我が古代の社会組織の上に「間人」という一階級があった。ハシヒト或いはマヒトと読ませている。この事については、自分がさきに「民族と歴史」を発行した当時、その第一巻第一号(大正八年一月)に、「
間人とは文字の示す如く中間の人の義で、大体において良民と賤民との中間に位するということを示している。この名称は既に大化以前から存在し、近く徳川時代までも継続して、我が社会組織上常に重要なる一階級を成しておったのである。しかるにもかかわらず我が一般国史の研究者はもとより、特に我が社会史を専攻すと称する人々までが、従来思いを茲に致すこと至って少く、往々にしてこれを閑却するの嫌いがある如く見えるのは、大正学界の為に甚だ惜むべき次第である。すなわち煩雑を省みずなるべく多く諸書に散見する史料を網羅し、これに関係する事項を蒐集し、一つは世間の注意を喚起して以て類似の資料の報告を望み、一つは史家の参考に供して以てその研究の進歩を
「間人」の文字は旧事本紀天神本紀に初めて見えている。
間人という姓は新撰姓氏録に、
左京皇別上 間人宿禰 仲哀天皇皇子誉屋別命之後也。
山城国皇別 間人造 間人宿禰同祖誉屋別命之後也。
左京神別中 間人宿禰 神魂命五世孫玉櫛比古命之後也。
山城国皇別 間人造 間人宿禰同祖誉屋別命之後也。
左京神別中 間人宿禰 神魂命五世孫玉櫛比古命之後也。
と見えている。この最後のものは、前引の天神本紀に天玉櫛彦命は間人連等の祖とあるのと同じもので、天武天皇十三年に間人連等五十氏に姓を賜いて宿禰というに当る。
この外にも間人姓のものは少くなく、姓氏録右京皇別上に、
「間人」を以て名となすもの、「間人」を以て姓となすものが古代に多く、或いはこれが地名として遺り、近く徳川時代までも地方によってはその称を以て呼ばれる一部の民衆があったとしてみれば、太古以来我が社会組織の上において、「間人」という一階級の存在が認められていたことは明白である。
「間人」と書いてマヒトと
しかしながら、これをマヒトと呼ぶのは或いはその文字によって起ったもので、古くはこれをハシヒトと呼んだであろうとの事は、これを姓や名につけた場合に、多くそう読んであることによって知られる。
ハシヒトという語については、本居翁はその古事記伝の間人穴太部王の御名に注して、
間人は波志毘登と訓むべし。(ハシウドと刻むは後のくづれたる音便なり。)「間」は借字にて、(物の間を波志と云ふこと例多し)土師人のよしなり。(土師は波爾志なるを、爾を省きて云ふときは、志を濁りて波自と常に云ふを此御名に「間」字を借りて書けるを以て見れば、志を清みても言ひけん。)かくてこの御名の間人 は、御乳母の姓なり。(下略)
とある。すなわち土器製作部民の称と解しておられるのである。しかるに故栗田寛先生はこの説を採らず、その新撰姓氏録考証において、「間人の意未だ考へ得ず」と記るされ、慎重なる態度を採って、所謂その疑わしきを
間人なるハシヒトが果して土師人であるか否かについては、単に本居翁が独断的に「然なり」と言われただけでは、なお未だ以て他を承諾せしむるには不十分である。したがって故栗田先生がこれを信ぜず、慎重なる態度を採られたにも無理はない。しかしながら、もしその間に「
古事記に間人穴太部王とある欽明天皇の皇女の御事を、日本紀に部穴穂部皇女に作り、その「部」を古訓「ハセツカベ」とあるよしは既に述べた。ハセツカベは駆使部の義で、普通に「杖部」または「丈部」と書き、慶長古版の日本紀には、その部の右側にわざわざ「丈部」とまで傍書し、左側に「ハセツカベ」と傍訓を施してあるのである。これは部すなわち丈部であることを示すと同時に、それが間人であることを語るものとして解すべきものであろう。部姓のものには同書天武天皇元年六月の条に、大津皇子に従って天皇の軍に参加した部
