融和促進

喜田貞吉




 この小冊子はいかにして融和を促進すべきかということを主として説述したもので、いわゆる特殊部落民なるものは、決して普通部落民と筋の違ったものではなく、ただ昔の落伍者のある者が、その択んだ職業によって、当時の社会の迷信と、階級的意識の犠牲となったにほかならぬということを述べたに止どまり、私の特に宣伝したいと思うところの、歴史的の説明にはあまり多く及ぶことができませんでした。よって私はそのうちに、別に「いわゆる特殊部落の由来」とでもいう小冊子を発行してもらって、本書第六章に述べたところをさらに敷衍してみたいと思っております。本書をみて下さった方々は、必ずその書をも読んで下さることを、今から希望しておきます。
大正十四年十二月二十五日
喜田貞吉識
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1 改善と解放


 融和とは何ぞや。もと別々になっていたものが、すっかり融け合って、まったく一つのものになってしまうことです。融和促進とは何ぞや。その融和を催促して、早く実現せしめようとすることです。わが国には今に至ってなお世間の多くの人々が、ある一部の人々を差別して、あれは特殊部落だ、特殊部落民だなどといって、これを排斥する場合がないでもありません。これがためにその差別される側の人々が、直接間接に受ける有形無形の損害は、実に非常なものでありますが、差別している側の多数の人々は、あまり深くそんなことを考えてみようともしないのです。これはまことに不都合千万な次第で、ただにこれを解放なされました一視同仁の、明治天皇陛下の大御心にそむき奉るものであるのみならず、また同一の権利を与え、同一の義務を負わすところの国法を無視したことであるのみならず、これを広く人道の上からいっても、また国家社会の福利の上から考えても、到底許すべからざる罪悪であると申さねばなりません。
 こんなみやすい道理は、何人にも容易にわかるべきはずであるにかかわらず、今もって世間多数の人々は、それが直接自分の身の上にかかわる事柄でないがために、つい冷淡に見のがしてしまう。各自めいめいが深くも考えずに行うところのその差別待遇のことが、その差別される者にとってどんなにひどい苦痛であり、また国家社会の将来にとって、どんなに大きな結果を及ぼすかということをも、考えてみようとしないのであります。もちろん中には、はやくこの点に気がついて、双方の間の融和親善を図ったものも少くはありません。国家の役人達も、もちろんこれを捨てていたものではありません。しかしながら、彼らの行ったところは、主としていわゆる「部落改善」でありました。もちろんこれは当時そのころにとって、もっとも必要な手段でありました。事実上差別される者の多数は、後進部落とまで言われたほどにも一般世間の進歩におくれて、はなはだ気の毒な生活くらしを送っているものが多かったのであります。したがってまずもってこれが改善に尽力し、一般世間との間の距離へだたりを少くしようとしたのは、適当なことであったと申さねばなりません。差別される者も、当初はじめはむろんこれを歓迎しました。その中からも、献身的に改善のために尽力する人が少からず出ました。かくていわゆる「部落改善」は、思ったほどまではなくとも、ともかくも相当の成績を挙げることができました。所々に立派な道路もできました。共同浴場も少からず建ちました。トラホーム患者も少くなりました。学校へ行かぬ子供もほとんどなくなりました。氏神様のお祭も、一緒にするようになりました。しかしそれだけで、はたして本当の解放ができたでありましょうか。
 世間の人々がいわゆる部落民を差別するには、むろんその生活くらしが世間の進歩におくれているというのも、確かに一つの理由であるには相違ありませんが、決してこれがそのすべてではありません。いやさらにこれよりも大きな理由が、ほかにあるのです。何となれば、いわゆる部落の人々の間には、学識人格ともに立派なものも多く、またかなりの財産を有し、世間に後れぬ生活くらしをして、もはや改善すべき必要のないものも決して少いことではありません。しかるにこれらの人々が、はたして世間一般の人々から、少しも差別せられるところがないでありましょうか。現にその部落内にいる人々ばかりでなく、はやくその部落から離れて、立派に世間に交じっている人々でも、常に戦々兢々びくびくとして、その部落出身だという素性を隠そうと努めているのは、はたして何のためでありましょう。
 部落改善はもとより必要であります。しかしながらこればかりで、いわゆる部落民は決して解放せられるものではありません。それと同時に、世間の人々が本当に部落そのものを理解するのでなければ、やはり「改善された特殊部落」として、幾分の差別待遇は、永く取り遺さるべきものであります。いやただに「改善された特殊部落」として取り遺されるばかりではなく、そのいわゆる改善された結果として、だんだん真の「人間」に目醒めてきまして、かつては「運命」の二字に一切をあきらめて、未来の浄土を欣求する程度に、やむをえず満足を求めていた人々までが、見るもの聞くものについて、いっそうの不平不足を感ずるようになってくるのであります。

2 解放の要求とその結果


 こんな訳で、いわゆる「改善」の結果は、被差別者のもっとも多く希望する差別の撤廃の上に、思ったほどの功績があらわれませんでした。漸次しだいに真の人間に目醒めた人々は、いわゆる「改善」の声に聞きあきました。ことにその熱心に改善を説いている人々でも、その多数は、もともと差別される者に対する同情のほとばしりから起ったものでありますから、被同情者にとっては、自然と同情を押し売りせられるような感じを生じてきました。むろんこの間には同情の仮面を被って、これをパンにかえようとするものもなかったとはいわれません。これがために「同情」という語がまたようやく飽かれてきました。同情はもちろんうるわしい心のあらわれであります。同情なくては真の解放は、到底できうべきものではありません。しかしながら同情される者の側からこれをみますれば、「可愛そうだから」というような、上から見ての同情はそう嬉しいものではないに相違ありません。これがためについには「同情的差別撤廃を排す」などの叫びまでが、一部の人々の間に起るようになったのであります。
 近頃いわゆる部落の目覚めた人々の間には、いわゆる「改善」の効果がその差別撤廃の上にあらわれることの少いのに飽き、ことに「同情」の押し売りに嫌気を起し、世間のあまりにわからなさすぎるのに痺れを切らして、いわゆる「水平運動」を起しました。他に依頼たよることなく自分自身の力のみで、人間として、また国民として、当然与えられた権利の奪われたのを取り返し、完全に解放されようとするのであります。これはまことに当然すぎるほどの当然の要求で、じつをいえば、一般世間の人々はその要求を待って後、始めてこれを与えるのではなくして、要求のない前に、自ら進んでこれをなすべきはずのものでありました。もともと差別しているのは一般世間の人々です。したがってその差別を撤廃するのも、また一般世間の人々それ自身でなければならぬはずです。しかるに世人はあまりに冷淡でした。差別される者がいかに苦しんでいようとも、世人の多数はいわゆる対岸の火事を見るように、まったく無頓着に、自分ら限りの太平の夢を貪っていたのであります。そこへ突然急激な要求がやってきました。いわゆる「集団の威力」をもって、「徹底的糾弾」を加えて、世間の人を目覚めしめようとしたのであります。つい不用意にいった差別的の言語ことばにも、いわゆる徹底的糾弾が加えられました。内心には本当に悔悟しないものまでが、「後悔至極」という謝罪状を書かせられました。罰金を出すつもりで、新聞紙上に謝罪広告を出させられました。これがために世間ははなはだしく目覚めました。同じ人間を差別するのは不都合だということを、痛切に認めさせられました。これは確かにいわゆる第一期の水平運動の効果でありますが、その反面において、世人はあまりに急にゆり起されたために、彼らはたちまち戸惑いしてしまいました。水平社の人々をもって、いかにも恐ろしい、いやなものであるかの如く考えました。その当然の結果として、表面うわべには差別的のことが少くなりましたが、しかしそれは多くの場合において、真にこれを理解した結果からではありません。単に自分大事ということから、なるべくさわらないようにしようとするためでありました。いわゆる「触らぬ神に祟りなし」というのです。わが身可愛いい、わが子可愛いいの人情からは、それもやむをえぬ次第でありました。小学校に通う子供を持った親達は、なんにも知らぬ無邪気な子供を戒めて、決して差別的の言葉を口にするなと教えます。始めてエタ・非人・特殊部落などの講釈をして聞かせます。なるべくその部落の子供に近づかぬようにと注意します。その結果は、時としてはかえって、これまで折角近づいていた距離へだたりを遠くし、その間の溝を深くしたような嫌いのある場合がないではありません。実際世間多数の人々は、明らかに水平運動を誤解しました。そしてどんな場合にも、いわゆる部落の人に聞かれるようなところで、差別的の言葉を口にしてはならぬと戒めあいました。しかも蔭では相変らずこれを口にし、これを心に思っている者が少くないのであります。近ごろ大阪のある小学校で、生徒の体罰事件について問題の起った時に、たまたまその子供がいわゆる部落のものであったがために、「お前達特殊部落の者は、特殊部落民らしく子供をその部落の学校へ通わすがよい、なまじ普通の学校へ通わせるから面倒な問題が起るのだ。」との意味のことを、さも毒々しいことばで書き連ねて、匿名でその子供の親に送ったものがありました。これがためにその問題は、さらに差別事件になりまして、ひどく面倒になったと聞きました。この手紙はもちろん誰かの悪戯いたずらにすぎますまい。しかもその悪戯者がはたして誰であるにしましても、ともかく世間には今もって、本当にそんなことを思っている無理解者わからずやが少くないのであります。そしてそれが群集心理で勃発しますと、かの群馬県の世良田事件のようなことにもなるのであります。こんな有様でいて、どうして本当の解放ができましょう。本当の融和が求めえられましょう。
 しからば真の解放はどうしたらできましょう。真の融和はどうしたらできましょう。解放は融和の道筋で、まず差別を撤廃していわゆる部落民を完全に解放し、同時に部落そのものを改善して、一般世間に比しておくれをとらぬだけのものにしなければなりません。この二つのものが相伴って、始めて融和が成り立つのでありますが、これを促進するについては、私はまずもって、「お互いによく知る」ということが、もっとも大切だと信じております。「お互いによく知る」ことにおいてのみ、真の理解は始めて得らるべきものであります。そしてその真の理解にのみよって、解放も行われれば、改善もできてきまして、そして真の融和は始めて現れるはずのものであります。

