日は忘れたが明治二十六年の八月であった、初めて木曾の御岳に登った時、
兼てこの山は高さ一万七百尺、日本第二の高山であると地理書で教えられ、
又近所の御岳講の講中で登山したことのある人の話にも、頂上からは富士山が高く見えるだけで、外に目に立つ山は無いと聞かされていたので、そうと
許り信じていた私は、意外な展望にすっかり驚いてしまった。成程南には目ぼしい山もなく、西には遠く白山が
桔梗色にふわりと横たわっている
丈であったが、北はどうだろう、つい鼻の先に、鞍の輪のように或は猫の耳のように、双峰を対峙させた、頂上の小さい割に恐ろしく根張りの大きな山が立ちはだかっている。何だか自分より高いような気がする。頂上より一段低い南側の斜面に真白く残っている雪の量も、ここの二ノ池の西側に積っている雪などよりはずっと多い。御岳講の人がこんな素晴らしい山に気が付かないとは不思議なことだ。何山だろうと考える。すぐ乗鞍岳の名が頭に浮んだ。絶頂の形が如何にも鞍に似ているからである。地図を見ると果して乗鞍岳の名が大きく記入されているので、同じ
大さの文字で記入されている立山と共に、附近に匹敵するものなき高峰たることを表わしているのであろうと思った。当時携帯していた地図は、例の輯製二十万分の一の図で、登山には全く役に立たないことが多い許りか、時には大に迷惑することがあったにも
拘らず、他に良地図がないから止むなく用いていたのである。
其頃農商務省地質局から
兎に
角実際に測量した地形図の発行されていることなどは少しも知らなかった。
乗鞍岳の後には、三峰
駢立して、
恰も穂先が三つに分れた槍のように、鋭く天を刺している山がある。山骨稜々たる岩山であることは、遠目にも判然と認められた。山肌に喰い込んだ雪がきらきらと光っている。これは槍ヶ岳に相違あるまいと断定したが、三峰の中の左が槍で中央が奥穂高、右が前穂高であることは知る由もなく、一座の槍ヶ岳が峰頭三岐したものと考えていた。これが後になって穂高登山の機会を逸せしめた一の原因となったのは是非ないことである。槍ヶ岳の右にも
亦左にも、肩から上を抜き出している高い山の幾つかが見られたが、どれも名を知らない山ばかりである。
転じて東を眺めると、長大な連嶺が横一文字にすうと眉を圧して聳えている。高さはここより低いようであるが、これは又何と長いことか、掻き退けたいような胸苦しい圧迫を感ずる。この山は駒ヶ岳であることは疑う余地がない。更に驚いたのは、この高い駒ヶ岳の連嶺の上に、十指を屈して
尚お余りある大岳がずらりと並んでいることであった。私の貧弱な山の知識にこれが驚異でなくて何であろう。暫くは体が硬張って息もつけぬ程だったが、漸く身も心も
落付いてからよく見れば、それらの山の一つ一つが皆違った形を持っている。富士山も勿論其中にあった。私の眼は富士の左の方に一際高く
挺立しているかと想われる
稍や円錐形の山に惹き付けられた。北の槍ヶ岳のように
怪奇ではないけれども、
凜々しく引き締った威厳のある山だ。それに高さも高い。二ノ池の小屋の主人に山名を尋ねて見たが知らない。
幸に泊り合せた駒草採りの男が居て、「あれは甲州の山で
白峰というのだ」と教えて
呉れた。私は此時初めて遠く御岳の頂上から白峰に長揖したのである。
矧川志賀先生の『日本風景論』が出版されて、東都の紙価を高からしめたのは、翌明治二十七年の十月であった。私は其時仙台に居たので、初版も再版も手に入らず、漸く第三版を購うことを得て、再読三読した。それで二十九年の夏には、『風景論』に記載された花崗岩の高峰を片端から登る積りで、立山からの帰途、先ず槍ヶ岳へと志して
島々に行ったが、一人で登るのは熊が多いから危険であるといわれて
終に断念したのは、今考えると実に遺憾で、せめて
上河内から穂高へ登る
可きであった。このことは島々で勧められたのであるが、それ程の山なら御岳から見えぬ筈もなかろうし、
