オシラ神に関する二三の臆説

喜田貞吉




一 はしがき


 東北文化の研究については、土俗上、信仰上、見のがすことのできないものの一つにオシラ神がある。オシラ神の事については、ことにこの方面の研究にはなはだ多くの薀蓄うんちくを有せられる佐々木喜善君の報告を、本誌創刊号上において紹介するを得たことを光栄とする。たまたまこれと時を同じゅうして、わが郷土研究界の権威なる柳田國男君が、「オシラ神の話」と題する興味深い一文を文藝春秋の九月号に発表せられた。けだしこの神に関する研究が、ますます盛んになろうという機運の到来したものといわねばならぬ。もしこれをこの神の威霊を信ずる人たちに言わせたなら、或いはオシラ神の思召おぼしめしだと言うかもしれぬ。これがまことに偶然の事であるとしても、我々はこれを機会として、ますますこの方面の資料の蒐集に努力し、各方面からこれが研究を進めてみたい。かくの如くにして、わが東北文化の一面は漸次明らかにせらるべきである。
 オシラ神のことについては、これまでにもすでに柳田、佐々木の両君をはじめとして、少からずその説が学界に紹介せられている。しかしながらそれは主として現代における奥州方面のことであって、過去の事、また他の地方のことは、あまり多く紹介せられておらぬかに見受けられる。所変れば品変る、難波の芦は伊勢の浜荻だなどと、いまさら事新しゅう言うまでもないが、もとは同一根原のものであっても、地方により、時代によって、名称も違えばこれに関する伝説も変ってくる。余輩はそれらの違った材料をなるべく多く集めて、また変った立場からの見解をも広く尋ねて、これを綜合した上にはじめてこの神の由来沿革を明らかにすることを期待する。前記佐々木喜善君も引き続きその薀蓄を発表せられるべく予約せられた。東大史料編纂官たる鷲尾順敬博士も、博士の仏教的見地から採訪せられたる資料について、不日高見を寄せらるべく承諾せられた。願わくば各地の同好者諸君、この機会をもって続々見聞せられたところを御報告くだされたい。これが説明のために写真またはスケッチを添えられることはもっとも歓迎するところである。
 取りあえず本号には、羽前庄内地方のオクナイ様のことを紹介して、次にいささかこれに関する臆説を述べてみたい。