しかるに従来の国学者国史家等、多く部のハセツカベなることを承認しない。既に間人の土師人なることを認められる本居翁すら、その古事記伝において日本紀の傍訓を否認し、
部は波志毘登 なるを、本にハセツカベと訓みて、傍に「丈部」と書けるはいみじき非 なり。丈部 とは大 く異なるをや、天武紀などに見えたる姓の部も同じ。
と云っておられる。かくて飯田武郷氏の日本紀通釈の如きもこれに従い、ハセツカベと訓めるは甚だしき誤りなりと喝破せられてハシヒトの訓を取り、新版国史大系本の日本紀の如きに至っては、おそらく平安朝以来の傍訓(少くも釈日本紀以来の傍訓)たるべきハセツカベを抹消して、無条件にハシヒトと改めているのである。さらに栗田寛先生はその新撰姓氏録考証において部をハツカシベと訓むべしとの新説を提出せられ、太田亮君の姓氏家系辞書の如きは無雑作にこれに従っている。
栗田先生がこれをハツカシベと訓まれたのには理由がある。それは令集解職員令宮内省土工司の条に、「泥部」を「古言波都加此之友造」と注してあるのに基づかれたのであった。土工司は土作瓦及び石灰を焼く等の事を掌る官司で、その瓦は義解になお瓦の如しと解し、この司に泥部廿人が附属している。集解跡の説に、瓦はなお瓦泥と云うが如しとあって、「泥」「」相通じ、泥部はすなわち部である。そしてそれを古言「
しかしながら、さらに翻って考えると、泥部を何の故にハツカシベと訓んだかという、疑問が起らざるをえぬ。古く
按ずるに、ハセツカベは駆使の賤役に従事した低級の部民である。しかもそれは賤民という程のものではなく、良賤の中間に位置する階級のものであったから、これを間人すなわちマヒトとも呼んだものではなかろうか。集解の穴の説に、泥部を「
ここにおいてさらに部について一考せねばならぬ。部はすなわち土工に従事するの職人で、土師部の一派であるべきことは既に述べた。したがってこれをハシヒト(土師人)と呼んだ理由は容易に解釈せられるが、それを何故にまたハセツカベと呼んだであろうか。
河原人なる細工の者が、農家に雇われて稲作を害する鳥を駆逐するの職に従事したところから鳥追いと呼ばれ、その鳥追いが門附けの旅芸人となって依然鳥追いの称を以て呼ばれた。祇園の下級神人なる
かくの如きの例は他にも甚だ多い。部なる土師人も常に土工のみに従事していたものではなく、傍ら駆使に任じてハセツカベと呼ばれたのに不思議はない。同じ土師の名を伝うるハチ(この事は後に詳説する)がその職業によって、
要するに駆使部も泥部も共に同一階級のもので、もと土師人の亜流が活きんが為に種々の職業に従事したから起ったにほかならず、同じく間人階級のものであった。したがって「間人」と書いてハシヒトとも呼ばれ、「部」と書いてハセツカベとも呼ばれ、或いは両者を通用したものであったに相違ない。
「間人」という文字については、本居翁は物の間を「ハシ」というとの事から、土師人すなわちハシヒトの仮名として「間人」の文字を用いたと解しておられるが、これはむしろ反対であろう。中間のことをハシという様になったのは、かえって土師人が
武家時代に賤しい身分の召使女をハシタモノまたは単にハシタと呼んだ場合が多い。文字に「
一御切米四石、一御合力金弐両、一壱人扶持、一薪参束、一湯之木弐束、一油(半夜半分)、一御菜銀拾弐両
右御半下
右御半下
とある。その文字にはいかように書こうとも、言葉で下女をハシタという事は、今も昔かたぎの老人などのしばしば口にするところなのである。
このハシタという名称は、チュウゲン・ハシタと相並んだもので、武家時代には通例その使役の低い地位の男をチュウゲン、女をハシタと呼んだものであった。この名称はもと必らずしも性によって区別したものではなかろうが、既に平安朝時代からハシタは多く女に関して用いられ、チュウゲンは多く男に関して用いられている様である。狭衣物語に、
