初めて秩父に入った頃

木暮理太郎




 当初、山を愛好する一部の人々の間にのみ行われていた登山が、一般世間からは物ずきの骨頂と蔑視されながらも、勇敢に口や筆で夫等それらの人々が宣伝につとめた努力は報いられて、次第に同好者を獲得することに成功し、後年の隆盛を想わせる曙光にも似た明るい前途を約束し得るに至ったことは、誠に愉快なことであった。
 その頃の登山は言う迄もなく夏季に限られていた。何せ交通不便という一大障碍しょうがいがあったので、目的とする山の麓迄辿り付くのが一仕事であった。たとえば北アルプスに登るには、最も交通の便が開けていた大町あたりへ行くにしても、東京からは信越線の篠ノ井で松本行に乗換え明科あかしなで下車して歩くか、人力車または馬車を利用したものである。それも明治三十六年以後のことで、以前は信越線の小諸か上田あたりで下車し、和田峠なり保福寺ほふくじなりを越えて、松本平へ出る外に方法がなかった。中央線が松本へ直通したのは三十九年六月で、直江津富山間はずっと遅れた大正二年であった。この容易に山に近づくことを得なかったことは、冬季登山が行われなかった最大の原因の一つであったろうと思う。
 一年を夏季と限られ、更に夏季を幾日と限られた短期の間に、登らなければならない山が何と多かったことか。誰もが今年の山旅から帰れば、すぐに翌年の計画を立て、「来年は何山に登るぞ」と仲間に吹聴して、先占権を主張したものだ、仲間も笑ってこれを容認し、抜け懸けの功名を争うようなことはしなかった。優良な案内人夫は何処でも得られるという訳のものではないので、前年から約束して置いた、素朴な山人達は他から利をもって誘われても、無断で約束に背くことなどは殆どなかったし、誘うような人もまた少なかった。
 しかし張り切った心に待つ一年が如何に楽しいものであったとしても、ああ何とまた長いものであったろう。この辛抱のお蔭で登山の快は倍加した訳でもあるが、出来ることなら季節を選ばず山へ行きたい、そして絶え間なき心の渇を少しずつでも癒やしたい。こういう願望が抵抗し難いいきおいでむくむくと擡頭したのは私一人ではなかった、よし行こう。夫には比較的交通が便利で、割合に近い処であることが必要だ、しかも高度は少くとも二千米以上で、処女の地域が広ければ広い程よい。そこで地図を物色する、丹沢、道志、御坂みさか山脈の諸山は、惜しいかな高度が低い、奥上州の山は交通の不便からてんで問題にならなかった、残るは秩父山地のみである。
 陸地測量部の輯製二十万分一図が世にも頼み甲斐なきものであることは、苦い経験を嘗めたことのある人は誰も知っている。されど之に代る一般向きの良地図がないので止むを得ず使用していた。今其甲府図幅が手許てもとにないのでうろ覚えではあるが、金峰きんぷ山は二千五百何米と記入してあった。其他の山は多く標高を欠き、ただ雁坂かりさか峠や大洞おおぼら山(飛竜山)および雲取山などは、いずれも二千米以上であったように思う。それで行くならば秩父がよかろうということになった、私などは小童の頃から朝夕遠く南方の天に望んでいた桔梗ききょう色の長大な秩父山脈、それをこれから存分に歩き廻るのかと思うと身内がぞくぞくした。くして私どもの秩父登山が始められたのであった。
 秩父も今は昔と比較にならぬ程便利になっている、けれども其頃の秩父鉄道は波久礼はぐれが終点だったので、午後九時から徹夜で栃本まで歩いたことがあった。それが大正元年頃に国神まで通じ、同三年に大宮に達した。それでも一日で栃本へ行くにはなり強行しなければならない、幸に中央線が甲府まで延長されていたので、奥秩父へ入るには今と同じ様に塩山か甲府からするのが便利であった。勿論馬でも雇わなければ乗物などはある筈がなかった。
 私どもの秩父行は、明治四十二年五月の雲取山、十月の甲武信こぶし岳登山から始まったと称してよい。尤も私は二十九年に金峰山に登って川端下かわはげに下り、十文字峠をえて栃本に出たことがあり、又故荻野音松君は三十九年に川浦から国師こくし岳に登り、金峰山迄縦走して黒平くろべらに下っている、恐らく之が登山者として奥秩父山脈縦走の最初であったろう。この時荻野君は国師岳を前人未蹈の深山であろうと信じていたところ、古くから開かれていた山であったので、意外に感じて失望したと其紀行に書いてある。飛竜山や雲取山も亦信仰的登山者のあることを登山の際に初めて知ったが、其他の山殊に谷筋は、人跡極めて稀であり、山行の度毎たびごとに未知の山や谷を発見して、新しい収穫の多いのを喜んだのであった。
 此等の山旅は甲武信岳に登った時の外は、案内者も人夫も連れなかったので、少なからず不安に襲われたが、また大なる経験ともなった。中にも国師甲武信間の縦走、東沢の遡上などは、其時の困難と苦心とが今も強い印象となって残っている。しかし決して無謀の挙に出なかったことが、遭難を免がれしめたものであると信ずる。西は金峰山から東は雲取山に至る連脈を四つか五つに区切って、先ず其間に於ける主要なる二、三の峰に登り、ついで各区間の縦走に移り、大体の地勢に通じた後、金峰から雁坂に至る長い縦走や沢歩きを決行した、それでも方向に迷ったことが幾度あったことか、げに少しも油断のならないのは山登りである。
 山上の小屋としては、甲武信岳を少し下ったミズシに側師がわしの空小屋があって、二度ばかり之を利用したのみである。天幕は重くて邪魔になるので携帯せず、代りに大油紙を用意し、雨さえ降らなければいつも毛布に包まって地上にごろ寝した。物凄かったのは東沢の法螺ノ貝と、木賊とくさ谷上流の深林とに露営した時で、寒かったのは五月の国師岳の頂上附近及び十一月下旬に井戸沢(将監しょうげん峠)の水源地に一夜を過した折であった。
 其後二十年を経過した。今日の秩父は若い登山者達によりて、殆ど文字通り残る隈もなく探り尽されているらしい、それに較べると私どもの足跡はいうに足らぬものである。唯顧みて過去の山旅を憶うとき、そぞろに足を蹈み入れた秩父の山々が、深い渓谷と、色彩豊かな闊葉樹林と、黒い森厳な針葉樹林とが織り成す秩父の特色ともいうき滋味を充分に味うことを得せしめて、私どもを心ゆくまで満足させてれたことを感謝せずにはいられないのである。
(昭和一二、一〇『旅』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「旅」
   1937(昭和12)年10月
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード