トヨタ自動車一周年を迎へて

豊田喜一郎




 昨年[一九三五年]十一月二十一日にトヨタ自動車が始めて形となつて皆樣の前に表はれたのでございますが、當時、私はノツピキならぬ用事のため、滿洲に旅行して居りました。廿一日東京より長文の電報を受取つた時は實に感慨無量でありました。
 それから既に一年の星霜を過した今日、再び同じ樣な感に打たれる次第です。
 トヨタ自動車が漸く市場に顏を見せる樣になりました。此の自動車が今日茲までになるには一技師の單なる道樂では出來ません。幾多の人々の苦心研究と各方面の智識の集合と長年月に亘る努力と幾多の失敗から生れ出たのであります。
 日本で果して大衆車が出來るであらうか? 三年前の多くの人々は殆んど不可能であると考へて居ました。殊に自動車方面に經驗のある方々は痛切にそれを考へて居られました。私は自動車には全く無經驗でありますが、父在世時代から何時か自動車製造をやつて見たいと思つて紡織機の製造も實は其の段取りの一部分位に考へて居ましたので、エンヂンの設計や研究には早くから着手して居りました。昭和八年大體の準備が出來ましたので震災十周年記念の九月一日を期して愈々正式に會社として自動車製作に着手する事になりました。
 多くの人々は如何に其無謀であるかを蔭ながら噂して居られました。或る人は直接私に注意して呉れました。自動車工業の如何に難事業であるかと云ふ事も聞かされました。然しこの事は數年前より充分に聞知して居る事であり、其れが爲め今までの下準備に骨を折つて來たので、豐田自動織機製作所の現在の力を以つてすれば必ずしも不可能な事ではあるまいと確信しました。嘗て紡績機械は外國品萬能で内地品を見むきもしなかつたものを、此の數年間に全く輸入を止め内地品を尊敬し内地品萬能の時代に至らしめたと同じ經驗を繰返す事に依つて自動車工業は必ず成り立つものと思ひました。
 こゝに思ひ掛けない自動車工業法案が出來ましたので國家に對する義務が生じて來ました。いやでも應でも早く營業化される樣努力しなくてはならなくなつてきました。
 愈々自動車製造に着手すると正式に決定してから三年間一體何をして居たか、昨年十一月二十一日東京芝浦自動車ホテルで發表するまで一臺も製作出來なかったのです。然も何百人と云ふ人が遊んで居たわけではありません。一體何を作つて居たか? 自動車製造の準備をして居たのであります。
 三十年も四十年も掛つて現在にまでなつた外國車の假令模造であらうとも、下準備に四年や五年掛るのは當然です。三年間では未だ完全な準備は出來るものではありません。然し漸く車が出來る丈けになりました。





底本:「豊田喜一郎文書集成」名古屋大学出版会
   1999(平成11)年4月15日初版第1刷発行
初出:「トヨタニュース 第十号」
   1936(昭和11)年11月21日
[一九三五年]は、底本編集者による加筆です。
入力:sogo
校正:塚本由紀
2015年3月8日作成
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