黒部川奥の山旅

木暮理太郎




片貝谷まで


大正四年七月二十四日午後七時三十分、汽車にて上野発。翌朝九時二十分、魚津着。少許すこしばかりの準備と昼食の後十一時三十分、出立。暑さ甚し。途中屡々しばしば休憩して、午後二時三十分、前平沢。此処ここにて人夫一人を雇いつ米をあがなわんとして空しく二時間半を費やし、五時、漸く出発。奥平沢を過ぎて、六時片貝川の沿岸砂地に野営。

 日本晴れのした朝の日本海は、山へ急ぐ私達の身にも快よかった。
 昨夜は汽車の中で、同行の南日なんにち君と赤羽から一緒に乗り込んだ越後女の一隊が、終夜声自慢の謡を歌うやら笑うやら巫山戯ふざけるやら、一方ならぬ騒々しさで、夜風の涼しいにもかかわらず、少しも眠ることが出来なかった。
 宵に上野を立った時は、十三夜の月が薄靄うすもやめた野面を隈なく照らして、様ざまの声をした虫の音が、明け放した窓からはやてのように耳を掠めて過ぎ去るのをうつつともなく聞きながら、ゆったりした気持ちで窓にり掛っていたのであるが、高崎あたりまで来ると、いつの間にかすっかり曇って、見覚えのある丘の頂さえ何処と指せぬ程に、低い雲が立ち迷うている。明日の天気がすぐ気に懸るという程でもないが、多少の不安が無いでもない。軽井沢では、冷たい霧が幽霊の如くすうと窓から這入り込んで、ひやりと顔を撫でた。しかし雨は降らなかったらしい。牟礼柏原の間で夜が明け初める。上州方面の山々は、淡い樺色に染まった高い巻雲層の下に、動くともなくたむろしている幾重の乱雲に包まれて、四阿あずまや山であったろう、長い頂上を顛覆てんぷくした大船のように雲の波の上にちらと見せたが、すぐた沈んでしまった。左手は間近い飯縄いいづなの原の瑞々しい緑が、引汐時の干潟のように刻々に展開して、花野の露にあこがれる大きな蝶のような白い雲の塊が、軽い南東の風に吹かれて、草の葉末とすれすれにふわりと原の上を飛んで行く。この白い雲の塊は飯縄山から戸隠山の方面へかけて、押し重なってぴったりと山の膚へ吸い付いたまま少しも先へ動かない。まるで何か知らん目には見えないが、其処そこに恐ろしい或者が立ちはだかっていて、雲はその前に懾伏しょうふくして、進むことも退くことも出来ないもののようである。飯縄山のすぐ北にならんでいる黒姫山の蒼翠は、このおそれ入った雲の群集を他所よそにして、空の色と共に目もさむるばかり鮮かであった。
 表日本の空を支配する太平洋の勢力は、此処らあたりを境として、最早もはや日本海の勢力範囲に侵入することは、絶対に不可能なのであろう。少なくとも今日はそうでなければならない。うして関東平原から私達を追跡して来た雲の脚は、此処で挫けた。私は例えば引かれぬ意地で人を斬って家中を立ち退いた士が、危く他領へ逃げ込んでホット一息しつつ、恐ろしい追手の姿を見送るにも似た心もちで、東の空を眺めていた目を晴れた北の空に向けた。
 冬の間日本海は、殊に多量の雪を日本北アルプスに与えて、自ら象嵌し、蝕鏤し、彫刻する材料たらしめる。私達は夏が来るまで親しく其装飾された山谷の模様をき自由を欠いているが、山は其間にこの豊富な材料の幾割かを費消して、象嵌す可きは象嵌し、はたそれぞれ蝕鏤し彫刻して、期待された使命を果たすばかりに止まらないで、更にまた幽壑ゆうがくには飛橋を渡し、絶崖には長梯を架して、驚異し嘆美し、そして自己を満足させようとする山岳宗徒に、惜しいことではあるが日本南アルプスでは容易に見ることの出来ない雪の宝殿を公開するのである。
 抵抗し難い北侵の力――私はそれを呪いながらも、一面に於てその御蔭おかげを蒙っていることを否む訳にはいかない――から絶えず圧迫を受けながらも、あたう限りの保護と愛惜とを加えて居るこの雪の宝殿が、今や其夏が来て巡礼の途に上りつつある私達の目の前で、南方の侵入者に勝手に引掻きわされることは、よしやそれが柔かな白い雲の手であるにしろ、わが日本海の堪え能わざる所であるに相違あるまい。私は北の空を眺めて、高田平野の果てを限る松並木越しに、漂渺ひょうびょうたる日本海が晴れた穏かな暁の色を浮べているのを見て、斯う思った。
 振りえると、妙高続き火打焼山に至る連嶺には、早や旭の光が薔薇色に燃えて、赭色の山膚にちりばめられた雪に宝玉の匂が加わった。かなかな蝉の涼しい声が遠くで聞える。
「ねえ君、大分白いね。あんなに雪の残っていることはそうあるまい」
 岡田式静坐法の姿勢を崩さないで、哲学者然と構え込んでいた南日君も、堪らなくなったと見えて、鹿爪しかつめらしい顔を窓の外へ出しながら、斯う言って仔細らしく首を捻った。
 汽車が高田の町に近付いて、後ろに遠ざかり行く此等の山の姿が、の如く飛び交う端山の裾に織り込まれてしまう迄、私達は幾度か窓の外を眺めて、幾度か同じような言葉を繰り返した。
 夏とはいいながら、朝凪ぎの日本海は誠に穏かである。波打際に波も立たない程であるから、白い波頭などは何処にも見られない。私達の山に囚われた心も暫く解放されて、広々した海面をあてもなく見渡しながら、黒人らしい人の指さす魚の群だという波のさざめきを眺めて、其講釈を聞きなどした。それでも好い頃合には、頭の上にのし懸っている左手の崖が、不意に鰐の口のようにカッと開いて[#「開いて」は底本では「聞いて」]、白い雪の山が吐き出される。何処であったか忘れたが、白馬も見えた。ずっと南の唐松五竜あたりであろう、尖った峰も二つばかり見えた。とまりに来ると、左手の屏風が急に畳まれて、そうヶ岳や駒ヶ岳の重なり合って大きくわだかまっている後ろから、劒ヶ岳の一部が大鋸の歯で空を引割っている。明日は中村君が此処から鐘釣かねつり温泉へ向う筈である。南日君は南日君で、暢気な男だから長次郎が旨く来ていてれればいいがと、自分の暢気は荷物と一緒に棚に上げて、頻りにそれを心配している。私達は今度の旅行の困難をおもんばかって、なまじ案内者などは雇わず、前もって大山村の宇治長次郎に、気の合った者を一人連れて、二十五日の朝九時迄に間違まちがいなく魚津の停車場に来ていてくれと、折り返して頼んで置いた。承知したという返事も二度来て居るが、南日君の心配するのも尤もな訳がある。しかし汽車が魚津に着いて、荷物を下ろしながら外を見た時、真先に眼に入ったものは、今迄噂していた長次郎のニコニコした顔であった。同行の南日実君も既に来ていた。停車場を出ると、の高い男がのそりと来て挨拶する。それが長次郎の義兄だという宮本金作であった。長次郎は今度の山登りが楽しみで、二十五日の来るのを待っていたと、如何にも嬉しそうである。これで南日君の心配も尤もでなくなってしまった。
 今日は片貝谷を上って、東又南又の合流点附近で野宿する予定であるから、少し早いが此処で昼食を済し、わずかばかりの買物をして町を離れた。
 ごろた石の敷かれたまっすぐな道が、何処までも私達を引張って行く。木蔭が少ない上に風が無いので堪らなく暑い。道坂まで行くと素的すてきに冷い水が湧いているというので、南日君は長い脛を飛ばして、サッサと先へ行ってしまう。町を出た時は右に見えていた毛勝けかち山が、いつか道の正面に立ち直って、Y字形をした大雪渓が、絶頂から僧ヶ岳の右に曳いた尾根の上まで続く。その左の雪渓の半頃へ直ぐ上の尾根から押し出した凄まじい赭岩の大崩落が、山の心臓から搾り出された黒血のように雪渓の中央を流れている。阿部木谷の源であろう。白い雲の塊が後ろから肩をすべって此方の谷を覗きに来るが、嘘のように何処へか吸い込まれてしまう、尾根続きの大明神だという尖った山から、なだらかな線が右の方へ長く延びて、いかめしい劒岳がドッカと腰を据えている。大日岳の連嶺にはいつもながら雪が多い。劒と大日との間から別山べっさんが、不思議の世界でも覗くように脊伸せのびして、魚津の海を瞰下みおろしている。早乙女岳から右は、午下ひるさがりの太陽に照された幾重の雲の峰が一様に平かな底を見せて、果てもなく続く。目立って蒼黒い鍬崎山は、雲の水平線より下に沈んで、大きな暗礁のようだ。遠い雲間に白山の雪が、江戸の将軍に献上したという百万石の殿様の豪奢を想わせた。
 道坂に着くと橋のたもとで実君が休んでいる。南日君はと見れば、炎天の大道端に茣蓙ござを敷いてすまし込んでいた。湧いている筈の清水が無いというのでガッカリしたが、仕方がないと諦めて河の水で間に合せた。下村で麦湯を馳走になりながら、おくれた長次郎と金作の来るのを待って、米を買い入れる相談をすると、長次郎が「まだ先にいくらもあるっちゃ」というので、買わずに出懸る。谷が急に迫って日影が多くなった、行手からは涼しい風が時折吹いて来るので、大きに凌ぎよい。右手に水力発電所がある。奥平沢から片貝川の水を引き入れて、此処で落差百尺の水力を利用するのだそうな。前平沢の人家がほおの木やとちの木の間にまばらに見える。田なども少しはあるが、如何にも寒村である。此処で是非とも米や味噌を買わなければならぬし、人夫も一人雇わなければならないので、性の失せた木札に物品販売所の文字も怪しい路傍の家に寄り込んで相談を始めた。味噌は丁度この家にあった。人夫も折よく居合せた沢崎源次郎という若い者が行くことになった。これで味噌と源次郎はきまった訳だが、一斗五升の米が無いのに閉口した。長次郎と金作が直ぐ裏の路を上って、たしかに有るという家を尋ね合せたが、間もなく悄気しょげて帰って来た。今度は仕度して来た源次郎が一緒になって、対岸の東蔵や山女まで探したが、矢張やはり駄目だ。南日君の渡した五円札は、手に握ったまま同じ路を幾度往ったり来たりしても、天勝の手品と違って米にならない。
 私は局外者の位置に立って其処らをあるき廻っていた。この仕末がどう付くかと不安のようでもあり、多少の興味もあった。一軒の家に一斗五升なくても、三軒で五升ずつ買えばいいという南日君の声が聞える。遠くで一しきり鳴き渡っていた日ぐらしが近い木で鳴き初めた。後の山から引いてあるかけひの水が小さい瀑になって落ちている下で、素裸の子供が二人で水遊びをしている。蟹の子が石の間からちょろちょろ出て来てまた引込む。青紫蘇あおじその繁った庭の隅に、ポンポンダリヤの赤い花が、一きわ珍らしく目に映った。日は容赦なくどんどん落ちて行く。河狩りの人達が長い柄の付いた銛や網などを担いで向うからやって来た。ますが獲れるのだそうだ。今日汽車で渡った片貝川の本流は、白い石の河原のみで一滴の水も無かったのに、不思議なことだと聞いて見れば、五月雪しろ水の出た時に海から上り込むのだという。鋭い※(「刔のへん+鳥」、第4水準2-94-4)もずの鳴声が晴れた空に快く響く。
 南日君まで出懸けて行って相談に加わった。長いこと橋向うで立話しをして、四人一緒に帰って来た。私達の手許にはさいわいに実君が持って来た五升の米がある、今夜の野宿に差支はない、それで今から一斗五升の米をかして、明日早朝に源次郎がそれを背負って追い付く手筈に事は決ったのだ。二時間余りを費した大詰の幕としては、余り見栄えもしないが、これまでに漕ぎ付けた役者の骨折は、傍で見ている程暢気なものでは無かったに相違ない。
 五、六戸の家が淋しげにかたまっている奥平沢の村を通り抜けて、十町足らず行くと、田が尽きて畑ともつかない砂地の所どころに、小豆や粟などが蒔き散してある草原に出た。元は河原であったものが、河が東に移った為に島のような形になって、島尻に十坪程細かい砂を平に敷きならした所がある、其処に天幕を張って泊ることにした。金作が河原から流れ木を集めてうんと背負って来る、火が燃え始めると、体に着いた一切の邪魔物をかなぐり捨てて、いきなり河に飛び込む、水は思ったより冷くない。首まで浸ってじっとしていると、体の表面からぎらぎらした油汗の固りが、蝶の鱗粉のように浮いて流れて行く。谷の日はしずかに暮れて、水烟の薄くめた河上の遠い連嶺の上に、奥大日の絶頂だけが入日に照されて、一きわ鮮やかに雪の姿を見せていた。人声がしたと思ったら、やがて夕暗の中からどやどやと五、六人の影が現れた、鱒狩りの連中で、獲物も二、三尾あったらしい。煙草の火をけながら、飯を炊いていた長次郎と話をして別れて行った。七、八町の河上にいい小屋があると教えられたけれども、今更どうなるものでもなかった。里近いだけにぶよの多いのには困ったが、あたりの草を薙ぎ倒して風上から火を放ったので、少し落ち着いて食事が済せた。しかし俗に塩辛とかいう小さな糠蚊は、手といわず足といわず、髪の毛の中までもぐり込んで、ちくちく刺すので一晩中弱らされた。
 十四日のまるい月影が天幕にさす頃は、片貝谷は一面に光の薄絹に包まれて、現と夢とをつなぐ美しい世界と化してしまった。

南又を遡る


七月二十六日。午前六時二十分、片貝谷の野営地出発。七時十分、オノマ(東又南又合流点)。南又に入る。八時二十分、岩屋の大小屋。初めて残雪を見る。九時十分、坂様谷。これより四、五町にして路尽き、河床を辿る。十一時、左岸に少許すこしばかりの平地を見る。昼食。午後十二時十分出発。十二時四十五分、右岸に頗る多量の残雪あり。一時、猫又谷釜谷追分。釜谷に入る。二時五分、雪渓に達す。二時三十分、雪渓尽きて三段の瀑布となる。左岸の崖頭を横にからみて一時間の後之を通過し、三時三十分、再び雪渓。四時五十分、雪尽きて渓二分す。左を登りしも水なきをもって、更に右渓を探りて水を得。偃松はいまつ現わる。五時三十分、山の中腹急峻なる草原の斜面に露営。

 暁近く河瀬の音に目が覚めた。仄白ほのじろい朝の光が天幕の中に吊してある小田原提灯をぼんやり映し出す。昨夜は暑かったので、掛けていた毛布もいつの間にか足もとに丸められてあった。外へ出て其処そこらを見廻しながら立っていると、まだ夜の気の彷徨さまようている谷の向う河岸や此方の林の中で、青蜩ひぐらしとおるような声で鳴き初めた。夕暮にこの蝉が鳴くと、妙に寂しい落ち着かない気分に誘い込まれるが、明方であると軽快な調子がにわか雨のそそぐように賑かだ。しっとりした朝の空気までが共鳴せずにはいられないように一斉にざわめく気配がする。爽かな風が河上から撫でるように吹いて来て、ものうねむりから草木を醒して行く。頬白ほおじろが鳴き出した。消え残りの火に薪を添えて顔を洗っていると、金作が米を入れた鍋を持って河原に下りながら、あかね色に染った東の空を仰いで、「旦那、今日もいいお天気だぞ」と声を懸ける。さっぱりした気持になって立ち上ると、鋭い銀色の光りがぎらりと目を射た、言う迄もなくそれはこの谷唯一の白いもの――奥大日の額を飾る尊い雪の光であった。
 朝飯の最中に源次郎が米を背負ってやって来た。こんな時にはきまって散ざん人を焦らした揚句どうも遅くなって……位のことで胡魔化すのが普通である、今朝も誰か迎えをることになるのではないかと懸念していた。それが案外だったので、暫くは不思議なことのように思われた。また蚋が寄って困った。手早く荷を纏めて此処ここを出懸る。阿部木谷を登ろうか、それとも南又に入ろうかとは、東京を立つ時から問題になっていた。阿部木谷は先年南日君の登った路である。平沢で聞くと南又もなり奥まで炭焼が這入っていることだけは分ったが、それから先の様子が知れないので今朝になっても、どの路を取るか未だはっきりと決った訳ではなかった。それでいて誰もそんなことは気にも懸けないといった風にサッサと歩き出す。だ山へ山へ。それが今の私達を支配する強い力であった。
 島の中の砂路は三、四町続いた。河が右に岐れる所から二、三十歩西へ退って、茅葺の低い小さな家が四、五軒マッチ箱を並べたように立っている。緑の葉を拡げた中から目立って強い黄色の花を抽き上げた南瓜かぼちゃ棚の端に赤い布なども干してあった。島を離れると一段高い木地屋だ。細い路が植林した杉の若木の間を蛇の如くうねって行く。原はそう広くはないが長さは五、六町ある。元は此処に人家があって、塗物の木地を造っていたのだそうだ。自然を虐待して自然から虐待された山人の生活の頼りなさが想われる。杉は未だ枝を交す程に伸びていない。下草のすすきかやが思う存分に繁り合って、無遠慮に蔽い被さって来る。大きな岩の鼻を廻ると其蔭に、五、六人の若い娘達が草を刈っていた。私達の近付く跫音あしおとを村の衆位に思っていたのであろう、何気なくこっちを見ておどろいたように鎌の手を休める。路はだらだらと下りて河原に出た。藤蔓でからげた丸木橋が岩から岩へ渡してある。鴨緑おうりょくを溶かした水が其下を泡立って流れて行く。両岸が露わな為に、上流に見るような凄味に乏しいのは物足らないが瀬の音は高かった。河原を上って今度はドスマという所にかかる。同じ様な山裾の平地で、檜の苗が植えてある。上の方の高みに荒れ果てた焼畑の跡らしい四角な段も幾つか見えた。対岸は此処よりも広い杉の植林地で、もう立派な林になっている。時鳥ほととぎすが僧ヶ岳続きの尾根から谷の空を横切って頻りに鳴く。
 東又南又の合流点は、河床が一段低いので知らずに通り過ぎ、丸木橋で東又を渡ってオノマに出た。此処は毛勝続きの大明神から西北に延びた山の鼻が叩き潰されたようにガックリ平たくなって、大きな花崗片麻岩がここ其処に突立っている細長い原だ。檜の苗がわらびぜんまいの繁った中に無造作に植えてある。橋の上から水上の方を覗いて見たが、狭い谷は左から出た山の裾に大きく遮ぎられて奥は目に入らない。朝日の光が堰き止められていた水のように尾根の低い処を越してサッと流れて来た。それを避けるようにして岩の上に腰を下ろす。みどりの濃い渓の空気が山の影を宿して、其処に面白い明暗の対照があった。
 今迄辿って来た足もとの細い路は、五、六歩の先で二に岐れている、其処に紫の花を持った松虫草まつむしそうが道しるべのように立っていた。左は東又から阿部木谷に通ずるもので、原を横さまに直ぐ夏草の茂みへするすると隠れてしまう。昔鐘釣温泉へ通ったという路は此の東又を上り切って、小黒部の北の谷に下り込んだものか、或は尾根をからんで直接に温泉附近へ出たものか、判然しない。しかし古い地図を見ると直接に温泉へ出るように道が記してある。此谷と黒部方面とを連絡することは大した困難でもなさそうだ。右は左よりも人通りの多い所為せいか、よく蹈まれた路が歯をむき出した岩の間を縫って、糸のように南へ走っている。右手の中新川を限る山脈からは、小さな支脈が幾つか章魚たこの足のように伸びて、突きあたりの緑の地に黒い針葉樹の裾模様を着た山を抱えるように其へ廻っている。其あたりから谷間の翠は一段と濃さを増して、南又の奥は深い湖の底を覗くように思われた。
 私達の心は知らぬ間にそっちの方へ引き込まれていた。
 鱗雲が滲み出したように青い空に浮ぶ、これが始まりで今日は色々の鱗雲が現れた。最初は浅瀬を上る若鮎の群が揃って腹をかえしたように、輪廓のはっきりした色の白い、夫も絹光沢を帯びたものが多かった、夫れが昼頃には蚕が作り並べた綿ぼうしのように縁のぼやけたものと変って、ついには大きな鰐の背皮を見るような灰色やドス黒い色をしたのが次第に増して来る積雲の間から望まれるようになった、其頃からして空模様が大分怪しくなり初めたのである。
 話が雲へ移って思わず飛び過ぎてしまった、私達も調子に乗ってドンドン南又に入って行った。原が尽きるとまた丸木橋で川を渡って、右から押し出した水の無い石の河原を横切る。突き当りの危く切り立った山の鼻の下で路が消えている、立て掛けた丸太を足懸りにして木の根につかまりながら攀じ上ると、崖の上に出た。脚の下の深い谷底では、真青なとろが幾筋かの太い水脈をり合せ綯り戻して、渦を巻きながら押し黙って流れている。岩頭から横にのり出した木の枝には魚狗かわせみが一羽、じっと斜に構えて動きそうにもなかったが、突然弦を離れた翡翠ひすいの矢のように、水を掠めて一文字に飛んで行った。
 暫く雑木の繁った岨路が続いて、こぼれ懸る露にしとどれながら又川を渡ると、左手から小沢が落ち合って少し許の平地に、茅を束ねた一方口の小さな小屋が古代の穴居人の跡のように十五、六かたまっている。炭の中継場であろう。源次郎に聞くとシャンゴロだと教えた、何の事やら薩張さっぱり分らない、南日君が三五郎だと説明してれる。草間を押し分けて河原に下ると、大虎杖おおいたどりの叢が一斉にひろい葉を拡げて、強烈な日光を浴びながら懶そうに首垂れている。葉の裏からは鮮かな緑が黄金色に溶けて、私達の体にも真白な砂地にも音もなく沁み込む。この大虎杖の叢は北アルプス北部の渓間に特有の景象で、南アルプスの渓を埋むる深い森林とは、また異った快感を私達に与えるものである。
 また平に出た、南又のながれが置き残した段階の一である。大きな作畑小屋が河に臨んで立っている、岩屋の大小屋というのだそうだ。前へ廻ると、二、三挺の鍬が入口の柱に立掛けてあって、戸は開いているが中を覗いても人気はない。左にだらだら坂を上ると段々畑が現れて、鍬の柄にもたれながらこっちを見ている人達の姿が目に入る、これは其処へ通う路であった。源次郎に呼び戻されて小屋の前を右に下ると、二間とはない河床に乱れ立つ岩の間を筋張った水が奔下している、橋は落ちて跡もない。私達三人が臆病な鷺のように片足水に入れては引込めてうろうろしている間に、長次郎は足場をはかってサッサとわたってしまった、皆其後に続く。私の目は不図ふと右手の崖下にうずたかく盛り上った異様の塊に惹き付けられた、白茶化た枯枝などが一面に掩うては居るが、疑うくもないそれは此谷初めての雪――宝殿の甍をすべり落ちた貴い珠玉の一片であった。
 直ぐ羊歯しだなどの生えた下から水を噴いてぬかり易い山腹にかかる、それも少し、また河原へ下りて虎杖の中に隠れる。ういう所には屹度きっと、恐ろしい大きな岩が掩い被さる様に平地を抱えて、四、五人は楽に泊れる好い野陣場があるものだ。二町許で河原が尽きて、私達は明るい崖の上に導かれた。暑い日がカンカン照りつけるので、止度とめどなく汗が流れる、私は先に立ってグングン急いだ。川が大きく左に曲って、行手に立ち塞る小山が左右に遠退くと、正面に幅の広い大雪渓が驚くほど近く顕われる。上の方は蒸し返えす積雲に掩われて、何処まで続いているか分らないが、正しく猫又谷に相違ない。私は背負っていた荷物を其処へ抛り出して、路の上に立ちはだかりながら思う存分に手足を伸して、雪渓から脈を打って流れて来る谷間の空気を貪り吸った。時鳥の声が聞える、後れた人達はまだ追付かない。
 崖の上の路は間もなく下りになって狭い沢に引き込まれる、仄かな水が何か呟きながら岩間を潜り抜けて行く、土倉谷だった。此辺までは鱒が上るそうである。少し爪先が仰いで山の鼻づらを川なりに辿ると、坂様谷の落ち口に来た、草や灌木の生えているや平な砂地で、伊折へえられるという路の跡が草間に取り残されてかえって淋しい。沢は中新川なかにいかわ堺の雑木山から乏しい水を搾り集めて細いながれを貢いでいる。落ち口の大きな岩の上に腰を下して、後れた人達を待ち合した、一むらの虎杖が背後からてんでに翠蓋すいがいかざして、涼しい蔭を作って呉れる。
 ここから四、五町の間は川沿いの細かい砂地を行くので、伸び放題に蔓を伸して絡み合いもつれ合いながら、太い綱を張り渡した木通あけびや海老蔓や野萄葡などが、鋭い鎌の刃先に懸けられて、気持よく左右に薙ぎ倒されている、中にも往生際の悪い奴は、玉紫陽花などに巻き添いを喰したのもあった。花がしおれていないのは、刈られてまだ間もないのであろう。虎杖やアカソも算を乱して倒れていた。藪がひどくなると河原に下りて向う側に渡る、急斜面の小高い所をならした猫の額程の平に、生々しい木の枝を組み合せた粗末な小屋が二つ、執念深い人間の生存慾を具体化したもののように立っている、シャンゴロで懲りたから何という所か聞きもしなかった。切り明けがあるので夫を頼りに崖の上を横に搦みながら二町程行くと、太い根曲り竹の藪の中に放り込まれて、後へも先へも出られなくなる、まるで八幡知らずへ入ったようだ。人の分けた跡らしいのがズッと上の方に見えるので、幾度か筋斗もんどりうって落ち込みながら、構わず登って行く、実君も同じ様にして後に続いたが、これは路でないと知って引返した時には、南日君が下から呼んでいた、向う河岸に人の通った跡のあるのが長次郎に判ったのである。又前のように砂地を行く、夫も長くはない、獣でなければ通れないような藪が直ぐ両側から水際まで押し寄せて来た、私達は自ずと河に下りて水の来る方をちょいちょい仰ぎながら、目の前の岩から岩、浅瀬から浅瀬をもとめて渉らなければならなくなった。
 谷は流石さすがに荒蕩たる有様を呈して、岩を見ても水を見ても大分上流に来たなと首肯かせる。岩の色は一様ではないが皆花崗片麻岩だ。見る限り褐色や渋色をなすりつけた黒白斑の大岩塊が、縦にそばだち横に伏して、頭上二、三尺の高さに不恰好な階段を築き上げている、私達は取りつき端もない階段の下に立って、未練らしく手足を掛けて見たりなどした、夫でも水のかんなに削られた岩の屑が堆く積って、易々と乗り越せる所もあった。谷水は谷水で、青い淵からむくむくと起ち上ると、いきなり岩に衝きあたって力任せにえぐり抜け躍り踰え、果ては脚もとの小石までもさらってドッと駆け下りさま空を切ってた淵の中に潜まる。力の籠った吐息が無数の気泡となって、大地の底から沸き上って来る。重く淀んだ谷の空気は、岩を叩き岩に叩かれる水の音に震動して、話声などはもうとうに聞えなくなった。この恣な自然の中に小さく点綴てんていされた私達の姿は、惨めなものであったに相違ない。
 岩が大きくなると水は其下を深く抉って、うっかり足を入れるとすくわれるおそれがある。こんな時に重い荷を背負って岩から岩に飛び移る長次郎の早業は驚嘆に値する。遅れがちな私達は自然獣の足跡を慕う猟夫のように、水を噴いた草鞋の痕にいて、脇目もふらず辿って行く、早月川の谷を下りた時のことが不図思い出された。
 水を渡ったり崖に喰い付いたり、同じ様なことを幾度となく繰り返して、くるぶしの痛くなった頃、右から落ち合った可なり水量のある沢を越すと、右手に少しの平地が現れた、平地というても唯山裾の傾斜が緩くなったというだけで、大小の岩塊が錯列して灌莽が叢生している。雪崩の押した跡らしい、上の方に赭い崩れが見える。其処の水際の木蔭に荷を卸して昼飯にした。金作が大虎杖を切って釣竿を作ると、源次郎が蚯蚓みみずを掘って餌にする。私は可笑しくなった、そんなことで※(「魚+完」、第4水準2-93-48)やまめや岩魚が釣れるなら世話はないと思った。岳の方から薄ら冷い風が吹いて、汗にふやけた五体に鳥肌が立つ、妖しげなヒトデの形をした雲が高い鱗雲の下をのろのろいまわるのが不気味だ、急いで出懸る。其時まで執念深く竿を握っていた金作を、皆して大声に呼んで見たが元より聞える筈はない。南日君が迎えに行く、くわ煙管ぎせるで帰って来た金作は「此処の魚は喰い付くことを知らんぞ」と言って皆を笑せた。