軒の杜若 を一筋引き落して、急ぎ書きて、はしたもののをかしげなるして、追ひて奉る。
古今著聞集に、
宇治入道殿に侍 ひける嬉しさといふはしたものを、顕輔卿懸想 せられたるに、つれなかりければ遣はしける。
我と云へばつらくもあるか嬉しさは、人に従ふ名にこそありけれ。
我と云へばつらくもあるか嬉しさは、人に従ふ名にこそありけれ。
枕草子に、
てづからは声もしるきに、はしたもの、わらはべなどは、されどよし。
栄花物語根合の巻に、
はしたもの、女房の局の人など、をかしくしたてゝ沓すり歩く。
落窪物語に、
はしたわらはのあるに、さうぞきかへさせて……罵りて出で給ひぬれば、……
宝物集に、
宮腹なるはしたものと志深く思ひけるが、……
殿暦康和五年十一月十五日の条に、
殿上人遊間、余(藤原忠実)候二御簾内一。(中略)斎院御方半物三人、装束自二内方一被レ進。
などあるハシタモノ、ハシタワラワ、半物などは、いずれも女子の事の例ばかりなのである。しかし伊予三島文書伊予国免田記に、
道々外半人等五十二町七反
経師七反 紙工二反 傀儡師壱町(以下所謂道の者なる雑職人十五を掲ぐ)
経師七反 紙工二反 傀儡師壱町(以下所謂道の者なる雑職人十五を掲ぐ)
とある「半人」はハシタビトと読むべきもので、殿暦に「半物」とあるに同じく、名目抄にはその「半物」にハシタモノと傍訓し、また前引御老女衆記にハシタを「半下」と書いてあることなどによってその読み方は知られるが、これは必ずしも女性のものではない。けだしハシタという言葉そのものに本来男女の性の区別はないのであったが、同じ意味の語を男性にはチュウゲン(中間または仲間)と音読することがふさわしく、女性にはハシタと訓読することの優しく耳に響くので、自然にこの別をなすに至ったものであろう。なおチュウゲンの事は項を分って別に説明する。
さてハシタまたはハシタモノという名称は何を意味するのであろう。本居翁は「物の間をハシと云ふこと例多し」と言われた。しからばハシタはハシトすなわちハシヒトで、中間の人という義に解せられる。今も東京などで、物の
今日、日はしたになりぬ。奈良坂の彼方には人の宿り給ふべき家も候はず、こゝに宿り給へ。……
竹取物語に、
御子は立つもはした、居るもはしたにて居たまへり。
後撰集に、
身の憂さを知ればはしたになりぬべし、思へば胸のこがれのみする。
更科日記に、
今は宿取れとて、人々あかれて宿を求むる所、はしたにていとあやし(賤)げなる下司 の小家なんあると云ふに、……
元真集に、
我宿に植ゑてだに見ん女郎花、ひとはしたなる秋の野よりは、
源氏物語に、
帰らんもはしたなり、心おさなく立ち出で給ふに、……
今もよく値切って物買う人が、「ハシタだけ負けて丁度にして置け」などいうことは、しばしば耳にするところである。つまりは中間の義で、本居翁の所謂物の間をハシというとあるに当るが、このハシはけだし、かえってハシタの略で、そのハシタは前記の
さらにこのハシタという語のほかにハシタナという語がある。堀河後度百首に、
さもこそは峯の嵐の荒からぬ、あなはしたなの槙の板戸や。
源氏桐壺の巻に、
同手習の巻に、
念仏より外の他業 なせそとはしたなめられしかば、……
同夕顔の巻に、
隣の事も聞きはべらずなど、はしたなげに聞こゆれば、……
蜻蛉日記に、
枕草子に、
はしたなき物、異人 を呼ぶに我かとてさし出でたるもの、まして物取らす折はいとど。
源氏箒木の巻に、
鬼神も荒立つまじき御気はひなれば、はしたなく、こゝに人どもえ罵らず。
宇津保物語に、
見給ふ大将の君、やうなき物取り出でけるかな、はしたなしと思ひ給へり。
など、その例は極めて多い。その意味は或いは気が利かぬとか、戒めるとか、下品なとか、きまりが悪いとか、口やかましいとか、場合場合によって一様ではないが、しかもそのハシタナがハシタから導かれた語であることは疑いを容れざるべく、そしてその義がハシタ無きこと、すなわち中間ならざることと云うのではなくて、むしろハシタなる事、ハシタの様な事という意味から、いろいろに転じたものと解せられる。けだしハシタモノすなわち
要するにハシタとは中間なる人すなわちハシヒトの義で、それが下級のものの名称として用いられ、たまたまそれを音読したチュウゲンの語の男性的なるに対して、ハシタなる和訓の女性的なるが為に、
許されて御中間[#「御中間」の左に「ごちゆうげん」のルビ]になされにけり。御幸の時は烏帽子かげして、くゝり高くあげて走りければ、興あることになんおぼしめされたりける。
中大冠者といふ年頃の中間男[#「中間男」の左に「ちゆうげんをとこ」のルビ]に、むかばきの余りたりけるを一とかけ取らせたりけるを、此の定にはきて……
中間法師[#「中間法師」の左に「ちゆうげんほふし」のルビ]常在といふあやし(賤)の者まで、形の如く連れたり。
中大冠者といふ年頃の中間男[#「中間男」の左に「ちゆうげんをとこ」のルビ]に、むかばきの余りたりけるを一とかけ取らせたりけるを、此の定にはきて……
中間法師[#「中間法師」の左に「ちゆうげんほふし」のルビ]常在といふあやし(賤)の者まで、形の如く連れたり。
山槐記治承三年六月廿二日条に、
平家物語に、
中間男が首にかけさせたる皮袋より取り出して、……
などいう
チユウゲンなる折に大進物聞こえんとありと、人の告ぐるを聞こしめして、……
めのありしをたゞ取りに取りて喰ひまぎらはしゝかば、チユウゲンにあやし(賤)の食ひ物やと人も見けんかし。
めのありしをたゞ取りに取りて喰ひまぎらはしゝかば、チユウゲンにあやし(賤)の食ひ物やと人も見けんかし。
更科日記に、
夕潮たゞ満ちに満ちて、今宵 宿らんもチユウゲンに、潮満ち来ればこゝをも過ぎじと、ある限り走りまどひ過ぎぬ。
などあるチュウゲンは、以てこれを証すべきものであろう。
チュウゲン(中間)の文字を訓読して或いはナカマ(文字に中間・仲間・半間など書く)という。郷土研究所載柳田國男君の「鉢叩きと其の杖」の文中に、広島県特殊部落
広島県阿佐郡○○村には○○、○、○○、○○などの特殊部落がある。此地の口碑によれば、昔はヱタに長利派、八矢 、中間 の三種族あつたが、後に皮田といふ一種族新に起り、専ら獣類の皮を取り扱ふ様になつた、云云。
長州藩の掟書たる郡中作法の中に「半間」という名称があって、それもナカマと読むのだと村田幸次郎氏の投書が同じ郷土研究に収められている。自分の郷里なる阿波でも現に往時エタをナカマと呼んでいたことは自分らの幼時しばしば耳にしたところである。或る時近村の○○部落の者が素人芝居を催して普通民をも招待した。通例その幕明けに当っては、静粛を警告すべく拍子木を打って「東西東西」と呼ぶのであるが、旦那方に対してそんな命令的の語を発するは失礼だとあって、「東西東西、旦那方には
山陰地方にはかつてハチまたはハチヤと呼ばれた一種の階級の民衆があった。山陽道筋でチャセンと云い、北陸方面でトウナイと云い、東海道筋で説経者またはササラと云い、近畿地方でオンボ(御坊)・シュク(宿また夙)などと呼ばれた身分のものも、もとは同様で、古くはチャセンやオンボなどをハチヤと呼んだ例もある。つまりは一種の中間法師すなわち下司法師の亜流で、
