エタと非人と普通人

喜田貞吉




 踏み出しの方向如何によって、一歩の差は遂に千里の差となる。称号廃止以前のエタの状態を見るに慣れたものは、所謂エタと普通人との間には、まるで人種がでも違ったものの如く考えたのも無理からぬ程に、彼此の地位に懸隔が設けられていた。しかしその中間に非人というものを置いて、さらにその所謂非人の古えを考えてみたならば、その間何ら区別のないものたる事は、容易に理会せらるべきものである。
 エタと云い、しゅくと云い、河原者と云い、その身分にも、取扱いにも、社会のこれに対する感情にも、それぞれ区別のあるものの如く解せられてはいたが、本をただせばそう区別のあったものでない事は、別項「エタ源流考」に於いて説いておいた。鎌倉時代にはキヨメをエタと呼んでいた。室町時代には河原者をエタと呼んでいた。そして「今物語」によると、そのキヨメなるものは、実にまた一条河原の河原者であった。しかるに、その河原者なる者は、別項「河原者考」にある如く、その当時の事にしてみれば、いまの日雇取りや手伝い・土方などいうものと、職業上・身分上そう区別のなかったのである。否むしろ彼らは、当時身分を落して人のいやがる賤職に従事していたお蔭で、生計上はむしろ余裕のあったものが多く、一条河原のキヨメの美人が、盛装して五位の蔵人を恍惚たらしめたという話もある程である。また兵庫の夙の者は今日退転して土地の人もこれを忘れ、通称宿の八幡にその名を止めているだけであるが、その当時もエタの様に疎外されていたとは思われぬ。しかも彼らは慶長十七年に片桐且元のお墨付を頂戴して、町方なり、湯屋・風呂屋・傾城屋などの営業者なりから、定期に扶持料を要求する。祝儀・不祝儀の際に、またそれぞれの贈与を要求する。盗賊追捕の際にはその衣服を与えられる等の権利を与えられ、町方の警固なり、その雑役に任じていたのである。そしてこの事は徳川時代に各地のエタが与えられた特権や、課せられた雑役と類似のもので、当時に於いてはエタと夙との間に、そう区別のなかったものと察せられる。しかるにこれらの河原者や夙などの中で、皮革を扱い肉を食して、その身に穢ありと認められたものがエタとなり、他のものと区別さるるに至ったのである。
 エタにならなかった河原者とか夙の者とかは、一旦非人という仲間に入れられて、後に解放されたのもあれば、ただちに普通人に混じたのも多かろう。平安朝の社会状態を調査した者は、家人・奴婢の徒が立身出世して、社会の有力者となったものの少からぬことを容易に認めるであろう。駆使丁の賤者が一朝にして乗馬の郎等となり、野宿・山宿・河原者の徒が武技を練磨して武士になったのも多かろう。官兵微力にして用に堪えず、雑色ぞうしき浮宕ふとうの輩がかえって国家の信頼する勢力となった時代に、所謂河原者の輩が所謂オオミタカラなる公民を凌駕して、社会の上位に進んだものの多かるべきことは、今さら言うまでもない事実である。
 応仁・文明以来戦国時代の状態は、前者に比して一層著しいものがあった。鎌倉以来の名族・旧家は大抵この際に潰れてしまって、到る処に新しい大名・小名が蜂起する。非人三党の輩といえども守護国司の望みをなすべく、如何ともする能わざるものなりとの東大寺尋尊の述懐は、必ずしも大和ばかりの状態ではなかった、野宿のぶし山宿やまぶし・河原者の徒で、社会に雄飛活躍したものの多かったことは、これまた今さら言うまでもない事実である。
 貴と賤と尊と卑と、畢竟境遇上の問題である。時勢に乗じ風雲に会して、よくその処を得たものは貴ともなり、尊ともなる。不幸にして世の進運に後れ、社会に落伍したものは賤ともなり、卑ともなる。しかもその幸運児の子孫は永久の幸運児でなく、落伍者の後裔は永久に落伍者たるべき約束はなかったのである。
 しかるに徳川太平の代は、一旦定まった社会の秩序の変更を容易に許さなかった。落伍者の子孫は永く落伍者としてそのままに存置された。一旦エタの仲間として認められたものは永久に足洗をして平民となることを許されなかった。しかもその当初にありては、エタは当時の落伍者中に於いても比較的早く安住の居処を得、一定の職を有して町村役人の一部に列し、町村の警固に任じ、雑役に服し、相当の役料を得て生活していたのであった。したがって彼らは当時の賤者の仲間に於いては、むしろ上位にいるものとして認められ、彼らは他の非人や雑役人・雑工人の上に立って、遂にこれを支配すべく定められたものであった。この際に於いてエタがこれらの非人等よりも特別に賤しまれたという事実がありうべきでない。しかるに非人の方へは続々として新しい落伍者が落ち込んで来る、したがって新たに非人に落ちたものは、十年以内ならば足洗が出来るという制も認められておった。地方によっては、年限にかかわらず、非人は足洗の出来るものと信ぜられておった。つまり彼らは新たに加わる普通民の落伍者に均霑きんてんして、普通民と民族上区別のあるものでなく、ただ境遇上の相違から一時この仲間に落ちたものだと認められていたからである。これが為に非人はもとエタの下に置かれたのであっても、エタに対する社会の圧迫が加わるとともに、非人の方は漸次普通人に近くなり、世間のこれを見る事、エタに対する程にも嫌がらなかった。かくて遂にはその大多数がいつの間にか解放せられるの運命となったのであるが、もと非人と相択ばない者で、否むしろその上位にいると認められたエタのみは、永く取り残される事となったのである。
 エタと非人と普通民と、もとをただせばあえて区別のあるものではない。現在の特殊部落の人々の祖先は、かつて何らかの事情によって、社会の落伍者となったのであった。そして徳川太平の世の極端に現状を維持しようとした結果として、子孫永く祖先の落伍を世襲せしめられたのであった。今や職業の世襲は全く解放せられ、国民各々その欲するところに従って、自由にその実力を発揮しうるの時に際し、特殊部落の人々のみなお依然として落伍の状態を世襲すべき必要はない。過去に於いて落伍者の子孫必ずしも落伍者ではなかった。そして現在に於いて、また将来に於いて、必ず同様であらねばならぬ。





底本:「被差別部落とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年2月29日初版発行
底本の親本:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
初出:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
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