秩父宮殿下に侍して槍ヶ岳へ

木暮理太郎




中房温泉


 荒模様であった空は、夜が明けると少しおだやかになって、風は強いが雨脚はまばらになった。七月二十四日の朝である。松本駅前の旅館に泊っていたまき君と私とは、駅に向って馳せ集る夥しい人の群に、それは秩父宮殿下が今朝此処ここへ御着きになって、やがて信濃鉄道へ御乗換になるその折の、奉迎奉送の人達であると知りながら、また昨日中房なかぶさ温泉から殿下のおむかえに下って来た私等でありながら、忘れてはふと何事が起ったのかと怪しむのであった。
 汽車は定刻の午前七時二十分よりなり遅れて到着した。信濃鉄道では有明駅まで特に臨時列車を運転することになっているので、別に長いこと御待合せの必要もなく、殿下はプラットホームにお立ちになったまま伺候しこうの人々に謁見を賜わり、お荷物の積入れが済むとぐ御乗込みになって、列車は有明駅に向って出発した。
 殿下は御質素な登山服に登山靴というお身軽な御扮装で、御附武官の竹本さんも御用掛の渡辺さんも同じく登山の服装であった、槇君は元より言う迄もない。ただ県庁からお伴の列に加わる矢沢君其他の人達や各新聞社の特派員の大部分は、私と同じ草鞋仲間なので、少しは心強くなる。
 有明駅に着く頃から、山は雨に烟っているが、里では雲が切れて幸に雨はんだ。前から打合せて置いた通り、槇君に人夫の指図を任せ、私は御先導をつとめて、直に行進を始めた。この辺の土質は花崗岩の※爛ばいらん[#「雨かんむり/誨のつくり」、U+9709、543-7]した砂地である為に、雨は降っても道はぬからない。路傍の草なども綺麗に刈り払われてあった。途中特に有明小学校に御立寄おたちよりになって、天蚕飼育の状況や、天蚕糸を原料とした各種の製品を仔細に御覧になり、校庭には記念の松を御手植になった。有明村は有名な天蚕飼育地であるから、地方の産業に深く御心を留めさせられる殿下の台覧たいらんを仰いだ当事者は、さぞ忝く思った事であろう。
 村々の沿道には、老若男女が堵列とれつして殿下をお迎え申上げていた。殿下がお弁当や写真機や雨具などの御品を入れさせられた重そうなリュックサックを御自身お背負になり、ピッケルを御手に、ゆったりした御足取で歩まれながら、路傍に立って礼拝する人達に帽子を取って一々御会釈を賜わる御姿を拝して、その御無造作に驚くまでに感激しない者はなかったであろう。殿下の御強健にましますことはかねて拝承していたが、実際毎日二貫目から三貫目をお背負になって、険しい山路に少しも御艱みのさまがあらせられなかったのには、随行の誰もが今更のように恐れ入ってしまったのであった。
 宮城の有明神社に御着きになったのは九時半頃であった。祐明門や拝殿などの構造が精巧であるところから、俗に信濃日光の称がある。時間はまだ早いけれども、此処で御中食をなさる御予定であったので、社務所では特に舞殿を装飾して、御休息所にあてる積りであったらしい。されど殿下は神社に御参拝になると、いと御気軽に祐明門の傍にある老媼ろうおうの茶店に御立寄になって、お伴の者に店にあったサイダーを下され、御携帯のお弁当をお開きになった。茶店とはいえ、だ木蔭に四つ五つの縁台を並べ、それへ薄縁うすべりを敷き、其上に坐布団を置いた至って粗末な露店である。古風なかまどに茶釜を懸けて湯を沸かしていたお婆さんは、一時に押寄せた大勢の客に、転手古舞てんてこまいを演じていたのも無理はない。