ハチヤ・チャセンの徒が後世までも自ら空也上人の門流たることを自認していた次第は、前記の永山・倉光両君の文に見えているが、彼らは実に上人と深い因縁を有する鉢叩きの徒であったのである。上人の生れた延喜の頃は地方の政治甚だしく紊乱して、人民は国司の収歛誅求に堪え兼ね、当時生に安んぜずして自ら公民の資格を放棄し、課役を避けて僧となったものが天下三分の二の多きに及んだと三善清行は言っている。所謂下司法師・中間法師の徒となったので、その多数はともかく家に在って何とか生活の途を講じたものであろうが、中には家にいる事が出来ず、京都の如き大都会や、その他村落都邑に流れついて賤職に生きたものが少くなかった。所謂非人法師・散所法師となったのである。空也上人はこれら下層の落伍者を済度して職業を授け、傍ら托鉢に生活せしめた。所謂鉢叩きである。彼らは往々竹細工に従事し、その所製の
按ずるに、
間人はハシヒトすなわち土師人で、駆使に役せられるが故にハセツカベとも呼ばれ、しかもなお文字に部または泥部と書いた次第は既に観察した。そしてハチヤは実にみずからその土師の掌る葬儀の職に従事した土師人で、真の意味における
自分はかつて民族と歴史一巻一号において駆使部と土師部との関係を論じ、その中に明暦四年及び寛文十年の阿波の棟附帳(戸籍)から「間人」なる一階級の民衆の存在を紹介しておいたが、その後同国の田所市太君は、その他にも間人に関する記録の、同国古帳簿に少からず散見することを報道せられた(同誌五巻三号)。同君の紹介せられたところによると、同国の間人には既に万治の頃に田地を有するものの存在した事が明らかである。万治元年十月三日附の名西郡上山村棟附の中に、
高一石二斗九升七合 間人
一家 忠左衛門 三十八
一家 忠左衛門 三十八
というものがある。間人は元来所謂水飲百姓で、田地を有せず、他人の田を耕して生活する程度のものの称呼であらねばならぬ。平安朝頃の地方政治の甚だしく
本百姓または百姓と間人百姓との資格の定められた時代は明らかでない。しかし一旦その資格が定まった以上は容易に変更が許されなかった。たとい間人が努力の結果田地を有し、所謂高持となった後までも相変らず間人の地位に置かれた事は前引棟附帳の示す通りである。彼らは同一村落に住しながらも、氏神の祭礼、村の寄合、その他において権利の極めて少いものであった。その代りに義務の負担もまた少かった。阿波においては彼らは本百姓または百姓に比して正に二分の一の夫役を負担せしめられるに過ぎなかった。田所君報告の寛永十一年阿波国板野郡
一、六歩 本百姓 作太夫 (歩は夫役のこと)
一、弐歩 右之下人 喜七郎
一、弐歩 右之名子 庄三郎
一、三歩 間人 藤右衛門
一、弐歩 右のおぢ 善太夫
一、弐歩 右之
一、弐歩 右之
一、三歩 間人 藤右衛門
一、弐歩 右のおぢ 善太夫
などと見えている。
谷君の報告によれば、防長地方においても百姓はその持高に応じて本軒・半軒・四半軒等に分れ、それぞれ
百姓軒別持高を五等に部 ち、高拾石以上を本軒、九石九斗以下七石五斗以上を七歩五朱軒、(後には七歩五朱軒の区別は廃せらる)七石四斗九升以下五石迄を半軒、四石九斗九升より弐石五斗迄を二歩五朱軒(四半軒)とし、弐石四斗九升以下を門男とす。
と古記録にあるそうであるが、それは幾分間人の意味が変って、単に貧乏人という風に解せられた後の定めらしい。しかしかく一旦身分が定まった以上容易に変更が許されず、前記の如く高百五十石と船一艘とを有しながらなお門男の肩書を有し、或いは高百七十九石を有しながら、相変らず本百姓四半軒の肩書を有する例をも谷君は提供しておられるのである。
防長において門男は百姓に取り立てられる道が開かれていたのみならず、門男百姓にして庄屋・
一、壱家 万之助 歳五拾三
此者曾祖父源次郎義享保之戌年棟附御帖に間人と相附候得共、此度百姓被付上候様被仰付候
此者曾祖父源次郎義享保之戌年棟附御帖に間人と相附候得共、此度百姓被付上候様被仰付候
