上州の古図と山名

木暮理太郎




 古図には立派に記載されている山でも、今日ではそれがどの山であるか、殆ど見当のつけようもない程不正確にあらわされているものがある。それで単に古図と今の図とを比較しただけでは、何とも判断に苦しむが、その際地誌の類たとえば「風土記」とか近くは『郡村誌』というようなもののたすけを借りれば、案外楽に断定し得る場合が少くない。この文は古図を見ても古記録の類を渉猟する暇のない人の参考にもと思って、古図にあらわれている奥上州夫も主として信越岩野の国境山脈中に於ける山名に就て少し書いて見たのである。従って題名も「古図に顕れたる奥上州の山名に就て」とでもした方が適切なのであるが、余り長くなるので故意に短くした訳である。
 上州の古図は単独に出版されたものは多くはないようであるが、写本ならば決して少なくはない。其他『関東八州大絵図』『関八州輿地図』『関八州路程図』などいうものは大分あるらしいけれども、別項「古図の信じ得可き程度」なる文中にも申した通り、是等これらいずれも『正保図』を基としたものであるから、大同小異であって、其中の一に就けばよい。ここには便宜上自分の手許てもとにある『富士見十三州輿地全図』を引用することにした。
 先ず浅間山附近から始めることにする。浅間の西に水の塔というのがある。『信府統記』には[#「『信府統記』には」は底本では「『信府統紀』には」]「水のとう、みつをね嶺、両所共に上野国にても同名」と記されているが、これは湯ノ平の西に在る二千四百五米の隆起を指したもので、両者の区別は判然していないようである。五万の地図にはこれを浅間黒斑くろふ山とし、そばに(三ツ尾根山)と註してある。或は水ノ塔は湯の平の北方に在る二千三百十九米の三角点ある隆起をいうたものであるかも知れぬ。自分は曾てこれに就て土地の人に尋ねて見たがよく分らなかった。『郡村誌』田代村の書上かきあげには「東南ニ浅間、三ツ尾根、水ノトウ、駕籠ノトウヲ負ヒ」と書いてある。横笹山は上州で籠ノ塔と呼ぶ山に対する信州の名であるから、信州側に置くきを誤って上州側に入れたのであろう。地蔵反は地蔵のそりと読むので、そりは鞍部を指していう言葉であるが、同時に峠道として人の通行することを条件としているらしいことを、曾て土地の人から聞かされたことを覚えているが、これは矢張やはり甲州には殊に多い「そり」又は「そうり」と同じ意味であろうと思う。附近に在る大ススキ山と小ススキ山は、千九百十五米の三角点ある桟敷さじき山と千九百八十米の小在池こざいけ山に当っている、そしてコサイケ山とあるのは鍋蓋なべぶた山らしく思われる。しかし『上野国志』などにると五万の図の山名の方が正しい。
 湯丸山は国境を中央に頂を接して上州側にも信州側にも描いてある。斯様かような描き方をしてある山は、両国に跨ることを示すもので、し山名の記載が異っていれば、それぞれ異った名で呼ぶことをあらわしているのである。四阿あずまや山は信州の称呼で、上州では吾妻あがつま山と唱えている。頂上に日本武尊を祭神とした社があるが、これも上州と信州との二社に分れている。乳山は上州信州共に同名なるが如く記載してあるけれども、これは図のあやまりであって、上州では乳山とはいわず浦倉山と呼んでいる。五万の土鍋どなべ山や御飯おめし岳に就ては、山名が記入してない。黒湯山という名は信州の称呼で、上州ではオクシガ岳というと『信府統記』にも『上野国志』にも書いてある。このオクシガ岳は初め御飯岳の間違ではないかと思ったのであるが、信州にて黒湯山と呼ぶ由が断ってあるので、何とも致方いたしかたがない。図のウフクラ山とあるものをオクシガ岳と書改め、ウフクラ山はウラクラ山の誤であろうから、上州側に乳山とあるものを削って其処そこへ記入す可きである。満山は信州の称呼で、上州の万座山に外ならない。白根山が上信の両国に跨るが如く描いてあるのは、誤でないにしても少しく誇張に失したきらいがある。池ノ塔とあるものは、渋峠の南に在る二千二百米の圏を有する峰で、信州でも同名である。横手山は上州ではミツクンシ山の名があるように『国志』などにも出ているが、今も其名で呼んでいるや否やを知らない、何にしても自分は聞いたことのない名である。古図は伝写の際に兎角とかく誤字や脱字がありがちであるから、これらも何かの間違いであるかも知れない。