二 庄内地方のオクナイ様


 佐々木君の報告の中に、黒川友恭著「荘内方言考」を引いて、山形県荘内地方では、他の地方ではオシラ神というものを、オコナイ様というとの事が見えていた。文藝春秋所載柳田君の「オシラ神の話」にも、真澄翁の「月の出羽路」に、このオシラ神をオコナヒガミ(行神)というところありとの記事があることを引いておかれた。
 オコナヒあるいはオクナイともいう。その義如何いかん
 これはオシラということの意味の不明であると同様に、まったく不明である。しかし庄内地方では、すでに佐々木君も引いておられたように、ふつうにこれを藩祖酒井宮内大輔忠勝に関係して説明している。忠勝入国の際検地が案外寛大であったので、農民その徳を頌し、土地を測るに用いた間竿けんざおを切って神に祭ったのだというのである。しかしながら、それが事実でない事は、その実体がその実間竿の切れではなくて、ただの細い竹であることからでも裏切られる。或いは当初間竿の切れで作ったのであったが、後にそれにならってただの竹で作ったと言うかもしれぬ。しかしそれにしても、ふつうに男女二体並んでいることが、たんに宮内大輔様では不似合である。のみならず、それが奥州方面でふつうにオシラ様と呼ばれているものと同一系統に属するものであることは、その実物や行事を一見しても明らかなことで、何もわざわざ酒井家領分の庄内限りにしか通用しないような、窮屈な説明を必要としないのである。佐々木君に従えば同じ山形県でも酒井家の領分を離れた山形地方では、オクメナイ様といっているという。してみればオクナイ実はオクメナイの略称かもしれぬ。いずれにしてもこれは宮内大輔の領分なる庄内限りのものではなく、広く奥羽地方に、いなおそらくは、さらに他地方にも行われたものとして、一般的に通用する説明を求めねばならぬ。
 巻頭挿入するところの図版の一つは、東京帝室博物館の所蔵で、故伊能嘉矩君の寄附にかかる物。おそらく同君の郷里なる、陸中遠野あたりの物であろう。他の一つは羽前東田川郡立谷沢村大字木ノ沢の、長南助右衛門氏方のオクナイ様で、同地の斎藤重作君が撮影して贈られたものである。余輩は大正十二年七月五日に、右斎藤君のお世話で、親しくこれを拝見することを得たのであった。この方は神像とはいってもただ一本の細い竹で、その頭は遠野あたりにあるように、ことさらに彫刻を施したものではなく、ただ竹の端を包んであるだけ、帽子を被せたというわけなのであろう。この帽子は、着物とともにあとへあとへと重ねて着せるものであるから、年代を経るとともにだんだん大きくなる。この地方では、たいてい六七年目に手向たうげ(羽黒)から巫女みこが来て着せるのだという。草分けとも言われる古い家に限って祭るもので、着物は上へ上へと重ねるのであるから、下重ねになったものはひどく煤けてボロボロになっている。
 したがって何枚重なっているのだか、今では正確に数えることもできないが、少くも六七十枚はあると見た。かりにそのいうごとく六七年目に一枚重ねるとしたならば、三四百年にもなるはずである。しかし昔から果して六七年目に一回着せたものであったか否かは明らかにしがたい。もっともこの長南家は、この地方でも旧家であって、現在の住宅のごときも、まだ今のかんなを用いなかった古い時代の建物が遺っている。そしてその建物の屋根裏から、先年「綸旨りんじ」と金蒔絵で表書きした黒塗りの空箱を発見したというほどの旧家であるから、無論この村の草分けの一つとして、その祭れるオクナイ様が三四百年経っていても差し支えはない。
 庄内地方のオクナイ様は、ふつうのオシラ様と同じく二体あい並んだもので、同じ竹の切れに、同じように頭巾や着物を着せたものであるから、ただ見ただけではどれが男だか、どちらが女だかちょっと判断しかねるが、それでもやはり男女両体をあらわしたのだと言われている。その二体を並べて、これもこの神を祭った当初の時代からのものだと思われるほどの古い厨子の中に安置して、持仏と並べてお祭りしてある。毎日礼拝はするが何を祈るということもなく、また何を守る神だということもここでは伝えはないらしいという。ただ旧家の家の神として、昔からあるままに先例によって祭っているというぐらいの事であろう。なおくわしいことは斎藤重作君を煩わして、重ねて紹介したいと思う。
 このオクナイ様が、佐々木君や柳田君の紹介せられたオシラ神と同一根原のものであることは、百年前に菅江真澄翁のすでに認められたところで、今において何人も異議をさしはさまぬであろう。しかしながらその実体や、これが由来に関する伝説、またこれに対する信仰等に至っては、両君の紹介せられたところとよほどようすが違っている。けだし今の奥州方面のオシラ様と、庄内地方のオクナイ様とは、兄弟もしくは従兄弟同士ぐらいの関係で、お互いの間にはすこぶるようすを異にしてはいるが、しかしさらにその奥に共同の先祖があったのであろうと推測せられる。或いはその一つが嫡系で、他が庶流であるのかもしれない。いずれにしてもかくようすの変った親類がある以上、さらに広く同族を尋ねてみるの必要がある。