とある。かくの如きの例は他にも多く、幕末にあっては、阿波の間人百姓の全部がすべて解放せられて、一人も残らなくなってしまった。現存の物識りと言われる古老についてこれを尋ねてみても、かつてその様な階級の存在した事をすら知っているものがなく、また今は間人の家筋だとして知られている家もない。のみならずその「間人」の文字の読み方さえも忘れられているのである。田所君はかつて庄屋を勤めていたという或る古老から、昔阿波には「マニン」という
最近に隠岐の横地満治君から同国における類例の報告に接した。甚だ有益なるもので、しかも未だ学界に紹介されておらぬものらしく思われるから、その要点を左に抄録する。
(上略)隠岐には穢多とか鉢屋とか申す特殊階級は昔も無く、現今或る村々に散在するもの少々有之候は皆対岸地より、近き過去に於て移住したるものにして、決して土着民には無之候。隠岐国に於ては百姓の次に位する間脇 と称する階級ありたるのみ。貞享四年隠岐島各村の統計を編綴したる隠州記といふ書には、島後の島内村数四十九箇村、家数二千二百六十二軒の内、七百二十九軒の間脇階級有之、之を村別にすれば矢尾村の七十四軒が最も多く、各村共三軒、四軒、二十、三十無之は無く、只一宮村と云ふに一軒も無之候。島前三島の統計は不完全にして、詳細に知り難く候。其の記載例を見るに、例へば元屋村の条下には、
一、家数三拾六軒内(廿六軒百姓拾軒間脇)
とあり、明かに百姓と区別したのものに有之候。而して如何なる者を間脇と称したりや、即ち百姓と間脇との区別は何処にありやと云ふに、寛文二年子の年十月二日元屋村石高小物成牛馬舟家人数指出帳を見るに、
一、家数弐拾六間
内 拾五間 御役家 四間 まわき
三間 寺 壱間 神主
壱間 役人 壱間 年寄
壱間 公文
〆弐拾六間
と有之候。尚之を別に調査したるものを見るに、拾五間御役家と称するは、多少に係らず皆田畠を所有するもの、即ち百姓なり。間脇といふ肩書を有するものは田畠なきものばかりに候。「間脇」をマワキと読むことは、同指出帳に明かに「まわき」と平仮名にて書きたることにて知れ申候。而して間脇階級の者が如何なる待遇を受けたるかに就き調査したる所、
一、地下寄合(今の村会の如きもの)に、庄屋の座敷に列席すれども発言権なき事。
一、同上の会合に列席すれども百姓とは別室、即ち一等下の席に着く事。
一、頭分年寄等村役人に就職する権利なき事。
併しながら間脇と雖も百姓の株を買ひて、百姓の仲間入を為す事は公然行はれたる事に有之、百姓株の事をミヤウ(名?)と称し、間脇には此のミヤウを二つも三つも所持するものあり、随分幅を利かし居るものも有之由、今も老人間に申伝居候。(下略)
一、家数三拾六軒内(廿六軒百姓拾軒間脇)
とあり、明かに百姓と区別したのものに有之候。而して如何なる者を間脇と称したりや、即ち百姓と間脇との区別は何処にありやと云ふに、寛文二年子の年十月二日元屋村石高小物成牛馬舟家人数指出帳を見るに、
一、家数弐拾六間
内 拾五間 御役家 四間 まわき
三間 寺 壱間 神主
壱間 役人 壱間 年寄
壱間 公文
〆弐拾六間
と有之候。尚之を別に調査したるものを見るに、拾五間御役家と称するは、多少に係らず皆田畠を所有するもの、即ち百姓なり。間脇といふ肩書を有するものは田畠なきものばかりに候。「間脇」をマワキと読むことは、同指出帳に明かに「まわき」と平仮名にて書きたることにて知れ申候。而して間脇階級の者が如何なる待遇を受けたるかに就き調査したる所、
一、地下寄合(今の村会の如きもの)に、庄屋の座敷に列席すれども発言権なき事。
一、同上の会合に列席すれども百姓とは別室、即ち一等下の席に着く事。
一、頭分年寄等村役人に就職する権利なき事。
併しながら間脇と雖も百姓の株を買ひて、百姓の仲間入を為す事は公然行はれたる事に有之、百姓株の事をミヤウ(名?)と称し、間脇には此のミヤウを二つも三つも所持するものあり、随分幅を利かし居るものも有之由、今も老人間に申伝居候。(下略)
