山の今昔

木暮理太郎




山と山人


 我国に於て山登りが始められたのは何時頃からであるか、元より判然たることは知る由もないが、遡って遠くその源を探って見ると、狩猟をもって生活の資を得ていた原始民族に依りて、恐らく最初の山登りが行われたであろうことは想像するに難くない。もとより到る処に獲物の多かったことが考えられる原始時代には、深山幽谷をあさる迄もなく、平地の森林、原野、河沼等に於て充分日常の生活資料が得られた筈であるから、山に登ることなどは殆ど必要が[#「必要が」は底本では「心要が」]なかったろう。しかし大きな獲物の前には、すべてを忘れてこれを追跡する彼等の習性から推して、かかる場合、山へ登ることが無かったとは断言するを得ない。現に二千米近い山の上で石鏃せきぞくや特種の石器などが時として発見されることがあるのは其証拠ではあるまいか、或は矢を負うた獣類が山上に逃れて其処そこ斃死へいししたことも考えられるが、総てがそうであったとは云えないであろう。
 農耕が発達するにれて、平地の生存に堪えられない是等これら狩猟を生命とする民衆の一団は、狩場であった森林の喪失と獲物の減少と相待あいまって、次第に其生活に都合の好い山奥に逃避することを余儀なくされたであろう。中には農耕生活に同化した者もあろうが、其多数は従来の生活様式を棄て兼ねて、安住の地を平地と交渉の少ない山奥にもとめたのは当然である。彼等も平原から移入した火田法を附近の森林に施して、粟や稗などを作り世渡りの助としたであろうが、其生活は狩猟本位であったから、山と最も交渉の深い人達であったことは疑いない。後になって平地の生存競争に敗れた幾群かの人達もまた山奥に逃れて、其処に乏しい、しかしながら自然以外からは脅威も圧迫も受けない、安易な生活を楽しんでいたことと思われる。こういう人達も亦おのずから狩猟を生活の要素として取り入れたであろうから、従ってまた山との交渉も生じた訳である。
 こうしてつくられた部落の多くは、肥後の五箇庄や、庄川上流の桂又は気多川奥の京丸などのように、山中の別天地として一般世間から忘れられたまま、永い間全く埋もれていたものもあるが、後から後からと川筋を開拓して侵入し来る平地人と多少の交渉は避け難かったであろうし、又山脊やまのせを境として相隣れる部落と部落との間にも、ふとした機会から何時しか必要に迫られた交通が行われて路が開かれ、ここに後の峠なるものが発達したものと想われる。此の峠が旅人のみならず登山者にも大なる便益を与えたことは言うに及ばないことである。
 何時の頃にか炭焼や杣又は岩茸いわたけ採りなどが一年中の或期間、部落民の間に生業として営まれるようになった。それは他所から来た人に教えられたか、部落の或者が里に出て覚えたか、或は偶然の機会が基であったか、しくはそのすべてであったか、いずれにしてもそうなる迄には、其間に経済的原因や事情があったろう、それらの関係を知ることは容易ではない。ともあれここでは夫に就て記述するのが目的ではないから、其探究は他日に譲ることとして、そういう人達が登山に関係が有ったか否かを知ればよい。私の考える所では、我国に於ける高山の多くが其開祖と仰がれる信念堅固な高徳の僧侶に依りて登られているが、記録の上には現れていないにしても、其蔭にはこういう人々が働いていたことを想像してもあやまりではあるまいと信ずる。それはたとえば、余りにも近代の例ではあるが、天明五年に覚明かくめい行者が御岳の黒沢口を開いた時にも、藪原の杣長九郎等十三人の労力奉仕があり、文政十一年に播隆ばんりゅう上人が槍ヶ岳の初登山を行った際にも、亦幾人かの労力奉仕者があったことなどから類推されるのである。このわずか一、二の例からいにしえにまで遡って一律に取り扱うことは、大胆な推断のようであるが、暗黙の間に事想の一脈相通ずるものがあることは誰しも認めるであろう。
 実際古代に在りて、道もなき高山に登る困難を考えたならば、かかる労力奉仕者なしに十数日乃至ないし数十日にわたる登山は、如何に不惜身命の行苦に心身を鍛錬した僧侶といえども、不可能ではなかったかと想われる。勿論この人々は何か事が起れば、主を打ち棄てて真先に逃げ帰ったかも知れないが、又恐る恐る昨日の処に引き返して其安泰を知ると共に、以前に倍して尊信と労力とを捧げることを惜まなかったであろう。ただ事実を伝えた記録が残っていないので、其真相を知るに由ないのは是非もない。世に伝うる縁起なるものは、ひたすら我仏をのみ尊くせんが為に後人に依りて作為されたものであるから、多くは信を置き難いのである。但し二、三の例外あることは認めてよろしかろう。
 是等の部落の人々の中でも、特に登山と密接の関係あったものは猟師である。山の生物を殺すことを業とする彼等の間に行われた信仰のことは別とし、山にかけては何人なんぴとも及ばない知識の所有主で、豪胆でもあり※[#「走にょう+喬」、U+8DAB、507-9]捷でもあったところから、山の開祖達は最も多く其助力を受けたことであろう。縁起や由来記などに、忽然として二頭の狼があらわれて先導したとか、或は大明神若しくは仏菩薩が出現して道を教えたとかいうような所伝の裏面には、登路を案内し又は示唆した是等猟師の働きが反映しているものと解釈しても差支ないような気がする。事実明治時代になって、調査にしろ登山にしろ、それが未知の山地である限り、常に優良なる案内者となったものは殆ど皆猟師であったことは、現に吾々が見もし聞きもして知っている通りである。稀に猟師の居らぬ所では、岩茸採りや樵夫などが代用されたが案内者としては勿論猟師に及ぶ筈はなかった。
 こういう風に山の人達特に猟師は、原始時代の昔から現代に至るまで、世は移り人は替っても、長い伝統的生活の下に狩猟其他に依って得た山の知識を継承して、絶えず隠れたる功績を登山界に寄与していたのである。
 日常生活や信仰に関係なき山登りとして、国見の為に登山することも古代には稀ではなかった。国見山、高見山などと称する山が諸国に多いのは其名残りであろう。勿論平野に臨んで屹立している山ならば、其目的に副う筈であるから、他にも国見の為に登られた多くの山があるのは当然で、筑波山などは其最もよき一例である。是等の山は低い山が多く、中には千米を超えているものもあるが、登山発達の上からは言うに足らないものである。