釜谷の奥


 午後になってから益々ますます雲が多くなった、岳に近づいた所為せいもあろうがどうも空模様が面白くない。だ割合に雲が高いので心丈夫だ。渓はそろそろ浅くなって、至る処に雪の働いた跡が見られる、其処そこには山を出て未だ士気の失せない※[#「石+兀」、U+77F9、333-6]々した岩が、押し重って危く谷を覗いている、水に洗われ磨かれて肌理きめがこまかくなった旧い仲間を羨むように。雪に近づいたなと瞬間に意識する。山はきずだらけになって露出した岩壁が痛々しい。谷が大きくくの字に曲ると、突き当りの山の肌が赤剥けにずり落ちてその下に屋根形の大残雪が懸っていた、檐下のきしたを抜足で通り抜ける、縁からも天井からも雪解の雫が破ら屋を洩る雨のように滋く落ちて、縮めた首筋から脊中せなかへかけてびっしょり濡れる。ゴトゴト軋む破片岩の長い階段を越えて河原に立つと、正面に眉を圧して猫又谷の大雪渓が、奔騰する雲の中から私達を誘き寄せるように姿をあらわした。狭い河原までが其方に開けて、幾筋かに分れた細い水が赤錆びた小砂の間を蜘蛛手に流れる、こんもり繁った闊葉樹が五、六本、河原を斜に翠蓋すいがいを拡げて、其間から雪渓の続きが白くチラチラ光る、体までがそっちの方へすっと持って行かれそうだ。私は先に立って浅い水をじゃぶじゃぶわたりながら、さりげなく左の釜谷に移ったが、何だか暗い気分になった。
 猫又谷に較べると釜谷の荒らかさ、谷は引括ひっくくられたように急に狭くなって、逆落しに水が落ちて来る。右は階段状を呈した緩い傾斜地であるが、厚く堆積した岩屑から成っていることが深くえぐられた壁面に現われている幾多の層から判断される。左は恐ろしい迄に急峻な大明神山が、花崗片麻岩の大屏風を水際から押し立てて裾廻しにしている。どっちも歩けないので瀬と淵と滝と連続した川の中を登って行く、太い蛇の死骸が飛石を据えたような岩の間に流れ寄っていた、青大将に似ていたが誰も判然した名を知らない。蛇嫌へびぎらいな南日君は股まで浸って上手の瀬を渉った。と所左手の屏風がへし折れて山裾からぼろぼろになった石の綿がはみ出していた。足が自ずと其方に向いて乱石の階段にかかる、登り詰ると上滑りのする黒土の斜面に出た、つい昨日あたりまでこの斜面には雪が残っていたらしい、汚い泡のようなものがこびり付いている古株から、草の芽立ちがほの紅くつのぐんでいる。獣の路をうて前の木立に潜り込む、人ひとりの重さ位にはビクともしない頑強な枝が意地悪るく邪魔をする、押し倒そうにもね除けようにも手に合ったものではない。始めから川を離れなかった荷物の連中は下から見上げて笑っている。また河に下りた、そして朽葉の積った陰湿な崖腹に白根葵しらねあおいの大きな花を見出した時には、爪先に引懸った小枝と共に満腔の不平をさらりと水に流して仕舞った。
 白根葵の咲いた崖腹を一町ばかり行くとまた屏風が始まる、一曲して鋭く右に折れた河の中では、花崗片麻岩の大塊が脊較せいくらべをして、水は其上を勢込いきおいこんで駆け上り駆け下りている。南日君と実君は長次郎と源次郎の跡にいて、直ぐ岩の蔭に見えなくなる。私は右側の階段状の斜面に路らしいものを見付けたので、ぼろぼろした岩層の壁面を手足でガリガリ引掻きながら、攀じ登って階段の上に立った、金作も続いて来た。見上ぐる大明神山の頂には、古綿の如き積雲がたむろしている、所どころ小さなガレに消え残った雪が、舞い落ちた銀杏の枯葉に霜が凍ったようだ。下で見た時には左程にも思わなかった草丈が人の脊よりも高い。俯向きながら無暗むやみに掻き分けて行くと、はたと岩にき当って頭がズシンと響く。見ると幾塊かの大岩が黒ずんだ膚に青苔を蒸して眼前に立ちふさがっていた。木立までが深くなって、幽鬱な下暗したやみに物の朽ちた臭がそこら一面に漂うている。金作を先へ立たして其後につくことにした。「こりゃ何でも前に人が通ったに相違ない」と言って指さすのを見ると、錆び朽ちて正体もない刃物のかけらであった。岩崩れがして凄じくのり出した崕の下をソッと通り抜けて明るみに出る、這いつくばった蟾蜍ひきがえるのような岩が二つ三つ重り合って、狭い谷の口を遮っている。其根方に荷を卸して長次郎が休んでいた、如何だったと聞くと、ひどいひどいと云う。時計を見ると二時を五分過ぎていた。釜谷の入口から此処ここ迄五、六町の間を一時間費した訳だ。私は行手の様子が気に懸るので、岩の上に登ってひょいと首を出すと、ぼうっとした白いものが眼に入った、雪渓! 脚の下から――何処まで続いているか分らない。表面からは濛々もうもうと立ち昇る烟のような霧が、吹き下ろす風に捲かれて、雪渓の真中を渦を巻きながら押し寄せて来る、っと見ていると霧に足が生えているようだ、あの中をまものが通っているのではないかと想った。体が総毛立ってひやりとする。明るみに出た時、急に寒くなったと思ったのはこの所為であったのだ。少しおくれて南日君までが汗を流して河の中を登って来た、そして代る代る岩の上から首を出して雪渓を眺めた、誰の顔にももう占めたものだという文句がありありと読めた、三十分の後に恐ろしい舞台が私達の登場を待ち構えていたとも知らずに。
 風が寒いので冬仕度をして雪渓を上り始める。曇った空が所どころ虫に喰われた木の葉のように孔があいて、霧の中からぽうっと薄日が映して来た。生温るい水蒸気が脚もとから舞いあがるので、大きな風呂場に這入ったような感じがする。左手は前と同じ屏風の続きであるが、岩が見えないのは雪の深い為であろう。右は雑木の繁った緩い斜面で、雪解の跡には草の緑が若若しい。雪渓の勾配はさして急ではなかった。両側の山で駒鳥がさかんに鳴く、沈静な谷の空気が諧調の音波を無限に拡げる。それには耳もさない風情で雪に慣れた南日君は、得意の鼻をいや高くして長い脛を飛ばす。うしろから見ていると青草を干したような洋服の地色が妙に霧に溶け合って、黒い脚袢が二本、雪の上をすうすうと歩いているようで、何だか通り魔に憑れたような気がした。雪渓は初めてだという実君は頻りに鳶口の苛責を雪に加えている。五、六町登ると谷が左に折れて、突然豪宕ごうとう極りなき舞台が行く手に開けた。人より先に登って来た南日君と私とは、杖にもたれて雪の上に立ち停った。息を継ぐ間もあらせず「君、さかんだな」と南日君がいう、「壮だな」と鸚鵡おうむ返しに答える。南日君はそれでもまだ物足りないか、登って来る実君にまで声を懸けて「壮だな」をいわせたがる、全く壮であるに相違なかった。脚もとの雪渓は六、七十間の先で右から突き出した長方形の大磐石に衝き当って、左の半分は其下の深い谷底に落ち込み、右の半分はヨロヨロと山の斜面に噛り付いている。大磐石というても決して孤立した大きな岩という意味ではない、右側の山の胴骨が雪と水と更に恐らくは流石とに皮肉を削り取られて、全部を露出した其一部なのだ。岩の頂上は緩く谷の方に傾いて、五層許りの段を為している、それから下は谷底まで七、八丈の絶壁である。壁面の上部にはわずかの罅隙をもとめて根を托した禾本かほん科らしい植物の葉が、女の髪の毛をいたように房さりと垂れて、葉末からは雫でも落ちているらしく、手でしごいたように細くなっている。左は大明神山の急斜面が水際から例の屏風を押し立てているのであるが、此処では二百米突メートルもあろうと思う程の高さに切り立って、それこそ峻噌の大屏風だ。表面は縦横に襞を畳んで、絶えず崩落しているのであろう、今にも抜けて落ちそうな大小の岩塊が危く均衡を保っている、木も無ければ草も無い、まるであらたに爆裂した後の火口壁を見るようである。此峭壁と右側の大磐石とが出遇であった処に三丈許りの瀑が左斜に懸っている、私達の立っている位置よりは少し低い。其上に第二瀑が右斜に懸って、四丈許りの絶壁を奔下する。其奥の方正面に懸っているのが第一瀑だ、此処からは大磐石の蔭になって、全長の三分の二以下は見るよしもないが、瀑壺に近づくことは到底不可能である、それでも高さは十余丈はあるらしく思える。満谿を傾け尽して狭い落ち口から一度に切って放たれた水が、ドット迸り出でさま虚空を跳って末広がりに滾々こんこんと落ちて来る。それから上は右側の山の胴骨がずっと近く寄って、狭く急な河床が四、五十間続くと、俄然谷が右に曲って一段高い岩の蔭から、真白な霧の一団がパッパッと息を切って横さまに噴き出している。雪渓が続くか、もなければ大きな瀑があるに相違ないと思った。岩燕が群をなして谷風に舞い※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)あがる木の葉のように飛んでいる。全く壮だなというより外に言葉がない。私達はマジマジと瞻上みあげたまま暫く物も言わずにいた。旨く越えられるだろうかという心配が起る。右側の大磐石は此処から眺めた所では、雪渓がい上っている斜面から横に段を伝って登れそうに想える、それから先は――登って見ての様子だ。私は頭の中で目の前の岩を相手にして、しきりに手懸りや足懸りを探しながら岩登りの稽古をしていた。いつか中村君や南日君と初めて劒岳へ登った時、前の日に別山べっさんの頂上から双眼鏡で眺めて、「あの偃松はいまつそばを登ってから如何するんだろう、彼処までは登れるがなあ」などと話し合っていたことを思い出す、南日君も同じようなことを考えていたと見えて、「ねえ君、中村がいると面白いんだがなあ」と言い出した。話が枝から枝へと花が咲いて、梅沢君、高野君、辻村君、辻本君、小島君――などの噂が始まる。そこへ荷持の連中が登って来た、「オーイ、瀑があるぞ」と怒鳴る、雪の上に立ち直って三人とも荷をゆり上げながら一斉にこっちを見上げて、笑い出した。それで私達も安心した。身勝手なようではあるが此場合彼等にムズカシイ顔は見せて貰いたくなかったのだ。
 愈々いよいよ恐ろしい舞台の方へ足を向ける。雪はもう薄くなって二、三尺の厚さしかない、知らずに中央を歩いていた私は片足を股まで蹈み抜いて、危く落ち込みそうになった体を杖を横に倒して支えた。雪が尽ると白根葵の咲いている黒土の斜面を少し登って大岩の根方に取り付く。目で練習した岩登りは足でやる段になると、畳の上の水練よりも役に立たない、目測では二、三尺にしか見えなかった階段の高さも五、六尺はあるようだ。覚束ないとは思ったが私は先に立って草の根を頼りに横をからんで見た、二間許り進むと三尺程跨いで向うの岩角に足を懸けたまま果して動けなくなる。はずみを付けて右の足を引けば左の手だけは上の階段に懸けられそうに想える、しかし外れたら事だ。仕方がないから大の字になって岩に獅噛しがみ付いたなり「駄目だ」と怒鳴る。横の斜面を登って大磐石が山の胴骨と続いている所を藪に潜り込んで乗り越すより外に路はない。
 引き返して斜面を登る、白根葵が薄紫の大きな花を挿して、オオバセンキュウや猩々袴しょうじょうばかまの生えた中に笑み傾けている。登り詰めると頭の上にのし懸った崖の下を横に搦んで、馬の脊に似た岩の腹に突き当る。深山榛みやまはんのきや根曲り竹が一面に叢生して、どう蹈み込んだものか勝手が知れない。長次郎が先に立って乗り越すと向う側に姿を隠す。これ迄の例に依ると長次郎は一旦見込みをつけて足を向けた以上は、決して引き返したことのない男だ。直ぐ後から続こうとは思ったが、様子が分らないので暫く躊躇していた。音沙汰がないので「如何だ、行けるか」と大声に聞いて見る、「行ける行ける、好い所だ」とかすかな返事が来た。木の根を掴んだり岩角にすがり付いたりして、馬の脊を逆落しに降りた所は根曲り竹の密生した岩壁の窪に過ぎなかった、急直に下ろして来た岩壁はこの窪を作る為に円味まるみを帯びて抉れ込んでいる。見ると二、三間上の方に長次郎の荷がヒョロヒョロした深山榛の幹に凭せ掛けて置いてある、今にも頭の上へ落ち重って来そうなので心配だ。根曲り竹に足を托して其処まで攀じ登ろうとしたが、滑り落ちる許りで登れそうにもない。金作が見兼ねて「俺しが先へ登ろう」といきなり守宮やもりの如く壁面に吸い付いて、体をうねらせながら登った。人間にもあんな真似が出来るものかと呆れている眼先へ細引が下げられたので、夫に縋りながら皆引き上げて貰う。立っているのも危いような急斜面だ、これでも好い所かと可笑しくなった。何処かでヒタキが「ヒ、カタカタ」と暢気のんきらしく鳴いている。
 岩壁は果てもなく続いているらしい、根曲り竹が夫へ緑の縁をつけたように生えている、そこが私達の唯一の通路なのだ。匍うようにして行くと岩壁の突端に出た、そして恐ろしさに身をすくめずにはいられなかった。私達の登った大磐石の後の絶壁と第一瀑の懸っている絶壁とが平行してこの突端まで来ると、双方から円く抉れて半円を画きながら、絶大な漏斗を真二つに截ち割ったような奇怪な形をして、幾丈とも知れぬ脚下に不可測の深淵を抱いている、それが花崗片麻岩の全石であるから驚く、天魔の加えた大丸のみの一撃に山の胴骨がけし飛んだ痕であろう。此処から瞰下みおろすと左斜に十五、六間離れて第一瀑が全身を露わしている。十余丈と測られた大瀑布も、空恐ろしき迄に荒らかな周囲の物象に威嚇されて極度に緊張した視神経を刺激するには、余りに繊細であった。動揺する瀑の水よりも、其下に湛えた藍色の水に恐るき秘密の力が籠っている。私達は底光りのする青黒い淵を覗いて今更のように怖れおののいた。
 漏斗の縁は六尺許りの懸崖に取り巻かれているが、磨き立てたように滑らかな壁面には、根を下すことが不可能なのであろう、小さな虫の宿となるべき一本の草とても無い、私達がおずおず縁を廻り始めた頃には、長次郎も源次郎も既に向う側へ廻って、崖に取り付く足場をえらんでいた。金作は私達の後から気を付けてれる。どうかすると上から小砂利が漏斗の内壁にザラザラと落ちて来て、其上を蹈むとするりと滑る、ハッと胸騒ぎがする、蟻地獄の縁を匐い廻る小虫の惨めさを思い出す。全身の力を十指に籠めて軽く足を内壁にあてがいながら辛く廻り終ると、崖が急にのり出して私達を突き飛そうとする。また細引が横に張られた、夫に縋って深山榛の繁った崖の上に出た時には、皆吻と息した。これから先も同じ崖続きであるが、木が多いので骨の折れる代りに少しも危くない。下からはるかに見上げた大岩の下を向うに廻ると、谷が右に折れて目八分の高さに雪渓の端が顕れた、其処には全石を底とした六尺許りの滝があって、雪渓の下から走り出た冷い水が、練絹ねりぎぬを垂れかけたようにするすると岩壁を駆け下りている。右側は上れないので、滝の下を徒渉としょうして、左側の大きな岩の上に皆疲れた体を休めた。
 十日の後大町の対山館に泊って、久振りに酒の香を味いながら、今度の旅行で一番苦しかったのは何処だったろうという話の出た時、それは釜谷の上りだったということに誰も異議は無かった。直径にすれば三町にも足らぬ場所に一時間余を費したのであるから、余り楽な登りではなかったに間違ない。
 疲労に伴う四肢の倦怠とものうい気分とが、容易に体を起そうともしないのを、無理に引立てるようにして此処を出懸けた。長い雪渓が始まる、勾配はなり急ではあるがカンジキを穿く程でもない。両側を限る山裾は刈り込んだようにひくい灌木が叢生している許りで、あれ程人を苦めた絶壁はもう影も形も見せなくなった。私達は時折立ち停っては二言三言いい交しながら、雪の表面に印した波紋のような凹凸を一歩一歩に蹈んで、知らぬ間にグングン登って行く、もう余程登ったろう、行手左よりに近く山の鞍部らしいものが見え出した、主脈にしては少し低過ぎるように感じたので、毛勝けかちから大明神へ続く尾根の一部ではないかと思ったが、翌日になって矢張やはり釜谷山と毛勝とを連続する主脈の鞍部であることが分った。
 振り返えると、大明神山に屯していた積雲の集団はいつか溶け去って、海鼠なまこのような怪しげな雲が山の肌をのろのろ匐っている。谷間の空気はドンヨリと薄く濁って、末は低く垂れた幽鬱な空の方に拡がって行く。其下に富山平原の一部が一様に灰色の幕につつまれて、死滅した世界のようにしずかに横たわっている。
 雪が尽きて急な岩の梯子を二十間許り登ると、渓が左右に分れて、片麻岩の大塊が鋸の歯のような鋭い圭角けいかくをいら立たせて押重っている下に、小砂利を敷き詰めた平があって、泡の浮いた薄汚い水が溜っている。う泊り場所を探さなければならない時刻になった。此処は水に不自由はないが位置が如何にも悪い。私達は荷持ちの連中を残して其処らを探し歩いた。南日君は左の谷を探りながら登って行った。私は左右の渓に挟まれた急な尾根を攀じ登って、其処に草原を取り巻いて垣根のように生えている偃松の姿を見た時には、何だか一年振りで自分の故郷へでも帰って来たような気がした。泊り場所は直ぐ此処と決った。草原というてもこの急峻な尾根の中腹である、天幕などは勿論張れそうにもない、右の谷へ少し下りて水を得られたのが仕合せな位だ。夕飯はその谷間で済した。濃い紅の花を持った大桜草やベニバナイチゴの群落が、晴れの饗宴を飾る卓上の花のように私達の石の食卓を飾って呉れる。偃松の枝をうずたかく積み重ねた上に茣蓙ござを敷いて、鹿の寝床のようなものが出来上った頃、海神の弄ぶ紅玉のような落日の影が日本海の水平線上に顕れたが、間もなく沈んでしまうとやみの翼が拡がり始めた。南日君や長次郎達は鼠色に暮れ行く富山平原の中を頻りに物色して、何と何が見えるとか見えないとか、久しいこと話していた。
農商務省四十万分一予察地質図に拠ると、片貝川の上流地方はすべて片麻岩として記載してある。今までの所見では、岩の片状の構造が不明瞭なので、あたかも花崗岩のように見えた、それで花崗片麻岩なる文字を用いることにした。最も露営地付近のものは素人目にもあきらかに劈開性が認められる。併し外見だけでは専門家でさえ誤り易い岩石の鑑定が、素養のない吾々に間違なく出来る筈はないのであるから、唯に感じたままを無責任に記して置く許りである。

小黒部谷の入り・上(毛勝山及び猫又山)


七月二十七日。午前六時四十五分、釜谷山腹の露営地出発。七時四十分、釜谷山頂上。八時、出発。山稜を北に伝い一峰をえて、九時、毛勝山頂上着。五十分休憩。十時五十分、再び釜谷山頂上。十一時出発、南に向って下る途中水を得て昼食。午後一時出発。一時五十分、猫又山頂上。二時二十五分、出発。三時三十分、猫又の池。五時、椈倉峠着。左に雪渓を下ること四十分にして、小黒部谷の支流中ノ谷の河原に野営。
毛勝山と猫又山との中間に位する尖峰は、標高不明なるも毛勝山(二四一四米)よりは少し高いようである。目測では二四二〇米を超えているように思われる。私達はこの尖峰を釜谷山と命名した。

