南北アルプス通説

木暮理太郎




日本アルプスの名称


 日本本島中部の大山脈である赤石山系、木曾山脈及び飛騨山脈は、今日普通に日本アルプスの名で呼ばれている。この名は明治の初年に主として飛騨山脈に足を踏み入れた外国人によって創唱されたものであることは疑いないが、その何人なんぴとであるかは明らかでなかった。当時飛騨山脈の一部に足跡を印した外人には、ガウランド氏あり、サトウ氏あり、チャムバレーン氏あり、アトキンスン氏あり、その他なお三、四の人がある。中にもガウランド氏は明治十年前後に、飛騨山脈の立山、じい岳、五六ごろう岳、槍ヶ岳及び乗鞍岳や御岳等に登り、明治十三年十二月にアジヤ協会で「日本に於る氷河時代の遺跡」と題する講演を試みたミルン氏に、殆んどその講演の資料全部を供給した人である。予は曾て『日本アルプス』の著者小島君より、『ジャパニーズ・アルプス』の著者ウェストン氏が同君に、日本アルプスの命名者は実にこのガウランド氏なりと語られたということを聞いた。
 日本アルプスの命名者は何人であるにせよ、それが漸く日本人の間で口にし筆にされるようになったのは、明治二十九年にウェストン氏の著『ジャパニーズ・アルプス』が出版されてから十年近くも経過した明治三十八年の頃からであって、それも最初は飛騨山脈のみに限られていた観があった。これは恐らく飛騨山脈の雪に飾られた高峻雄大なる山容を松本平から間近く仰望し得る為に、その存在が多くの人に早くから認められ、それで日本アルプスといえば飛騨山脈を意味するもののように思わしむるに至ったものであろう。しかるに一般には勿論、学者の間にも日本アルプスの名を飛騨山脈に限ることに不同意の説が唱えられて、大勢のおもむくところ赤石山系や木曾山脈をも日本アルプスの中に含ましむるに至ったのであるが、これは早晩しかあるべき筈のものが、その通りになったに過ぎない当然なことである。アルプスなる文字を使用することが極度に流行している今日から見れば、かような説があったということさえ、寧ろ不思議に思われるほどであろう。

日本アルプスの特色


 かくの如く日本アルプスは赤石山系、木曾山脈及び飛騨山脈の総称であるが、これ等の山脈はほぼ斜に相並行して三〇〇〇米を上下する大連嶺を成し、風雨ののみ、氷雪のかんなに刻まれ削られて、他の多くの山脈とは違った、著しい特色を有している。標高の大なることがその一であり、夏なお多量の残雪を存することがその二であり、過去の氷河の遺跡であるといわれているカールの存在することがその四であり、山頂附近は大小の岩塊狼藉して、時に矮小なる木本或は草本等より成るお花畑を作り、または地衣類を産するのみなることがその五である。これらは日本アルプスに共通した特色を概括的に挙げたもので、わゆる高山性の地貌と称せられるものである。そして同じく日本アルプスであっても、木曾山脈は暫く措き、赤石山系と飛騨山脈とは、地質構造は勿論、地形や山貌等外観上にも少からず相違のあることは一見して明らかであるから、赤石山系を南アルプス、木曾山脈を中央アルプス、飛騨山脈を北アルプスと劃定して呼ぶことは、単に位置の関係を示す以外にも、南北の二字にかなり重要な役目を演じさせているわけになる。

