特殊部落と細民部落・密集部落

喜田貞吉




 従来普通に特殊部落と云っておった我が同胞中の或る部族のことを、近ごろ内務省あたりでは、細民部落といっている。細民とは貧乏人の事である。なるほど特殊部落には貧乏人が比較的多いから、その多数についてこれを細民部落というのも、あながち理由のないことではないが、その実この部落にも細民でないのが少くなく、所謂特殊部落以外にも真に細民部落と呼ぶべきものが多いのであるから、この侮辱した様な名称が妥当でない事は言うまでもない事である。近ごろさらにこれを密集部落というものもある。なるほど彼らの多数は陋屋密集の状態にいるから、これを密集部落というのもまた理由のない事ではないが、その実地方によっては密集しておらぬのも少くなく、特殊部落以外にも事実上真に密集部落と呼ぶべきものも多いのであるから、この名称もまた妥当とは言いにくい。
 最近の新聞を見ると、しばしば普通の貧民窟の事を、細民部落とも密集部落とも書いた場合がある。これ実に真を得たもので、自分はこの語がかくの如くに、所謂特殊部落以外のものにも用いられ、その代りに所謂特殊部落に於いても、もはや改善救済を要せぬ様なものは、この包括したる名称から除外する様になるのを希望するものである。しかしながら、かくなったでは、所謂特殊民の意味はなくなってしまい、何らかの必要上、特殊民を区別して表わそうとする場合の目的は、それではわぬものであることを承知せねばならぬ。
 部落の名称については、自分は別にこれを論じておいた。したがってここにはこれらの名称の是非を論じようとするのではない。所謂特殊部落が、何が故に細民部落と言わるるまでに細民の多い部落であり、何が故に密集部落と言わるるまでに、住居の密集した部落であるかということを、歴史上から観察してみたいのである。
 古代にあっては下級民に余れる資産なく、多数は所謂その日暮らしであって、一旦飢饉でもあると、※(「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90)がひょうたちまち路に横たわるというのが普通であった。徳川時代に於いても、百姓は活かさず殺さず、その中間を泳がして行くというのが、幕府施政の方針であった。したがって下民は一般に貧乏であった。今でも文明の風の多く吹き渡らず、生活の向上に憧憬あこがれる事を知らぬ桃源場裏の村落へ行ってみると、一・二室しかない粗末なる家に荒蓆を敷いて一家族が団欒し、所謂父はててらふたのした気軽な暮らしに、酔生夢死しているものが少くない。この状態が一般に行われた際にあって、未だ人口も少かった特殊民の状態はどうであったであろうか。別項「エタに対する圧迫の沿革」の中に述べた如く、彼らは或る種の職業を独占し、或る種の特権を享有して、よしや彼らが向上心に欠如し、幾分社会から賤しめられていたとしても、その生活上の安全は、普通民に比してむしろ保障された方であった。したがって富豪というべき程のものも、少くなかった様である。天和・貞享年間の「雍州府志」には、京都天部あまべ部落の状態を記して、その家富める者多しと書いてあるが、これはひとり天部のみの事ではなかった。「風俗見聞録」に、「近江彦根の領分野良田村の穢多頭才次・才兵衛といえる二人あり、倶に三四十万両の身上なりと云ふ」と云い、また、「穢多非人の頭、小屋もの番太など唱る者共、三都其外国々在々に増長し、人数も莫大に多く成りて、平人よりも奢り慢りたる行勢なり」と云い、「江戸の穢多頭団左衛門といへるは、凡三千石高程の暮し方をなし、非人頭松右衛門・善七など云へるも、夫に准ずるなり。其以下次第段々ありて、何れも放逸に暮すなり上方筋は別して穢多の増長せし事にて、大坂渡辺の穢多に、大鼓たいこ屋又兵衛といへるは、凡拾万両程の分限にて、和漢の珍器宝庫に充満し、奢侈大方ならず、美妾女も七八人ありと云。是に続きたる者段々ありて豪福数十人あり。京都西本願寺折々大坂え勧化に下り候時、或は小判歩判を桝に盛りて幾桝も並べ、又は小玉銀を幾俵ともなく飾りて奉納するといふ。全体世の変りを離れたる者故、年々金銀を取込計にて、出す事とては此本願寺えの奉納のみと云。」などともある。また「全国民事慣例類集」によると、遠州敷知郡地方のエタは「所持地多分ありて貢租を納め、中には富豪の家あり、平民へ金銭を貸付くるものもあるなり」とある。この遠州のはむしろ特例で、後までもその佳良なる生活状態を継続しえたものであるが、大体古代エタの人口も今の何分の一、十何分の一という様な場合に於いて、彼らが比較的余裕ある生計を営んでいた事は想像しやすいところである。彼らが社会生存上には必要欠くべからざるものとは云え、人の忌み嫌うところの牢番・斬罪・捕方・掃除、屍体の取片付け、死牛馬の皮剥ぎ、皮革の製造業等の賤職に従事して、それに甘んじておったのも、一つはこんな得分があったからである。
 しかるに世の下るとともに、彼らの人口はますます増殖し、彼らに対する社会の軽侮圧迫は、ますます甚だしくなった。しかも土地の所有権が確定して、容易に新地を開くことも出来ずなっては、局限されたる地域外に、その居を択ぶの自由を有せざる彼らは、限りなく増殖する子弟を、この狭き部落内に於いて始末せねばならぬ。既に享保十八年に、京都六条村年寄から、近年手下の者ことのほか困窮の状を訴えて、お救い米を願った事実がある。かような次第で、従来余裕のあった彼らの部落も、漸次所謂密集部落の状態を呈するに至ったのである。彼らの増殖率の盛んな事は別項「特殊部落の人口増殖」中に述べた通りであって、もとは相当の田畑を部落内に有していたものも、今は尺寸の耕地を余さなくなっているのが常である。京都川崎村すなわち今の田中の部落の如き、正徳五年の調べに戸数僅かに四十七軒で、斬罪、牢番の公務、皮革・下足の独占事業以外、農業によってかなり豊かな生計を営んでいたそうであるが、今は数条の隘巷を挟んで矮小なる陋屋が密集し、明治四十年の調べに、二百七十五の戸数をここに収めているという有様になっているのである。今日ではさらに増加して三百に過ぎるということである。
 人口漸次に増殖して所謂密集部落の状態をなし、しかも他に営業の自由を択ぶに困難なる彼らは、所謂独占業と少許の特権とのみを以てしては、生活の困難を来し、漸次細民の数を増加するに至るのは自然の趨勢であった。ことにその独占の職業についても、勢い仲間うちの競争から、利益を減殺する結果となる。もとは取捨料をまで添えてもらって引き取った斃牛馬を、後には金を出して買わねばならぬ事となった如きは、その著しい一例である。ことに明治維新後、エタ非人の称を廃せられ、平民籍に列して国民としてのすべての権利を公認された事は、彼らにとって無上の幸福であったに相違ないが、その実許されたる権利は名義のみで、実際上社会の圧迫は為に多く減退することなくして、かえって特権の全部と独占業の幾分とを奪わるるの結果となった。かくて密集は密集を重ね、細民は細民を生むの状態となって、遂に今日に及んでいるのである。そして現世に慰安少き結果としての彼らの自暴自棄は、一層この傾向を大ならしめたものである。「雍州府志」によって「富めるもの多し」と呼ばれた天部部落の如き、明治四十年に於いて当時の京都府事務官補大森吉五郎氏の調査によるに、維新前にはなお富有者が多く、衣食に窮するが如きものは殆どなかったが、維新の改変は武士階級の廃絶を来すとともに、また武具の要途を杜絶し、全部落の皮革製造はここに大頓挫を来したとみえている。ことに天部部落は、鉄道の開通とともに三条街道の往来が減じて、下駄鼻緒・表・台の製造販売業のものも職を失い、一層困窮に陥ったという事情もあるが、概して彼らの生活状態が、維新後一層困難に陥ったというは事実らしい。
 なお部落成立の状態をみるに、古代にあっては往々出村・枝村を作り、また移転も比較的自由であって、正徳五年の京都付近の穢多部落には、戸数僅かに二戸というのが二箇所、そのほか七戸・八戸・十四戸・十七戸・廿戸などいうのが普通であった。地方でも多分その様な事であったと思われる。空地の多い、そしてまだ、あまり多く世間から嫌われなかった時分には、勝手に新村を作ることも出来たであろうし、官署の認可を得る事も容易であったのであろうし、ことに必要上彼らを優待して移植したという場合も少くなかった地方の特殊部落の起原が多く新しいのはこれが為である。しかるに後世それが出来なくなったのは、彼らにとって一大打撃であった。ことに近年は、地方に於いて職を得難い彼らの仲間の窮民が、多く三都の地に流れ込む。東京や大阪などでは、普通の細民の部落へうまく隠れてしまう場合が多い様であるが。京都では有力な部落の多く存することがかえって累をなして、彼らは縁をたどってやはりその仲間へ流れ込むものが普通であるが為に、部落の人口は急激なる増加を来した。かくの如くにして彼らはますます密集部落となり、ますます細民部落となるのである。





底本:「被差別部落とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年2月29日初版発行
底本の親本:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
初出:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
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