山の信仰


 我国民の間には古くから山を神聖視する習俗があった。山は神の坐す所でありまた降臨の場所でもある。天に近い山のいただきは当然天界との通路として考えられた。神座じんざ山、神名備かんなび山、神尾山などは即ち神の坐す山であることを示す名で、神武天皇が霊畤を鳥見山に建てて皇祖天神を祭らせ給うたのは、即ち御降臨の場所として神聖なる「山」が選ばれたのである。天孫瓊瓊杵尊ににぎのみことが御降臨になった処は※(「木+患」、第3水準1-86-5)くしふる高千穂の峰であった。社に必ず有る神木は、祭の時に神が天降る通い路で、山に神路かみじ山がある如くに平地に於て山を代表したものに外ならないのである。
 しかし又一方に於ては、山其物そのものが神として崇められたことも否めないであろう。これは山が神の坐すところであるというかんがえが先で、後に山其物が神と崇められるようになったのか、或は其反対であったか、容易に決し難いことであるが、かく両者は密接な殆ど不可分の関係にあるから、後にはこれが混同したものと想われる。山川草木皆神也とした我国の思想からいえば、古代日本人の間には山体を神として崇めることが行われていたものと考えられる。勿論今日では祭神が決定しているが、是等これらは後に僧侶に依って奉祀されたものが多いと見てよろしかろう恐らく古代に於ては山其物を神と崇める原始思想と、山は神の聖座であるとするやや文化的思想とが併び存し、そして前者は原始民族の信仰で、後者は高天原民族の信仰であったのではあるまいか。『日本書紀』景行天皇の十八年秋七月の条に、

丁酉(四日)、八女県に到る、即ち前山を超えて、以南みなみのかたに栗崎を望む、詔して曰く、其山峰岫重畳して、且つ美麗しきこと甚し、若しくは神其山に在る乎。時に水沼県主猿大海奏して言ふ、女神あり、名を八女津媛と曰ふ、常に山中に居る。故に八女国の名此に由りて起る也。

という記事がある。八女は今の筑後国八女郡の地で、栗崎は黒崎であろうという。これは地名を説明する伝説とも見られ、八女津媛は単に山中に住居した女酋長であったとしても、尋常と異った形貌をそなえた山が神の坐す所と思われていたことは、峰岫ほうしゅう重畳して美麗うるわしきこと甚し、しくは神其山に在るかとらせ給うたことから察せられるのである。
 万葉の詩人大伴家持は、聖武天皇の天平十八年七月越中の国守となって赴任し、同二十年四月二十七日に、

天離る 鄙に名かかす 越の中 国内ことごと 山はしも しゞにあれども 川はしも さはに逝けども 皇神の 主宰き坐す 新河の その立山に 云々。

の歌があり、翌二十八日に大伴池主が之に和して

朝日さし 背向に見ゆる 神ながら 御名に負はせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 云々。

と歌っている。「うしはきゐます」といい、「神ながら御名に負はせる」という、共に立山が立山神の坐す所であるという崇敬の念をこめて、立山の雄姿を礼讃したものに外なるまい。高橋虫麿の作と伝えられる「不尽山を詠める歌」に「くすしくも坐す神かも」又は「やまとの国の鎮めとも坐す神かも」とあるのは、寧ろ山其物を神と崇めた言葉で、二の思想の混同を示すものである。
 古代人は巌を特に霊あるものとして尊崇し、其呪力に依りて邪神悪霊を払い、生れる児の寿命の永久を磐石の常存になぞらえんとした思想は、泉津よもつ平坂にさやります千引石を道返ちかえしの大神といい、磐長姫が皇孫の召し給わぬを恥じ恨みて、うつしき蒼生たみくさは木の華の如くに衰えんとのろわれた事から察せられ、又磐が神のいます神聖なる場所で、皇孫の坐せる所が磐の高御座たかみくらであったことは、天の磐座を押し放ちて御降臨になったことから推知される。我国の山名に倉の字の付く山が非常に多いのは、くらが磐であったことから転じて磐をクラと呼ぶようになり、それが後には物を貯うる岩窟のクラと混同した為であろう。本来は神のいます山の意であったと思われる。
 山を神と崇めた例は殆ど枚挙するにいとまがない。大和・越中其他に在る二上山は即ち二神山で、二峰駢立へんりつした一方を男神とし、他方は女神と崇めた為に生じた名である。筑波山なども之に属するものであるが、ここでは早くから存して優勢であった地名が山名となったものと思われる。富士山の浅間せんげん神、白山の白山比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)しらやまひめ神、立山の雄山おやま神、伯耆大山の大山おおやま神、阿蘇山の阿蘇比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神、鶴見岳の火男神・火売神・陸中駒ヶ岳の駒形神、磐梯山の石椅いわはし神、月山の月山神、刈田岳の刈田嶺神等は、国史に散見する重なる神名を挙げたものに過ぎないのであるが、山の高低にかかわらず其所在地に於ける顕著な山に鎮座する地方地方の神に至っては、全く数え切れない程に多いのである。独り山のみに限らず温泉、奇巌、洞窟等に至るまで、皆霊妙不可思議な神秘的存在として神と崇められたことは何人も知っている通りである。湯殿山、伊豆山などは其最も好適な例であろう。是等はもと古代民族が山若しくは温泉其物を神と崇めたものが、後に朝廷から神社として祀られ、名神大社にも列するようになったのである。
 この山を神として崇めることは、中央亜細亜から支那西部にわたる山地の未開民の間には、今も行われている習俗で、ヒマーラヤ山脈の高峰であるエヴェレスト、カンチェンジュンガ、ナンダ・デヴィなどいずれも恐るき神として信ぜられ、其登攀隊に随行した人夫が、昨夜はチョモルンモ(エヴェレスト)の番犬が吠えるのを聞いたと、隊員に語ったことなどが紀行に書かれている。ナンダ・デヴィは歓喜の女神の意である。支那四川省と西蔵チベットとの界に近きコンカ・リスムゴンバは、其地方に於ける聖山として巡礼者の群が絶えず其麓を巡礼し、其山が見られる峠という峠には必ず祭壇が設けられてあるという。丁度富士山の望まれる峠に浅間社が勧請されてあるのと同様で、ただ富士山には山頂にお宮があるが、二万フィートを超えているリスムゴンバには山頂にお宮のないことが異なっているのみである。西蔵の聖山カイラスは多数の印度教徒が巡礼するので名高い。キルギス土人間には殊に山岳崇拝がさかんに行われているとの事である。
 今試に神と崇められた山の中でも、比較的高いものだけを「国史」から拾い出して見ると凡そ次の通りである。
大山神(無位)         伯耆国会見郡  仁明天皇承和四年二月従五位下。
大物忌神(従五位上勲五等)   出羽国飽海郡  同   承和五年五月正五位下。
赤城神(無位)         上野国勢多郡  同   承和六年六月従五位下。
駒形神(従五位下)       陸奥国     文徳天皇仁寿元年九月正五位下。
金峰神(従三位)        大和国吉野郡  同   仁寿三年六月名神。
浅間神(正四位上)       駿河国富士郡  同   仁寿三年七月従三位。
白山比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神(正四位上)     加賀国     同   仁寿三年十月従三位。
石椅神(正五位上)       陸奥国耶麻郡  同   斉衡二年正月従四位下。
雄山神(正五位下)       越中国新川郡  清和天皇貞観五年九月正五位上。
月山神(正四位上勲六等)    出羽国     同   貞観六年二月従三位。
刈田嶺神(正五位上勲九等)   陸奥国     同   貞観十一年十二月従四位下。
蓼科神(正六位上)       信濃国     陽成天皇元慶二年九月従五位下。
 お洩れたるものが多いであろう。既に位階勲等を有する神は、早く叙任されているのであるが、史上に其記事が欠けている。仁明天皇以後陽成天皇に至る迄の間は、諸国の神社に位階を授くる記事が非常に多いことは注目に値する。山に異変があり、気候が不順で、世の中が騒がしかった等の関係もあって、それが直に当時の人心に至大の影響を及ぼすような不安な社会状態にあったのではないかと推察されるし、又其頃から高徳な僧侶に依って各地の名山大岳が禅頂され、山神の霊験が称えられて、自然国司から朝廷に奏聞するようになり、それが一の原因となったかとも想像される。当時朝野を通じて神仏の信仰が盛であったことは、国史其他に明文がある。
 是等の神が山其物を崇めたもので、当初から大己貴命おおなむちのみこと又は倉稲魂命うがのみたまのみことというように、祭神がいつかれていたものではなかったと思われることは、『延喜式』の祝詞のりとが之を語っているようである。例えば春日祭に