三 信仰の変遷とオシラ神の正体


 ひとりオシラ神とは限らず、同じ神に対しても、地方により、時代により、その外貌なり、信仰なりに、変遷のある場合が少くない。これには誤解から来るものもあれば、混同から来るものもあるが、時代思想の変化に伴のうて、自然に変遷する場合がもっとも多い。試みに傍例を観察してみると、かの護国の神たる四天王が貞観年間山陰諸国に祭られた中に、ゴコクという名称から誤られて、伯耆の社村では今日五穀豊熟を護るの神として崇められているがごとき極端なものもある。
 大黒天はもと戦闘神として、武装した恐ろしい容貌の神であったが、後には台所を司る神となり、これがためにお寺の細君を大黒と呼ぶようなことにまでなっておった。しかるにそれがさらに後世では、恵美須神とあい並んで財宝を守るの福神となり、容貌までもニコニコしたものと変ってしまった。しかも一方でその大黒天が、武家からは武神として崇敬せられた時代もあったのである。またその大黒とあい並んで、福神として商家に祭られる恵美須神も、かつては毘沙門天の垂迹とまで言われて、一方では武神として崇められたほどの勇猛神であり、また一方では漁業航海を護る神として、海人に祭らるる神であったが、これも後世では財宝を授くる神となり、商家では宅神として、大黒天とともにもっぱらこれを祭るようになっている。その他かまどの神を祭る荒神棚こうじんだなに、木製の陽物を供える習慣の地方の多かったのも、これを道祖神の信仰と混同した結果であろうと思われる。
 傍例すでにかくのごときもので、オシラ神の形体や信仰も常に同一であったとはもちろん言われない。奥州方面では今日これを養蚕を守る神として崇敬し、したがってその御神体も、桑の木をもって造るを法とするように考えられているところが少くないそうであるが、それも当初からこの神が、かかる性格のものであったか否かについては一考を要する。柳田君の引かれた月の出羽路に、真澄翁の書いて遺されたのを見ると、百年前においてすでに出羽においても、そういう信仰があったらしい。それでこの神の材料を、桑の木に限るがごとき説も起ったのであろうが、必ずしも桑をもって作られるのでないことは、すでに佐々木君の記述せられたとおりで、その信仰も必ずしも養蚕の神としてのみでなかろうことはいうまでもない。けだしオシラ神の正体は、もとはやはり一種の宅神であったものではなかろうか。
 昔は宅神という名称がしばしば物に見えている。それを邦語でヤカツカミといった。ふつうには食物を守る神として、保食神うけもちのかみを祭るものと解せられているが、実際には竈の神であった場合も多かったらしい。けだし家にとってもっとも大切なものとして、これを代表すべきものは竈であるからである。奥州地方では、今でも子弟を分家せしめることを「竈を分ける」というほどである。そこで竈の神を宅神として祭るに不思議はないが、それも後には三宝荒神と習合せられ、あるいは道祖神の信仰と混淆して、宅神としての性質はよほど薄くなってきている。これは時代の変遷に伴って起ったものであるが、しかしいずれにしても、家族の生活して行く上に、幸いをもたらす福神を祭る意義においては変りはない。
 オシラ神もやはり宅神の一種として、各自の家に祭ってその家を守り、幸福を授ける神として信仰せられたものであるに相違ない。それがしばしば祟りをなすということは、威霊ある神には当然の付き物としてやむをえぬところである。
 宅神が保食神であるということと、オシラ神が養蚕の神であるということとは、信仰において同一系統のものである。保食神は本来ウケすなわち食物の神であったが、養蚕業が農民の副業となるに及んで、さらに農桑の神として崇められるようになった。されば養蚕の神として祭らるる場合、オシラ神はふつうの宅神と同一系統の神と解してしかるべきものであるが、しかもその形体なり、行事なりにおいては、東北地方特有のものとして、別に考究するところがなければならぬ。それについてまず第一に考うべきは、現にアイヌ族の間に行われる宅神の信仰である。

