比島投降記

ある新聞記者の見た敗戦

石川欣一




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※(ローマ数字1、1-13-21) 比島投降記



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投降



 昭和二十年九月六日、北部ルソン、カピサヤンにて新聞報道関係者二十三名の先頭に立って米軍に投降。
「朝日」「読売」各三名、「同盟」「日映」各一名、その他は「毎日」関係者。カピサヤンといっても地図に出ていないから若干説明する。ルソン島の北端、アパリ近くでバシー海峡に流れ入る大河がカガヤン河。カガヤン渓谷――黒部渓谷などを連想しては大変な間違いで、実に広く大きな平原である――を流れて、そこを豊饒な土地にしている。この河に沿って、国道第五号線というのが、アパリから南下し、もちろん途中で河はなくなってしまうが、マニラにまで行っている。アパリから約二十キロにラロがあり、さらに二十キロ南下すると、東の方からドモン河という支流が合流する。このドモン河を溯ること約三十キロの地点にある小村落がカピサヤンで、我々は、そこからもっと上流のサッカランという場所から、投降のために下りて来たのである。元来我々新聞関係者の一部は新聞社の飛行機が台湾から救出に来るというので、五号線をもっと南へ行った処のツゲガラオ――ここは日本軍が最後まで守っていた飛行場所在地である――に三月末集合したのだが、米機の銃爆撃は激しくなるし、河向うからはゲリラが迫撃砲を撃込んで来るし、台湾、沖縄等の状況から判断しても、民間機の飛来など可能の余地が全くないので、五月末日、警備隊のS大佐の意見を参考として行動を起し、北上してドモン河の中流クマオ地区に移動したのである。この時軍の南下に従って南下したもの、ツゲガラオにとどまったもの、五号線を避けて――空からの襲撃と河向うからの銃砲撃のために、この国道筋は決して安全ではなかった――山伝いに北方へ行こうとしたもの等もあったが、僕等は真直ぐクマオに逃げこんだ。この地、河の両側約一キロが平地で、丘陵地帯がこれに接している。その丘陵も右岸のは密林におおわれ、敵機の攻撃に対しては安全だったが、地上部隊がすごい勢いで進撃してくるので、七月二十日前後から、野戦病院を初め、多くの非実戦部隊や我々みたいな非戦闘員が、さらに上流地区へ移動し、大密林の中で山蛭やまびるにくいつかれながら、いわゆる現地自活をやっていたのである。その内に終戦となり、師団参謀A中佐が米軍と連絡をとった結果、九月五日の病院と婦女子の隊をトップとして、約一週間にわたってドモン流域の各部隊が次々にカピサヤンで投降することになった。いわばこれは筋書を立て、スケジュールによる投降だったのである。向うから雨霰あめあられと大砲や小銃を撃って来る中を、白旗を振り廻して降参したというような、劇的な場面とは違って、至極事務的に、スムーズに行われたのである。このことについては、米軍当局の理解や好意、A中佐の努力等も、大きに関係したであろうが、僕としてはA中佐の通訳をつとめた本社〔毎日新聞社〕のE・M君の貢献すくなからざりしを信じて疑わぬ。その場に居合せたのではないから、もちろんはっきりしたことはいえないが、M君は本当に英語の出来る人である。いわゆるインタープレターも多く見たが、いい加減なのが多い。隔靴掻痒かっかそうようそのものである。投降の打合せというような場合には、それでは困るのである。本当に英語の出来る人が通訳として働いたことは、大きくいえば、ドモン流域所在の我々全体にとって、幸福だったといえよう。
 さて六日午前七時、我々はドモン河を徒渉としょうしてカピサヤンに入った。僕はまず立派な道路がいつの間にか出来ているのに驚き、次に蠅がまるでいないのに驚いた。(その後も驚いてばかりいたから、「驚く」という動詞が今後何回出て来るか分らない。あらかじめお断りしておいた方がよさそうだ。)僕がクマオから上流地区に「転進」した時には、せいぜい水牛の通る小径だったのが、また、この時とて、渡河点の東岸までは、依然として小径なのが、こっち側へ来ると、舗装こそしてないが、六輪大型トラックが二輛ならんで通って、まだ余地のある大道になっている。その路の両側に一列に並び、装具を前に、武器を出して米軍の来るのを待った。もっとも武器といった所で、僕等の一行は二挺の拳銃を護身用として持っていただけだから、話は簡単である。それまで移動の途中、あちこちでひろった手榴弾が五つ六つあったけど、それ等はすでにサッカラン附近の深淵に投込まれてあった。
 我々の宿営地に近く、とても満々と水をたたえた淵があり、いかにも魚がいそうな場所だったし、魚なんて一年近くも食っていないので、やって見ようという訳で、敵機の来ぬ時を狙って野球選手(どこのチームか知らない)のK君が裸になって河に入り、手榴弾を叩きこんだ。すると不発もあったが、そうでないのは大効果を現し、ボラ、コノシロ、鰺、サヨリ等々、別して前二者は一尺五寸以上の奴もあり、悪童どもは大饗宴を張ったことである。コノシロとか鰺とか、海の魚が河にいるのは変だが、事実いたのだから仕方がない。サヨリなんぞは群をなして泳いでいた。
 さて、米軍側がいつ到着してもいいように、一同遠くへ行かぬように、隊列をみださぬように注意して、ボソボソ話をしていると、九時頃、自動車の爆音が聞え、大型のトラックが何台か現れた。それと前後して乗用車も着き、数名の米軍将校が日本の連絡将校と一緒にやって来た。M君の姿も見られた。間もなく、作業服の米兵が、チューイング・ガムを噛みながら、呑気な顔をして我々の前を歩いて過ぎ、引続いて武器の没収が終ると、トラックに四十人ずつだか乗れという命令が出た。僕は二台目のに乗り、側面のベンチに腰を下した。
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米国の成人



 自動小銃を持った兵士が最後に乗りこみ、トラック隊は動き出した。一月半ほど前に、一月分の糧食と身廻品とを背負い、鼻をつままれても分らぬような暗い路を、何の罰でか、「落伍者はたたき斬るぞ」と指揮の将校に脅かされながら――この移動は軍命令によって行われたのである――、何十回も川を徒渉としょうして歩いた、その同じ路に違いないのだが、昼間トラックで通ると、まるで感じが違う。カピサヤン以西は家屋の破壊したのもすくなく、樹木も満足なのが多い。バナナにもパパヤにも果実がついたままである。
 ある場所でトラック隊が停止した。前のトラックから米兵が連絡に来て「このさきの集落で昨日、比島人がトラックに石を投げ、日本のプリゾナーが数人怪我をした。同じことが再び起ってはならぬと指揮官はいっている。注意しろよ」と運転手と警乗兵に話した。こいつはひどいことだと僕は頸を縮めた。果してそこから百メートルばかり先の、家が五、六軒固まった所へさしかかると「バカヤロー、ドロボー」と待ってました! とばかりの声が飛んで来た。英語の出来るらしいのは「ジャパン・ノー・モール」といい、のぞき上げた二階では、醜い女が醜い顔を引きつらせて、右手で自分の首を斬る真似をしながら「何とかしてパタイ」と叫んでいる。お前等は首を斬られて死ぬんだといってるんだろう。バラバラと石や土塊が投げられ、警乗兵は銃を構えた。
 この時ばかりでなく、米国兵は実によく我々を守ってくれた。米国兵だけではない、比島兵も――比島兵が警乗したことは、僕はたった一度、ゴンサカという所へ行った時しか経験していないが――忠実に職務を遂行した。
 既にプリゾナーとなり、保護に身をゆだねた者は、どこまでも保護するという態度は、喧嘩相手が「参った」といって地に倒れた上は、それをいかに憎み怨んでいたにせよ、ツバをひっかけたり、足蹴あしげにしたりしないという、フェア・プレイの精神のあらわれであろう。但し、地に倒れて「参った」といいながら、隙をうかがって足に食いついたりしたら今度は徹底的に敵をのしてしまうにきまっている。
 途中何度も何度もバカヤロー、ドロボーをあびせかけられはしたが、警乗兵のおかげで大した事故も起らず、我々はラロに着いた。ここの煙草工場が仮収容所になっている。コンクリート建築で、屋根は比島の建物がすべてそうであるように、トタンである。爆撃をくったと見え、大穴小穴がいっぱいあいている。大きな建物が二つに小さいのが一つ。その小さいのは病院で、重症患者が入っていた。丁度僕が腰をかけて足がブラブラする程度の高さに、割った竹を張った床が出来ていて、ひとまずそこに荷を下し、ナイフ、千枚通し、鋏、剃刀等、先端のとがった物や物騒な品は全部取上げられた。日章旗も出せとのことで、何かそんな規則があるのかと思ったが、これは記念品として、個人的にほしがるのだということが間もなく分った。
 話が前後するが、日章旗について面白い挿話が一つある。御承知の通り、我国では英語が中等教育の重大科目になっていた。今度の戦争が起ってからは、英語なんぞはやめてしまえということになったが、それにしても、いわゆる中等、あるいは高等教育を受けた人は、英語の勉強をしたのである。ところがその英語教育が、これまた皆さん御承知の通りのものなんだから、時々変なことが起る。ラロの収容所で知合になったI少尉は、米兵に「お前は蛙か」と聞かれて大いに憤慨したが、後からよく考えたら「お前は旗を持っているか」と聞かれたのだと分り、自分ながら笑止に思ったそうである。つまり Have you a flag ? のユーとフラッグだけが聞きとれ、日本人に共通のRとLの混乱から、旗が蛙に聞えたのである。
 ラロでの出来ごとである。ある夜、便所に行き、建物の別の入口から入ろうとすると、米兵が三、四人かたまっていた。その一人が、「おい、小父さんポップ、ちょっとの違いで、すごい御馳走を棒にふったぜ」と声をかけたので、何かと思って僕もしゃがみこむと、非番の兵隊が集まって「戦争の終ったのを祝って」一杯やった所だという。まだ残っているはずだから、小父さんにも飲ませなよ――このごろ〔昭和二十一年〕英語の勉強がすごく流行しているが、これを兵隊英語に訳して御覧なさい、なかなかむずかしいから――と、そこら辺りをゴソゴソさがし廻った兵隊もいたが、結局飲んでしまった後で、僕は御馳走になれなかった。しかしこの「戦争の終ったのを祝って」という言葉を、僕はしみじみと味わってみた。彼等は戦争に「勝った」のをよろこんでいるのではない。よろこんでいるかも知れないが、それよりも戦争の終った方がうれしいのである。これは僕をして感慨にふけらした。というのが、僕は第一次世界戦争の最中に第一回の渡米をし、十一月十一日の終戦日をはさんでから翌年の夏まで米国にいた。その時米国内では「戦争に勝ったのは我々だ」―― We won the War. という言葉が燎原の火のようにひろまった。今ここで僕が説明するまでもなく、第一次世界大戦は、米国の参戦によって形勢が一変したようなものなのだから、米国人が「戦争に勝ったのは我々だ」といっても一向に不思議ではないが、いたる所でこれを見、これを聞き、おしまいにはセルロイドのバッジにしてボタン・ホールにさして歩き廻る人々さえ出て来るに及んで、この戦争に最初から参加し、あらゆる苦難をなめた他の国の人は、どんな感じがすることだろうと、内心、若干気になっていた。
 さらに話は前後するが、参戦ときまるや否や、ほとんど全米をあげて、反ドイツ運動が行われた。その最も卑近な例は料理の名を変えたことである。ハンバーグ・ステークという、例の牛と豚の挽肉に玉葱やパン屑をまぜた料理、あれはドイツの地名ハンブルグから来た名前なので、リバティ・ステークと改名した。細いソーセージのフランクフルターズも、フランクフルトというドイツの地名から来ているというので、名前を変えた。それから戦争が終った年の冬、ニューヨークのメトロポリタン劇場でワグナーのオペラをやることになったら、制服の水兵が正面入口に頑張って、ドイツのオペラを見に来るとは非愛国的だといって、入場を阻止しようとした。このように、ドイツの物は何でも悪かったのである。丁度わが国で米英の物が何でも悪いとされたのと同様である。ところが、その後二十数年の今日、米国人はハンバーグ・ステークをリバティ・ステークと改名したり、ドイツの物は何でも悪いというような馬鹿な真似はしないようになった。レーションの缶詰には HAMBURGER, FRANKFURTERS とちゃんと印刷してあるし、またその後僕に向って自分の名を告げ、「これはジャーマン・ネイム」だと註釈をつけた兵隊が三、四人はいた。ラロではローレライを歌い、わざわざむずかしいドイツ文字でそれを書いて友達に教えていた若い兵隊もいたし、アパリの収容所長をしていたG中尉は僕がドイツで暮したことを知ると、ドイツ語で話しかけた。G中尉はドイツ系ではないが、大学ではじめかけたドイツ語の復習をしようという訳なのである。このような事実からして、米国人の戦争目的がはっきりしていたことが了解出来ると同時に、僕は米国が二十年間に国として成人した、大人になったということを深く感じた。まだ若い、どうかするとダブル・ネガティヴを使ったり He don't といったりする兵隊までが We won the War. の大威張りをやらず、小児病的なドイツ憎悪から離脱しているのである。それと同時に祝酒をやっていながらも、その静かなことは、事実声をかけられるまで、彼等が何をしているのか、僕には見当がつかなかった位である。
 この行儀のよさも、感心したことのひとつである。用事があって、狭い通路を歩いて行く途中、日本の捕虜がウロウロしていても、決して突き飛ばしたり「そこをどけ」と怒鳴ったりしない。相手は捕虜なんだから、蹴飛ばしても一向差支えなさそうだが、多くの場合大きな身体を小さくして通るか、捕虜の方で気がついて横に寄るまで待っているかである。後から来てぶつかって行くのは、十中十まで日本人である。ぶつかって詫言わびごとをいうのでもない。元来日本人は礼儀が正しいことになっているが、どうも、その「礼儀」が、非常に狭い範囲――例えば家庭内とか知人間――とかに限って行われる傾向が多い。僕は、このことについては、前から書いたり放送したりして来たが、力が足りぬのか熱が足りぬのか、一向に効果があがっていないばかりか、このごろは前よりもひどくなったようだ。
 話が横道に入った。もとに戻そう。ラロの仮収容所に入った我々は、装具検査が終ると次に登録を受けた。一人ずつ姓名、階級、所属部隊名をいって紐のついたカード(小包用のエフ)に書きこんで貰う。それを持って次の机へ行くと、そこではこのエフの記載を原帳に控え、帳簿の番号をエフに書き込む。エフの紐を上衣、あるいはシャツの左ポケットに結びつける。姓名や階級を聞いて書き込む第一の机には、英語の出来る日本人が坐っていた。エフにはその左上の隅に投降時日(僕の場合九月六日)、場所(カピサヤン)、擒致者きんちしゃ(歩兵一二九聯隊)が、あらかじめ書き入れてある。擒致者とはキャプターズを訳したのである。この札を米軍では「犬の鑑札」という。例の蛙の話みたいに、今度は人間を犬扱いにすると憤慨する向きもあるかも知れないが、米国の兵隊は自分達がつけている認識票のことも「ドッグ・タッグ」と呼んでいるので、別に我々を侮辱したのではない。
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若い少佐