天皇が大命おほみことに坐せ、恐き鹿嶋に坐す健御賀豆智ノ命、香取に坐す伊波比主ノ命、枚岡に坐す天之子八根ノ命、比売ひめ神、四柱の皇神等すめがみたちの広前に白さく。

又は広瀬大忌祭に

広瀬の川合に称辞たゝへごと竟へ奉る、皇神の御名を白さく、御膳みけ持たす若宇加ノ売ノ命と御名は白して、此の皇神の前に辞竟へ奉らく。

とあるように、祭神の決まっていた社では、祝詞のはじめに祭神の御名が挙げられている。然るに同じ御名でも

山の口に坐す、皇神等の前に白さく、飛鳥、石寸いはれ、忍坂、長谷、畝火、耳無と御名は申して遠山近山に生ひ立てる大木小木を、本末打切りて持参来もちまゐきて、皇御孫ノ命の瑞の御舎に仕へ奉りて、天の御蔭、日の御蔭と、隠り坐して、四方の国を、安国と平らけく知し食すが故に、皇御孫ノ命のうづの幣帛みてぐらを称辞竟へ奉らくと宣る。

とあって、孰れも神の名として山の名が挙げられ、きまった祭神の御名が挙げてないのは即ち山其物を神と崇めたものであることが察せられ、又是等の神々は天皇の御殿を造営する木材を供給することが本来の使命であることから、愈以いよいよもって山の神格化されたものであることが首肯うなずかれる。若し前に掲げた高山に鎮座する式内の神社に祭の際に読まれた古い祝詞が存していたならば、一層判然たることが知られるであろうが、今は唯間接に推定し得るにとどまるのみである。

宗教的登山の発端


 今でこそ各地の高山に祭られた山宮は麓に里宮があって、老幼婦女の参拝にも便する為に、四季の祭は主として其処そこで行われているが、本来は山上にあるきものであったろう。勿論登頂の難易に従って、或は里宮が先に祀られて後に頂上にお宮が造られ、或はその反対に山頂のお宮を麓に勧請したことはあり得る、けれども僧侶に依って登られる以前から、古代人の間に信仰的登山が行われていたことは疑いない、これは神の坐ますしくは天降る座所に少しでも近く参拝したいというかんがえから来たものであろう。清和天皇貞観九年二月二十七日の条には、

大宰府言ふ、従五位上火男神ほのをがみ、従五位下火売神ほのめがみの二社、豊後国速見郡鶴見山嶺に在り、山頂に三池有り、一池は泥水色青く、一池は黒く、一池は赤し、去正月廿日に池震動して、其声雷の如し。

という記事があって、山上にお宮のあったことは明かである。従って登拝者のあったことも察せられ、また貞観十三年五月十六日の条には、

十六日辛酉、是より先出羽国司言ふ、従三位勲五等大物忌神社、飽海郡の山上に在り、巌石壁立し、人跡到る稀なり、夏冬雪を戴き、禿して草木無し。去る四月八日山上火有り、土石を焼く、又声有りて雷の如し。山より出る所の河、泥水泛溢し、其色青黒にして、臭気充満し、人聞くに堪へず。

という記事がある。これは鳥海山の噴火を国司の奏聞したものであるが、同じく山上にお宮のあったことが知られ、つ人跡到る稀なりは人跡到る無しではないから、稀であっても登拝者の絶無でなかったことを語るものである。陽成天皇元慶二年正月十三日に沙門三修が近江国坂田郡伊吹山護国寺を定額に列せんことを奏請せる条に、

少年の時、落髪入道し、脚名山を歴て、周く尽さざるなし、仁寿年中此山に登り到る、即ち是七高山の其一也、其形勢を観るに四面斗絶し、人跡至る希なり。

とあるのも似たような記事で、其頃既に伊吹山も登山者があったのである。是等これらの例から推して各地に於ける山宮もまた山上に鎮座し、参拝の為に登山する者のあったことが察知されるのである。
 この登山は前に述べた猟師などの日常生活の必要に伴う山登りとは違って、単純ではあるが信仰による登山であるから、後年に至ってさかんになった僧侶又は修験者を開祖とする宗教的登山も、之が発展普及には、この信仰を根柢として、神仏習合の思想を誘導する用意を忘れてはならなかった、この周到なる用意があったればこそ、あのように宗教的登山が栄えたのである。其頃仏教は漸く盛になりつつあったが、それは文化の進んだ都市又は寺院附近に止まり、僻地の山間にまで普く行き渡っていたものとは考えられず、一般民衆の間では神を尊崇し、仏を嫌っていた者が少なくなかったであろうから、僧侶が山を開いた当初には、山頂に仏を勧請することはしなかったろう。男体山を開いた勝道しょうどう上人は、山に登らんとする日の前夜、

若し神明にして知るあらば、願はくは我心を察し、我が図写する所の経及び像等、当さに山頂に至り、神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福を饒にすべし。

