乘用車發表に際して

――豐田常務のメツセージ――

豊田喜一郎




 トヨダ乘用車の發表は既に五月頃から屡々噂に上り各方面から非常な期待を以て觀られてゐたがその後愛知縣刈谷の同工場ではボデーの製作を順調に進め先月[六月]中旬新組立工場完成移轉を機として愈々生産能力も擴充された。又一方乘用車發表遲延の一因とされてゐたボデー用大型鐵板もこの程多量に輸入を了したので愈々[八月]十五日を期して先づ名古屋に於て乘用車發表を行ふことに決定した。なほ東京、大阪兩地の發表は大體九月早々となる模樣である。
 乘用車發表に際し豐田常務は左の如く語つた。

 トヨダ乘用車に對しては各方面から非常な御期待を賜つて居りました處發表がかくも遲れた事は申譯ない次第であります。
 扨愈々十五日を期して先づ名古屋で發表する事に致しましたが東京、大阪等各地は九月早々行ひたいと思つて居ます。今の豫定では九月一日に發表の日を選びたいと思つてゐます。宛も三年前の此の日私は縁戚關係に當る故園田男爵の法要があつて東京會館に於て私の方の社長とも同席したが此の時始めて社長に多年の抱負であつた自動車製造事業の計畫を打明け賛同を得たのでありました。かゝる次第で九月一日は謂はゞトヨダ自動車の誕生日ともいふ日に相當するわけで是非この日に發表したいと思つてゐます。
 更に考へますと同日は彼の關東大震災記念日でもあり國民一般が嚴肅な氣分に浸る日でもあるのでこの機に於て我國最初の經濟大衆車を大市場に送る事も何等かの意味ある事と思つてゐます。

率先輸入して流線型を研究――常務の回顧談


 乘用車の型の選定は自動車製造會社として最も愼重に考へなくてはならない事であり之は理窟のみでは決定する譯に行かず、美術的方面からも考へ、又世間の潮流にも從つて行かねばならぬ點もある。例へば米國に於ては型の選定如何が非常に其の年の車の賣行に影響する。一度モデルの選定を誤らんか自動車會社として破産の憂目さへ見る場合すらあると云はれている。
 或外人は之をスペキユレーシヨンとまで極言して居るのでも、型の選定と云ふものは六ヶ敷いと云ふことは明らかである。スペキユレーシヨンと片着けてしまふのも何うかと思ふが兎に角夫程型の選定といふものは六ツ敷しいといふ事は明らかである。
 アメリカ邊の實例を見ても一つの型を選定し、夫が實際に作られる迄には二年や三年はかゝるらしい。詰り世間の潮流がそれだけ先に行つて何う變化するかといふ樣な事まで豫想して掛らねばならぬ。
 先づ私が型の選定にかゝつた昭和八年中頃は所謂三三年型時代で、從來のものより大分丸味を帶びて來た。多年頑張つてゐたフオードも流石に流行には敵し難く、之亦相當丸味がかつた型を賣り出した。此の事情を見ると型は丸味を帶び來るといふ事だけは明らかになつたが、それから後如何樣に變化するかといふ事は疑問であつた。
 然るに丁度その頃アメリカではフローラインとかストリームラインとか云ふ新型がボツ/\出始め、それが將來を支配するのではなからうかといふ噂が傳はつて來たので是非それを見度いと思つてゐる所へ昭和九年の二月だつたか始めて之が輸入された。

