後立山という名は、黒部川の峡谷を隔てて立山の東に
第六(後立山山脈)は黒岳山脈の最短なるに反して、北アルプス中、最も長大の脈で、私は総括して後立山山脈と呼んで置く、勿論越中方面からいふ「後 」で、信州方面からは立山の前に当るのであるが、立山が最も古くから知られ且つ開かれた名山であるのと、後 立山なる名が、早くより往々地理学者に呼ばれてゐるのと(その癖、後立山といふ一箇の山体の存在は、未だに何処だか、確には解らないのである)に敬意を表してさう言って置く。
と説明されているに過ぎない。尤も後立山山脈なる名称は、後立山なる一箇の山体が存在すると否とに関せず、此山脈が北アルプス北半の最高峰にして且つ古来の名山たる立山(立山の三角点の高度は二九九二米で、劒岳よりも六米低いが、最高点は
北アルプスの地理に精通せられている榎谷君は、曾て「信越国境脊梁山脈登攀記」(『山岳』五年三号所載)中の「余瀝」と題する項に
五竜を後立 とも書くさうだ。これは大黒鉱山主為田文太郎氏及び同所支配人高橋朝太氏から親しく聞いた所で、氏等が該鉱山採掘願書提出の際、鉱区地図作成の必要上、種々調査せられた結果、古くは立山背後の山といふやうな意味で、その辺一帯を後立 と呼んで居たのだが、現今ではそれが一山岳のみの名称になったさうだ。それ故後立と書く方が正しく、五竜は後に誰れかが製造したんだらうとさへ言はれた。
と紹介されているが、別に意見は発表されなかった。
明治四十二年同四十三年と続けて此山脈に登られた辻本君は「祖父ヶ岳の二日」(『山岳』四年三号所載)と題する文中に於て
鹿島槍ヶ岳以南を、自分の管見から記して見ると、尾根は一旦余程低くなって、直に祖父ヶ岳に連り、夫から山脈は西南の方向に折れて赤沢の頭 (一名赤沢岳、後立山と云ふものは即ち之であらう)となり南に走って針木峠の西に聳える尖峰(名称不明「附記」参照)となる。
と疑われたが、『山岳』六年一号所載の「後立山連峰縦断記」に於ては、
後立山なる名称は名詮自性、越中の用語にて、信州にては絶えて此名を聞くことなし、名称の由来は明かに知り難きも、越中人が立山山上より黒部谿谷の東方に当り高峻立山に劣らざる大山脈の蜿蜒するを望み、而かも個々の山名を明かにし得ざるに因り、後立山なる概括的名称を与へしこと蓋し其濫觴ならん(富山市附近より後立山は立山連峰に遮られて全く望見す可らず)。今日立山に登る人は先達祠官等が山上にて此名を呼び居るを気付かるゝことなるべし。
と言われ、且つ
近頃、鹿島槍北方のゴリウ岳(北城村の割菱岳)を後立山と書き、後立をゴリウと音読すること大分流行の様子なるが、ウシロタテヤマといふ総括的の大名を何故、鹿島槍の如き高峰を措きて、北方に偏り、而も比較的低小なる此峰に与ふることゝなりしか、甚だ怪むべし、如何にも立山をリウザンと読むことはあるやうなれど後立山まで音読するは、似非漢学者流の筆法と思はれて、頗る附会の嫌あり。
と気焔を吐かれた。
今までに『山岳』誌上で発表された後立山に関する意見は、以上の外に七年一号、八年二号及び八年三号等の雑録欄に載っている。
先ず順序として従来世に現われている諸書の後立山に就て記述するのが当然であるが、余り必要でもないからこれ等は一切省略して、直に本文に取りかかることにする。
