木曾御岳の話

木暮理太郎




 今日は懐古の夕だそうですから思いきり古い話をすることにしますが、私の古い山旅はただぶらぶら歩いていたのみで日記さえもつけない、ですから忘れてしまった方が多いのは残念ですが、しかし何といっても、見て面白いし、登って面白いし、読んで面白く、聞いても考えてもまたおもしろい山のことですから、随分古い思い出はあります。そのうちで一番よく頭に残っているのは、初めて木曾の御岳へ登った時のことです。その話はいつか前にもしたことがあったかと思いますけれども、また一つ今夜お話して見たいと思います。
 なにしろその頃は中央線の汽車がまだ八王子までしか通じていないし、碓氷うすいトンネルがやっと出来て汽車が通じて間もない明治二十六年、丁度私が二十でございました。何故御岳へ行ったかといいますと、その頃私の家は御岳講に入っていましたからその講中の者が参詣するというのでそれについて行ったわけです。しかし講中と同じぎょうをすることは御免を蒙りました。あれは毎日水ばかり浴びているのですから、もっとも夏のことですから別に苦にもならないでしょう。朝起きると水を浴びる。夕方宿に着くと早速また水を浴びる。それがこの講のお勤めなのです。その連中と一緒に碓氷峠を越えて岩村田から長久保へ出て行ったのですが、その辺はあまり記憶に残っていません。ただ和田峠の頂上で客をのせる馬が多いのと、馬子が賃銭を受取るとすぐそばの林の中で賭博をやるのには驚きました。その時あの餅屋の餅を食ったが、どんな味だったかすっかり忘れてしまいました。
 それから下諏訪の亀屋へ泊ったとき、入口の土間の揚げ板をあげてさあ足をお洗い下さいという、勿論草鞋ばきです、見ると湯がどんどん流れている。なるほどこれは重宝だなと思った。足を洗うとすぐそばに湯殿があってそれに飛び込む、そして水行みずぎょうを済してからゆっくり晩飯という段取は、講中には誂向きに出来ているがお相伴しょうばんの私には、千松ほどでなくともなりつらい辛抱でありました。
 翌日は塩尻峠を越して洗馬せばに出てそれから木曾街道を下りました。途中なんでも奈良井の日野屋だったと思う、そこに泊った時、この家は白味噌の味噌汁が自慢なので、朱塗りの大椀に盛って出す、何杯お代りしてもいい。いいどころじゃない。椀がからになるとすぐお代りを持って来る。これには随分閉口しましたが、中には勇敢な奴があって十二杯ぐらい平げた。今はあるかどうか知りません。外にも御岳講の講中が幾組も泊っているので、給仕の女達がもう沢山だという客の手からお椀をひったくる、もういらない、もっとおあがりなどと飯時には大騒ぎでした。
 それから鳥居峠を越えて藪原へ下ってそこへ泊ったのです。夜になると小娘が花漬を売りに来る。丸、四角、扇形などさまざまの形をしたちいさい曲げ物に、紅、淡紅、白と、主に梅、桃、李などの花やつぼみたくみに按配して入れたもので、木曾の宿では大抵売りに来ました。見た目には誠に綺麗なものです。それからお六櫛というのがありまして、これも今はないかも知れませんが、それを売りに来ました、それがどういうわけでお六櫛というのかいわれは聞きませんでしたが、とにかく本物の黄楊つげで作った特有な形をした櫛でした。鳥居峠には頂上に茶屋がありまして、そうめんを売っている。冷たい水に浸してあるのでそれが非常にうまい。真正面に御岳が見える。鳥居が立っていてそれに落首が書いてあった。

お鳥居のやうに両足ふんばつて 山をにらんで拝むつらつき

というのです、ちょっとおもしろいと思いました。
 峠を下れば本当の木曾街道で、その頃は今とちがって木曾街道もなかなか風情があったように憶えています。それは田部たなべ君も言ったけれども、われわれはどうも昔のことをひどくいいように覚えているのです。木なんかでも実際はそれ程でもなかったろうと思うが非常に大きかったように覚えている。どうもそういう傾向――癖がある。その頃私は『太平記』を愛読しておりましたが、「山路雨無うして空翠くうすい常に衣をうるほす」という文句があるのを思い出して、うまいことをいったもんだとつくづく感心しました。それは藪原から先へ行きますと宮越までの間は、両側が迫って来て大きな木が立ちならび、水楢みずならとちなどもあったように思うが、繁り合った葉がそよふく風に揺れて、その間から洩れる日の光がみどりの竪縞を織りなしている。その並木の間を通るとひやりと涼しく、しっとりした感じはいい気持ちで、これが空翠というのだなとおもいました。
