「特殊部落」と云う名称について

喜田貞吉




本編は上掲諸編の記事と重複するところことに多きを校正の際心付きしも、今さら改むる能わず。幸いに概論に対する下手なる詳説として、寛宥あらんことを乞う。(貞吉)

 明治・大正の今日にも、特殊部落の名はなお保存せられている。もとは「特種部落」と書いたそうであるが、必ずしも種族を異にするという訳でもなく、いたずらに彼らの悪感を生ぜしむるのみであるというので、文字を「特殊」と改めたと聞いた。
 しかし「特種」でも、「特殊」でも、彼らの嫌がるのは同一だ。そこで内務省あたりではこれを「細民部落」と改めたとかの説があるが、実際上彼ら必ずしも細民のみでなく、また彼ら以外に真の細民部落も少からん事であるから、これも行われそうにない。本来何とかの名称を以て、彼らを区別せんとするのが間違いである。自分がしばしば所謂特殊部落民と懇意になって後に、第一に彼らから受ける注文は、願わくば特殊部落の名称を以て、世間と区別する事をやめてもらいたいとの事である。それが出来ねば、せめては何とか同情ある名称と取りかえてもらいたいというのである。まことにもっともな注文で、真実同情に堪えぬ。折角彼らが自ら反省して、改善を加えようとしても、ただ「特殊部落」という四字の為に裏切られて、失敗に終わる場合が多いのである。しかしながら、特殊部落の名を以て世間から区別せられる事をやめしめるには、まず以て区別するの必要なきに至らしめるを要とする。既に何らかの区別をなす必要がある以上、よしや「特殊部落」の名をかえて、これを貴族部落と改めても、「模範部落」と改めても、いやしくも区別すべき或るものの存する間は、到底彼らの希望に副う事は出来ぬ。その失敗の実例は近く朝鮮に存する。朝鮮にはもと才人さいじん禾尺かしゃくなどと云って、一種の賤まれた人民があったが、世宗王の時彼らの区別を廃し、これを普通民と同じくする為に、これを「白丁はくてい」と呼ばしめた。「白丁」とはもと普通民の称呼である。ところが世人は、これを「新白丁しんはくてい」と呼んで、相変らず区別することを止めない。なお我が明治四年に於いて、エタ・非人の称を廃して平民とした場合に、世人はこれを新平民として、依然その区別を止めなかったと同様である。そこで政府は、さらに「新」の字を加える事を禁じた。ところが今度は、普通民の方が従来の「白丁」の称を捨てて、この特殊民のみを「白丁」と呼ぶことになった。今日では「白丁」と云えば、これ直ちに新白丁、すなわちもとの才人・禾尺等の名称となってしまっている。そしてその「白丁」は、相変らず賤しいものとして区別せられているのである。言語や名称は時代によって意味が違って来る。「おまえ」という言葉は昔は至尊の御前おんまえに称するもので、先方に対する最敬語であった。しかるに後世次第にそれが濫用せられて、今では普通に目下の人にのみ用うることになった。自分はかつて隠岐に旅行して、或る片田舎の小さい宿屋に両三日を送った事があった。この時宿屋の女主なり、女中なりが、しきりに余輩に対して、「お前」「お前」を連発する。甚だ異様に、かつ不愉快に感じたが、同行の前代議士某君、島司某君等が余輩の為に、隠岐ではそれが先方に対する最敬語である事を説明してくれて、始めてなるほどと了解した事があった。その「御前おまえ」を音読して「ゴゼン」と云えば、今でも貴族に対する最敬語になる。まことに滑稽千万な次第ではあるが、事実正にしかりだから仕方がない。
貴様きさま」という語も無論先方に対する最敬語である。しかし今はそれが侮蔑の義に用いられて、気の早い連中の口論の場合に、「貴様」の一言が導火となって、「貴様とは何だ」と早速相手をなぐり付ける実例は、しばしば世人の目撃するところである。
「先生」とは識者に対する敬称だ。しかしそれも用いどころによっては、「先生と言われる程の馬鹿でなし」ともなる。
 この様な実例を列挙すれば際限もないが、特に賤民の場合について、最も適切な二つの例を紹介したい。
 徳川幕府直参じきさんの武士に「御家人ごけにん」というのがある。禄高は万石未満で、大名の列には加わらないが、その格式は大名の臣下すなわち将軍からは陪臣の武士等に比して、一段と高いものである。古くその名称の由来を尋ねてみると、もとは賤民中の一階級の名であった。彼らは無論良民とはよわいされない。しかしながら彼らはもともと主人持ちであるから、その主人が勢力があれば、自然と家人けにんにも勢力が付いて来る。社会の秩序がみだれた平安朝の中頃以降では、源平武士の棟梁たる程の豪傑が、自ら摂政関白などの家人となって、自家の勢力を扶植する。所謂一人のまたに入りて万人の頭を越ゆるもので、平将門は摂政藤原忠平の家人となって、遂に東国に割拠する迄の素地を作った。源頼信程のものも、町尻殿すなわち関白藤原道兼の家人として、その主の為に中関白道隆を殺そうとした程であったが、子孫頼朝に至って、ついに鎌倉に幕府を開き、天下の政権を掌握するの勢いとなった。或る公家くげから東夷あずまえびすと呼ばれても、実力のあるところに天下の権は帰する。ここに於いてさらにその頼朝の家人けにんたる北条・梶原・畠山等の輩は、一躍して大名になってしまった。京都公家くげの官僚なる大江広元の輩までが、鎌倉に下ってその東夷あずまえびす家人けにんとなった。ここに至っては彼らはもはや決して賤民ではない。もとは良民よりも遥かに低い「家人」の名称を、そのままに継承しながら、実際には遥かに普通の良民よりも、高い地位のものとなった。したがってこれを呼ぶにも「御」の字をつけて、「関東の御家人ごけにん」と言われていた。徳川時代の御家人ごけにんも、やはりその名称を継いでいるのである。