 夜明け迄に幾度か眼が覚めた。毛布を被って芋を転がしたように寝ている体と体とがひしと押し合って、偃松の床からずり落ちそうになる、其度毎そのたびごとねちごち動くので誰もよくは睡れなかったらしい。三時半頃思い切って寝床を出た。草原は水を打ったようにれている、夜半に雨が降ったのかも知れない、考えると何だかそのような気もする。それでも近間の山には雲の影もなく、空は水浅葱みずあさぎに澄んで、天狼星シリウスが水の落ちて来る左側の崖の上の雪田を掠めてかすかに光っている。宵に脚の方で焚いた火が燃えさしになって消え残っている上へ偃松の枯枝をくべて、火にあたっていると、麓の方から時鳥の声が聞えて来る、近くの木蔭で目細めぼそがもの錆びた声を鳴き交わす、東が白んで天が明け始めた。長次郎を起して朝の支度にかかる。もくもく上る焚火の煙が谷へなびいて、眼界もその方へ開ける。双眼鏡で一わたり見渡したが、日本海へ突堤の如く突き出した能登半島の山々の外には、目を惹く程の興味あるものは映らなかった。「好いお天気だぞ」という声に皆起きて来て、昨夜の寝苦しかったことを話し合って笑った。金作一人は煙草を吹かしながら「昨夜はよく寝られたぞ」ととぼける。よく戯談をいう男だ。何でも寝しなに南日君が「危ない所へ寝るなあ」というのも関わず、草原へコロリと横になって「コリャいい寝床だ」と其まま寝てしまったようであったが、今朝見ると、一度寝返りを打っても下の谷まで転げ落ちそうな所だった。
 尾根は偃松の海が深いので、右の渓へ下りて水の無い急な岩の上を登り始める。大雨でも降ると大小幾つかの瀑の中に石の瀑も交って、さぞ躍り狂うことであろう。登るに連れて渓は浅くなり広く開いて、銀杏の葉形に山の額へ喰い込んでいる。まるく盛り上った雪田の光りが偃松の前髪をすべり落ちた銀の櫛のようだ。そこからぼろぼろ岩屑は止めどもなく崩れ出して、ザザーッと薄気味の悪い声を揚げながら頭の上へ落ちて来る。左側の斜面へ移った。水気づいた小砂利や腐った枯葉の上を歩くのでよく滑るが、こっちの方が危なくない。むら消えの雪間に咲きこぼれた白山小桜はくさんこざくらの花が、若草の野に立って歌を謡っている少女の頬のように美しい。私は躊躇ためらいながら其一片を摘んでそっと口にあてた。
 俯目になって登って行くと、不意に行手から獣が跳び出した。「ああ羚羊かもしか、羚羊」と叫ぶうちに姿は偃松の繁みに隠れる。あたりを見廻したが誰も居なかった。蹄の痕にいて崩れ易い側崖の縁を、偃松や岳樺だけかんばの枝から枝へと手を伸して、引き上げるように足を運ぶ。やっと雪田の上の崩れへ出た。二、三間先に雷鳥が一羽、人懐しげにこっちを見て立っている、遠い祖先からつたわった残忍性の血汐を燃え立たす程の余裕を持たない。崩れを横切って偃松の少ない右の尾根を一息に登る、登って山稜の一角に立った、そして力任せに杖をふるって大声に叫び出さずにはいられなかった。次の瞬間には山という山が四方から放つ鋭い銀箭ぎんせんの光に射竦いすくめられてしまった。其時私は一年の間心の隈々に暗い影を投げていた大なる欠陥が今既に半ば満たされたような気がした。
 澄み切った朝の大空は、何か期待を絶した暗示でも受けたもののように激しく動揺して、頴敏えいびんな神経繊維――軽い一触にもピリリッとふるえる――そんなものが大気の分子という分子に満ち満ちているのではあるまいか、とように想われる。それもそうであろう、日本北アルプス北半の山という山の膚から放射される特有の色の波が、電光の如く閃々せんせんと虚空に入り乱れて、無数の縦谷にちりばめられた大雪渓は、極寒の水で洗い上げた銀の延べ板のように輝いている。大気の動揺はやがて私の心の動揺だった。緊張した神経繊維の末端はこの窮窟な肉体を衝き破って、ほのかに光る一波の閃きにもピリピリ顫えている恣な大気の分子――神経繊維と抱き合おうとする、恐ろしい衝動の力。其処そこに痛い程の快感がある。っとしていると体までがこの儘何処へかけし飛んでしまいそうだ。私は再び杖を揮って大声に叫んだ。
 正面南に劒岳が大肌脱ぎになって、恐ろしく肩幅の広い全容を曝露している。頂上は一段高く抜け上って、のし懸るように聳えているのが大鷲のくちばしのように鋭い。左右の肩から胸のあたりへかけて、嶄岩ざんがんの列が凄まじい岩の大波を捲き起している。だ頂上直下から早月川の谷へ引き下ろした一線が割合いになだらかだ。赭黒あかぐろい骨だらけな山の肌には、波頭の砕けたような白いものがチラチラ目に入るが、南から望んだような大雪渓は見られない。別山、雄山おやま、竜王、浄土と立山連峰が劒の右に端然と控えて、あたりの山を寄せ付けまいと威嚇している。立山と奥大日との間から黒岳が銀の筋金打った鉄兜の鉢を朝日に輝かして、黒部川の奥に覇を唱えている。蓮華岳のゆったりした線が終ると、薬師の大岳が根張りの強い大日岳を礎のように蹈まえて、穏かな金字塔を押し立てる。遠い空に白山が独り雲のしとねを幾枚か重ねて端然と坐っている。富山平原から日本海の方面へかけては、早や層雲の幕が秋の大水のように拡がってしまった。
 劒の左の肩から東へ引き落した線はガックリ北に折れて、一段低く小窓の頭、大窓の頭と続いている。流石さすがにこれは劒の後衛だけに鋭い圭角けいかくが大鋸の歯を刻んでいる。大窓の北は白兀しらはげ、赤兀の奇醜な円頂から、白萩、赤谷と緩く波を打った山稜が小黒部谷の西を限って、直ぐ前の猫又山の蔭に隠れる。黒部川対岸の崇嶺大岳は私の立っている山稜の峰頭に遮ぎられて、わずかに額を覗かせているに止まるが、儼乎げんこたる特有の山貌は紛るくもない。二羽の大鷲が劒岳の蒼空に悠々と輪を画いて舞っている。
 いつの間にか長次郎が登って来て、私の立っている方へと足を向けたので、真直ぐに登る方が近いと教えても「マア景色を眺めにぁ」と言いながら、重い荷を背負って偃松を分け始めた。私はこの忠実な山人の心も知らないもののように思われて気恥しくなった。しかし嬉しかった。山に憧れていたのは私達ばかりでは無かったのだ。続く人達も皆この山稜の一角に立って、始めて接した山々の姿に心のゆくまで眺め入った。黄揚羽きあげはが忙しそうに其処らを飛び廻って往ったり来たりしている。
 人の蹈んだものらしい足跡を辿って十五、六間登ると、岩が現われ偃松が矮くなって直ぐ絶頂に出た。三本の糸を指先でつまみ上げたように尖った山だ。偃松が無ければ荷物を置くことさえ覚束ない。一本の糸は今登って来た山稜で、他の二本は南の猫又山と北の毛勝山に続く山稜に当っている。何と云う山か案内者を連れない私達には分らないが、釜谷山と呼ぶことにした。敢て此山ばかりではない、行く先々の名称不明の地点に対しても、便宜の為に縁のありそうな名前を勝手に付けたものがすくなくない。帰京後私の手の届く限り此辺の山に関する古い地図や地誌の類を漁ったのであるが、記録を有する山は一として見当らなかった。されば現に其地の猟師や山稼ぎの人などが用いる称呼に従わなければならぬ訳であるが、それが出来なかったのは遺憾である。
 夫よりも遺憾であったのは針木はりのき以南の連嶺が雲の為に見えなかった事だ。遠い南方の空は真夏らしい輝きを帯びた純白な積雲の塊が崩れては湧き崩れては湧いている間から、針木岳の尖頂だけが目ま苦しく出没する。扇沢から吹き※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)げられた千切れ雲が気紛れに手を伸して、時々祖父じい岳の額を撫でに来るが、双尖を聳やかした鹿島槍ヶ岳の威容におびえて、慌てたように黒部の大谷に逃げ込む。五竜岳、唐松岳の空線が天半を截って、大地震の震波のような線を描く。其処から一段高く破風を抜き上げて、大伽藍の岩の屋根を見せているのが奥不帰おくかえらず岳の連嶂だ。雪の漆喰がボロボロに剥げ落ちて、赭茶化あかちゃけた石の瓦に偃松の古苔が蒼黝あおぐろく蒸している。やりヶ岳、杓子しゃくし岳から力の籠った線が緊張の度を倍加して、朝日岳の肩越しに大蓮華山の尖鋭なる峰頂を一刀に刻み上げている。山稜の大波は更に北に走って、鉢ヶ岳、雪倉岳の波頭が白く突立つ。はるかに離れて尨大な朝日岳から蒼い穏かな線のうねりが遠く天際に揺曳して、無辺際に拡がり行く巨鐘の音波のような余韻を偲ばせている。
 それのみではない。日本の屋根ともいう可き北アルプスの二大脊梁――東西に平行して南北に縦走する立山山脈と後立山山脈――の大棟をすべり落ちる無量の雫を集めた絶大な雨樋は、黒部川の峡谷となって脚下に展開している。山の彫刻に曠世の技倆を揮った大自然の手は、此処にも企及す可らざる布置按配の巧妙を示した一幅の大画を拡げて、渓間に漲充ちょうじゅうされた軟熟な翠色の空気は、画面に一段の幽邃ゆうすい落付おちつきとを加えている。私達の眼は華やかにも沈痛を極めた色の中に漂うている許りである。私は南アルプスの大井川に匹敵する峡谷を北アルプスにもとめて、この黒部川を得た、そして満足した。此二者が好個の対照をなしていることは他に類を求められない。赤石山系の水が大井川に集って南の方太平洋に朝するが如く、立山後立山両山脈の水は黒部川に運ばれて北の方日本海に注いでいる。大井川は古生層より成れる山脈の間を穿鑿せんさくして流れ、従って河身の屈曲が甚しいが、黒部川は深造岩(主として)より成れる山脈の間を穿鑿し、従って水際に断崖絶壁多く、本流は殆ど急湍の連続である。彼に水成岩の美があれば、此に花崗岩片麻岩の美がある。常緑の針葉樹林が大井川峡谷の誇りであるならば、四時不断の雪渓は黒部川峡谷の誇りではあるまいか。此に多くの温泉が有って彼に少ないのは敢て意とするに足らぬ。私は大井川が好きだ、黒部川も好きだ。日本に此二大峡谷あるを少くとも私だけは幸福だと信じている。
 毛勝の頂上を窮めることは最初からの目的であるから、此処に荷物を残して北に続く山稜に足を向けた。少し下ると大雪田が始まる、白山小桜、珍車ちんぐるま小岩鏡こいわかがみ岩銀杏いわいちょうなどが目に入る。山稜の西側は偃松の波を蒼く湛えているが、小黒部谷に面した東側は、草原の斜面が雪の堤防を築いて、其雪は遥かの谷底まで続いている。雪田が尽きると毛勝の西峰に連なる鞍部に出た。昨日南日君の這入った谷を真直ぐに登れば、直接に此鞍部へ出られる。此処で私達が偃松に喰い止められている間に、身軽になった長次郎達はもう毛勝の斜面に隠れてしまった。西峰と毛勝との間には二十米に足らぬ小隆起がある、片麻岩の大塊が縦横に錯列して、其上に矮い偃松のカサカサした枝が針坊主に針を刺したように先の方へチョツピリと葉を着けてのた打廻っている。南日君の大嫌いな場所だ。黒部五郎岳を東から登る途中に此処を一層大きくしたような所があったと覚えている。南へ廻って偃松の途切れた草原を北に登り詰めると毛勝の頂上だ、見すぼらしい測量の櫓が北の端に立っている。頂上は鍋を伏せたように丸く盛り上って、中央の四坪許りの地が少許すこしばかりの岩片と白い砂利を敷きならしてある外は、短く刈り込んだ芝生のような草原で、東は直ぐ一面の雪田に取り巻かれている。此雪田は小黒部の北の谷に続くもので、雪量の多いことは大窓の雪渓にも劣らないように思える。北から西へかけては破片岩の急斜面に偃松が脊伸せのびしている。東北に派出した山稜は、東又を中に脚の下から弧を描いて、三名引さんなびき山、滝倉岳(陸測五万、駒ヶ岳)、僧ヶ岳と、低いながらも強弩の余勢は流石に筋張った処がある。殊に三名引山のあたりは峰頭が幾多の岩骨を剥き出して、尾根が柘榴ざくろの如く壊裂している。猿飛附近であろう、と所黒部川がふかい底から白い眼で此方を睨み上げていた。祖父じじ谷、祖母ばば谷の上流は五指を開いたように小谷が岐れて、悽愴な光を放つ赭色のガレが、酷たらしく山の肌に喰い込んでいる。硫黄沢の大抜けは其一つだ、磨きをかけた銅の薬研やげんを竪てたような此沢は、痛い程に神経を刺激せずには置かない。
 此山に滝倉岳なる名称を与えたのは全く地質調査所の誤りであると信ずる。つまり奥仙丈岳を甲信両国界の朝日岳に、有峰ありみねの西にそばだつ東笠西笠の別称である鯉鮒山を越中沢えっちゅうざわ岳に擬したのと同一轍に陥ったもので、陸測五万黒部図幅の駒ヶ岳即ち滝倉谷の上に聳えている二千二米の峰が滝倉岳であることは、越中の古図や古地誌乃至ないし郡村誌(内閣文庫および大学図書館所蔵)の類を見れば、容易に推知されると共に、片貝谷村では現にそう唱えている。要するに滝倉岳なる名は毛勝山の別名とす可き性質のものではない、他に独立して存在している山の名称である。これもまた古くから知られていた山名が見当違いの山に与えられた例とも見る可きものであろう。
 毛勝は饑渇の宛字であるとすれば、饑渇をケカツと発音することは、独り越中地方にのみ限られた訛音ではなく、古くから行われた我国の発音の癖で、今もケカツと唱えている地方が少なくないから、是に対して別に異議はないが、ケカツ谷を饑渇谷と断定し、終歳雪の消えない此深谷に這入った者は、饑渇となって死ぬる為に名付けられたのだという説明は、それが離し難い熟字であるとはいうものの少し可笑しく思われる。食物は尽きたが雪を噛って生きていたというような伝説を耳にすることが多いから、生還した者が無いというような場合には、原因は実際饑渇の為であっても、俗には不帰谷とかわる谷とか又は親不知子不知といった風の名で呼ぶのが、日本人には普通のようである。赤鬼、餓鬼、夜叉などは総て仏教から来た名前である上は、仏教信者が恐ろしげな山に此等の名を附けるのは敢て怪しむに足らない。饑渇なる漢語をこれと同一に律するのは余り面白くないように思われる。中村君の話に依ると、音沢村の猟師佐々木助七は、小黒部の北の谷の南即ち釜谷山の東直下に在る谷をケカツ谷だと教えたそうである。ケカツの由来に就ては南日君や吉沢君の説が曾て『山岳』誌上に発表された。私はそれらを熟読して唯だ自分の腑に落ちない所を茲に書き連ねた丈である。自説を立てる程の材料は持っていない。
 んびりした気持になって櫓の周りに寝転びながら、皆して取止めもない浮世話に耽る。南日君は柱の一本に「八月二十日南日三人」と刻まれた文字を指して、先年の登山の確実なることを証明した。今日あたりしや中村君が鐘釣温泉から登って来るかも知れないと思って、頻りに怒鳴ったり雪渓の上を探して見たりしたが、人の来るらしい気配もないので、五月笛吹川の東沢で釜に苦しめられたことや昨日の苦しかったことを取り交ぜて、「今年は釜の当り年だ」というようなことを書いた紙片を標石の上に載せて置いた。そして明日にも中村君がこれを見たなら、「ナーンだ、馬鹿だなあ」と言いながら、ヨロヨロの櫓を吹き飛ばさんずいきおいで、例の呵々かか大笑するに相違ないと想って、南日君と二人で腹の皮をよじった。其後同君は天候の都合で登らなかったと聞いたから、櫓も未だに無事で残っているであろう。
 日はぽかぽかと※(「日+句」、第3水準1-85-19)あたたかい、まるで春の野原にでも寝そべっているようだ。話をするのもものうくなって睡気がさして来る、長次郎などはとうに鼾をかいて寝てしまった。小一時間遊んでいる中に黒部の谷から雲が湧き上って、日が影ると薄ら寒くなる。帰りがけに兎の子を二疋追い出して一疋を捕えた、皆して猫の子を撫でるように面白がって撫で廻す。可愛い大きな目をしてオドオドしている。元の穴へ入れようとしたが手を放れると直ぐ偃松の中へ潜り込んでしまった。南を見ると雲の中から高い尖峰が眼の前にあらわれる、不思議とれば何の事釜谷山であった。今度は雪田の上で金作が雷鳥の子を二羽つかまえた、足を縛っておとりにして親鳥を捕るのだと旨い事を考え出したが、此雷鳥は親馬鹿でない唯一の例であったものか、遠くの方から見ているだけなので、折角せっかくの妙案も役に立たなかった。
 釜谷山から南をさして偃松の中の切明けを少し下ると、窪地に残った雪の下から冷い水が流れ出している。其水をって更に樺や偃松の枝につかまりながら下りた処は、広い雪田に埋もれた草の斜面である。白山小桜、栂桜つがざくら、アオノツガザクラなどが雪解の跡につつましやかに咲いている。此処で足りないだけの飯を炊いて昼食を済した、小黒部方面の谷という谷は、視線の及ぶ限り一として上の雪田から下の谷底まで、雪を鏤めていないものは無い、毛勝の東南面に懸っているものは殊に壮大である。力の籠った谷風が一陣また一陣、蹈鞴たたらのように狭い峡間を吹き上げて来る、其度毎に烟のような雲がムーッと舞い※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)あがる後から、日光がキラリと映した時には、うそれは雪ではなかった、強烈な白熱の光を放つ金属のどろどろした溶液のようであった。
 雪田はのろのろと何処までも私達を引張って行くようだ。白山小桜の紅い花があっちにもこっちにも雪に額を擦り付けて、何か囁き交わしている。薄ぼやけた雲が白い裾を曳いて狂女のように猫又谷に駈け下りて行く。雪田までが誘れ気味にヨロヨロと起ち上って、屋根ほどの大きないわもたれかかりさま向うを覗いている。恐ろしく脊の高い偃松の中を旨く切明けを見付けて通り抜ける、横に楔形をして雪田の端が右手の山腹に天守台の石垣のような断崖を削り出す、厚い所は、三、四丈もあろうと思われる。其下の縁に沿うて白山小桜の咲いている細いうねを少し登ると好い平に出た。この広いそしてわずかに南東に傾いた原のような平が猫又山の頂上だった。三角点は北寄りの小高い処に在って、櫓も未だ残っている。偃松に囲まれた小さな窪地が二ツ三ツ、狭い入口を原の方に向けて開いている。此処に泊りたいような気がしたが、時計を見ると情ないかなまだやっと二時を過ぎた許りである。
 鼠色の雲は時々むらを生じて、消えかかった提灯のように明るくなったり暗くなったりするが、この美しい山上の高原は彼等の住家ででもあるものか、執念しつこく原を取り巻いて唯だ私達を焦らす許りだ。同じような斜面の何処を下りたらいいものか判断がつかない。こうなると地図も磁石もさして役に立たなくなる。はてしがないからいい加減に見当を付けて降り始めたが、忽ち急な雪渓が私達の足を封じてしまった。どうも東へ寄り過ぎたようだ。雪渓を横切って暫く其縁を下る、斜面がけわしくなって歩けなくなると、木立の中を右に衝き抜けて、前面を小さい尾根で堤防のように遮ぎられた緩い傾斜地に出る。ひどい笹だ。此時雲がうすれて西の方へ南を指して下るらしい尾根の一部が朧げに現れた、針葉樹の立木が濡紙にぱたりぱたりと墨をにじましたような影をつくる。目指す山稜だなと直覚したものの行先が見透せない。かくも前の堤防へ登って一思案する気で、笹の中へ潜り込む。しかし二十歩とは行かぬうちに私達は狭いが深い谷に陥ってしまった。少し※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいて見たが出られそうも無いから、構わず下ることにする。花崗岩ではないかと思われる岩の大塊が、右からも左からものり出して、脚元のみに気を取られている私達の頭へ「そら危ないぞ」と痛い注意を与えてれる。雪が多くなると少しは歩きよくなる。夫も束の間だった。不意に右側の崖がずたずたに壊裂して、底固い地肌の表面を小砂利が万斛※(「竹かんむり/徙」、第3水準1-89-71)まんごくどおしにかけられたようにザラザラ崩れ落ちている大薙の中途へ出た。雪渓の端が下にギザギザの口を開いて、獲物の落ちて来るのを待っている。匐うようにして辿り着いた処は、山稜の一角であったが、決して頼りになる味方では無かった。太い根曲り竹の藪が深山榛や樺の類をひしと抱きすくめて、絡み合った小枝が網目よりも細かい。矢でも鉄砲でも来いとはこのこった。そこへ人間がぶつかったのだから堪らない。それでも金作や源次郎は何処をどう通り抜けたか、私達三人が運を足に任せて盲歩きに足掻き廻った揚句、やっと矮い草原へ放り出されて向うを見た時には、一町も先の小高い峰角に荷を卸して休んでいた。長次郎は下を廻って雪渓をからんで来たと話したが、見た所では私達には真似られそうにもない。此峰の北側はわずかの平で二坪程の池がある。野営でもしたものかもえさしの木が散らばっている。黒部図幅の猫又山から南東へ派出された尾根が千九百六十米の地点で、圏が延びているのは此平を表わしたものであろうか。猫又の池と命名したが夫程凄い場所では無い。
 此処で尾根が左右に岐れる。現在の位置が不確ふたしかなので、地図通りに直ぐ左とも決められない。金作と二人で横にのり出した樺の木に攀じ上って下を覗いて見た。雲の海は汐の引くように下の瀬戸を音もなく西へ流れている許りだ。振り仰ぐと南方の天に、動く雲の間から凝って動かない※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)らんてんの色が滲み出した。次の瞬間には朧ろの線が見る見る力の満ちた大きな岳の一部を現わした。劒が見えるぞと怒鳴る。急いで荷を背負って左の尾根を下った。唐檜とうひの木立に這入ると切明けの跡が判然したので吻と安心する。又池があった、前のよりは少し大きい。これに至って私達は雲の領を脱したのであろう、眼の前がパッと開けて、脚の下に椈倉峠の頂上が草原らしい緑をひろげる、雪田も間近に光っている。あの下から豊かな水がだぶだぶと音を立てて流れ出しているのではあるまいか。「好い泊り場所だ」、誰かそんなことを言った者がある。峠向うの尾根には切明けの跡が上へ上へと雲の中まで続く。「明日は楽だな、あれを登りゃ造作もない」、皆暢気な顔を見合して笑った。
 山稜は益々ますます急になって、又しても根曲り竹の密叢へき込まれる。切明けの跡はあってもそこは日当りのいい所為か、新らしい笹が勢よく伸びて、古い切株から生えた樺やかえで※(「(屮/師のへん+辛)/木」、第4水準2-15-76)ひこばえが腕程の太さに育っている。何でもいい、もうまっしぐらに下る許りだ。竹藪から木立へ、木立から竹藪へ、野獣の如く潜り込んで、一時間近くも歩くというよりはずり落ちた。小枝や笹の葉が汗ばんだ額や首筋を容赦なく引掻き廻すので、蚯蚓腫みみずばれのした痕がひりひり痛む。ねじけくねった栂が出て来ると尾根も幾つかに岐れて、どれもこれも岩骨を剥き出している。米躑躅こめつつじの類であろう、岩の襞に白い花を綴っているが、下を覗いただけで身顫いして引返した。東寄りの岩壁の間の急峻な空谷を草につかまりながら背向うしろむきにドッと辷り下りる。其処から右に切れて岩の多い草地に腰を落ち付けた。振り返って見上げると、どの尾根にも赤裸になった坊主頭の岩が凄い顔をして脅かしている。其方へくるりと尻を向けてサッサと下って行く、始めは足場がよかったが直ぐ又笹がのさばり出す。大きな鎌か何かで無茶苦茶に薙ぎ倒してくなった。舌打ちをしながら押し分けて進むと、いつか爪先が仰ぐようになる。此笹原が峠の頂上だったのだ。東の斜面を少し下った処にはたして雪田が現われた。物々しい道具立こそないが、一目に夫と知られる程の荒れた寂しい所である。干からびて素気もない土は、雪解の水を何処へ吸い込んでしまうのであろう、木の芽もまだほぐれ兼ねている。温かい感じのする色などは一として目に入らないのだ。っき上から眺めたあの草原もあのだぶだぶの水も、畢竟ひっきょう沙漠を旅するキャラバンの幻視に過ぎなかったのであろうか。私は腹立たしくなった。天幕を張れないのは我慢するとしても、此の低い谷間へ下りながら、雪を溶したあの薄汚い水をさも貴いもののようにして、馬鹿骨を折って炊いた糠臭ぬかくさい飯などは、この大事な空き腹にあてがいたくはない。水、水。私は人には構わず先に立って中ノ谷をドンドン下った。三、四町も行くと広いが急な雪渓に下り立つ。長次郎が続いて来たので、連れ立って遥か下に見える河原をさして急いだ。途中左側に天幕を張れるほどの平を見かけたが、高い崖の近くだけに飛石が危ないと長次郎がいう。皆後から下りて来た。南日君は妙な足取りで雪渓ばかり下りて来るので、見ている人には危くって仕方がない。左側の斜面へ移るように下から怒鳴るが、聞えたのか聞えないのか、矢張やはり雪の上を辿って来る。後で聞くと足袋が小さいので爪先が痛いから、わざと雪を下りたのだと腫れ上った指を見せる。可なり水量のある大きな沢が左から雪渓に落ち合っている上手の河原へ荷を卸して、手の切れるような冷い水で顔を洗ったり体を拭いたりしている中に、河原がならされ天幕が張られて、めらめらと勢よく燃え上る火の上で大鍋が沸々音を立てる時分には、冷え切った体にも温い血がめぐり始めた。
 一しきり華やかであった夕栄の色がふっつり消えると、あたりが急に暗くなる。黒部の大谷では鉛色の雲がや暫くの間、生れ故郷を探しあぐねた放浪の子のようにのろのろ動き廻っていたが、やがて下へ下へと沈んで、山の精霊がうかみ上ったように透明な肌を持った岳の額から、既望きぼうの月が冴えた光を送って来た。
吉沢君や中村君にると、椈倉峠から小黒部に下る谷は、中ノ谷と呼ばれているとのことである。お中村君は、折尾おりお谷は小黒部谷の支流ではなく、黒部川に直注する沢の名であることを話された。

小黒部谷の入り・中(赤谷山及び赤兀白兀)


七月二十八日。午前六時三十分、中ノ谷の露営地出発。峠に出ずして直に南側の谷を登り、七時三十分、山稜に達す。片貝方面より小黒部谷および仙人湯に通いし古道あり。八時、餓鬼の田。八時三十分、出発。根曲り笹の密叢に分け入り、九時四十分、偃松帯に達して休憩。九時五十分、出発。切明けあり、岩石露出登攀かえって困難ならず。十時四十五分、赤谷山頂上着。正面南に劒岳の豪壮なる山容を仰ぐ。昼食後、午後十二時五十分、出発。二時、白萩山と赤兀あかはげとの鞍部。や大なる池あり。二時三十分、出発。山稜の南側を伝うて、密林の間を押し分け、強行三十分にしてこれを通過し、草多き斜面を登りて、四時十五分、赤兀頂上。直に出発。山稜険悪を極む。四時四十五分、白兀頂上二千三百八十七米の三角点に達す。五時二十五分、出発。峰二つえて右に山腹を横切り、六時十五分、大窓着。峠を稍や西に下りて野営。