 赤石山は『信府統記』に「上野にては赤はげ山と称ふ、魚野川此山の後より出て、山間を遥に流れ、北にて志久見川へ落る」と記してある。『信府統記』は享保九年の序のある本で、魚野川が赤石山の北に発源することを明瞭に記載しているにかかわらず、天保の末期に出版されたこの『富士見十三州図』には、魚野川が横手山の上州側から発源するように描いてある。安永三年の序ある『上野国志』も「赤禿山。大倉山の西南にあり、信濃界なり、此山の内に沼あり沼尻と云、其水と大倉沢と黒沢と合して信州へ落つ。黒沢は赤禿と三クンシ山の際より出」とあるので、『富士見十三州図』としっくり合っている。『信府統記』は松本藩の編纂したものであるだけに、個人の作よりは年代が古くてかえって正確である。また此図には岩菅山が記入してない。野反池を沼尻というとあるのも少しおかしい、『正保図』にはどう記載してあったか、生憎あいにく手控を紛失してしまったので、何ともいうことを得ない。普通は沼から水の流れ出るあたりを沼尻というので、沼其物を沼尻と称することはない筈である。けれども其処に部落でも発達すれば、やがてそれが地名となり沼をも其名で呼ぶようになること、野尻湖の如き例が示す通りである。野は即ちの音に充てたものに外ならない。野反は従って沼反であり、沼のある「そり」ということであろう。沼から出る沢即ち今の千沢の東には岩松山、譲鏡山などいう山が信州側に書き入れてあるけれども、五万の図のどの山に当るものか、想像もつかない。大倉ダイクラ山は二千五十四米の大倉山と同じものであることはうたがいなきことであって、入山村の住民は此附近までさかんに山稼ぎに入り込み、一時は此あたりから岩菅山へかけても自村に属するものと思っていたらしい。明治二十一年の入山村の書上を見ると、字地あざちの中に「大倉ダイクラ 千百七拾七町七反九畝五歩。魚ノ川 二千百四拾八町二反三畝拾歩」があり、山岳の部に「岩寥山 所在、吾妻郡入山村字魚ノ川」がある。大倉山から稲包山に至る間の山は、一も山名が記載してない。のみならず上信越三国の境さえ、どの山を起点としていたか不明であった程で、どの方面からも山谷の深奥であることが察せられる。
 三国峠は『正保図』と同じく三坂峠となっている。三坂は恐らく御坂であろう。峠の頂上には小祠があって、赤城、諏訪、弥彦の三社が勧請してある。この三国の名神を祀ってある所から三国峠の名を得たものであるが、三国の界である為の名と誤り信じられていたようである。峠の北にある山が今は三国山と呼ばれている。図では三国山の北を峠の道が通じているようになっているがこれは誤記であろう。
 三国峠の東にはアカヤ山があり、其東に富士山があって直に小烏帽子岳に連なっている。アカヤ山は赤谷川の源頭に聳ゆる山に漠然と冠した名であろうが、五万の図で見れば万太郎山に当っている。富士山は谷川富士を指したものであることは容易に首肯される。小烏帽子岳から駒ヶ岳に至る上越国境の諸山に就ては、「利根川水源地の山々」の中に卑見を述べたから茲には略する。
 次には尾瀬沼であるが、此沼は『正保図』には「さかひ沼」となっていて、尾瀬とも小瀬とも記してない。それが尾瀬又は小瀬となったのはいつ頃のことであるか、寛文六年に編纂された『会津風土記』には小瀬とあり、『上野国志』には尾瀬とある。そして古図にも小瀬又は尾瀬と訂正してある所から察すれば、戸倉から檜枝岐に通ずる道路は、『正保図』に一里づかの記号が入れてある程あって、「冬より春の内牛馬不通」でも、夏秋の候は相当に人通りもあり、割合によく世間に知られる便宜があった為であろうと思う。沼の東からも水が流れ出すものとして描かれるようになったのは、『正保図』に大江沢が大江山の北から発源して沼に流入している。それが誤って沼から発源するように描かれたものに相違ない。境目沼とあるのも「さかひ沼」の名残であろう。