 此処から道は信濃富士の称ある有明山の南側を廻って、中房川に沿いながら次第に深く山懐に這入って行くのである。約三里の行程も、時には昼も暗い程に繁った森林を穿ち、或は脚下十丈の底に中房川の奔湍激流を、又は徂徠する雲の間から有明山の突兀とっこつたる姿を仰ぎなどして、鶯や時鳥ほととぎすの鳴く音に耳を傾けながら、三度目に中房川の釣橋を渡ると、間もなく中房温泉に達する。有明神社から四時間とは費さないであろう。骨の折れる道という程の道ではない。しかし真夏の日盛りであるから暑さはきびしい。お伴の人達が汗にまみれる頃になると、殿下は清水の流れている木蔭や谷の隈で、そこらに転がっている岩の上又は丸太などにお腰掛けになって、お休みになる。尤も路のほとりに白い幔幕まんまくを張り廻して、御休息所らしいものがしつらえてあるにはあったが、御立寄りにならなかった。これは畏くも山の旅であるという御気持の上から、特殊の施設を避けさせられて、わざと御立寄りにならなかったものと有り難く拝察した。
 温泉の在る所は海抜千四百六十米を超えている。温泉は山裾の各所から湧き出して、盛に蒸気を噴出しているものもあれば、沸々と熱い湯玉をたぎらしているものもある。湯の種類も湯の量も極めて豊富で、幾棟にも分れた建物に浴場が設けられ、湯は満々と湛えてしかも溢れて止まない。実に気持のよい湯だ。其外そのほか蒸風呂もあれば湯滝もあり、泳げるような大きなプールさえも設けてある。そして余った湯は其儘小川をなして中房川に流れ入るのである。それを見ると何だか惜しいような気がする。
 殿下が温泉へ御着きになったのは午後二時半頃であった。人夫を除いても四、五十人の一行が押寄せたので、山中の別天地も都会の宿屋と同じようなにぎやかさである。温泉宿の主人百瀬君は、漸く落成したばかりの新館が殿下の御用に役立つことを非常に喜んでいた。二つの新浴室も一は御用、一は随行者に充てられ、化粧煉瓦に装飾された大きな浴槽は、此山中には珍しいものであった。
 槇君と一緒に一風呂浴びて部屋に戻り、御座所に伺候すると、殿下は御浴衣がけで、渡辺さんや竹本さんと明日入用の缶詰類をかれこれとお選分の最中であった。御手伝申上げているうちにも明日の天候に就て「どうですか」とおたずねがある。県庁の人や記者団からは、明日の御出発時間を問合せて来る。かく天気がよければ遅くも午前五時御出発のことに決め、お荷物を造り直して貫目を量り、人夫頭の畠山善作に米味噌其他の必要品と共に、一切の準備を整えさせた。
 夕方になってまた雨が激しく降り出した、そして容易に止みそうな景色もない。しかのみならず翌二十五日の午前一時頃になると、東南の風が頗る強く、一陣の突風が谷から吹上げて来る毎に、戸障子が鳴りはためく許りでなく、家までも震動することがある。其中に闇をいて電光が閃き始めた。遠方で轟く雷鳴の音が何処からともなくかすかに耳に伝わる。夜目にも万象は漸く惨憺さんたんたる有様を呈して来たことが窺われる。槇君は、これこそ御登攀の光栄に浴する山々が驚喜のあまり、熱狂的に奏する豪快な大交響楽であると言う。成程そうに違いなかった――二時――三時――四時となってもまだ此状態は続いていた。くては天候の恢復する迄御出発を見合せるより外に方法はない。竹本さんや渡辺さんと相談して殿下に渡辺さんが其事を申上げる。とうにお目覚であった殿下は、私達が膝を崩して談合している場所へお出ましになって、「ひどい風ですね、硝子障子が頭の上に倒れるかと思って、心配で寝られなかった」とおっしゃりながら、私達の申上げたことに対しては、「そうするより外に仕方ないでしょう」と御同意遊ばされた。