 それから福島の蔦屋に一泊して翌日王滝へはいった。福島から木曾川を渡ると間もなくかなり大きな黒木の林が続いて、下を流れている川は見ようと思っても見られなかった。一と所脚の下に川をる場所があって矢張やはり木曾川と思っていたら、それは王滝川で、いつの間にか右へ廻り込んでいたのでした。其後に行った時はもうそんな林はどこへけし飛んでしまったか少しも見られませんでしたが、その当時はそこに黒木の林が茂っておった。動物園に行くと沢山飼ってあるあの縞栗鼠しまりす、私はそれを単に木鼠だと思っておりましたが、それが沢山おりました。それに高い枝からなり太いつるが下っておった。それにつかまれば上へ登れそうな太い蔓です。それを私は霧藻だとばかり思っていました。後で武田君にそれはシラクチヅルだとわらわれたけれども、木深い木曾の方では霧藻でもだんだん伸びて地へとどくと、地中へ根をはって大きくなるのだろうと考えていました。それがまたなかなか沢山ある。それを木鼠がさかんに上ったり下ったりしている。人を恐れる気配もなく、余り近く跳び歩くので終いにはそれを一匹捕ってやろうという気になって追いかけましたが、のろいようでも素早いので手捕りなどに出来る筈もありません。なにしろ黒木の林の中に栗鼠が沢山戯れていて、余り人を恐れないというような光景は、今では容易に見られないでしょう。われわれが山へはいる頃には何処にも森林が非常に茂っておって、殊に黒木の森林であると、その中へはいるのが楽しみでもありまたなんだか恐ろしいようでもあった。そんな林の中では少しの物音――がさっと音がしてもすぐぞっとする程緊張していたものです。そういう森林が福島に近い木曾川や王滝川の岸にずっと続いておったのですが、その後三年経って行った時にはもうだいぶ伐られておりました。御岳は五度ばかり行っておりますけれども、行くたびに木がなくなって、終にはすっかり昔の面影が見られなくなってしまいました。
 常盤橋から今では沢渡さわど峠を越えて行きますが、私共はクズシロ峠というのを越えていきなり田嶋へ下り、すぐ釣橋を渡って王滝に着いたように覚えています。五万の地図で見てもどうもよくわからないのですが、尾羽林を通り崩越への峠の上から尾根伝いに一四三二米の三角点附近に至り、そこから西に下ったのかも知れません。長い峠路で大雷雨にい、それがれると正面に御岳を仰いだことを覚えています。次に通った二十九年にはまだ其ままでしたが、四回目のたしか明治三十三年の時にはその道がなくて、ずっと下の方の峠を通りました。これは田部君が言ったように峠の解消とでもいうんでしょうか。鞍馬橋を渡ったのは更にその次の登山の時でありました。

 王滝では松原彦右衛門という人の家へ泊りました。今その家があるかどうか、大きな家だったから多分あるだろうと思います。そこへ泊ると御岳講の連中が二、三十組も泊っておりましたろうか。いよいよ明日はお山へかかる。今日は特にたびたび水を浴びなくちゃいけないというので、さかんに行が始まる。水を浴びるといっても、御岳教の教文を唱えながら、流しまたは行場へつくばって絶えず両手で頭へ水をかけ、四、五分経ってから最後に大きく胸から体へ懸るようにする。それを二、三遍繰返してやる。もっとも傍に湯が立っていて、寒くなれば湯にはいってまたやるのです。そうして車座をつくって、まん中に中座なかざを勤める人が御幣を持って坐ると、先達がその中座の前に坐る。そうして教文を読みはじめる、そうすると早ければ四、五十分、遅くも一時間過ぎには中座に御岳さんがのり移るのです。教文は神仏混合で、いろいろのお経や祝詞のりとやお祓いを読む、高天ヶ原の祝詞からはじまって不動様のお経までやる。ことに『般若心経』をよくやる、それは中座の人によく利くお経やお祓をやるので、ある中座の人は『般若心経』を最後に読まなければ神様がのりうつらない。ある人は六根清浄の祓でないといけないという工合で、このことをお座をたてるといいますが、このお座が幾つも立つので、こっちでは『般若心経』を繰返す。あっちでは「高天ヶ原」を繰返す。いずれも真剣だから笑われもしない。そのうちに中座の人が両手で持っている御幣をすうと頭上に上げて強く急に振り動かす、即ち神がのりうつったのです。そこで先達がいろいろ伺いをたてる。たとえば、エー御前様ごぜんさま、明日のお天気は如何でしょうという類である。すると中座は御幣を頭の上でパッと振る。其時の御幣の紙のかえり工合を見て先達が判断するのですが気のきいた人は実によく当てる。なかなかおもしろいものです。中には水の浴び方が足りないといって叱られるものもある。内所ないしょで何かよくないことをしたものは、大抵ここで泥を吐いてしまう。