且又『風景論』にも記載が欠けていたのでさして気にも止めなかったのは、何と笑われても致方ない失策であった。
槍ヶ岳の登山が阻まれたので、大野川から乗鞍岳に登り、再び御岳を攀じ、
寝覚から駒ヶ岳に登って、玉窪の小屋に一泊し、
宮田に下り、
三峰川に沿うて高遠に至り、更に黒川を遡りて、忘れもせぬ八月十八日、暴風雨を突いて戸台から甲斐駒に登った。頂上に着いたのは午後四時頃であったろう。北寄りの大きな岩蔭に測量部員の滞在している小屋があって、
其処に泊めて貰えたのは有り難かった。
夜が明けても風は収まらず、曇った空からは未だ雨が落ちていた。
然し雲は高いので割合に眺望は広い。地蔵岳の上にはっきりと富士の姿も眺められる。南方は間近い山の
巓に
屯した一団の乱雲に遠望を遮られていたが、其雲が次第に消え去ると、
水浅黄に澄んだ晴空が
顕れて、其処に
雄渾極りなき一座の山の姿が劃然と描き出された。思い切り左右に張った肩の弾力ある線のうねり、まるでピンと張った弦のようにはち切れそうな力が籠っている。それからグイとのし上った峰頭は稍東に傾いてはいるが、均斉の美を欠く程ではない。巓は小さく根張りの大きいことは、御岳から眺めた乗鞍岳と同様である。
唯全体に少し痩せて峻峭の感が
遥に深い。九合目あたりの冴えた緑は若草の色かと想像した、けれどもそれは雨に洗われた
偃松であったろう。何にしても男らしい山だ。私は思わず飛び上ってあれは何山だろうと叫んだ。其声に小屋から首を出した水汲みの人夫は、笑いながら「あれは白峰だ」と答える。白峰、白峰、私の記憶は甦った、そうだ、白峰だ。曾て御岳の頂上から長揖したあの白峰の北岳だ。
私は遠からず此山に登ろうと固く決心した。
明くる三十年の夏、三たび御岳に登っての帰るさ、権兵衛峠を
踰えて伊那に出で、再び戸台を訪れて、また小松方に一泊した。小黒川の伐木事業は既に完了したものか、谷間はもとの静寂に返って、往来の人影も稀である。主人に昨年の礼を述べ、白峰登山の目的を話して相談すると、白峰に登るには野呂川の広河原の小屋まで行かなければならない。わしは登ったことはないので、いいかわるいか知らないが路は通じているそうである。早朝出発すれば一日で往復されるというし、途中のお池の
側にも小屋があると聞いている、遅くなれば其処へ泊るもよかろう。野呂川の谷には伐採の人夫が入り込んで小屋掛している。明日はお盆の十三日に当るから、人夫衆は里に帰ったろうが、小屋に番人は居る筈である。ここから広河原まで一日でも行かれるが、慣れぬ人が無理をするでもないから、明日はゆっくり立って北沢の小屋に泊り、次の日広河原に行きなさるがいい、そうすれば足も疲れないから、一日でお山をかけるにも都合がよかろうとの話だったので、すっかり安心して明くる朝遅くまでぐっすり寝てしまい、宿を出たのは午前九時頃であった。八月の十一日である。
涼しい筈の朝の谷間も、日が高いので河原の石は焼けはじめていた。写真も撮さなければ記録も取らない、至って
暢気な山旅ではあり、支度といえば
単物に脚袢草鞋、荷物といっても着換の単物二、三枚にシャツ一、二枚、それに寒さの用意として真綿入りの筒袖襦袢二枚、それを油紙に包んで振分けにして肩に掛けた身軽さの為か、ゆっくり歩く積りでもいつか急ぎ足になってしまう。駒ヶ岳への道と岐れ、暫く沢に沿うて遡るとやがて道は繁った林の中に入り、一時間も登るともう峠の頂上で、間もなく北沢の小屋に着く。大きな小屋はひっそりとして人の気配もない。ここに泊れと勧められていたが、未だ正午にもならないし、この調子なら広河原まで行かれぬこともあるまいと用意の昼飯を済して、河に沿うた道を急ぎ下った。危険な所には針金が張ってあり、路も修繕が行き届いているので、二ヶ所ばかり浅い
徒渉をした外には記憶に残る程の出来事もなく、夕方広河原の小屋に着いてしまった。途中二、三の小屋もあり又四、五人の岩魚釣りも見掛けた、これは或は小屋の番人達の慰であったかも知れない。
広河原の小屋には老人が二人残っていた。明日
芦安に帰るという老人の一人は、二度北岳に登っているそうで、今一日早く来れば、わしが案内して上げたに、惜しいことをしたというので、もう一日帰りを延して明日案内して貰えまいかと持ち掛けて見る。今日帰る筈の所を一日延したので、明日はどうでも帰らなければならぬという。止むなく路筋の模様を詳しく聞いた上、半紙に略図を描いて貰った。
翌朝は漸く足元の明るくなった頃に小屋を立って、教えられた沢を遡った。老人は沢の入口まで送って来て、別れ際に、お池からの上りが分りにくいと思うから気を付けるようにと注意する。そして薄曇りの空模様を眺めながら、独り言のように昼から雨にならねばよいがと呟く。沢はさして水量は多くないが岩は大きい。其上をあちこち跳びながら伝って行く面白さに、
側目もふらず登って行く。沢が急に狭くなって左右に崖が現われる。オヤと思って立ち止まった、どうもお池への上り口は
何時の間にか通り過ぎてしまったらしい。後を顧ると、黒木の繁った駒ヶ岳続きの連嶺が沢の口を塞ぎ、その五合目あたりと向い合っている。行手には谷の奥に北岳の肩から胸のあたりが間近く望まれ、赤黒くむき出しになった谷の筋が幾本も山肌に刻まれている。所々漆喰を塗り固めたように白く残っているのは雪だ。それを見るともう引返す気にはなれない。よしあれを何処までも登り詰めよう、針ノ木峠よりひどいことはよもあるまいと、其
儘前進を続けた。
老人が懸念したように空は次第に雲行きが怪しくなる。狭くなった沢はまた広まって、河原には小石交りの砂地が現われ、勾配も緩やかで、あたりは流木が狼藉していた。ここで沢が三つに分れる、左のものは残雪が最も多いので、
之を登りたいと思ったけれども、頂上からは余り東に寄り過ぎた肩のはずれへ登り着くらしいので止めにする。中央のものは細く急で絶壁が多く、
容易く取り付けそうもない。それで右のものを登ることにした。初めは傾斜もゆるく楽に登れたが、沢が二岐している左を取ってからは、俄然急峻の度を増し、小瀑布が連続して現われる。藪を押分けて高い崖の上を迂廻したり、瀑のしぶきを浴びながら横をへずったりして、三時間余りも悪戦苦闘を続けた後、未だ尾根に出られないで一休みしている
中、終に雨が降って来た。こうなると早いもので、瞬く暇に濃霧はあたりを
罩め、帰りの程さえ覚束なくなった。急いで元の道を引返したが、へとへとに疲れて小屋に帰ったのは、カンテラの光が雨の中にぼうと滲み出す黄昏時であった。
翌三十一年の八月中旬、お盆といえばここ数年の間いつも旅で過すようになっていたので、盆前に帰宅せよと注意されていたが、今年は三月に
閏があって、旧盆は八月の二十九日が十三日に当っていた。これに安心して、鳳凰山に登った
序に南御室から再び広河原に至り、去年と同じ沢筋から今年こそ白峰の絶頂を極めんものと、人夫の一人と同伴して、今度は三岐した左の沢を登り、カンジキを持たない為に雪渓では苦しめられたが、さして長くはないので四十分とは懸らなかった。雪が尽きると谷は
俄に蹙まり、竪樋のように急峻となったので、左側の尾根に移り、丈の高い偃松に交って
岳樺や
七竈、
深山榛などが灌木状に密生している中を押し分け掻き分け攀じ上った。崖になっている岩巣も三、四個所あって、これには悩まされた。それでも午前十時頃には南の肩に続く東山稜の上に登ることを得た。あたりは偃松が稍深い。行手を望むと頂上からグイと引きおろした、あの峻直な斜面の下まで辿り着くには、なお二、三の隆起を踰えなければならない。その頂上は既に湧き上る幾重の雲に包まれ、無数の雨燕が雲の中から舞い落ちる木の葉のように群れ飛んでいた。夕立が来そうだから降られない中にと、直に頂上を指して出発したが、未だ斜面の下までも行かぬうちにとうとう大雷雨に襲われて
了った。