 さしも険悪であった天候も、しかし午前七時頃になると急に雨も歇み、雲が途切れて西の山蔭から碧空が覗き出した。風も北に変って、この模様なら今日一日位は持ちこたえそうに思われる。もう時間が遅いから最初の予定通り槍の殺生小屋までは辿り着けない、けれども大天井おてんしょう迄は楽に行ける。それで午前十時御出発のことに取極めた。

燕岳から大天井岳まで


 中房温泉からつばくろ岳への路は、もとは濁沢の左岸の尾根を登るものと、カッセン沢の下手から登るものとの二があって、両方とも濁ノ頭の三角点付近で一に合する。後者はろくに路形もなく、人も余り通らない。大抵は前者を登ったものであるが、今は反対にカッセンの方が修理されて好い路となった。はじめは木立のまばらな笹の深い山ひらを急に登って、中房川と北中川とを分つ尾根の上に出ると、其処そこは濁ノ頭の三角点に至る距離のぼ中央あたりで、霧藻の垂れ下ったつが唐檜とうひなどの立派な針葉樹林である。それからは楽な登りを続けていつか三角点を過ぎ、木立を抜け出ると偃松はいまつの散生した草原に、黄金色の信濃金梅しなのきんばいや純白な白山一華はくさんいちげ、夫等に交って大桜草、小岩鏡こいわかがみなどの紅花を点綴てんていしたお花畑を眺めながら、つばくろの小屋場といわれていた山稜上の一地点に達するのである。以前は偃松で組んだ粗末な小屋が有ったり無かったりしたものであるが、今は三、四十人も泊れる立派な小屋が出来たので登山は非常に楽で便利になった。其処から北に二十分も登って行くと大きな岩の突起に達する、それが燕岳であって、二等三角点の標石があり、海抜高距は二千七百六十三米余と測られている。
 午前九時四十分、予定より少し早く温泉を御出発になった殿下は、途中二回お小休みをなされたのみで、午後一時には小屋場に御着きになった。登るに従って歩々に展開する高山特有の景象は、時々お独言のように「アアいいなあ」と仰しゃるお言葉で、殿下のお気に叶ったことが拝察された。そして御自身のものは御自身お背負になって、少しも労苦をお厭いなき努力健闘の御意気に燃えた御勇姿を目のあたり拝した何人なんぴとも、誠に恐多い言葉ではあるが殿下が実に立派な登山家でいらせられることに深い感銘を受けない者はなかったのである。濁ノ頭の附近で休んだ時であった、いざ出発となると誰か帽子を忘れた者がある、すると殿下は「成るたけ軽くしようとして帽子を忘れた」とおっしゃったので、ドッと笑声が起った。これは勿論御戯談に相違なかったのであるが、御機智のほどを私は意味深く拝聴した。
 小屋へは御立寄なく、外に立って暫く御展望に時を費された。前面に高瀬の谷を隔てて屏風の如く聳立する立山後立山二大山脈の高峰喬岳は、昨夜の狂態を面目なく思っているかのように、雲の厚衾をすっぽりと被っていただきは見えないが、研ぎ出したように白い無数の雪渓は紫紺の膚にキラリと光っている。濛々もうもうとした霧が高瀬の谷から舞い上ると、雪渓の面は鏡のように曇ったりはれたりする。硫黄岳は間近く物凄い赭色の岩壁をそばだて、其下を流れる湯俣の水は糸のように細い。峻嶮を以て聞えた槍ヶ岳の北鎌尾根は、蓬勃として湧き上る雲が離れないので、ついに一度も姿を現さなかった。