 賑かな青蜩ひぐらしの声を聞いて、毛布を体に巻きつけながらそっと天幕から這い出した。見ると、星影のうすれた狭い谷間の空を一道の白気が黄道光の如く東から西へ流れている。雪渓の雪が先ずその光を吸ってほのかに輝き始める。何処かで角笛でも吹くような木兎みみずくの叫声が二度三度聞えると、それが合図ででもあるように鼠色の衣をすっぽりと被った「闇」は、木蔭から木蔭に身を潜めて、忍びやかにはるかの谷底――黒部の大谷をさしてぞろぞろと下りて行く気配がある。今度は時鳥ほととぎすが頻りに鳴き出した。大きな焚火を前にして煙草を吹かしていると、東の空が遠い火事でも始まったようにぽうっと赤く燻り出して、夫が見る見る紫がかった透明な薄桃色に変って行く。大蓮華山から唐松岳に至る連嶺が、紫紺の肌を水色の大気に洗わせて、目を覚むるばかり鮮かになった。
 水に不自由がないので、楊子を使ったりた体を拭いたりして、身拵みごしらえが済むと朝飯になる。土地が低い所だけに昨夜は暖かだったし、割合にく寝られたので今朝は皆元気だ。直ぐそば水楊かわやなぎの林で鶯が囀ずる。其声に送られてここを出掛けた。昨日下りた雪渓をまた峠まで登って、あの厭な笹原を潜るのは少し馬鹿念が入り過ぎると思ったので、雪渓の途中から南側の山腹を穿った急な石滝を登り始める。峠からは二つ目の沢である。山桜の咲いているのが余り綺麗だったので、よせば好いのについ手を出して一枝折ったが、次の休み場所で挿木にしてしまった。
 急な登りが四、五町も続いたかと思ううちに谷が浅くなって、山崩れのした跡の急斜面に突き当る。左に水の流れ落ちた痕らしいものはあるが、谷というよりは一つの窪に過ぎないもので、先の見透せない程に木立が茂っている。草にすがりながら斜面を横にからんで、右手の痩尾根を登って行くと間もなく山稜に出た。丁度立山図幅の千八百六十米の圏が北に延びた地点に当っている。立派な道が有るので驚いたが、二十年も前に仙人の湯を開いた時のものだと聞いて安心した。此処ここは山稜が平である為に、左程荒廃した様子も見せずに元の形を存しているのであろう。南日君の話にると、この道は片貝から通じたものであるそうだが、猫又谷を遡って猫又谷の西を搦んで来たものか、或は坂様谷の落口から右に尾根を登って其儘そのまま中下新川界の山稜を伝って来たものか、判然したことは知れなかった。三、四十間行くと果して道は失せている。雑木や根曲り笹の茂った小高い所を越して、背のひくい笹原をふみにじりながら狭い山稜を東に行くと、わずかな窪地に水の溜っている草原に出た。所謂いわゆる餓鬼の田だ。水際にはわずかではあるが雪も残っているのに蛙が鳴いている。跫音あしおとが近付くとひたと止んでしまう。どんな蛙か見たいものだと思って、暫らく探したがとうとう知れなかった。東の方を覗くと、脚の下から小黒部の谷へ延びている尾根の中ほどにも小さい池があって、真青な水を湛えている。蛙がまた鳴き出した。気の所為せいか何だか私を嘲っているようにも聞える。忌々しい奴だ。これでも喰らえと側にあった兎の糞を拾って、力任せに投げ付けてやる。
 此処は低いが四方が開けているのでなり眺望が好い。野営地からは見えなかった五竜岳や鹿島槍岳が唐松岳の南に頭をもたげて来た。名高い八峰はちみねの断裂は、底が五竜岳の方にえぐれ込んではいるものの、う離れて眺めては、天魔が巨箭きょせんを飛ばしてザクリと射抜いたやじりの痕のように小さい。南方の天には劒岳が赤谷山から右に引き下ろした尾根の上に鋭い峰角を覗かせる。大日岳の長大な山稜がガックリ低くなると、雲の海が目もはるかに続いて、白山が独り紺碧の空にふわりと横たわる。長次郎達は双眼鏡で頻りに大黒鉱山の附近を物色して、人が居たとか居ないとか言いながら、子供のように嬉しがっていた。
 南に向って同じ草原の山稜を暫く行くとまた笹が始まる。背の低い黒部杉や栂などの生えている下を通る時には、切明けの跡が判然しているので、他に迷い込むような心配は無い。三、四十米も登ったろうと思う頃、山勢が一曲して東に向くと笹が少し途切れて、草の生えた窪地に続く。此処も稍や広い高原状の湿地で、今は水は無いが、雪解の頃は浅い池であったろう。附近には毛氈苔が敷物の模様のように其処此処に叢生して、小さな白い花を綴っている。山稜は更に東の方へ延びて、中ノ谷と椈倉谷とを分つ尾根となって、小黒部谷へ低下している。餓鬼の田から瞰下みおろした池のあるのは此尾根だ。谷の行衛ゆくえうて目を移すと、突き当りに小黒部の大抜けが、裂けた雪の繃帯から生々しい岩骨を曝露して、目が眩むようだ、何処かで郭公が頻りに物寂しい声を繰り返して鳴いている。
 目指す赤谷山に続く山稜は、此の窪地の西のはずれの根曲り竹や雑木の密生した、夫とも分らないような斜面を可なり登ってからでなければ、尾根らしい形を成していないから、雨か霧にでも閉じ込められた日には、容易に足が出せまいと想われる。其上連日私達を苦しめていた藪は、少しも其いきおいゆるめない許りか、此処から百二、三十米を登る間というものは、極度のはびこり方で、矢でも鉄砲でも来いといった位の生優しいものではない。昨日猫又山から下る途中「明日は楽だな」と喜んだ立派な切明けは、椈倉峠の草原やだぶだぶの水と同じく、何かに付けて楽をしたがるさもしい根性から、血迷った網膜が勝手に映して見せた幻影に過ぎなかった。尤も切明けの跡は全然無い訳ではないが、高さ一丈にも余る根曲り竹の上を歩くことは、人間には出来そうにもない業だ。
 又藪に潜り込む。秩父の奥山で散々苛め抜かれて、藪潜りにかけては魚が水を泳ぎ※(「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84)もぐらが土を潜るようなものだと、おおいに得意になっていた鼻先を、青竹の笞でいやという程弾き飛ばされて、忽ちへし折られて仕舞った。右を見ても左を見ても箆を束ねたように簇生そうせいした篁の中では、眼なんか無くとも一向差支はない、有れば近眼でも遠視眼でも持ち合せの者で沢山だ。だ手探りに※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがき廻ってよろけた方へ足を運んで行く、誰が何処へ行ったか夫さえ分らない、体が頭から足の先まで汗でびっしょりになる。
 漸く笹の中を左に切れて、木立の下の大きな岩にもたれ掛りさま一息する。皆何処へ行ったのか声を懸けても返事がない。足元に落ち重っている新しい笹の枯葉の上に青葉の繁みから日光が洩れて、豹紋のような斑点を染め出す、糸のように痩せた蔭草が青白い茎を抽き出して其上をっている。小雀こがららしい鳥がスイースイーと葦五位あしごいのようなかすかな細い声で鳴き交わすのが、妙に寂しいので、何だかあたりが見廻されてならなかった。
 笹の中よりは幾分か登りよさそうに思えたので、木立の中を辿って見る。それも十歩とは行かないうちに復た笹の中に追い戻されたみじめさ。諦めてどうでもなれという気になって、其処らを足掻あがき廻っている中に、雑木が次第に殖えて、恐ろしく背の高い偃松が姿をあらわしたと思ったら、うまく切明けに出た、長次郎が休んでいる、南日君と実君はずっと右寄りの藪の中から、笹葉を背負ったはりねずみのような姿をして出て来た。絶頂も早や間近であろうと思ったので、直ぐ出懸る。傾斜は可なり急になったが藪を濳ぐる苦しさに比較すれば何でもない。二町許登ると偃松が途切れて、雑木の繁った窪地のような処を左に通り抜ける。半ば朽ちて土に化した倒木の横から、五、六本の黄色の菌が一塊りになって生えている。其中の一に妙な虫が附いていたので、手に取って見ると薄墨色をした蛞蝓なめくじであった。形も普通の種類とは少し違っているようだ、長さは一寸位で、背の真中ごろに少し突出した爪のような物が付着している。珍らしいので其儘そのまま紙に包んで置いたが、翌日劒沢の岩屋に着いた時ふと気が付いて開けて見ると、干からびて生体も無かったので、残念ながら棄ててしまった。
 突然行手が開けて正面に赤谷山が姿を顕わした。近いようではあるが未だ二百米は登らなければなるまい。頂上から西の方へ延びた尾根と私達の居る山稜とに抱かれた谷は、山の名に背かない赭色の大崩れが、絶頂から半円形を成して※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)えぐり取られたように長く下まで続く。此尾根の上に押し建てられた一列の嶂屏と見えたのは、藍色の地に銀泥をなすり付けた大日岳の連嶺であった。谷の空は低く西に垂れて、富山平原のてに日本海が薄曇のした鏡のように光っている。先へ登って休んでいた二人と一緒になって、私達も暫く息を入れる。
 西南の風を真ともに受けながら、大岩の露出した山腹を登り始めた時には、皆晴々した気持になった。切明けの跡が偃松の海に一路の波痕を印して緩くうねっている。岩間に根を下ろした米躑躅が旨く手掛りや足掛りを造ってれるが、其度毎そのたびごとに枝間に咲きこぼれたつつましやかな白い花を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり取ったり、薄桃色の花を蹈みにじったりするのは、如何にも残忍であるような気がした。私はいつか先に登って、脚の下から抉れ落ちた凄まじい赭岩しゃがんの大崩壊の突端に立っていた。小さな測量の櫓が南を限る崖の上に姿を見せる。偃松の枝にすがって下を覗き込むと、赭黒い岩の膚が強烈な日光を浴びて、火にあぶられた肉塊のように陽炎が燃えている。蒸れたような※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)うんきが吹き上げる風に連れて時々顔を撫でに来る、汗ばんだ五体から今更のように汗が流れて止まなかった。
 絶壁の縁を辿って頂上へ急ぐ、房さりした禾本かほん科の植物が柔い葉を拡げて、崖の端から一尺許りの間に瑞々しい緑を敷き延べている。草が短くなって小石交りの斜面に当薬竜胆とうやくりんどう、ネバリ芒蘭のぎらん岩爪草いわつめくさなどがポツポツ見え出したと思ったら、直ぐ頂上に出た。振り返えると南日君が絶崖の縁に立って此方を見上げていた。
 頂上は猫又山ほど広くはないが、稍や東南に向けて盆状の高原を開いている。雪が消えてまだ間もあるまいと思われる原は、岩銀杏が隙間もなく密生して、緑青をぶちまけたような平蕪へいぶに、珍車、立山竜胆、四葉塩竈よつばしおがまなどが鮮かな色彩を点じている。真中の窪い処は一面の雪田で、盛り上った雪は縁から溢れて、小黒部の椈倉谷へなだれ落ちている。西北の縁辺は堤のように小高くなって、いじけた偃松が矮い灌木や根曲り竹の茂った中に押しすくめられて、骨ばかりの枝を突き出している。西と北に小さな測量の櫓がある。下から見えたのは北の端のもので、恐らく之が測量部で建てたのであろう。西の方が一米位高いかもとも思われた。
 黒部の谷の空では、時折り砲丸でも破裂したように、真白な雲の塊がだしぬけに湧き出して、匐うように広がり始めたかと思うと直ぐ消えてしまう。祖父岳から北に連なる後立山山脈の群峰は、真額から直射する烈日の光に照り映えて、著しく赤味のさした紫藍の肌には物の隈もない。近く眼の前に聳えている毛勝けかちの連山は、雪に和らげられた濃い緑の色が穏かに溢れて、昨日のあの苦しさが早やなかばは夢のような懐しい味に変っている。西の方の低い谷間の空は、山の吐くらしい息が薄白く淀んで、其底には早月川のながれが一条の銀蛇となって、北に走っているのが仄に見られる。大日岳の連嶂から遠い白山の方面へかけては、日本海から湧き上る雲の峰が今まさに幾多の大山岳を形造ろうとしている当年の地上のさまを想わせた。
 この変幻極まりなき雲の峰を背にして、南正面に屹立した劒岳の豪壮なる山容を仰ぎ見た時の心地は、永く忘れることの出来ない印象の一つである。この旅を始めて以来日一日と其麓に近付くに連れて、山の高さは加わり嶮峻の度は増して、曾ては一度其いただきを窮めた身にも、自分は果してあの頂上に登ることが出来たのであろうかと疑わざるを得ない程、心の動揺するのを感じた。恐らくこれは此山の見慣れない方面に初めて接した私の神経が、例えば血管内に或物質を注射すると、血液は直に之と対抗す可き特殊の物質を生じて、自己を防衛するのと同じように、山の威圧に対して反抗的に起った神経細胞の動揺であったのであろう。しか希臘ギリシア彫刻の傑作に見るが如き貴き素朴と沈静なる偉大とを兼ね備えた山の前には、私の神経細胞の中に生じつつあった少量の醗酵素は、自己を危くするまでに毒素を分泌するに至らずして、旭に消ゆる霜の如くに溶け去るのを覚えた。此時私は山に登りたいと努力精進する人のみが――山岳宗徒のみが享受することの出来る或神来の力があって、強い心臓の鼓動と共に全身に漲り溢れるのを感じた。そして一瞬時の後には、それが渾身こんしんを傾けて山を懐しむ情と変って行く。私はし自分が画家であったならば之を描きたい、詩人であったならば之を歌いたいと思った。然し画家でも詩人でもない私は、自己のあたわざる所を他人が成し遂げて呉れた彼の尊い芸術に依りてのみ、此欲求を満足させるより外に代う可き者はないのであろうか、いや有る、唯一つ有る、絶えず山に登ることがそれだ。
 荷物を草原に抛り出したまま、ぼんやりと其処らを見廻している中、真先に南日君の汗ばんだ顔が現れて、間もなく皆が登って来た。雪を溶してお茶を煮、昼飯を済まして、ウイスキーを飲みながら雑談に耽る。初日以来癖になって、昼食後の休みはいつも長い。日向は暑いし風の吹く処は寒いので、風の当らない木蔭をもとめて、鷹に追われた雉子きじのように偃松の繁みに潜り込む。こんな時に平気で何処へでも腰を据えて、人の騒ぐのを笑って見ているのは、南日君と長次郎だ。悪く言えば至極の不精者で、能く言えば人間界では余り幅の利かない仙人という者に近い人なのであろう。時には小面憎いほど羨ましいと思うこともあるが、時には如何かしてやりたい様な気のすることもある。今日などは無論引担いで偃松の中へ放下し込んでやったなら、どんなに好い気持であろうと思った。
 此山から尾根は南東に延びて、六、七町の先に雑木の茂った雪の多い一峰を起している。此処よりは六、七十米も高いらしい。何という山か名を知らないので、仮りに白萩山と命名することにした。其処から東に低下した尾根は急に肩を聳かして、右斜に三つ奇醜な円頂を擡げている。此処から眺めた所では南寄りの者が最も高く、中央の者が最も低い。この駢立へんりつした三峰が早くから地図の上で其名を知られていた所謂赤兀白兀である。白兀の右には二千六百米に近いと想われる大窓のずこが、朱泥をなすり付けたような凄い顔をして此方を向いて居る。赤裸の肌にも偃松の胸毛だけが蒼黝い。更に其右には小窓の谷底から躍り上ったような嶄岩の列が、執念の手を伸して追い縋ろうとする雪の前に、美しい緑草の斜面を展開したり、恐る可き崩岩の礫を投げ下したりして、威しつすかしつ、後ろさまに身を退きながら、爪立ちになって一斉に覗き込んでいる。私達は之を小窓の頭と命名した。其上には劒岳の東の肩ともいう可き三窓さんのまど続きの更にいかめしい幾多の岩峰が、脚元から千仭の谷底目掛けて頽れ落ちる崩石の群を冷やかに瞰下ろして、断崖の絶端から絶端へ天斧の削痕尚お鮮かなる大尖柱を乱杭のように押し立てている。早月川の谷から力の籠った而も穏かな山稜の波が遥かの空際をうねって、この尖柱の森列せる断崖がなおも西へ延びた突端迄来ると、一躍之を越えて虚空に跳り上りさま、稍や円味を帯びた空線を描いて、更に東へ向けて掬うように雪崩れ込んでいるのがわが劒岳の絶巓である。天に近きことおよそ三千米、額には雪の宝冠が白金の如く輝いている。
 二時間余り無駄に遊んで、悠々と此処を出懸る。尾根は雑木が茂っているので、雪の多い東側を搦みながら行くことにした。雪田が尽きるとかえでや岳樺の薄暗い木立が待ち構えていたように私達を抱き込む。反り返った太い枝が足場のよくない山の斜面に沿うて、意地悪くのり出している。ややともすると、口惜紛くやしまぎれに蹈みにじった枝が跳ね反える拍子に旨く足をさらわれて、かすみに懸った小鳥のように宙に釣られたまま、※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)けば※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)く程手足が利かなくなって、果ては遊び飽きた子供の玩具のようにむざと放り出される。「オイ、如何した」、こんな言葉が聞き飽きる程繰り返された。
 不意に頭の上が明るくなって、行手に白いものがチラチラ見え出したと思ったら、小黒部の椈倉谷に落ち込む雪渓の一つに突き当った。其縁に沿うて二、三十間登ってから、幅の狭そうな所を足掛りを刻んで一歩一歩に辿っていると、一行は長次郎を先に稍や下の方に姿を顕して、苦もなく渡って了った。南日君が下から見上げて「オイ、大丈夫かい」と案じ顔の捨台詞を残して行く。あしの先が痛くなったのを我慢して、漸く向う側に着くと急いで跡を追駆ける。同じような雪渓が続いた、夫を横切って雪に押し窘められた細い岳樺の疎に生えている尾根を下り気味に通り抜けると、白萩山の直下から山稜の方向に極めて緩く傾斜した驚く可き大雪田が目の前に現れて、赤兀に連る鞍部を一面に掩うている。雪消の跡には岳蕨が今しも永い冬の眠から眼をさまして伸びをしているように、其処にも此処にも毛むくじゃらの小さな拳を突き出している。中村君がいたなら屹度きっと「オイ、採ろうや採ろうや」と言い出すのにきまっているが、今の私達には採っている程の余裕は無かった。
 この大雪田は、西側を堤防状の小高い畝に限られているが、東側は滝ノ沢の右股に懸る急な雪渓の上部に続いている。赤谷山の頂上に休んでいた時、一頭の羚羊が沢を登って来て暫く躊躇した後、雪田を横切って木立に隠れるのを見たが、雪に印した蹄の痕は可なり大きなものであった。此処で私達は羚羊と同じ様に雪の上に立ったまま思案に暮れた。腰が掛けられないからではない、行手を遮ぎる木立の繁り方が余りひどいので、どう蹈み込んだものかと六つの頭をかしげたのである。流石の長次郎も此藪ではとても尾根は歩かれないと顔をしかめる。三人は荷を置いて三方に別れながら通れそうな所を探しに行った。私達三人はつい四、五町の先に少し俯向き加減に聳えている赤兀の北峰を、漸く芽ぐんだ岳樺の梢越しに見上げて休んでいた。風が寒いのでじきに胴慄どうぶるいが始まる。間もなく三人一緒になって戻って来た。金作が「池がある」という。山の上の池といえば火口湖の外は大抵窪地に水が溜って出来たものである。今迄見たのは夫であった。所が此池は岩でこそないが周りを六、七尺の切り立った崖に取り巻かれているので、直ぐ側に有ったのを今迄夫とも気がかずにいたのだ。広さは十坪位で一間位の深さはある。形は稍や勾玉まがたまに似ている。其の一端が雪田の方に開いて、其処から滲み出したちょろちょろ水は、岳樺の根を洗いながら雪の下に走り入りさま、些かな音を立てている。
 此処から山稜を右斜に横切って一度谷に下り、更に夫を登って赤兀の南峰と北峰との鞍部に出ようという長次郎の言葉に従って、雪田から一歩蹈み出した時には、兎に角少しは気が楽になった。岩の多い側崖を木に吊り下って足掛りを拵えては横に搦んで行く。どうかすると降りた所は立木の梢で、枝から枝を伝って足を運ばなければならなかった。そうかと思うと又蛇のようにのた打って岩の間を匐い抜けたりした。青葉に目隠しをされた私達は押し黙ってひたすら手足を働かすのみだ。毛布と身廻りの品を少し入れた背嚢までが、脊中で生きた物のように跳るのが邪魔で仕方がない。頭の中がカッとほてって気もおのずと荒くなる。拳骨げんこつで木の枝を撲ったり足で岩を蹴ったりして、飛び上る程痛い目に遭った。然し重い荷を背負った山人達の厄介さはどんなであろうかと、跡に残された身が役にも立たぬ取越苦労をしたのは、滑稽じみて可笑しかった。やっと草の生えた急斜面の谷へ出て一休みする。
 此谷の上部は赤兀山の頂上附近から大頽おおくずれに頽れて、曝露した岩骨の破片が急斜面に危く段を成して止まっているが、少し下ると山側が両方からひたと押し寄せて、船底を傾けたように落ち込んでいる。突き当りは白萩川の左岸所謂弁慶岩の岩壁で、皺襞の錯綜した直立の翠崖が小窓の頭に続いている。私達が藪から棒にひょいと飛び出した所は、丁度其段の上であったのだ。登りは案外楽であった。唯時々根なし岩とは知らずに大きな岩に手を懸けて、夫がぐらりとゆらいで一行をひやひやさせるようなこともあるにはあったが。長次郎は先見のあやまらなかったことを口に出しては言わないが、温厚な彼の顔にも得意の色が漂うていた。
 山稜は凸凹だらけになって、矮い偃松や灌木の密生した中に切明けが通っている。爪先上りに登って行くと直ぐのろのろした馬の背のような峰頭に立った。此処が赤兀の南峰であろう。時間が遅いので無駄口も叩かずサッサと下り始める、小黒部谷から舞い上った薄い霧が風に連れて音もなく過ぎ去ると、だしぬけに恐ろしい岩の痩尾根が現れた。右からも左からも熊手のような谷が鋭い爪を打ち込んで、山の皮肉を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り取った跡には、血が滲んだように赤い色をした生々しい岩骨が剥き出しになっている。まるで石塔を打欠いで縦といわず横といわず、手当り次第に積み重ねた塀のようだ、夫が左の赤兀谷へ少し傾きながら危く倒れずにいる。其中の小さな岩ほどにも重さの無い人間が一人載っただけで、均衡が破れてガラガラと壊れて了いそうに思える。脚元に気を配りながら夢中になって渡った、其間にも誰かのアッという声が聞えやしないかと心配でならなかった。この木も草もない痩尾根は、遠からず五、六尺は崩れるであろう、そうなれば今よりはずっと楽に越すことが出来るに相違ない。
 山勢が稍や穏になって、所々の草間に珍車、白山一華などの白い花がチラホラ目に入る。張り詰めた気が弛み懸ると今度は、登り降りの激しい駱駝の瘤の様な岩峰が続いた。何とはなしに一種の緊張した気分になって、足早に辿り着いた所は、岩の裂け目に喰い込んだ大雪渓の上端である。雪渓は急に額を掠めて、山の半面を横なぐりにそぎ落した崖腹にのし上っている。何でも今日は山が手を替え品を替えて、偶に入り込んだ人間の私達を翻弄しているのではないかと想った。崖にのり出した西側の偃松に攫まってグングン登って行く、見上げるような大巌が行手に高く現れたと思うと、夫は劒岳の頂上であった。次で間近く小窓の頭、大窓の頭が肩から胸、胸から腰と次第に迫り出して、青く淀んだ沈静な大気の中に、半面に夕日を受けて赭黒い逞しい筋骨が生きて動くかと思われた。私は四葉塩竈などの咲いている岩間の短い草原に突立って、大手を拡げて四十度の熱を[#「熱を」は底本では「熟を」]患っている人のように喚き散らしている自分を見出した。此処が此年頃心に懸けて忘れることの出来なかったあの白兀の絶巓なのだ。三日間山の上の苦しい旅を重ねて、明日はいよいよ二年越しの宿望であった「大窓から劒岳に登る」ことが出来るのであると思うと、標高僅に二千三百八十七米の低い山ではあるけれども、単に其頂上を窮めたということ以外に、或大きな仕事の準備を遺憾なく仕終せた時の強い意識と満足に伴う快感とを喚び起したのも無理はない。
 大窓の大雪渓をのぞみたいという希望は、東に続く前山の峰頭に遮ぎられて駄目であった。対岸の山腹には路らしいものがうねっている、能く見ると何か其上を動いているようだ。双眼鏡で覗くと果して人であった、而も洋服を着た者が二人迄交っている。この三、四日人影を見なかった私達は、物珍らしさにぼうしを振ったり手拭を振ったりして、さかんに呶鳴った。オーイと幽かな返事が来る。小黒部鉱山の発展に連れて、新道が開鑿されたものであろうと想う。寂莫無人の境を想像して、私達の胸に秘められた荒らかな、そして美しい大窓の別天地は、其の余りに人臭いのに少なからず興趣を殺がれざるを得なかった。突然地の底から大砲でも放ったような響が続けさまに二度、谷の空気をつんざいて山から山に遠鳴りした。何だろう、雪崩れだろうかと話し合っている胸先に、不図ふと厭な考えが浮んで来た、山体を破壊し併せて人間の性情を破壊する詛わしいダイナマイトの響。
 櫓は切り倒されて、標石だけが草間に取り残された白兀の頂上を東南に向って下り始める。左手は絶えずガレが続いて、か細い山稜は偃松を頼みの綱にひびだらけの残骸をつなぎ留めている。小高い峰を二つ越えて、草の斜面を右に降りながら膨れ出した山腹を横に通り過ぎると大窓の底に下り立った。先に来た長次郎は其処に休んでいた三、四人の鉱山の人夫と話し合っていた。立ち聞きした様子では何でも番場島ばんばじまあたりに鉱山の派出所があらたに建てられて、電話も其処まで通じているし、近く鉄索工事に取り掛る筈だという。其人達が足早に伊折方面を指して、谷の曲り角に見えなくなるまで後姿を見送っていた私達は、寒い風に吹かれたまま、寂しさを味うが如くに暫く立ち停って四辺を見廻していた。
 この大窓は其底部の形がV字でもU字でもなく、全く絶大な凹字に類している。山と山との距離は六十間とはあるまい。西側は傾斜が緩やかで、漸く芽のほぐれた灌木の上に白檜などの疎らに立っている斜面が、いつか谷らしい形に移って行く。東側は急に傾いて、二、三間下に厚さ三丈にも余る雪渓の平な上端が氷のように堅い表面を見せている。幾筋かの針金をより合せた太い綱索が大きな岩にかと巻き付けて雪渓に垂れ下げてある。夫を手繰って下を覗き込むと、谷も狭しと拡がった大雪渓が涯もなく続いている。遥か下の右側に山の肋骨が赭色の大懸崖を押し竪てているあたり、雪の上に五、六の人影が動いていたが、間もなく崖の後に隠れた。小黒部鉱山の新道は其辺から雪渓を離れて、横に山腹を辿るのであろう。
 峠の道から四、五間南に行って、西側へ下り込んだ処に野営した跡がある、私達も其処へ天幕を張って泊ることにした。今宵はどうでも雪を溶して用いなければなるまいと心配したが、雪渓を少し下った左側に水を得られたのは仕合せであった。世の中に何が嫌だといって、しらあえと、雪を溶した生温かい水をさも勿体ない様にして、鍋も米も碌に洗わないで炊いた飯程いやなものはないと思っている。山の旅にしらあえが付物でない事は、私に取ってはせめてもの幸福である。
 温かい夕食を済して、疲れた体を天幕の中に横たえた。が、如何した訳か今夜はいつものように山と私の心とがしっくりと合わないのは情なかった。山は冷い背中を此方に向けて「知らないよ」と言っているような気がする。私の心は華やかな夕栄の色が急に褪せて了った西の空のように暗く暗く沈んで行った。