さもないと頂上まで登れないで必ず途中でへたばるということです。それから皆な自分の家のことを心配して何か変りはないかと伺って見る、大概ないといいます。時とすると誰の家に急変が起ったと云うので非常に騒ぎ立てる組もあるそうで、それがだいぶ当るらしいのです。訊ねて見ると易と同じように御幣の十三枚の紙の裏表の組合いの工合によって判断する規定があるらしく、それをその場合に応じてうまく判断しなければならぬから、先達はなかなかむずかしい役だろうと思いました。ですから気の利いた先達がいるとその講中はなかなか繁昌するそうです。中座は物を言わない場合の方が多いようですが、中にはおごそかな句調で神意をつげるものもある。私などには抑揚の強い含み声なので何を言ったのか少しも分らないが、先達は慣れているので気持よくてきぱきと処理してしまう。それから明日のお山が無事に済ませるようにと皆中座の前に放射状に足を投げ出して御幣でお加持かじをして貰う。これは足の疲れを癒す為で、私も一緒にやって貰いました。それが済むとまた一しきり教文を合唱する。そして先達は其間に臨兵闘者りんびょうとうしゃ皆陣列在前かいじんれつざいぜんと唱えながら九字を切り、中座の肩から腕のあたりを撫でるのです、そして握りめている指の硬直が弛むと、先ず御幣を取って自分の衿にさし、更に何処か急所をうんと押すと、神は離れて中座は平素の吾にかえり、皆と一緒に読経して、お座は終りとなるのであります。
 お山をかける朝の出立は早い、大抵午前三時か三時半、遅くも四時には銘々が松明たいまつを持って出掛ける、昔の絵によく描いてある通りです。麓のものは遠くから見られませんが、田ノ原から上ですと、もう偃松帯はいまつたいで邪魔な木立がないから、一列の松明が蛇のようにうねりながら山を登って行くのがよく見える訳です。途中に清滝というのがあります。そこへ寄ってまた滝に打たれる、水量は少ないが高さは三、四丈もありましょうか、それに叩かれるとなかなか痛い、滝壺はなく平な一枚岩なので、『般若心経』を口誦しながら其下を往復すると、経の終る頃には十遍位も往復することになって、背中は真赤になってしまいます。私も打たれて見ましたが冷たいのと痛いのとで五、六遍で飛び出しました。随分頑張っても八、九遍やるともう参ってしまいます。慣れている先達などは十五へんも二十ぺんもやる。今度お出かけになったらおやりになるのも一興でしょう。
 それから俗称神王原じんのうっぱらを通り過ぎて昼も薄暗い黒木立の中を登りました、例の太いシラクチ蔓があったことを覚えています。三笠山に参詣して田ノ原の小屋に休み、雲の去来する中を六根清浄を唱えながら王滝口の頂上に着いたのは夕方でした。何にせお宮や石碑があれば一々杖を止めて拝みを上げるので非常に時間を潰すから道ははかどりません。ここで私は一行と別れて二の池の小屋へ行って泊りました。そして翌日は山を一廻りする積りで小屋の主人によく道すじを聞きただしますと、なにしろ講中の登山者ばかりいるのですから、迂闊な真似をして、お山を荒すというので殴られでもしては大変だというので、いろいろ注意を受けました。御岳講では御神符ということをいいます。それは頂上に一の池、二の池、三の池、四の池、五の池というて五の池があるのです。もっとも一の池には水のあることは稀で、四の池は水は流れているが池にはなっていません。是等これらの池の水に半紙を浸してそれを乾かして貯え置き、病人があると夫を小さく切って汲みたての清水に入れて飲ませる。それが薬になる。とにかく御神符は奥の池の水に浸したもの程利き目が著しい。二の池よりは三の池、三の池よりは四の池、四の池よりは五の池の方がいいのだそうです。後には池の水を竹筒や瓶に入れて持ち返る人があるようになりました。ところが三の池から奥へは余程行を積んだ先達でないと行かれない。たいがい三の池でお終いです。二の池では余り近いし三の池なら丁度よい。四の池となると恐ろしくて近寄る人は殆んどない。
 三度目の登山の時でしたか二の池の小屋の主人が、昨日東京から来た人でこの池で泳いだ者がある、勿体ないことをしたものだ、よく罰が当らないと話したことを覚えている。後でその話を梅沢君にしたところがその当人が梅沢君だったのには驚いた。梅沢君が早く亡くなられたのは其の所為せいかも知れぬ、といったら同君は地下で「何を馬鹿な」と例の腹を突き出してワッハッハと大笑いすることでしょう。ともあれ山を神聖なものと崇めている講中の前で、目に余ると思われるような行為をせぬようくれぐれも注意されたのでした。