 小屋から二十間ばかり北に離れて、綺麗な砂地に岩高蘭がんこうらん苔桃こけももなどの生えている草原がある。殿下は其処へお荷物をおろされ、お手ずからコーヘルで湯を沸かされたり、缶詰をお開けになったりして、私どもにも下されながら御昼食をお済ましになると、間近い燕岳の頂上をお窮めなされる。此附近の山稜は幅も相応に広く、偃松の緑と雪のような花崗岩の細沙と相映じて、白砂青松の景を作り、公園でも散歩しているような長閑のどかさがあると共に、立派な花崗の巨岩も峙ち、眼を上れば四周の大山岳は長揖ちょうゆうして吾を迎うるが如く、かくて山を恋うる心は、初めて強く鍵盤を叩かれたピアノのように高鳴りするのを禁じ得ないのである。お花畑の美は即ち美であるが、この大自然の壮観といずれが印象深いものであろうか。されど今日は遺憾ながらこの壮観もなかば以上を雲に閉ざされてしまっていた。
 荷を置いた所へ戻って、休みもせずにすぐに大天井岳に向って南進する。これからは尾根通りを行くのであるから、余り激しい登降はないが、目ま苦しい程多くの岩の隆起を一上一下しなければならない。先発した荷持の連中が三々また五々陸続として辿って行くのが遠くに見える。げえろ岩という奇岩を過ぎた頃、高瀬の谷の空をかすめて、冷たい風と共に雨が降って来た。風の当らぬ尾根の窪で皆雨具を着けたが、殿下お一人は御元気にもシャツのままでお気にも留められなかった。
 尾根に出ると風がワアッとからみつく、そして油断した人の体から帽子手拭其他何でも引手繰ひったくるようにさらって行く。白い霧の群れが老女の乱れ髪のようにもつれ合って、目の前をすうと流れる。偃松がざわざわと音を立てる。ごうと吹き募る風がぱっと息を切るたびに、吹き飛ばされまいとして風の来る方へ寄り懸り気味に歩いている体は、はずみを食ってヨロヨロとのめり出す、おのずと息がはずんで体が汗ばんで来る。大天井岳の近くで立ちながら一息入れた。
 大天井岳は北から眺めると全くガラガラした破片岩の堆積たる観がある。切通岩を過ぎてから、この破片岩の堆積を三百米もひた登りに登って、頂上の一角を東から南に廻り込むと、偃松に囲まれた割合に石の少ない平な窪地に出る。此処ここが予定された今夜の野営地である。見渡したところ余り良好な地点とは称し難いし、風当りも強い方であるが、これに優る場所は附近に見当らない。位置が定まると人夫に手伝って早速天幕を張った。最早もはや暮れるに間もない頃で、霧に伴う風は漸く寒さを増して来た。水が無いので雪を溶して用いねばならぬ不便はあっても、燃料は乏しくない。天幕が張られると、偃松の小枝を厚く下敷にして地面の凹凸をならし、其上に羚羊かもしかの毛皮を重ね、更に二、三枚の毛布を一杯に拡げたから、狭いがフクフクと暖いお座敷が出来上った。殿下は其間御愉快気にあたりを御覧になりながら、焚火を囲んで余念なく雪を溶している人夫に、何かとお尋ねの御様子であった。
 お荷物を天幕の中に入れて、一通り整理が済むと、殿下はすぐさま御晩餐の料理にお取懸りになり、渡辺さんや槇君もお手伝をした。何分下が平でないから、置物のすわりがよろしくない。アルコールの火で毛布が黒焦になったり、行李こうりの蓋が蛇目形に焦げたりして、これはこれはとお笑になる。間もなくライスカレーがつくられ、紅茶がいれられると、缶詰の蓋までお開けになって、お伴の者にお勧め下された。一同有り難く殿下の御料理を頂戴して、賑やかな食事を終った。敢て今回に限らず、御食事の際はいつも御自身お持ち合せの品で、御器用にいろいろの料理をおつくりになる。其御堪能さにお伴の者は、手をきょうして感じ入るのみであった。暫くして新聞社の写真班の山口君が野営の御有様を拝写したいと願い出た。殿下は「山賊の住家のようだね」と仰しゃりながら撮影をお許しになった。