斯くてまたも絶頂を窮めずして下山するの止むなきに至ったことは、帰路に遭遇した困難と共に容易に忘れ難い恨であった。
私が北岳の頂に立つことを得たのは、それから十数年の後である。
鬱蒼たる深林があり、清い谷川が流れ、
其上に高山植物と残雪との美しさを兼ねた、そして人間の訪れたことのない
幽邃な境地を、有るがままの姿を失わない中に尋ねて見たい。そうした
考で私は友人
田部、森の二君と
倶に三人の人夫を伴い、越中小川の谷から
黒薙川の北又に入り、支流
恵振谷を遡って、白馬岳の北に
尚お八千尺近い高度を保ちながら、世に忘られている朝日岳を探ったのであった。大正六年七月二十四日から二十七日に至る四日間は、短い旅ではあるけれども、楽しい思い出の深い印象となって残っている。
小川の谷は想像していたよりも荒れすさんでいた。いつも谷に入る毎に「吸い込まれる」という気持で一杯であるのに、この谷では吐き出され
度さえ思った。小川温泉の元湯のある所は、谷間とはいいながら、海岸から三里足らずの距離であるにも
拘らず、附近に残雪が見られたのは、如何に積雪量の多いかを語っている生きた証拠だ。涼しい声の
河鹿やひぐらしは
盛に鳴き立てるが、木蔭のない河原の砂や小石は日に焼けて、其上に張った天幕の中は、寝苦しい程蒸し熱かった。
小川の谷から
越道峠を
踰え、小さい谷に沿うた道を下って、北又に達した。峠の頂上からは残雪美しい
清水、猫又の連嶺が東南に望まれる。北又の水量は思ったよりも多かった。これから
流に沿うて恵振谷の落口まで遡らなければならない。徒渉二十余回、一時間を要する。中にも一枚岩の河床が雨樋のように
抉れて、一丈近い飛瀑を奔下させている上を徒渉した時には、皆危く足を
浚われる所であった。
魚止瀑に近づくと谷は一曲して左に折れ、絶壁の間に長い
瀞をなし、四、五十間にして
又右に曲り、それから奥は如何なっているか知ることが出来ない、
唯だ何処ともなく
轟という地響のような音が聞えるばかりである。私はここで不思議な現象を経験した。谷が左に曲る下手の所は、瀞から押出された小石が積まれて浅い瀬をなしている。其中を歩きながらふと行手を仰ぐと、すぐ前の低い尾根の梢越しに一条の大瀑が懸っている。ほんの落口だけしか目に入らぬけれども、低いとはいえ尾根を越して見えるのであるから、これは余程の大瀑であるに相違ないと想った。皆に注意して見せてやりたいと思って、暫く
其処に待っている中に、皆余り遅いので、外の事に紛れて誰にもいうことを忘れてしまった。
然し附近にそんな大瀑のあることは話にすら聞かない。或は魚止瀑のことを始終念頭に置いたので、それが幻覚に現れたのか、謎は未だに解けないでいる。
瀞と絶壁で前途を塞がれたので、雪崩の押した急峻な小渓を伝って尾根に登り、川の様子を窺った。どうも恵振谷の落口へは絶壁続きで下れそうもない。止むなく尾根伝いに登ることにして、木立を縫い藪を押分け、五時間も登り続けたが、前面に見えている雪までは、近いようでも容易に達せられない。人夫はこれから恵振谷へ下りて
夫を遡る方が尾根を辿るよりも得策であるという。昼から少しも水を飲まないので皆喉が渇き切っている。下るとなれば一刻も早い方がよい。それで左の谷を目懸けて、竪樋のような岩の窪を木につかまりながら百五十米も下ると、細い谷に清冷な水が流れている。一同
飽まで夫を飲んで漸く蘇生の思いをした。更に尾根という程でもない小さな隆まりを二つ踰えると恵振谷の河原に出て、其処に野営した。落口からは百三、四十米の高距にある地点である。
野営地の附近は
水楢、
橡、
椈、などの大木が鬱蒼と繁った見事な闊葉樹林である。河原の平な砂地に天幕を張って、清い水に一日の汗を洗い流し、ゆったりした気持で焚火の周りにくつろいだ心地は、いつものことながら実に好い。夜は蒸し暑いこともなく、朝は火の
側が恋しい位であった。