『越中遊覧志』(此書の著者は明治十八年八月
東はすべて数千尺の断崖絶壁にて、崖壁の下は黒部川の源流の出るところたり。之を隔て東に列る諸山は、越中信濃の界をなすものにして、針木、栂、後立、餓鬼、赤鬼等の名あり、其中に後立山最高し、余は高低を論ずるにも及ばず。
この針木とあるものは、恐らく
明治四十三年三月の出版に係る高岡新報の記者井上江花著『黒部山探検』と題する書に「黒部奥山公儀御用帖」の中から抜萃した山廻り役の見分記が載っている。原本は前田家の所蔵らしい。
一、当九日針木谷落合の小屋発足、信州細野入より黒部山へ入込む人可有之向寄のヶ所、小狭栂谷右両ヶ所へ登山仕候処、小狭峰に先年狩人にても入込み候哉にて、古小屋一つ倒れ御座候、尤も道筋も幽かに御座候得共、何れ両三年已前にても通行仕候哉の様子にて、当時仕候道筋も見請不申候、夫より栂谷へ相移り、所々見廻り仕候処、是又前段同様古小屋一つ御座候、此分人数四五人計も住居罷在候程の小屋跡と見受申候、外に倒れ小屋跡一つ御座候得共、小屋木等朽居候故、年限難計御座候、同所道形も、前段小狭に有之候道形等は、少々人多通行仕候様にも見請候得共、何分近頃通行人有之道形とも難見請御座候、乍併山中之小屋、若人少にて罷越通り候得ば、慥成足跡等の義は相難知義に御座候、別て御伐出御座候に付、先頃風便にも江戸中村屋七兵衛代人伝四郎より、人を以て山内の様子為内見、万一右ヶ所へ為入込候哉も難計奉存候に付、重念右道筋見分仕申候、然上にも先年入込候哉、手排の筋も無之やと、所々見分相捜候得共、外に疑敷義無之、前文の通り小屋跡等道形の儀のみにて、相替義無御座候、猶更栂谷頂より後立山続際迄罷越候へ共、右之外無覚束儀も見分不仕候、尤も後立山並に餓鬼ヶ岳及び蓮華岳迄の間、信州路より越可入込義迚も、嶮岨通行相成申箇所にては無御度候、乍去道筋より入込人可有之も其義難計御度候、右後立山際より罷帰り、尚更打返見分不仕候に付、前文之道筋通り信州路へ相移り、夫より又候黒部針木峠を越、同落合へ昨夜小屋着仕候、依て右道筋等、素絵図一枚相添、此段御達申上候、
天保九年戌六月十五日
天保九年戌六月十五日
絵図は既に
越中飛騨信濃ノ三国境ハ、深山ニテ山名モ無シ、峰ヨリ東面ハ信濃国ナリ、西ノ方ニテ南ハ飛騨北ハ越中国トス(是ヨリ北ヘ信濃国ト越中国トノ界ハ山深ク嶮岨ナル故通路ナシ、但シ山中ニだいら川ト云フ川アリ、是ヲ界トスルナリ。だいら川ハ加賀川ノ入ニテ、野口沢本谷ノ北すばり越ト云フ辺ヨリ奥ヘハ通路ナシ。此すばり越ノ辺マテモ山師杣人ノ外ハ行クコトナシ、夫ヨリ北方ニさら/\越トイフ所アリ、昔シ天正年中信長公ノ臣佐々内蔵助、越中国ヨリ此さら/\越ヲ通リテ、当国ヘ来ルコトアリシト云伝ヘタルハ、此辺ヲ越テ加賀川ニ沿ヒ、野口村ノ方ヘ出テタリトカヤ。だいら川ヨリ越中国立山ノ信濃堂ナトイフ所見ユ、山伝ヒニ立山マテ五里許リモアルヘキナリ、是ヨリ越後越中信濃三国界マテノ中モ国境分明ナラス。)
という記事がある。勿論此書は松本藩の編纂したものであるから、他領の山川には不行届の点もあろうが、
栂谷頂というのは『遊覧志』の所謂栂で、越中の称呼である。其沢はどの沢に当るかというに、『下新川郡史稿』の黒部川の水系を記述した文には