 タッギングが終ると我々は別の建物に移された。一体どういうことになるのか分らぬままに、ボンヤリしていると、いかにもひまそうな兵隊が来て、何だかんだと話しかける。英語の出来る人は相手になって、冗談をいって笑っている。僕は疲れが出てウトウトしていた。すると「あなたは英語が分るそうだが……」と話しかけた人がある。目をあけると非常に若く、しかも美しい少佐が立っている。細面で、しなやかで、物腰すこぶる優しい。僕は Yes, I do, Major. と礼儀正しく答えた。通訳として自分を助けてくれないかとの話である。年の若さと美貌とに驚いた僕は、その丁寧さにも驚いた。お役に立つならばよろこんで何でもしますが、実は新聞通信関係者二十数名のリーダーに選ばれた以上、一行から離れることは困るのですというと、その人達は今日明日にもサン・ホセ経由でマニラに送られるが、あなたも用が済んだらすぐ一緒になれるようにしてあげる、だから、一同には、心配しないようにお話しなさいとのこと。しかも、ここはこんな竹の床で設備が悪いから、自分達のいるアパリで寝起きするようにしよう、向うにはコット(折畳式のベッド)もあるし、第一海岸だから気持がいい、朝は自分と一緒にジープで来て、晩に帰ればいいだろうとのことである。竹だろうが木だろうが、ちっとも構いませんといって、僕はT、Hの両君と一緒に、通訳として残ることになった。ラロの仮収容所では、夜でも用事が起るので、結局アパリから通勤することは実行出来なかったが、収容所の一隅にテントを張り、そこにコットを置いて、僕等の住居をつくってくれた。
 この若い少佐が、所長なのかどうかは知らないが、とにかく、ここでの最上官だ。その人が自分で歩き廻って、向うから通訳になってくれぬかと頼んだことは、日本の軍隊とはまるで違う。僕の極めて僅かな見聞からしても、日本の将校はそんなことはしない。いばりくさって、兵隊を使いによこすぐらいが関の山だ。僕は自分のせがれに毛の生えた程度の中尉や少尉、ひどい時には東北の、聞いたこともないような専門学校から学徒出陣をして来たという見習士官なんぞに、さんざんいばり散らされたり厭味をいわれたりして、不愉快な思いばかりして来た。一月二十七日〔昭和二十一年〕の朝日新聞(大阪)「声」欄の投書中に「年齢的にも知的にも世情に通ずる点でも君より数段上にある部下に単に軍人としての階級の上位というだけの理由で……」という言葉があったが、部下でもない僕に、単に自分が軍人であるというだけの理由で糞威張りをするのであった。いばられたこと位は屁とも思わないが、上の者ほど仕事をしない(軍隊ばかりでなく、役所でもどこでもそうだ)日本の習慣は、ある階級に達した者が自分で仕事をすると、何だあの野郎はチョコマカして威厳がないという非難を引き起すのだった。上役はふんぞり返って豪傑笑いをしている方が立派でもあり、政治性があるということにもなっていた。その内に時勢が変り、社長が工場廻りをすると、陣頭指揮だといって持上げたりしたが、陣頭指揮はあたり前のことで、面白くもおかしくもない。実際、考えて見ると、下らないことばかりやって戦争に負けたものだ。
 またしても道草をくったが、ラロのは本当の仮収容所で、タッギングの終った者は次々にトラックで出て行き日本側としては、病院関係者と、通訳と、T中尉を指揮者とする十数名の使役兵とが、常住することになった。T中尉は士官学校を出た、まだ若い人で、非常に良心的によく働いた。
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米軍の給与



 我々は数日分の米を持っていたが、ラロに着いた日から米軍の給与を受けた。陸軍の糧食にはABCDKの五種類と、Ten-in-one というのがあり、CDKは個人向け、最後のは十人前一日分が一箱で、この四種は携行糧食である。Aは国内兵営での食事、Bは例えば比島での根拠地等でやっているように、大きな缶詰の野菜や、本国から送って来る冷凍肉、馬鈴薯、鶏卵等を野戦炊事場で料理した食事、Dは強行軍等に持って行く甘味料(これは一度も見たことがない)だそうである。もっともこの話は、兵隊に聞いたので、その後確かめる機会がなかったから、間違いがあるかも知れない。CとKとテン・イン・ワンとにはお世話になったので、僕もよく知っている。最初に貰ったのはKレーションで、平ったいボール紙の箱に入っている。ブレークファスト、ディナー、サパーで一日分だが、ラロでは一日二回の給与であった。内容はそれぞれに缶詰一個、ビスケット、甘味品を主体とし、そのままで湯なり水なりに溶ける珈琲、ココア、レモン(あるいはオレンジ・ジュース)、巻煙草、マッチ、便所の紙等が入っている。缶詰は朝がハムエッグス(といっても、缶をあけると目玉卵が出て来るのではない。鶏卵はこまかにかき廻してあり、ハムも小さく刻んである)、ディナーは挽肉、サパーはチーズである。浄水剤も入っていた。色々な物にマラリアに関する注意が印刷してある。文句は皆同じで「蚊にさされるとマラリアになる。マラリア流行地ではシャツを着用し、かつ袖をまくり上げぬこと。日没から夜明けまで、戸外にいる時は、駆蚊薬を使用すべし」と書いてある。これ等一式がすごく厚い蝋紙の箱に入り、それがまたボール紙の箱に入っているのである。
 この米軍の給与以外に、米を持っている者は飯盒炊事をしてもいいということで、長方形の穴の上に鉄格子を横たえた場所が準備された。レーションの空箱や河岸に流れつく木や竹を燃し、格子の上に飯盒をのせて飯をたくのである。この設備をしたのが米軍のSという衛生兵で、猫背の、いかにも映画に出て来る薬屋の主人みたいな中年の男だったが、はじめ格子の上に、苦心して見つけ出した鉄板を置いたのに、日本人は態々わざわざその鉄板を取りのけて炊事をする、だから飯盒が真黒に煤ける。煤けると河岸へ行き、砂をつけてゴシゴシこするが、何故あんなことをするのか、自分には理解出来ぬという。それは焔が飯盒の上の方にまで達した方が飯がよく出来るからだというと、だって、ライスをクックするのは熱であって、焔ではないじゃないかとのこと。事実その通りで、炭火はおろか電気コンロだって飯盒飯はうまくたける。しかし長い間の習慣で、どうも赤い焔がメラメラしていないと、飯がたけぬような気がするものらしい。
 この鉄板問答がいい例だが、初めて日本人に接触した米兵の多くは、色々と妙なことを見聞し、日本人が自分達と違ったことをやるのを不思議に思いはしても、習慣の相違ということを考慮に入れる度量を持っている。もちろんそれが西洋式の便所の上に泥靴のままであがるとか、どこでもかまわず残飯を棄てるとかいうようなこと――事実それが時として行われ、ラロでもT中尉以下の常備使役兵や僕等などは、何度も注意したが――であれば、即座に禁止するが、そうでない場合には「何故こんなことするのだろう」と、一応は問いただした上で、何とか行動をとる。
 ラロでの僕の仕事は主としてタッギングであった。ある日アパリで用事があるから来いという命令で、十一時ごろジープに乗って出かけた。途中一人の老女が竹竿に太刀魚をかけて乾物をつくっていたが、その生乾きの具合がいかにもうまそうなので、米国給与のものすごい御馳走になっていはしたものの、黄金色の沢庵やパリパリする白菜の漬物などと一緒に、熱い番茶をかけてサラサラやる白米の御飯を思い出し、ちょっとよだれが出そうになった。
 ジープは一直線に海岸に出た。実にきれいな海である。静かな波が打っている。沖合はるかには富士山のような形をした島がいくつか浮んでいる。何といういい場所だろうと思った。しかし、これは路を間違えたので、すぐ引返し、もっと東にある聯隊本部へ向った。天幕が沢山並んでいる。その一つへ我々は案内された。竹で簡単な柵みたいな物が出来ていて、それには食器が日に乾してある。まず昼食を済ましてから仕事にかかるから、そこにある食器を持って来いという。ステインレスの飯盒と蓋とコップとフォークと匙――進駐軍の兵士が持っているのを御覧になった方もあると思うが、飯盒は小判形で、片方はフライパンになるし、蓋は長軸にそって両側にくぼみがあり、二種の異なる食物を入れることが出来る。コップは水筒の底にはまり込むようになっている。また長方形の金属板に、形の異なるくぼみがいくつか並んだのもある。くぼみの一つ一つに違った料理を入れる――、つまり食器一式メス・ギーヤを持って、炊事場へ行くと、その入口にドラム缶が据えてあり、熱湯がぐらぐら沸いている。食器はフライパン(飯盒の蓋)の柄に環や穴(匙にもフォークにも、柄の末端に穴があけてある)によって通せるように出来ているので、それ等すべてを熱湯に入れて消毒する。それから台所へ行って食器を差出すと、大きな鍋を横に置いた料理当番が、無造作に食物を入れてくれる。この日は兵隊語で「馬の何とか」――この「何とか」は分っているが、英語にせよ日本語にせよ、書いたり印刷したり話したりしない方がいいと思う――と称する大型ソーセージの薄い輪切二、三片とその添物のザワクラウト、ベーコンと豆、玉蜀黍、それにバタをゴテリと叩きつけたパン一片――パンは「たった一片でいいのかい。もっと食いなよ」と当番がいったが、一つで十分だというと、その上に木匙でバタを塗るのでなく山盛一ぱいのせてくれた――最後にパイナップルを、これまた、あれよあれよという間もなく、十枚近く入れてくれた。それから冷したお茶。それを持って、食堂にあてられたテントへ行き、空席に腰を下して食事をした。
 だいぶん後でG中尉にこの時のことを話したら、「馬の何とか」で腹をかかえて笑ったあげく、そんなことをしたのかと、若干驚いていた所から察すると、捕虜が米軍の食堂で米兵と同じ物を食うなんてことは、よしんば禁止事項ではないにしても、よほど珍しいことであるらしい。だが炊事場でも、また食堂でも、僕等を連れて行ったAさんという二世の曹長に声をかける者はあっても、「おい、その変てこな奴は何だい」といったり、敵意ないしは好奇心のまなざしを向けたりする人は、ただの一人もいなかった。僕等が反対の立場にあったとしたら、どんなことが起ったであろうか……何度も何度も考えたことだが、この時も僕はしみじみと考え込んでしまった。
 明治の初年にわが国を訪れたE・S・モースは、随時随所で日本人の行儀のよさ、物腰のしとやかさ、「自分勝手でなく、そして他人の感情を思いやること」の深さに触れ、いく度か「またしても私自身に、どっちの国民(米国人と日本人と)の方が、より高く文明的であるかを訊ねるのであった」とその著書「日本その日その日」に書いている。モースの日本びいきは大変なものだが、あれ程観察の鋭い彼が、日本人のこの面に関してのみ、観察を誤ったとは思われない。日本人は確かにそうだったのであろう。「他人の感情を思いやる」―― Consideration for the feeling of others ――ことは、日本人の特色であり、日本人の間の日常生活では、ある時は度を越して、面倒臭くなる程度にまで重要視されるのである。しかるに何故これが、一度他国人に対すると全然失われ、野蛮なことが行われたのだろうか。もちろん米国人は勝利者としていい気持であり、自然気持も大まかに、ゆたかになっているのだともいえよう。しかし、いわゆる大東亜戦争の初期にあっては、日本人は勝利者であった。あるいは戦争だけの勝利者で、精神的、人道的には徹頭徹尾敗北者であったのかも知れない。
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ジャップ



 食事が終ってテントを出ると、そこにドラム缶が数個並んでいる。第一のには重油が燃えていて、これに食い残しの食品を出来るだけ丁寧に、そそぎ込む。火力は強く、ザワクラウトのように水分の多いものでも、片端から燃えてしまう。次の二つの缶には石鹸水が煮立っていて、食器をこれにひたし、長さ一尺五寸位の刷毛でこする。これを二回繰返した上で、最後はただの熱湯でゆすぐと、食器はきれいになり、湯があついのでカラカラに乾燥する。次の食事時間までそれを太陽にてらし、風に吹かせておくのだから、実に清潔なものである。
 食事を済ませて一服してから、我々は仕事にとりかかった。簡単なタッギングだから直ぐ終り、ジープで送って貰ってラロに帰った。
 ラロでの給与は数日にしてCレーションに変った。それは一回分が缶詰二個ずつで、一つにビスケット、砂糖で包んだ南京豆等の菓子、珈琲(ココア、レモン・ジュースの粉)、砂糖など。もう一つのは肉で、例えばハムとライマ・ビーンズ、鶏肉と野菜、挽肉とウドン、前にちょっと書いたフランクフルターズと豆などである。肉の缶詰はどれをいつ食おうと勝手だが、ビスケット入の方は朝飯、ディナー、サパーに分れていて、朝飯にはレディ・ツー・イート・シリアルというのが入っている。このシリアルというのは穀類、穀物食糧等を意味する英語で、米国の朝飯にはつきもの。日本で知られているオートミールもその一つだが、米国には調理しないでそのまま食える――皿にのせ、砂糖をかけ、牛乳かクリームを注いですぐ食う――種類のが非常に多い。コーンフレークスとかシュレデッド・フィートとかいうのがそれである。Cレーションのは厚いセロファンに包んであり、そのままボソボソ食ってもいいし、もみつぶして食器に入れ、水をかけてもいい。これには砂糖と粉牛乳が入っていて、水にとかすととてもうまい。こんなものに初めてお目にかかる日本の兵隊は、これをハッタイ粉だとか「おこし」だとかいってよろこんでいた。
 Cレーションは、八人前四十八個の缶詰が、一つの箱に収めてある。この箱には、内側に銀紙をはった大型の封筒が八つ入っていて、その各々にシガレット九本、マッチ、浄水薬、便所の紙、チューインガム一個が入れてある。つまり缶詰六個とこの封筒一個で、一人一日分の給与を構成する。例のマラリアに関する注意は、封筒にもマッチにも印刷してある。便所の紙も、缶の外側も、ついでだからいうが、タオルも下着類も、全部緑の勝ったカーキー色をしていて、こまかい所にまで注意が行き届いていることを思わせる。
 我々はラロでテントの中にコットを置いた所に寝起きしたと書いたが、これは数日で中止になった。よそにいた在留邦人の婦女子が二十名来たので、その人達のためにテントを譲り、我々は一般捕虜と同じ場所へ移った。トタン屋根は穴だらけなので、雨が降ると滝のように水が落ちる場所が二、三あり、また一時に何百人も入って来ると、いくら詰めても竹を張った床には並びきれないで、コンクリートの上にじかに寝なくてはならぬ人達が出来た。雨でも降るとみじめなことになるのだが、病人や我々以外は、どんどん移動して行くので、長期にわたって水びたしになる人はいなかった。
 問題は婦女子だった。赤坊四人と大人十六人で、大体我々にはどんな程度、種類の女性を含んでいるのか、一目瞭然だが、米国兵はこの人達をレディスと呼んで、すこぶる大事にする。レディスがまたれっきとしたレディスぞろいだから、幕舎内外の掃除まで、使役の兵隊にやらせて、平然としている。だいぶん不平不満の声もあったが、一人一人の素性を洗って、本当の貴婦人と非貴婦人とに区別する訳にも行かないので、ほっておいた。
 ラロはカガヤン河に沿った町で、仮収容所の裏を河が流れている。我々はここで水浴をやり、洗濯をし、また食器類を洗ったのであるが、折からの雨で濁水が流れ、手拭や越中は洗った後の方が黄色くなるのだった。それでも、水浴すると気持がいいので、雨のはれ間を見ては、河岸へ行った。
 ある日将校が四、五人やって来た。僕と話がしたいというので行くと、その一人はカンザスだかの新聞社長で、階級は少佐だったが、「田舎の新聞だ、君はその名前も知らないだろう」といっていた。彼と一緒にいた別の少佐は「お前は新聞記者か。米国の海軍は全滅したので、太平洋の水位が一インチ高くなったなんて書いた口だな」と笑っていた。後で聞いたことだが、対米宣伝放送をやった「東京のバラ」嬢というのが、盛んにこんなことをいったそうである。ローズ・オヴ・トーキョウは、最初に米国でも一般家庭にはないようないいレコードを聞かせ、続いて米兵をホームシックにするようなことを凄くきれいな声で、また流暢な英語で、放送したそうである。一度アパリで若い将校が数名集まり、バラ嬢は戦争犯罪者として処罰されるべきだろうかどうかを議論していたが、輿論は寧ろ勲章をやった方がいい位だというのに傾いた。いい音楽を聞かせたこともあるが、それにもまして、あまり見えすいたウソをいうので面白くって仕方がなく、これを聞くと悄気しょげていた兵隊もゲラゲラ笑い出したりした結果、士気昂揚に役立ったというのである。太平洋の水位もその一例で、この時にもその話が出た。それはそれとして、ラロに来た別の将校は「米国は十六歳以上の日本人を、全部去勢するという宣伝が、日本で行われたそうだが、君はまだ無事か」と聞いてウィンクして見せた。最後に「ライフ」に出すんだからといって、僕の写真を二、三枚写したが、甚だ頼りない写真機で、おまけに雨天だったから、写ったかどうか、少々怪しいものである。
 最後に、僕の方から質問をすることを許して貰った。その一は、それまでのところ、すくなくとも我々に直接に交渉のあった米軍の将兵が、ジャップというのを一度も聞いたことがないが、ジャップといってはいけないと注意でもしたのか。その二は、我々に接触する人達が非常にコンシダレートだが、特にそういう人達を選んだのかということである。返事はどちらに就いても否定で、特に第二の質問に対しては「米国人は誰に対してもそうなんだ」ということだった。その後の経験からすると、これは愚問だったが、その時は本当に疑問に思っていたのである。この二つ以外にも色々と質問したが、僕が新聞記者であり、将来何か書くかも知れず、恐らく書くであろうことを理解してか、面倒臭そうな顔もせずに、よく説明してくれた。
 ジャップの一件は中々興味がある。時には話に夢中になって、僕がジャップであることを忘れてしまい、「その時ジャップが顔を出しやがったんで……」と手柄話をした兵隊もいたが、すくなくとも正式の会話で、例えば僕への命令とか、向うの将校同士での打合せに僕が居合せた時とかには、決してジャップといわず、必ずジャパニーズという。米国内では、恐らく百人が百人、ジャップということだろう。新聞や雑誌でもジャップが多い。ところが我々に向っては、ジャパニーズと、不便を忍んでいうのは、もし上からの方針でないとすれば、戦敗者に対しても「思いやり」を持つ一つの例ではあるまいかと思う。
 これに関聯して、十数年前、我が国名を英語でいう場合、ジャパンをやめてニッポンにしようという話がまとまった時、タイムス東京特派員のヒュー・バイヤス氏が、一体ジャパニーズの略称のジャップと、当然出来ると見ねばならぬニッポニーズの略称のニップス、あるいはニッピーズとの間に、もし上下があるならば、どっちがいいと思うかと、書いたのを記憶している。ニップ、ニップス、ニッピーズ等、それぞれ、小さいもの、下らぬもの等を意味する英語があるのだから始末が悪い。ジャップばかりを問題にするとは少々滑稽だと、僕自身もおかしく思ったのだが、今度もニップ、ニッピーズを時々耳にして、バイヤス氏の随筆を思い出した。
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通訳イシ