3 差別されるものの悲哀


 世間多数の人々は、自分ではそう悪いことを行っているつもりでもなく、ただなんとなしに多年の習慣に囚えられて、各自めいめいにある一部の人々を差別しているのであります。そしてその結果、差別される者が被る有形無形の損害は、自身その苦痛を体験したものでなければ、到底容易に、これを想像することもできないほどのものであることなどについては、夢にも考えてみないのであります。
 元来差別されるということは、どんな場合にも決して愉快なものではありません。友達どうし三人道をいて、その二人が面白そうに話をして、たまたま他の一人が除け者にせられたなら、そこに少しも隔てのない場合にでも、その一人は非常に不愉快を感ずるでありましょう。いわんや公然それと口にこそ出さね、心のうちでは、エタよ、特殊部落よと、軽蔑しながら、そのすべての人々を一般社会から仲間はずしにしたとあっては、その差別される者が感ずる不愉快は、はたしてどんなでありましょう。そこで自然と疑いの目をもって世間を見ることともなります。事実そうでない場合にまでも、何か自分のことを噂しているのではないかと、気を回すようになります。したがって世間へ出ていやな思いをするよりも、やはり窮屈ながらも、もとの気楽な部落内で暮らすようになるのであります。実際差別待遇に深い悩みを感じている人々は、同じ境遇の人々どうしで、そのケチのついた部落内に団結を固くしてこそ、始めてよく世間の軽蔑や、差別待遇に対して、自分らをまもってゆくことができるのであります。もしその中のある者が、ひとりその部落から離れて、他に適当な住所を求めようとしたからとて、どこにこれを歓迎してれてくれる所がありましょう。どこに安心して暮しゆける所がありましょう。営業上の便宜から、適当の場所に借家を求めようとしても、決して喜んでこれに応じてくれるものはありますまい。しからば土地を買って、自らこれに建築をしようとしましても、ほとんどその土地を売ってくれるものすらないというのが、今日までの世間の実際であります。またよしや都合よくその素性をくらまして、一旦部落外に適当の住処を求めえたとしましても、もしそれがいわゆる部落民であると知れた限り、隣の人はすぐ交際をしてくれなくなります。その子供が外に出れば、隣の子供は引っこんでしまう。その妻女が仲間に加われば、隣の妻女は話をやめてしまう。それでいてどうしてそこに気楽に住んでいることができましょう。たいていの者は辛抱しかねて、もとの古巣へ戻って来るのであります。しかもなおよくこれを忍んで、頑強にその営業を継続するとする。それが先祖以来の慣れた営業でなかったならば、ほとんど顧客とくいを得ることができないのです。ここに至っては事実上、住居と営業との自由を奪われたといってもよい。ひとり精神上の打撃が大なるばかりでなく、物質上にもまた非常な損害を被らされているのです。いわゆる部落民が相変らず窮屈な、ケチのついた、もとの部落内にのみかじりついて、限られた職業にのみ生活せねばならぬのは、実際やむをえないではありませんか。しかもその人口は限りなく殖えてきます。この限りなく殖えてくる人口を、限られた部落内に収容して、どうして密集部落となり、細民部落とならざることができましょう。
 ここにおいてか何か仕事でもしたいという人々は、厚い仮面めんを被って世間に紛れ出ます。そして始めて好きな住処を求め、好きな営業に従事することができるのであります。しかしながらこれらの人々が、その素性の秘密を保とうとする苦心の程度は、とてもほかから想像のできぬほどのひどいものなのです。みちで偶然ひょっこり顔見知りの人に遇いはせぬか、雑談はなしのついでにも困った問題に触れはせぬかと、常に戦々兢々びくびくとして、寝ても、覚めても、少しも心の安まる暇はありません。親戚故旧と書信てがみの取り遣りをするにしても、懇意な友人を訪問するにしても、常に犯罪者が警官の目を忍ぶよりも、より以上の苦心がいるのです。そこでたいていの人は、ために神経衰弱になってしまう。あるいは何かの拍子で、その素性が暴露あらわれて、折角築き上げた営業の基礎もといをも、空しく棄てねばならぬことになるのです。なんたる悲惨なことでしょう。
 また部落の子供が教育を受けるとする。幸いにそれが、大部落であって、部落内に独立の小学校がある場合ならば、無邪気な子供はなんにも知らずに、のんびりとこれに学ぶことができますが、もし一般民の子供の間に交じって、教育せられる場合には、子供心にも自然と肩身狭く感じて、いじけてくる、中には父兄の使嗾しそうによって、かえって盛んに自尊心を高ぶらす者もあるやに聞きますが、しかもその裏面うらにおいて、いっそう気の毒な心の底のあることを、考えねばなりません。しかしながら、ともかくも今日では、普通教育にはそうひどい差別もなくなりましたが、さらに進んで中等学校に入学し、専門学校以上の学校に学ぶとなりますと、境遇を同じにする仲間の少いのと、生徒自身にも世間の事情がだんだん明らかになってくるのとで、その感ずる苦痛はいっそう大きなものとなります。したがってこれに対しては、彼らは非常な決心と、努力とを要することとなるのでありますが、しかもよくこれに耐えて、めでたくその業を卒えることができたとしまして、それが部落民であると知られた以上、世間の人々はほとんどこれに相当する職務を与えようとは致しません。昨日きのうまで机を並べて勉強した学友の就職を傍観して、むなしく世を恨み、自己おのれのろわねばならぬのです。なんたる悲惨なことでしょう。
 こうは言うものの、もとより地方によって、差別的観念に濃い淡いの著しい相違はあります。関西地方は概して濃く、関東地方はそうひどくなく、奥羽に至ってはいっそうその差別が少くなっています。関西地方の実際に見慣れた私どもの目から見ますれば、関東奥羽等においては、ほとんど表面うわべにはその差別がなくなったといってもよいくらいに感ぜられるのです。しかしながらこれらの地方においても、もちろん普通には家庭的の交際は行われません。通婚の如きもある特別なる場合のほかは、ほとんど一般的に拒まれています。つまりは、労働も一緒にやっている、宴会にも席を並べている、青年団も一緒に組織しているくらいの程度のことで、それでどうして全然差別が撤廃されたといえましょう。彼らの感ずる心中の不満足は、相変らず大きなものなのです。ここにおいてかいわゆる水平運動の波はこの比較的差別の少い関東地方にまでも、いわゆる徹底的糾弾の渦を巻かせて、ために世良田事件のような大破裂を引き起すにも至ったのです。いわんやさらに数等の差別的観念のひどい関西地方において、その差別される者の蒙る苦痛がどんなに大きなものであるか、その結果がどんなに大きなものとなるべきかについては、一般世人は深く考えなければなりません。

4 無意識の圧迫


 しかるに冷淡な世間の無理解者わからずやは、よくこんなことをいいます。「われわれが誰と親しく交わろうが、どこで品物を買おうが、誰と結婚しようが、それは各自めいめいの自由意志に従うべきもので、決して他から差図さるべきはずはない。軒を並べて久しく隣どうしに暮らしていても、身分が違い、境遇が違えば、毎日顔を合わしながら、挨拶一つせずに過ごす場合もある。近所に同じ小売店こうりみせが二軒あって、われわれがその一方のみで物を買っても、決してほかの店から抗議を申さるべき訳はない。机を並べた同僚の間でも、気が合わねば親しくは交わらぬ。人を使うにしても、その選択はいつに使用者の方寸むねにあって、ほかから適当だと推薦してきたからといって、必ずしもそれを雇い入れるとは限らない。また縁談にしても同様で、ほかからみて似合いの縁だと思ったからとて、本人の気が進まねばそれまでのことだ。それでもって決してその相手を侮辱したとも、害を加えたとも思わない。われわれが特にいわゆる部落の人達を排斥し、あるいはこれに侮辱を加えたとならば格別、単にかの人達と交際しようが、しなかろうが、それは各自めいめいの勝手であって、決して彼らを圧迫したのでも、損害を与えたのでもないのだ」と。なるほど自己本位の立場からみればまったくその通りで、少くも国法では誰と親しくせよとも、どこで物を買えとも、誰を使えよとも、誰と結婚せよとも命令はしていません。したがってそれを拒絶したからとて、少くも国法上の罪人とはなりません。しかしながら、その拒絶の理由のうちに、少しでも相手が特殊部落民であるということがまじっているならば、それは社会的に大きな問題であります。各自めいめいが勝手に拒絶していることが、集まって部落民全体の上にかかってきます。各自めいめいは直接に圧迫を加えるつもりでなくとも、少くとも部落民全体に対しては、間接に立派に圧迫を加えているのであります。各自めいめいが直接に損害を与えるつもりでなくとも、少くとも部落民全体に対しては、間接に立派に損害を与えているのであります。いわゆる特殊部落民であるというただ一つの理由をもって、ほかのあらゆる条件を顧ることなく、ただちにけ者にせられるのであります。立派に国民として、国家に対する義務をつくしておりながら、事実上国民としての権利を行うことが妨げられているのであります。なんという不合理なことでしょう。こうなってまいりますと、「単に自分の勝手で近づかぬまでだ」という口実をもって、容易に許さるべき事柄ではありません。よしや無意識の圧迫であるとしても、その責任を負わねばなりません。すべからくまず世人は、その「勝手で近づかぬ」ことの結果が、相集まってどんな重大なる苦痛を与えているかを、よく考えてみねばなりません。
 そこで「お互いによく知る」といううちにも、まずもってこれを差別する世間の人々が、その差別せらるる人々を「よく知る」の必要があります。一般世人のこれをけ者にするのは、実際上「よく知らない」からであります。必ずしも故意にこれを排斥しようとする悪意があってのためではなく、実際にはただなんとなく多年の因習によって、ついこれに近づかないというだけの場合が多いのです。したがってほかから深くこれを責めるにも当らないかのようではありますが、世間のすべての人が、同じような意味から一様にこれから遠ざかろうとするのでありますから、問題はそう簡単にはいっておられません。もしよくその実情を知ったならば、多少の良心の存するほどの人ならば、何人なんぴとかこれに対して、同情と反省とを起さぬものがありましょう。しかも世人の多くはただその外面うわべのみの観察から、部落民は疑い深いものである、近づき難いものであるときめてしまって、他人ひとのことよりもまずわがことと、触らぬ神に祟りなしの態度を採ろうとするのです。これについてはよけいなことのようではありますが、いささかここに私の体験を述べさせてもらいたいと存じます。