と神に誓願した。即ち神明の加護を仰ぎ、山頂に到ることを得て、仏経仏像等をもって神に供養したいというのである。神明とあるのを広く解して諸の神祗とするもよし、又狭い意味で之を地主神である二荒ふたら山神と解しても差支ないであろう。ともあれ勝道上人は男体登山に際し、神の守護を頼み、神恩を謝する為に経を誦した。恐らく当時に於て他の高僧といえども、この時代思想から離れることを得なかったであろうから、山を開くに当りては其山に古来から祀られていた地主神を護法の善神と崇め、其守護を仰いだこと、あたかも延暦寺と大小比叡神とに於けるが如きものであったろう。たとえ古代人の尊崇していた神が、実は仏法に於ては所謂いわゆる諸天善神と同一にられていたにしても、其加護によりて首尾よく登山を果し、神威を崇め民衆の福利を増進したいと堅く発誓したということは、古代からの神の信仰とさしてもとる所あるものではないと一般に考えられていたことを反映するものであろう。それが年を経るに従って主客の位置が転倒するようになったのは、仏教が次第に普及して神仏習合の思潮を誘致し、遂に本地垂迹説が唱えられるに至った為である。辻博士の研究に成る本地垂迹説にれば、「神前読経といふことは、延暦弘仁の頃から次第に盛になった、これは神はまだ悟の開けぬ、解脱せざる衆生の一であるから、悦んで仏法の供養を受け、其功徳に依りて悟を開き、進んで菩薩となるといふ思想から出発したものである。即ち菩薩号は其神を貴ぶ称号ではあるが、まだ仏と同体といふ迄には至らない。故に此頃に於ては、神は仏の権化であるといふ思想は未だ起つてゐないのである。神仏習合の現象は、奈良時代以前天武持統の頃から徐々にあらはれて居るが、奈良時代に於てはまだ本地垂迹説が唱へられたといふ形跡を認めないし、行基が本地垂迹説を作つたといふことは後世よりいひ出した事で、固より事実ではない。又伝教大師及び弘法大師の時代に於ける神仏習合の思想は、本地垂迹説を考へるまでに発達して居らず、伝教大師を開祖とする山王一実神道、弘法大師を創立者とする両部習合神道は、後世に於て発達形成したものを、遥に上せて両大師に附会したものであって、両大師の神道の著書と称するものは皆偽書である。藤原時代に入つて、恐らく延喜の前後から本地垂迹の思想は起つたらしく、其説は源平時代を経て鎌倉時代に入り、漸次にその教理的組織を大成したのである」ということである。この事実から考察すると、山の開祖であった昔の高僧達は、山頂に本地仏の垂迹として権化の神を勧請する訳もなく、従って権現なる神名はまだ存しなかった筈である。藤原朝以前の開山と称する縁起の類に権現を勧請した記事のあることは、其縁起が後世の作に係るものなることを証するもので、信を置き難い場合が如何に多いかを示すものである。

登山の普及


 宗教的に培われた登山の偉大なる萌芽がこの土に発生せんとするに先立ち、既に古代信仰による登山が多少なりとも行われていたであろうと思われることは前に述べた通りである。この信仰的登山はたとえ微々たるものであり、またその思想は極めて幼稚で、一向いっこうに漠然たるものであったにしても、しこれに理論上から按出された組織と、統一された信仰上の形式とを与えて、時代を指導するに足る能力ある偉人が現われたならば、恐らく僧侶の手を待たずして登山は盛になったであろうと思われる、それ程にまで山岳礼拝の気運は、既に一般民衆の間に古くから※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)うんじょう蓄積されつつあったのである。この気運の中に芽生えて、我国に固有なる神祇の思想とたくみに衝突を避けつつ調和を図り、遂に国民思想と同化した宗教的登山が後日の隆盛を来したのは誠に偶然ではない。
 しかしこの宗教的登山の開祖達が各所の高山を開いた記録は、信ずきものに乏しく、多くは伝説程度に止まっているのは遺憾である。中にも聖徳太子及び役行者えんのぎょうじゃは、諸国の高山で最初の登山者として伝えられているが、これは後世から附会された説に過ぎないものと思われる。尤も役行者は修験道の始祖と崇められる偉人であるから、修法の為に諸国を跋渉したであろうことは認めてよいが、其間に人跡未踏の高山を幾つか登攀したということは考えられない。加之しかのみならず山の開祖に取りては、登頂を果すことが登山の目的の全部ではなかった。現代の登山が登頂と同時に其目的の全部を完了するのとは違っていた。登頂は登山の目的の前半であって、後半に一層重大なる使命が残されている。即ち有縁の衆生を導いて登山の忍苦に依り、凡夫といえどもよく神人交感の境地に到ることを得て、浄行の法悦に浸り、六根を清浄にし、息災延命を前途に約束し得る喜びは、ひとえに開祖の徳によるものなることを感悟せしめ、長く結縁を存続せしむるようにしなければ、其本願は空に帰し、神に祈誓して登山した甲斐がない、その為には事情が長く本拠を離れることを許さなかったであろう。白山を開いた泰澄たいちょう和尚がそうであった。男体山を開いた勝道上人もまたそうであった。其勇猛不退転の精進をもってすれば、また他の高山を開くことも不可能ではなかったろうが、遂に白山又は男体山以外の山に禅頂しなかったことは、山を多く登ることが主ではなく、自己の身命を賭して開いた山を護法の鎮守と崇め、かつは修法の天壇として神に法施を捧げ、護国饒民の勤行に他を顧るいとまがなかったと共に、高山の禅頂が容易の業でないことを知っていた為であろう。役行者は伊豆に流される迄は、大和が本拠で、葛城かつらぎ山で修法し、大峰おおみね入りを創始した。あの長い困難な山脈縦走を修験の道場として完成する迄には、相当の歳月を要したのであろうし、或は一代に其完成を見なかったかも知れないのである。されば役行者と雖も、其宗勢を拡張し、信徒を増加する為には、帝京に近い多年修法の本拠を離れてはならなかったろうと察せられるのである。
 古代人が信仰の対象として登山していた山は三、四のものを除けば、其地方では高山であっても、概して平野に近く聳立し、高度も低かった。然るに僧侶の開いた山は、人跡稀な高山又は深山で、中には全く未踏のものもあった。其年代は相当に古く、就中大宝の前後から延暦に至る七、八十年間に開かれたものが多かったようである。けだこの頃に至りて仏教は漸く隆盛となり、朝廷に勢力を扶植し、日本の神祇もまた仏教に於ける諸天善神と同じく、仏法を悦び仏道に帰依し、これを擁護するものであるという思想が顕官貴紳の間にも広まったことは、気比神や八幡宮の託宣が之を証している。神前に誦経が行われ、神社の境内に神宮寺が建てられたのも、皆神が悦んで仏法の供養を受け納めるというかんがえからであったことは前述の通りである。それがやがては進取の気象に富んだ卓越せる名僧大徳の間に、名山を開いて神に供養し、勝地に託して寺を建立することが本願とされるに至ったものであろう。勝道上人は男体山の登頂を企てた際、我若し山頂に到らざれば亦菩提に至らずと発願した。神に供養せんが為に目指す山頂に到ることが亦自己の菩提に至る所以ゆえんであると思意されていたことが明かである。しかも上人の碑文は弘法大師の作であるからこれは当時に於ける僧侶の思想を代表するものと見てよろしかろう。時代の波に乗った新興の思想は、溌剌として暫くも停滞することなく、直に各地に伝播して、ここに日本登山史上に特筆さる可き僧侶による山開きの舞台が展開されたものと思われる。そして其動機の根柢には、釈尊が仏となられた苦行は雪山に於てなされたこと、又護法の諸天が山上(たとえば須弥山しゅみせん或は香酔山の如き)に住まえること、少くともこの二つが絶えず働いて強い衝動を与えたであろうことは、見逃してはならない重要な事であろう。
 かく僧侶の登山が各地に於て行われ、又其事実であったことを否み得ないにもかかわらず、記録の上からは、ただ其山の登山の歴史は古いということをたしかむるのみで、山の開祖は知られていない場合が多い、これは早くから多くの人に登られていた反証であると見ることも出来る、さすれば寧ろ其人の定まらぬ方が本当であろうと思う。東海の名山富士が何人に依って開かれたか、伝説の外にたしかなる記録の存しないのは其一例である。都良香みやこのよしかが書いた「富士山記」にるも当時早く既に登山者のあったことは明かであるが、開山の名は挙げてない。木曾の御岳、甲斐の鳳凰山なども古く開かれたものと思われるが、亦古記録の徴す可きものがない。鳳凰山頂に屹立するあの大磐石が古人信仰の標的とならないことはなかった筈である。
 越の二名山である白山と立山とは、縁起の内容のみならずその山中に於ける伝説までが実によく似ていて、いずれか一方が他を真似た形跡が看取される。立山は大宝元年に慈興じこう上人が開いたといい、白山は養老元年に泰澄和尚が開いたという。恐らく白山の方が古いであろう、立山の雄山神は白山比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神より叙位の年月も遅く、位階も劣っていた。この事が後になって対立している二山の信徒の間に競争の念を起さしめ、立山が白山よりも早く開かれたもののように伝えられる基となったのかも知れない。しかし「立山は白山よりも馬の沓一束だけ低い」という口碑が立山信徒の間に残っていることは、白山の優越を認めていたことを物語るものであろう。
 四国の高山石鎚いしづち山は、白山や立山などと殆ど時を同じくして開かれた山である。『日本霊異記』には、