 さて、九月六日にラロの仮収容所に入って、そこに幾日いたのか、どうもはっきりしないが、二十日ちょっと前に、よく僕達と話をする番兵が「俺たちは近くここを引揚げ、かわりに水陸両用戦車隊がお前達の番をすることになる。今度の奴等は恐ろしく規律が厳重で、おまけに八〇パーセントが大学卒業生であり smart guy がそろっているから気をつけなよ」といった。なるほどいつか警備兵も変ったと思うと、ある日大きなタンクがガラガラ走って来て目の前を過ぎ、右に曲るのを見ると、プロペラも舵もついていて、空中でその舵が右に曲っている。タンクは飲料水をはこんで来たのである。ついでにいうと、水はリスター・バッグというズック製の袋に入れ(その底に近く飲口がついている)収容所の各所に置かれてあるが、十数キロの地点まで汲みに行った上に、浄水薬で消毒したのを飲ませるのである。リスターとはどんな意味か、誰かに聞こうと思いながら忘れていたが、英国にリスター卿という予防医学だかの大家がいたので、その人の考えた装置なのかも知れない。飲口の栓を押すと水が流れ出すので、水に直接容器なり、ないしは人間が口をつけたりして、水を汚染する危険がない。そういう風に出来ているのに、何と思ってか、蓋をあけて袋の内に飯盒を入れ、水を汲もうとする兵隊を再三見て、僕は注意を与えた。「そこの栓を押せば水が出ますよ」というと「そんなことは知っているが、水が出ないから蓋をあけたのだ」と口返答をする。栓を押して出ないのは、袋の中に水が無くなっているからである。無い水は無い。もし水があるとすれば、それに飯盒を入れてはリスター・バッグが何の役にも立たぬことが分らぬとは、マラリアの高熱か何かで、頭が変になったのだろう。
 頭が変といえば、こちらも随分ボンヤリしていて申訳ない話だが、何でも二十三日だかに、病院が全部アパリに移ることになった。通訳としてH君が行くというので、僕はゴロゴロしていたら、突然「もう一人のインタープレターやって来い」と大きな声が聞えた。どういう理由か知らぬが、H君はやめになり、僕が行くことになったのである。大した荷物がある訳ではなし、毛布と寝袋(これはバギオでカーキー地を買ってつくった。登山用のシュラーフ・ザックから思いついたので、逃避行にはとても便利だった)をT中尉の部下に巻いて貰い、もうエンジンをかけて待っている中型トラックに乗ると、あまり若くない米兵が僕の向いに腰をかけ、トラックは走り出した。衛生兵五名に一般使役兵六名が、すでに乗っていたので、僕は一番尻に、辛うじて腰を下したのである。警乗兵も僕も黙っていたが、やがてトラックが物すごい穴を突破し、僕は跳上げられズックの屋根で頭をぶった。するとこの兵隊は「おい、運転手ドライバー、気をつけてくれよ。そっちはよくっても後の方は猛烈にはねるから」といって、僕の顔を見て笑った。
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アパリの病院



 トラックは三十分ほど走って、アパリの海岸に着いた。二間ばかりの柱を立て、有刺鉄線をはり廻した内に、天幕が行儀よく並んでいる。入口で下車すると、若い中尉がいて、「誰が通訳か」といきなりいう。「私です、中尉」と答えると「君の名前は?」「石川」「自分はここの主任でG中尉という。スペルはこうだ。話が通じないで閉口していた」という。こっちへ来いというので、一同装具を持って診療所にあてられた天幕へ行くと、十三、四と思われる比島の少年が「Eさーん!」と、すっとん狂な声を立てて、E衛生曹長に飛びついた。こんな子供が、アパリの病院で、何をしていたのか知らない。恐らく日本語が出来るので、通訳の代理でもしていたのだろう。出来るといったところで、大した日本語でも英語でもないのだが、それをチャンポンにして、誰に向っていうともなく喋舌しゃべるのを聞くと、この子の家族はツゲガラオに住んでいて、そのころE君もツゲガラオの病院にいた。
 学校が再開されたが、ノートも鉛筆もなくて困っていると、E君がそれ等をどこからか手に入れて来ては、子供達にやったというのである。「日本の兵隊は悪いがEさんはいい人だ」というようなことを、この少年は一生懸命に喋舌しゃべっていた。ノートや鉛筆ばかりではあるまいと思って、その後E君に聞いて見たが「何、大したことはありません」というだけで、何も話してくれなかったが、日本の兵隊だからとて百人が百人、悪いことばかりした訳ではないのだ。
 この日以来、僕はG中尉の通訳となり、一ヶ月余というものは、毎日何等かの交渉を持った。その結果、G中尉は僕にとって、忘れることの出来ぬ人になった。もちろん国は違い、境遇も違い(平時でも違うが、現在ではこちらは敗北した国の投降者である!)、年齢はこっちが五十で、向うはその半分である。捕虜の分際として「友情」などと、おこがましい言葉を使うことは避けるが、単に向うは向う、こっちはこっちで、それぞれ忠実に仕事をしたということ以外に、何かしら友情に近い感を、すくなくとも僕は抱くようになり、いまだにそれを抱いている。
 ここでハッキリ申しておきたいのは、密林の中やなんかで、さんざん苦労したあげく、国は破れて捕虜になり、あちらこちらで虐待されて、心身ともにヘトヘトになっていた時G中尉が現れ、親切にしてくれたので、その恩を感じたというような、センティメンタリズムに立脚して、僕が、こんな風な感情を抱いたのではないということである。今まで書いたことからでもお分りだろうが、僕はそれまでに一回も虐待されていない。激しい言葉をかけられたこともない。密林の中での生活は、決して楽ではなかったが、幸いにしてマラリアもデングも、軍隊でいわゆる「熱発」もしていない――これは稀有な例である――。空腹を感じたことは何度かあるが、それは飢餓ではなく、健康者が普通に持つ空腹感であった。だから、肉体的には、へたばっていなかった。精神的には、敗戦は大きな打撃だったが、それよりも、今後の日本と日本人とに関する関心と希望の方が大きかった。またG中尉は親切ではあったが、それこそ No favoritism : no monkey business で、僕に対する親切や思いやりは、捕虜全体に対するものと同じであった。僕としても一人前以上英語が出来、通訳として監督将校たるG中尉やその部下の下士官、兵の連中と、時には冗談もいうような立場にいたが、それを利用して自分ひとりが得をしようというような了見は、爪の垢ほども持ったことがない。これだけは大威張りでいえることだが、シガレット一本くれといったことさえない。後でアパリの収容所に病院が合併した時、どうやらイシ(いつの間にか僕の名前から「川」が落ちて、僕は「イシ」になってしまっていた)には一日一箱二十本入のシガレットをやれということになったらしかったが(当直の米兵が「お前、今日はシガレットを貰ったか」とか「昨日はやるのを忘れていた」とか、ちょいちょいいったところから推測すると)貰わない時でも、また持っていたのを人にやって無くなってしまった時でも、目の前で向うがプカプカやっても、一本くれと手を出したりせず、無ければないで吸わずにいた。「米国人は察しが悪いから、ほしいものはどんどんほしいといえば呉れる、黙っているのは馬鹿だ」という軍属の通訳殿もいた。僕も米国は知っているし、米国人も知っているつもりだが、生命にかかわることならとにかく、煙草とか菓子とか、無くてもいい嗜好品をほしがったり、通訳という位置を利用したりするのは、卑しいことだと思ったのである。ちゃんと分って見れば、理窟にならぬ戦争を始めて、そして負けた――これ以上の大きな恥辱はないのだから、その上日本人はやたらに物をほしがるとか、不潔だとか、だらしがないとか見られて、恥の上塗りをするようなことはやめようではないか――これは僕の考えであり、アパリの収容所では一緒に働いてくれた台湾軍のT中尉(ラロのとは別人)やW軍曹とも話し合ったことなのである。ところが、こんな風に考える人はあまり多くはないらしく、殊に内地に帰って見ると、恥っかきばかりが目について、どうも面白くない。もっとも、内地といっても、東京と大阪の表口ばかりしか知らないのだから、まだまだ悲観しては早すぎるのかも知れない。
 さて、病院に着いた我々は、めいめい毛布一枚、タオル一枚、石鹸一個と蚊帳ひとはりを受領した。蚊帳は細長い一人用である。軍医、衛生兵、使役兵と私とは、二張のテントに分れて住むことになり、ここで一応病院関係の人間が揃ったので、G中尉はまず日課表をきめた。朝飯七時、昼飯十二時、晩飯五時。午後六時半には必ず蚊帳を下すこと。昼寝の時間は、大体十二時から一時までで、それ以外の時、健康者がコットに横になっていることは許さぬ。水浴時間は、病人は必要に応じていつでもいいが、健康人は午後二時ということになった。病院は、前にも書いた通り、海岸にあり、正面の入口から二、三十間も行けば海になる。病人は、どこでもそうだったが、マラリア患者と下痢患者が大多数で、尾籠びろうな話だが、垂れ流しがあり、そんな人達は衛生兵がコットごと、あるいは担架に乗せたまま、海の中に入れて身体を洗ってやる。軍医の方が残念ながら、どうも一生懸命にならぬ傾向があり、G中尉もはじめの間「米国陸軍としては、早く患者が治って帰国出来ることを念願し、そのためには必要な薬品は出来るだけ入手しようとしているのだ。癒すも癒さんも日本の軍医の責任であるのに、どうも熱が足りないように思われる。日本の軍医とはこんなものなのか。同じ日本人でありながら、どうしてこう冷淡なのだろう」といっていたぐらいであったが、衛生兵の方は実によく患者の面倒を見た。もちろん数は多く、中にはひどい人間もいたには違いないが、僕と一緒にいた人達の絶対多数は、骨身を惜しまず働いた。これには、日本の軍医制度そのものに欠点があったのかも知れない。たとえば開業十数年で学位を持っている人が応召すると見習士官で、はるかに年齢も下で、経験はほとんど皆無でも、軍医学校を出た者が中尉だったりして、「くさってしまう」場合が多かったのだろうが、それにしても、兵隊の命を粗末にするとしか考えられぬことや、いかにも親切気が足りぬと思われることが度々あった。軍医側にして見れば、僕が素人であるがゆえに、死とか苦痛とかに対して、素人的に過敏なのだというかも知れない。そのいい分も、一応は立つが、まんざら、そうばかりともいえない。やはり妙な階級意識が、兵隊の生命を軽く見る傾向を生じたのではあるまいかと思われる。夜中に病人が変なことになると、その幕舎を受持っている衛生兵は、まず僕を起しに来る。直接軍医のところへ行っても、相手にしてくれないからである。僕が軍医に起きて貰って、一緒に患者を見舞うのだった。
 具体的の例をあげよう。一人の兵隊が、夜中の一時ごろに、変な風になった。マラリアの熱が頭に来たらしく、青年学校の校長がどうしたとか、灯火が暗いから蝋燭をつけろとか、大声でわめくのである。それでありながら、自分が病院にいることは知っていて「衛生兵殿」と呼びかけては、何かと哀訴嘆願する。僕にして見れば可哀相で仕方がない。何とかしてやれないものかと思うが、軍医殿は平気らしく、事実手の打ちようがないのかも知れないが、優しい言葉ひとつかけるでもない。下らない素人のセンティメンタリズムか人道主義かは知らぬが、同じ日本人が、同じ捕虜という境遇に陥って、高熱のために頭が変になっている――この患者は両三日後に死亡した――のに対して、無関心でいることが科学的の態度であるならば、僕はそんな科学はすててしまった方がいいと思う。風がビュービュー吹いて、テントの布をバタバタいわせる夜半、裸蝋燭を手でかこって、こんな病人が狂うのを見ると、まったく暗い気持にならざるを得ない。同時に僕は、しばしばワルト・ウィットマンを思った。何もウィットマンを気取った訳ではないが、ウィットマンも何度かこんな経験をしたのだな……と考え、かつて平和の日、わざわざキャムデンまで彼の旧宅を見に行ったことなど思い出した。
 別の病人は、朝の四時ごろ、きまって変なことをいい出すのだった。自分の左脚が細く細くなり、見ているうちになくなってしまうという恐怖を、九州弁で説明する。「見て下さい。脚がなくなるではありませんか。早くどうかして下さい」と泣声を立てる。医療的には、どうすることも出来ないのかも知れず、また相手になることは、却って悪影響をおよぼすのかも知れないが、狂っていても話せば分るので「大丈夫、そんなことはない」というと「でも、見ている内に無くなります。ああ、もう無くなってしまいました」と泣くのである。僕は夜光時計を見せた。「今、五時ちょっと前。六時半には朝飯を持って来てあげる。朝飯を食えば、君の脚はもと通りになるから、安心していたまえ」といって聞かせると「そうでしょうか。お願いします」と、静かになるのである。「あれも人の子樽ひろい」というが、妻子もあるに違いない老兵が、痩せた股と脚を撫でながら、それが無くなってしまったなどというのを、黙って聞いている訳には行かない。
 だいぶん後の話だが、中部ルソンから東海岸をめざして山の中に逃げ込んだ兵隊が、多い時は十数名、すくない時は三、四名と、収容所に現れるようになった。われわれみたいに、団体として、米軍と打合せて投降したのではないから、諸所方々で持っている物を取られたり、食物と交換したり、それだけでも惨憺たるものだが、多くは栄養不足と病気とで、見る影もない哀れさである。中には即刻入院させねばならぬ人がいるのだが、その判断がわれわれにはつかぬので、軍医に見て貰うことにした。すると、一人の軍医は、何と思ってか、ひどく乱暴な口を利くのである。部隊はどこだとか、階級は何だとか、簡単なことを質問されても、頭がボンヤリしているのでとんちんかんな返事をするのがいる。「何をいうのか。誰がそんなことを聞いているか」とか「この間抜野郎」とか、聞く僕としては、医は仁術であっても、兵隊に対する軍医は、すくなくとも、このM大尉は、断じて仁者ではないことを、しみじみと感ぜざるを得なかった。疲労困憊している人間に優しい言葉をかけると、ガックリ行ってしまうといって態々激しい言葉で叱り飛ばすということは聞いているが、この軍医殿のは、そんな風に「気合をかける」のとは違い、単に将校対兵隊の馬鹿威張りを一歩も出ていない。米軍の給与を受け、身体も丈夫な――しかも時々、給与のビスケットでは足りないなどと、僕に文句をいった――人間が、立っていることもようやくと思われる人間に、こんな意味のない威張り方をすると、僕は実に腹が立つのだった。
 患者の水浴から話が横にそれた。われわれは二時になると、ほとんど裸体になって柵内に並び、番号をとった上で、正門を出て海に入る。米国の兵隊が小銃を持って見張っているが、それはわれわれが逃げるのを防ぐよりも、比島人が悪さをするのを防ぐためであった。砂浜はきれいだし、海もきれいだし、遠く近くに浮ぶ島々を見て、大きな波に打たれながら、身体を洗ったり、洗濯したり、泳いだりするのは、すこぶる快適だった。ただし塩水で、あとがべとつくことは、やむを得なかった。
 ところが、ラロから婦女子が移って来るにおよんで、水浴が問題になった。時間は午前十時、場所は病院から五、六町西へよった所、と決めたG中尉は、「警備の兵は、一同が水浴している間、陸の方を向いているべし」と命令して笑った。それで問題は解決した訳だが、どういう理由か、いわゆる婦女子はあまり海に入らなかった。波が怖かったのかも知れない。
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ビンタ事件