5 部落問題に対する私の体験


 私がいわゆる部落の人々に近づき始めたのは、すでに二十余年の昔となりました。それまでは私も、あえてこの問題について研究したことはなく、もちろん部落の人々が、どんな境遇に苦しんでいるかをも深く考えてみたこともなかったのであります。しかるに私は、歴史家としての私の社会史研究上の必要から、いわゆるエタ非人に関する材料を求めようとし、しばしばこの方面の人々に近づく機会ができました。そしてその生活状態を観察し、不平不満の語を聞きますと、これはいかにも気の毒なものだと、同情の念が自然と起らざるをえなくなったのであります。のみならず、さらに進んでその部落の起原沿革を研究しまして、歴史上少しも差別すべきはずのものでなく、ただ世人の無智がこの人々をはなはだしく苦しめているのだとのことを確信するようになりましては、これは到底自然のなりゆきにのみまかして、打ちやっておくべきものでないと考えました。たしか明治四十一年の春であったと記憶しますが、私が始めて京都大学の講師として赴任した年のこと、同地の天部あまべの篤志家故竹中庄右衛門翁の家庭をうて、その所蔵の古文書を見せてもらい、そのついでに翁の依頼に応じて、同町内の夜学校舎で、町内の有志のために、一場の講話を試みたことがありました。これが私のこの問題について、意見を発表した最初のものです。その後機会のある毎に、しばしばその差別すべからざる所以を宣伝したことではありますが、何分微力のもので、もとより世間の注意を引くほどのこともできませんでした。しかるに大正八年一月に至り、私は主として部落の歴史を研究し、かつそれを宣伝したいという目的を含めて、『民族と歴史』という個人雑誌を発行することになりました。折も折とて、たまたまその月の十七日に、内務省で細民部落改善協議会が開かれますし、二月の二十三日には、築地本願寺において、帝国公道会主催の同情融和会が開かれました。機会を得たりと私は自ら進んで、その双方の会に出席しまして、私の歴史的研究の結果を述べて、単なる部落改善は解放に向かっての唯一の道ではなく、一般世人はさらによく反省するところがあって、故意の、もしくは無意識の圧迫を、解かねばならぬことを力説したのでありました。かくてその内務省における講演筆記を印刷して、同省を経て各府県に頒布してもらい、その後さらにそれをもととして、別にいくつかの歴史的研究を加えまして、「特殊部落研究号」と題する『民族と歴史』特別号を発行しました。ここに始めて、幾分か世間の反響を聞くことができたのであります。
 私の部落の歴史に関する研究は、もともと単に私の学問的欲求のためで、そのほかにはなにものをも有しないのでありました。しかしながら私はこの研究のために、いわゆる「部落をよく知った」結果として、私個人としては同情の念に、また一般世間の一人としては反省の念に、自然はなはだしく動かされたのであります。したがって私はこれを単なる学問的研究のみに止どめずして、さらにこれを広く世間に宣伝して、幾分でもその解放上に貢献したいものだと希望するに至ったのであります。もちろんそれは何人なんぴとから頼まれたのでもなければ、また職務上からやっていたのでもなく、もちろんこれによってなんら自身の利益を求めようとしたのでもありません。ただ私は、単に私の心の命ずるままに行動したのにすぎないのであります。
 しかるに初め私のこの動機がまだよく世間に諒解せられない頃には、しばしば世人から変な目をもってみられたものでした。ある人はいいました。「喜田は自分の雑誌を売ろうとして、あんなことをやっているのであろう。」と。これはたしかに融和改善を事業とする某氏の口からも出たと聞きました。さらにある人はいいました。「喜田はおそらく部落出身者であろう、そうでなければ喜田の細君が部落出の女であろう、そんなことででもなければ、あんなよけいなことに熱心になるはずはない。」と。これはしばしば懇意な人々から内報を受けたことです。そしてその内報者の中には、さらに親切にもこんな忠告を与えてくれた人もあります。「君もよい加減に部落問題を論ずることをやめてはどうだ。他からよけいな誤解を受けるばかりでなく、君はよい気になって喋舌しゃべっていても、ついどんな不用意から、あの恐ろしい糾弾の槍玉にあげられるかもしれないぞ」と。ある人はまたこんなことを言いました。「お前はあまり部落民のヒイキをしすぎる。そんなことをするから彼らがつけ上がって、水平運動のようなものも起るのだ。」と。この「雑誌を売ろうとして」との批評をした人々は、自分の卑しい根性から、他人の真意をはかるもので、もとより論ずるにも足らぬことであり、また「喜田が部落民のヒイキをしすぎる」ということの如きも、確かに観察を誤まったもので、悪くいえばいわゆる部落民をいつまでも愚にしておいて、その地位に満足せしめようと言うのでありまして、今さら問題とすべきではありませんが、「喜田が部落出であろう」とか、「よけいなことはよしたがよかろう」とかいうに至っては、もっとも適切に、世人のいかにこの問題に対して冷淡であるかを語っているものとして、心淋しく、また腹立たしく思わざるをえなかったのであります。実際世人の多くは、直接自分の頭の上に降りかかる火の粉でなければ、なにもほかから手を出す必要がないと思っているのです。そしてよけいなことには触らないのが安全だと打算しているのです。そんな有り様で、どうして解放ができましょう。融和の実が挙げられましょう。私はまずもって特にこれらの人々に向かって、部落をよく知ってもらいたいのであります。
 しかしながら、私の行動を変な目をもってみたものは、必ずしも世間の無理解者わからずやのみではありませんでした。いわゆる部落の人々からも、何かためにするのではないかと疑われたことも度々あります。また一方からは部落民のヒイキをしすぎると言われたのと正反対に、いわゆる部落の側の人からは、「喜田は御用学者だ、その筋の回し者だ」などと呼ばれたこともありまして、なるほど世人が疑い深いと批評するのも、まんざら無理のないことだと、感ぜざるをえない場合もないではありませんでした。しかしさらにひるがえってよくこれを考えますと、多年いわゆる同情の押売者おしうりしゃや、パンのための改善家に馬鹿にされた人々にとっては、一応そう疑ってみるのもまんざら無理ならぬことであるばかりでなく、平素世間から侮られ、け者にせられ、罵られるに慣れた人々としては、自然部落外の者の行いについて、神経過敏になるのもやむをえないことなのであります。したがって、よくこれを諒解してくれさえすれば、いわゆる部落の人々はいずれも善人です、親切な人々です、人懐っこい人々です。少くとも私の交際した限りの人々に、そう親しみにくいというほどの者のあることを知らないのであります。世人が往々彼らを見て、疑い深いの、親しみにくいのというのは、畢竟するに、いわゆる「喰わず嫌い」で、「よく知らない」からのことであったのです。されば、もし真によく部落を知ったならば、何人なんぴとといえども「ああ気の毒なことだ」、「相すまぬことであった」と、同情と反省との念が必ず起るに相違ないのであります。
 ここに至って私は、いささか脱線の嫌いはありますが、特に「同情」ということについて、一言しておきたい。
 右にもすでに述べました通り、多年同情の押売りに飽きた人々の中には、時に「同情」という語について、はなはだしい反感を有するものがないではありません。水平社の先輩達も「同情的差別撤廃を排す」と叫んだことがありました。これはもちろん優越的観念から、あわれむべき部落民を救ってやるとの態度に対する反抗ではありますが、それを履き違えた末流の人達のうちには、「同情」という語を非常に嫌がるものも実際少くありませんでした。かつてある小学校で例の失言問題が起り、例によって多人数殺到して校長の不取締りを糾弾しました時に、「自分は平素君達の境遇に深く同情して」といったがために、その校長ははなはだしく責めつけられたという笑い話があります。「平素同情などという優越的態度を校長からして持っているから、そんな不心得な生徒も出るのだ」と、厳しくその「同情」の不心得を攻撃せられて、ついにその「同情」の語を取り消して、謝罪したというのであります。しかしこれはとんだ履き違いで、同情は必ずしも優越観念を伴う訳のものではありません。恐れ多いことではありますが、私どもは歴史を読んで、隠岐にうつされ給うた後醍醐天皇にも同情し奉る。しかあるべからざるものが、世間の不条理なる差別待遇から、言うに忍びざるほどの不幸なる境遇に苦しんでいるのをみて、これに同情するになんの遠慮がいりましょう。世人はすべからくよく部落の実際を知って、その気の毒なる境遇に満腔の同情心を起し、彼らをしてここに至らしめたことについて、深く反省するところがなければならぬのであります。
 真の融和は真のうるわしい同情心から出立せねばなりません。頑強なる世間の差別待遇が、国家的に、社会的に、将来いかに重大なる結果を生ずべきかを憂慮して、高等政策的の意味からその解放をはかることはもとより必要で、はなはだ尊敬すべきことであるには相違ありませんが、しかも真の融和は、どうしても人道上の反省から起るところの真の同情心に基づかねばなりません。そしてその真の同情は、「よく知る」ということから導かれるのであります。私は私の永い間の体験から、あえてこれを断言して疑わないのであります。