伊与国神野郡の郷内に山有り、名を石槌山と号す、是即ち彼山に石槌神有るの名也、其山高※[#「山+卒」、U+5D2A、524-15]にして凡夫は登り到るを得ず、浄行に仕ふる人のみ登り到りて居住す。

とあり、又『文徳実録』の嘉祥三年五月の条にも、

故老相伝ふ、伊予国神野郡に、昔高僧あり灼然と名づく、称して聖人となす、弟子に上仙と名づくるあり、山頂に住止す、精進練行は灼然に過ぎ、諸の鬼神等皆頤指に従ふ。

とある。石槌は本来イハツチで、ツチはイカツチ(雷神)カグツチ(火神)シホヅチ(船長)などのツチと同じく頭目又は首長を意味しているから、頂上附近に於ける大磐石を神と崇めて岩山の魁たることを示す名であって、古代人の信仰的登山の行われていたことを物語るものであろう。灼然は横峰寺を開基して石仙聖人と呼ばれ、聖武天皇頃の大で石鎚山の開拓者であることは疑いない。
 石鎚山や白山の開闢かいびゃくに関する縁起は、大体に於て信ずるに足るものであるが、それにも優りて『性霊集』に載っている「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑並序」の文は、弘法大師の作に係り、当時の記録であるから、思想を知る上にも登山の困難を知る上にも、甚だ貴重なる文献である。それで重複を厭わず男体山登攀に関する記事を茲に掲出することにした。

神護景雲元年四月上旬を以て跋上す、雪深く巌峻しく、雲霧雷迷して上る能はざる也、還て半腹に住むこと三七日にして却還す。又天応元年四月上旬、更めて攀陟を事とす、亦上ることを得ざる也。二年三月中、諸の神祇の奉為に経を写し仏を図し、裳を裂て足を裹み、命を棄て道に殉し、経像を襁負して、山麓に至り、経を読み仏を礼し、一七日の夜堅く発誓して曰く、若し神明をして知るあらしめば、願くは我が心を察し、図写する所の経及び像等、当さに山頂に至り、神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福を饒にすべし、仰ぎ願くは善神威を加へ、毒竜霧を巻き、山魅道を導き、助けて我か願を果せ、我若し山頂に到らざれば亦菩提に至らず。是の如く発願し訖りて、白雪の皚々たるを跨ぎ、緑葉の※[#「王+崔」、U+7480、526-8]※(「王+粲」、第3水準1-88-31)たるを攀ぢ、脚一半を踏み、身疲れ力竭き、憩息信宿して、終に其頂を見る、※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)惚として、夢に似たり寤むるに似たり、査に乗るに因らずして忽ち雲漢に入り、妙薬を甞ずして神窟を見ることを得たり、一たびは喜び一たびは悲しみ、心魂持し難し。