 二の池で泊って、私は翌日起きて驚いた。あんなに沢山の高い山があるのを一目に見たのは初めてです。先ず東の方を見ると、鼻につかえる位の近くに目八分の高さに長い山がある。其上には更に高い山があり、どこまで続いているのか、先の方は棚引く横雲に隠れているので分らない、何山だか小屋の主人に聞いてもよく知らぬ。そばに居た駒草こまくさ採りの男が甲州の山で白峰しらねというのだと教えてくれました。賽の河原を過ぎて三の池まで来ますと、火口壁の上では幾組もの先達が池に向って盛に九字を切っていました。見ると幾人かが池の水へ御神符の紙を浸している所でした。其人達の居なくなるのを待って池の畔に下り、東側の偃松の中を辿って継母ままはは岳の頂上に出て振り返ると、梵天のようなものを押し立てた四十人余りの白衣の信徒達が池に向って高声に祈祷しながら九字を切っていました。下は真青な池です。私は何だか恐ろしくなって急いで四の池の火口壁内へ下りて、冷たい水の流れている草原に腰を卸して暫く休んでから継子岳を上下し、高天ヶ原の最高点に立ったのでした。この附近までは駒草採りも稀にしか入り込まないと見えて、十も二十も花の咲いている大きな株があっちにもこっちにもありました。私も五つ六つ採集して紙に包み、小屋に帰ってから主人に見せたら、ヤア旦那、二両がとこ仕事をしましたネと言われて吃驚びっくりしたのでした。ここまで来ると北の方の雲がいいあんばいに晴れて、いきなり鼻の先へ頭が小さくて恐ろしく根張りの大きい山が現われる。それが乗鞍でした。おまけに乗鞍の南の斜面には大きな残雪があった。御岳では二の池の西側にわずかしかなかったのですが、乗鞍には沢山雪が残っていたので、これは御岳より高い山ではないかと思って残念なような気がしたのでした。
 更に後の方を見ると三つ穂の槍のような山が見える、支那人の所謂いわゆる一柄三尖の槍に似ている。つまり槍と奥穂高と前穂高の三つが三叉の槍のように見えたのです。あれが小屋の主人から聞いた槍ヶ岳であろう。私はこの三尖が一個の槍ヶ岳だと思ったのです。穂高なんて名は知りもしなければ聞いたこともない。そのために穂高へ登りそこなったのでした。私は四方の山を見ているうちにぼうとなってしまって、殆ど夢中で五の池から摩利支天まりしてん、一の池の三十六童子を廻って小屋に帰り、其日の中に下山して宮ノ越に泊ったのですが、意識的に日本アルプスの山々を大観したのはこの時が始めてでありました。二度目に行った時は、ちょうど二十九年で『日本風景論』を読んでいましたから御岳はつけたりで、立山を振り出しにどうしても槍へ登りたいと思って行ったのですけれども、案内者を傭って登るなんてことは知らなかったものですから、なんでも山へは一人で登るもののように思っていたのです。それで『風景論』を読んでみると三千五百三十一メートルと書いてある。富士山のほかにも高い山があるものだ、これはどうしても登らずんばあるべからずと思って行ったのですが、註のところに時に雷鳥、熊、かもしかを見ると書いてあるので熊におそれをなして断念しました。その時島々しましまで穂高へ登ったらよかろうといわれたのですが、そんな名も知らない山へ登ったところがしようがないというのでとうとう登らなかったのは今から考えると甚だ残念です。かく御岳へ初めて登った時が、日本にもこんなに高い山が沢山あるぞということをまざまざと見せつけられたので、一番よく記憶に残って居ります。
 後になって、ある日行きつけの本屋をちょっと覗いてみると『山岳』という雑誌が出ている。おや、これは大変なものがある。どんな人が書いているのだろうと思って開けてみると知らない名前が沢山つらねてある。さあ大変だ、世の中には山の好きな奴が随分沢山あるものだと思いました。そしてそれは多分皆自分と同じ位の年配だろうとばかり思っていました。ところが後で知り合になってみると皆な若い人ばかり、これにも驚いた。こんなに若いくせに山へ登るなんて……。それがこの頃、見渡したところいずれも小鬢に白髪の加わっていない人はないのですから、懐古の夕というような催しが出るのも止むを得ないことだと観念した次第です。
(昭和八、一二『日本山岳会会報』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「日本山岳会会報」
   1933(昭和8)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年1月16日作成
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