 今一つ「さむらい」(侍)の語を紹介しよう。さむらいは両刀を腰に横たえて、天下の良民たる町人・百姓等を低く眼下に見下ろし、素町人すちょうにん土百姓どびゃくしょうと軽蔑して、場合によっては斬捨御免きりすてごめんという程の権力をも有したものであった。さむらいは実に封建時代に於ける世人憧憬あこがれまとであった。しかし「さむらい」の語は、もと決してそんなえらいものではなかった。さむらいはすなわち「さむらう」で、貴人の左右にさむらうて、その用を弁ずる賤職である。今で云えば侍者じしゃすなわち給仕である。昔は高年者に「侍」を賜うという事もある、家人けにん奴婢ぬひ等がその主人に侍し、その用務を弁じ、その護衛に任ずるもの、これすなわちさむらいである。しかるに武家が勢力を得るに及んで、彼らは武芸を練磨し、その主と仰ぐ人を護衛するのが職掌となって、「さむらい」は同時に「武士ぶし」であった。かくてついには実際護衛の任に当らずとも、一般に武士をさむらいと呼ぶ事となったのである。室町・戦国時代には、大名とも言われる程のものも、なお侍と云った。狂言「入間川いるまがわ」に、入間言葉のさかさまごとの滑稽から、自分で川の深みにはまり込んだ大名だいみょうが、「諸侍しょざむらい」に欲しくも無い水をくれた程に、「成敗せいばいするぞ」と大威張りに威張ったところがある。これを見ても、当時既に侍が大名とも呼ばれて、もと侍者の賤職であった筈の彼らが、同一名称のままでいながら、今や天下の良民たる百姓の上に立ち、いかに我儘勝手な振舞いをしていたかが察せられる。
 もと賤民の名称たる「家人けにん」の語も、実質さえ改まればそのままに立派な身分のものの名称となる。もと卑賤の職掌の「さむらい」の語も、実質さえ改まればそのままにまた立派な身分のものの名称ともなる。才人さいじん禾尺かしゃくの称を新たに白丁はくていと改めても、その「新白丁」が依然としてもとの才人・禾尺であっては、その改称に何の効果もないのであった。我が「新平民」の称また然りだ。
 明治・大正の時代には勲功によって新たに華族に列せられるものが少くない。しかし彼らは、新白丁・新平民が、旧白丁・旧平民から賤められた様に、旧華族から賤まれてはおらぬ。旧華族の中には自ら高く止まって、新華族と伍するのを快しとせぬものがあるかもしれぬが、それはむしろ彼らのやせ我慢で、偶然、貴族の家に生れ合わしたという幸運と、自己の奮励努力によってち得た爵位と、その価値いずれにあるかは、識者を俟たずして明らかなところである。この奮励努力によって贏ち得たものは、その実質が正にその爵位に相当するものである。したがってそこに区別を必要とすべき或るものが存在しない筈である。
 新白丁新平民が普通民から区別せられるべき或るものを存する間はたとい称呼を何と改めても無効である。区別すべき必要がなくなれば、称呼を改めるまでもなく、これを区別すべき称呼は自然と消滅すべき筈である。さらに彼らが改善の実を挙げて、彼らは信頼すべきものである、彼らは尊敬すべきものであると公認せらるる様になったならば、「特殊部落」の名称が保存されていてもそれは特殊に信頼すべき部落である、特殊に尊敬すべき部落であるという事にもなろう。なお賤民の称なる「家人けにん」の名がそのままに、畏敬すべき「御家人ごけにん」ともなり、また賤職の称なる「さむらい」の名がそのままに、武士となって世人に羨まれた様に。――しかるに部落の人々は、往々にして新平民とか特殊部落とかの名を以て、いかにも自分らを侮辱したかの如く考えるものがある。しかし新平民とか特殊部落とかの語には、少しも侮辱の意味は含んでおらぬ。もし侮辱の意味がありとすれば、それは名称ではなくて実質如何の問題である。
 ここに於いて自分は、所謂特殊部落の人々をして、区別すべき或るものを有せしめざる様にするを必要とする。彼らが区別せられるには、生活上の問題もあろう。品性上の問題もあろう。しかしながら彼らの中には、もはやこれらの点に於いて、区別すべき必要のない迄に改善せられたものが少くはない。彼ら以外に於いても、その生活上に於いて、品性上に於いて、彼ら以上に唾棄すべきものがすこぶる多い。十分疎外すべき必要あるものも、また決して少からんのである。しかるにもかかわらず彼らのみが、特に永く区別せられるのはそもそも何故であろう。