『補陀洛山草創建立記』とは多少の相違や前後した点もあるが、孰れも信ず可き者であるから、二者対照して補訂すればよい。出発した場所は大谷だいや川の北岸に建てた四本竜寺であった。前二回は共に四月上旬、最後は三月中となっている。之を太陽暦に換算すると、四月上旬は二回とも五月中旬に当り、天応二年即ち延暦元年は、正月にうるうがあって三月十一日が五月一日に当るから之も五月中で、結局三回とも大体五月中旬ということになる。其頃には男体の南面は雪も少くなり、日脚は長く寒さも緩み晴天が続き、しかも邪魔になる藪はまだ蟄伏している、登山には誂向きの好季節を選んだ訳であるが、湖畔から二晩泊りで漸く頂上に達したのであるから、其困難は想像するに余りあるものであった。恐らく他の多くの高山も、同じような状態の下に同じように困難して登られたものと思われる。
 又是文に拠ると、「坤を眄れば更に一大湖有り」とあるので、頂上に立って初めて中禅寺湖を瞰下みおろしたのであろうと考え、東側のキノミ平方面から登ったのではないかと疑ったが、『建立記』を見れば第一回登攀の際、既に山の半腹に一大湖のあるのを発見しているので、半腹に住むこと三七日とあるのは、即ち湖畔に宿して二十一日間の修法を行ったのであることを知った。頂上では吹雪に遭ったらしく「乍看腸を絶ち、瞻佇未だ飽かず、風雪人を趁ふ」と書いてある。或は強風が粉雪を吹き飛ばしたのかも知れない。続いて「我蝸菴を其坤角に結びて之に住み、礼讃勤行すること三七日、已に斯願を遂げ、便ち故居に帰る」と禅頂を果したよろこびを述べている。そして延暦三年の五月、この勝地に神宮寺が建てられたのであった。此種の記録が今後さいわいにして発見されることもあらば、当時に於ける登山の模様が更にあきらかにされることであろう。
 此の如くにして中古に其端を発した宗教的登山の道は、時を経るに従って次第に開拓された、というのは衆生の一として考えられていた神は進んで菩薩となり、更に進んで仏となった。神は仏の化現で、本地の仏が迹を垂れて神となったのであると説かれる様になって、ここ本地垂迹すいじゃく説は全く完成し、或は天台或は真言の教義に拠りて詳しく説明された精密なる組織を以て、山王一実神道及び両部習合神道が創設され、古来の山岳信仰と牴触矛盾することなくして、民心を収攬しゅうらんするに足る山岳宗教があらたに発生したからである。これが将来に於て民衆的登山の普及するに至った最大の原因であり、そして其理論を実践躬行きゅうこうし、之を全国に伝播する媒介者として最も力あったものは、是等これらの神道と合流した役行者を始祖とする後に修験宗と呼ばれた一派であったと考える。実に山を開いたものは名僧大徳であったが登山を盛ならしめた者は山伏即ち行者であった。
 神変大菩薩の号を賜わった役公小角が大峰を開いたのは天武天皇の頃であるが、其歿後は修法の為に登山する者も次第に絶えたものか、宇多天皇の寛平元年に当山派の祖である理源大師(聖宝)が中興開山の峰入りをした時には、榛莽しんぼう塞りて行路なく、※(「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9)かつるいを攀じて之を蹈み開いたと伝えられている。山を保護するみちは他なし、唯自然のままに放置するにありといわれている通り、どんな立派な山道でも二、三十年も修理を加えなければ、大抵跡方もなくなってしまう。いわんや道を作ることを禁じてあった大峰縦走の蹈跡などは、二、三年の間に榛莽の掩う所となるのは当然である。大峰がかく荒廃するに至ったのは、小角歿後に高才逸足の徒弟は本山を去って諸国に名山を探り、己が修行の道場を開くに急で、為に本山の衰微を招来したか否か、或は理源大師が葛※(「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9)を攀じて之を蹈み開いたというのは偽であるとの説もあって、其真相は知り難いのであるが、二百年近き歳月を経る間に一盛一衰あるは免かれぬ所であろう。
 理源大師におくれること八十余年にして、堀河天皇の寛治四年に増誉大僧正が白河上皇の熊野行幸に先達を奉仕し、其賞として熊野三山検校職に補せられ、本山派の開祖となったので、此時に諸国に散在していた小角の末徒が多く本山派に属したとの事である。以後修験道は当山及び本山の二派に分れて広く諸国に分布し、更に幾多の支派を分ち、苦行修法する他宗の者までも皆其行法にならったので、山開きの間は十六道具に身を固めた行者達が至る所の名山大岳に登り、振鈴の音は雲に入り法螺の響は山をどよもして鳴りわたったのであった。
 修験者即ち行者は其名の示すが如く、山を修験の道場として最難の苦行に堪え、験行を勤め咒法を修得するのが本願であったが、山を下れば諸人の為に加持祈祷して、其咒力により一切の災厄をはらい病苦を救いて、功徳を施すことを怠らなかった。過去の滅罪や未来の仏果もさることながら、此世に於ける現在の苦厄を免かれることが凡夫に取りては当面の一大事で、身にしみる有難さである。されば彼等行者は民衆の信仰を一身に集めて、神仏の権化の如く尊崇された、従ってそこに一の信仰団体に似たものが作られるようになったのは、少しも怪しむに足らないであろう。唯この団体が結社として組織されたのは恐らく徳川時代に入ってからで、富士講が国内に於ける登山結社の最初のものであろうと思う。
 行者の山入りは作法が甚だ厳重であり、且其期間も限られていたから、普通人で登山する者は稀であったろうと想われる。これは修法の道場に俗人が容易たやすく近づくことを嫌ったことが登山の作法を厳格にした所以の一でもあった。しかし信徒となれば格別である。元もと吾等の祖先は山を崇めこそすれ、決して恐ろしい魔所として考えてはいなかった、夫を無理やりに恐ろしい場所として考えさせるようにしたのは、怪奇に近い縁起や由来記などが流布したことにもよるが、有力な原因としては、宗門の徒弟達が次ぎ次ぎに先代の法力が非常に優れたものであることを誇張しようとして、仏教から拾ったらしい種に、荒唐無稽ではあるが当時の人をして恐怖せしむるに充分である様々な伝説を附会させ、火口を地獄に比し、磐座を剣の山に擬するなど、神と崇めた祖先からの美しい感情を奪い去って、恐怖観念を漂わせ、世に蒔き散らしたものが芽立って枝葉を拡げたからである。これは一面に於ては山に勿体をつけて、大衆の好奇心と信仰心とに訴え、信徒の増加を謀ったものと考えられる。敬虔なる信者達は、山の開祖が神に供養し神恩を謝する誦経の為に登山したのと同様に、日頃尊崇する行者を先達として、報謝の禅頂を遂げ、宗祖の偉績を偲ぶ霊場に参拝するようになった。かくて経験を重ね修行が積めば、おのずから先達となる資格も得られる訳で、信徒の登山は信徒の先達にて事足り、年を経るに従い次第に登山者の増加すると共に、登山は専門家の手を離れて素人の手に移り、「講」と称する登山結社が各地に作られるようになるや、多年鬱積していた山岳礼讃の潜在意識は漸く擡頭して、宗教的民衆登山は空前の盛況を呈するに至った。言う迄もなくこれは兵乱の惨禍が全く跡を絶った徳川時代に入ってからである。勿論信徒の登山と雖も、入峰の規定を守り行者の作法によらなければならなかったが、左程厳重なものではなく、唯先達の指揮に従えばよかったのである。
 徳川時代に於て山登りが如何に普及したかは、中絶していた山の登山が復興し、全国に亙りて「講」と呼ばれる登山結社が設立され、一山にしてよく数十百講、一講にしてよく万を以て数うる信徒を有するものさえあったことから知られる、しかも他講の山に登拝することはたがいに自由であった。これは生活が安定したので、山を離れては気散じの旅といった気持も手伝っていたに相違ない。あたかも現代各地に無数の登山団体が作られ、各所に登山が流行しているのとく似ていた。異なる所は唯先達の指導精神があくまで徹底して、山の神聖を汚すような行為が絶対になされなかったことである。ただに中絶していた山が再興されたのみでなく、古人未蹈の山で初登山されたものも少なくなかった。永禄三年六月に木曾長政が登山して以来、暫く中絶の有様であった御岳は、天明五年に黒沢口を改修した覚明行者、寛政四年に王滝口を修造した普寛ふかん行者を、共に中興の開山とするが如きは前者の例であり、天明三年六月に南裔和尚が笠ヶ岳に登り、文政十一年七月に播隆上人が槍ヶ岳に登ったのは後者の例である。殊に後者は山が日本北アルプスの中枢にあるだけに、此時代に於ける開山の最後を飾るにふさわしい掉尾とうびの業績であった。唯二人とも登山には勇猛精進であったが、民衆の登山を誘致するには熱意の足りないうらみがあった為に、広く世に知られずして終ったのは惜しい。交通極めて不便な奥山であったことも関係しているだろう。其他年代は不明であるが、山上に大日、薬師、観音、地蔵等の仏菩薩を安置してある山の過半は、此時代に開かれたものであると称しても過言ではないようである。是等の事実からも登山の盛であったことが窺われる。
 此時代には又異った意味で多くの登山が行われた。正保元禄の国図製作、大小名の国境又は領域の見分、山論の裁許、森林監視の山廻り、或は薬草の採取、稀に地理研究の為の登山等が其主なるものである。中には是等が機縁となって宗教的登山が開始された山もあった。たとえば木曾駒ヶ岳は見分の為に再三登られているが(其中元文元年の内藤庄右衛門、宝暦六年の坂本運四郎の両士が残した見分の記録は、当時の模様を知る上に於て貴重な文献である)、天明寛政の頃に御岳講の信者が登山するようになって、山頂に駒ヶ岳神社が奉祀されたのである。斯様かような例は奥上州方面其他にも少なくないらしい。又加賀藩の山廻り役によって行われた黒部奥山の巡視は、相当に大規模のものであり、立山後立山の両山脈に於ける高峰の幾つかは、此時既に初登攀を完了されたことであろうが、資料が得られないので詳細を知り難い。維新後に至りてはさしも繁昌を極めた宗教的登山も、神仏混合禁止の大鉄槌に恢復し難き痛手を負いて、とみに衰運に向ったとはいえ、日清戦争の頃までは、まだ登山といえば一般には宗教的登山を意味している時代であった。それが次第に勃興して来た現代の登山、殊に最近に至りて急速に発達したスポーツとしての登山に圧せられて、今はわずかに片隅で余喘を保っている有様である。しかも昔の精神、昔の道徳は既に失われて空しき形骸のみが残存しているに過ぎない。登山の精神と道徳とを忘れた登山、歴史は繰り返すというは真か、顧みて今昔の感に堪えない多くのものがある。
 以上は主として宗教的登山の発達に関する私見を述べたものである。私は更に維新後に於ける登山の趨勢に就て記述する予定であったが、遂に之を果すことを得なかったのは遺憾である。唯宗教的登山の発達に就ては従来余り言い及ぼされていなかったように思われるので、この機会にせめてそれだけでもや詳細に所信を述べて見たいと考えて、紙面の大部分をこれに費してしまった、文が冗長に流れたのはその為である。思うに維新後に於て総ての文物が一変したのと同じ様に、登山の形式内容共に亦一変した。現代の登山は維新前に於ける登山の延長であるとは言えないかもしれない。両者は出発点を異にして発達したものであるから。然し其根柢に於て共通した思想はないであろうか、それはある、即ち自然愛の思想である。