6 いわゆる特殊部落とは何ぞや


 真の融和は真の同情心から出立する。そしてその真の同情心は、実に「よく知る」ということから導かれるのでありますが、しかもその真に「よく知る」ということは、もとよりその境遇をよく知るということのみをもって尽きるのではありません。いやさらにそれよりもより以上に、「いわゆる特殊部落とは何ぞや」という歴史的事実をよく知るの必要があります。世間の人々は実際「いわゆる特殊部落とは何ぞや」ということを知らず、何故なにゆえにこれを排斥するかの理由わけもわからず、ただなんかなしに「筋の違ったもの」として、これから遠ざかろうとしているのです。またいわゆる部落の人々にあっても、自分がどうした者かということを知らず、何故なにゆえけ者にせられるかの理由わけもわからず、ただいたずらに卑下してみたり、憤慨してみたりしているのです。なんという無智なことでしょう。世人がもし真に部落の歴史を知り、かつてこれを差別するに至った理由がわかったならば、彼らがこれまで行い来たった差別待遇が、間違っていたものだとのことを十分会得して、これがために多年部落の人達を苦しめたことを気の毒に思う心が、いっそう強くなるに相違ありません。また部落側の人々にしましても、真に自分の素性が何であるかを知り、何故なにゆえに差別せられるようになったかがわかったならば、ためによく自覚自重して、いたずらに自暴自棄の弊に陥ることなく、社会の進歩に伴って向上発展しうるに相違ありません。そうあってこそ始めて真に差別が撤廃せられ、さらに進んですっかり融和してしまう時が来るのであります。私が多年部落の歴史を研究しまして、その宣伝につとめているのはまったくこれがためです。その境遇に同情して、人道の上から同じ人間を差別するのは不都合だと論じ、また国家社会の政策の上から、差別撤廃の急務を説くのはもとより必要のことではありますが、単にそれのみでは、理窟にはまけても情が承知しません。そこになんだか「筋が違う」のではないかとの疑いが心の底に遺って、表面上差別の撤廃が行われたとしたところで、真に心から底から融け合うということが容易ではありません。
 およそ人間どうしの交際の上で、「筋が違う」ということほど、融和の邪魔をするものはありません。あのアメリカ合衆国においては、前後五年の久しきにわたった南北戦争の大犠牲をまではらって、立派に黒人の解放が実行せられたのでありましたが、しかもその後ここに六十年の歳月を重ねた今日に至って、ことに盛んに人道を説き、博愛を教えるクリスト教徒の間において、今に彼らをはなはだしく排斥し、往々残忍無道の私刑までが行われても、どうすることもできない状態にあるではありませんか。これはあるいは彼らの文化の程度が違うためだとか、あるいは富や智能の程度が違うためだとかいう理由があるかもしれませぬが、実はこれらの相違も、畢竟は主としてその差別待遇から起るものであることを忘れてはなりません。また多年の文明を誇るヨーロッパ諸国においては、富においても、智能においても、またその古来の文化においても、一般民に比して勝りこそすれ、決して劣ることのないユダヤ人が、今もってどうしても真に打ち解けた交わりを拒まれているではありませんか。これにもまたあるいは性格その他について、種々の融和しがたい理由が数えられるであろう。しかしながらその理由とするところのものも、遡ってよくこれを考えてみたならば、多くはやはり主として差別的待遇から起ったもの、またはこれがために同化の機会を与えられなかったもの、あるいはかえってそれがために、いっそう性格の相違をひどくせしめられたものであるにほかならぬことを忘れてはなりません。
 ここにおいて私は、ことさらに一般世人に向かって、わがいわゆる特殊部落なるものが、決して一般民衆と「筋」の違ったものではないということを、宣伝するの要を認めるのであります。もとよりこの小冊子において、一々歴史的の証拠を挙げてこれを証明することはできませんから、それは便宜別の説明に譲ることとしまして、ここには単に私の多年の研究の結果によって、彼らもまた同一系統の日本民族であることを述べて、兼ねてその何故なにゆえにはなはだしく差別排斥せられるに至ったかの道筋を明らかにしたいと思います。私の研究の結果によれば、今のいわゆる特殊部落なるものは、世人が何ら確かな理由もなくして、ただ何かなしに想像するように、本来「筋」の違ったものでは決してありません。もとは一般民衆と何ら区別のない人々であったのです。ただその先祖が何らかの事情によって社会の落伍者となり、時代の思想と社会の迷信とのために、ついにはまったく社会外に置かれるに至ったにほかならぬのであります。これにはもちろん一々証拠のあることで、私は私の学問的良心の命ずるところにしたがって、これを断言してはばからないのであります。
 社会に落伍者の起るのはいつの時代においても免れません。現に今日でも、時々刻々に発生しているのであります。そしてその落伍者の流れて行く道は、たいていきまったものなのです。試みに先年の関東大震火災について、胸に手を置いてよく考えてごらんなさい。家は潰され、財産は焼かれ、着のみ着のままのものが一時に何十万人とできました。それが幸いに大正のありがたい御代であったがために、ある者は無賃で汽車に乗せてもらって、遠方の親戚故旧をたよったり、あるいは郷里へ遁げて帰ったりしましたが、それができないものも急設のバラックに収容せられて、配給の食物に生命をつなぎ、次第に復興のいとぐちにつくことができました。しかるにこれがもし交通の不便な、また社会の設備も行き届かない時代に起ったとしたらどうでありましょう。おそらくその多数は飢え死に凍え死にするか、あるいはひと思いに自殺でもしたでありましょうが、幸いに生き残ったものでも、腹が減っても喰うものがなく、寒くても着るものがなく、さりとて働こうにも仕事がないとあったらどうでしょう。おそらく盗んで喰い、盗んで着る、はては切取きりとり強盗となるものが多いでありましょう。あるいは世人の慈悲同情に訴えて、物貰いに生き甲斐のない露命をつなぐ。あるいは恥も外聞も言ってはおられず、どんなに人の嫌がる仕事でも、かまわずさせてもらって生活する。この三つよりほかには、生きて行くべき道はないでありましょう。そしてもし世の中の秩序が永く恢復せず、そんな状態が久しく継続したならば、その切取強盗をでも働いたものの中からは、成功して武士や大名になるものが出る。物貰いをしたり、人の嫌がる職務に従事したものは、非人やエタになる。現に徳川時代には、自ら生活しえない落伍者で、救助に生きたものは非人階級に置かれました。この見地から極端にいえば、武士大名とエタ非人との中には、その先祖が落伍した時に、人を殺し、財物を強奪しえたか、それをなしえなかったかという相違によるといってもよい場合もありましょう。また震災後バラックに収容せられ、永く配給に生きるものは、これが徳川時代であったならば、明らかに非人といわれたのでありますが、今日誰がそんなことを思うでありましょう。これをもっていわゆるエタ非人の由来の、同情こそすれ決して排斥すべきものでないことを、明白に示しているではありませんか。
 これはただ卑近の一例にすぎませんが、要するにエタとか非人とかいわれたものの起原は、まずざっとこんなもので、むろんその落伍の原因にも、流れ行く道筋にも、種々の相違はありますが、いずれ同一民衆中の、落伍者の群に相違ありません。しかるに階級意識の盛んな時代には、彼らはだんだん身分の賤しいものとして見下げられます。そしてその子孫までが、それを世襲せしめられたにほかならぬのであります。
 これら落伍者の群は、世間から賤しまれながらも、生きんがために種々の職業に従事しました。そしてその従事した職業の中について、たまたま皮革業を択び、屠殺肉食を常習としたもののみはその身が穢れて、神様がそれをお嫌いになるという迷信から、特に「穢れ多し」という「エタ」の名を負わせられて、まったく普通人の触ってはならぬもののように、け者にせられてしまいました。いわゆるエタが特に嫌われたのは、ただこの迷信があったためなのです。
 ところで、エタは地方によっては、「チョウリ」ともいいました。文字には「長吏おさやくにん」と書いて、「かしら」という意味です。落伍者仲間の「頭分かしらぶん」であったのです。その頭分たるものが、大きな神社・寺院や、豪族や、あるいは町方・村方などに付属して、警固の役目を受け持つ。火の番、泥坊の番、強請ゆすりその他暴力団の追っ払い等のことに当たる。いわば今の警察事務です。むろんそれには権利として相当の報酬を取りました。長吏のおらぬ所には、優待条件をもって、歓迎せられて、わざわざそこへ移住しました。それが多数の昔のエタ村の起原で、言わば多数のエタ村は、請願巡査の世襲的駐在所の延長といってもよいのです。しからばいわゆるエタは落伍者中の頭として尊敬さるべく、警固担任者として感謝さるべきはずであるにかかわらず、単に穢れているというだけで、特別にかくまでひどく嫌われたのでしょうか。また肉食なるものが、はたしてそう穢れているものでありましょうか。