小黒部谷の入り・下(大窓及び池の平)


七月二十九日。今日は山稜を伝いて一日に劒岳を上下せんとす。午前六時五十分、野営地出発。大窓の頭を志して急峻なる山側を攀じ、九時、漸く二千五百米に近き地点に達す。前面を望むに危峰乱立、加うるに長大なる偃松密生して、登攀容易ならず。右に転じて一支脈の上に出づ。仰げば峭壁峙立、絶えず崩石あり、到底近づくべからず。九時二十分、小窓の裏なる雪渓に向って下り始む、綱にすがりて絶壁を下るもの二度。十一時、雪渓に達す。十一時四十分、大窓裏の雪渓合流点。昼食。午後十二時十分、出発。二時、野営地帰着。二時三十分、出発。大窓の雪渓を下ること四十分にして渓を離れ、三時四十分、小黒部鉱山事務所。四時、出発。四時四十分、池の平。四時五十五分、出発。四十分にして小窓の雪渓に達し、お下ること二十五分にして、六時、劒沢の岩屋着。野営。
大窓から大窓の頭をえて小窓へ出るには、少くとも五時間を要するものと思わなければなるまい、荷物があれば尚更である。私達は二時間余りを費して漸くその三分の一すら辿ることが出来なかった。偃松が深いのと傾斜が急なのとで、くも時間を費すが、通過不可能ではない。小窓から三窓さんのまどへ出るにも二時間以上を要することは、初めて此処ここに登られた吉沢君の紀行から推して知ることが出来る。大窓から一日で劒岳を上下しようと企てた私達の向見むこうみずには、池の平のさんしょううおも肝を潰したに相違あるまい。

 東雲しののめの光が雪の障子にぽうっと白くして、大窓の夜は明けた。有明の月が山の端から青白い顔をして覗いている、私の体を藻抜もぬけ出た魂のかけらではないかと思った。今朝元気の無いのは其所為せいであるかも知れぬ。長次郎は厭な夢を見たと言いながら鍋を提げて米を研ぎに行く。聞いて見ると、何でも誰か岩と一緒に谷底へ落ちたのだそうだ。急いで下りて行くと息はあるが、血だらけになっているので、誰であるか分らなかったとのことである。何にしても余りい夢ではない、今日は少しマズイなと思う。しかし何がマズイのかは私にも薩張さっぱり見当はついていないのだ。
「無用の者入ることを禁ず。大林区署」と張紙して、天幕の中に一切の荷物を残し、身軽になって出掛けた。しげしげ通行する鉱山の人夫の中には、性質たちのよくないのが居るかも知れぬ、うっかりすると荷物を盗まれるおそれがあるので、実君の発案に従ってちょいとおまじないをしたのだ、鎮西八郎お宿の格である。直ぐ急な登りが始まる、最初のうちは偃松がひくいので、岩の上も楽に歩けたが、五十米も登ると蒼黒い偃松の波が急に深くなって、腰から肩の辺まで押し寄せる。所どころに山の肌が赤くすり剥けて、大きな岩骨を露わしている。其処そこを目当てに偃松を掻き分けて、次から次へと辿って行く。私達はこの怪しいガレに導かれて、二時間余りの苦しい登りを続けた後、一つの峰頭の突端に立った。
 恐ろしい荒廃と盛んなる偃松、この二つの矛盾したものが不思議に旨く調和された行手の光景に対して、私達は暫く黙って眺めていた。うなる迄には人間の短い一生などは、数限りも無く過ぎ去ったことであろう。そして恐らくは今も尚お人というものを知らないこの大窓の頭こそは、どんなに自然のままの荒けた姿をして私達を迎えたであろうか。私は日に何度となく谷にこだまするダイナマイトの響を聞いて、風雨氷雪の外には未だ曾て経験したことのないこの山に、更にあらたなる破壊力の加わったことを思うと、此時寧ろ予定を変更して其いただきを窮めなかったことが、大なる緩怠であったような気がしてならない。
 横搦よこがらみに小窓へ出ることに決めた、ぐずぐずしていては今日中にとても劒を上下することは出来ないと思ったからである。荷が無いので著しく足の早い長次郎達は、偃松の茂みに隠れたかと思うと早くも右に延びて小さな尾根の上に頭だけ出して前を眺めている。「どうだ、行けそうか」と後から声を懸けながら漸く追い着いた。返事の無かったのも無理はない、前は底も見えないような深い谷が三方を怖る可き絶崖に取り巻かれて、末端からは雪の瀑を小窓裏の大雪渓に奔注している、としか想えない。殊に東の方七、八十間の距離に聳えている大窓の頭の最高点は、百五、六十米もあろうと思われる大峭壁を、其乳房状に尖った絶巓ぜってんから直に峭り落して、まるで赤煉瓦で積み上げた巨大なる殿堂の壁が猛火に焼け残った儘突立っているようだ。登ることは勿論横に搦むことも絶対に不可能であると事がきまれば、かえって恐ろしくも何ともない。安心して見ている中に峭壁の中央目八分の高さで何か動き出したように想われた、瞳を据える間もなく突然大きな岩が抜け出して、其儘まっしぐらに遥かの谷底へ落ちて行く、ドーンという凄まじい響が脚の下から起って、頭の脳天へ突き抜けたように感じた。無数の岩塊が跡からも跡からも止め度なく崩れて、谷の中は一しきり速射砲を釣瓶つるべ打ちに放ったような音が鳴り止まずにいた。「恐いのう、あの下に居たりゃ生命は無いぞ」、頓興な声と共に金作は、腰の煙草入れを抜き出して先ず一服と尻を落ち付ける。
 雪渓に下りて小窓へ登るより外にみちはなくなって仕舞った。此処から眺めると小窓裏の雪渓は、上端を小窓の底部に開いて、表側よりずっと急ではあるが登りは楽そうである。しかしあの崩石のとばしりが今から心配になる。「ナニ、瀑が幾つもあるから案じはねえ」。長次郎と金作が口を揃えて事もなげに打ち消してしまう。長い偃松の中を潜りながら、枝から枝へ手足を托して体を運ぶのがなかなか厄介だ。硫黄の粉末のような黄色い花粉が烟のように舞い※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)あがって、息が塞る程苦しい。一度落ち込むと、ふっくり岩間を掩うた青苔の陥しあながするすると腰のあたりまで引き入れてしまう。頭の上では偃松の枝が手早く籠目を組んで、素知らぬ顔をしている。一時間は過ぎ去ってしまったが、私達は未だ偃松の痛い包囲から脱け去ることが出来なかった。
 これから何でも一の窪を下りて漸く偃松の重囲を脱した後、綱を頼りに崩れ易い側崖の鼻を廻って、同じ崖続きの中腹に狭いが好い工合に人ひとり通る位は余裕のある岩襞の上に出た。矮い栂や樺などの密生している所もあれば、禾本かほん科の植物が房さりと生い茂っている所もある。岩襞はいつか自ずと馬の背のような崖を形造って、私達は其先端に小高く堆積した岩塊の上に立った。脚の下には小窓裏の雪渓が大きな熔炉から流れ出した銀の熔液のように輝いている。ガラガラした破片岩の堆積を蹈み崩さぬように注意して、一歩一歩崖を下り始める、何処を見廻してもあか茶けた峭壁がぐるりと取り巻いて、別に危険が身に迫っているという訳ではないが、世を狭めた人の感ずるような重苦しい圧迫の手が恐ろしい力を持ってひしと押し寄せて来るような気がした、長次郎はまたしても昨夜の夢を繰り返して薄気昧のわるいことをいう。途中一ヶ所二丈ばかり崖がえぐれ込んで、や危険と思われる場所があった、のり出した岩に裂目が多くつ崩れ易いので長次郎も心配したが、綱に縋って思ったより楽に下りられたのは嬉しかった。其時長次郎は下の方に少し傾斜の緩い平地らしい所が見えたので、杖を投げ下ろしたが一溜りもなく下の谷底まで滑り落ちてしまった。
 下るに従って崖の面は岩の凸凹が少なくなり、手掛りや足掛りがなくなったので、容易に動けない。それでも長次郎は構わず真直ぐに下りて行った、金作と源次郎は左に搦んで少し茂った木立の間に身を隠した。私達三人は立ちすくんだまま声の懸るのを待っていた、暫くすると長次郎の姿が雪渓の上にあらわれて、振り仰ぎさま「こっちゃだ、こっちゃだ」と呼ぶ声が聞える、思い切って其方に下りようとする途端に、左の方からも金作の声が聞えた、どっちが楽そうだと聞いて見る。ひどい処だと答えたのが長次郎で、此方は楽だぞと答えたのは金作である。最初私達が下りた窪が絶壁の下で雪渓をなしているのを見たが、今漸く其下手の横へ出られたのだ、然しこんな急な雪渓にはまだ出遇であったことがない、カンジキなしではとても下れぬ。三人が其処に腰を掛けて銘々に持って来たカンジキを金作に穿かして貰っていると、下から長次郎が鉈で足場を作りながら登って来た、「如何だい、ひどい所だなあ」と南日君がいう、「皆強いでまあまあ怪我がなくてよかった」と長次郎、金作は頻りに「折角せっかく旦那方を案内して来ながら劒へ行けなかったのは済まない」と気の毒がる、「何に構やしないさ、明日またしっかり頼むよ」と南日君が慰め顔にいう。
 覚束ない足どりで急な雪渓を三十間も下ると小窓裏の大雪渓に出た、最早もはや十一時を少し過ぎている、劒へ登ることは諦めなければなるまい、荷物を一緒に持って来て居れば、此処から小窓を踰えて劒沢の岩屋へ出るのが道も楽で近く、二時間半もあれば行かれるであろう、惜しいことをしたものだなぞと、身一つを辛くも此処まで運んで来ながら、喉元過ぎて熱さを忘れた私達は早やそんな贅沢なことを考えていた。空は何時いつの間にかすっかり曇って、薄紫の霧が小窓の方からのろのろ匐い下りて来る、其中を縫って高く飛鳴する岩燕の姿が影絵の如く消えたり顕れたりする。
 此小窓裏の雪渓は表側に較べると広さは其三分の一程もあるかなしである、其上両岸の峭壁は殆んど一列の屏風の如くであるから、打ち開いた壮大の感には乏しいが、荒怪な気に充ちている。雪渓の下には幾所にか瀑布があるらしく、瓢箪の腰のようにくびれたせまい口から箒の掃き目のような痕を印した雪の瀑をドッとなだれ落している所が此処かしこにある。其一つだ、堆雪がえぐれて岩壁との間に六、七尺の隙間が作られ、其処から臼を挽くような音と共に一団の霧がむらむらと舞い上るのを見た。下へ廻って覗き込むと暗い奥の方にたぎる水音が聞えて、冷い風が習々と顔を撫でる。雪の厚さは二丈余りもあろう、夫が三、四尺ずつ層をなして堆積している、層と層との間には土や小石の混った幅二、三寸の汚れた雪の縞が織り込まれている。此一つ一つの層が年々消え残る雪の量であることはたしかだ、恐らく下の部分或は寧ろ岩壁に接した横の部分が溶ける量の少ない年には、雪渓がずり落ちぬ為に全体の残雪の量が多く、其反対の年には少ないのであろうと思われる、少くとも此小窓裏の狭い雪渓では、そう考えても間違まちがいはなさそうだ。
 大窓から続く雪渓との出合に達して、雪の上に腰かけながら例と違って物足りない昼飯を済した、此処にはう夥しい人の足跡が雪の上に残されている、私達も其足跡にいて右側の尾根に造られた新しい道を登った、二人の人足がせっせと道普請みちぶしんをしている。途中横一文字に雪渓をち割った二つの大きな断裂が望まれた、この裂目がある為に道が造られたものらしい。暫くして道は雪渓に下りて左側の尾根に移ると登りが急にえらくなる、だれ切った体にはこの登りが相応にこたえた。木立の中を通り抜けていつか向う側に廻る、此処でも五、六人の人足が道普請に忙しい。左下に見えていた深い渓が次第に浅くなり、終には雪が消えてまだ間もない一つの窪のようになると、道は其中を通って真黒に苔の蒸した岩塊の狼藉たる間を登って行く、昨日降りた草原に出て、向うを見上げると南日君と長次郎が薄い霧の中に立って、用たしの為に二十分も遅れた私を待っていた。
 手早く荷物を纏めて、この残惜しい野営地を後に雪渓を東に向って下り始める、茫々たる霧は雪と溶け合って、かぎりの知れない鼠色の天地は、眼のあたり尺寸の間に限られて、五、六歩の先に立った南日君の姿さえ掻き消すように失せている。雪の上には階段状に足場が刻まれ、それに沿うて十間か十五、六間ごとに三尺程の鉄の杭を打ち込み、杭の頭には針の孔のように輪が造られて、夫へ彼の大きな岩から垂れ下げた鋼索が引き通されている。「カンジキを穿いてあの雪の上をザクザク歩いたらどれ程愉快であろう」と、南日君と顔さえ合せれば口癖のように話し合って、親鳥が雛をはぐくむように胸に育てていた其たのしみの萌芽も、この一条の鋼索と雪の上に印された無数の足跡とに依って、未だ二葉ならざるにむざと蹂躙ふみにじられてしまった。然しこの大霧の日にこの大窓の大雪渓を下るということは、私達の萎びかかった増長心になりの昂奮と満足とを与えたことは言う迄もない。
 不意にものの気配がしてハッと顔を上げる、シットリした重い霧の垂幕の中から、鉱石入りの小さなかますを背負って腕組みをしながら登って来る人夫の姿が朧ろげに現れる、もう鼻と鼻とが擦れ合う程に近寄っている、互に挨拶の言葉をいい交わして、一歩下りさま振り返った時には、二人は既に永劫に隔てられていた。電光形の足場は下るに従って少しずつ南へ振れて行くように思われたが、終には一段高く積った平な雪堤の上に出た、昨日大窓から見下した大懸崖の下に来たのであろうと思う、雪堤はいつか南に向って極めて緩かな登りとなっている、此附近の雪量の多いことは実に驚く可きものであった、雪堤の端に杖を立てて下を覗き込んでいた南日君は、近づく私を待ちうけて「この雪を見給え、さかんじゃないか」と顎を突き出して「如何だい」といったような顔付をする、いつか中央気象台の岡田博士が「内地で最も降雪量の多い所は越中劒岳の麓で、二丈も三丈も積る」と話した新聞記事を読んだことがあるが、今七月下旬の盛夏の候でさえ其位は残っているのであるから、三、四月の頃はこの倍以上もあろうと思われる。私は「うん、壮んだな」と答えて暫く其壮観に見惚れていた。この前劒へ登った時連れて行った人夫の春蔵というのが、よく「鼻頭かたれてあるくな」と言っては私達を笑せたが、今日程続けざまに鼻頭かたれて歩いたことは曾て覚えのないことだ。そして鼻頭かたれて歩くことも思ったより気持の好いものであると考えた。恐らくわが生涯の憧憬の対象である山や谷は、登山者本然の慾望に駆られ、望む可くして容易に立ち入ることを許されない域にまで侵入することを大目に見て置いて、ますます其執念の募り行くように、そっと鼻頭かたったのではあるまいか。果して私は三たび大地を揺がして近く耳元に響いたダイナマイトの爆音に対してさえ、またしても鼻頭かたれたと痛快に感じた程とりのぼせていたことを後で気が付いた。
 右からくずれ落つる急な雪渓を横切って、山腹に造られた新らしい道の傍の新らしい小屋の前に荷を卸して休む、昨日白兀の頂上から瞰下みおろした道であろうが、大窓の雪渓から湧き上る濃い霧の幕は、対岸の山々を深く閉じ籠めて、其処に今どのような神秘劇が行われているのか、舞台の片端をだに覗き見ることを許さなかった、時折薄い霧の翼が汗ばんだ私達の額を撫でながら音もなく悠々と舞い連れて行く。
 此道は小黒部鉱山の事務所まで山の等高線に沿うて殆ど平坦に通じている。おどろの霧の中から虚気た顔をして出て来た私達は、薄日を浴びて暖かい黄な感じのする闊葉樹林の穏かな空気を一口吸っては、身体中に鬱積した灰色の毒素を吻とゆるやかに吐き出した。頭が静まると気が軽くなって足も自ずと早くなる。山の鼻を幾度か廻って二度三度雪渓を横切った、最初の一つは五、六丈の瀑が雪の洞穴からたぎり落ちて、また雪の洞穴に隠れる前に思うさま躍り狂うている姿を見せた。樹は小さいが今を盛りに咲き誇った山桜の花蔭では、大伴ならぬ山の旅人も一枝かざして何か舞いたいような気も起る。雪消の名残を止めた小石交りの斜面には、目も醒るばかりに鮮かな深山毛莨みやまきんぽうげの群落に交って、大桜草のくれないが口紅こまやかな御達等の面影を偲ばせている。其中に転がって見たいようだ。此日頃いかつい偃松の枝や荒い山上の風にのみ撫でられ晒されて、骨の髄までサラサラに荒け切った体には、斯うした溢れるような柔い色彩の感じは、最も懐しい者の一である。
 ぐるり山の鼻を廻ると打ち開けた岩の多い緩傾斜の窪地に、入口を此方に向けて建てられた見窄みすぼらしい鉱山の事務所が現れる、其下の方にも二つほど可なりの建物があった、飯場であろう。附近には大桜草、白山小桜、深山毛莨、大葉の黄菫などが、空疎ではあるが思ったより水気のある地膚の所どころを美しく飾っている。かけひの水をうけ入れた桶の中には、見事な山桜の枝が無造作に投げ込んである。直ぐそばには下葉を摘み採られて茎の伸びた五、六本の青菜がそれでも花を着けている。米と味噌が少し不足して来たので、是非ともそれ丈買い入れる必要があった。長い間懇願の末漸く「余分に貯えてある訳ではないが、こんな山の中で御困りになっているのを断るのも御気の毒であるから、米の五升位はお譲りしましょう」という返事を聞いて安心したが、味噌の方は諦めなければならなかった。家の中は片側が土間で、片側は板敷の上に薄畳が敷いてある、其奥は事務所であろう、隔ての障子が締め切ってあった。一脚のテーブルが淋しく入口に据えられて、煙草、酒などと書いた伝票が散ばっている、土間では色艶のよくない四、五人の女が金鎚でコツコツ鉱石を選り分けていた。私は樽の底でも叩いて味噌を選り分けてれた方がどの位有難いか知れないのにと思って情なくなった。長次郎達は頻りに鉱石の屑の中を引掻き廻して、これも水鉛よりは寧ろ立派に結晶した石英を拾い出しては喜んでいた。
 家の前の新らしい道を右斜に辿って、岩間を走り出た豊かな水のだぶだぶ流れている窪を横切ると、左に折れて岳樺や深山榛の繁った尾根をひたすらに急ぎ登った。朽葉の残骸を止めた粘り気のある黒土は、たっぷり水を含んでつるりとよく滑る。一条の細径が右にわかれて二、三町の彼方に崖の中腹を穿った暗い坑道の入口が二つ許り覗かれた。間もなく雪渓を渡ると草原を斜に稍やなだらかな道が私達を一の峠の頂上に導いた。偃松や小笹の茂みが霧の中に濃淡の陰影を織り出した堤のような尾根の上に立って、其処らに散らばっている草鞋切れや古新聞の屑などと不思議な対照を表わしている前面の光景に対して、私は二つの異った世界を一度に見たような気がした。
 脚元から起った大雪田は霧を吐くのか霧に吸われるのか、曇りを帯びた鋼のように冷たく沈んだ色を見せて、しずかに霧の底に横たわっている。それをめぐって山の裾らしい朧ろの線が、雪田の縁に固く凍み付いて、上の方は有耶無耶に化けている。茫漠たる雪の高原、すべてが灰色の冬で、すべてが寒さの権化である、わずかに目に入る偃松の緑さえも蒼黒く凝って、葉末からは垂氷のような雫が滴っている、生命といっては微塵もない雪の白無垢に掩われた墓原を眺めて、私は世の終りを見たと思った、これが生ある者の一度でも足を蹈み入れたことのある場所であろうかとわが目を疑いたくもなる、この荒寥たる池ノ平に再び「春」が訪ずれて、彼女の墓を涙の雨に緑ならしむる時はいつのことであろう。
 誰を見ても皆寒そうな顔をして、立った儘碌に口もきかない、思い切って雪田を下り始める、表面はザラメのように堅く凍っているが、足が吸われるようで少しも滑らぬ。雪田の中央には二坪たらずの池がある、深さは一丈余りもあろう、※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)らんてん色の水が大きな渦を巻いて、よれよれになった奇怪な尾を伸ばしながら、雪の下で気味のわるい音を立てる、なかば以上水に浸った雪田の端は美しい瑠璃色に冴えて、池の周りをぐるりと取り囲んでいる。小窓の方面で二度爆声が聞えた。
 雪田を横切って南に行くと、五、六の巨岩が重り合って水の落ち口を示している、渦を巻いて雪の下に走り入った池の水は、滾々こんこんとして湧き上る噴泉の如くに一度に迸り出て、※[#「さんずい+彪」、U+6EEE、390-11]々と其処を流れている。此渓流に沿うて下れば劒沢へは近いのであるが、渓は頗るけわしい、殊に水量の多い時は困難で危険である。右に廻って一段高いや平な窪地に登った、道がある、枝の裂けた岳樺や膚のすりむけた深山榛の叢立ちは、残雪に押し窘められてまだ生命の閃きを見せない、八、九人の鉱夫が小窓の方からぞろぞろ下りて来た。此附近に野営して小窓から劒へ登ることを強く主張した南日君も、見るから寒そうなこの野天に天幕を張って一夜を過すことだけは、余り気乗りもしていなかったらしい、小窓を登ることは私も熱望していたが、この冷い物の怪に充ちた原中に野営することは思いも寄らぬ、明日三窓を登って時間に余裕があったら小窓へ廻ることに決めて、輝水鉛の露出した岩径いわみちを伝いながら小窓の雪渓に下り立った。
 雪渓は幅の広い堤防状の段を斜に幾つか形作って、右から左へ左から右へと入れ違いに緩やかな勾配で丿※へつほつ[#「迅−しんにょう−十」、U+4E41、391-5]と続いている、表面をすべるふくよかな線のうねりが如何にも美しい。陽炎の様な淡い水蒸気が其上に軽く漂うて、末は遥かに雲の中に没している。両岸の岩壁は殆んど垂直に近い凄まじい崩壊面を見せたのみで、低く垂れた雲に掩われているが、私達の心を惹き付けるには充分であった。
 下るに従って崖は高くなり谷は狭くなって、終には左からのり乗した山の裾で袋のように閉じられている、――閉じられているとより思えない、不安に騒ぐ胸を押し鎮めながら、脅かすように突立ったせまい岩壁の間を少し左に行くと、谷は俄然右に開けてまた長い雪渓が始まる。両崖から崩れ落ちた岩屑や土くれで著しく汚れてはいるが歩くにはかえって楽である。鬱陶しい霧や雲はもう遥か後になった池ノ平のあたりをまだ暗く包んでいる、何処かに日のさす気配がして谷の空が明るくなった。久振りで濃いみどりに紫の影をやどした針葉闊葉の混淆樹林が行手に顕れて来た時には、疲れに疲れた私の神経は不意に与えられたこの慰安の前に全く新たなる快よさを感じた。
 三窓の大雪渓との出合に達して、尚も雪の上を二町程下ると雪渓はここに尽きて、真白に霧を吐く奔湍と雷のような瀬の音とが続いた、河原は次第に開けて樺の木立の上に屋根ほどの大きな岩が幾つか顕われる。其一の南に面して砂地を抱えた大岩の根方が私達の今宵の泊場所剣沢の岩屋である。
 痺れるような水に漬って汗に汚れた体を洗った、余り冷いので一分間とも入って居られぬ。下着を着換えてサッパリした気持になって帰って来ると、賑やかな食事が始まる、変化に富んだ今日の旅もこれで終りを告げたのかと思えば、何だか不思議なからくりでも覗いて来たような気がする。日はとっぷりと暮れて薄曇りのした空には、弱々しい星の光がそれでも冷たく冴え出した。皆より先へ天幕に這入って工合のよさそうな所へ横になる、うるさい程高い瀬の音もいつかねむりを誘う子守謡のように快よく耳に響いて、それが次第に遠ざかって行く、体が端の方から溶けて安らかな心臓の鼓動のみが残る、私達の穏かな夢は静かに枯草の枕を伝って岩から小石へ小石から砂へと河原一面に沁み込んで行くように想われた。この後幾年或は幾十百年の間に此谿谷を旅してこの岩屋に一夜を明かす多くの人の中には、おもいを此岩屋に泊ったことのある前人の身の上に馳せて、其多感なる心と電流の如く交通するなつかしい夢の跡を偲ぼうとする者がないとも限るまい、其時こそ恐らく河原の砂や小石の一つひとつから強く印象された私達の夢の囁きを聞くことであろう。