 槇君と私とは別に天幕を張る積りであったが、殿下のおおせの儘に同じ天幕に泊めて戴くことになったのは誠に思い設けぬ光栄であった。人夫が自分たちの用にあてる天幕を忘れて持って来なかったので、お荷物にかける携帯天幕を人夫用にお貸下げになって、お荷物は皆天幕の中に入れた為に、さぞかしお窮屈でいらせられた御事と恐懼に堪えない。
 夜半に幾度か霧雨が天幕を叩いた。私はふと一頭の大きな熊が天幕に近寄って来るのを見て、大声を揚げて之を追った。其声に自分で眼がさめた。翌朝になって殿下から「昨夜は大きな声を出しましたね、如何したんですか」とおたずねをうけたので、さてこそ懸念していた通り殿下の御安眠をお妨げ申したのかと、お詫と共に夢のことを申上げると、殿下は「そうでしたか」と御微笑遊ばされた。

槍ヶ岳の絶巓へ


 二十六日の朝はまたしても灰色の霧が空を一面に閉じ込めていた。昨夜は天幕のおおきさに比して人の多かった所為せいか、思の外暖く感じたが、外へ出て見ると可なり寒い。昨日の暮方そこともなく霧の中へ姿を隠した大勢の人達は今朝何処からともなくまた霧の中から現れて、午前六時半に殺生小屋を指して御出発なさる頃には、昨日の通りに人数は揃っていた。
 大天井岳から槍ヶ岳に連る尾根は東鎌ひがしかま尾根と呼ばれるもので、もとはこれを縦走することは容易でなかった。尾根がその名の如く痩せていて、険悪な岩壁を露出しているばかりでなく、岩の無い所は藪が深いので、縦走するにしても二日は要するであろうといわれていた。それつばくろ方面から槍ヶ岳へ登る人は、大天井岳の南の東天井岳から二ノ俣へ下りて、更に槍沢を遡らなければならなかった。しかるに二、三年前今年の二月に雪崩で死んだ名物男の小林喜作きさくが東鎌尾根の路を拓いて、大天井岳から殺生小屋へ通ずるようにした。所謂いわゆる喜作新道なるもので、登山者は其恩恵に浴すること甚だ大なるものがある。この道も今は県道に編入されたそうだから、以後荒廃するようなことはないであろうと思われる。
 昨日の道を大天井岳の中腹まで戻って、左にわかれて岩崖の横をうねうねとからみながら、下るともなく下って行く。牛首岳を通る頃から路は尾根の南側に移って、滑り易い草地を行くようになる。此あたりから高瀬の谷がよく見渡された。霧がれたのではない、低い所へ来た為である。赤岩岳は北の半面をそぎ取ったようにボロボロの赤い岩壁を露出している。殿下は夫を御覧になると槇君に「こんな岩でも登れますか」とお尋ねになる。「こんな岩は駄目であります」とお答えするのをお聞きになって、「そうでしょうね」とお首肯うなずきになった。
 やがて此尾根の最低所である二千五百米の鞍部に達した。これからまた足場の悪い登りを四百米近くも続けて、大槍の小屋を左下に眺め、最後に一の隆起をえると、行手に殺生小屋が現れる。小屋の前には大勢の人が立って此方を見て居る。殿下も御一緒になってオーホーと声をかけると向うからも同じ返事をする。近づいて見ると夫は職員に引率された川越中学生十余名が、他の五、六名の人々と共に殿下を奉迎しているのであった。此頃から風が次第に吹き募って来た。
 小屋は三間に五間程の大さで、頑丈に造ってある。無理をすれば六、七十人は泊れるであろう。其中三分の一程の所から仕切った奥の間を殿下のお部屋に充て、板敷の上に羚羊かもしかの毛皮を敷詰めてあった。この小屋は中房温泉のもので、主人の百瀬君も登って来ていた。小屋にお着きになったのは十一時半頃であったろう。殿下はお出迎に参じた慶応の早川君や青木君をもお呼寄せになって、スープ、ライスカレー、紅茶等をお作りになり、一同は殿下のお相伴をして昼餐を済した。「今日は広いから昨夜のように物を焦すようなことはあるまい」とお笑いになったが、早川君の作ったライスカレーが煮えこぼれて毛皮をしたたかに汚したので、「どうもうまくゆかぬものだ」とまたお笑いになった。