南北アルプスの対照


 地質調査所発行の地質図に従えば、北アルプスは主として花崗岩、石英斑岩の如き深成岩類やこれ等と成分の同じ花崗片麻岩より成り、その一部に秩父古生層及びジュラ層等の水成岩を加え、更にこれを縦貫して所々に新火山岩が噴出している。これに反して南アルプスは水成岩なる秩父古生層を主とし、第三紀層これに加わり、北部の一小区域に花崗岩の迸入を見たるも、新火山岩に至りては殆ど記するに足るものがない。これ等の地質上の相違は必ずや地形の上に何等かの相違を生ずべきは明らかである。てて加えて降雪量の多少、気候の寒暖等が強く影響して、その結果南北アルプスは各々今日見るが如き異りたる特色を有するに至ったものであろうと思う。しかしながら是等これらは専攻の士を待って論議せらるべきもので、ここにはただ目睹もくとしたる事実を記すに止めて置く。
 南北アルプスを通観して第一に気のつく相違は、山脈の起伏である。北アルプスは概して起伏に富み、それがまた小刻みに刻まれて、大小の峰頭は乱杭の如くまたは鋸歯の如く駢立へんりつし、鋭く天を刺している。しかるに南アルプスは起伏少く、大まかでゆったりした観があり、峰頭の鋭く尖っていることは極めて稀である。試に北アルプスの槍穂高の一群と南アルプスの白峰しらね三山附近とを取って比較して見る。この両者は日本アルプスの双壁であって、奥穂高の標高は陸地測量部発行の五万分一の図にも記載してないが、最近その測定に従事した一測量手の談によれば、その高度は槍ヶ岳をしのぎ、白峰の北岳と同じく三一九二メートルであるということである。この数字は発表されるまでには或は幾分の訂正を余儀なくされるにしても、この二の山群は山体の大さ高さにおいて相匹敵しているにかかわらず、ともに水平距離六キロの間において、前者には槍、大喰おおばみ、中、南、北穂高、涸沢、奥穂高、前穂高の八座あるも、後者は北岳、あいノ岳、農鳥のうとり西峰、農鳥岳の四座を数うるに過ぎない。尤も北岳の頂上は三つの隆起に岐れているからこれを三峰とし、農鳥岳は西峰との間に一突起があるので、これも一峰としたならば、総計七座とせられぬこともない。けれどもかくの如き小隆起をも一峰として取扱うならば、穂高山群のみにて五や六を増加するのは容易である。また南アルプスで最も起伏の多い部分は、赤石岳を中心として北は悪沢わるさわ岳から南はひじり岳に至る延長一、二キロの間であるが、少し無理をすれば十二座は数えられる。しかし北アルプスの立山附近においては、南はザラ峠から北は大窓の北方に至る同距離の間に優に十六座を数え得ることは、もって如何に山の頂線が北アルプスに急迫し、南アルプスに悠揚たるかを証するものである。従って槍、やり、劒、赤鬼、餓鬼、錫杖しゃくじょう等は、北アルプスの山名には似合わしい文字であるが、南アルプスには例外として唯一の鋸岳があるのみである。
 次に著しく目を惹くものに夏の残雪がある。わが国の如く冬季の西北風の卓越せるところでは、その拉し来る日本海の水蒸気が、真先に雪となって降下するに都合よき位置にある北アルプスに多量の降雪を見るのは当然であって、海岸に近いほどその効果も大である。これ立山連峰が槍、穂高に比して標高は却って劣りながら、積雪量においてはるかにこれを凌駕する所以である。かの劒沢の如き小黒部谷の如き、または白馬の杓子大沢の如き、いずれも七月下旬乃至ないし八月上旬において、なお延長二粁以上の大雪渓を成し、その他一粁前後のものに至っては、十指を屈するも足らない程に多いのである。南アルプスは立山はさて措き、槍、穂高に比してさえ一層不利なる位置にあるので、積雪量の少いことは元よりいうまでもない。六月上旬の頃、見た目には北アルプスの七月下旬における残雪量と大差なき如くに思われる時でも、実際の量はずっと少いものらしく、それに緯度の低い関係もあるので、梅雨の明けた七月小暑の頃となれば、心あての雪は大方消え失せて、ここの峰頂かしこの渓間に点々として散在するに過ぎないことを知るであろう。白峰北岳の大樺おおかんば谷もしくは間ノ岳頂上北方の斜面などは、恐らく南アルプスにあっては最多量の残雪を貯蔵する場所であろうが、二〇〇〇米に足らぬ上越界の山にもこれに優るものはすくなくないのである。所詮しょせん雪量においては、夏冬を通じて南アルプスは北アルプスの敵ではない。
 かく残雪の少いことは、また山の上に池や水の流れる小溝などの少い基となっている。火口湖や火口原湖は別としても、北アルプスでは五色ヶ原や雲ノ平に散在する無数の小池、五郎ノ池、双六すごろくノ池、薬師ノ池というように、到るところの窪地に清澄な水が溢れて、登山者の渇を癒し目を楽ませる。南アルプスの山上を旅する多くの人が、何か心の隅に満たされない欠陥があるのを覚えるのは、二、三の池はあっても水の流れた跡のみであることなどが、かなり重要な原因となっているように思われる。水の少いことは即ち山が乾燥していることである。勿論降雨の関係もあるから残雪の多少や有無で、簡単に乾いた山と湿った山との区別が立てられるものではないが、さりとてまたその有無多少は、山の乾湿に大なる影響を及ぼすものであることも否めない。従ってお花畑をなす高山植物の種類などにも変化が現れる筈である。北アルプスに多い桜草属の紅い美しい花が、南アルプスに普通に見られないのは、分布区域の外であるためかとも思われるし、或はその生育に必要なだけの水分が平素不足しているためではないかとも考えられる。けれどもこれらについては専門の士の記述に待つことにする。
