針木峠は人も知る如く、明治九年に新道が
開鑿され、数年の後にそれが再び破壊されてしまってからは、籠川の河原や雪渓を辿ることなしに峠を通過することは殆んど不可能であった。
若し
之を避けて迂廻しようとすれば、更に多くの困難と危険とに遭遇しなければならぬ。それが為に針木越は悪絶険絶を
以て世に鳴り渡った。富直線の未だ開通せざる以前に、信州方面から立山へ登るには大抵
此峠を上下し、黒部川を
徒渉して、刈安峠及ザラ峠を
踰え、立山温泉に出て
其処から登山したものである。そして一度此道を通過した者で、皆
其険阻なのに驚かない者はなかった。明治二十九年の七月下旬に自分が大胆にも
唯一人此峠を踰えて立山へ登った時は、
平ノ小屋へ着く迄に二日半を費した程で、当時赤城榛名妙義や男体浅間
若しくは富士御岳などの外は、山らしい山に登ったこともなく、
又登山の危険などいうことは一向に無頓着であったが、此時
許りは一人旅に慣れていた自分も、初めて山という者の恐ろしさを感じて、心細さに堪えられなかったと同時に、又初めて山という者が少し解せて来たように思った。其後信州方面から立山へ登る人が年と共に増加し、黒部川には籠渡しなども設けられ、道も
大に分り易く、
且よくなったとは聞いていたが、それでも針木越は登山の入門として、あらゆる課程を備えた好個の教科書であるということには、誰も異議はなかったようである。自分も初めての経験に徴して、当然しかある
可きを信じて疑わなかった。それが今年
(大正六年)二十幾年振りで
復た此峠を降って、少なからず道の楽になったことに驚かされた。先ず大沢の対岸に立派な小屋が建てられたことは別としても、大出の人家を離れてから籠川の河原を遡ることは勿論、一回の徒渉だも行うことなく、川の左岸に沿うて赤石沢の対岸附近雪渓の尽くる(或は始まる)少し上まで林道が造られたことは、既に険阻の大部分を
凌夷してしまった感がある。雪渓にかかってからは、傾斜の急な左右の山裾が迫り合って、横を
搦むことは殆んど不可能に近いが、雪は割合になだらかである為に、初めての人でもカンジキなしで危険の
虞なしに登降される。スバリ沢の合流点から上は、雪渓が
俄に急峻となる代りに、或は左側或は右側の縁を辿れば、強いて雪渓を上る必要はない。これは昔も今も同様である。それすら今は踏まれた道跡が判然と残っている。針木峠の行路難は実に
磊※[#「石+可」、U+7822、306-13]たる巨岩の錯峙した籠川の河床を辿りて、雪を噴く奔湍と、雷のような音を立てる急瀬とを幾度となく徒渉することであった。
夫が今年からは何の心配もなく心
長閑に林の中を通行し得るようになったのは、時間と労力とを省く点に於ては、大なる利便を得たと共に、単に登山という見地からいえば、惜しいことであるともいえる。この林道は畠山の小屋附近までは、既に前年造られてあったもので、それから上の部分が今年
新に開かれたものである。近い
中に更に峠の頂上まで続けるとかいう噂を聞いた。尤も地勢の関係上、雪渓から上は道を造ったにしても、頻々として雪崩に襲われるから、年々大修繕を加えなければ、道形を維持することは困難であろうが、事実として現れぬとも限らぬ。そうなった暁には黒部川に釣橋の架けられるのも遠いことではあるまい。
孰れにしても針木峠は既に十年前の針木峠ではない。あの峠に向って一歩を踏み出した登山者に対して、その荒胆をひしぐような刻々の不安と期待とに背かなかった自然の
儘の針木峠、其姿は
最早永久に見られる期はないであろうか。自分は過去にのみ憧れんとする自分の
固陋なる執着心を今も
尚お思い切って山の何処かへ破れ草鞋の如くかなぐり棄てることの出来ない意気地なさを憤ろしく思う。
(大正七、二『山岳』)