劒岳


七月三十日。午前六時十五分、劒沢の夜営地出発。三窓の雪渓を登り、八時十五分、三窓着。八時二十五分、出発。左に崖腹を伝い、直に急峻なる登りとなり、九時二十五分、三窓の頭に達す。この峰は長次郎谷の雪渓が最も右に分岐せる者の上に聳立せる岩峰にして、峰頭二裂し、東南に向って八ツ峰と称する山稜を派出せるもの也。これより危岩錯立、登攀困難を極む。主として南側をからみ、十時二十分、長次郎谷の登路と合す。十時四十分、絶巓ぜってん着。昼食。十一時四十五分、出発。十二時、長次郎谷の雪渓を下り始む。午後一時十分、劒沢の出合。劒沢を下り、二時十分、岩屋帰着。再び野営。

 快晴の日、後立山山脈の雄峰鹿島槍ヶ岳の絶巓に立って、西の方立山山脈を展望したことのある人は、正面に黒部川の大峡谷を隔てて右には仙人山、左には黒部別山が仏菩薩の金剛座下ににじり寄る怪獣のようにうずくまっているその背を蹈まえて、壊裂した金字塔を押し立てている劒岳の右の肩からや斜に山腹へかけて、あたかも夭※[#「虫+喬」、U+87DC、393-15]たる白竜が銀鱗を輝かしながら昇天するのではないかと怪しまるる長大なる雪渓が懸っているのを見られたであろう。其尾は丁度仙人山と黒部別山とが劒沢を擁してY字形に裾を交えている中央に近い処で隠れている。この雪渓は劒岳の南および東に面した山腹にかかれる幾多の雪渓中の最も長大なるもので、劒の三窓に続く谷底を埋めている所から、三窓の雪渓と呼ばれている。私達は此雪渓を辿って三窓から劒の頂上へ登りたいと思ったのである。
 朝焼の美しかった空はいつもと違って雲が多かった、黒部の谷からは絶えず薄い霧が奔騰している、それが東の風に吹かれて眼の前に大きく立ちはだかった黒部別山の半腹をもくもくっているうちに、真黒に繁った針葉樹林の木の間に吸い込まれてしまう。しかし私達が昼食とカンジキの外は、一切の荷物を岩屋に残して、早めに雪渓を登り始めた時には、霧の運動もしばらく静穏になっていた。
 河の左岸に沿うて昨日の道を一町も行くと雪のある所に達する、ここまでは近頃人が通ったものらしく新らしい足跡がある。振り仰ぐと脚元から起った長大な雪渓は、怒濤の潮頭が白く砕けてツツーとみぎわを浸すように岩壁の根を流いながら、三窓の凹所を目掛けてまっしぐらに谷を駆け上っている、上って視線の窮極に達すると、遥かの空際の三日月形の弧をくっきりと描いたまま其後に没しているが、弧の両方の尖端はなおも上へと延びて岩壁の間に鋭く喰い込んでいる、まるで白銀造りの冑の大鍬形を押し立てたようである。小窓の頭の最高点から南に突き出して、三窓の北の窓枠となっている大岩柱が、鍬形の右の内面に鮫の歯のように尖った黒い頭をポツンと見せる。続いて五つ六つの峰頭が狼牙を刻んで、最後に挟虫はさみむしが尻をもたげたように、双鈎そうこうの尖りを対峙させた峰から始めて偃松の蒼黒い緑が溶けて滴って、更に凝って鮮かな緑を敷き延べた美しい若草の斜面に続く、深山毛莨、大桜草、四葉塩竈などの黄や紅の花が、もうひたひたと雪渓のそばまで歩み寄って、尖った神経にくつろぎを与える。
 左側の岩壁は一層尖り方が甚しい、大小幾多の峰尖が殆んど皆直立しているので、劒戟冲天の有様を呈している。雪渓の中央に立って、この牙のように駢立へんりつして鋭く突立った両側の岩壁を見上げると、何かしらん地質時代の或る巨大なる動物が、胴体を地下に埋没された苦し紛れに大きな口をカッと開いて、上顎と下顎とをむき出したまま化石となっている其中へ飛び込んだような気がする。風雨氷雪幾百万年、肉の落ちたはぐきのあたりには、それでも幾種かの高山植物がわずかに培われてはいるが、堅い硬い岩骨は恐らくは遠い未来まで、その悲痛な最期を語るにも似た凄惨な光と色とを失わないで、此三窓の雪渓の上に突立っているのであろう。
 緩やかであった雪渓は登るに従って傾斜が次第に増して来る。私達は余り物も言わないで足元に目を配りながら、思い思いの方向を取って静かに歩を運んだ。雪の表面は平ではない、波紋のような凸凹の外に雪渓の全体にわたって河が合流する際に起る水脈のような大きなうねりがある、それが左右から中央に向って一つに合するらしく想像されぬこともない。私達は多くこのうねりの痕にいて斜に登った。雪が溶けかかって表面が水気付いて来ると上滑りがするので、真直ぐに登るとこけやすい。
 突然私達の行手に渓を横切って大きな岩礁があらわれた。草書の「以」の字に似ている、丸く盛り上った全渓の雪は、四つに岐れて狭い口からドッと迸り落ちている、構わず中央の最も急なものを勢い猛に登って行く。此下は深い瀑だと先に立った金作が教える。登り切ると雪渓は再び左右に拡まって傾斜もや緩かになるが、息を継ぐ間もなく前よりも激しい急勾配で全渓の雪が大きな堤のように高まっている。一様に平滑である斜面には、波紋のような凸凹はもう見られない。私は額を掠めて真白に輝くこの滝のような雪の高まりを振り仰ぎさま、暫く立ち止まって目をみはらない訳には行かなかった。長次郎と源次郎が先に立って登り出す、見たところでは格別はやいとも思われないが、足がすくむようで容易に跟いて行かれない。三人の中では比較的足の遅い金作の側を離れまいと努めても、一歩一歩に深い注意を払いながら、目の前に顕れた雪の上にちらと視線を投げて、刹那に足掛りのよさそうな所を選んで其方へ足を運ぶので、いつか横の方へそれて後になってしまう。この急坂で旨く滑ればあの岩礁までは一気に転げ落ちるから全く油断はならない。南日君はと見ればいやに落ち着いて右の方を登っている、実君はさかんに鳶口を打ち込みながら一町ばかり下から登って来る。ほんの一瞬間にこれだけの事実をたしかめて、独り取り残されなかった安心の胸を撫で下ろす。
 漸く雪堤の縁に辿り着いて前面を見渡すと、如何だろう、急直なること更に甚しい雪の洪濤が襲いかかるようにそそり立っている、先へ登って早くも波頭に足を蹈み掛けた長次郎と源次郎の体が今にも仰向けに倒れるかと想われた。鉛の様に重い足を引摺ってやっと半ば過ぎまで登る、う暇取れては面白くない、カンジキを穿いて此急傾斜を一息にグングン登ったら、どれ程好い気持であろうとよせば好いのに、あたら時間を費して腰に着けていたカンジキを穿いて見る。今度は鉛のように重かった足が鉄塊のように重くなった。素知らぬ顔をして横目もくれず登って行く南日君を駆抜いてやろうと思うが、かえっおくれる許りだ。これまでカンジキさえ穿けば疾く登れるものと信じていたのは大間違いであった。其間違いを今始めて三窓の雪渓で発見したのだ。しかしこんな急な雪渓を上るには、脚上体なく脚下雪なしの妙諦みょうていに到らないとカンジキなしでは心細い、それを草鞋のままで登った南日君は、たしかにこの妙諦を会得した者というてよかろう。
 長い長い雪渓は終った、湖面を亘るさざなみのような雪田を蹈んで二十間も行くと三窓の若々しい草の緑が私達を迎えた。珍車、岩黄耆いわおうぎ、深山塩竈、青栂桜あおつがざくら、岩梅、雲間草くもまぐさ、黒百合などの咲いている中に交って深山小田巻草みやまおだまきそうの花が薄紫の香を吐いている。背後は谷が急にえぐれ落ちて、危く根を下ろした偃松はべったり崖に食いついている、底は見えようにも余りに深いのだ。
 北には小窓の頭が四、五十米もあろうと思われる将棊しょうぎの駒を幾つか横に並べ、それを真二つにち割ったような背面を谷の向う側に見せて、凄まじい赭色の大峭壁を懸けつらねている。その一つ此窓の大岩柱は直ぐ目の前にがっしりと根を張って、曇りを帯びた朧の雪がいぶしし銀の金具の様に根元を飾っている。最高点は其北に在って赤錆びた圭角けいかくのみのように鋭い。南の三窓の頭はオベリスク状の峰尖をいら立たせた一列の竪壁をはたと胸先に突き上げているのが目に入る許りで、最高点は何処に在るのか見えよう筈がない。此の恐ろしい山を後に深い谷間を逃れた早月川のながれが、富山平原を貫いて日本海に走っている。
 三窓の眺望は東に向って「尽きない情緒の喜び」がある、其処そこには鹿島槍ヶ岳が空翠こまやかなる黒部の大谷の上、蒸し返す白雲をしとねに懐しみのある鷹揚さをもって、威儀儼然げんぜんと端座している、藍緑の衣を綾どる数条の銀線のみは流石さすがに冷たい光を放ってはいるが。少し離れて南に祖父岳、北に五竜岳、唐松岳が真先に進み出た嘆美者の如くに額を伏せて寄り添っている。祖父岳のひだり目も遥かに続く雲海のただ中に、独り青磁の香炉を捧げて天外の風流を楽しんでいるのは浅間山であろう。
 南に向って偃松の間を縫いながら草原を十四、五間登った。それから下り気味に岩壁の根方を廻って、片麻岩の大塊が古城の石垣のようにはらみ出したり脱け落ちたりしている薬研やげんを立てたような窪に衝き当った。掩いかかる岩の下を潜り抜けたり、縁にそっと手をあてがって突き出した岩の鼻を後向きに通ったりして、草も碌々生えていない山腹をえると、赭茶化た破片岩の石滝が個々の稜角を尖らして、互に噛み合いながら底なしの池ノ谷を目懸けてくずれ落ちている。其上の高い岩の狭間から烟のような霧が下り始めたかと思うと、見る間に四辺はぴったりととざされてしまった。
 一しきり其処らをもつれ廻っていた霧がうっすりと剥がれると、荒廃した急な山稜が石滝の向う側にあらわれる。滝の縁に沿うてしずかに登っていた長次郎は、これを見ると直に其斜面に移った、倔強な彼にもこの斜面を攀じ登るのは容易ではないらしかった。三窓でわずか許りの記載をしていた為に一行に遅れていた私は、石滝を横切ると猶予なく其斜面に噛り付いて、遮二無二い登ろうとしたが、頭上三尺の高さに垂れ下った偃松の枝を捉えるまでに幾度かずり落ちた。一度は漸く捉えた枝が体の重みにポッキと折れて、仰向けさまに倒れようとしたのを顔を地面に埋めるようにして危く免かれることが出来た。当薬竜胆、岩栂、栂桜などが目先に寂しい花を綴って霧に揺れている。
 矮い偃松を蹈みわたって、ぼろぼろに岩の崩れた山稜を登って行く、脚の下は霧のめた深いガレのようだ。ういう処では迷う気遣いもないが、どうかすると右にも左にも、岩間を古苔の綿でふっくりと埋めた足触りの好い平らな尾根が顕れて、一行をおびき寄せようとする、そんな時に限ってうっかり其方へ足を向けた私達は、屹度きっと長次郎に呼び戻されて、ひどい崖の横を匍わされなどした。私は其度毎そのたびごとに尾根の方に心を残しながら、疑惑の歩みを続けることを余儀なくされたが、霧の中にゆらゆらと突立った尖塔の突端に辿り着いて、此処が頂上だといわれた時には、四辺を見廻して外に取り付き端もない此尖塔に、不思議に迷いもせずに私達を引張り上げた長次郎の腕前に感心せずにはいられなかった。それは今始めての事ではない、曾て別山から尾根伝いに登った時は、今日にも増して遥かに濃い霧の日に、生路せいろであったにもかかわらず少しも迷わず頂上に導いたのである。山に入っては自ら確めた上でなければ容易に人の言葉を信ずることの出来ない私も、これにはすっかり我を折ってしまった。
 山稜は一曲して西を指すようになる、生々しい赭色の大岩――尖ったのや角ばったのが乱杭の頭をならべて、音もなく流れ寄る霧の中に没してはまた顕われる。私達は一昨日赤谷山の頂上から眺めたあの凄まじい岩峰の登りに懸ったのだ。断崖の絶端から右の谷間を覗いては見るが、母体を離れた岩屑の薄気味悪い音を霧の底に聞くのみで、眼に映るものは一様に灰白の色である。左には長次郎谷の大雪渓が途切れ途切れに姿を見せて、霧を吐いてはトットと駆け下りて行く、怖ろしい敵から身をくらまして逃れるように。ただ一列の嶄岩ざんがん――或者は縦横に切りさいなまれてきずだらけの胴体が今にも一片一片剥がれ墜ちようとし、或者は堅硬な岩面に加えられた風雨の鑿氷雪のかんなに抉られ削られて、滑かな膚が鋭い菱角りょうかくを尖らせ、伏すもの、そばだつもの、横に長きもの、縦に平たきもの、紛然と入り乱れた上を、両手に石を抱いておずおず辿って行く。偃松はとうに姿をかくしてしまった、いつも壊滅の岩間に繊細い根を下ろして、生の教義を力強く宣伝している麗しい高根の花、それさえも影を見せない。この酷たらしい山の残骸!
 しかしこんな光景も次第に目慣れて来た。崖頭が行けなくなると左に廻って、岩間を塗り固めた雪の壁に鉈で足場を刻み、其内縁を伝いながら岩峰の横をからんだりなどする。一度岩の狭間が相対して幅三、四尺高さ一丈二、三尺の峭壁を突き出している処にぶつかった、私達の立っている岩壁の中途には約一尺幅の平らな段がぐるりと取り巻いている、向いの岩壁には斜に五、六尺を隔ててそれよりも心持高いかと思われる位置に厚さ五、六寸おおきさ三尺に近い四角な岩片が附着している、岩と壁面との間に裂目があるから附着しているとしか考えられない。其横には屋根ほどの大きな岩が傾斜の緩い好い斜面を此方に向けて拡げている。私達は此の急崖の縁に孤立した岩壁の中途の段の上に立って暫く躊躇した、南日君は狭間を下りて崖上りを試みようとする。下りるのは左程さほどでもないが登るのが危険であるから強いて留める。私は壁面に蝸付した彼の岩に飛び移ろうかと思った。これが低い方へなら五、六尺は思い切って跳べもするが、向うが少し高いのであるから心配だ。其上人の重みであの岩が脆くも剥がれたら……、考えただけで止めにする。ドサッ! だし抜けに物音がしたので驚いて振り返ると、長次郎が早や屋根程の大岩の斜面に立ってニコニコしている、岩は落ちなかった、しかし彼の早業では落ちても心配はなさそうだ。続いて金作が跳ぶ、源次郎が跳ぶ、猫も杓子も跳んだ。長次郎が大手を拡げて一々油断なく引張り上げる。面白くなって私達も跳ぼうとする、金作が「旦那方に間違まちがいがあっては済まない、少し待ったぞ」と言いながら、ずっと近く寄りさま両膝を突いて身構えた、一尺下れば背後は絶壁であるとは其時知らなかった。源次郎が右の方から金作の帯をしかと握って、片足を岩角にかけて反身になる、長次郎はしっかりしっかりと懸声しながら矢張やはりニコニコして様子を伺っている、「サア旦那、死なば諸共もろともだ、旦那方一人や殺しやしない」金作が声を掛ける。「諸共でも死ぬのは厭だよ、大丈夫かい」。こんな戯談を云うだけに余裕の出来た私達は、小さな窪を目懸けて手足に吸盤を持った雨蛙のように壁面に飛び付いた、同時に金作が両腕をつかんで易々と次から次へと送ってれる、大岩の斜面へ出て皆ホッと緩やかな息を吐いた。
 ややもすると霧の中に姿を見失おうとする長次郎の足早いのに驚きながら、割合に楽な登りを続けて、小山のような巨岩の堆積を向う側に下ると、平な雪渓の上端に長次郎が休んでいる。長次郎谷の下り口に来たのだ。この附近の岩は真黒な色に苔が蒸して、偃松が緑の毛氈を敷き延べる、其間に珍車が咲く、岩梅が咲く、さっきのように荒けた光景はもう何処にも見られない、丸で嘘のような感じがする。不用になったカンジキは重いから此処に残して、頂上を指して急いだ。
 乱石の急階段をんで一歩一歩絶巓に近付く、此処まで来ると何とはなしに一種の親しさが胸の奥から湧いて、それがあたりの空気と溶け合って懐しい声――山の囁きが心耳に聞えるようだ、暗い不安の影は幻のように消えて跡もない。山稜はいつか草と偃松とをよそおうた高原状の緩い斜面となって、眼の前にポーッと雪田が顕われる、雷鳥が一羽それを横切って向うの岩蔭に雪白の翼をちらと覗かす。雪田はいつか又私達を狭い山脊やまのせに導いた、巨巌の上をのぼって間もなく岩を敷き詰めたささやかな平らに出る、そしてそこに見覚えのある一本の標木と、三年越しの顔を合せた時には何でも構わず嬉しかった。
 茫漠たる霧は一度僅に五色ヶ原あたりの雪と緑とを垣間見せたのみで、ついに再び開かなかった、それも好い。私はあたり一面に算を乱して横たわる片麻岩の大塊、其一にからだもたせたまま、眼はいつしか三千米の天空に今年のこの夏の唯一日であるかの如くに今日をほこっている高根の花をうて、その純なる姿にうっとりと見入った。花は何か歌っているのではあるまいか、そうだ、大地の偉大なる力の其一の表象である永遠不滅なる山の生命! それを歌っているのだ、遠い過去の生涯の悲み――それが何であったにもせよ――を忘れて、現在の喜びを歌っているのだ、自然の微妙なる耳を除いて、幸福なる山の囚人のみがこの歌の心を体得しうるのではるまいか。誰れを見ても皆楽しそうな顔をしている。し人が何かの折に飾りなき自己の心を見出し得る場合がありとすれば、今が絶好の機会である、悲みを忘れ痛みを忘れ、純潔と慰安とを抱いて、雪に埋もれた火口の如くに心は沈黙の底に静に燃えている。私の目は涙を催した、そして油然ゆうぜんとして湧き来る「もの皆なつかし」の情に堪えなかった。劒岳の絶巓! 私は此絶巓に三度幸福なる足跡を印するの日が遠からざらんことを心にちかった、それに何の不思議があろう。
 早昼飯を済して其処らを歩き廻った、岩窟へも下りて見た、そして登山した人の名刺を新らしい紙に包み直して新らしい缶に入れた。曾ては早月川方面からの唯一の登路であるく思われた尾根――早月川の本流と白萩川とに挟まれた――と絶巓との続き工合を探る積りであったが、霧が深いので止めた。しかし白兀の頂上から双眼鏡で望み見た様子では、尾根と頂上との連絡点附近が稍や険悪なる場所であるが、其処には多量の雪が懸っているから、登るに骨は折れまいと思われた。果して所見の通りであれば、尾根伝いに劒へ登る路の中では、これが一番安全な路で、多少の風雨多少の荷物があっても危険はなさそうである。
 別山裏の野営地附近から尾根伝いに大窓へ出るには、少くとも十五、六時間を要するものと思わなければなるまい。最少限に見積っても別山乗越から劒の頂上まで三時間、頂上より三窓まで二時間半、三窓より小窓まで二時間、小窓より大窓まで六時間、合せて十三時間以上を要するであろう。別山方面の登路は、平蔵谷の雪渓の上部をめぐる長い岩壁を辿るのが尤も危険で、悪い場所が三ヶ所程ある。岩壁に取り付くまででも、突き出した岩にちょいと体を打ち付けた反動だけでもね落されそうな足場の悪い急崖を絶えず横に搦まなければならないから、恐怖心と油断とは此場合絶対に禁物である。一山を上下するに此の如き険悪なる山稜の長く続く所は、唯一の穂高山を除いて、南北日本アルプスにも類はあるまいと思う。
 直ぐにも出発して元の路を三窓に引返し、山稜を伝いて小窓に出で、逆に当初の目的を遂行しようと強く主張する南日君をなだめて、長次郎谷の雪渓を下ることに同意させるには、劒へ登るよりも骨が折れたので、南日君が渋々とカンジキを穿いて雪渓を下り始めるまでは何だ安心されなかった。私も小窓へ廻ることにはおおいに心をそそられたのであるが、夫よりも長次郎谷を下って見たいという望みの方が少し強かったのである。
 驚いたのは雪渓を下る際、源次郎は仁王立ちに突立ったまま、軽く杖をあてがって、あの急峻な雪上を一気に二、三百尺宛も滑り下りた手際である、夫にも拘らず見て居て少しも危気がない、しかも進止自在である。私達は勿論、流石の長次郎もこれには驚嘆の声を洩らした。あのいきおいで下ったなら恐らく十分ならずして劒沢に達するであろう。後で聞くと雪渓を上下したのは今度の旅行が初めてであるという。滑稽であったのは、長次郎が一足余分にあったカンジキを草鞋切れの紐を拾って無雑作にからげつけ、よたよたしながら下りたことである。長次郎がカンジキを穿くのさえ滑稽の感があるのに、その風体が可笑しいので皆笑った、自分でも笑っていたようだ。私達ははじめの間はよたよた下りて行く長次郎にさえ続けなかった。しかし此四日間一日として雪渓の登降を欠かさなかった練習の効果は漸く顕れて来た、面白いように駆けられる。中にも南日君の如きは脱兎の勢である。途中大きな断裂が雪渓を半ば横切って、斜に奥へ八尺許の口を開いている下の縁に佇んで、雪から滴る水を飲みながら一息入れる。純白なる雪の断面が水浅黄に冴えた色の美しさ。此裂目はいつも七月下旬になると深く全渓を横断して顕われる為に、少なからず登降を阻碍そがいするそうであるが、今年は雪が多いのだと長次郎が説明する。少し下ると私は紐が切れたのでカンジキを手に持って駆け下りた、三、四回滑って両足を宙に投げ出したが、手に提げたカンジキが其度毎にグサと雪に刺さるので、苦もなく止まることが出来た。今迄に此雪渓を下った人の数は少くはあるまいが、手にカンジキを穿いて下ったものは、多分私一人であろう。けだし源次郎の偉大なる滑走と共に特筆さるき空前の壮挙たるを疑わぬ。
 六人十二本の足並を揃えて劒沢の雪渓に滑り出た、いつの間にはずしたか誰れもカンジキを穿いて居らぬ、金作が腰の煙草入れを抜き出して、歩きながら一服する。今日は実に面白い日であった。「これだから山登りは止められない」、誰かそんなことを言う。私達が絶えず口にする登山の趣味ということが朧げながら長次郎達にも解せて来たようである、それが又嬉しかった。
 雪は何処までも続いている。長次郎谷の出合から二、三十間下ると劒沢が三、四丈の瀑をなして雪の下に狂っているのが、岩壁の横合からのぞまれる。急な下りに向うと私達は源次郎の真似をして、立ったまま滑り下りる稽古をした、幾度か筋斗もんどり打って倒れたが、稍や慣れて来た頃には梯子谷はしごだんの落口に着いていた。雪はお二、三町の下流まで続いていたが、厚薄不定なので其上は歩かれない、左岸の雪田を蹈んで更に二町許り下ると雪はここに全く尽きて、徒渉としょう四回の後、岩屋の前の河原に辿り着いて大きな岩の上に攀じ登りさま、再び三窓の大雪渓を濃い緑と冴えた緑との入り交った山の裾越しに仰ぎ見た。
 此河原は周囲を峻しい山々に取り巻かれた峡谷の中としては、思の外に打ち開けた処で、劒沢は南のはずれを一段深く穿貫せんかんしているから、あたかも河成段丘のような観がある。水楊かわやなぎや樺や大杖おおいたどりなどが茂りに茂って、ここは若々しい青葉の緑が流れている。南に面した岩屋の背後は東側が四、五尺の高さに深くえぐれて、十余人は楽に泊れる洞窟を形造っている。稍や薄暗い感じはあるが如何なる暴風雨をも凌ぐことの出来る完全なる泊場所である。更に其奥の方にも四、五人は泊れる岩窟があるそうだ。長次郎が何処からか山独活やまうどと根曲り竹の筍を採って来る、晩にそれを味噌汁に作って香りの高い豊脆な味を賞美した。暮方の空は青く澄み初めて、夜は満天の星が痛いような光を投げ出す、折々流星が長い尾を曵いて黒部別山の上を飛んだ。
中村君の話に拠ると、音沢村の佐々木助七は吾々が劒沢と称している沢のことを西五稜(宛字吉沢君に拠る)の沢と呼び、小窓三窓両渓の合流北股(吉沢君に拠る)を劒沢と云い、之をツルガザワと発音しているそうである。由て思うに大山村の人夫が鶴ヶ御前(宛字、登山地図劒岳号参照)と称するは即ち劒ヶ御前にして、と劒岳の尊称であったものが、いつの間にか転移して其前面に続く二千七百七十六米の峰名となったものであろう。