 所謂特殊部落の中では、もとエタと呼ばれたものが数に於いて最も多く、それが世人から最も多く嫌われたのである。その理由は、主として彼らが牛馬の肉を喰い、その皮革を取り扱った為である。これらの所行を以て穢れたものと信じた往時の社会にあっては、これを賤しむのもまことにやむをえなかったであろうが、今日では何人も牛馬の肉を食して怪しまぬ。貴顕紳士と呼ばれるもので、皮革会社の重役となって恥としないのである。世人自ら進んで今やエタ仲間に伍している世の中である。したがってこの点に於いては、もはや彼らを区別する必要はない。もし彼らの身体が実際穢れているとしたならば、それは入浴して身体を清潔にし、清潔なる衣服を着し、清潔なる家庭に住めばよい筈である。しかも彼らが、今日世間一般に肉を喰い、皮を扱うをも賤しとせぬ世の中にあって、なお普通民から区別せられるのは何故であるか。ここに至っては単に「因襲」の二字を以て解するよりほかはない。「因襲」の二字の鞏固なる障壁あるが為に、彼らは常に疎外せられる。疎外せられるが故に、彼らは生活上にも、品性上にも、自ずから種々の障礙を生ずる。この障礙のために、彼らはますます疎外せられる。因が果となり、果が因となりて、いつ迄も彼らは区別せられる。区別せらるるが故にそこに何らかの名称の必要を生ずる。そしてこの名称の存するが為に、彼らはしばしば裏切られ、折角改善の実を挙げようとしても、いつもその目的を達せずして、かえって自暴自棄に陥る事となるのである。
 しからば、よくこの因襲の障壁を打破しうべきものは何であるか。それは歴史的研究の結果として、本来彼らが何者であるかを明らかにする事である。かくて彼ら自らよくこれを覚知し、世人またよくこれを承認して、始めてその障壁は取り除かるべきである。この障壁をさえ除く事が出来たならば、遺るところは彼らの多数が社会の進歩から後れているの現状のみである。彼らにして自覚反省し、世の進運に後れぬ様になったならば、もはや彼らを区別すべき何らの必要もなくなり、彼らの忌がる「特殊部落」の名称も、自ずから廃せられるべき筈である。よしやまたそれが永く存しえたとしたならば、それはかえって改善の結果、特殊に信頼すべきもの、特殊に親愛すべきものとなるべきである。
 自分は特殊部落救済とか、改善とかの為に献身的に尽力せられる当局者や、多くの志士仁人に向かって、満腔の敬意を表する。しかし救済すべく、改善すべきものは彼ら以外にも多い。また彼らの中には救済改善の必要のない者も少くない。現下の問題として、最も必要なのは事実上の彼らの解放である。世人をして彼らを疎外せしめる根本観念の除去である。この解放さえ十分に行われたならば、もはや特殊部落として区別するの必要は全然無くなる道理である。そしてその中の真の細民なり、不良分子なりを、普通民中の真の細民なり、不良分子なりとともに一括して、これを救済し、これを改善すればよいのである。しかもよくこれをなすは、歴史的研究の結果として、その根原を明らかにし、世人をしてこれを納得せしめるを必要と信ずる。かくてもなお特殊部落の名称が保存せられたならば、それは特殊に信頼すべく、親愛すべきものであるという事にするの抱負を彼らに有せしめたい。
 繰り返して言う。「特殊部落」という名称については、何ら侮辱軽侮の意味はない。もしその意味があるとすれば、それはその語にあるにあらずして、その実質に於いて存するのである。華族も社会の特殊民であれば、神官・僧侶も、学者・教育家もまた実に社会の特殊民である。先頃の「日本及日本人」に、正親町おおぎまち男爵が、「覚醒を要する二箇の特殊部落」として、華族と所謂特殊部落とを対照して論ぜられたのは、語いささか矯激に過ぎるの嫌いはあるが、或る意味に於いて確かに真理を語ったものである。部落の或る名士はまた自分にこういう事を言った。少くも自分は特殊部落に生れたのを以てむしろ幸福に感じている。かく言わば人或いは負惜しみと思うかは知らぬが、実際世間には自分程の者は箒で掃き寄せる程あるのである。しかるに自分が部落出身であるが故に、多少世間にも名声を博し、活動する事も出来るのであると。これまた語いささか矯激に過ぎるの嫌いはあるが、或る意味に於いて確かに真理を語ったものである。自分は部落の人達が、この諒解と抱負とを以て自覚反省したならば、彼らの嫌な区別的名称は自然に消えてしまうべきを信ずるものである。しかもなお依然その名称が存したならば、それは何ら侮辱的意味を有せざる、否むしろ一種の名誉の称号たるべきものであらねばならぬ。





底本:「被差別部落とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年2月29日初版発行
底本の親本:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
初出:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月20日作成
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