7 エタの特に嫌われた理由


 ところが、これらの長吏のともがらは、多くは自分の勢力にまかせて、その縄張り内にできた死牛馬を独占して、皮革その他の利益を壟断ろうだんし、他の落伍者仲間には触らせないようにしました。これがために物質上の利益を得ることが多かったのですが、その代りに、彼らはその身が穢れているとの迷信にわずらわされました。
 事実わが中世においては、肉食は非常に穢れたものだとの迷信が盛んに行われたものでした。肉を喰ったものは神参りはできぬ。自身は喰わずとも、肉食の穢れあるものに近づいたならば、穢れがその身にうつるものだとまで信ぜられたものでした。もちろんこれは一般的ではなく、中にはそれを嫌わぬものも多かったのですが、仏教家や、仏教かぶれの神道家などは、ひどくこれを嫌ったものです。したがっていわゆる長吏の輩は、警察吏として相当の権力を有し、ことに社会の必要な役回りをつとめる者として重んぜられ、もちろん生活上には何不足のない身分ではありましたが、不幸にして身が穢れているとの迷信から、普通民との交際は拒絶せられたのです。
 しかしながら、実をいえば肉食はわが国固有の風習で、昔は決して穢れとはしませんでした。上は一天万乗の大君を始め奉り、下は一般民衆に至るまで、みなこれを口にしてはばかりませんでした。むろん神にも第一等の供物として、これをお祭りしたものです。ところが仏法が盛んになりまして、殺生を禁ずるの意味から、ひとり僧尼ばかりでなく、普通民にまで肉食を禁ぜしめようとして、神様がその穢れをお嫌いになるとの宣伝が始まりました。その薬が利きすぎて、肉食者が非常に嫌われるようになったのです。したがってその屠殺兼業の生活から、古来の風習のままに依然として肉食を嫌わなかったいわゆるエタにとっては、非常な災難であったと申さねばなりません。
 しかしこれだけでは、ただ交際を嫌われるというだけで、そうひどく賤しまれるはずはない訳でありますが、いわゆるエタにとって今ひとつの大きな災難は、彼らの生活に不足がなかったということです。徳川時代には、百姓町人らの生活は非常に行き詰まっていて、事実上大勢の子供を養育するほどの余裕がありませんでした。したがって産児制限が盛んに行われ、平均したところで二人の親は、二人の子しか育てなかったがために、世間の人口はほとんど増加しませんでした。しかるにその間において生活の豊かな長吏の仲間には、ほとんど産児制限ということがなく、はなはだしく人口が増しました。これはひとつは当初世間の需要も多く、自分ら仲間の勢力を盛んならしめんがためにということもありましょうが、主なる原因は平素屠殺を業とし、罪障の深いものとして、他の宗旨から顧みられなかったものが、いかなる罪人でも救いとって往生せしめるという一向宗の信徒となったがために、この宗旨の教導から、堕胎や間引きをしなかったという理由もありましょう。ともかく世間の人口が増さぬ間に、この側の人々のみ非常にえた上に、世の中の秩序も定まり、国家の取締りも行き届いて、私設の警察の必要がだんだんと少くなったものですから、自然失業の警察吏が無数にできた訳です。生活はだんだん困難となりました。しかも悲しいことには、その身が穢れていると誤解せられていましたから、世間へ交じって他の職業を択ぶことができません。相変らず限られたるもとの部落内に生活して、細民部落となり、密集部落となります。もとは警固の役をつとめて、権利として生活の物資を要求していたものが、今はまったく無職で、なんとかして生活せねばならなくなりました。むろん草履作り、雪駄直しや、一般の皮細工など限られた家内工業はありましたが、それのみで限りなく殖える人口を養うには困難でした。したがって自ら卑下して、旦那方の機嫌を損ぜぬようにせねばならぬ。どんな屈辱にも辛抱せねばならぬ。身分はますます賤しくなる。世間との距離は次第に遠くなる。ことに階級思想の盛んな時代のこととして、世人からはますますかろしめられ、もし万一その穢れた者が、素性を隠して世間へ紛れ出て、穢れを世間に及ぼすことがあってはならぬという考えから、国法をもって身なりまでも強制的に差別せしめ、一見して普通民と区別ができるようにしてしまいました。そのはなはだしくなったのは、近く安永七年以来のことで、まだ百五六十年にしかなりません。その以前にはそうひどくはなく、一方には極端にこれを嫌うものがありましても、一方にはそう嫌わぬものもあり、三百四五十年前にもなれば、大名でエタの息子を小姓として寵愛したり、侍でエタの娘を嫁に取ったりした実例もあります。むろんエタの子孫だからとて、永久にエタでなければならぬ理由はなく、任意にその職業を転じたり、中にはその実力のままに、一城の主、一郡の領主となったものもあります。あるいは武士大名と言われたものの中にも、このともがらから出たものがないとは言われません。その代りに新たにできた落伍者の、この群に流れ込んだものもむろんたくさんにあります。また同じくエタよ非人よと言われたものの中にも、その職業によってはだんだんと解放せられ、世間からもそう賤しまれず、そう差別されなくなったのみならず、中には立派な身分として、認められるようになったものも少くないにかかわらず、ひとり屠殺皮革の業に従事したものの子孫のみは、いつまでもエタよチョウリよと差別せられて、け者となっているのであります。
 以上の歴史的沿革は、みなそれぞれに確かな証拠のあることでして、私は私の多年の研究の結果により、責任をもって断言しうるのであります。俗にエタは帰化人の子孫だの、捕虜の子孫だのなどいうことは、ひとつも信ずるに足らないのであります。
 そこでもし世間のすべての人々が、幸いによくこの由来を諒解してくれましたならば、この気の毒な落伍者の子孫に対して同情こそすれ、決してこれを嫌うことはないはずであります。もちろん特殊部落などといって、その身分についてこれを差別するようなことは、絶対になくなるべきはずです。またいわゆる部落の人々もよくこの由来を諒解しましたならば、自覚自重していたずらに憤慨することなく、よく自暴自棄の境界から脱出して、発憤興起すべきはずであります。
 一旦落伍者となったものが、永久にそれから脱出しえないはずはありません。いわんや子々孫々それを世襲せねばならぬという理由がどこにありましょう。万事現状維持の旧幕時代ならばいざ知らず、今日では水呑百姓と賤しめられ、下司下郎とさげすまれたものの子孫でも、運と努力とでは大臣にも大将にもなれる世の中です。社会に一流の紳士とも紳商ともなりうる世の中です。しかるにひとりいわゆる部落の人々のみは、いかに修養を積もうとも、いかに努力を重ねようとも、深く身分を隠した上でなければ世の中に交わってゆけぬとは、なんという不合理なことでありましょう。
 旧幕時代においては、武士と百姓町人との身分の相違がはなはだしかった。ことにその中頃以前においては、その差は百姓町人とエタ非人との差よりも、はなはだしかったことを疑いませぬ。しかるに今日では、武士であったところの士族と、百姓町人であったところの平民との間に、社会的地位においてどこに相違がありますか。しかるにただひとりいわゆるエタには、その身が穢れているとの迷信が伴っておったがために、その解放以来五十余年の今日まで、とかく世間との融和が困難でありましたが、それが中世の単なる迷信であって、もとよりわが固有の国風でもなければ、今日すべてが肉食を不思議とせぬ世の中となっているのであってみれば、その差別の撤廃については、もはや身分上なんら故障はなかるべきはずであります。すべからく士族と平民との間に差別のなくなったことを理想として、その差別の撤廃を実現せねばなりません。
 私が「よく知る」ことの必要を宣伝するのは、実にここにあるのであります。差別するもの、差別せられるもの、よくその差別のよって来たった由来を諒解したならば、今に至ってなおその差別的待遇を継続することの無意味な次第を、十分会得することができるでありましょう。
 なおこの歴史的研究については、別に「いわゆる特殊部落の由来」と題した小冊子を記述して、やや詳しくそれを説明したいつもりでありますから、それについてさらによく知っていただきたいのであります。

8 いわゆる「水平」の真意義


 一般世間の人々がいわゆる特殊部落の何ものたるかをよく諒解し、その無意味なる差別待遇のために、いかに苦しめられているかをよく承知したならば、ここに真の同情が湧出して、過去の差別的行為の非をさとり、いわゆる差別撤廃から、進んで真の融和の域に到達すべきものなることは、すでに繰り返し述べた通りであります。
 しかしながら真の融和を求めようとするには、被差別者の側においても、あらかじめこれに応ずるだけの準備がなければなりません。そこで私はまずもって、ここにいわゆる「水平運動」なるものについて、一考するの必要あることを認めるのであります。
 近時世間の耳目を聳動しょうどうせしめた水平運動なるものは、言うまでもなく一種の解放運動であります。従来久しく世間の無理解なる差別待遇の覊絆きずなに囚われて、人間としての活動を束縛せられ、生存を脅かされたことから解放せられんとの運動であります。そしてそれはいわゆる部落民のみの団結の力によって、他人を交えずにその効果を挙げようというのです。しからばすなわちそのいわゆる「水平」とは、一般世間と、いわゆる特殊部落とを、水平の地位に置こうとするにあることはいうまでもありません。そしてそのいわゆる第一期の運動としては、世間に向かっては例の「徹底的糾弾」によって、その差別待遇の不可なる所以を反省せしむるの手段をとり、内部に向かっては、すべからく自覚自重して、みだりに卑下すべからざる次第を宣伝するにあったとみております。もちろんこれがそのすべてではありますまいが、外間の目に映ずるところは主としてこうでありました。そしてその結果としては、前にも述べた如く、一方にはかえって時に両者間の溝を深からしめたという遺憾の点もなかったではありませんが、過渡時代における多少の遺憾はやむをえぬこととして、ともかくもある程度の目的を達することができたと観察します。
 しかしながら、いわゆる水平運動に従事する人々の中にでも、実はその「水平」の意義について、その解釈が一定していなかったようです。もちろんその団体がいわゆる部落民のみであり、世人がいわゆる部落民としてこれを差別し、これを侮辱した場合に、例の徹底的糾弾を加えているのであることからこれをみますれば、いわゆる「水平」とは右に述べた如く、従来不条理なる世間の差別観念から、低いものであるかの如くみられていた部落民の地位を引きあげて、一般世間と水平の地位に達せしめようというにあるべきはずです。またぜひそうなければならぬ次第であります。しかるに中にはその「水平」の意義を広く解して、貧富貴賤をまでも水平にしようと希望するものがないでもなかったらしい。これがために同じいわゆる部落民の中にあっても、有産階級のものに向かって挑戦的態度を示さんとするものもないとはいえない様子に観測せられます。かくの如きもまた一種の水平運動で、これと同一の希望を有するものが世間には少からぬことでありますから、それが成り立ちうることか否か、またそれが善いことであるか否かは別問題として、いわゆる部落内にもそんな希望を有するものの存するに不思議はありません。しかしそれはおのずから別個の運動で、いわゆる部落民のみの団体から成る水平運動とは、意義を異にするものでなければなりません。むろんいわゆる部落民の中には、かつて細民部落の名をもって呼ばれたほどにも無産者が多い。したがって世の多くの無産者が感ずると同一の苦痛を、この人々も痛切に感じているには相違ありませんが、これらの人々はさらにその上に、いわゆる特殊部落民であるという、二重の首枷をはめられているのであることを忘れてはなりません。そしてこの後の者は、有産無産に論なく、人格教養の如何を問わず、いわゆる部落民全体に対して負わされた、もっとも重大な首枷であります。今のいわゆる部落民に無産者が特に多いということの如きも、よくその由来に遡って考えたならば、主としてこの重い首枷をはめられているところに、重大なる原因のあることが知られるのであります。前に述べた通り、これらの人々は不条理にも住居の自由と職業の自由とを束縛せられているのであります。やむをえず限られたる部落内に、限られたる職業を執っているのであります。したがって有為の士が世間に出て働こうとしましても、為に十分その手腕を伸ばすの余地がないのであります。同一の努力に対しても、しばしば同一の報いを得ることができないのであります。のみならず、これに対する精神上の不平不満は、自然と自暴自棄に陥らしめ、心ならずも低級なる娯楽に心淋しい慰安を求めて、その日その日を送っているという場合も少からぬのであります。かくの如くにして無産者たらざらんとするも、どうしてそれが得られましょう。ここにおいてか目下の最大の急務とするところは、まずもって特殊部落という差別待遇の重い首枷を除かなければなりませぬ。差別待遇から受くる精神的の苦痛はしばらく措き、単にこれを経済的の方面からのみ観察しましても、同一の手腕を有し、同一の努力を払いながらも、いわゆる部落民であるというハンディキャップを付けられているがために、これに相当する収穫を得る能わずとは、なんという不合理のことでありましょう。何よりもまずもって、この不合理から解放されねばなりません。いわゆる部落民のみの集団より成る水平社が、その綱領の一つとして、職業の自由の獲得を期していることは、まことに当然の要求であります。これはいわゆる部落民としてのすべての人々の、頭の上に直接降りかかるところの火の粉を払わんとするものであります。かの貧富貴賤を水平ならしめんとするの希望の如きは、これは一般的のことであって、ひとりいわゆる部落民のみの問題ではありません。したがってかかる運動に参加せんとするものは、すべからく一般的に広く同志と相提携すべきものであって、いわゆる部落民のみの集団よりなれる水平運動とは、断然切り離さねばなりません。もちろんこれもまた一つの水平運動であるとしましても、それは少くもいわゆる部落の人々の水平運動とは、おのずから別箇の水平運動です。いわゆる「水平運動」は、あくまでも差別撤廃のみに向かって突進すべきもので、その差別撤廃が実現せられた暁は、すなわち水平運動終局の時であり、ここに始めて真の融和が実現せられて、もはや特殊部落も水平社もなくなってしまうべきものであります。