賛否兩論の對立


 そこで早速ストリームラインの研究に着手し、一方色々の人々に之に對する意見を聽いてみた。それを分類すると次の樣になつた。
一、國粹的反對論
一、流線型尚早論
一、米國型禁止論
 大體以上の通り各人各樣の意見が出たが、その中に
 同じ造るなら最も新しい型を設計せよ。之が完成する頃は丁度日本の傾向が之と合致する。
 といふ徹底的賛成論もあつた。こんな風に賛否兩論相交錯するので私も大いに迷ひ、結局思ひ當つた事は實物を示して巷の批評を直接に聞くことであつた。かくて私自ら彼の流線型車なる物を買ひ求め東京市中を所嫌はず乘廻し其處此處に車を停めて行人の言に耳を聳てた。
 素人のみか自動車に相當經驗を有する人の八、九割までが流線型採用に反對を唱へたのである。今から思へばむしろ滑稽な位な感じがする。
 今度は手を換へて流線型車の畫と從來の型の車の畫を示して「さあどちらが自動車らしい?」と云ふ質問に對して半數以上は「それは流線型が良い」といふ答えを得た之に依つてやゝ自信を恢復したものの要するに如何なる型を選ぶ可きかと突詰めて考へてみると前述の如き事情では何れを採る可きか全々方針がつかなくなつて了つた。しかし自分としては何うも流線型が良い樣に思へてならない。
 此處に於て研究を一層深めるべく車の分解に着手した。
 先づフレームの構造を見るとフレーム・コンストラクシヨンは力學的に確かに流線型の方が優つてゐる。即ち新型式を採用する事は何等流行を追ふものに非ずして、より進歩したフレームコンストラクシヨンを使用する事である。
 私は美術的方面の考慮は暫く除外して、純科學的な公平な立場に於て將來の自動車のモデルは流線型を採用せねばならぬと獨り決心した。しかし餘り突飛なものを造る事は出來ないとも考へられるので最後の斷案を下す前に一應母親に相談すると
「何れでも好きな方を選ぶがよい。しかし新しい物を賣出す時は何か特徴のある物を選んだ方が賣り易いものだ」と言はれた。この一言で私は斷然流線型を選ぶ事に決意した。
 この型は前記特色の他に空氣抵抗の少い事、塵埃を後方に捲起す程度が少い事等の長所が續々と擧げられる。又一方に於ては之に對する非難も全然無い譯ではない。然し要するに之等の非難は新型へ移行しやうとする際には如何なる場合でも多少は免れない所である。私の工場ではどしどし設計と製作を進捗させた。
 その内に「流線型」といふ言葉は非常な勢で流行語化し、何でも走る物は流線型でなくてはならぬ樣になり、又その方が速く走る樣な感じを一般に懷かせる樣になつた。從つて自動車に就ても流線型は最早常識の世界の物となつて來た。
 さて斯樣にして流線型時代を迎へたものゝ、凡そ同じ流線型にしても色々のヴアラエテイがあるものであり、又之等から受ける美的感情は各人の知識、經驗、教養等によつて相當に異り一以つて萬に通ずるものはなく、よつてこの美的方面には餘り神經を使はない事にし、むしろ我國の諸條件に鑑み第一に實用的にして堅牢なもの、第二に一日も早く市場に出す事を根本方針にした。之に基いて完成を急ぐ間にもいつしか半年は過ぎ此の間外國人の手を借りやうと思はぬでもなかつたが、幸に我等の手で造り上げる事に成功した。
 今にして思へば國産車たる以上日本人だけの手で完成するのが當然だとも評されやうがこれまでには隨分苦勞したものである。
 私は前に型の美術的方面は第二議的に考へると述べたが勿論此の方面を無視するものではなく、むしろ大衆向のものを製作する事を常に考慮して居るのであつて、一般世間の潮流にも或る程度に順應し且つ一年なり二年なり之をリードしたものを考へて行く事を方針としてゐる。斯樣な次第で所謂大衆車としては外國車より一歩進んだ型を選定してゐると思つてゐる。
 固より私は以上を以て安閑たるものではなく引續き型の研究を行つて居るのであるがさて今後如何なる方面に進む可きか、惟ふにこれからは大いに日本人獨特の考へを取入れ、より東洋向な、より高尚な趣味を表現したいと考へてゐる。
 それには我々の工場内部のみの意見では不充分であり、廣く各方面の意向を徴して型を決定すべきであると思ふ。





底本:「豊田喜一郎文書集成」名古屋大学出版会
   1999(平成11)年4月15日初版第1刷発行
初出:「トヨダニュース 第四号」
   1936(昭和11)年7月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「六ヶ敷い」と「六ツ敷しい」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:塚本由紀
2015年5月8日作成
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