 大江山は『上野国志』に「沼峠の東に在り、奥州界なり、奥州にて赤安山と云」といい、又大江沢は赤安山から発源して小瀬沼に入ると文化六年の序ある『新編会津風土記』に書いてあるので、五万の図の大江山は動かぬ所であろう。つまり昔の国境は今と違って沼の中央から北に向って大江沢を遡り、大江山から南下して袴腰はかまごし山に達したものではあるまいか。『正保図』に沼に向って東北から流入している川に「檜枝岐境沢」と附記してあるのは、其事実なることを証しているようである。赤安山に就ては、同じく『新編会津風土記』に「二峰相並で東西に連る、上野国にては東の峰を北また山と云。西の峰を大江山と云。西の峰は戸倉村と頂を界ひ、東の峰は川俣村戸倉村と頂を界ふ」と説明してある。これは北また山が『上野国志』に「大江山の東南にあり、奥州にて赤安山と云」とあるので、「風土記」の編者が大江山の条と参照して、大江山も北また山も「奥州にて赤安山と云」とあるところから、之を東西の二峰に分けて記載したものではないかと想像される。ただ如何なる根拠あってか、東の峰が川俣村と頂を界うと書いたので、事が一層面倒になって了った。
 ところで偶然かは知らないが、実際に於ても赤安沢には二の水源があって、其源頭には二千米を超えた峰が東西に対峙しているから、『風土記』の文に従ってこの二峰を赤安山とすれば、東の峰即ち五万の図に赤安山とあるものは北また山に相当し、西の峰即ち袴腰山とあるものは大江山に当る訳である。しかし大江山は大江沢の源頭に在るのが正しく、赤安沢に関係のないこの山に、何か特別の事情なき限り、赤安山の名が命ぜらる可き筈のものではないし、反対にまた大江沢に関係のない袴腰山(所謂いわゆる赤安山の西の峰)に大江山の名がある可き筈のものでもない。畢竟ひっきょうこのあたりは、孰れの方面から蹈査するにしても、多大の困難が伴うので、見聞のままを記した為に、たがいにこの誤りを犯したものであろう。されば古図の山名が現在のどの山に与えられたものであるかを、乏しい記録から正確に判断することは容易ではない。
 北またというのは、片品川上流の一支源であろうと考えたのは誤りであって、武田君の精査する所に拠れば、片品川の本流と認む可き中岐沢の上流に外ならぬことが判明した。この事実から察すると中岐沢なるものは、片品川が大清水の上手かみてで、ねば沢と三平峠から来る沢とを分ち、三叉状をなしているその中央の本流を指して呼ぶ名であって、それが東北流又東流し、再び東北に転向するに至って、北岐の称が加えられたもののように思われる。そうすると北また山は、当然北岐沢の源頭に在る三国界の黒岩山でなければならぬことになるから、赤安山の東の峰が川俣村戸倉村と頂を界とすといえる『風土記』の文と、其点だけはく一致する。けれどもそれでは赤安山の範囲が非常に広いものとなって、前に掲げた記事や、後に抄出する記事と牴触するので、採用し難い。私は大体に於て五万の図の山名は正鵠を得ていると認めるものである。
『新編会津風土記』の赤安山の条には、更に「此山の東の方に黒岩馬坂といふ山あり、共に川俣村と峰を界ふ」又「檜枝岐川源二。一は黒岩山より出て三川ミカワ沢と云」とあるので、黒岩山が下野界にあり、かつ三川(実川)の水源であることが分明であるから、黒岩の名を得るに至った原因であるらしい黒い岩の露出している実際(『山岳』第十六年三号、沼井君の記文参照)と考え合せて、五万の黒岩山の位置は誤っていない。『上野国志』の中また山の記事を見ると、「北又山の南にあり、北又中又の間奥州下野の界なり。此中また山下野にて赤安山と云、日光山中なり」とあって、黒岩山の名は見えない。