9 お互いの諒解と真の融和


 しかしながら、真の融和を求むるには、すべからく差別者被差別者双方の間に、よく諒解するところがなければなりません。自分どものみの力をもって、自分どもの運命を開こうとすることはきわめてよろしい。しかし融和とは、両者の間の融解和合であります。単に一方のみの運動をもってしては、真の融和は求めがたい。たとえば例の徹底的糾弾であります。頑迷なる世間はあるいはその威力に恐れて、表面両者間の差別が撤廃されるかもしれません。あるいはさらに空想を逞しゅうすることが許さるるならば、昔の武家政治の時代において、少数の武士が両刀を手挟んで、多数の丸腰の百姓町人を圧迫し、傲然としてその上に立ったように、一般普通民をして道を避けて通らしめることができえないともかぎりません。過去の水平運動者の中には、あるいはかつてそんなことを夢想していたものがあったかもしれません。しかしそれでは従来の差別を撤廃して、新たに別の差別を作ろうとするもので、もとより水平運動とは言われません。あるいは自ら進んで融和を求むることを欲しないというものがあるかもしれません。少くともある論者は、融和運動なるものをもって、ある種の優越感を懐いたものの、僭越なる運動だと解しております。あるいは融和運動をもって、傲慢なる運動だと批評しております。あるいはいわゆる融和運動者の中には、実際その解釈が当たっており、その批評を甘受せねばならぬものがあるかもしれませんが、真の融和運動とは、決してそんなものではありますまい。かくの如きの論者は前に述べたような、同情をもって優越感の産物だとはき違えたと同様で、真の融和運動がただちに博愛から出立し、真に世を思うの至情から成立しておることを解しないものだといわねばなりません。さればたとい自ら進んで融和を求むるを潔しとしないまでも、他の真の融和運動をまでも拒絶する必要はありますまい。もしはたして真に融和を希望せずとならば、それは永く特殊部落なるものを保存して、一般世間と対立せしめ、従来は他より低く見られ、自らもいたずらに卑下していた特殊部落の地位をぼせて、一般世間と水平ならしめたならばそれでよいとするまでのものです。それもまた一つの水平運動ではありましょうが、永久の真の水平は、それでは求められません。なんとなれば、数において非常に違ったものの対立は、いつか優勝劣敗の破綻を来たすおそれがあるからです。真の水平運動とは、すべての差別を撤廃せしめて、永久に特殊部落なるものをこの世の中から消してしまい、渾然融和せる同一の帝国臣民たらしめんとするものでなければなりません。そしてそれは対世間的に、徹底的糾弾の手段を取るのみでは、到底実現されないのであります。
 従来の徹底的糾弾なるものは、通例は多数集団の威力をもって、個人を反省せしめんとするものでありました。したがって多くの場合において、表面的にはその目的を達して、あるいは謝罪広告をなさしめ、あるいはその他の方法で反省の意志を表明せしめ、少くとも人のみるところにおいては、差別的の言語動作をさしひかえしめることができました。しかしながら、かえってその蔭において、いっそうの反感を抱くような無理解者があっても、それをどうすることもできなかったのであります。のみならず、もし被糾弾者が自衛のために、相連合してこれに備えるようにもなったならば、例えば奈良県の下永事件の如く、群馬県の世良田事件の如く、あるいはさらにそれ以上のとんでもない大騒ぎを演出しないともかぎりません。なお言わば、そのことの理非曲直の問題はしばらくこれを措くとしまして、ともかく事実上世間の多数を相手に戦うこととなりましては、現にいわゆる細民部落であり、多数の社会を相手に生活せねばならぬ境遇にいるところのこれらの人々の多数は、いきおい自縄自縛に陥るのおそれはないでありましょうか。そのもっとも希望するところの職業の自由が得られましょうか。飲食店を始める、旅館を開く、筋肉労働者となる。それについて世間の何人ももはや異議をはさむものはありますまい。しかしながら世人がその店に立ち寄らず、その宿に泊らず、それを使用する者がなかったらどうします。それをしいてその店で飲食せよ、この宿で泊れよ、この人を使えよと、どうしてそれを糾弾することができましょう。これは事実の問題であります。いたずらに世間の非を鳴らして、これを責めるのみでは解決のできない問題であります。お互いの諒解が必要だという点は実にここにあるのであります。
 私をして忌憚なくこれを言わしめるなら、私は今までの水平運動者の中には、あまりに生一本にすぎる人が多かった、潔癖にすぎる人が多かった、色眼鏡をかけて世間を見る人が多かったと断言するを憚りません。「われわれを差別するのは世間が悪いのだ」、「われわれを貧乏せしめたのも世間の罪だ」、「われわれが社会の進歩に伴って、進むことのできなかったのも、また世間の差別待遇の結果である」と。まったくそれには相違はありません。またある人はこんなことをいいます。「世の改善運動家融和運動家等は、職務のためにするか、パンのためにするか、売名のためにするか、あるいはわれわれを道楽の道具に使っているか、なんらかにわれらを利用せんとするもので、真にわれらを理解して運動しておるものはほとんどない」と。なるほどそんな批評を甘受せねばならぬものもまったくないではありますまい。しかし世間のことごとくが、必ずしもそんな冷酷な心のもののみではなく、改善融和の運動家がことごとくそんな卑しい根性のもののみではありません。また世間の人々の差別待遇の如きも、多くは因習に囚われ、無知から起ったもので、そう深い根拠があって、故意にしておるのではありません。されば被差別者の側においても、よくこの点を考えて、一方に世間の人々の反省を希望すると同時に、すべからく世間に対しても、その無知を憐れむくらいの寛大な思いやりがあってほしい。またいわゆる運動家の中に、よしや多少その動機に不純なものがあったとしても、それをもって他のすべてを推測せんとするのは、あまりに冷やかすぎると申さねばなりません。またよしやかりに不純な動機から出立したものがあったとしても、何もわざわざ畳をたたいて隠れたほこりを出す必要もなく、人の腹の中に包まれた汚物をまで想像して、それを不潔がる必要もないのであります。いわんや誠心誠意をもってことに当たるものも決して少からぬことは、自分の深く信じて疑わぬところです。さればこれらに対しては、すべからくその誠心誠意を受け容れるだけの温かみと、一方に多少の不純をも許すほどの雅量があってほしいと存じます。もしいっそう露骨にこれを言おうなら、万一いわゆる部落の人々を利用しようとするような不純の運動者があった場合には、すべからく利用せられたさまを装って、逆にこれを利用するほどの横着げがあってほしい。「泰山は土壌を譲らず、ゆえに高し、江河は細流を択ばず、故に深し」で、差別の撤廃と融解和合に目的を同じゅうするものは、たとい少々行き方が違っておっても、互いに相許してその目的を達することに向かってのみ進みたいものです。
 実際世間の人々の差別待遇は、単に因習に囚われて、被差別者の苦痛をも、その差別の由って来たったところをも、よく知らないためであります。ゆえにこれに対しては、前二章に述べたところによって、すみやかにその蒙を啓いて貰わねばなりませぬ。しかしながら、世間の差別待遇の原因は、必ずしもそれのみがすべてではない。流れを同じゅうする人どうしの間でも、さらに厳密にいえば親戚縁者の間にでも、教育のあるものと、無教育者と、資産の多い者と、無資産者とが、全然対等の交際をすることはむずかしい。職業を異にし、生活状態を異にするものの間においても、また同様の場合があります。しかしながら一般世間においては、それらの各種の程度のものが、互いに散在し、互いに入り交じって生活しておりますから、ためにひどく目立つこともなく、したがってそう問題にもなりませんが、いわゆる部落の人々にあっては、よしやその原因が主として世間の差別待遇にあったとはいえ、事実上教育の程度において、また生活の程度において、世間の進歩におくれたものが多いのであります。ことにそれらの人々が、通例狭い所に集団しておるというところに注意を払わねばなりませぬ。狭い所に後れたものが集団をなしているがために、種々の弊害も起りやすく、特にそれがひどく世間の目について、ついには部落そのものに対して、差別観念をいっそう濃厚ならしめるという点が確かにあります。今日では世間の多少理解を有するらしい人々は、よくこんなことをいいます。「われらはあえて部落民なるが故にこれを疎外するということは決してない。ただ彼らの生活状態が、われらを近づけるべくあまりに低級であるが故に、近づかんと欲しても能わぬのである」と。私はただちにこの弁疏いいわけを信ずるほどに正直者ではありません。しかしながらかくの如き意味も確かに存在することは事実です。旧幕時代の武士と百姓町人との間には、ただに社会的地位のみならず、生活状態にも一般的に著しい相違がありました。しかるに維新後、その差別がだんだんなくなってしまったのは、武士がことごとくその特権を奪われ、百姓町人がその圧迫から解放されたというばかりでなく、また士族の数が少く、平民の数が多いというばかりでなく、実際に士族の多くがその財産を失い、平民の生活が進歩向上して、双方から相歩み寄って、実力上その差を認めないようになったために、すみやかに融解和合が実現したのでありました。今のいわゆる部落問題の解決についても、この点を深く考えねばなりません。いたずらに世間の差別待遇の罪を責め、悲憤慷慨することのみでは、真の解放と融和とは求め得がたいのであります。
 ここにおいてか近頃水平社の第二期運動として、内容の充実が叫ばれてきました。これはまことに結構な方針の転換であります。もともと差別をしている者は世間であるが故に、これを撤廃するのもまた世間でなければなりませぬが、被差別者がこれに応ずる準備として、もっとも必要なのは言うまでもなく内容の充実であります。換言すれば有形無形の改善であります。
 水平社の第一期運動は、むろん種々の弊害をも伴いましたが、ともかく頑迷な世間を反省せしめることにおいて、相当の効果を収めることができました。かつては主として改善にのみ向かって尽力した当局者や篤志者が、近頃は同時に解放の宣伝に努力するの機運になってきているのであります。そして私はひそかにこれをもって、水平運動のもたらしたたまものの一つだと観察しております。そして今やその第二期運動として、内容の充実が叫ばれてきたのであります。
 改善と解放とは必ず同時に相伴わねばなりません。その一つを怠っては双方ともにその目的を達することが困難であります。解放しようとしてもひどく後れていては十分それができにくく、また改善しようとしても世間が差別していては十分それができにくい。この両者は同時に並び行わるべきもので、ここに双方の諒解がもっとも必要なのであります。原則としてこれをいえば、改善は主として自らこれをなすべく、解放は世間がこれをなすべきものでありますが、従来はそれが反対になっておりました。世間の人々は自分の解放を後にして、しきりに改善をすすめます。部落の人々はそれを喜ばずして、かえって盛んに解放を求めます。ここにお互いに意思の疏通を欠いて、反感を生ずるような遺憾な場合が少くなかったのであります。しかるに今や世間の改善運動は、融和運動と形をかえて、改善と同時に解放を宣伝する。水平運動は依然解放を要求すると同時に、内容充実に向かって努力しているのであります。これはまことに喜ばしき傾向であると申さねばなりません。
 真の水平運動はどこまでも差別撤廃に向かってのみ進まねばなりません。そしてすみやかにその必要のない時期に達せねばなりません。それは一方世間の反省と、一方内容の充実とによってのみ求めらるべきもので、円満なる相互の諒解の下に、始めて真の差別撤廃が行われ、真の融和が実現せらるべきものであります。

