嘉陵紀行

木暮理太郎




『嘉陵紀行』は徳川幕府の頃、三卿の一であった清水家の用人村尾正靖の著である。号を嘉陵と称した所からその記行文集を『嘉陵紀行』と唱えるが、実は後人の名付けたものである。非常に旅行が好きで、暇さえあれば江戸附近の名所旧跡を探って楽しんでいたことは、其紀行文から推知することが出来る。殊に吾々に取って懐しく思われるのは、大の山岳宗徒であったことである。「府中道の記」の一節には

 下石原、上石原などを過行。この辺路に石多し、故に石原と名付しにや。こゝより西南林木のはづれに玉川の向山見ゆ。夫より少し行て下染屋、上染屋に至る、こゝに原あり(上下染谷のあいだ也)江戸よりこゝ迄は、路林木の際を出没するのみにて、目にとまるながめなく、こゝに到て初て闊達として山壑の美を見る事を得。南に大山みゆ、夫より山々連綿して富士の根を遮きり峙つ。西北を顧みれば八王子、子の権現、秩父、武甲諸山をみる。(こゝにて富士の根方の山々を望み、山の皺あるをみる、其やゝ近づきたるをしるべし。秩父諸山は猶更也。其外は江戸にてみるよりは高く山聳へ、富士は江戸の観にくらぶれば、根方の山にさへぎられて、五六合を見る心地す。)玉川向山も間近くみわたされて、かたわらの民戸に腰かけてこゝの風景をうつす。

という記事がある。これだけ読んでも如何に山が好きであったかが推量されるが、更に驚嘆すきは、中仙道の桶川までわざわざ浅間山を見に出懸けた事で、其紀行の冒頭にはう書いてある。

 中山道上尾のあたりより、秋冬の際空晴れば、浅間の岳みゆると、過し年伊納沢吉がいひしに、いつぞは行ても見まほしく思ひしかど、仕る道のいとまなみ、今日あすともだし侍りける。今年は神無月たちぬれど、まだしぐれの雨も間遠にて、朝夕もさまで寒からねば、とみにおもひたちて寅の一点許宿を出て、火ともして行。

其熱心には全く恐れ入るの外はない。しかも上尾では見えなかったので、更に桶川まで行って日光赤城榛名妙義などを眺め、夢のように淡い山を見て、百姓に教えられてそれが浅間山であることを知った。

 北の空を見渡せば、いくへの遠の雲ゐにそれかあらぬか、まゆすみのごとあは/\と見ゆる山あり、それかとおもふ物から人にとふべきよすかもなし。遥かのをちに畑うつをのこの立てるを見つけたれば
いとまなみ畑にたつをも心あらは
    浅間かたけをさしてをしへよ
などいひて、畔をつたひたちよりてとへば、げに浅間はかなたの山なり。今日はことによく晴れたれど、余りのどかなれば霞みて煙はさだかにも見えず、けさの朝気にはそれとけぶりさへよく見えし。云々。

 其時のスケッチに題せる詩に

郊原駅路※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)相連   行望名山隴畝辺
試問農夫頷且笑   樹梢遥指浅間巓

というのがある。文政二年十月四日の日附から推して正靖が五十八歳の時であったことが知れる。これ高頭たかとう君の太陽暦年表に拠って換算すると、十一月二十一日となるので、山の展望には少し時期が早いし、雪も浅間にはまだそう積っていない筈であるから、明瞭に望見し得なかったのは当然である。
 帰路に蕨宿の附近で浅間山を望見した記事がまたおもしろく書いてある。

 元蕨村の縄手にてふりかへり見れば、日はすでに富士の北の裾の山の端に入なんとす、返照みわたしの山々をてらして、数十里の外も毫末を望むべし。
山と見し雲はあらしに吹たへて
    くもと見へつる山そのこれる
縄手の内人家ある処(即蕨村内)にしばしたゝずみて、日の入をも忘れて猶かへり望めば、秩父の武甲の山の北の屋の棟たてならべたらんやうに、いくらもうね/\つゞきたる山の上に浅間山見ゆ、其東に妙儀も榛名も又よく見ゆ、かたへに人あるにとへば、いかにもかしこは浅間山也、こなたは妙儀なりなど答ふ。今朝こゝを過る頃はまだいとくらかりしかば、こゝより浅間のみゆるをもしらで過しに、桶川にて見しにもこゝの咏めまさる許成をおもへば、かしこまで行しは□□□不明たらんやうなれど、はたおもひかへせば、かしこに行て浅間をそれとしればこそ、かへさにも又こゝよりも見ゆやと思ふ心をしるべにて、ふたゝびあかぬながめをもすとやいはまし。爰にても今日の事、はれにはれたればこそ、数十里の山々も能ぞ見えたれ。もしくもらむはさら也、晴にたるも霞なば、いかで其おもかげをも見なんやと、おのが心の中にめでつ、わつらひつ。

 浅間山は寄居よりい町から三沢村へえる釜伏峠の上あたりに、濃い藍色の影となって見えたであろう。其東によく見えた妙義や榛名というのは、右の方を東とすれば、妙義は鼻曲山を誤ったものであろう。方向は先ず正しいが、山が低いので蕨附近から妙義を望むことは不可能である。
 又飛鳥山、志村(赤羽)の台、上目黒の富士の眺望を挙げて

三つながら甲乙なし、山水にあそぶことを好むもの、一度は行て見よかし。

と結んである。
 この紀行は一篇から五篇まであって、主に文化文政天保頃にわたった紀行を集録したものである。之を読むと江戸即ち東京附近の名所を知ると共に、其地が山岳展望に適しているか否かも察することが出来る。もと内閣文庫に一本しか無かったのであるが、近頃江戸叢書刊行会から出版された。著者の口吻を真似る訳ではないが、山を望むことを好むもの、一度は読んで見よかしとて、敢て紹介した次第である。
(大正五、一二『山岳』)

〔付記〕上野の帝国図書館では先年自筆の稿本を購入して、何かの展覧会に出品したのを見た。それに拠って本文の不明の箇所を補う積りであったが、残念ながら之を果すことを得なかった。





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「山岳」
   1916(大正5)年12月
入力:栗原晶子
校正:雪森
2014年6月23日作成
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