横地君の報告によってこれを観れば、
右の
右例示したところは単に阿波・土佐・周防・長門・隠岐の五箇国に関するもののみで、範囲は極めて狭小であるが、これはこれらの地方が僻遠にあって古い風習の多く伝わっていたという事と、領主に異動がなかったという為であって、その他の地方においてもかつてはそれがあり、また徳川時代にまでもこれが認められた場合が多かったに相違ない。切に同好者の報道示教を望む。
(右一項は本誌九月号農民史の中に収むべきものであったが、当時執筆が間に合わなかったので特にここに収める事とした。願わくばこれを以て右特別号の不備を補われたい。)
間人の意義性質については上来項を重ねて述べ来ったところによって、ほぼこれを明らかにしえた事と思う。さればそれを単に文字の示す通り、また意義のあらわす通り、マヒトとのみ読むならば問題はほぼ尽きた訳であるが、実際は古くこれをマヒトと読むよりも、ハシヒトと読む方がかえって普通であったかの如く観察せられるにおいては、ここにさらに項を新たにして間人と土師部との関係を説明するの必要あることを認める。
案ずるにハシヒトが
間人とは良民と賤民との中間の人の義である。しかしその良民と云い賤民というものが、時代によって世間の見るところ、国法の定むるところ、常に一様でありえないが如く、間人として認められるのも、古今において往々その実体を異にしている。良賤の別の変遷は別に論ずべき興味ある問題であるから、ここにその説を省略するが、簡単にその概要を云わんに、上世において良民と謂うべきものは、厳格に云えば百姓すなわち姓氏を有する一切の臣連伴造国造の徒のみであって、天皇に直隷し、賤民とは一家をなさずして他に隷属する
しかるに世の進歩とともにこの階級に関する思想は次第に変遷して、一般部曲の民の人格が漸次重く見らるる様になり、ついに大化の改新に至っては、原則としてことごとく解放せられ、氏を称して良民の列に置かれる事になった。しかし実際にはその中の或るものがなお雑戸或いは品部として取り残され、特に触穢の嫌忌を被る陵戸の徒は賤民の列に下された。その代りに従来賤民であった筈のヤッコすなわち奴隷のうちにも、比較的優遇せられて一家をなすものは
大化以後においては原則として一切の部曲は解放せられ、公民の戸籍に編成せられて口分田の班給を受け、ことごとく農民すなわち
中間法師とは課役を避けて出家した私度の僧の徒で、家に妻子を蓄え口に
これら中間法師の中において、一旦私度の僧となって公民籍を脱して後も依然農業に従事して農奴の如き階級に堕ちたもの、これを間人百姓と呼んだ。後にはその語が無産者の義に転じて、田地を有せざる者を一括してマウトと称する様になったが、つまりは間人すなわちハシヒトの語をついだものに外ならぬ。
かくの如く、所謂間人なるものは時代によって種々の変遷を示し、その指すところもまたその称呼をも異にするに至ったが、要するに良賤両者の中間にあるの義であって、我が国ではいつの時代にも、実際上民衆の多数を占めたものであった。勿論民族的の相違ではなく、単に境遇から起った身分上の区別であったから、時代によって常に新陳代謝して来たものであったが、徳川太平の時代の如きは、万事現状維持を施政の大方針となしたが為に、容易にその域を脱出し難い様な場合もないではなかった。
これを要するに間人なる一階級は、我が過去における社会組織の研究上最も主要なるものであるが、しかも従来研究者によって多く閑却せられていたのであった。これを明らかにするにあらずんば到底我が社会史は完成すべきものでない。部曲と云い、雑戸と云い、非人と云い、農人と云うもの、多くはこれと因縁を持っている。現代の一切の民衆かつては大抵この階級を経て来たものなのである。