10 被差別者自覚自重の必要


 人間が他の同じ人間を差別することのよろしくないのは、今さら問題ではありません。いわんや同一の権利を与えられ、同一の義務を負わされている同じ国民どうしの間において、その多数のものが他の少数のものを差別して、有形無形に多大の損害を与えているということは、到底許さるべきことではありません。ここにおいてか機会均等が叫ばれ、差別撤廃が唱えられるのは当然です。しかし機会均等といい、差別撤廃ということは、もと別々のものの間に起ることであって、引き続きその両者の対立が予想されているかの嫌いがあります。差別撤廃といい、機会均等というのは、融和に達するの道筋であり、過渡時代の一時の現象でありまして、結局は両者が全然融解和合して、そこに区別すべき何物もないようにならねばなりません。これを日本民族の成立について考えますと、この国土には皇室の御先祖のまだ御降臨にならぬ前から、種々民族を異にする多くの人民が住んでいました。御降臨後においても、多くの人民が支那や朝鮮から移住しました。歴史時代にまで奥羽地方に遺っていた蝦夷人らも、多数続々と内地へ移されました。そして奥羽地方へは、盛んに内地人を移住せしめました。かくの如くして本来その民族を異にする多くの民衆が、この同一の島国内に雑居して、すべてが一緒になって、わが日本民族は成立したのであります。そしてそこにもはや先住の土人もなければ、新来の帰化人もなく、ことごとく融解和合して同一の日本民族となっているのであります。しかるに、その同一の日本民族の中のあるものが、たまたまなんらかの事情で落伍者となり、それが中頃の迷信で穢れありとせられた職に従事したがために、その子孫の末々までまるで筋が違うものかの如く他から誤解せられ、差別せられているのが今のいわゆる部落の人々であります。そしてその差別待遇のために、時としては後進部落と言われたほどにも、有形無形に少からず一般社会の進歩から取り遺されているのであります。ここにおいてか改善が叫ばれ、解放が唱えられるのでありますが、つまるところは一般社会がその迷信を排し、誤解を除き、また被差別者が向上進歩するということなので、それをなすに双方の諒解が必要であることは、繰り返しすでに述べた通りであります。
 卑近な比喩たとえをもって申しましょう。ここに無慈悲な継母の手に育って、気兼気苦労を重ねた結果、かりに心のひがんだ娘ができたとする。心がひがんでいるがためにその母親はますますこれを憎む。世間の人々もその娘に対して、よい感じを持たなくなる。その娘は母を恨み、世をのろうて、ますます始末におえぬものになってしまうのであります。しかし理解のある人は、決してその娘を憎みませぬ。「彼女は生れながらにして生みの母の慈愛を知らず、冷たい継母の手に人となったがために、あんな邪推深い、他人の好意をも正しく受け容れることのできないようなものになってしまったのだ」と、必ず同情の涙を注ぐに相違ありません。そしてその娘とともに、無慈悲な継母を恨むかもしれません。しかしさらにいっそうの理解ある人ならば、そうその継母をも憎みません。「彼女は不幸にして継母と呼ばれる境遇に身を置かねばならなかった。その継子を厳格にしつけると、継母だから残酷だと言われる。放任しておくと、継母だから無責任だと言われる。終始心の安まる暇もなくて、ついにあんな継母根性になってしまったのだ」と、必ずその境遇に同情するに相違ありません。この理解ある第三者の注ぐところの同情を、この継母と継子とが持つことができましたならば、いかに意志の疎隔していた間でも、必ずまるく納まるに相違ありますまい。母はひがんだ娘を憎む前に、まずこれに同情する。娘は無慈悲な母を恨む前に、まずこれに同情する。これが私のいわゆる双方の間の諒解であります。いわゆる特殊部落なるものをこの継娘ままこの心のひがんだのに比較することは、十分適切ではありませんが、その原因はいかにもあれ、事実上種々の点において社会一般の進歩に後れているところがあり、感情の疎隔しているところがあるとすれば、しばらく多少の不適切を忍んで、この比喩たとえをもって申しましょう。世間の差別待遇の結果、いっそう落伍のドン底に落ち込んだいわゆる部落の人々が、世間の差別待遇にはなはだしく憤慨して、例の徹底的糾弾の挙に出るとする。その原因をよく理解しておらぬ糾弾される側のものは、ためにはなはだしく脅威を感じて、ますますこれを嫌がって、相結んで自衛の道を講ずるようになる。無理解な継母がますます継子を憎むようなものです。それが出合ってかの世良田事件は起ったのです。もし被糾弾者が、真に被差別者の実情と、その差別の生じた由来とを諒解して、彼らをして真に糾弾の挙に出でざるをえざるに至らしめた事情をよく考えてみたならば、よしや不用意な失言から、実際上糾弾事件が頻繁に突発したからとて、自ら省みてこれに同情こそすれ、衆をたのんで報復的にこれを懲罰しようとするような、そんなひどいことがどうして起りえられましょう。また被差別者の側においても、世間のこれを差別するものがあえてそう深い根拠を有するものではなく、ただ無知と因習とより生ずる各自の差別的の行動が、相集まってはなはだ大なる煩いをなしているものなることに思い及んだならば、たまたまある個人が不用意なる失言をなした場合があったとしても、むしろその無知を憐れんで、その蒙を啓かしむるの挙に出づる道もありましょう。ここはお互いの諒解によって、円満に解決さるべきはずのものではありますが、遺るところは事実上いわゆる部落の人々が、かつて後進部落の名をもって呼ばれたほどにも、一般社会の進歩に後れているという点であります。その後れた原因がよしやどうであろうとも、現に後れていることが事実である以上、少くともそれを同等にまで引き上げねばなりません。否、従来久しく後れたものとして、疎外しておった一般世人の観念を入れかえしめるためには、むしろ一般世間の以上に出るほどの覚悟をもって努力せねばなりません。これを試みに再び右の継娘の比喩たとえについて考えてみましょう。理解のある第三者は決してその娘を憎まず、必ず同情の涙をもってこれを迎えるには相違ありませんが、しかしその原因がどうあろうとも、事実その娘の性質がひがんでいる以上は、これをただちに善良なる家庭に入れることには、ちょっと首を傾けるに相違ありません。いかに理解ある第三者といえども、ただちにこれをもって自分の妻とし、その子の嫁にめとろうという点に至っては、躊躇するに相違ありません。これは事実の問題であります。したがってその娘たるものは、必ずまずその暖かい同情に動かされて、そのひがんだ性格を矯正すべく、修養するところがなければなりません。これが改善であります。内容の充実であります。お互いの理解と、内容の充実と、双方相俟ってここに完全なる融和が実現せられるのであります。すべからく被差別者の側の人々は、この道理をよく諒解して、自覚自重するところがなければなりません。そしてこれに加うるに、いわゆる特殊部落の差別すべからざる歴史的知識がよく徹底しましたならば、少くともいわゆる「部落民なるが故に」という理由によって、他のなんらの条件を問うことなく、ただちにこれを差別するというようなことはまったく跡を絶つに相違ありません。