四 アイヌの宅神チセイコロカムイとオシラ神


 北海道に住するアイヌ族の間には、今もってやはり一種の宅の神を祭っている。これをチセイコロカムイという。チセイは家の義で、チセイコロカムイは、家を持つ神の義である。余輩が昨年胆振いぶり白老しらおい部落で親しく見たチセイコロカムイは、一本の細い木に簡単な彫刻を施したもので、それに一種のイナオを供してあったが、登別温泉で会見した平取アイヌの木幡菊蔵、同清一郎兄弟両君の語るところによれば、同地方のチセイコロカムイはなお遠野あたりに見るオシラ神のごとく、一本の木を刻んで造った人体をなせる木像で、それには簡単な頭があり、毎年新しく着物を着せる。着物といっても例のイナオで、それを毎年重ねるという。そのイナオがあまり多くなれば取りかえる事もある。その像にはユマサ(腰刀)を帯びさせたり、槍を立てたりするという。もちろん地方により、家風により、いろいろ違ったものがあるらしいが、しかし多くの神々を祭る中でも、このチセイコロカムイは家にとって第一番の神であるという。
 ここにおいてか余輩の臆説が起る。いわゆるオシラ神また一種の宅神として、アイヌのチセイコロカムイと同一起原の物ではなかろうかというのである。
 アイヌが神にイナオを供するのは、内地で神に幣束を供すると同一行事である。アイヌのイナオは一つにヌサといい、内地の削り掛けの精巧なもので、邦語のヌサすなわち幣束を表わす語をそのまま輸入しているのによっても、その同一性質のものであることが知られる。内地で今日ふつうに行われている幣束は、細く切った紙を幾条か集めて木の枝にかけたり、或いは紙を交互に切れ目を入れて折りかけ、それを竹または木の柄に挟んだりしたもので、ふつうに御幣などと呼んでいるが、これはまったく原意を失った告朔こくさく※(「飮のへん+氣」、第4水準2-92-67)きようともいうべきもので、本来は衣服の料たる布帛、或いはその原料たる麻苧などを、幣物として神に供するものであった。アイヌのイナオまたまさにそのとおりで、やはりもとは衣服の原料として木の皮の繊維を神に供えるものであったに相違ない。しかるに内地で布帛あるいはその原料たる麻苧が紙の幣束に変ったと同じように、アイヌの方にもそれがついに形式的の削り掛けになってしまったものであると解せられる。
 しからばアイヌがイナオを衣服として毎年チセイコロカムイに着せるということ、またその身体が木の棒に彫刻を加えて、人体を表わしたものであるということ、さらにそれを家の神として崇敬するということのごときは、すべてわがオシラ神において見るところと一致するものであるといってよい。この見地から、余輩はまず次にオシラ神の本体を、アイヌ族間に行われる宅神によって説明せんと欲する。
 そしてそれが地方的に、時代的に、種々に転訛して行って、あるいは養蚕の神となったり、あるいは酒井宮内大輔によって説明されてみたり、イナオの代わりに布帛あるいは紙の衣を着せられたり、馬頭、姫頭、烏帽子頭等の形が出来たり、たんに一本の竹切れとなったりしたとはいえ、その本来はアイヌのチセイコロカムイと同様のものであって、もと蝦夷の国であったこの東北地方に、今もってその遺風が保存せられたものと解したい。
 余輩のこの臆説がいよいよ証明せられるまでには、さらに多くの類例を求めて、その上に帰納的論究が試みられねばならぬ。そしてもし反証が提出せられて、それが不成立になるならば、潔く撤回すべきである。しかしながら余輩は今しばらくこの臆説の成立しうべき仮定のもとに、さらに考察を進めてみたい。

