜すごすごと家へ帰るが否や、お千代の許へ簡単に暇をやる旨を書き送った。実は先方むこうから何とか一言位は挨拶でもあるかと心待ちに待っていたが、それなり音沙汰がないので、結句手切金をやるの遣らぬのと云うような面倒な事にならなかったのを幸いと、慶三もそれなりぱったり見切をつけてしまった。
 三月みつきばかりたって丁度一の酉の来る時分、慶三は商用でこの近所まで来た処から、その時の好奇心でそっと以前の妾宅の前を通って見た。戸が締って貸家札が張ってある。慶三はお千代の行方が知れなくなったかと思うと急に名残惜しいような気がし出した。折から横町を通りかかる芸者の姿を見れば猶更なおさら以前の淫楽が思返されてならぬ。慶三は気まりの悪い事も何も彼も打忘うちわすれて、曲角の酒屋でそれとなく引越先を聞くと、四十ばかりの内儀かみさんが訳もなく、
先月さきげつからこの先の横町で待合をしておいでですよ。電気燈に千代香ッて書いて御座います。」
 慶三は礼を云うが否や駈出すように、教えられた横町を這入ると片側は芸者家つづき片側は小待合ばかり並んだ中に直様すぐさまその名を見付け得た。案内も待たず飛込みたい位気がせき立っていながら、門口へ来ると妙に気遅れがして慶三は二、三度行きつ戻りつした後、何か思案したらしく、軒つづきの隣の待合の格子戸を開けた。
 二十五、六の田舎者らしい妙に無遠慮な女中を幸い、慶三は先ず芸者二人ばかり掛けさせて置いて、それとなしに早速様子をきき始めた。
「隣の家は代が変ったようだね。」
「まアよく御存じだわね。」
「この辺じゃ始終遊んでるからさ。どうだい、流行はやるようかね、隣の家は。」
「わるかないようですよ。」
内儀おかみさんはどんな人だい。別嬪べっぴんか。」
「何でも何処どこかの芸者衆だったって云う話ですよ。」
「それじゃお妾で商売しているんだね。」
 二人かけた芸者のうちの一人が先へ来た。慶三はこれにもいろいろと遠廻しに質問を試みたが、別にこれと云って要領を得た話は聞かれなかった。その中に後れて這入って来た芸者が一座の話の横合から、
「あ、お隣の待合さん?」とさも何か知っていそうな調子で、急に少し声をひそめ、「ねえさん。お隣じゃ、あの女将おかみさんがコレなんだとさ。」
「あら、まさか。」
「いいえ、そうなんだとさ。だって家の玉ちゃんが現在見たんだって云うんだもの。」
「まアそうかい。」
 後から来た芸者はさかずきを舐めながら、つい三、四日前の晩の事、朋輩の玉ちゃんというのが千代香へ呼ばれて行った。お客は二人つれだったそうで、それから彼方此方あっちこっちへとう一人芸者を掛けて見たらしかったが、何しろもう時間が一時過ぎているので、とうとう出来ず仕舞いになって、玉ちゃんだけ一人のお客へ出て、夜中に何心なく便所はばかりへ下りて見ると、いつの間にか他の一人のお客が女将とよろしく収っていたという話をば弁舌滔々とうとうさながら自分が目撃して来たもののように饒舌しゃべり立てた。
 慶三はこの話をば決して嘘でないと思うと共に、早くも胸がどきどきし出すのをからくも押えて、燈火あかりのつく時分勘定を済まし、鳥渡ちょっと表通の方を一周してからそっとまた横町へ這入った。慶三にはお千代の不始末が今となっては更に不潔にも不快にも思われなかった。却ってそれらの為めに一層恋しく思われた。お千代という女はよくよく売女ばいじょに出来上った女である。く人の好い生付うまれつきの性質と境遇のしからしめた淫奔の習慣とこの二つが混同してお千代は全く女の自衛という事を忘れてしまったのである。されば男の方から云えば金を出して独占する必要もなく、また独占しようと思ってもそれは無理な話である。つまり表向おもてむき人のものにさして置いて内所で入込めばいつでも自由にする事の出来る女である。今度こそ自分はの葉山のような地位になって奇利きりを占めねばならぬと、慶三は充分に安心しつ充分に期待して、既に密夫のような様子振りで音せぬようにそっと千代香と書いた待合の格子戸を明けかけた。

夏すがた 終





底本:「花火・来訪者 他十一篇」岩波文庫、岩波書店
   2019(令和元)年6月14日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十一巻」岩波書店
   2009(平成21)年4月24日第2刷発行
初出:「夏すがた」籾山書店
   1915(大正4)年1月20日発行
※「鳥渡ちょっと」と「一寸ちょっと」、「あかり」と「燈火あかり」、「露路」と「露地」、「格子戸を明け」と「格子戸を開け」、「胡座」と「胡坐」、「綺麗さっぱり」と「綺麗きっぱり」の混在は、底本通りです。
※「鳥渡ちょっと」に対するルビの「ちょっと」と「ちょいと」、「目隠」に対するルビの「めかくし」と「めがくし」の混在は、底本通りです。
入力:入江幹夫
校正:きりんの手紙
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●図書カード