虎関の作と云い、玄慧の作とも言われる異制庭訓往来に、
賊に大小あり、小罪既に大罪よりも軽し。小賊何ぞ大賊に等しからんや。窃盗・強盗は山賊・海賊の比にあらず。山賊・海賊は他領押両(領)の大賊党に比せず。又位を諍ひ国を奪ふの大盗よりも軽し。然らば末代は皆賊世なり。たゞ我一人のみにあらざるなり。夫れ殷湯の夏を奪ひ、周武の紂を伐つ、何ぞ尭舜揖譲の政に同じからん。全く聖主賢君の風にあらず。
とある。甚だ以て穏かならぬ言い分ではあるが、賊の立場からの弁解としてはその謂われがないでもない。時勢と境遇とによって人間の思想も感情も変る。平日には一人を殺傷しても警察が大騒ぎをして検挙につとめるが、戦時に敵を多く殺したものが殊勲と賞賛せられるのは眼前の事実だ。切取強盗は武士の習いとして憚らない時代もあった。自分で海賊大将軍と誇称して威張ってみた時代もあった。名誉の強盗、いみじき盗賊の語は、むかしの物語物にしばしば繰り返されている。この場合盗賊必ずしも物取りではない。今昔物語「
悪源太義平・悪七兵衛景清は、ともにその叔父を殺したので「悪」の名を得たと解せられているが、必ずしもそうとは思われない。山法師が一般に悪僧と呼ばれ、勇猛なる武士がしばしば悪党と呼ばれたのも彼らが強かったからの名だ。強勇と盗賊と機転の利くのとを一括して悪党と言ったのである。源平盛衰記に伊勢三郎義盛を批評して、「究竟の山賊・海賊・古盗人の謀賢き男なり」と云ってあるのも、必ずしも彼が盗賊だという訳ではあるまい。延暦十七年二月に、群盗を停宿して百姓を侵犯したという罪で淡路に流された美濃の国人村国連悪人という人がある。彼は事実悪人であったには相違ないが、しかも自分でこれを名に付けた場合には、自ら悪人を号して強がったのに外ならぬ。新篇会津風土記に、
時勢と境遇とによって人間の思想も感情も変る。太平の世の道徳を以て乱世の事件を批評してはならぬ。