五 オシラ神の名義


 アイヌの宅神たるチセイコロカムイが、果してオシラ神と密接の関係を有するものであるならば、その根原がアイヌの方にあって、東北地方のオシラ神は、前記のごとくその遺風の存するものと解するを妥当とする。何となれば、東北地方はもと蝦夷あるいはアイヌの国として、今においてなおその遺風が種々の場合に認められ、ことに某の家は蝦夷の子孫であるとか、某の部落はアイヌの※(「薛/子」、第3水準1-47-55)いげつの村であるとか言われるものが、現になお各地に遺っているほどであるのみならず、その宅神としての行事や性格が、古く京阪地方を中心とした日本民族の間に認められたものとの間にいちじるしい相違があり、しかもそれが主として、もと蝦夷の国と認められた東北地方にのみ、限られているという事実から推測せられるのである。
 果してしからばこのオシラ神を祭れる旧家は、当然蝦夷の遺※(「薛/子」、第3水準1-47-55)として見るべきかとの問題が起ってきそうであるが、余輩は必ずしもか考えるの必要を認めない。何となれば、この神を祭れる旧家は多くはその地方の草分けともいうべきもので、しかも草分けとして土地を開墾し、農業に従事したものは、通例内地から入り込んだ移住者であるべく考えられるからである。ことにオシラ神という名義の研究から、そのしかるゆえんをいっそう深く考えしめるのである。
 オシラ神の名義については、寡聞未だ確かな説の発表された事を聞かぬ。佐々木君に従えば、姉崎博士は不動尊の原名なる阿遮羅尊をもってこれにあてられたという。あるいはこれを阿修羅にあててみたものもあるという。しかしそれらはたまたまその名が似ているということ以外に、とうてい同一起原のものたるを説明することができまい。
 第一にオシラ神という名が果して普遍的のものなりや否やにも問題がある。この神が最初オシラ神あるいはオシラ様の名をもって学界に紹介せられたがために、今ではこれが通り名となっているようではあるが、佐々木君もすでに指摘せられたごとく、地方によって種々に呼ばれているのであって、どれが果して原名か、もしくは原名にもっとも近いかを知ることすら今では容易でない。オクナイあるいはカバカワのごとき、まったくかけ離れたものはしばらく別として、オシラサマ一類の名称のみを観察してみても、陸奥八戸地方ではオヒラサマといい、黒石地方ではオヒナサマと呼ぶと佐々木君は言っておられる。余輩が過日親しく黒石において、同地の郷土研究家佐藤雨山君から聞いたところによれば、ここではオシナサマというとあった。佐々木君が黒石でオヒナサマというと書かれたのも、畢竟は同じもので、ヒとシとの間に発音上ハッキリ区別しがたい状態にあるのである。
 そこでさらに余輩の臆説が起る。オシラサマけだしもとオヒナサマではなかったかというのである。
 ヒとシとを混同することは今も関東以北にふつうに見るところで、少しも不思議はない。現に黒石で佐々木君はオナサマと聞かれ、余輩はオナサマと聞いて来たということだけからでもうなずかれよう。
 別篇日高見国の研究に述ぶるところ、常陸の信太しだ郡はいにしえの日高見国だとあるのも、日高見すなわちヒダの住みかたる地方がふつうにヒダと呼ばれ、それが転じてシダとなったので、オヒナがオシナとなったと畢竟は同一現象である。
 次にラ行音が転じてナ行音となり、あるいは反対にナ行音が転じてラ行音となることも、古来その例に乏しくない。「稲荷」と書いてイナリと読むことはだれも知っているが、伊藤博文公の出生地なるツカリも同じく「束荷つかに」と書く。越前の敦賀は旧名角鹿つぬがであったと言われ、日向の財部たからべが後世高鍋となっているのも同じ道理で、近江には「男鬼おおに」と書いてオオリと読み、信濃に小谷と書いて、オダリと読む地名がある。一方でオシラサマと呼ばれるものが、他方でオシナサマであったり、オヒナサマであったり、あるいはオヒラサマであったりしても少しも不思議はない。
 ヒナはすなわち「夷」で、ここでは蝦夷を意味する。オシラ神はすなわち「お夷神」で、内地から移住して来たものが、先住の蝦夷の神を宅神として祭ったものと解せられる。
 侵入者が土人の神を祭ることは古代常に見るところである。秦氏の一族が北山城の地に侵入し、桂川に大堰を作って葛野の平野を開墾するや、地主神たる大山咋神おおやまくいのかみを氏の神として松尾に祭り、また稲荷神をも氏の神として深草に祭る。ともに前からその地方を領した神で、秦氏は代々その祠官となっていた。古くからその地に鎮座した賀茂の上下の社のごときも、初めはやはり秦人が祭ったので、これは後に女婿鴨県主家に譲ったのだとある。
 伝教大師が比叡山を拓くや、これも地主神たる大山咋神を山王としてこの山に祭る。弘法大師が高野山を開くや、これも地主神たる丹生津媛神を守護神としてその山に祭る。また同じ道理だ。
 先住土人の神を侵入者が氏神として祭り、また護法神として祭るのも、移住者が夷人の神を家を護るの宅神として祭るのも、その動機は一つである。ここにおいて夷神すなわちオヒナサマの名義は解せられる。
 あるいは先住の夷人が土着のままに日本民族に仲間入りして、祖先以来の宅神をそのまま祭っていると解してもよいのかもしれぬ、また事実そんな場合もあったには相違ないと信ずる。しかしかくてはその神を呼ぶに夷神の称をもってすることの理窟が聞こえなくなる。ヒナガミとは日本民族が、先住民すなわち夷人の神として呼んだ名称であらねばならぬ。
 さればもし先住土人がそのままに日本民族となって、引き続き在来の宅神を祭っているがごとき場合があるとしたならば、その神に対するオヒナなる称呼は隣人の呼ぶところにならったものだと解すべきものであろう。
 すでにその称呼が夷神であるとすれば、この神の起原が蝦夷またはアイヌの側にあるものたるべきことは、容易にうなずかるべきものであろう。
 説いてここに至った以上、余輩の臆測はさらに進んで、雛人形の起原にまで及び、もってオシラ神の研究に資するところがなければならぬ。