水源より凡三里にて西側より下り谷落合、更に下ること約三十町にして、東の方より岩苔谷落合ひ、凡そ三里にして南の方より中岳谷落合、一里にて東の方より針木谷落合、其の西側よりは越中沢落合、立山の東にて御前沢谷落合、凡そ一里許りにして東より栂谷落合、西岸より内蔵助谷落合、更に東岸より後立山谷落合、東岸よりは餓鬼谷落合、更に欅平の向に於て東岸より祖母谷川落合云々。
前記の推定に拠って山見廻りの道筋を想像して見ると、針木岳附近から尾根伝いに赤沢岳に登り、更に進んで後立山の続際まで行き、「前文の道筋通り信州路へ移り」とあるから、其辺の道筋を辿って信州方面へ出で、針木峠を越えて出発点に帰着したのであろう。尤もスバリ、赤沢共に、信州細野入より黒部山へ入込む向寄の箇所とは受け取れぬ、細野入からは
栂谷頂は赤沢岳或はもう少し之を押し広めて其連脈鳴沢岳、岩小屋沢岳をも含むものとして、後立山続際とは何処をいうたものであろう。若し種池平の辺であるとすれば、後立山は
茲に訝しく思われることは、黒部川の水系の記事に、どうして棒小屋沢のような大きな沢が漏れているのであろうかということである。それで試に水系の記事を逆に数えて見ると、東岸から黒部川に注入する谷は、
それはさて措き、前に記した小狭栂谷両山の私の解釈が誤りないとすれば、見分記の山名の記載は殆んど全く『遊覧志』と同じである。しかし若し私に後立山と鹿島槍ヶ岳とは同山であることを証拠立てる材料がこの二つより外になかったならば、私は此文を草する気にはなれなかったであろう。幸に尚一つの材料がある、『日本山嶽志』の記事がそれだ。
後立山 越中国下新川上新川ノ二郡信濃国北安曇郡ニ跨ル、登路未詳(補遺には「下新川郡山崎村大字山崎ヨリ十里ニシテ其山頂ニ達ス」とあり。恐らく富山県統計書に拠りて補はれたるならん)。
この
後立山 本郡(下新川郡)ノ極南ニシテ、中新川郡ノ界ニ在リ、信濃国北安曇郡ニ跨ル。
余談として五竜のことも少し書いて見たい。
元来山名の起原は一様ではないが、平地から容易に山体を望むことが出来ないような深山であれば、其山から発源する沢の名で呼ぶのが普通である。猟師や山稼ぎの人などが或沢を遡って、ひょっこり今まで知らぬ山の頂に出る、それで便宜上何沢の頭とか何沢の岳とか呼び慣わしていたのが其山の名となることが多い。然し山の名から沢の名が導かれることも少なくない。後立山谷なども其一の例であろう。越中側から後立山に登ることは、尾根伝い又は沢伝いに登るにせよ、現今でも非常に困難である事実から察して、これは矢張り立山附近から望見して名付けたものに相違ないとすれば、『下新川郡史稿』に
北城村では五竜岳を割菱岳と唱えているそうであるが、ゴリフの名も全く知られていなかった訳ではないらしい。十五、六年前にあの辺を旅行したことのある私の友人は、其時土地の人から大黒岳の南の山を北ゴリフだと教えられ、更に其南には南ゴリフと呼ぶ高い山のあることを教えられて頗る得意となり、そういう山を知っているかと聞かれたのには大に閉口した事がある。今思えばこの南ゴリフは
要するに後立山は鹿島槍ヶ岳のことであって、それが一遷して其辺一体の山を指す名に用いられ、ゴリフと音読され、更に南北を分ち、再遷して単に北ゴリフのみの称呼となったものと考えられる。これは言う迄もなく鹿島槍ヶ岳の名が勢力を張るようになってからのことであろう。
(大正六、九『山岳』)