 午後二時頃になって風が幾分かおだやかになった様子であるから、槍の絶巓ぜってんへお伴申上げることになった。殿下のお好みによって、綱の使用法を実地にお目に懸ける為に、槇君が御先導で、殿下、早川君の順に綱で結び合い、普通の登路より少し左に寄った直立八十米の岩場を御登攀になった。この綱は殿下が槍穂高間を御縦走なさる際に使用する筈で用意されていたものである。そして槇君一人では手不足なので、早川君が参加することになっていたのであった。
 谷から吹き上げる風は冷くかつ強いにもかかわらず、絶頂は不思議に風が当らない許りか、風呂場へ這入った時のように生温くさえ感じた。けれども四方を雲に埋められて、少しも眺望が得られなかったのは甚だ遺憾であった。帰りは槍の肩から路を右に取って、途中の小雪渓でスキーに御達者な殿下は滑降をお試みになる。これは兼てお楽みにしていさせられた御事とて、再三繰り返して行わせられた。
 小屋は夕方になって到着した登山者と、殿下のお伴をした人達や人夫等で、全く足の蹈入れようもない程ぎっしりと詰っていた。殿下のお部屋はともかくも八畳敷程であるから、今夜は昨夜に較べて楽々と御寝遊ばされた。思の外寒いので夜中幾度か目がさめる。岩角に嘯く風の音は終夜聞えていた。

上高地へ下る


 あくる二十七日は天候さえ良好ならば、午前三時頃に小屋をお立ちになって、一日に槍穂高間を御縦走なさる御予定であったが、早暁より風も強く雲も低く垂れて、岩崩れや落石の危険あるこの山稜では、万安を期し難い天候であったから、御予定の変更をお願い申上げるのが至当であるように考えられた。それで午前七時まで待って、そのことを申上げると、殿下には多大の御期待をかけさせられた御道筋とて、非常に御心残りの御様子に拝したにもかかわらせられず、「また来るから、その時にしましょう」と仰せられて直に御許容になった。小屋の人達は一斉に万歳を三唱して上高地へお下りになる殿下を御見送申上げた。暫く下ると雪渓が始まる。今年は非常に雪が少いとの評判であったが、夫でも十町余りは続いていたろう。殿下は渡辺さんや槇君と先頭にお立ちになって、一気に之を御滑降になった。雪が尽ると左岸に道が通じている。この道のない頃は、渓流を徒渉としょうしたり両岸の藪を押分けたりして、非常に困難したものであるが、今は道があるので絶対に徒渉の必要がなくなった。小屋も赤沢の岩小屋附近に槍沢の小屋というのがあり、坊主の岩屋附近に大槍の小屋があり、其上に殺生小屋がある。最早もはや野営の用意などせずとも、上高地または中房から自由に槍ヶ岳へ登れるようになった。
 黒沢の合流点附近で昼食を済し、追々と開けて来る梓川の河原に林をなして生え茂ったドロ柳や川楊かわやなぎのしなやかな枝葉が河風に翻るのを美しと眺めて、足触りの柔い原始林の道を一直線に辿り、徳本とくごう峠の道と合してから、右に仰いだ明神岳の巍峩ぎがたる姿を後にして、前面に焼岳の噴烟が現れるともう河童橋である。このあたりは川楊も白樺も大方伐り尽されて、殆ど元の面影は認められない。橋のたもとには上高地滞在の人達が二、三十人ならんで殿下を奉迎していた。河童橋から南すること更に十町で、午後三時半温泉着、殿下には清水屋の新館に御旅装をお解きになった。
