鬼無菊

北村四海




 信州しんしゅう戸隠とがくし山麓なる鬼無村きなしむらという僻村へきそんは、避暑地として中々なかなか土地ところである、自分は数年ぜんの夏のこと脚気かっけめ、保養がてらに、数週間、此地ここ逗留とうりゅうしていた事があった。
 ある日の事、自分は昼飯をべてのち、あまりの徒然とぜんに、慰み半分、今も盛りと庭に咲乱さきみだれている赤い夏菊を二三手折たおって来て、床の間の花瓶にけてみた、やがてそれなりに自分はふらりと宿屋を出て、山の方へ散歩に行ったのである、二時間ばかりして宿屋へ帰った、ぐ自分の部屋へ入ると私は驚いた、先刻さっきけたばかりの夏菊が最早もうしおれていたのだ、一体いったい夏菊という花は、そう中々なかなかしおれるものでない、それが、ものの二時間もあいだにかかる有様ありさまとなったので、私も何だか一種いやな心持こころもちがして、その日はそれなり何処どこへも出ずすごした、しかしさいわいと何事も無く翌日になったが、昨日きのうの事がなんだか気にかかるので、矢張やはり終日家居いえいして暮したが、その日も別段変事もおこらなかった、すると、その翌日丁度ちょうど三日目の朝、突然私の実家から手紙で、従兄いとこが死んだことを知らして来た、書中しょちゅうにある死んだ日や刻限が、恰度ちょうど私がけた夏菊のしおれた時に符合するので、いまだに自分は不思議の感にえぬのである。





底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
   2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
   1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月22日作成
2008年10月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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