 氷河の遺跡といわれているカールは、北アルプスでは中に多量の万年雪を蔵して、長い雪渓がそれから流れ出したように続いている。これが山の肩のあたりに三ツ乃至四ツもならんで懸っている壮観は、北アルプスでなくては見られぬ特色である。日本に於ける高山性地貌の粋は、雪に埋もれたカールにありというも或は過言ではないであろう。南アルプスでは今のところ仙丈岳に二個、悪沢、奥西河内おくにしごうち二山の間の山稜に極めて小規模のもの二個、合せて四個を有するのみで、全山系を挙げて北アルプスの一座の立山にさえ及ばぬのである。しかも盛夏に至れば、その中には既に雪の片影をも認められない。このカールの少ないことは残雪の少ないこととともに、南アルプスにとっては償い難き弱点であって、何としても遺憾の極みである。
 北アルプスに多い山上の高原も南アルプスには絶えて見ることを得ないものである。立山の弥陀ヶ原、五色ヶ原及び雲ノ平の如きは、孰れも二五〇〇米に近い高原で、偃松はいまつがあり、残雪があり、お花畑があり、清い水の流れは石原に湛えて幾つかの小池となり、あしたには雲を浮べゆうべには星を宿している。天上の楽園とは斯様かような処を指していう言葉であろう。これ等は素より熔岩台地であるから、南や北のはずれにわずかばかりの新火山岩を有するに過ぎない南アルプスに、これを望むのは無理であるかも知れない。けれども薬師岳の南の太郎兵衛平、カベケ原、五郎平もしくは双六平のような高原状をなした平さえも、南アルプスには乏しいのである。ただ赤石山脈の南端イザルケ岳からてかり岳に至る間の山稜は、偃松は深く木立もあるが、幅も広く草地が続いているので、やや高原に似た趣を呈している。赤石岳の西の百間平、上河内岳の南の山稜または広河内岳附近の如きも、小高原らしい感じを与える。概して南アルプスは山稜の幅が広く、真の高原と称すべきものはないが、山稜即ちこれ小高原ともいうべき場所は到るところに展開している。好晴の日に四方の眺望に耽りながら暢気のんきな山上の旅を続ける際には、頗る快適を覚えるが、不意に霧にでも捲かれると方向を失うおそれも大きいのである。
 火山に乏しい南アルプスは山の湯にもまた恵まれていない。小渋、梅ヶ島、西山など二、三の温泉と称するものはあるが、温泉らしい温泉といえば西山のみである。北アルプスの登山者が思いも寄らぬ谷川のほとりなどに滾々こんこんと湧き出している温泉を発見して、そこに石で囲んだ浴槽を造り、感触のいいぬくもりに皮膚を撫でられながら、終日の汗を洗い流すような快さは、南アルプスでは決して味えない。
 ただ森林に至っては南アルプスに一日の長がある。勿論北アルプスに見るべき森林がない訳ではない。たとえば黒部峡谷や双六谷、御岳乗鞍二大火山の山腹などは、青木黒木の大森林で埋められている。しかしながら北アルプスの山が雪をもって誇りとするように、南アルプスの山は到るところに誇るべき森林を有している。大井川の谷は近年伐採されて、もとの面影はなかば以上を失ったが、上流には今もなお上高地に優る森林がある。遠山川や寸又川の鬱蒼たる原始の美林は永久に保存したいと思う。
 ちなみに、山でよく目に触れる大な動物について述べると、北アルプスは熊の国で、南アルプスは鹿の国である。南にも熊の居らぬことはないが木立が茂っているためか容易に姿を現さない。鹿は赤石山脈の南部には殊に多く、十頭二十頭という大群が草原に結ぶ昼寝の夢を破られて、ドッと音立てながら一散に馳せて行く後姿を見ることもあれば、また野営の天幕をめぐって、細いがよく透る牝鹿の、遠くなったり近くなったりする鳴声を終夜聞くことなどもある。北には鹿はおらぬ。しかし熊は時として一ヶ所に三、四頭遊んでいるのを見かけることがある。羚羊かもしかは南北ともに多い。鷲もまた南北ともに産するが、南には殊に大きいものがおるように思われる。昼飯の時など、凄じい羽音と共に頭上三、四十尺の辺まで下りてきて、急にまた舞い上った大鷲の姿を二度ばかり見たことがある。北ではかようなことがなかった。
 南北アルプスの相違は本より以上に止まらないが、主なるものは大略これに尽きている。思うに南アルプスの誇とする所は高さと深さとにある。然るに近年のように谷から谷へと伐採が行われるようになっては、その特色の一半は次第に失われて行くであろう。真に惜しいことである。
(昭和五、六『日本アルプス』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「日本アルプス」
   1930(昭和5)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年3月8日作成
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