とはいえ三国の界に赤安山(奥州の)があるに拘らず、其南に接して野州上州の境にも又赤安山(野州の)があるというのも少しおかしい話だ。『下野国志』にはこの山に就ての記事がない。所詮中また山は中また沢の水源地に在る為の名であり、前述の如く赤安山即ち北また山に外ならぬものとすれば、黒岩山を中また山に充てるのは誰もの常識であろう。上掲の記事から推すと、昔は奥州の方では、上州と野州と奥州との境は赤安山即ち北また山から鬼怒沼山あたりへ連なっていて、黒岩山(中また山)は奥州野州の境のみにあるものと思い、上州の方では、奥州と野州との境は北また(奥州の赤安山)中岐(野州の赤安山)二山の間から東へ連なっていて、中岐山は野州と上州との境のみにあるものと思っていたことが想像される。『正保図』には中また山の名は載せてないし、戸倉村の書上には、北また山も東また山も挙げてない。唯中岐山に関しては「本村ヨリ丑寅ノ方ニアリ、形状両脚ニテ直立セル如シ」という奇妙な形容を用いた記事がある。これだけでは何の役にも立たないが、片品川の項に「源ヲ中ノ岐山二発シ」とあるので方位と水源とを参照して、どうにか黒岩山が中ノ岐山に相当するらしく思えるのである。東また山は『上野国志』に、「中又山の南下野界にあり、下野にて衣が沼山と云」とあるので、五万の図の鬼怒沼山に一致していることが知れる。即ち片品川の東岐の水源である。図には北万田山、中真田山、東間田山と小むずかしく書いてある。尚『山岳』第十四年第一号雑録欄所載の武田君の「万田山卑考」を参照されんことを希望する。
 萱子山はカヤコと読むので、『上野国志』には「かやこや山」となっている。「東又山の南下野界にあり、下野にて外毘沙門山と云」とあるから、これも五万の図の毘沙門山に当っているであろう。『正保図』には、かやこの南に「ゆせんたけ」が描いてある。『富士見十三州図』には「ゆせんたけ」はなく、湯前岳というのが男体山の後で北微西に掲げてある。『上野国志』にも「ゆせんたけ」の記事はないが、片品川の項に「源二つあり。一は大江山の麓より出づ。一は津婦良の沼(「古図の信じ得可き程度」参照)より出づ。沼は白根の峰二十五浅が岳の下にあり、云々」とある二十五浅が岳はゆせんかたけを誤ったもので、ゆが廿となり、二十となり五の字が潜入し、せんに浅が充てられ、終に二十五浅が岳となった。実に驚く可き誤りを重ねたものである。ゆせんたけの記事がないのは当然であろう。又ざぜん山として、「かやこや山の南下野界にあり、下野にて栗山沢と云、日光領栗山村の奥なり」とある記文に徴すると、燕巣つばくろす山に当っているようである。五万の図では白根山の西北の瘤に座禅山の名が与えてあり、「富士見十三州図」には萱子山の西南に接して、白根山の西に座禅山が記入してあるが、今は材料に乏しいので他日の研究に待つこととする。白根山に関しては言うを要しない。ナコテ山とあるのは、ナテコ山の誤りであって、『上野国志』には「なてこや」とやの字が入れてある。此山は『正保図』に拠ると五万の図のすずヶ岳に相当していることを推定す可き理由がある。平川村では之を鍋割山と称していたらしいが、東小川村では鈴発知というている。錫ヶ岳は鈴発知から来たもので、それも篶竹すずだけに基因するものと思われる。サク山のことは「皇海山紀行」中に詳しく述べてある。
 以上は『富士見十三州輿地全図』に見られる奥上州の国境山脈の諸山であるが、精細に研究している暇もないので誤謬も独断も少なくないと信ずる。識者の補正を得れば幸である。
(大正一二、五『山岳』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「山岳」
   1923(大正12)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2014年6月12日作成
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