午前七時半に野営地を立って雪渓の終りまで登り詰めたのが午後二時であるから、休憩時を合せて七時間近くを費している。懸崖と深潭と瀑布と奔湍との連続ともいう
可きこの谷は、小規模ながら人の冒険心を満足せしむるに足る要件を備えている。今にも崩れ落ちそうな雪橋を渡ったり、綱を用いて懸崖を人と荷物と別々に下ろしたり、岩壁の
一寸した窪みに手足を托して、危く淵の上を横にへずったり、又は
守宮のように壁にへばり付いて、飛沫を顔に浴びながら、瀑を超えたりする。下から仰ぐと大磐石の林立した中を水は小躍りして落ちて来る。普通ならば疾くに雪渓となる可きものが単に雪の断続するに止まっている。そして漸く雪渓に辿り着いたかと思えば、そこは
最早山腹の緩い傾斜地で、雪渓の便を借りなくとも楽に登れる場所である。
雪渓が終った頃、正面に左右同じ程度の高さの山が現れる。どちらに登った方がよいか、様子を見る為に右の尾根に登った人夫が忽ち「熊、熊」と大声に叫ぶ。この事あるは今朝から絶えず暗示されていた。両岸に生えている
大虎杖の若芽が噛み切られている跡を注意して見ると、初めは切り口が褐色に変っていたのが、上るに従って次第に新しいものとなり、雪渓の間近では生々しい液が未だ乾かないでいた。口に出してはいわないが誰も熊の居ることに気が付いていたらしい。帰って来た人夫に聞くと四頭も居たという。私はちらっと二頭しか見掛けなかった。
もうあたりの山はどれも矮性の灌木を交えた一面の草原で、大きな残雪が其間に様々な形を描いて美しく横たわっている。どの山に登り着いたにしても、目的の朝日岳に遠くないことは
確であるから、左の山腹を登り初めた。足もとに点々として高山植物の可憐な花が風にゆれている。偃松が出て来た。少し登ると傾斜の緩い高原状をなした段に出る、一面に
岩銀杏を敷き詰めた緑の地に、
白山一華と
珍車の花が白い模様を織り出している。
虫取菫の紫花、白山小桜の紅花、
深山キンポウゲの黄花など、色とりどりに美しい。登るに従って植物の光景も多少変って来る。
高根薔薇の艶麗、高根
撫子の可憐、
黄花石楠の清楚に加えて、
伊吹麝香草、車百合、
千島桔梗などが現われ、少し岩の露出した所には、姿のいい真柏や唐松などが生えている。
苔桃や
岩高蘭も多い。間もなく一の山の頂上に達したが、それは朝日岳ではなかった。南に向って同じような隆起を三つ
許り踰えると、朝日岳の頂上に達した。頂上は西南の方向に長い高原状を成している。雨にさいなまれ風に虐げられながらも、自然の
儘の
恣なる草木の姿よ。皆は荷を投げ出してそこらを歩き廻った。
得撫草や、白馬岳では殆ど絶滅に瀕した
白馬浅葱の多いのが人目を惹いた。頂上の東側は
矢張り草原で、絶えず大雪田が続いている。附近に適当な野営地が見当らないので、惜しくも頂上を南に下り、
赤男山との鞍部より百米ばかり上の所で、大雪田から音を立てて水の流れ落ちている窪に天幕を張った。ここからは南に雪倉、白馬、旭、猫又、劒の諸山が見られ、東には妙高火山群と岩菅らしいものが望まれる。
久振りで夜明けに聞く
時鳥の鳴く音は耳に快かった。
毛勝連山の上にぽっかり浮き上った白山を見付けて覚えず声を挙げる。これから雪倉岳に至る間の山稜は、全く雪と高山植物との楽園とも称す可く、一々其名を挙ぐるの煩に堪えない。東側には広い窪地が続き、偃松と雪との配合が千差万別で実に面白い。それでも一ヶ所雪倉岳への登りに、赤石岳の南側のように巨岩の
累積したキレト状の場所があって、岩壁には無数の岩燕が群れていた。この岩壁は楽に踰えられる。第一の小隆起を登ったところに、草色の水を湛えた瓢形の池がある、私達はそれを雪倉ノ池と命名した。此附近は恐らく白馬連山の中で、最も整った自然の高山植物園ではあるまいか。私は幾度も幾度も足を停めて偃松の間に咲き誇る鮮紅な高根薔薇の花に見入った。
私達は其日の夕方に白馬岳の頂上に着いた。
(昭和四、六『改造』)