六 オシラ神と雛人形


 雛人形の起原と名称とについては、それがきわめて通俗的の物であるにかかわらず、なおオシラ神の起原と名称とについて定説がないと同様に、これまでほとんど確かな説がない。正徳の和漢三才図会には、「凡そ物の大なる者を馬と云ひ、小なる者を雛といふ。此の戯は皆小器を用ふ。故に名づく」といっている。そして言海などもこれをそのままに引いているが、これもって未だ確かな解説とはいえない。お雛道具の小さいのは、本来それが子供の玩具であるがためであって、それゆえにその人形をまで「雛」といったとは受け取れない。
 今日ふつうに雛壇に飾る人形は、種々雑駁なものになっているけれども、それは比較的近い時代以来の事で、いわゆる雛人形の原型というべきものは、きわめて簡単な立像の紙雛のみであった。いわゆる内裏雛がはやりだしてからは、こちらはだんだん衰えて、今では雛壇から影を消した場合が多いが、真の雛の名義の由来はこの紙雛について求むべきものでなければならぬ。
 紙雛の型式にも種々あって、地方によってはいちじるしい特徴を有するものも少くはない。しかしだいたいとしては近ごろも各地でよく見る郷土玩具の首人形のたぐいに、紙の衣を着せて遊んだというのが起原であると考える。平安朝ごろにはもっぱら少女の遊戯になっていたものらしく、源氏物語にも、

十にあまりぬる人は、ひいな遊びは忌みはべる物を、

など見えている。また枕草子にも、「過ぎにし方恋しきもの」という中に、「ひいな遊びの調度」ということを数えて、清少納言が少女時代の遊戯を回想している。ここに「ひいな」とは、一つに「ひひな」ともあって、畢竟「ひな」の延音と思われる。そしてそのひいな遊びとは、今も少女らが首人形などに着物を着せて、おもちゃの食器などを並べてままごと遊びをするようなものであったに相違ない。後世では雛祭などと事々しいものになり、時期も三月三日の節句というようにきまったけれども、当初はもちろん祭ではなく、また時期も定まらずまったく少女たちのひいな遊び、すなわち雛遊びであるに過ぎなかったのである。
 そこで思い合わされることは、オシラ神についても特にオシラ遊びの語が呼ばれ、若い娘達によって御馳走が供せられるということである。首人形ともいうべき一本の木や竹の偶像に、新しい衣服を着せ、御馳走を供して遊びをする。
 そしてその名称までがオシラすなわちオヒナと呼ばれていることにおいて、その「オシラ遊び」と「お雛遊び」との間に、切っても切れぬ因縁の糸の通じていることを何人が否定しえよう。オシラすなわちオヒナは、その実「お雛」であるのだ。上方におけるお雛遊びの原型は、奥羽地方におけるオシラ遊びの原型と共通したところがあったものに相違ないと思われる。
 もちろんこれは一つの臆測である。しかしその相互間において何らか密接の関係の存することが認められる以上、オシラ神の名義の説明は、同時に雛人形の名義を説明するところとなろう。
 すなわち雛人形のヒナは、オシラ神すなわちオヒナ神のヒナと同じく、「夷」の義であると解せらるのである。ただそれがオシラ神の場合には、ある宗教的信仰を伴っているのに対して、お雛遊びがたんに少女間の遊戯たるに止まり、ほとんど宗教的傾向の存在を認めない点にいちじるしい相違があるが、それは文化と信仰との相違から起ったもので、今も文化の程度を異にし、宗教的信仰を異にする民族が、他の民族の信仰の対象たる偶像をもって、あるいは愛玩品となし、あるいは観賞品として楽しむ場合のあるのと同様の現象として解せられる。
 この上方における雛遊びと、東北地方におけるオシラ神との間に連絡を示すものと思われる一つの記事が、扶桑略記によって伝えられている。同書天慶二年の条に「或記」というものを引いて、