 われわれがアパリへ行った翌日だかに、実に恥しい事件が起った。
 G中尉は毎朝八時には病院に来て、僕を随伴して、各幕舎から便所から塵埃棄場から、すっかり見て廻るのだった。病舎を見廻る時には、M軍医大尉が、ここでの最上級士官としてついて来たが、この朝一つの幕舎から他の幕舎へ行く途中、誠に下らぬことで興奮したM大尉は口返答をしたという理由でA兵長のビンタを張った。するとA兵長も黙ってはいず、M大尉につかみかかった。大きに驚いたG中尉は警備兵を呼び「上官はいかなる場合にも部下をスラップしてはならぬ。スラップせねば命令に従わせ得ぬような上官は、上官たるの資格を全然欠いているのだ。部下が上官と争うことも言語道断である。二人は一日の絶食を命じる。今後二人が撲り合うならばさらに厳重に処罰する」と申し渡した。
 その午後、G中尉は僕にいった――「米国陸軍では絶対にスラップすることを許さないし、軍服の袖を引っぱっても罰せられる。しかるにM大尉は部下をスラップした。あんな野蛮なことが日本の陸軍では行われるのか」と。僕は「日本の軍隊では、スラッピングは非常に簡単に、かつしばしば行われる習慣であり、撲る方も撲られる方も、そう重大に考えないのである。今朝、兵隊が将校を撲り返したが、あれは日本軍がこんな状態になって、軍紀モラールを喪失したことを、如実に示している。人間としてのM大尉とA兵長についての批判は、私はこれを避ける。見ておられれば、御自分で批判出来ることと思うからである。だが、何にしてもスラッピングはいい習慣ではない。比島人は最もこれを嫌い、日本軍も比島人をスラップしてはならぬと教えたが、習い性になって、よくピシャリとやっては問題を起し、怨恨リゼントメントの種子を蒔いた」といった。
 この、G中尉のいわゆるMインシデント〔事件〕それ自体が、僕には顔から火の出るほど恥しかったが、翌日、それに輪をかけたようなことが起り、僕は古風な物のいい方だが、全く穴があったら入りたいような気がした。G中尉はやって来るなり、M大尉を呼んでくれといい、今から自分のいうことは逐語(word by word)翻訳しろと僕に命じた。日本軍隊におけるスラッピングの習慣については、昨日石川から聞いた。さらにアパリの仮収容所で、昨晩、向うにいる通訳を通じて、T中将の意見を聞いた所が、石川とまったく同じことを答えた。すると、自分はM大尉とAとに、USアーミイの習慣に基づいて罰を加えたことになる。習慣の相違を知らずに処罰したことは、自分の間違いだから、これを取消す……というのである。まだ若いG中尉のこの態度と言葉とに、僕はこれはかなわないと思った。
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DDT



 G中尉はボストンの人で、M大学の二年の時、陸軍に入った。一体僕はいくつに見えると聞かれて、大体二十四というところでしょうと答えたが、まさにその通りであった。非常に真面目で、誰にもましてよく働いた。例えばある朝、水運搬の車が来ず、リスター・バッグが全部からになった時の如き、何度も何度も本部に電話をかけて催促し、昼飯のために本部に帰るや否や「まだ水は着かないか」と、病院に電話して来た。丁度その時トラックが着いたので、当番の米兵曹長がその旨答えたが、仕事については、こんな風だった。
 僕等より一足さきに、病院に着いたM中尉は、英語が出来ず、薬の話などするのに困ったが、G中尉が薬名が分らないと、例の亀の甲みたいな化学記号を書くので「あの人は薬剤師か何かではないでしょうか」といっていた。そのことを話すと「僕はM大学を出たら、ハーヴァードの医学校に入り、医者になろうと思っていた。従って化学の勉強もしている。日本が戦争を起しさえしなければ、僕は今ごろはドクターになっているのだ」と笑って答えた。
 病院での衛生兵の仕事の一つに、DDTの撒布があった。五ガロン入の丸缶の内身を、ドラム缶入のディーゼル・オイルとまぜ、別のドラム缶と、交互に入れかえること二十回、長い竹の棒でよくかきまぜた上、二十四時間放置したのを霧ふきで、ふきかけるのである。すごく利く殺虫剤で、現在は、まだ、一般市場には売出していないとのことであった。その後DDTに関して色々と聞いたことを綜合すると、大体次のようである。わが国でも進駐軍が方々で使用しているので、このごろはDDTのことが、新聞や何かに時々出る。参考のために、聞いた話を書いておく。
 DDTは DICHLORO-DIPHENYL-TRICHLOROETHANE の略称である。一九四二年、フロリダ州のオルランドで、陸海軍と農林省とが――それも極めて少数の軍医と昆虫学者だけが知っていた――試験を始めたが、結果が良好なので、北アフリカ、ナポリ等の戦線で使用し、サイパン島では、上陸前に、飛行機からこれを撒いた。市販の殺虫剤は多いが、DDTはそれ等のどれとくらべても、殺す虫の種類が多いこと、殺虫率がほとんど百パーセントであること、一体どの位長い間有効なのか、まだよく分らぬ程、有効期間が長いこと、という三つの特点を備えている。
 この第一と第二の特色で、人間に一番害をするしらみ、蚊、蠅の九五ないし一〇〇パーセントをDDTは殺す。虱はチブスを、蚊(アノフェレスと一筋まだら蚊)はマラリアとデングを媒介する。普通の家蠅は色々の細菌をはこんで廻るが(すくなくとも三十種類の病菌が蠅によって伝播される結果、北米合衆国で一年に七万五千人の死者を生ずる由。米国みたいに衛生設備のととのった国でこれだとすると、他の国では大変な数になるであろう)これ等三つの害虫に対して、DDTはひとしく有効である。
 蚊については実際の数が分っている。一九四四年、アーカンソー州のスツットガート市で、一八平方マイルの地域にDDTを撒布した。スツットガートは蚊が多いので、米国での「蚊の首府」と呼ばれているそうだが、DDTを一回まいただけで、この一八平方マイル区域外の建物一につき、成育した蚊が平均三〇九匹見出されたに対して、区域内では、たった三匹しかいず、しかもこれが五、六、七、八、九の五ヶ月にわたってのことである。
 第三の特色、即ちDDTの有効期間の長いことについては、次のような話がある。一九四二年オルランドの研究所で、木綿のシャツの袖に、DDTの五パーセント溶液をつけ、それに毎朝、「健康な虱ヘルシー・ライス」の一群が植民された。翌朝検査すると、虱は一匹残らず死んでいる。それに、また「健康な虱」の一群を植えつけ、翌朝調べると、これまた全部死んでいる。これを毎日繰返すこと、六百十九日(報告書作成の日)、その間にこのシャツを八回洗濯したが、DDTの効力は一向減っていない。だから、DDTの有効期間は、まさか無限ということもあるまいが、とにかく非常に長い。(一言お断りしておく。ここにあげた数字は話を聞いてすぐノートしたので、万、間違いはあるまいと思うが、かりにあったとしても、ひどい違いはないと信じる。この点、読者諸兄に安心して頂けると思う。)
 ところでDDTは誰がつくったかというと、今から七十年もの昔、ドイツの一化学者が作ったのが最初である。何という人かは聞きもらしたが、彼は単にその化学的構造を記載したのみで、何もしなかった。飛んで一九四〇年かに、スイスのJ・R・ガイギーという会社が、家畜にたかる蠅を殺す薬を製造し「ゲサロール」と名づけて販売したが、それは七十年前、ドイツの化学者が発明したものの商品化だった。これが米国へ渡ったについては、色々と面白い話があるらしいが、あまりはっきりしないから、ここには書かぬことにしよう。
 このDDTを毎日、便所やゴミ棄場を始めとして、各病棟に撒布するので、蠅や蚊はまったくいなくなる。その後、アパリの収容所でも同じことが行われ、最後に移されたマニラ南方の収容所でも、DDTは盛んに使用された。最後の収容所といえば、そこに着いて毛布を受取り、一晩寝て起きると、身体がムズムズする。話をしていた本社の同人が、「石川さん、失礼」といって手をのばし、僕のシャツの襟から虱を一匹つまみ上げたにはゾッとした。それでDDTの撒布係が来た時シャツの背中にふっかけて貰った。この薬は身体に附着するとかぶれるといい、従って衣類に付くことも警戒していたが、僕はオルランド研究所での話を聞いていたので「いいんですか」「大丈夫」という訳で、シャーシャーやって貰った。果してその後、虱は一匹も発生せず、帰国のリバティ船では千五百人の兵隊とゴロ寝で、その兵隊の中には、甲板での虱潰しを日課にしている者も多かったが、僕には虱がつかなかった。驚くべき薬が出来たものである。なお米国で雑草や有害植物を根絶すること、DDTの害虫におけるのと同様に強力な薬が、戦争中に発明製造されたとのことで、その話も聞いたが、折悪しくノートを持っていなかったので、詳しいことは忘れてしまった。ただ、DDTが利き過ぎて、たとえば花粉の媒介をする有用昆虫も殺してしまうように、この薬も、また、有用植物をひっくるめて枯らすので、撒布方法に深い注意を払わねばならぬという事実は、興味深く聞いた。DDTの話はこのくらいにしておくことにする。
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兵隊と民主主義