立山を越ゆ


七月三十一日。午前六時三十五分、劒沢の岩屋出発。劒沢をさかのぼり、八時十三分、長次郎谷の出合。大なる羚羊かもしかを見る。十時、別山裏の平地に達し、小憩して昼食。十時三十五分、出発。十一時、別山乗越着。長次郎等を室堂むろどうに遣り、米味噌その他の必需品をあがなわしめ、吾等は悠々山巓さんてんを南に伝いて、午後二時、雄山。三時二十分、浄土山最高点、此処ここにて長次郎等を待つこと二時間の後、五時三十分、浄土山の西側草原の窪地に野営。

 このし黒部別山の一角に立って、ふと劒沢の谿谷を瞰下みおろした人があったならば、すぐ脚元のほの白い河原をめた薄紫の煙の下に、赤い炎を揚げていきおいよく燃えている焚火の周りに集った五、六の人影を見たであろう。そしてこの恐らく砂原に蠢めいている蟻のような私達の姿は、よしやそれが幾日かを重ねた山の上の旅に人懐しい折であったにしても、ただ好奇の心に一瞥の満足を与えたのみで、長く興味を惹くには余りによく晴れた朝であったであろう。視界を限られた峡谷の天から星の一つ一つが先ず其姿を隠して、白味を帯びた瑠璃色の空に薔薇色の光がにじむように拡がるのを仙人山の尾根越しに眺めた時には、昨日劒岳の頂上に登って二年越しの宿望を充たした平静な心にも、黒部別山のいただきを仰いで華やかな期待にじっとしてはいられない程であった。近くの林で囀り交わす駒鳥の鳴声まで、今朝は気の所為せいかわきて朗らかに聞きなされた。
 岩屋から十五、六間南に行くと劒沢の河原に出る。可成り水量はあるが、水は幾筋にも岐れて大きな岩の間を流れているので、膝も濡らさず徒渉としょうして右岸の沙地すなじを暫く辿った。樺や深山榛などの若木が※爛ばいらん[#「雨かんむり/誨のつくり」、U+9709、409-6]した沙の間に痩せた茎を培っている。再び左岸にわたって、崖の縁を身をそばめて通り抜けたりなどする。水の流れ落ちた沢の様な窪に、二抱えもあろうと想われる大木が、紅味のさした美しい肌理を見せて、まだ朽ちもせず幾本か岩の間に埋もれている、黒部杉であるという。この常緑の針葉樹林に蔽われ、この不断の大雪渓を擁した当年の劒沢の峡谷は、如何に奥深く美しいものであったろう。想うに麓の大森林を失って劒岳の孱顔さんがんは、階老の侶を先立ててにわかに憔悴した人のように、金剛不壊の額にも幾条か※(「山+榮」、第3水準1-47-92)そうこうの皺が増したことであろう。此附近は木立もや繁っているし、天幕を張る位の平地は至る所に見られるから、野営地として恰好の場所である。
 これからまた右岸に移って二、三町とも行かぬうちに、崖頭が大きな岩を畳み上げて横がからめなくなる。此処で最後の徒渉をして左岸に渡った。私は例に依って独り堰のように水中に盛り上った岩の堆積の上を伝って行く。其中の一が昨日通った時には異状もなかったので、何気なく飛び移った拍子にゴトリと脆く崩れる。不意に足をさらわれた体は苦もなく下の深みへ押し墜されて、頭から滝の水をザブリと浴びた。杖を力に立ち上ると水は胸迄しかないので、岸近くだけに急いで駆け上ったが、もう後の祭であった。
 日脚の指さぬ谷間の空気は急に寒さを増したような気がする。衣物を脱ぎ替えようとしたが、「ナニ案じはねえ、歩いている中には乾く」と長次郎がいうので、それもそうだと思って面倒だから止めにする。日向へ出て休もうというので長次郎はしきりに急いだ。私は水の溜った上衣の隠しからグショ濡れになった手帳を取り出して、一枚一枚丁寧に紙をめくりながら手に持って、遅れじと其跡にいて行く。間もなく雪田の縁に達して暖かい日の光が雪の上に長い影法師を映し出した時には、生き返ったように感じた。
 焚火をして暖まりながら濡れた物を乾かした。長さ二町にも余る雪田の上には、雪崩の為に掻き取られた大きな土の塊が二つ三つ横たわって、ひくい灌木などが生え茂っている。一条の裂目が雪田を横断して深さ六、七尺の溝を穿っている先に、小山のような雪の高まりがあって、向う側は山からにじみ出した水の流れが、氷河の如く堅く凍ったまま浅葱あさぎ色に冴えていた。雑木の繁った山の裾を廻ると河は稍や右に折れて長い雪渓が始まる。
 此処から左に梯子谷の細渓を辿って、別山と黒部別山とを連絡する尾根の鞍部へ登るのは容易であるが、内蔵助くらのすけ平に向った側は一面に藪が繁っていて、通り抜けるのに骨が折れるそうである。金作の話にると、内蔵助平は熊や羚羊や猿などの好猟地で、以前は糧食を携えて五日乃至ないし一週間と狩り暮したことがあるという。内蔵助谷が南北の二股に岐れた其間に抱かれている稍や広い窪地は、如何にも笹がひどいということである。其附近には内蔵助の岩屋と称する洞窟があって、広さは八畳敷にあまり、優に二十人は泊れるそうだ。昔佐々成政が十五、六人の従者と共に八日間もかくれていた所だと話してれる。こんな山奥の窟に匿れて居れば、成政でなくとも容易に探し出される気遣はあるまい。
 河の中には大きな岩が半身を抽き出して※[#「石+兀」、U+77F9、333-6]々している。流石さすがにこれは圭角けいかくが鈍い。残の雪が夫から夫へと蜘蛛手に橋を架け渡す。泡立つ水が声を揚げて其根方に搦みついてはすういと流れて行く。水声が聞えなくなると皆雪の上に下り立って、無駄話に耽りながら雪渓を登り始めた。別山続きの尾根が正面に旭を受けて、其処にも多量の雪が眩ゆい光を放っている。殊に別山の大カアールに続く真砂まさご谷の雪渓は、殆んど直線に近い姿を真竪にあらわして、三つばかりの瀑の白泡が丁度、上から目に見えぬほどしずかすべり落ちて来る雪の塊を、其まま巨大な唐箕とうみか何かで吹きちらしているようだ。この静寂な朝の谷間で動いているものは、私達の一行と其瀑の水とより外には無いように思われた。
 真砂谷の落口から劒沢は八ツ峰の裾を大きく右に廻って、日陰に這入るとまるで冬の朝のように寒い。紫ばんだ灰色の空気は冷たくどんよりとして、物の蔭という蔭にねばりついている。うら寂しい夫でいて兎の毛で突いたほども隙間のない引きしまった気分が、何か想像にも及ばない痛快な「だんまり」の幕の開かれる前の舞台に臨んだような感じを起させる。しかし実際此舞台に上ったものは、私達が長次郎谷の入口に着いて谷の空を見上げた時、一頭の羚羊が雪渓を横切って八ッ峰の岩崖に其姿を隠したに過ぎなかった。自然の荒削りのままの舞台は、いつも彼等の上場にってのみ私達を満足させるのである。
 平蔵谷の出合に出た。雪の喰い込んでいる懸崖の一角に日が映して、朱黄色の光線が谷の空気に濃いみどりの影を投げる。登るに従って勾配の緩くなった雪渓は、次第に左へ廻って、南を指すようになると鶴ヶ御前から劒岳に続く山稜が右手に近く草原や偃松の緑を展開して、さまざまの形をした残雪が美しく斜面を飾っている。其一のr字をさかさまにしたような残雪は、この前劒からの帰途、南日君が辷り落ちた際に杖にしていた天幕の支柱を失った所だ。其時私達は遥か下の草原に休みながら、「もっと上だ。もう少し下だ」などと勝手に声を懸けて、一生懸命に草の中を探している南日君を上げたり下げたりしたことを覚えている。今日もそのことを話し合って長次郎と三人で大笑いをした。
 満身に日光をあびて傾斜の緩い雪の上を辿って行く。脚元に小さい蜻蛉が幾つともなくたおれている。見ると秋風に群がり飛ぶ野辺の赤蜻蛉のように入り乱れて雪渓の上を飛んでいるのが、不意に翼を折った飛行機のようにキリキリと二つ三つ筋斗もんどりうって、バサリと落ちて雪に撞き当ったまま、再び飛ぶ勢もなく其儘にたおれてしまうものらしい。勾配がや急になって雪の下から大きな岩の頭が黒く露出しているのが見られるようになる。谷はいつか扇形に開いて、途切れ勝ちの雪が暫く跡を絶つと間もなく別山裏の平に達した。即ち劒沢の源頭である。
 この広い盆状の高原は、しっとりと水を含んだこまかい砂地に嫩草がしとねを敷いたように生い茂って、如何にも踏み心地が好い。夥しい珍車の白い花がそれへ霰模様あられもようを染め出している。草にひたされ草を養っている水の集りが中央に二、三の細流を湛えて、雑魚や水すましの群れこそ見えないが、里の小川のおもかげを偲ばせて、しずかに山の影を浮べている。岩の多い水涯の湿地には、色丹草しこたんそうの群落があたかも苔でも蒸したかと想われるほどに密生して、黄に紅味のさした一、二寸の細茎に三、四の花梗を抽き出し、五弁の小花を咲き連ねた風情は、五色ヶ原の濃紅な白山小桜や濃紫の千島桔梗ちしまぎきょうの大群落に比して、はなやかさに於てとても較べものにはならないが、またなく可憐である。此附近から劒の三窓あたりへかけて見られるような色丹草の叢生は、恐らく他にあまり多くは見られない特色であるかも知れぬ。
 動くのが厭になって草の上に寝転んでいると、長次郎達は昼食を始めたので早速仲間入りをする。実君一人は別山の頂上を指して先へ登ってしまった。一仕事した後の疲れといったような軽いものうさがすぐ眠りと連れ立って、ともすればこの肉体を蝉の脱け殻かなんぞのように振り捨てようと機会を窺っているらしい意地悪の魂を誘い出そうとする。抵抗の無益なるを悟ってか、上下のまぶたは既に妥協を遂げたらしい。陽炎のようなものが目前をぐるぐる廻っている、快い草の香が頻りに鼻を襲うて来るまでは覚えていたが。
 仮睡の夢からさめて筋を抜かれたようにだるい体を、幅の広い急な雪の上を運びながら、漸く別山乗越の頂上に達した。この雪は先年劒へ登った時よりもかえって少ないように思われたが、地獄谷から室堂方面に眼を放つと今年の雪の多いことが首肯うなずかれる。岩と緑とそして残雪とに按配された美しい山谷の模様は、依然として変らぬ美しさを持っている。朝の御山廻りを済した連中であろう、室堂と地獄谷との間を蟻のように往来しているのに気が付く。この大きな立山の猫の額ほどの地に室堂があって、年に幾千の登山者が草鞋の痕を踏み付けるにしても、夫が何の障りになったとも想われない。森厳なる自然の殿堂を其鎮座の所として、おごそかなる式のもとに開かるる神龕しんがんの前に額ずく今の人心には、只管ひたすらに神を敬いかしこみたる昔の人のように堅い信念に支配されて、禅頂の耐え難い願いから登山するものであるか否か、私の知る所ではないが、よしやそのような信念は影だに宿らずとも、少くとも一定の教規の下に拘束されている講中に取りては、唯一の室堂のみが解放されたる天地である。其処に夏になると美しい衣に滲み出るかびのような、周囲に不調和な平原の陋習ろうしゅうあとが汚なく印せらるるにしても、其他の、殊に別山から雄山に続く長い頂上の何処に、あの放縦な多数の登山者に踏み蹂られて、鱗粉の剥げ落ちた秋の蝶を見るようなみじめな白馬岳の頂上に似た光景が見られるであろうか。其点だけでも私は神官の功労に対し、敢て三十銭の入山料を払うに躊躇する者ではないが、今日は室堂へ立ち寄らないので其儀に及ばなかった。
 これから予定の通り黒部川に下りて、東沢から赤牛岳に登り、槍ヶ岳若しくは笠ヶ岳まで山稜の縦走を続けるに就ては、糧食の欠乏を補う必要があった。それで三人の荷持は此処から室堂に直行せしめ、其処で米や味噌等の必需品を充たし得ればよし、もなくば其中の一人は更に立山温泉まで買出しに行かなければならぬ、かく浄土山で落ち合って様子を聞くことに相談をめて、峠を下り始めた彼等の後姿を見送りながら、私達三人は立山本山を指して悠々と歩き出した。積乱雲の大塊は早くも南から東の遠い地平線上に奇怪な姿をあらわして、乱れた蜘蛛の糸のように其巓を天風に吹き散らされているものもある。近い後立山山脈はこの背景の前に藍色が一層鮮かに望まれた。中にも鹿島槍ヶ岳の尖頂は著しく目を惹いた者の一である。
 遊びがてら雷鳥を追いかけなどして別山を横搦みに、礫片の白くきらめく真砂岳をえて富士ノ折立の登りに懸った。いつ砕けたとも知れない角閃花崗岩の大塊が無造作に重り合って、真黒に苔がへばり付いている。それでいて個々の岩塊は少しも稜角が磨滅していない。絶頂夫自身も危く聳立した巨大なる嶄巌ざんがんである。この岩の脈は更に東へ延びて其南側がえぐり取られたようにそげ込んでいる。其処には磁器を打欠いたような雪がひたと喰い入って、立山の東側に懸る最も大きなカールに続いている。この大きなカールを東に抱いて、しかも其中に積っている雪は、恐らく日本の高山に於ける最多量の万年雪であろうと思われるにかかわらず、白馬や杓子や若しくは黒岳などのように直ぐ脚もとから崩壊した二、三百米の絶崖に限られているのとは違って、如何にも大きな山の頂上に登ったという感じを起させるに充分なる幅や広さを有しているのは嬉しい。立山は其頂上の甚しく削痩していないことに因って雄大を加えていることは言う迄もなかろうと思う。私は山の絶頂が一方に於てそげ落ちているのは誠に嫌だ、寧ろ情なく感ずる。其処はどうしても山の絶頂ではなくして八合目か九合目あたりとしか想えない、夫を無理にも絶頂と見なければならぬ苦痛は、自然が私に加える圧迫の中で、唯一の不平である。
 立山には金峰山上の五丈石や鳳凰山頂の大日岩の如く、孤高峭立した人目をおどろかすような岩の尖りは殆んど見られない。或は木曾駒の金懸の小屋又は甲斐駒の屏風岩の小屋から上に露出しているような、恐ろしく大きな一枚岩のわだかまりも少ないようである。しかし比較的幅のあるそして長い頂上――夫も決して平板単調ではない――就中なかんずく大汝おおなんじの附近に三々又五々、ほしいままに横時縦錯せる巨岩の堆積は、山頂稀にる荒寥跌宕てっとうの風物でなければならぬ。之に加うるに海内の偉観と称せらるる眺望の壮大と広闊とを合せ有している。此山上に取り残されて小さな自分をそこに見出した時、人はそぞろに大潮のうねりの如くに強く抵抗し難い威圧と、必然的に起って来る頼りない淋しい気分と、知らず知らずの間に之と対抗せんとする或は既にしつつある心的努力――極度の緊張を感ずるに至るのは敢て不思議でない。それを反て不思議にも私達は通いなれた道でも歩いているような、体までくつろいだ心安さと親しさとをもっこれに接し得るのは、畢竟ひっきょう室堂の影が始終視界を離れない為であろう。人寰じんかんとの交渉を断続した筈の高い処に、お余り小さいながらも縮図されたる下界が存在し、そこに風雨氷雪の危険と威嚇とに打ち克って、私達の心を威圧し慴伏しょうふくせんとする山岳の絶対権威に抗して、人間最高の精神的努力が微かながらも勝利を叫んでいる。それが潜在意識となって私達に異常の寛ろぎを与えるのであろう。室堂の存在は立山に取りて物質的損害を及ぼすことなしとするも、精神的には少なからず威厳を冒涜しているものと思われる。私は四度目の登山には是非とも荒蕩こうとうたる黒部の峡谷から、処女の純潔を保てる大雪渓の雪を蹈んで、この日本に於ける最高の花崗岩たる名をほしいままにすき立山の絶巓に攀じ登り、飽かず驚嘆の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはりたいと思っている。
 岩にすがり付いて大汝の最高点に立った。立山三峰の中では雄山が一番低いかも知れぬ、少くとも此処の方が五米突メートルばかりも高いように想ったのは、必ずしも眼の誤りではないであろう。大蓮華山の方面では頻りに雲が湧き上っている。其先端は黒部の谷を横切って、時々劒岳の鋭鋒えいほうに砥の粉を打ったような霧を浴びせる。五竜岳の崔嵬さいかいに続いて鹿島槍ヶ岳の峰頭には、白毛の如き一簇いっそうの雲がたむろしている。祖父岳から岩小屋沢岳、鳴沢岳、赤沢岳にかけて尾根は余程低くなる。針葉闊葉の混淆樹林が黒部の谷底から緑の大波を捲き起して、其低所を目懸けて乗り越そうとするさまだ。蒼黒い偃松の波頭に取り巻かれて、穏かな水溜のような草原が冴えた緑を湛えている所も見える。スバリ岳針木岳が崩岩のくずれをドッと押し出して、この大波を再び黒部の谷へ向けて揺り落している。籠川谷の空には重い積雲の塊が低く垂れて、蓮華岳の巨頭を半ばより截断し、七倉、不動堀沢、舟窪の諸山は、この雲塊の下に黒く沈んで鬱陶しい吐息を洩らしている。藍色をした千切れ雲の影が、不動岳の円頭顱を撫でて、物々しいピラミッド形の南沢岳を横にのろのろって行く、其南の肩のあたりに特異な尖頂を押し立てているのは烏帽子岳であろう。
 行手を圧して雄山の絶巓が壊れかかった金字塔のように聳えている。先に下った二人の後を追うて急いだ。磊※らいら[#「石+可」、U+7822、418-8]たる岩間には高根菫岩爪草いわつめくさなどがわずかに寸青を点じている外は、植物は至って稀である。岩石の急坂を登って雄山祠前の突端へ出た。狭い頂上に敷き詰めてある丸い小石は、登拝者の持って来たものであろう。小さいが神さびた神殿の柱や扉に、見るもうとましい楽書が汚らしく書きなぐってある。黄揚羽きあげはが縺れ合ったまま、直ぐ前の十四、五米突も低い峰頭に、ばらばらになって三、四本残っている測量櫓の柱を掠めて、何処ともなく舞い連れて行く。視線の向う所は黒部川の上流を取り巻いて、天半に揺曳ようえいする青嵐の中にさっと頭をもたげた、今にも動き出すかと想われる大山岳である。
 三ツ岳から南、国境の大尾根は幾重の雲がからみ合い重り合って、遠い空のてに銅色を帯びた雲の峰が強い日光に照り映えている。然し黒部の谷には一点の雲もない。真先に赤牛岳が大肌脱ぎになった赭色の全容を曝露して、無遠慮に両脚を投げ出している。よくると荒っぽい手法で刻み上げた烏帽子直垂ひたたれ姿のいかめしい武夫が、大紋の袖を束ねて稽首しているさまがある。一段高く黒岳の尖った兜の鉢が雲の幔幕まんまくの前に銀鋲の光を輝かしている。祖父岳から右にべた一線が、幾多の峰頭を鈍い金字形に統一した尨大な薬師岳との間に、鏑箭かぶらやのように高鳴りして雲平の高原を拡げている。其奥に筋骨を剥き出した黒部五郎岳が火山のような長い美しい裾の斜線を見せて、秀麗な円錐形に聳えているのがこの大画幅に点睛てんせいの妙を極めて人を叫ばせずには置かない。最も近く大きな蛞蝓なめくじを匍わしたような鬼ヶ岳と、黒部の谷を横さまに駿馬の躍るが如き木挽こびき越中沢二山との間に、五色ヶ原の曠原こうげんが広く長き段階状に展開して、雪と緑とそして懐しさとが溢れている。表面を横走する太い線の一つ一つには、流石さすがに隠し切れない力が籠ってはいるが。今夜はあの広やかな原の一端に天幕を張って、穏かな夢を結びたいものだと思った。
 双眼鏡で一わたり室堂の附近を物色したが、人夫の姿は何処にも見えなかった。気の早い南日君は先に立ってサッサと降り始める。道形はあっても岩の破片が雪崩れかかっているので、其中へ大股に割り込むとあしのうらが刺されるようだ。それをかばって小走りに駆け下りる、今度は膝頭が痛い。五十町といわれる急坂を半ば過ぎた頃、前面を瞰下ろすと南日君は既に浄土山の登りに懸っていた。急ぐ必要もないので気まかせに歩いて行く。一ノ越の下から室堂の方へかけては一面の大雪田である。喉は渇いているが其処まで雪を取りに行く勇気は無かった。
 下り切ると何時いつか又上りになる。路は浄土山の東側に通じて緩くうねっている、夫を避けてわざと右の窪地を登った。一ところ砂礫の間に雪消の跡らしい湿地はあったが、水はついに得られなかった。白山一華、高根菫、当薬竜胆などがうら淋しく咲いている。短い偃松や草原を好い加減に踏み分けて、間もなく頂上へ辿り着いた。四方を見廻したがあたりに人の居るらしい気配もない、彼等は一体何処に待っているのであろう。南日君は実君と一緒に此処とは瓢箪の形になって続いている西の頂上を指して出懸けた様子だ。私は暫く草原に寝転んでいたが、寒くなったので一の窪地に逃げ込みながら焚火を始める。いつか寝入ったものと見えて、峰越しの冷い風にふと目が覚める。日脚は西に廻って影さえ少し薄れて来た。まだ何の音沙汰もない。
 焦れ気味になって起ち上ると、南の方から四、五人の一行が登って来た、其中の一人は北沢君である。針木峠から五色ヶ原を経て来られたのだそうだ。立話しの末「今日は写真も撮れないから、雄山へは明日登る積りだ」といわれる。この模様では明日は上天気らしい。一ノ越附近で野営されるとのことに成功を祝して別れた。
 時は経った。とうとう辛抱し切れなくなってあてもなく歩き出した。不意に西の頂上の記念碑の前に人影が顕われる、双眼鏡で覗くと空身の金作と源次郎である、暢気のんきらしくお宮の扉を開けて見たりなどしている。間近の岩蔭から南日君がひょっこり飛び出して、急ぎ足に其方へ行く。私はまた腰を下ろして知らぬ顔をしていた。戻って来た南日君に聞くと、長次郎は温泉まで下る必要がなくなったので、浄土山の頂上へは出ずに西側から崖の中腹を横にからんでザラ峠の道へ出ようとして、二時間も私達を待っていたのだという。私達はまた私達で、あの崖にそんな楽な路があろうとは元より知って居る筈がないから、峠へ下るには峰伝いの外はないと信じていたので、浄土山の頂上で落合うことに約束して置いたのだ、交啄鳥のくちばしだってこうは喰違わない筈だと思うと、どうしても笑って済す気にはなれなかった。
 兎も角も荷のある所まで行くことにして、其方へ足を向ける。巨岩の堆積した急斜面を下ると、西の方へ緩く放射された段状の高原が幾つか連なって、ウットリと気の落ちつくような緑が西日を受けて暖い黄に匂っている。その一番上手にある平の片隅に、荷を背負った儘の長次郎が岩にもたれて休んでいた。
 もう如何なるものでもない、此処へ泊ろうと誰か言い出す。野営には申分もうしぶんのない地形である。北から西は五、六尺の高さに大岩が重り合って、自然の石垣を作っている。其下に浅いが冷い水を湛えた二坪あまりの池があるので炊事に不自由はない。南は直ぐ湯川に臨んだ懸崖であるが、長い偃松がうまく屏風を立て廻している、燃料はもとより豊富だ。其間の平な草原へ形よく天幕を張って、疲れた体を焚火の前に横たえた時は、誰の顔にも不満らしい影は見られなかった。
 黄昏の空に明るかった雲の峰も、白く褪せ灰色に化けて、果ては天外から地球へ投げかけた妖しい影のような、紫がかった鼠色の気層の中に吸い込まれてしまった。蒼黒く冴えた頭上に二点三点と星の光が数えられる頃から、強くはないが物を吹きとおすような鋭い北西の風が石垣の岩角を掠めて、折々窪地へおろして来る、毛布にくるまって雑談に耽っていた私達は、皆急いで天幕へ這入った。外では焚火が一しきりぽうっと明るくなってはた暗くなったりしていた。

黒部川の峡谷


八月一日。午前七時、浄土山西側の野営地出発。三十分にして竜王岳絶巓に達す。眺望広豁、遠く富士および赤石山脈の諸山を望む。八時十五分、出発。御山おやま谷を下り、十一時三十五分、中ノ谷。昼食。午後十二時四十分、出発。一時、刈安峠(温谷峠)頂上。休憩十五分の後、ブナ坂を下り、二時五分、越中沢を徒渉としょうし、更に五分にして黒部川の河原に出づ。二時二十五分、出発。黒部川の左岸を遡り、崖上を迂廻すること二度、本流を徒渉すること三回にして、五時三十分、東沢の合流点着。