近日東西両京大小路衢、刻木作神相対安置。凡厥体像、髣‐髴丈夫、頭上加冠、鬢辺垂纓、成緋衫色、起居不同、遞各異貌、或所作女形、対丈夫而立之、臍下腰底、刻絵陰陽、搆几案於其前、置坏器於其上、児童猥雑拝礼、慇懃捧幣帛、或供香華、号曰岐神クナドノカミ。又称御霊。未何祥。時人奇之。

と書いてある。これは他にもしばしば例のある一時の流行神の一つではあるが、その男女相対したる木像を安置して、児童がこれを祭るところ、オシラ遊びなり、雛祭りなりに、はなはだ髣髴たるものであることは、おそらく何人も否定しないであろう。
 流行神の例としては、応徳二年の福徳神、天慶八年の志多羅神など、ことにいちじるしいもので、ともに京都で大騒ぎを演じたものであった。中にも志多羅神のごときは、摂津国をだんだん西から東に向かってはやって来たもので、ついには数千万人神輿を囲繞して、京都に向かって練り込んだと言われるほどの騒ぎであったが、その神輿の一つに宇佐宮八幡大菩薩とあったというによって考うれば、これはおそらく九州からはやって来たものであったと思われる。
 この傍例によってさらに臆測をたくましゅうせんに、時も同じ天慶のころに、九州から志多羅神が来たと同じように、東北から夷神がはやって来て、京都に一時的の信仰騒ぎを演じたのであったと解するに不思議はない。しかもそのばかばかしい迷信から覚醒した後になっては、まったく信仰的方面から離脱して、ただその夷像のみがいわゆる雛人形として、少女の玩弄物に遺されたのではあるまいか。その流行当時にこれを岐神といい、あるいは御霊ごりょうといったというのは、志多羅神のはやった時に、あるいはこれを小藺笠神といい、あるいはこれを八面神などといったのと同様に、各自勝手な名称を呼んだもので、流行心理に囚えられてその渦中に巻き込まれたものは、何が何やらわからぬながらに、その男女相対するところから道祖神に付会して岐神といい、あるいはその威霊ありと信ぜられた事から御霊ともいったものであったと解せられる。しかもそれが鎮静して後に、遺ったところはただ夷神の偶像たるヒナ人形のみであった。
 これはまことにいうところの臆説にすぎぬ。たまたま天慶の流行神の記事が伝わっていたがために、その類似点からしいて双方の連鎖を試みたにほかならぬ。しかしながらオシラ神が一方ではオヒナすなわち雛人形とその名称を同じゅうし、一方では蝦夷神のすなわち夷神たるチセイコロカムイと多くの類似点を有するの事実だけは、とうてい否定することができないと信ずる。
 しかもそれが偶然の暗合であるか、あるいはその間に離しがたい連絡を有するものであるかは、さらに他の多くの類例から帰納してはじめて証明せらるべきものである。今はただ試みにこれに関する二三の臆説を提出して、さらに他日の研究を待たんとする。各地の同好諸賢、幸いに資料の供給を惜しみ給わざらんことをこいねがうとしかいう。





底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「東北文化研究 第一巻第二〜三号」
   1928(昭和3)年11〜12月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年8月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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