 アパリの海岸病院は長く続かなかった。というのが、折から九月下旬の颱風季で、海が荒れ始め、とうとうしまいには波が病院構内に打込むようになった。病院といっても、砂の上にコットを並べただけなので、幕舎によってはコットの下を波が洗い、砂地ではあるが、所々に水溜りが出来た。砂が水を吸い込む程度以上に、水が入って来るのだから、始末が悪い。ある朝、トラックがドンゴロスの袋を何千とはこんで来て、われわれ健康者は総出で砂嚢をつくり、三個積み上げたものを二列にして、病院の正面海岸に並べたが、波はそれを飛び越したり、洗い流したりする。午後遅く颱風警報が出るとともに、G中尉は、今晩中に病院を移転しようと決心した。丁度、颱風のピークが、この地区を通過するのが深夜で、それが同時に満潮にあたる。愚図愚図していると、病院が流されてしまうかも知れないのである。それで、晩飯が終ると、トラックが続々とやって来た。正面は波が打込んで通れないので、裏の方の鉄線を切って出入口をつくり、まず婦女子をはこび出し、次に担送患者リッター・ケース独歩患者アンビュラトリーとをはこんだ。吹き降りの夜、僅かな懐中電灯とヘッドライトとで行うこの作業は、病人相手であるだけに、ある程度の混雑を伴ったが、みんな一生懸命にやったので、二時間で片づき、最後にG中尉と僕とが、構内くまなく見廻って異状なきを確かめ、それで海岸の病院は閉鎖になった。
 移転さきは、同じアパリの海岸だが、自然か人工か、高さ二間ほどの堤防があるので、海は見えず、もちろん波が打込むというような危険はない。
 それのみか、前の敷地が、草のまるで生えていない砂地で――防風みたいな草が若干あったが食って見たら苦かった――風が吹くとこまかい砂が食器やコットの中に舞いこんで弱ったが、今度の場所は草地でしかも水はけがよく、この点めぐまれた。
 アパリのストケードは広かった。柵はなくて、アコーディオン・ワイヤをめぐらし、その外側に十二のポストを置いて比島兵が警備していた。アコーディオン・ワイヤというのは、路上に横たえて自動車等の通行を邪魔する有刺鉄線で、捲くと小さくなり、引張ると延びる具合が手風琴アコーディオンに似ているので、こう呼ばれる。鉄線の外、ところどころに電灯がつき、なお電灯は正面入口――といって、出入口は一つしかない――や診療所、その他二、三の幕舎にも引いてあった。
 正面入口から向って右に二列に並べた天幕が病院、その前の広い通路をへだてた左側とつきあたりにズラリと並べた天幕が、一般PWの住所、便所と塵埃焼場は、正面を除いた三方に適宜に配置され、非常にしばしば埋めては新しいのを掘った。便所はいわゆるラットリン(聯繋便所と訳す)。バーラップでかこい、長い板二枚を固定し、一尺ほどの間隙には、針金を取手とする可動式の板を置いて蓋とした。使用後は空缶で砂をかけ、蓋をする上に、毎日例のDDTで消毒するから、きれいなものである。塵埃焼場も深い穴で、可燃物と空缶類とは別々の穴に投入れることにした。そしてHという衛生兵が、毎日ガソリンか重油を注いで焼くことを仕事にしていた。
 Hは床やさんである。海岸の病院で、あまりに頭の毛の伸びた者やすごい鬚面が多かったので、特にラロの仮収容所から呼びよせた。米国の兵隊は身ぎれいにしている。鬚なども丁寧に剃っている。実は僕自身も、二十数年間来、毎朝鬚を剃る習慣であったが、逃避行の間に乃木大将みたいに鬚が生え、収容所でもその癖がついて、剃刀(安全剃刀は持っていても差支えなかった)を使うことが、ひどく億劫になってしまった。ある時、三日ばかりも鬚をそらずにいたら、G中尉に注意された。「身体的清潔の手本にならねばならぬ君がそれでは困る」といわれ、早速H君に剃って貰い、その後は出来るだけ、身ぎれいにするようにした。タオルや手拭を首にまいたり、鉢巻をしたり腰にぶら下げたりすることもやめるようにしたし、服なども出来るだけ修理するように、お互に注意した。これは病院だけの話ではなく、仮収容所全般を通じてのことである。
 というのが、海岸から移って行った仮収容所の、一般PWの方は、その後転任になったが、DというS大学出身の中尉が長をしており、病院の方は、すでに御承知の通り、G中尉が長だった。そして一般ストケードに兵隊さんの通訳が二人、病院の通訳は僕だったが、年齢の関係か、僕に両方ひっくるめての首席通訳になれといわれ、単に通訳であるよりも、一種の総支配人みたいになってしまった。京大出身のT中尉と東大出身のW軍曹とが主になって収容所のアドミニストレイションに当っていたが、二人とも気持のいい人で、愉快に仕事を手伝ってくれた。
 W軍曹はハーモニカが上手だった。夜など、よくハーモニカをふいたが、流行歌からいわゆる軽音楽、ビゼーはまだよしとするもワグナーまでハーモニカで吹きこなすには、少々吃驚した。レコード仕込みにしては、大したものである。ある晩の如き、僕はマイスタアジンガーの話に夢中になり、十二時近くまで喋舌しゃべり込んだ。捕虜収容所でも、みんなとんがらがっていたばかりではない。その後の経験によっても、アパリのここが、一番和気藹々としていたようである。G中尉の厳格ながらリベラルな態度が、このような雰囲気をかもし出したのである。日本側の捕虜収容所で次々に起った虐待事件が、あかるみに出ているが、もし米国で、模範的捕虜収容所長を表彰するようなことがあれば、僕はG中尉をその候補者にあげようと思っている。別して、初めて米人に接する日本の兵隊に、真のデモクラシーが如何なるものであるか、身をもって教えた、いわば、無言の教訓は、大きなものである。「米国では将校でもあんな風なんだな」とか「日本の将校とはまるで違うな」とか、よく兵隊が感心していた。物を書いたり、ラジオで放送したりするよりも、わが国の民主化に、この方がどれほど効果的であるかは、いうまでもない。
 D中尉がS大学出身、G中尉がM大学というので、ラロで聞いた話を思い出し、「この大隊の将兵の八〇パーセントはカレッジ・グラデュエートだといいますが」と質問したら、大学卒業生や大学生が他にくらべて多いことは事実だが、八〇パーセントは少々話が大きすぎるとのことだった。兵隊の噂話は、どの国でも似たりよったりだと思った。
 この両中尉の上に、Mという少佐がいた。いかにも精悍そのもので、いつも乗馬用の鞭を持って歩き、初めは近より難いような感を与えたが、追々と英語でいわゆる「ドライ・ユーモア」の持主であることが分った。
 これは、ユーモアとは何の関係もない話だが、ある時、北部ルソンの山の中を三週間あまり、食うや食わずで迷い歩いた兵隊が七、八名、比島人につれられて収容所に着いた。元来ここの収容所には、カミギン、フガ、ダルピリ、カラヤン、バブヤン、バタアン群島――最後のは全く同じ名なのでよく混同されるが、マニラ湾の西北方にのびているバタアン半島とは違う――等の、バシー海峡の島々からの捕虜が多く、空襲を受けたことを別として、戦闘はしていない上に、舟艇で直接アパリに着いたので、装具はたっぷり優秀なのを持っており、元気もよかった。これにくらべると、山の中を歩き廻った人達は、惨めなものである。この数名も、半分はすぐ病院へ入れた程弱っていた。それでも一行中の中尉と少尉とは、いくらかしゃんとしていたが、着いた翌日、M少佐の所へ若い将校が四、五人来て、収容所を見学し、質問したいことがあるが差支えないかとG中尉に申込んだ。G中尉は「紳士諸君がサード・ディグリー〔拷問〕さえやらなければ……」と冗談をいった上で、二人の日本側の将校を呼んだ。収容所を入ってすぐ左手の天幕を、我々は事務所にしていたので、そこに二人は現れた。長い机をへだててベンチと椅子若干。机の上にはルソン島の地図がひろげてあり、M少佐は机の一端に、僕は彼の右に坐り、米軍の将校達はその辺に立ったり坐ったりしていた。
 伝令に導かれて入って来た二人は、どんな目にあうのか分らないので、オドオドしていたが、「お坐りなさい」とベンチに腰をかけさせ、シガレットなど渡してから「いつ、どこで、どんな戦闘をしたか」「その時の数はどのくらいだったか」等、軍人の質問らしい質問がいくつかあった上で、大体、どこからどんな道を通ってここに来たかという質問が出た。詳しいことをここに書く必要はないけど、とにかく大変な密林の中を、雨に叩かれ、増水した渓流を数十回も徒渉としょうし、病死者や渓流に溺れた者が次々に出る……という逃避行をしたのである。すると一人の中尉が「それは苦しい行軍だったろう」といった。その言葉が終るか終らぬかに、M少佐が「これはどうだ?」How about this ? と、ひとりごとのように低い声でいって、シャープ鉛筆の尻で、コツンコツンと地図をたたいた。見ると鉛筆の尻は、サンフェルナンドの附近に当っている。バタアンからカバナツアンに至る、いわゆる「死の行軍」を意味したのである。将校達には、これが聞えなかったらしく話はいつか、まるでほかのことに移って行き、日本の将校はポカンとしていた。
 米国民のわが国に対する憎悪の念は相当に強いものと思わねばならぬ。だが米国人は執念深く怨みを持ち続けるような人々ではない。いつかは戦争のことも忘れるであろう。しかしバタアンの「死の行軍」と、真珠湾の奇襲(米国人はスニーク・アタックと呼んでいる)とは、いつまでも彼等の心に残ると思う。前者は日本人が残酷であるということで。後者は日本人が決して信用することの出来ぬ国民だということで。(Sneak という語は小さな英和辞書にも出ているが、こそこそと小悪事をはたらいたり、裏をかいたりすることである。)
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投降勧告



 話はかわる。九月二十九日、突然ゴンサカへ行けという命令が出た。アパリからちょっと南へ下り、東方へ入ること約四十キロの地点の町がゴンサカで、その附近の山中に日本兵が四、五十名出没し、掠奪を働くという情報が入った。恐らくこれ等の日本兵は、終戦を知らぬらしい。彼等と連絡し、投降を勧告せねばならぬ。ついては日本軍の将校を派遣し、僕に通訳として同行せよというのであった。日本の将校が日本軍と連絡するのに、通訳を必要とするのは変だと思ったが、これは僕の誤解で、事実は次にお話しするようなものだった。
 若い少尉二人と一緒に僕はトラックに乗り、比島兵が一人、警衛に乗込んだ。大隊本部へ行くと、M少佐が玄関に出て来て改めて命令を伝え、別の少佐(太った人で工兵の襟章をつけていた)がジープを運転して走る後から、トラックはついて行った。五号幹線を外れると、ひどい路で、僕の身体は何回か宙に飛び上ったりした。後でG中尉にこの話をしたら「そうだろう、あの路はトーチュア・トレイル〔拷問街道〕という位だ」といっていたが、まったく骨がバラバラになるような気がした。
 ジープから随分遅れてゴンサカに着くと、ここは静かな、豊かそうな町であった。ジープを取巻いていた比島人が数十名、今度はわれわれを取巻いた。ゴンサカ町長の話で、日本兵はここからさらに二十キロばかり離れた山中に、直径約十キロにわたって出没すること、はじめアパリに伝わった情報とは違って死傷者は出ていないこと、比島人を襲撃したことなどなく、食物をさがしに空家荒しをやっていること等が判明した。その地点に一番近いバリオ〔村・区〕は、ここからトーチュア・トレイルを二キロほど引返し、南方へ小径をたどること数キロの所にあり、ゴンサカ町長はそこのバリオ・プレシデント宛に手紙を書き(イロカノ語であって、僕に理解出来たのは「日本将校二人」ということだけだった。ついでだから書いておくが、比島には方言が沢山あるが、「数」はどの方言でもほとんど同じである)、「日本将校二名がこれこれの用向きを帯びて貴地に赴くについては、十分保護して目的達成に助力してくれ」と伝えるのであった。町長ともなれば英語はよく分る。僕に手紙を訳してくれた上、決して心配はないといった。さらにアパリから来た比島兵が、このバリオの出身者なので、案内と警備を兼ねて一緒に行くことになり、僕は町長にも、この警備兵にも、日本の将校が米軍の命令で行動するのであることと、全く武器を持っていないこととをよく説明し、万全の保護を依頼した。
 ところで、僕自身はどうするのか。若い少尉の一人は英語は分るが不完全である。僕は山の中に入るつもりで足ごしらえもして来たが、勝手に行動することは出来ない。工兵少佐に「自分はどうするのですか」と聞いたら「通訳はここにいるビジネスはない。アパリへ帰るのだ」とのこと。十月一日正午に、ゴンサカの町はずれにあるクリークの、向う岸にまでトラックをよこすから、日本兵はそこで投降すること。連絡が取れなければ、手ぶらのままでやはり十月一日にはゴンサカまで引返して来ること……このように話がきまり、少尉二人はCレーションを袋に入れて再びトラックに乗った。僕は途中で二人を降し、運転台に乗って日暮時、アパリのストケードに帰った。
 十月一日、僕は朝から落着かなかった。あの二人がどうしたかが心配になっていたのである。比島人に襲われていはしないか。友軍から射撃されてはいはしないか。連絡が取れたにしても、うまく説得することが出来たかどうか。ミイラ取りがミイラになって、山の中へ一緒に逃げ込んでしまったり、あるいは例の「玉砕」で刺しちがえて死んだりしたのではあるまいかなどと、年よりにありがちの取越苦労という奴で、あれやこれやと思いめぐらすのであった。約束の一時までにゴンサカに着くためには、遅くとも十時には出発していなくてはならぬ。しかるに十時が十一時になっても、正午を過ぎても、何の話もない。前に書いた通り、我々は入口のすぐ左手のテントを事務所にしていたので、僕はここを離れず、三時頃までも入口に注意を払っていたが、それらしい投降者はやって来ない。すると三時半頃、一台のジープが走って来て、すぐ大隊本部へ来いとの命令である。本部まで五分もかからない。着いて見ると、ガランとした部屋にゴンサカへ行った少尉が二人、落着きなく立っており、その一隅ではM少佐が大きな声で電話をかけている。「どうしました」と聞くと「連絡出来ませんでした」と答える。やがてM少佐が電話を終り、工兵の襟章をつけた太った少佐も、どこからか葉巻をくわえて現れると、報告が始った。詳しい地図を書いての説明によると、山の中を小川が流れており、その支流、分流の各所に民家があり、住民はエヴァキュエート〔避難〕して空家になっている。日本兵はその家々を転々として訪れ、ある家には宿泊し、ある家では炊事した形跡があるが、炊事の後などから判断すると、すくなくとも、ここ二週間はこの附近に来ていないらしい。所定の時日が迫ったので、それ以上山中に入ることが出来ず、主要な家四軒に貼り紙をして来た。もう一度引返してよければ、何とかして連絡を取るとのことだったが、M少佐は、今の所はそれでよかろう、これ以上することはないといった。
 ストケードに着くや否や、僕は二人に聞いた。「比島人はどんな具合でしたか」と。二人とも無事に帰って来た以上、襲撃事件などがなかったことはもちろんだが、それにしても、どんな扱いを受けたかは「ドロボー、バカヤロー」が盛んであるだけに、僕が最も関心を持っていたことなのである。ところが、これは二人にとっても意外なことだったらしいが、実によくしてくれたそうである。比島兵は親切だったし、バリオ・プレシデントは自分の家に泊めて、毛布がわりの布をかしたばかりか、飯を炊いてくれた。Cレーションはおみやげにして皆で食ったが、向うでも、おかずをつくったし、果物や酒も出したという。僕はゴンサカで数十名の老幼男女に取りまかれた時、すでに感じていたが、米国の少佐もドライバーもどこかへ行ってしまい、つまり僕を保護する立場の人は一人もいなかったのだが、何らの敵意を示すものもいなかった。これ、あるいは僕が米軍の通訳であることが知られていたが故であるかも知れず、また誰が見ても僕がシヴィリアンであることが分ったからであるかも知れない。しかし山に入った少尉二人の場合は違う。第一、二人とも軍服、それも島から来たのでパリッとした新品を身につけている上に、階級章までつけている。また一人は、英語は出来るが、片言程度であり、イロカノ語にいたっては僕以上に知らないのだから、自分等の立場を説明することなど困難だったろう。すると、これは、ゴンサカ町長が引受けたことが正しく、かつ厳重に守られたのと(「そして」、ならびに「あるいは」)この附近に、もし米軍上陸以前に日本軍が駐屯したことがありとして、その軍がよほど比島人に対して正当、かつは人道的な態度をとっていたかの、一つ、あるいは両方が原因していると思う以外に解釈はつかない。何にしても気持のいい話である。
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収容所の生活



