秩父山塊の
金峰山は、私の古い山旅の朧げな記憶の中では、比較的はっきりしている方である。
此山の名を知ったのは小学校の何級であったか忘れたが、何でも暗射地図で甲州の北境に栗の
毬殻に似た大きな山の符号があって、それが金峰山だと教えられたのが最初である。お寺を小学校に代用していた田舎のことではあるし、まだ「いろは」も
碌に知らないうちから『小学生徒心得』という漢文直訳体の本を読ませたり、今でいえば尋常二年には既に『十八史略』が教科書に用いられた程、読む事に重きを置いた昔の寺子屋風が残っていた時代のことであるから、地理の教授などは極めて簡単で、大抵この暗射地図で山川
都邑の名を暗記せていたのであった。勿論金峰山がどんな山であるか、
夫に就て少しも知る所の無い先生は、単に蔵王権現の祭ってある高い山だと教えたのみに過ぎない。その蔵王権現も神か仏か、うるさく質問する生徒達に一喝を浴せたのみで更に説明はして
呉れなかった。
四、五年の後に東京に留学するようになって、或日上野の博物館を見物した。古代仏像の陳列室を丹念に品目だけ読んで行くと、ふと蔵王権現というのが目に付いた。高さ一尺二、三寸の銅像で、左の足で蓮花を踏み、右の足を高く上げ、左の手は腰にあて、
三鈷を持った右の手を頭上に振りかざし、
稍忿怒の相を帯びた半裸体のものである。
之を見ると金峰山のことが想い出されて、次の機会には是非之に登りたいものだと決心した。私の金峰登山は
謂わば蔵王権現の導きであるから、帰命宝蓮花を三唱して仏恩に感謝しなければなるまい。秩父の山の中で、金峰山に深い執着を感ずるのは、この為であるかも知れない。
明治二十六年の八月上旬、妙義山を振り出しに浅間、蓼科の二山に登って諏訪に出で、塩尻峠を超えて木曾路に入り、御岳を上下し、引き返して甲府へ出た、これは武田信玄の旧蹟を訪いたかったからである。この頃の私は歴史上の好きな人物に甚しく興味を感じていたので、
其古蹟には山と同じように心を惹かれたのであった。此時も八ヶ岳に登って南佐久に下り『修身節約』という小学校の読本で知った有名な孝子亀松が狼を退治した内山峠を
踰えて、
下仁田へ出ようかとも考えたのであるが、日頃崇拝していた信玄熱が高かったので、とうとう甲府へ来てしまった。其代りかねて宿望の金峰山に登って八ヶ岳の埋合せにしようと思っていた。
然し甲府へ来て勘定して見ると、金峰山に登れば、帰郷するのに如何しても二日は余分にかかることになる、これは財布が許さない。それで止むなく昇仙峡から御岳の里宮に参詣したのみで、あとは脚に馬力をかけて、一日に十五、六里宛飛ばして、三日半で帰宅した。財布をはたくと八円貰った旅費が二銭銅貨一枚しか残っていなかった。
明くる二十七年の十月には、志賀重昂先生の『日本風景論』が出版されたことを新聞で知った。私が漸く之を手に入れたのは翌二十八年の三月で、既に第三版であった。この本が当時の登山者仲間に甚大の影響を及ぼしたことは、日本山岳会の設立される迄知らずにいたが、
兎に
角有頂天になって読み耽っていた私がこの本から受けた刺激は頗る強いものであったらしく、二十九年の夏には破天荒な山旅の計画を発表して全く家人を驚かした。即ち
針木峠を踰えて立山に登り、引返して槍ヶ岳から乗鞍、御岳、木曾駒、甲斐駒及び金峰山と順次に登攀し、十文字峠を経て秩父盆地に入り、最後に武甲山に登って熊谷に出ようというのである。有り難いことには、登山の危険というような事を少しも知らない家人は、笑いながら私の請を許して、財布の中へ二十円入れて呉れた。一泊十七銭から二十五銭、中食五銭から十銭、草鞋二銭、雑費五銭、合せて三十銭
乃至四十銭で旅の一日が過せる、二十円あれば優に四十日は歩けるので大威張だ。
私の山旅は、槍ヶ岳を除いて予定通り順調に進んだ。甲斐駒を下る時には、屏風岩の小屋の主人が食糧の買入れに下山したので、朝食に握飯一つを食べたきりで、ヒョロヒョロになって台ヶ原に辿り着いた。翌日は昨日の疲れと、
韮崎から睦沢へ出る道を誤って大迂廻した為とで、御岳へ着いたのは午後二時頃であった。もう御室まで日のある
中には行けないと聞いたので、まだ早いが大黒屋に草鞋を脱いだ。
明くれば八月二十一日、十人余りの講中と同行するのが嫌さに、夜の白むのを待ちかねて出発する。楢峠の長い登りを終えて、唐松峠の薄暗い森林にさしかかると、一しきり驟雨が襲って来た。
暢気に蝙蝠傘をさして御室に着いたのは九時頃であったろう、小屋の主人は、蝙蝠傘をさして来た人はこれで二度目だと言って珍しがっていた。
正午までには楽に頂上に着けると小屋の主人がいうので、雨の
霽れたのを幸に、安心して岩の梯子を上るような急な登りにかかった。喬木帯を抜けて大きな岩の上に立つと、行手の空に
突兀と五丈石が見上げられた。其南下に蔵王権現の奥院は鎮座していたが、絶頂にはまだ測量の櫓は無く、五丈石には粗末な梯子が架けてあった。私はいきなり五丈石に攀じ登って、暫く四方の眺望を
恣にし、そして岩を下りると、
茵のようにやわらかいふっくりした青い
岩高蘭や
苔桃の中に身を埋めて、仰向けに寝ころんだまま、経文を誦する人声が耳に入るまで、長い間空を見詰めて考えに耽っていた。そして此時初めてしみじみと山を味うことを体得したのであった。
(昭和七、七『日本山岳会会報』)