登山の変遷


イ 維新前
 我国に於ける登山の変遷は、維新前と維新後とに大別し、更にこれを適当に区分して記述しなければならぬのであるが、今はその余裕がないので、ここにはただ其梗概を略叙するにとどめ、詳細は他日の機会に譲りたい。
 維新前は何事も旧慣を墨守しなければならない階級制度の束縛を受けた時代である。横に拡ることは多少自由であっても、縦に伸びることは殆ど禁止されたのも同様であった。人は誰しも其分にやすんじていなければならない。それには諦めが肝要である。諦めは安易を伴い、与えられた型に満足して其埒外に躍り出すことを断念させた。これが登山にも影響しなかったか、直接ではないが間接にはたしかに影響を受けたようである。成程登山はさかんであっても、其型式は固定し、年々歳々同じ登山が繰り返されるのみで、内容には少しも変化を起さなかった。量は増しても質に於ては依然たる宗教登山で、一歩、唯一歩を蹈み出した宗教を離れての登山が遂に行われるに至らなかったのである。
 ここにまた一つの型にはまった古来の風景観なるものがあって、山と水とは其最大なる要素であり、山水の二字は風景の代名詞として用いられた程であったにもかかわらず、世の所謂いわゆる文人墨客と称するインテリ階級の多数は、水には親しみを持ったが山には疎遠であった。山は離れて眺めるものであることを知るのみで、丘陵程度の山の外は、其懐に入り、其頂に攀ずることを敢てしようともしなかった。稀には鈴木牧之ぼくしや高橋白山、又は橘南谿たちばななんけいや沢元※(「りっしんべん+豈」、第3水準1-84-59)の如き人もあって、山に於ける雲の美、岩の奇、眺望の大等に就て嘆美しているが、登った山は多きも二、三を超えず、しかも一度しか登っていないので、其の変化に富んだ無限の興趣を味わい、登山慾をそそられる迄に至らなかったのは惜しいことである。是等これら知識階級の人達が宗教登山者の如く、多くの山を登り、独自の立場から山を、山を観察するようになったとしたら如何なったろう。或は又宗教登山者に、是等知識階級の人達が登山には雲の美、岩の奇、眺望の大等に就て注意すきことを教えたとしたら如何なったろう。恐らく従来の風景観は型を破られ、山に対する認識は深まり、観察の眼は肥えて、其処そこに宗教を離れて独立した登山の萌芽が胚胎したのではないかと、例に引くのは少なからず気がさすのであるが自分の経験から、思うのである。
 しかしながら行者が山に植えた勢力は誠に根強いものであった。芦安あしやすの名取直江という人が明治四年に開いた白峰しらね北岳は、登山者がないので間もなく荒廃したというが、明治十九年に敬神講の先達原丈吉という人の開いた赤石、奥西河内おくにしごうち悪沢わるさわの三山を含む連峰へは、三十四、五年頃まで講中の信徒が相当に登山したものであるという。しかも赤石岳には明治十二年には既に内務省地理局の測量標が建てられていたのである。これでは、あわよくば綱を用いて嶮崖絶壁を登降することに慣れていた岩茸いわたけ採りや、藁履わらぐつ※(「木+累」、第3水準1-86-7)をはいて雪中にも登山していた猟師までも応援に引張り出して維新前の岩登りや、雪中登山の可能性にまで筆を駆ろうとした私も、想像の翼をおさめてやんぬるかなと諦めなければなるまい。宗教的登山に終始した維新前の登山には、大なる変遷の有る可き筈は無かった。
 とはいえ、前述の記事からも略ぼ推察し得る通り、全国にわたりて目ぼしい山は殆ど皆登られている、唯後に日本アルプスと呼ばれるようになった高峻山岳の地域のみが全部ではないけれども、維新後に始まる新らしい登山の舞台として残されていたのである。