 アパリのストケード生活も、いつか軌道に乗って来た。朝、病院側から移動の報告があり、その人数に応じた糧食の配給が行われる。衛生兵が Ten-in-one の箱をかついで病院事務所に集まり、そこで箱をあけて、幕舎別にビスケットや缶詰を分配する。流動食を必要とする病人のために簡単な炊事場が設備され、ここで熱いスープや前に書いたシリアルを煮たものなどが調理された。G中尉の心づかいで濠洲産のコンデンスド・ミルクが贈られたこともあり、重病人や赤坊たちは大よろこびであった。
 病院側が終ると、次には一般PWからの申告があって、同様のことが行われた。食物は豊富であり、水も十分にはこばれた。
 僕たちはストケード内の清潔と衛生に全力をそそいだ。その結果、大きくいえば塵ひとつとどめぬ程きれいになった。それについては、こんな話がある。
 ある日、若い将校が二、三人参観に来て、G中尉と僕とが案内をした。一人の将校は構内が非常に清潔なのに感心して、「米軍のキャンプでも中々こんなにきれいではない」といった。G中尉は少々くすぐったかったらしく「そういってくれるのは有難いが、ここにいるのはPWで、ほかに何もすることがなく、掃除ばかりしているから、こんなに奇麗なのだ」といった。
 ある時用事があって米軍の事務所(柵外)へ行くと、机の上に読み古した本が一冊おいてあった。オニイルの LONG JOURNEY HOME である。僕はとびついて「これを貸してくれないか」と当番の兵隊にたのんだ。「誰のだか知らない、持って行きなよ」との返事に、僕はよろこんで自分のテントに持って帰り、夢中になって読んだ。僕にとっては、なつかしい本なのである。
 恥をあかせば「ロング・ジャーニイ・ホーム」がオニイルの海洋小説集であることを、僕はアパリの収容所で初めて知ったのである。マニラで沢村勉君〔シナリオライター、当時報道班員としてマニラ在〕にすすめられて一緒にこの映画の特別試写を見て、監督ジョン・フォードにすっかり感心したのだが、少々遅刻したために、当然原作者の名が出ているはずの字幕を見落し、所々、これは何時か何処かで読んだことがあるな……等と思いながら、実はそのころある事情から映画の「演出」方面に興味が片よっていたので「原作」にまで注意が及ばなかった。その原作を、図らずもここで読むことが出来たのである。僕がよろこんだのも無理ではあるまい。
 フォードの作としては、もう一つ HOW GREEN WAS MY VALLEY を、これもマニラで見た。「タバコ・ロード」と「怒りの葡萄」もフォードが手がけたことは知っていたが、この二つは見る機会がなかった。僕はここでフォード論をしようとは思わない。「家路」と「緑の谷」〔「わが谷は緑なりき」〕とでフォードが並々ならぬ人物であることを知ったと書くだけで、今の場合、満足しなければならぬ。話は面白い方向に展開して行くのである。
 夢中になって「ロング・ジャーニイ」を読んでいた僕は、G中尉が横に立っているのに気がつかなかった。「そんなに一生懸命になって何を読んでいるのか」と声をかけられ驚いて立上り、オニイルもさることながら、ジョン・フォードに惚れ込んだことを話すと、G中尉もフォードの崇拝者を、場所もあろうにアパリで、しかも捕虜の間に見出したことに驚き、M大学でフォードの息子と同室であった関係上、父のフォードもよく知っているといった。「こんな本をどこで手に入れた」「オフィスの机の上で」……G中尉はタイトル・ページに書いてある名を見て「この兵隊は帰国した。本は置いて行ったのだろう。君が読み終ったら僕も読みたいから廻してくれ給え」といい、その日はフォードの話をしながら構内を巡視した。
 G中尉は「ロング・ジャーニイ」と引かえに A TREE GROWS IN BROOKLYN という小説をかしてくれた。その後映画雑誌の古いのを見ていて、これも映画になったことを知った。この二冊と、バギオに逃げていた時読んだロバート・ネーザンの ONE MORE SPRING と、その後上陸用舟艇で読んだ THE MOUNTAINS WAIT ――ナルヴィックの市長だった人が書いたナチ治下のノルウェーの話――との四冊は、それぞれ異なった意味で僕に深い感銘を与えた。逃避行の間に、またPW生活にあっても、いい本を読むことが出来たのは、僕のよろこびであり、米国が文化問題について深い考慮を払っている証明にもなる。というのが LONG JOURNEY も A TREE GROWS も、特に遠征軍の将兵用として著者と出版者の許可を受け、小型の仮綴に複製したものなのである。雑誌類も広告を取りのぞいた小型版が沢山出来ている。このようにして容積と重量とを節約した本や雑誌をフンダンに前線に送る。日本文化を南方に紹介するとは名ばかりで、将校用の料理屋に敷く畳を送るのに船舶を用い、船が足りないから本が送れないなどといっていた日本は、何が精神文化の国だっただろうか。
 話は変るが Ten-in-one にはキャメル、チェスターフィールド、ラッキー・ストライク等の煙草が入っている。またチョコレートその他のキャンディも入っている。ところで前にも書いたように十人分を十五人で分配するので、煙草にしても菓子にしても、毎日全員に一箱ずつ行きわたる訳には行かず、殊に煙草は十本入と二十本入があるので、不公平になることを避けるため、それ等は全部引揚げ、一定数に達した時、改めて分配することにした。大体一人あたり一日六本ないし九本で、また菓子類は人によっては多すぎた位である。僕など煙草は別として、食物はいつも残した。今から考えると惜しいような気がする。
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墓参



 在留邦人の婦女子の中には、どこをどう歩いてか、マニラから来た女もいたが、その大部分は北部ルソンの、例えばツゲガラオや、また現に彼等が収容されているアパリで、雑貨商をいとなんでいたりした者の家族であった。そのアパリ組の一人が、ある時僕に次のようなことをいった。
「私はここで家を持ち、赤坊が生れたが、すぐ死んだので、ここの墓地にうめてあります。ここにいる間に一度墓参りをしたいと思うのですが、許してはくれないでしょうか。聞いて下さいませんか」
 承知しましたと答えたものの、いかにお墓参りとはいえ、収容所から外に出ることは、常識的に考えても困難である。それに米軍側があまりよくしてくれるので、甘えるように思われるのも心苦しく、僕はしばらくそのままにしておいたが、十月もなかばを過ぎ、どうやら移動がありそうな気配になったので、ある日G中尉に聞いてみた。すると考えていたこととは全く反対に、それでは兵隊をつけてやるから、今すぐ行くようにいい給えとのことで、その旨を伝えに婦女子のテントへ行った。僕は用事の関係上、すぐ引返して構外の事務所にいたが、ふと気がつくと、当の婦人を先頭に、五つになる女の子やお婆さんや、何と六人もゾロゾロと門から出ようとしている。私は「ア・ウーマン」といったのに、これでは「ア・グループ・オヴ・ウイメン・エンド・チルドレン」である。大きに話が違うので出かけて行き「お墓参りはあなた一人ではないのですか」とたずねると、「この人は赤坊が生れた時から知っているし、この人には病気の時親切にして貰ったし、この子は母親と一緒に行きたがって承知しないし……」という長話が始まった。「ちょっと待って下さいよ」と僕は責任上、もう一度事務所に引返し、丁度居合わせたG中尉に、「御覧の通りのパーティが出来てしまったんですが、かまいませんか」と聞いた。G中尉は「これは少々ツー・メニイだ」といって、入口の所へ行き、前から命令を受けていた米国兵一人のほかに比島兵一人に新たに命令を出し、都合二人の兵隊がエスコートすることになった。この老幼の婦人パーティはまるでピクニックでも行くように、嬉々として砂地の路を墓地の方へ歩いて行った。きれいに着かざった女の子や、日本でも近頃はあまり見受けないアッパッパを着込んだ婆さんやが構成する一団体が、ストケードから出て行く光景は、けだし珍妙なものだった。僕と、友軍投降勧告のためにゴンサカへ行った二人の若い少尉を除いては、ストケードから外出した日本人は、この一群だけである。
 外出ではないが、ここから南方へ移動させられたPWは多い。出て行く者に比して、入って来る者はまるでいなくなった。移動は時として一時に数百名にも達し、そんな時は我々はテンテコ舞をしたが、追々馴れて来て、短時間に手際よく処理した。病死者もほとんど無く、アパリのストケードには平穏な日が続いた。喧嘩口論などは、ただの一回も起らず、米軍側の命令はよく徹底した。G中尉は万事を僕にまかせた。僕はこの信任を裏切らなかった。これは天地神明に向って、大威張でいえることである。ある時の如き、G中尉は僕に向って「自分はこのストケードのほかに、米国兵の営倉も受持っている。そこには酔っぱらい常習の兵が一人入っているが、兵隊が三人自分の下で働いている。ここには三千人もいるが、ここの方がよっぽど世話がやけない」といった。
 この平穏をかき乱したのは、時々やって来る颱風である。猛烈な雨を伴い気温もまた下る。そんな時我々は褌まで濡らして、天幕の縄をしめ、杭を打ちこむのであった。しかし、海岸の病院とは違って、前にも書いたように堤防があるので、海水が入って来る心配はなく、下は草の生えた砂地なので水はけもよかった。それに、何より有難いのは、雨水で行水をつかったり、洗濯をしたりしたことである。ここでも天気のいい日には海水浴をしたが、どうも塩水ではサッパリしないし、それにこの海岸に近く、悪い底流があって、ちょっと危険なので、女や子供は海に入ることを躊躇していた。だから大雨は、一失一得を伴い得の方が大きかったかも知れない。
 特に颱風のひどかった翌朝、G中尉が「とてもおかしなことがあった」と話した。夜中に部下の兵隊が便所に行ったところが、天井にしてあるテントがつぶれ、周囲をかこっているバーラップ――日本の兵隊はドンゴロスと呼ぶ。これはオランダ語か何かかも知れない――も吹き飛ばされて、兵隊はクルクル簀捲すまきにされてしまった。もがいても動いてもどうにもならず、今朝便所がつぶれているので五、六人の兵隊が片づけに行き、エンヤエンヤと布を引張ったら、中からズボンを下ろしたままのねぼけた兵隊が、ころがり出したというのである。これはおかしかったろう。
 G中尉とはよく話をした。バタアン半島の「死の行軍」のあとは、証拠がために実地踏査をした。いまだに米兵の死骸がころがっている所もあり、比島人に何故埋めないのかと聞いたら、埋葬すると日本人が怒るからだと答えたという。マニラでの暴行から、さかのぼってはいわゆる「南京のレープ」に関する新聞記事まで想起して、日本人はどうしてこんなに残酷なのだ、人間とはいえないではないか。これについては、ニューヨークの有名な神学校を出たという軍の通訳、某に質問したところが、彼は「日本は正しいことをしたのだ」というばかりで、すこしも考えようとしなかった。しかも彼は軍の通訳として比島に来る迄は、教会の牧師をしていたという。とんでもない牧師がいたものだと、まだ若いG中尉は、本気になって憤慨していた。僕は「死の行軍」については何も知らず、マニラがどんなになったかも見ていないから、あなたの言葉をそのまま信用するよりほかに道はない。焦土戦術―― Scorched-earth policy という英語を僕は胴忘れしていたが、「あの、退却する前に、敵に渡すよりは、よしんば味方のシヴィリアンを犠牲にしても……」と僕がいいかけると、G中尉は、「ああ、君は Scorched-earth のことを意味するのか」と、即座にいった――は、ナポレオンのロシア遠征の時にも行われ、中国ではしょっ中あった。ロシアは「顔は西を向き、心は東を向く」と昔からいわれているように、多分に東洋的な心理を持っている。すると、焦土戦術は、あなた方西欧人には理解出来ぬ東洋人の心理かも知れない。南京事件も僕は従軍したのではないから、何ともいえないが、あの頃は underdog であった中国への同情が、実際よりも大きく、米国への報道になったのであろうことも考えられる。日本人はもともとそんなに残酷な人間ではない。モースの JAPAN DAY BY DAY は、よほど前から絶版になっているが、図書館にはあるでしょう。帰国したら読んで御覧なさいといった。(アパリを去る日、G中尉は忙しい最中に僕に向って「君がいつかいっていたセーラムの人の本は何といったっけ? これに書名と著者名とを書いてくれないか」と、手帳をさし出した。G中尉は本当に読むつもりだろう。僕は随分色々な将校と話を交えたが、G中尉ほど真面目に、真剣に、僕の考えを聞こうとした人は他にはいなかった。もっともそんな長話をする機会にめぐまれたのは、彼と共にあったアパリの仮収容所だけだったのも事実だが。)米国だって、かつてはニカラガあたりでひどいことをしたことがある。クライヴ、ヘースティングの時代に英国がインドでいかなることをしたかも、よく知られている。ただ、違う点は、米国でも英国でも、ある分子が行ったそのような行為を取りあげ、厳正に批判し、堂々と非難する別の分子が常に存在し、我々でも読むことが出来る書籍として発行されているのに反して、近年の日本ではそういう風な言論の自由がまったく閉鎖されてしまった。そこに英国や米国の、殊に米国の方に、僕が、すくなくとも今日までの経験によって、はっきりいえることだが、人道的の進歩がある。と、こんな風な話を夜更までしていると、いつか僕は自分がPWで、向うが収容所の所長であることを忘れ、いつだったかケンブリッジの寄宿舎で、若い学生と熱心に話しこんだことがあるが、それと同じような気持になるのだった。(ちょっとお断りしておくが、僕はテクニカルにはPW即ち PRISONER OF WAR ではなく、CI即ち CIVILIAN INTERNEE なのであった。しかしこれは法規上の区別で、僕のいた所は常に PW STOCKADE あるいは PW CAMP だったから、僕自身も、自分のことをPWと書いている。)
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水に浮ぶ



 アパリにも、G中尉にも、また親しくなった米国の兵隊数名にも、別れる日が来た。十月二十六日、あしたはこのストケードの全員がマニラへ移される、病人や婦女子にとっては、十数時間もトラックでゆられ、さらに無蓋貨車でマニラへ行くことは、とても大変だから、LST〔戦車揚陸艦〕で海路マニラへ送るようにする、そのことを伝えよとの命令が出た。何ということなくストケードは活気づいた。マニラへ行くということは日本へ帰れることを意味する。南へ下るのは、それだけ北へ近くなることである。あちらでもこちらでも、うれしそうな声が聞え、荷物の整理が始まった。僕は無茶苦茶に忙しくなり、自分の荷物どころの騒ぎではなかった。
 二十七日の朝、G中尉は早くやって来た。ここでも僕は最後まで残り、きれいに片付き、人員に完全にあやまりのないことを確かめてから、立去ることになった。テントは次々と倒され、たたまれ、ただ三つ残った倉庫用のテントに積み上げられた。コットも、蚊帳も、毛布も、タオルも、同様である。リスター・バッグも木の三脚から外された。一方T中尉とW曹長は、このストケードとLSTが横づけになっているカガヤン河の河口とを往復する数台のトラックに、人々をチェックして積みこむのに懸命になっていた。
 最後にT中尉以下の使役兵二十数名と僕だけが残った。G中尉と僕とは、最後の見廻りをした。便所と塵焼場の埋め残しが、それぞれ一つあったが、G中尉は別に叱言もいわなかった。単に使役兵に埋めることを命じ、それを待つま、ポケットからシガレット四箱とパイプ・タバコ二箱を出した。「これは君に上げる。君は非常によく働いてくれた。それからこれは……」と、機械化部隊の袖章を出した中尉は、「ヨーコにやってくれ給え」といった。いつか家族の話をしたことを記憶していたのであろう。三角形の中に、歩、騎、工の三兵科を示す赤と青と黒の三色があり、その中央にタンクと稲妻とが刺繍してある。僕は心から感謝して、「この袖章は必ず陽子〔著者の娘〕に渡します」といった。
 たった一台残ったトラックには、使役兵が全員乗って、僕の来るのを待っていた。G中尉は、僕も船まで行くといってジープに乗りこんだ。G中尉は前日も、またその日の朝も打合せのために、数回河口に行っている。もう行かないでもよさそうなものだが、一人残らず海軍に引渡すまでは、仕事が終らないと思ったのであろう。
 トラックは三十分ばかり走って、カガヤン河の河口に着いた。風が強く海からは黄色い波が打ちよせる。LSTが二艘、砂に乗り上げている。一艘は船尾がパクリと二つに割れて、そこから鉄板の舷梯が出ており、もう一艘のは左舷に、これも鉄の ramp が出ている。僕等はその後者に乗るようにいわれた。コンクリートの防波堤をすこし歩き、粗末な木の梯子で砂地に下りる。そこには比島人の子供が二十名ばかりいて、例のバカヤロー! をあびせかけた。
 G中尉も僕の船に入って来た。いろいろといいたいことがあるが、さて改まって何といっていいか分らない。おまけに用事が沢山あり、それにまぎれている間に、G中尉はどこかへ行ってしまった。
 このLSTで「ハロー・イシ!」と声をかけたのが、後で名前を知ったのだが、副長のB中尉である。年はG中尉と同じ位だが、実に楽天家らしくふとっていて、はじめから百年の知己の如く僕を扱ってくれた。恐らくG中尉が僕のことを話したのだろうと思うが、ほかに軍の通訳が二人いたのに、特に僕には色々と打ちあけて話をした。通訳の一人がウソをついたということが、最初の話だった。
 それは、次のようなことである。このLSTには船艙が三つあり、その一つにはサックと称するキャンヴァス製のコットがはめこみになっていた。ここに病人と婦女子をねかせ、一般PWは他の船艙に入ってもいいし、また甲板にいてもいいことにした。サックに余分なのがあるが、それにはインタープレターが寝るようにした。ところがPWの士官がサックの一つに横になっているのを誰かが発見し、艦長が僕でないインタープレターにこれはどうしたことだと聞いたら、あのオフィサー、つまり俺が、そうしてもいいといったと答えた。いかにも俺が艦長の命令を自分勝手に変更したようなことになって具合が悪い。とんでもないインタープレターだと、B中尉は僕に話すのであった。その通訳はもう一艘の方に行ってしまったが、君からよくPWの士官にいってくれよとのことで、僕は「よく分りました」と返事した。
 艦長からのこまかい注意や船内の規則を、主としてT中尉を通じて皆に伝えたりしている内に、日が暮れかけ、LSTはガラガラとランプを引き上げて出帆した。大きな颱風が去ったばかりなので、波は相当に高い。病人はもちろんのこと、婦女子は全部、船艙に入ってしまった。陸ではあんなに元気だったT君やW君も、海に出るとから意気地がなく、引上げたランプの上に毛布をしいて、もう横になっている。折角あけた Ten-in-one も、あまり食う人がいない。因果なことに、船が揺れると食慾の出る僕は、グリン・ピースの大きな缶詰をほとんど一人で平げ、リスター・バッグの水でつくったココアをコップに一杯のんでから船艙に下りて行き、一番隅の、一番上のサックに横たわった。そして、あちらこちらの船暈ふなよいの音を聞きながら、波の揺籃に、すこぶる健康な眠りに陥った。
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SORRY ISHI!



