踏み出しの方向如何によって、一歩の差は遂に千里の差となる。称号廃止以前のエタの状態を見るに慣れたものは、所謂エタと普通人との間には、まるで人種がでも違ったものの如く考えたのも無理からぬ程に、彼此の地位に懸隔が設けられていた。しかしその中間に非人というものを置いて、さらにその所謂非人の古えを考えてみたならば、その間何ら区別のないものたる事は、容易に理会せらるべきものである。
エタと云い、
エタにならなかった河原者とか夙の者とかは、一旦非人という仲間に入れられて、後に解放されたのもあれば、ただちに普通人に混じたのも多かろう。平安朝の社会状態を調査した者は、家人・奴婢の徒が立身出世して、社会の有力者となったものの少からぬことを容易に認めるであろう。駆使丁の賤者が一朝にして乗馬の郎等となり、野宿・山宿・河原者の徒が武技を練磨して武士になったのも多かろう。官兵微力にして用に堪えず、
応仁・文明以来戦国時代の状態は、前者に比して一層著しいものがあった。鎌倉以来の名族・旧家は大抵この際に潰れてしまって、到る処に新しい大名・小名が蜂起する。非人三党の輩といえども守護国司の望みをなすべく、如何ともする能わざるものなりとの東大寺尋尊の述懐は、必ずしも大和ばかりの状態ではなかった、
貴と賤と尊と卑と、畢竟境遇上の問題である。時勢に乗じ風雲に会して、よくその処を得たものは貴ともなり、尊ともなる。不幸にして世の進運に後れ、社会に落伍したものは賤ともなり、卑ともなる。しかもその幸運児の子孫は永久の幸運児でなく、落伍者の後裔は永久に落伍者たるべき約束はなかったのである。
しかるに徳川太平の代は、一旦定まった社会の秩序の変更を容易に許さなかった。落伍者の子孫は永く落伍者としてそのままに存置された。一旦エタの仲間として認められたものは永久に足洗をして平民となることを許されなかった。しかもその当初にありては、エタは当時の落伍者中に於いても比較的早く安住の居処を得、一定の職を有して町村役人の一部に列し、町村の警固に任じ、雑役に服し、相当の役料を得て生活していたのであった。したがって彼らは当時の賤者の仲間に於いては、むしろ上位にいるものとして認められ、彼らは他の非人や雑役人・雑工人の上に立って、遂にこれを支配すべく定められたものであった。この際に於いてエタがこれらの非人等よりも特別に賤しまれたという事実がありうべきでない。しかるに非人の方へは続々として新しい落伍者が落ち込んで来る、したがって新たに非人に落ちたものは、十年以内ならば足洗が出来るという制も認められておった。地方によっては、年限にかかわらず、非人は足洗の出来るものと信ぜられておった。つまり彼らは新たに加わる普通民の落伍者に
エタと非人と普通民と、もとをただせばあえて区別のあるものではない。現在の特殊部落の人々の祖先は、かつて何らかの事情によって、社会の落伍者となったのであった。そして徳川太平の世の極端に現状を維持しようとした結果として、子孫永く祖先の落伍を世襲せしめられたのであった。今や職業の世襲は全く解放せられ、国民各々その欲するところに従って、自由にその実力を発揮しうるの時に際し、特殊部落の人々のみなお依然として落伍の状態を世襲すべき必要はない。過去に於いて落伍者の子孫必ずしも落伍者ではなかった。そして現在に於いて、また将来に於いて、必ず同様であらねばならぬ。