ロ 維新後
 明治の初期に於ける近代式文化登山は、維新前に取り残されていた日本アルプスに於て生育し発達した。この地域は何といっても面白い山登りを提供する舞台として、内地では他の追従を許さぬものがある。宗教的登山の残骸にあきたらない明治中期後期の登山家が競うて活躍したのは此処ここであった。大正から昭和にかけて少壮登山家が岩登りや冬期登山に必要なる登山技術を錬磨したのも此処であった。此処こそ明治以後に於ける近代登山の発祥地であり、登山を現に見る如く隆盛ならしめた揺籃の地である。
 北アルプスの登山は、日本アルプスの命名者ウィリアム・ガウランド氏によりて、明治十一、二年頃に行われたのが最初であろうといわれ、立山、じい岳、五六ごろう岳、槍ヶ岳、乗鞍岳、御岳と、合せて十余座を登っている。此外にも同時若しくは稍々やや遅れて、キンチ、サトウ、チェンバレン、アトキンスン氏等五、六人を数えることが出来る。是等の人々は学術探考究を目的として登山したものである。小島烏水うすい君の意見にれば、其真意は日本に於ける氷河捜索にあったのだという。それに就て徳川時代に来朝した蘭人殊にシーボルト先生は、我国の地理風俗特に動植物を研究して幾多の標本をもたらし帰り、浩瀚こうかんな書物を著わしているので、或は夫等からも何等か示唆されているのではないかとのうたがいを持っている、唯私の力では今の所それを解決し得る見込みはない。
 是等外人の間に伍して、坂市太郎氏は明治十八、九年頃に広汎な範囲に亙りて、北アルプスの地質を調査し、大塚専一氏は二十二年に針木はりのき峠以北の後立山山脈を、引続いて三回に探査し、針木峠から雪倉岳に至り、一旦大町に帰りて更に黒部峡谷に入り、鐘釣かねつり温泉から三名引さんなびき山を踰えて島尻に出で、約一ヶ月の日子にっしを之に費している。
 明治二十一年にウォルター・ウェストン氏が来朝した。そして二十四年以後、木曾駒、白馬、立山、御岳、乗鞍、槍、常念、赤石等、中部地方の山岳十七座に登っている。其紀行は『日本アルプスの登山と探検』と題し、二十九年(一八九六年)に倫敦ロンドンで出版された。此書は日本アルプスを広く海外に紹介し、つ今となっては本邦の山岳に関する古い文献として尊重す可きものであるが、邦人にして其恩沢を蒙った者は少ないであろう。其点からいえば小島烏水君の『日本アルプス』の方がはるかに優っていると私は思う。独り『日本アルプス』に限らず、其前にも後にも出版された小島君の著書のいずれもが少壮登山家に与えた感銘は、私などの年輩の者が『日本風景論』から受けた感化に等しきものがあろうと考える。唯ウェストン氏が日本山岳会の生みの父であることは、忘れてならない功績であろう。
 志賀重昂氏の『日本風景論』が世に出たのは、ウェストン氏の著書に先立つこと二年、日清戦争のまだ終結しなかった明治二十七年の十月である。世を挙げて戦争に熱中している際の出版ではあり、又実に名篇であったから一段と好評嘖々さくさくたるものがあった。恐らく当時の多くもなかったろうと思われる登山者で、此書を読んで多大の感化を受けなかったものはあるまい。二十八、九年から三十五、六年頃にかけて、北アルプスの登山者が次第に増加するようになったのは、これは私だけのかんがえであるが、其影響によるものと想像する。しかし多いと言っても知れたもので、河野齢蔵こうのれいぞう君が三十一年に白馬岳に登り、三十五年に小島烏水君が槍ヶ岳に登ったのが著しいものであったに過ぎない。尤もウェストン氏は再び来朝して三十五年から三十七年迄の間に南アルプスの北岳、あいノ岳、鳳凰山、地蔵岳、仙丈、甲斐駒、八ヶ岳の赤岳等の諸山に登っていた。アルプス以外の山で邦人に登られていた山は勿論少なくないのであるが、それらは総て省くことにする。
 本邦の氷河問題をめぐって、学界に論争の花を咲かせ、波瀾を捲き起したのも、三十五年頃からである。山崎直方博士の白馬岳の氷河遺跡に関する講演が斯界に投げられた種となったのであった。此論争は後までも続いて、次第に登山者の注意を惹くようになった。
 南アルプスは北アルプスと殆ど同時に邦人によりて初めて跋渉されている。即ち赤石岳は明治十二年八月内務省地理局の測量方であった梨羽、寺沢の両氏、十四年には巳和、荒木、吉田の三氏によりて登られ、十五年には横山又次郎教授の一行三名が地質調査の為、戸台より入りて野呂川の谷沿いに奈良田に出で、新倉からデンツク峠を踰えて大河原に出た。十七年には原田豊吉博士と鳳凰山に登りて雨畑あめはたに至り、小河内こごうちに踰えている。ナウマン氏が赤石に登ったのは十六年で、翌年中島謙造氏は横山氏等と同時に出発して赤石に登り、大井川に下って谷筋を千頭に出で、千頭から更に遠山に踰えたのであった。
 明治三十九年は日本山岳会が其時は単に山岳会と称して設立され、四百余名の会員を擁して、機関雑誌『山岳』の創刊号を発行した年である。これが刺戟となって各高等学校、専門学校、大学等に山岳部が新設され、以後殆ど十五年間に亙りて、登山界はとみに活躍を示し、日本アルプス夏山登攀の新記録が続々として作られた。はじめは一山を上下して更に一山を登る方法を取っていたが、それでは一夏に登り得る山は多くも二、三に過ぎないうらみがあるので、之に満足せず、且つ峰から峰へわたり歩くことが案外に困難でないことを認め、野営用具、食糧品等を携帯する不便を忍びて縦走を決行し、成功を収めたので、之にならう者が続出し、必要又は止むを得ざる外は一山を上下する者なく皆縦走するようになった。明治三十九年に小島烏水君がつばくろ、常念間を縦走したのが其嚆矢こうしであろう。こうして一挙に多くの山が登られたので、南北アルプスの目ぼしい山という山は忽ち登り尽され、興味の中心は谷筋やアルプス以外の山に移って、登山の範囲は黒部、双六すごろく、秩父、奥上州、奥羽、北海道に拡大し、遂には台湾朝鮮にまで及んだのである。
 大正の初期頃から各校山岳部の活動目覚しく、年々多数の登山班を各地の山に送っていたが、経験を積み研究を重ぬるに従い、前人のコースを繰り返すのみでは満足せず、必然の結果として大正十一年頃から登路変更が要求され、別に山の側面又は残されたる岩尾根に新登路を開拓することに努め、各校の山岳部員は山の附近に合宿して、競争的に新登路の記録を作り、それも次第に困難な場所が選ばれるようになって登山技術は発達し、その一である岩登りが岩登りとして登山の分野に独立した新しい存在となった。大正十年に在瑞西スイスまき有恒君が嶮難をもって聞えた前人未踏のアイガー東山稜の登攀に成功し、之が我国に報ぜられて若き登山家の心を躍らせ、岩山登攀の傾向を助長させたことは疑いない。
 これと殆ど同時にスキーの発達にれて、積雪期のスキー登山が行われ、山小屋の完備に伴い、厳冬のスキー登山となり、岩登りとスキー登山とが併用されて、本邦登山界に未だ知られなかった新生面が開かれ、最近に至りては極地法(ベース・キャンプを設け、第一、第二とキャンプを進め、たがいに連絡を取りつつ遂に頂上に達するもの、極地探検に用いられる方法なので此名がある)により、京大遠征隊の朝鮮白頭山、東大の千嶋遠征隊によるチャチャヌプリの登攀が行われたのであった。
(昭和一一、七『山岳講座』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「山岳講座」
   1936(昭和11)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※訂正註記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「走にょう+喬」、U+8DAB    507-9
「山+卒」、U+5D2A    524-15
「王+崔」、U+7480    526-8


●図書カード