 二夜をすごした三日目の朝、我々はコレヒドールの横を走っていた。一行は海に馴れた上に、もうシナ海のうねりもないので元気になり、上陸の準備にかかった。マニラ湾には米国の艦船がいっぱいで、その中には砲を取外した日本の駆逐艦も五、六隻いた。軍艦旗はもちろん揚げていない。サイドに日の丸を描き、ローマ字で名前を大きく表示している。それから無数の沈没船!
 港務所に近い桟橋を素通りして、LSTはトンドの岸に着いた。両方の船から次々と上陸するPWは、次々とトラックに乗って出て行った。アパリでは見たことのないMPやSPが、警備についていた。
 B中尉からPW二十名残れという命令が出た。船内の使役である。曹長以下二十二名の一団が残ることになった。もとの分隊だか何だかで、二人だけ離れるのはいやだという。そんな風な旧組織は、捕虜になった時から全部解消しているのだが、これこれでと申出ると、B中尉は二人位多くてもいいよ、但し本当に働ける者でなくては困るといって許してくれた。
 それから五日間、我々は防波堤外に仮泊して仕事をした。まずサックの石鹸洗いから始まり、甲板、ドアなどの錆を落して錆どめを塗り、上にペンキを塗ることなどが仕事だった。戦争が終ったので軍艦も平時色に戻る。僕は何もすることがないので、ぶらぶらしていた。何かしましょうかといったのだが、B中尉は「君は本でも読んでいればいいのだ」といって取りあわなかった。僕は艦長の命令で、仕事を開始した時間と終了した時間とを控え、それを報告することだけしかしなかった。
 LSTではよくしてくれた。Ten-in-one だけでも充分なのに米をくれたり、鰯や鯖の缶詰や――米軍の携行糧食には魚がまったく入っていない――濠洲製のクラフト・チーズや、時にはグレープ・フルーツ・ジュースの大缶をくれたりした。三十分に一回AR――という水夫長が銀皿にシガレットを入れて来て「休めよ」といった。すこし気をつめて仕事を続けると、誰かが、Take it easy ! と声をかけた。
 使役兵の大将をしていた下士官は、とても真面目な人だった。ある時B中尉が「あの男には閉口する。何時、どこででも、僕が通ると飛び上って気を付けをする。窮屈で仕方がない。あんなことをしないように君からいってくれ」といった。日本の兵隊としてはありそうなことだ。僕がニヤニヤしていると、B中尉は「本当だよ、本当にそういってくれよ」と念を押した。それでその晩、甲板で車座になって食事をした時「君達は朝、将校にあったら敬礼し給え。その後はしないでもいい」といって聞かせたが、長い間の習慣で、下士官君は最後まで jump to attention をやった。
 仕事が終って、船は再びトンドの海岸についた。艦長は仕事をした時間をタイプで打って、これであの人達は給金を貰うのだといった。彼等は装具を整理し、上陸命令の出るのを待っていた。僕はまだ上陸出来ない。新しい命令が出たのである。それを話すと兵隊達は心細がった。「石川さんは一緒に来てくれないんですか」という。「僕がいなくったって大丈夫。向うにだって通訳はいるんだから、心配しなくってもいい」といった。
 丁度日暮方で、僕はランプの上にある鉄の太い杭に腰かけていた。すると一人のMPがドカドカとランプを上って来て、いきなり僕に「お前は日本語分るか」といった。日本人に日本語が分るかと聞くのは少々変だが、その時は何とも思わず、「ああ、分る」というと、「よし、ついて来い。俺はジャップに質問したいことがある」といい、一番近くにいた若いPWに「お前は米国人がこわいか」と聞いた。すると彼は「いいえ、こわくはありません」と答えた。
「何、こわくない。さては手前はまだ米国人をリック〔やっつける〕することが出来ると思ってやがるんだな」と、MPは大きな声を出した。日本兵としては、投降して以来、別してLSTでは、米国兵が親切にしてくれるので、有難いとは思っても、別に恐怖すべき経験をしていないから、「こわくない」と答えたのだが、MPはそんな意味で聞いたのではなかった。次いで「そうか。手前は一体何人米国人を殺したか、いって見ろ!」と怒鳴るに至って、僕はこのMPが酔っていることを知った。こいつは困ったことだと思い、「このPWはバシー海峡の島から来たので、コンバットは一度もしていない。従って米国人を殺したことなどありはしないのだ」といった。この時には、僕等は米国の水兵やアパリから警備に来た陸軍兵に、取りかこまれていたが、その誰かが会話を引取って「君はどこから来た」と直接にMPに質問し、別の人は「そうだ、イシ、このボーイは何歳なのか聞けよ」といい、不穏になりそうな形勢を変えようとした。MPはニューギニアで戦ったといい、まだ何かいいそうにしたが、別のMPが来て腕をつかまえ、ランプから陸へ連れて行ってしまった。
 突然、僕の前に現れて“Sorry, Ishi !”といったのが、アパリから警備隊長として乗船して来た少尉である。N大学の経済科にいたということ以外何も僕は知らない。いつも黙ってパイプを吸い、本を読んでいた青年だが、何とPWの僕に向って「済まなかったな、イシ!」というではないか。僕は何と返事していいか分らなかった。そこへB中尉も、どこからか、血相を変えて飛んで来た。「何かトラブルが起ったそうだが……」といい「スキッパー〔艦長〕が晩飯に呼んだMPが……」と誰かがいうと、「いや、そのMPはまだ食堂にいる。別の人間が勝手に入って来たのだ。よし、俺が行ってつかまえてやる」と、帽子をかぶり直すなり、大股でランプを下りて行った。いつもニコニコ笑っている陽気なB中尉が、こんなにまで怒るかと不思議に思う位だった。それ迄あっけに取られていた使役兵達が「どうしたんですか」と聞いたが、僕は「いや、何でもないんです」と答えただけである。
 その夜、たった一人、広い船艙の一隅に、たった一つ吊ったサックに横になって、僕は中々ねつかれなかった。“Sorry, Ishi !”という言葉が僕の耳を去らぬのである。何という立派な、男らしい態度だろう。どうして、僕と何等かの交渉のある米国将兵は、こんなに善良な人ばかりなのだろう?――いまでも僕はそのことを考えている。僕は米国人が、百人が百人まで天使だとはいわない。現に勤務中に酔っぱらったMPだっている。事実ありのままを書いているので、何にも米国に頌徳表を奉ったり、お世辞をつかったりするのではない。だが、それにしても、何故、こう頭を下げざるを得ないような経験ばかりしたのだろう。僕だけが幸運だったのかしら? 考えねばならぬことが多い。多すぎて困ってしまう。
 B中尉は翌朝、「昨日は本当に気の毒なことをした」といった。僕は「いいえ、いいんです。あのMPはニューギニアで親友か兄弟でも失ったのでしょう」と、考えたままをいった。B中尉は「それにしても彼はここでトラブルを起すビジネスは持っていない。戦争中は戦争中だ。いまは条件が違う。あんな大きな拳銃なんぞぶら下げて、ひどい奴だ」と、まだ怒っていた。
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南の海



 僕の乗っていたLSTと僚艦とは、マニラで水や食料を積込んだ上、東海岸のカシグランという所へ向うことになった。ルソン島の中北部で山の中へ逃げこんだ邦人のほとんど唯一の希望は、東海岸に出るということだった。海岸へ出れば塩水はある、魚もある、貝もある、食える海草もあるだろう。ロビンソン・クルーソーみたいな生活をしている内には、戦争も終るだろうと考えたものである。僕なども真面目にそんなことを考え、玉蜀黍から豆、さてはひでり草の種子まで準備した。実際問題としては、中部ルソンから東海岸へぬける路は、一本か二本しかなく、それがゲリラによって阻止されているとすれば、山越えをしなくてはならない。高い山は西海岸の方にあるが、山は低くとも猛烈なジャングルをくぐって、果して海岸まで行けるかどうか。また行ったところで、タヤバス州の中部から北は、断崖絶壁つづきで、人間の住むような場所があるのかどうか、分ったものではないが、とにかく「東海岸へ! 東海岸へ!」というのが、ひとつの流行言葉にさえなっていた。事実、東海岸への探検に向った隊もあるが、クマオ地区から出た隊は、僅か二キロ程行っただけで、どうにも動きがとれず、引返して来た。この附近のジャングルは、向うの見透しはきくのだが、とげの生えた蔓草が多く――竹も枝を出し、それにはとげがある――おまけにどこもかしこも同じようで、迷うにはもって来いである。
 東海岸ほどの「人気」はなかったが、ゴンサカ街道ということも、よくいわれた。ゴンサカのことは前にもちょっと書いたが、国道五号線に出られないので、それにほぼ並行した間道を北へとり、ゴンサカに出ようというのである。出てどうするつもりか知らぬが、そっちの方へ逃げこんだ人々も決してすくなくはない。それやこれや考えると、まだ相当な数の日本人が、山の中にいるのではあるまいかと思われる。
 それはともかく、中部ルソンから東海岸へぬける路の一本の終点がカシグランなのである。そこに日本の兵隊が四十人と、比島のゲリラが五百人だかいるが、兵隊はみんな担送患者であり、ゲリラも雨季に入って山越が出来ないので、これを収容に行けという命令が出たのである。連絡は飛行機で行ったのだが、その後どうなっているか分らない。万事は行って見ての上のことだという話で、マニラを出港したのである。僚艦にも通訳が一人乗りこんでいた。
 マニラから南下して、ルソン島の南端を通った。天気のいい日もあり、雨の日もあった。島に近く航海する時は穏かだったが、随分揺れた時もある。僕は全くすることがなく、毎日三度三度すごい御馳走になっては本を読んだ。水兵の食堂の棚がライブラリで、そこには詰らぬ本もあったが、前に書いた THE MOUNTAINS WAIT のような、いい本も何冊かあった。
 食糧不足の今日、こんなことを書くと怨まれるかも知れないが、軍艦の食事は、アパリの米営舎での昼飯よりもはるかに大したものだった。ある朝は、大きなホットケークに本物のメープル・シラップをだぶだぶとかけて食った。日曜日の昼飯はフライド・チキンで、しかも一羽の完全な半分であり、これにマッシド・ポテトにグリン・ピースが山ほど添えてあった。パンは米国でビスケットというマフィンみたいな物で、熱いのを食う。ブラックベリイの煮たのがデザート、コーヒは飲み放題。いつだか昼飯に大きなビフテキが出た時は、流石の僕も晩飯が食えなかった位である。
 こんな御馳走を食って、濃紺の海を航海していると、なんだか今日こんにちさまに相済まぬような気が起る。比島の島々はまことに美しく、飛魚はとぶし、空はきれいだし、ああ、一体何年ぶりでの船旅だろうかと、すっかり、のんびりしてしまうのだった。
 ひどい吹き降りの日があった。僕は終日サックに横たわって本を読んだが、ふとスカイライトから黄色い日光がさしているのに気がつき、甲板に出た。すると左手に、まっかな夕焼の空を背景に、富士山よりも、もうすこし鋭い斜面を持つ、完全な円錐形の山が見えた。「ああ、マヨン火山だ」と僕はすぐ気がついた。マヨンが左手に見えるとすると、いつの間にかルソン島の南端を廻って、北上していることになる。「あれがマヨンだ。あれは活火山だ」と話し合っている水兵や陸軍の兵隊と一緒に、しばし僕は舷側によりかかって、この美しい、あまりに形が整い過ぎた山を眺めた。まったく、敗戦のおかげで、山岳州を歩き廻り、大密林の中に住み、今度は名山、マヨンまで見ることが出来たのである。そうでなかったら、僕の比島生活は、マニラだけで終ったことであろう。
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カシグラン