11 相親しむことの必要


 しかし単に差別しなくなったということと、相近づき相知り合うということとの間には、大いなる相違があります。単に差別せぬというばかりでなく、進んで相近づき相知らなければなりません。繰り返し言う如く、実際世間の多数の人々は、そう故意に差別しているのではなく、ただなんとなく個人的に相親しまないという場合が多いのです。少くとも各個人はそう信じて、あえて罪悪を重ねているとは自覚していないのです。しかもその各個人の相親しまないものが相集まって、ついには全体としてこれを疎外排斥するという大なる結果が生じているのであります。されば今日の急務としては、これまで相親しまなかったがために生じたこの欠陥を償うの意味からでも、進んで互いに相親しむの機会を多く作りたい。いわゆる特殊部落なるが故にことさらに親しむというくらいの気分をもって、互いに相近づくの機会を多く作ることです。親しむ親しまぬは各己の自由意志に従うべきもので、他から拘束せらるべきではないなどとの一般的の理論は、この場合には許されません。単にその歴史を知り、その実情を知り、差別の不当なりし所以をさとったのみでは不十分です。さらに進んでそれと親しまねばなりません。かく言わば、それはいわゆる特殊部落の存在を意識した所為であって、やはり一つの差別待遇であり、解放の精神とは矛盾するではないかとの非難もありましょう。まことにもっともな非難であります。しかし過渡時代にはそれはやむをえません。かくの如くにして互いに相知り、相親しむことによって、ここに深き同情も起れば反省も起る。自重心も奮発心も起ってくるのであります。かくてこそ始めていわゆる特殊部落なるものは全然消滅して、真の融和が促進せられるのであります。しかもその相知り相親しむということは、単に席を同じゅうして飲食するとか、同一の仕事場に労働するとか、氏神の祭礼を共同にするとか、机を並べて夜学をするとか、運動会を一緒にするとか、共同に青年団を組織するとかいうような、そんな公的の場合の会合のみでは不十分です。さらに進んで個人的に、また家庭的に、交際を始めるようにならねばなりません。ここに始めて真の融和が出現するのです。そしてその方法としては、役所・学校・会社など、多くの人に接するところの使用人には、つとめて部落の人を用いる。ことに炊事や給仕に関係するものにこれをえきするのがもっともよろしい。世人の多くがいわゆる部落民の供給する牛肉については、なんらこれを嫌わず穢れとしないにかかわらず、その魚屋八百屋から魚類や青物を買うを潔しとせぬというような、そんな滑稽な矛盾はたちまち消滅せられましょう。また学校の教員たるものは、校庭における共同の遊戯を延長して、一般児童をして部落の児童と、家庭においても相交わらしむるよう注意してもらいたい。実際今日では学校における児童の間には、ほとんど完全に差別が撤廃されているといってもよいほどになっています。しかるにそれが一旦家庭に帰ると、たちまち引き離されるのです。差別観念のない無邪気の子供らも、父兄のする差別を見習い聞き習って、始めて差別観念を養成しているのです。このようなことは、ぜひ注意して避けたいものです。「部落民なるが故に」という差別的意識をもってすることは、理論としては不都合のようではありますが、融和促進の一時の方便としては、これもやむをえません。一身の苦痛を救わんがためには、一時非常なる苦痛を忍んで切開手術を行う場合もあるではありませんか。この際自分はむしろ「部落民なるが故に」という理由の下に、ことさらに官公吏会社員等の採用にも、差支えなきかぎり優先権を与うるくらいの心持ちがほしいと思います。商店に物を買う場合にも同様で、「部落民の店なるが故に」、差支えなきかぎりなるべくその店で商品を買うというくらいの思想を養成したいと思います。これは多年これを差別排斥していた報償つぐないの意味からでも、このくらいのことはあってしかるべしだと思います。かくの如くにして世人が常にいわゆる部落民に接触し、ためになんら嫌な感じを持たなくなれば、ここに始めて真の融和は実現せられましょう。もはや特殊部落なるものは存在しなくなりましょう。いわゆる部落民がもはや部落民たるの素性を隠すことなく、明らかにその素性を標榜しながら、なんら隔意なく世間に交わることができるようになりましょう。あたかも士族がその士族なる族籍をそのままに、なんら差別なく平民と融和していると同じように。

12 素性に関する理解の必要


 終りに臨んで、一言先祖の身分に関する世間の誤まった考えについて、注意を述べておきたいと思います。
 世人は往々祖先の栄誉を自慢し、またはその賤しかったのを恥ずるような傾きがないではありません。そのはなはだしいのになりますと、他人の祖先の賤しきをみて、これをあなどろうとするものすらないではありません。しかしこれは少くとも今日においては、きわめて間違った考えだと言わねばなりません。なるほど旧幕時代のように、すべてが祖先のままに世襲せられた時代ならば、それもやむをえなかったでしょう。あるいはその祖先の栄誉を傷つけざらんがために、それによって自重の料となすというのならば、それもまたよいでありましょう。しかし祖先の身分の賤しかったということが、今日においてはすこしもその子孫をして、卑下せしめる理由とはなりません。もし私をして忌憚なく言わしめるなら、父祖のお蔭で自分の実力以上に、社会的に栄誉の地位を得ているものよりも、もと賤しい家から出て、自分の努力によってその栄誉をちえたものの方が、いくら尊いかわからないのであります。繰り返していう、祖先の歴史は決してその子孫にわずらいをなすべきものではない。現に今日の華士族達の中において、朝敵謀反人、切取強盗、海賊の張本等の子孫が、よしや少からず存在するとしても、また猿楽役者の祖先が、かつては非人と言われた唱門師しょうもんじ支配のもとにおったという履歴を有していても、それが幾分でもその子孫にわずらいをなしているでありましょうか。否、某伯爵家の如きは、その祖先が謀反人であったということを意識したがために、そのつぐないとして維新の際特に王事につくし、小藩ながら伯爵をちえたのだとの説をも聞いております。はたしてそれが事実であるか否かは知りませぬが、祖先の落伍を転用して、かえって奮発の動機となすことができたらかえって幸いです。かの山崎闇斎が、自分が貧家に生れたことをもって幸福だと解した意気は、大いに学ぶべきものであります。
 ここに先祖のことを述べたについて、ついでながら一言つけ加えておきたいことがあります。私がかつてある所で部落の歴史を講話した際に、聴衆の一人はきわめて真摯まじめにこんなことを問いました。「御講話によってよくその由来や実情を諒解することができました。これを差別するの不合理なること、はなはだしい罪悪なることをもよく諒解することができました。しかしその道理は道理として、実際問題としては、この人達は先祖が屠殺業を行っていたがために、自然残忍性を遺伝しているというではありませんか。事実そうならばそれと隔意なく相親しみ、特にこれを家庭の人とすることなどは、考えなければなりますまい」というのです。それに対して私はこう答えました。「現に屠殺を職とするものは、あるいは物の生命に対する感じが幾分違うかもしれません。しかしはたしてそれが子孫に遺伝するか否かはまだ学術的には研究されていません。ただし、人を斬ること大根をでも切るが如く、多数の同胞の首級をあげえたのを手柄として、高い地位をちえた武士、わずかばかりの遺恨によって、容易に相手の命を取った武士、わずかばかりの無礼を咎めて、容易に百姓町人を斬り捨てた武士、人を斬るのが恐ろしくては戦場に立てぬと、無辜むこの人を辻斬りして、胆力を養うの必要をまで感じた武士、その武士の子孫が、残忍性遺伝の問題によって、縁組から嫌われたことがありましたでしょうか。獣をほふることの代りに、人間の子をおろしたり圧殺したりして平気でいたものと、獣はこれを屠っても、堕胎間引きの罪を犯すに忍びなかったものと、残忍性の遺伝の分量はどんなものでしょう。これはもちろん一場の戯言じょうだんにすぎませんが、少くとも私の親しく接したいわゆる部落の人々には、個人的にそう残忍性を帯びたというものを認めておりません。その代りに私は関東大震火災の直後において、興奮と群集心理とによる人間の残忍性の、いかに猛烈なものであるかを現実に見せつけられました」と答えたことでありました。
(融和資料第一輯『融和促進』(財)中央融和事業協会、一九二六年一月)





底本:「差別の根源を考える」河出書房新社
   2008(平成20)年9月30日初版発行
底本の親本:「融和資料第一輯」中央融和事業協会
   1926(大正15)年1月号
初出:「融和資料第一輯」中央融和事業協会
   1926(大正15)年1月
※編集部の注は省きました。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
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