 寝覚めの耳へ冴えた鈴の音がチリンチリンと遠くから伝わって来る。それが高原の草の上に横たわれる身にも駅路の夜明けを偲ばせた、暁かけて禅頂する人達の振鈴の響であろう。眼を開けると、片破月かたわれづきに照らされた天幕の布が夜露を浴びて、しっとりと重く垂れている。湯川の谷では杜鵑ほととぎすさかんに鳴いて、断続した水声がその間からかすかに聞える。崖上の偃松の枝が寂しそうにザワザワと騒ぐが直ぐまた押黙ってしまう。風向きが北に変ったので、この窪地へは少しも吹き当てぬものらしい。そのうちに大勢の足音やガヤガヤいう人声が近く頭上から押し被せるように聞えて来た。「あんな処に天幕が見える」、誰かそんなことを叫ぶ、幾十の好奇心に惹かれた眼がまじまじと私達の上に注がれているような気がする。私はひしゃげた空気枕に息を入れてまた毛布にくるまった。二度目に起き上った時は、竜王続きの山が薄靄うすもやめた湯川の谷へみどりの影を投げて、拭われたような紺碧の空には、二十日あまりの月がうっすりと刷かれていた。
 昨日降りた岩の斜面を一息に登って、浄土山頂の一角に立った。濃い菫青の空は溢れるばかりに充ちわたった、美しい光の波に洗われて、鮮かに冴えている。紫を含んだ溌藍はつらんの山は、曾てはこの美しい光の本体であった遠い過去の朧ろげなる記憶に喚び醒されて、沈黙した精神が白熱の度に高潮したのであろう、見上ぐる空際を横さまに尖波を打って、綱線をたばねて叩き潰して更にそれを引き伸したような山の空線は、山体に※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ほうはくした鬱勃うつぼつの気がはち切れる程に籠って、火花が散るように鋭く閃いている。紫藍の膚に刃のこぼれた大薙刀を懸けつらねたかと怪まれる雪渓や、大きな熊手か何かで掻き取った裂傷のような赤裸の縦谷は、あたかも灼熱した衝動の力の強い圧迫から、今にも裂けて飛びそうな山体を解放する安全弁であるかの如くに、一きわ物凄い光を放って、翠の濃い谷間の空気を※(「火+卒」、第3水準1-87-47)きに※(「火+卒」、第3水準1-87-47)き研きに研いて、蛍石のような輝きを帯びた晶冽の気と化し、更に大空と映発して、偉大なる山の生命の盛なる活躍を暗示している。登山杖に身をもたせながら、高い心臓の鼓動と共に血汐の流れが脈を打って頭の心へ奔注する音を耳元に聞きつつ、山という者を始めて見たように全く新たな驚きをもって、遠く近く輝き渡る大山岳の姿を身じろぎもせず眺めていた私は、間近い竜王岳の頂上をさしてまっしぐらに急いだ。一寸ちょっとでも高い処へ登りたい。まだそれ位の意識が魅せられたもののようになった心の何処かで働いていたらしい。
 この竜王岳の西側は、山骨が大頽おおくずれに頽れて、落ち重なった巨岩塊が角突合ったまま危く倒れんとしている。人の跫音あしおとにもぐらりと揺るいで、傷に悩む猛獣を扱うように、ややともすると噛み付かれるおそれがある。上辷うわすべりのする赭色の岩屑を押し出した岩の狭間をい上って崖端に出ると、偃松の執念しつこからみついた破片岩の急傾斜がいらかの如く波を打って、真黒な岩の大棟をささ[#「てへん+掌」の「手」に代えて「冴のつくり」、U+6490、424-13]えている。絶巓ぜってんはすぐ其処そこだ。気に伴わない脚のもどかしさ。
 頂上に辿り着いて一息入れる間もなく、忽ち岩壁に吹き付ける勁風のような凄まじい※(「睹のつくり/栩のつくり」、第4水準2-84-93)の音が聞えて、一羽の猛鷲が脚元近くの懸崖から舞い上った。満身の力を両の翅に籠めて、五たび六たび空をつと共に、双翼に風を張って悠揚自在に翔して行く。視角の仰のくに連れて、直線はいつしか弧となり半円となり、ついに空中に大圏を画きながら、とんびのように小さくなった体を暫くは、瘤だらけな太い線で赤裸の花崗岩体を根張りの大きいピラミッド形に刻み上げた雄山の天空に見せていたが、次第に北を指して富士ノ折立から真砂岳別山の上を越え、劒岳の右の肩を掠めて、無辺際の青空に一点の黒子を印し、はては遠く双眼鏡裡を逸してしまった。実君もいつか登って来て早やスケッチに余念もない。二人はゆっくり落ちつきたいと思って四辺を見廻したが、狭い頂上に錯立した岩塊は、どれもこれも圭角けいかくが鋭く、腰を掛けているという簡単な動作さえ、長く続けていることを許さないのだ。
 劒岳の左には毛勝三山がすっきりした雪の肌を朝日に照らされて、紫水晶の如く輝いている。其後は真白に凝って動かない雲の海である。前は近く弥陀ヶ原の高原と並行して、其縁を限る大日岳の連嶺が奥大日、大日、小大日の諸峰を崛起くっきし、余脈を遠く西に走らせて、末は富山平原の上にただよう層雲の中に没している。富士ノ折立と真砂岳との間には、白馬朝日の二山があらわれて、白冷の雪の光が鋭く眼を射る。
 東から南にかけては驚く可き山岳の群集である。立山後立山両山脈の南半に加えて、槍穂高の連嶂と常念山脈とが、北に向っては黒部及高瀬の二峡谷を擁し、南に向っては梓川の深谷を抱いて、殆ど相並行して洪濤の捲き起るが如き長大なる山脈を縦観するところ、幾多の峰頭は著しく痩せて尖り、しかも山体は肩のあたりから急に左右に拡張して、全山の重量が横にはみ出そうとしている。それを太い青竹をたわめたような膨らみを持った弾力ある曲線でグッと引きしめ、彼とこれとの力が平均し融合すると共に、おもむろにこれはなってその趣くところに赴むかしめたのがあの如何にも落付おちつきのある坐りのいい裾の線だ。薬師岳の大山体は、近いだけに一層其感が深い。

附記


 この記行は前中後の三回に分ち、『山岳』誌上に掲載する目的で起稿したものであった。しかし第三回分は強いてこれを載せる必要がなくなったので、本項は執筆半ばに至らずして中止し、以下の「赤牛岳と黒岳、野口五郎岳の連峰、高瀬川に下る」等は、目次に掲げたのみで全然着手していなかった。今是等これらを補足することは殆ど不可能である。さりとて全部之を捨て去るに忍びないものがあるので、未完のままここに収め、其後の行程を附記して単に欠けたるを補うことにした。お田部重治君著『山と渓谷』所収「毛勝山より劒岳まで」および「劒岳より赤牛、黒岳を経て大町に至る」を参照して戴きたい。

 竜王岳の頂上に立った朝は実によく望遠がきいて、北アルプスは勿論、南アルプス、奥秩父、奥上州の山々まではっきりと認められた。烏帽子岳と大天井岳の北に在る吊岩とが重なっている上に悪沢岳。不動岳と南沢岳との間で、餓鬼岳の南に在る東沢岳の上に北岳。不動岳の上に地蔵鳳凰二山。餓鬼と唐沢岳とが重り合っている上に富士。舟窪岳と不動堀沢岳(今七倉岳と称するもの)との間に蓼科山。その後ろに金峰山。不動堀沢岳の最高点の上で金峰の左に甲武信三山。針木蓮華と赤沢岳との間に浅間山。赤沢岳の上に四阿山。鳴沢岳の上に本白根。其前に御飯岳。爺の南峰の上に白砂山。北峰の上に岩菅山と佐武流さぶりゅう山、などが其主なるものである。
 眺望に四十分余りも耽った後、竜王岳を南に下りた鞍部から御山谷に出て之を下った。谷の突き当りは鬼ヶ岳から東南に延びた山脚が東北に転向する屈曲点で、谷もまたそれに連れて同じ方向に転じている。其処そこに小さな乗越のっこしがあってイタヤ峠の名がある。だいらから室堂へ行くには、中ノ谷でザラ峠への道と別れ、この乗越をえて御山谷に入り、一ノ越へ出るのが最も捷径であり、古くから利用されていたらしい。御山谷は残雪は少ないが、草地続きで偃松の丈も低く、開豁で歩きよい。今日は途中待望の岳蕨だけわらびを採集し、中ノ谷で昼飯の際に味噌汁の実としてあくまで賞味した。谷の下手には純ピラミッド形の針木岳が全容をあらわし、上手には五色ヶ原から流れ落ちる水が数条の瀑布をかけ連ねている。刈安峠を踰えブナ坂を下り、だいらの小屋へは立ち寄らずに、越中沢(ヌクイ谷)を徒渉としょうして黒部川の河原に出で、十五分ばかりり休憩した。
 この河原に立って四方を見廻した時、真先に最も強く感じたことは、「青いなア」という感じであった。蒼潤の二字で代表されるあたりの景色は、山上の旅に過労を余儀なくされた視神経をどれほど喜ばしたことであったろう。この附近にはまた楊の大木が多く、並木状をなして川べりに生えている。時折西北の風がさわやかに吹き下ろして来ると、枝や葉が一斉になびいて、其間から無数の柳絮りゅうじょが真白な綿をちぎって飛ばすように、ふわりふわりと飛んで行く、まるで牡丹雪が降っているようだ。それがまた一しおの風情を添えた。
 これから東沢の合流点まで黒部川を遡行した。主として左岸の水際を辿ったのであるが、二個所ばかり崖の上を廻らなければならなかった。其中の一は奥木挽谷の先で、一丈許りの岩壁の下を川が深潭をなして流れ、水とすれすれの所に辛うじて足の指先が掛るか掛らない位の岩の襞がついている場所であった。距離は二間足らずであるから、どうにか通れそうに想える。それでかわがわる其処まで行って足を掛けて見るが、荷が無ければかく、荷があっては素早く行動しないと落ちそうなので、長次郎さえも行きかけて止めてしまう。所が源次郎一人は更に躊躇の色もなく、ツツウと越えてしまった、誠に無造作なものだ、これには皆呆れてしまった。こんな男をよく指導してみっちり仕込んだなら、さぞ役に立つようになることであろうと思った。
 対岸に赤沢が合流する上手で右岸に徒渉した。この徒渉は深さ腰に達し、かつ水勢が強いので、長次郎のたすけを借りても尚お困難を感じた。元来徒渉すき場所ではないのであるが止むを得なかったのである。間もなく再び左岸に徒渉したが、これは前よりも楽であった。岸辺には大水の際に置き残されたすなが二尺近くも積っていた。其中から根曲り竹の筍や行者ニンニクなどが新らしく生えている。晩の汁の実に採集した。東沢の合流点の上で三度徒渉して右岸に移った、ここは膝までしかないので少しの困難もない。だいらでは蝦夷蝉らしい声を耳にしたが、途中では駒鳥がさかんに鳴いていた。
 このあたりは黒部川も東沢も、鬱蒼たる針葉闊葉の大樹林である。殊に美事な落葉松の老木が多い。
 奥廊下の隘口あいこうから解放された黒部川の水は、右岸に大きな砂洲を吐き出して、左岸に沿うて流れている。この洲あるが為に東沢の合流点は、次第に川下へ移ったものらしい。洲の殆ど中央には三抱えもあろう太い流木が砂の中へ根を突張って、いかりのように横たわり、大小無数の同じ仲間がそれに堰き止められて、山のように重り合っている。いずれも白くされているから、相当の年数を経たものであろう。其下手しもてには細かい砂が十坪余りの広さに、水面からは二尺程の高さに堆積し、其上を歩くと昼のぬくもりが未ださめずに残っている、そこに天幕を張ることにした。
 野営に最も必要な水は元より、燃料もこう豊富であれば、その支度をすることなどほんの片手間仕事に過ぎない。それで天幕を張ると、あとは一切源次郎に任せて、長次郎と金作とは岩魚釣りに出懸けた。こんな横好きで下手な連中に釣られる岩魚がいるだろうかとおかしくなる。私は一人で奥廊下を少し遡って見た。赤牛側に沿うて一町も進むと、水は腰に及ぶ深さとなるので岸をへつり始めた。せめて口元のタル沢あたりまで行きたいと慾ばったかんがえが起ったが、勿論五時間や六時間で往復される場所ではないので、二、三町で引き返した。焚火の炎が天をも焦すいきおいさかんに燃えている、ここではどんな大きな焚火をしても、何の心配にも及ばない。晩飯は既に用意されていたが、岩魚は果して釣れていなかった。
 濡れたものを乾かして、食事が済むと天幕に入って横になったが、中はあついので寝ていられない。三、四間ばかり離れた所へ焚火を移して、漸く毛布にくるまることを得た。

 八月二日。午前六時三十五分、赤牛岳へ登る目的で東沢を遡り始めた。楊、栂、落葉松、檜などの大木から成る美しい林が両岸に続いている。中にも落葉松の林は、広い黒部の谷にもこれ程立派なものは少ないであろうと思った。その落葉松や栂、檜などが縦横に河の中に倒れている。こうして数十百年を経たであろう可惜あたら良材が空しく朽ち果ててしまうのは勿体ないことだ。時々崖に出遇であうが迂廻する必要もなく、河中に大石はあっても歩きよいし、倒木のお蔭で徒渉することは稀であった。
 赤牛側から出る最初の谷は、落口に二、三丈の瀑が懸っていたので、避けて登らなかったが、これを上る方がよかったようだ。東から来る大きな沢を二つ越すと林も疎らになって、後には立山、前には赤牛岳の頂上の一角が望まれた。八時二十分である。九時頃、川下から吹き上げる生ぬるい風と共に谷の空は曇って、細雨が落ちて来た。しかし間もなく晴となったがや蒸し暑い。昨日は終日快晴で、空は紺碧に澄みわたり、山色鮮明であった。嵐の来る一両日前には、よく斯様かような上天気のあることを二、三度経験しているので、何となく不安を覚えた。
 小さい谷らしい窪は三つ四つ過ぎたが、適当な登り路が容易に見当らないので、何でも構わず此次の谷を上ることにした。十時十分である。この谷は赤牛岳から東北に延びた尾根の二千五百米附近から東微北に発源するもので、信州の人達がタルガ沢と呼んでいる程あって瀑が多い。上り始めて幾程もなく谷が迫って来たなと思うと、高くはないが続けさまに三つの瀑が現れた。側壁の岩に襞や皺が多いので、之を伝えば足場はたしかだ。其上は二町ばかり雪渓が続いて、雪の尽きた所で谷は二岐する。左は本流で瀑の連続である。上瀑の高さは四丈許、其下は二丈あまりの間急湍をなし、更に左に向きを変えて五、六丈の瀑となったものが、即ち私達の正面に懸っているものでいきなり脚もとの雪の洞穴に落ちこんでいる。其上流を望むと、谷は益々ますます狭くなって、尚お飛瀑が続くらしいが、鋭く左に屈曲しているので判然しない。
 右の谷は頗る急な、岩の多い山ひらの窪と言った形で、谷らしくもない。岩黄耆が非常に多く、其株が又今迄に見たこともない程壮大なものなので、すっかり感心してしまった。一時間も登ると水が絶えそうになったので、昼食にする。このあたりは殊に岩黄耆が多かった。
 昼食後十一時四十五分に出発した。谷はいつか山ひらと変って、丈の高い偃松がはびこっている。其間を押分けて、横搦よこがらみに左へ左へと困難な登りを続け、午後十二時十五分に漸く尾根上の草地に辿り着いた。南日君の外はまだ誰も姿を見せない。この草地は次第に傾斜の緩い谷らしい窪となって、東北に延びている。私達が最初に見て、瀑があるので避けた、あの谷に相違ないので、これを上れば好かったと南日君と二人で後悔した。
 おくれた人達を待ちながら、記載を済すつもりでポケットに手をやると、大事な虎の子の手帳がない、これには全くがっかりしてしまった。昼食の際に置き忘れて来たものらしい。南日君が「今夜皆して、今迄のことを思い出して書こう」と慰めてくれるが、諦め切れないで浮かぬ顔をしていた。そこへ遅れた人達が登って来た。長次郎にそのことを話すと、外の人達も気の毒がってくれるが、さりとて仕方がない。すると実君が黙って何か私の前へさし出した。見るとなくした手帳である。実君もなかなか人がわるい。しかし有り難かった、全く生き返ったように嬉しかった。
 此処ここから上は赭色の岩が露出した尾根を登った。邪魔になる偃松も少ないので歩きよい。そして一時四十五分には頂上に達することを得た。途中左下に幾つかの瀑が懸っている二、三の谷をおろした。其中の一はタルガ沢であったろう。
 頂上の眺望は、所どころ雲はあったにしても開豁な方であった。北には立山連峰、劒、大日、毛勝三山などが見え、東から東北にかけて、後立山山脈は雲に掩われていたが、遠い白馬、朝日、雪倉の諸山と、近い三ッ岳や野口五郎岳は、雲の上に姿をあらわしていた。南は黒岳、赤岳、鷲羽、黒部五郎、双六、槍、穂高、乗鞍、御岳と続き、西は尨大な薬師岳に懸る四個のカールの雪が鮮かに冴えていた。三角点から少し西の方へ西北を指す尾根を下ると、針木のマヤ窪によく似た窪地がある、これもカールであろう。一時間休んで二時四十五分、南に向って出発した。
 幅の広い尾根は、登り降りも少なく、多くは岩間の草地続きで、所々に雪解の水が池のように湛えている窪地などがあり、平地を行くような気安さに、雄大な眺望をほしいままにしながら、ぶらぶら歩いた。薬師岳のカールを眺めていると、曾てその一つに大きな熊がのそのそしているのを上から見下ろしたことなど思い出す。五色ヶ原よりも平で、東西に長い雲ノ平も、近付くに従って草地と偃松と互に入り雑っているさまが見分けられるようになった。残雪が割合に少なく、偃松が多いので、五色ヶ原程に私は心を惹かれなかった。赤牛岳の山体を成す石英斑岩か何かが、花崗岩と変る線があきらかに認められたが、どの辺であったか覚えがない。
 黒岳の三角点の櫓は遠くから見えていた。二千九百米の頭のまるい峰をえると、稍や下って殆ど平な尾根の上に、四つ許りの小突起が尖った頭をもたげ、二千九百二十米の峰に連っている。此二峰の間の東側に二のカールがある。そして南に在るものは黒岳最大のカールである。
 二千九百二十米の峰から少し下るとまた上りとなって、角張った大岩の斜面を六十米許り攀じ登り、狭い峰頂の三角点に達した。しかし絶頂は此処ではなく、直ぐ南に在る峰で、十四、五米は高いであろう。其処に上り着いたのは五時四十分であった。最高峰と三角点ある峰との間に在る西側の谷には、遥か下に池らしい窪があって雪に埋もれていた。
 頂上は狭いが割合に植物が多い。長之助草や裏白金梅を初めて見た。南はざらざらの斜面で、少し掘るといくらでも水晶が出て来る。大きいものは長さ寸余、三分角位はある、が、大抵は小さいもの許りだ。無色透明で質はよいらしい。三角点ある峰で私は紫水晶を拾った。
 泊り場所をきめなければならないので、四方に目を配りながら独り前進を続けていると、ふと岩の上に見慣れない一羽の鳥がいるのを発見した。羽毛は灰色を帯びた黒色で、アンダルシアンの色とよく似ている。頭にある赤い色が強く目に残っているが、それが鶏冠であったか単に目の上が赤いだけであったか、はっきりしない。又足に羽毛があったか否かも記憶していない。しかし足は普通の雷鳥よりも長く、翼に少しも白い羽が無かったように思っている。何しろ捕えることにのみ気をとられてく観察しなかったのは遺憾であった。私が四、五間の距離まで近寄ると、岩を下りて逃げ出した。いくら追い廻しても飛び立たない。手伝って貰う積りで「誰か来いよ」と声を掛けても、水晶掘りに夢中になっていると見えて音沙汰もない。十分も追い廻している中に、小石を拾って投げたのがあたって、とうとう飛び立って二十間許離れた岩の蔭へ下りた。其時にわかに四方から霧が捲いて来たので、残念ながらとり逃がして了った。後に野鳥の会の座談会でこのことを話したら、清棲きよす伯は少し色の濃い夏羽の雷鳥であったろうと判ぜられた。しかし私の心の隅にはまだうたがいの雲が少し残っている。
 霧は濃くなる一方である。好い泊り場所を探しあてるのぞみも絶えたので、尾根の窪みの稍や平らな所へ天幕を張ることにした。以前南日君の一行が泊った場所も此処だそうだ、最高点と其南の峰との間に在るカールに面している。
 今夜は雪を溶して炊いたまずい飯で我慢した。夜に入ると次第に風が吹き募って、天幕の柱が折れそうになるので、交る交る起きて之を支えていた。明方雨が降り出したが大降りにならなかったのは仕合せであった。

 八月三日。天気がよければ槍ヶ岳迄縦走して、上河内に下る予定であったが、心配した雨はみ風も亦少し凪ぎたとはいえ、一週間以上も続いた好天気が崩れかけて来たのであるから、いつ又降り出すかも知れない、それで高瀬谷に下る方が安全ということにきまった。私は北アルプスの中で鷲羽岳だけを未蹈の山として残すのが心懸りであったが、これも是非ない。
 朝食後、昼飯は途中水のある所で炊くことにして、午前七時半に野営地を後にした。空は曇って霧深く、南東の風が吹いていた。眺望がないので足の進みも早い。赤岳から東沢の源頭をめぐる赭色の崩れ安い山稜は、初めて此処を縦走した人には、悪場であったろうが、今はそれ程のこともない。十時四十分野口五郎岳の頂上。「七月十九日午前十時、此頂上を通過す」と、針木方面から縦走して来た河東(碧梧桐)長谷川(如是閖)一戸(直蔵)三氏の署名した標木があった。頂上の北寄りには、誰か知らぬが小屋掛けして、画家が滞在していた。人夫であろう、一人の男が出て来て、雷鳥は居なかったかと聞く、いたよと答えたら、引返して鉄砲を持って跳んで行った、皆が憎がる。午後一時三十分、三ツ岳寄りの平らな草地に雪解の水がだぶだぶ流れているのをさいわいに飯を炊いて昼食にした。二時十分出発。三ツ岳の南の峰で左側を搦んだ為に道を誤り、東沢に派出した尾根を下った。あまり下り方が激しいので疑わしくなり、引返して霧のはれ間を待っていると、一時間許りでいい工合に一度サッとれて、方向が見定められた。附近に駒草が咲いていたのは珍らしかった。
 烏帽子の野陣場へ着いたのは四時である。如何に野陣場でもこれはまた余りにきたないので驚いた。ここで高瀬への下り路を見出すのにまた一時間余りを費した。其路は二十米許り上ってから下りになるのである、それを鞍部ばかり探していたので、見附からぬのは当然であった。この下りは相当に急な黒土道で、木の根がわだかまっている、私達は五時十分に下り始め、六時二十分に濁沢に下り着いて、大虎杖の中をながれに沿いて下り、濁ノ小屋の前に出た。この小屋に泊る積りであったが、四、五人の岩茸採りが小屋を占領していたので、不動沢まで歩いて、その右岸の河原に天幕を張った。

 八月四日。朝は晴れていた。起きると直ぐ瀑を見に行く、高さ七、八丈許り、幅は広くはないが水量多く、立派な瀑である。出懸けに何気なく振り返って見ると、河原に一もとの車百合が咲いていた、昨夜どうして気が付かなかったろうと不審に思っていると、これは長次郎が植えたのだと聞かされて、その優しさに心をうたれた。午前七時十五分出発。間もなく橋を渡って、高瀬川の右岸に沿い、一里許りで再び橋を渡り、どこまでも左岸を下って行く。九時半葛ノ湯。午後十二時半、野口で中食。二時半大町に着いて対山館に泊った。夜に入ると雨になった。

 八月五日。朝から雨が強く降っていた。善光寺へお参りすることを楽しみにしていた源次郎は、新調の股引きをはいて嬉しそうにそわそわしている。長次郎と金作とは針木峠を踰えて帰る筈のところ、籠渡しのなくなった黒部川は、雨の為に増水して徒渉は困難だろうといって、二人とも源次郎と一所に善光寺へ行くことになった。午前八時、六人揃って馬車に乗り、大町出発。十時半頃明科着。十一時十二分発の汽車にて明科発。南日君と私とは篠ノ井駅で四人と別れ、上野行に乗り換えて帰京した。雨は終日降っていた。
(「片貝まで」より「小黒部谷の入り・上」まで――大正四・一二『山岳』)
(「小黒部谷の入り・中」より「劒岳」まで――大正五・一二『山岳』)
(「立山を越ゆ」より「黒部川の峡谷」まで――大正五・一稿〈未発表〉)





底本:「山の憶い出 上」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年6月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 上巻」龍星閣
   1941(昭和16)年再刷
初出:片貝谷まで「山岳」
   1915(大正4)年12月
   南又を遡る「山岳」
   1915(大正4)年12月
   釜谷の奥「山岳」
   1915(大正4)年12月
   小黒部谷の入り・上(毛勝山及び猫又山)「山岳」
   1915(大正4)年12月
   小黒部谷の入り・中(赤谷山及び赤兀白兀)「山岳」
   1916(大正5)年12月
   小黒部谷の入り・下(大窓及び池の平)「山岳」
   1916(大正5)年12月
   劒岳「山岳」
   1916(大正5)年12月
   立山を越ゆ「山の憶ひ出 上巻」龍星閣
   1938(昭和13)年12月
   黒部川の峡谷「山の憶ひ出 上巻」龍星閣
   1938(昭和13)年12月
   附記「山の憶ひ出 上巻」龍星閣
   1938(昭和13)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「劒沢」と「剣沢」の混在は、底本通りです。
※訂正註記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2013年9月23日作成
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●表記について

「石+兀」、U+77F9    333-6、333-6
「さんずい+彪」、U+6EEE    390-11
「迅−しんにょう−十」、U+4E41    391-5
「虫+喬」、U+87DC    393-15
「雨かんむり/誨のつくり」、U+9709    409-6
「石+可」、U+7822    418-8
「てへん+掌」の「手」に代えて「冴のつくり」、U+6490    424-13


●図書カード