 夕方から天候は次第に恢復して、冴えた色ではないが青空も見られるようになり、雲の隙間を洩れた入日の光が巨大な探照灯から放射された太い電光のようであった。それが静に立ち昇る焼岳の噴烟をうす赤く染めて、黄昏の谷間をほのかに明るくする。清亮な河鹿かじかのなく音に和して、珍しくも遠くの方で鳴く郭公かっこうの声が聞えた。
 月夜に見た上高地は、昔ながらの魅力に満ちていた。

 翌二十八日の午前は、附近の大正池や田代池を御見物になったり、焼岳の噴烟を御覧になったりして、この名高い上高地に半日をおすごしになった。池中に立枯れの木が林立して、特異の景観を作っていた大正池も、十年余りの間に池のなかばは埋もれ、枯木の数も少なくなっていた。田代池では梅花藻ばいかもの花は見られなかったが、大きな岩魚は綺麗な水の中を悠然と泳ぎ廻っていた。
 大正池の近くに、学習院や慶応の学生達が合宿して登山している小屋があった。恐多い言葉ではあるがお若くいらせられる殿下は、矢張やはり若い学生がお好きで、この小屋へ御立寄になり、おくつろぎにて居合せた人達をお相手にスキーのお話をなされ、おおかえりの節、其人達が缶詰のお残りなど拝領したき段おそるおそる願い出ると、殿下はお笑いなされて、くさぐさの缶詰を御下賜になったので、学生達は大喜びであった。
 御昼食後、島々しましまへの道を徳本峠に向って御出発になる。途中明神池を御見物なさる御予定であったが、梓川の増水で橋が流れ、河童橋を迂廻しなければ対岸へ渡れないので、これはお止めになった。峠の上りは五百米に過ぎないが相当に急である。私は写真班の山口君と一緒に少し遅れて頂上に着き、殿下に御挨拶を申上げると、殿下は腰掛からお立ち上りになって、御携帯の水筒の水を御用のコップにお手ずから注いで下され、其上に畏くも「これは皇后陛下の御下賜品」と仰せられながら巻煙草を賜わった。この過分の光栄に私はひたすら恐懼すると共に、殿下の厚き御心遣に対し奉りて誠に感激に堪えないものがあった。
 島々谷への下りは更に急である。下り切って一里ばかり行くと岩魚留の茶屋で、すぐそばに銀杏と見擬みまがうような珍しく大きい桂の木が鬱蒼と繁っているのを、殿下は御興深げに御覧になって、御小憩の後、木の下にお立ちになり、山口君に記念の撮影をお命じになった。
 これから筑摩鉄道の終点島々駅までは三里半を超えている。そして六時には御迎の電車が其処そこで殿下の御来着を御待ち申上げている筈である。もう三時を過ぎているので其時間に遅れぬように大強行をお続けになり、御予定より三十分も早くお着きになった。汗を流しておあとに続いた随行者は、いずれも殿下の御健脚と御元気に驚嘆しないものはなかった。
 御小憩後、やがて電車に召されて、御見送に参じた早川君や佐藤君達をも御呼び寄せになり、御談笑の間に松本駅御着、中央線に御乗換になって、上高地へ引返す槇君達にお暇を賜わり、二十九日の午前四時新宿駅に御着、私は光栄と感激とに始終した五日間にわたる楽しい登山に、お伴の列に加えて頂いた喜びを深く深く心に感謝申上げながら、殿下の御健康をお祝いして、御暇申上げたのであった。
(大正一二、九『女性改造』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「女性改造」
   1923(大正12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「雨かんむり/誨のつくり」、U+9709    543-7


●図書カード