 ルソン島の地図を御覧になると、東海岸のほぼ中央に非常に長い岬が、まるでフィヨルドか何かのように、南北に走っているのに注意されるであろう。サン・イルデフォンソ岬といい、その一番奥にあるのがカシグランである。我々は波のまるでない湾内を静かに航行して、朝早くカシグランについた。両側は密林が海にせまり、正面には白い砂浜が見える。海水は極めてきれいで、底の砂も見える。それはいいのだが、すごい遠浅で、吃水の浅い上陸用舟艇も、どうにもならんようになってしまった。どこかに桟橋か何かあるとよいがと、士官連中はしきりに望遠鏡でさがしたが、何も見えない。
 その中に、遠くの方に、バンカが現れた。こっちへ来いといくら呼んでも知らん顔をしている。僕はとっておきのタガログ語で「ハリカ・リト!」とどなった。「ここへ来い」という意味である。それが通じたのか、あるいは何か用事が終ったのか、恐らく後者だろうと思うが、バンカはノロノロと近づいて来た。老人と、利口そうな顔をした少年とが乗っている。この少年は英語が少々分る。「桟橋は無い。カシグランの町はこの海岸から一キロばかりの所にある。日本兵はいる」大体この位のことが分ったので、我々は昼飯を済ませてから上陸することになった。
 僕の乗っていた艦には、ボートが無い。僚艦がボートを下したが、すごく古いボートで、下したとたんに水が入った。僕の艦からは艦長と、Rという陸軍大尉と僕が乗り、僚艦からは海軍中尉が乗った。乗組の水兵や陸兵は、あんまりボートが水びたしなので、面白がって見下している。最後に僕が乗ると、艦長が“Can you swim, Ishi ?”といった。僕は“Yes, sir”と元気に答えた。甲板からは大笑が起った。R大尉がオールを握り、艦長は舳に立って、一本のオールで砂をつついた。僕の仕事はあき缶で水を汲み出すことだったが、いくら汲み出しても後から後から水が入って来るので、何の役にも立たない。そればかりか、一丁も行ったら、今度はボートの底が砂にめりこんでしまった。「こいつはどうにもならん。下りよう」という訳で、四人そろってジャブジャブと水の中に入った。艦の方では口笛を吹いたり、何かいって笑ったり、盛んに我々をひやかしている。我々は苦笑しながら、ボートを引張ったり押したりして、やっとのことで岸に着いた。
 ところが我々を町まで案内するといったバンカは、ここに流れ込んでいる相当な大きさの川を、どんどんこいで溯って行く。「歩いて行くと橋がない、川をボートで行った方が早い」というようなことをいうので、我々は再び水びたしのボートに乗って、川をさかのぼった。増水しているのか、いつでもそうなのか知らぬが、この川にははっきりした岸というものが無く、両岸は林が水の中に立っている。大汗を流して、行けども行けども目的地らしいものに着かない。一キロなどとは出鱈目だったのである。みんなブーブーいったが、どうにもならず、一生懸命にバンカを追った。すると右手にちょっとした支流があり、そこの赤土の岸にバンカがついた。我々もボートをつけ、そこからグチャグチャな小径を、ものの二キロも歩いて、やっと村の入口らしい所についた。
 比島の田舎で普通に見受ける景色だ。椰子の木立があり、カモテやカモテン・カホイの畑があり、そこにニッパの小屋が立っている、そんな家が二、三軒あった。そこは、さっきボートで上って来た川の右岸だが、相当大きな、頑丈な橋を渡って左岸へ行くと、そこから突如幅の広い道路が始まり、木造家屋の町になる。いつの間にか我々四人は、数名の比島人にとりかこまれていた。町長の家というのに案内される。ここで日本兵は約四十名いるが、病人は一人も出ていないこと、彼等は附近の農家で働いていること、ゲリラは五百人でこの村の人口は五千人、食物がなくて困っていることなどを知った。とりあえず日本の指揮官を呼んでくれと、R大尉がいうと、それではこっちへ来なさいという訳で、別の家へ行った。そこの二階のヴェランダみたいな所に椅子を持ち出し、米軍の将校は腰を下したが、僕は手摺によりかかっていた。ツバという酒を持って来て、これはフィリピン・ビールだから飲んで下さいといったが、将校たちは飲まず、なにやかやと話していた。すると一人の、目付の鋭い比島人が僕の横に来て「お前は日本人か」と聞いた。実はさっきから、仲間同士で、ちょいちょいこっちを見ては何か喋舌っているので、ははん、僕の噂をしているなと思っていたのだ。「そうだ」と答えると、「階級は何だ?」と聞く。「僕は階級は持たない。シヴィリアンだから」というと「何故日本人は捕虜になると皆シヴィリアンだというのか」と、勢いこんで訊問した。これには僕も困った。この比島の愛国者が日本人を何人捕虜にしたか知らぬが、僕自身一度しか捕虜になっていない上に、事実軍人ではないのだから、シヴィリアンだといった迄のことである。仕方がないから黙っていると、今度は「お前は比島に何年いたか」、「三年」、「三年もいれば比島語が出来る筈だ。出来るか?」僕は完全に兜を脱いだ。まったく、その通りなのである。僕は昭和十八年の一月十八日マニラに着き、一月二十九日にタガログ語の先生に紹介され、二月一日から毎週三回稽古をしたのだが、どうも怠者で、ろくろく勉強をしなかったので、平易な日常会話すら出来ないのである。はじめから田舎にでも住めば、タガログ語も上手になったろうが、マニラで英語のよく出来る人達とばかり交際していたもんだから、その点損をした。そんなことをいっても仕方がないから黙っていると、今度は「お前は英語が分るらしいが、マニラに三年しかいなかったにしては、よく英語が分るようになったな」とほめてくれた。
 こんな話をしていると、「キャプテンが来た!」という声がして、日本人がやって来た。階級章は取外しているが、将校の軍服であり、但し帽子は比島のそれ、足は素足である。このN少尉を通じて、担送患者は一人もいない事実をたしかめ、明日早朝全員乗艦するように、今夜中に命令を伝達することをいい、僕等はその家を去った。
 ボートは依然として水びたしだったが、海は満汐で、今度は歩かないで済んだ。六時頃にLSTに帰り、いつ迄たっても「イシ、チャウ!」の声がかかって来ない。僕はビスケットもチーズもチョコレートも、とても二度や三度では食べ切れぬ位持っていたが、もし晩飯が出来ているんだと無駄になると思い、折から通りかかったB中尉に「晩飯はどうしたものでしょうか」と聞いて見た。「君はまだ食っていないのかい。もう済んだと思っていた。一緒に来給え」といって、B中尉は僕を調理室へつれて行った。当番の水兵が一人皿を洗っている。「イシがまだサパーを食っていない。何か残っているか」とB中尉が聞いたが、生憎あいにく何も残っていないのである。「いいんです。僕はチーズもビスケットも持っていますから」といったが、B中尉は耳にかけず、戸棚をあけたり何かしていた。水兵は「卵はどうだい」と、鶏卵の箱を出した。そんな面倒な真似をしてくれないでもいいのである。だが彼はフライパンを下し、「どんな料理をしようか」と聞く。僕は参ってしまって黙っていた。すると「スクランブルではどうだ」と示唆してくれた。「ああ結構」というと、大きな卵を三個割ってスクランブルド・エッグスをつくり、トーストと缶詰の桃とでサパーの準備をしてくれた。一方B中尉は自分でコップを持ってコーヒわかし器からコーヒを出しかけたが、「これはいけない。ぬるいや」といって調理室を出て行った。
 熱いコーヒに砂糖とクリームをウンと入れて飲んでいると、前から何やかや話をしていたPが通りかかり、「何だよ、今まで飯を食わなかったのか。ああ、ARがねこんでしまったので忘れていたのだな」と入って来た。Pは戸棚の一つをあけて、厚さ五寸、直径二尺くらいのまるくて平べったいチーズを出した。それを大きく切って僕に食えという。ついでにビールも一本くれた。B中尉やPとは乗艦以来何等かの交渉があったが、卵料理をした水兵とは、この時はじめて口をきいた。そんな人達が、まるで学校の友達が遊びに来た時みたいに、大事にしてくれる。僕はPWであり、こんなに大事にして貰う理由はすこしもないのである。大事にされればされる程自分自身が、また捕虜を虐待したり殺したりしたという日本人が、小さくなって行くような気がして、やりきれなくなるのだった。
 翌朝は早くから無数のバンカが二隻の軍艦を取りまいた。PWは乗艦し、百二、三十名のいわゆるゲリラも便乗した。「いわゆる」というのは、この人達が本当のゲリラでなく、避難者であることがすぐ分ったからである。「五百人いるといったが、どこへ行ったのだ」と艦長が艦まで来た町長に質問したら、バンカでどこ迄行ったとか、歩いて行った者が何人いるとか答えていた。
 PWの人達は山越をして来る途中、所持品を食物と交換し、ほとんど無一物でカシグランに着いた。仕方がないので、あちらこちらの百姓家に、泊りこんだり通ったりして、手伝をしていた。二週間ばかりもそんな生活をしている所へ、我々が迎えに行ったのである。家によってはとても大事にしてくれたそうで、皆元気だった。まだまだカシグランをめざして行軍して来る将兵が多いといっていたが、その人達はどうするのか。Y大佐を長とする百名あまりの一団が、順調に行けば今日明日にも着く頃だとの話で、僕はY大佐を知っているばかりか、比島で知合って好きになった軍人の極めて少数の中の一人なので、何とかしたいと思い、R大尉にその旨を伝えたのだが、「それはまた別の機会に譲らねばならぬ。我々は、命令に従って行動しているのだから、とにかく今回はこのままで引上げる」とのことだった。
 R大尉は船に強くなく、しょっ中引籠っていたので、それ迄は碌に話もしなかったが、復航にはローリング、ピッチングにも馴れたと見えて、よく甲板に出て来た。ちょっと小肥りの、極めて静かな人で、もういい年だろうと思う。マニラに着いて上陸しようとしている時、僕の所へ来て、「君は damn good work をした」といい、シガアを一本くれた。三年あまり比島煙草ばかり吸っていたのだが、ハバナはやはり軽くてうまい。そんなことはどうでもいいが、毎日御馳走になってブラブラしていただけなのに「よく働いた」などといわれたには恐縮した。まったく、あっちでもこっちでも、恐縮ばかりしていたような始末である。
 なおR大尉は「君はジャーナリストだそうだが、帰国して本でも書いたら一冊送ってくれないか」と僕の手帳にアドレスを書いた。英語は喋舌しゃべるし、書くことも出来るのだが、日本に帰ると英語を使うのが億劫になっていけない。まア、しかし、R大尉ばかりでなく、ほかにも好意を示してくれた人々が多いので、これ以外にお礼のしようがない以上、すこし暇になったら、英語で何か書くことにしようと思う。億劫がっていては相済まない。
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「英霊何個」



 十一月の十一日にマニラに帰り着いた。入港するとみんな忙しい。碌に挨拶をする時間もなく、トラックでカンルバン近くの収容所へ送られた。ここはとても大きく、それに僕は最も遅れて着いた一人なので、組織がすっかり整っていて、もう通訳の仕事もなかった。毎日CIの一人として軽い労働――草むしりなど――をした。社の同人や、あちこちで知合いになった人々にも再会した。ここでは「先輩」と称する、早く投降した人達が、ひどく横暴を極め、不愉快なこともあったが、それは忘れてしまうことにしよう。キャンプは三回変ったが、どのキャンプからもマキリン山とラグナ湖が見えた。火山灰の赤黒い畑にはPWが栽培する大根や豆が青々としていて、涼しい朝など、日本の春を思わせるような小鳥の鳴声が聞えた。
 ここはルソン全島のPWやCIが最後に収容され、調べられる場所なので、帰国する人が、だいぶん多かった。僕は二ヶ月あまりもあちらこちらで働いて入所が遅れ、番号も二三五五〇という、非常に多い数字だった。従って釈放されるのも、恐らく一番ビリになるものと覚悟していた。
 十二月の九日に、二世の曹長が来て、簡単な訊問をした。変名を使ったことはないか、マニラでは何をしていたか等のことを聞かれた。翌朝四人のCIと共に呼び出され、本部と呼ばれるキャンプで一泊した上、一千五百名のPWの群と一緒に無蓋貨車でマニラへ送られた。僕よりも早く入所した人々がまだ多数残っているのに、僕の方が早く帰国出来ることは、少々済まないような気がした。
 列車はマニラ港の海岸に着いた。そこからギッシリ、はしけに積みこまれた。一月ぶりで、また海に出るのである。どんな船に乗るのか、日本ではどこへ着くのか、まったく分らない。向うの方にリバティ船が二隻かかっていて、その一隻には ROBERT LOUIS STEVENSON と船名が大きく書いてある。スティヴンソン――なつかしい名である。英語に早熟だった僕は、中学校の四年の頃、すでにスティヴンソンを愛読した。「宝島」は春の休みに、三浦三崎で読んだ。その後も、何度か繰返して読んだ。まったく、スティヴンソンは、なつかしい名である。窮屈な艀の中から、僕はこの船を、しげしげと眺めた。ところが艀がそのスティヴンソン号に横づけになり、これが僕を日本に送ってくれるのだと知った時、僕は実に何ともいえぬ気持がした。
 どういう訳か、ひどくせき立てられて、グラグラするタラップを登り切ると、正面の鉄板に白墨で LIBERTY EXPIRES DECEMBER 11th. と書いてある。とたんに、何故かは知らず Lasciate ogni speranza, voi ch'entrate.〔ダンテの神曲より「ここから入る者はすべての望みを捨てよ」の意〕という句が僕の脳裡をかすめた。不思議なことに、このように「ピンと来る」ことが、僕にとっては多くの場合、事実となって現れる。船内十日の生活で、日本人とは、こんなに程度が低いのかと思わせられるようなことが、次々に起った。僕は口を利く気もせず、昼間は甲板で日向ぼっこをし、夜は船艙で毛布にくるまって眠った。Cレーションはたっぷり給与になり、寒くなると共に甲板に水を充したドラム缶を持ち出し、これにスチームを通してくれたので、水筒の水を熱くしてコーヒをつくることも出来たし、缶詰をあたためて食うことも出来た。スティヴンソンは地獄船ではなかった。そこの生活を、僕にとっての地獄にしたのは、かえって無敵皇軍と自称した人々の、無反省と鈍感と卑屈とである。
 いよいよ明日は目的地に着くという晩、僕等のいた第三船艙に臨時に設備した木の階段を、中頃まで下りて来て、大声で注意を与えた男がある。色々なことをいったあげく、「この中に英霊を持っている人があったら、何個あるか、その数を届けて下さい」といって立去った。僕は身体中が震えた。英霊は荷物か。僕は立上って、この船艙の小隊長をしている人の所へ行った。「あの男は何ですか」「輸送隊長です」。この若い、恐らく少尉か何かをしていたらしい人物は、僕の権幕にあっけに取られたように答えた。「名前を知っていますか」「A大尉といいます」「あなたはA大尉が、たった今、英霊何個といったのを聞きましたか」「ああ、そういえば、そんなことをいっていましたね」……。
 僕は甲板に出た。目の前に、水をへだてて浦賀の火が見える。眼鏡がこわれてしまったので、灯火はうるんで瞬いていた。「英霊何個! 英霊何個!」僕は涙が出て、その涙がいつまでもとまらないので困った。冬の風は、夏服しか着ていない僕につめたかった。しかし「王さん待ってて頂戴な」という、ダミ声の合唱が聞えて来る船艙に、下りて行く気はしなかった。いかに不注意とはいえ、英霊を何個と呼ぶ大尉、それを変だとも無礼だとも思わぬ人達。昭和二十年十二月二十一日、浦賀港の入口で、五十一歳の僕はさめざめと泣いた。
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※(ローマ数字2、1-13-22) アメリカ兵の印象



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 米軍の通訳をしていた二ヶ月半の間に、ラロおよびアパリの病院や仮収容所で、あるいは上陸用舟艇の艦上で、僕が出会った米兵の数は多いが、その中でも記憶に残っている数名の素描を試みる。もう一度あいたいと思う人々ばかりである。


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 Nはワシントンで新聞記者をしていた。といったところで、僅か六ヶ月のリポーター生活だから、僕が一九二〇年以来、たった一つの新聞社に働いているということは、驚くべき歴史的事実として彼の目に映じたらしい。二十五年間の出来ごとを、あれやこれやと興味をもって聞くのであったが、ある時「君は日本に帰ったら何をする気か」と質問した。「もし“毎日”〔新聞〕が爆撃でつぶされているか、あるいは女房や子供が死んでいるとしたら、僕は米国兵相手のバアを開くつもりだ。日本に来ることがあったら是非よって一杯やってくれないか」というと、「それはいい考えだ。君はグッド・リスナーだし、世間に関する経験も深い。日本にいるGIが淋しくなったりトラブルに陥ったりしたら、君はいい相談相手になるだろう」と笑っていたが、数日後、仕事が変って当分あえないから……と挨拶したあげく「僕はこの間いったことを取消す。君はバアの主人になるより、やはり新聞記者として日本の民主化に努める方が本当だ」と真顔になっていうのであった。Nは僕が収容所の中で日本の将校とほとんど接触せず、兵隊とばかり一緒にいるのを知って「君はアーニー・パイルみたいだ」といった。僕はNによって、従軍記者として米国で最も人気があり、沖縄で戦死したアーニー・パイルのことを知った。
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ハッピイ



「君がイシか。あえてうれしい。僕の名はハッピイだ」と、警備の当番にあたって病院へ来るなり僕と握手した兵隊は、十九だ二十一だという若い連中が大多数であるのに、もう三十は越していたことと思う。イシカワがいつの間にかイシになり、寒村アパリで退屈している兵隊の一部に、妙な日本人がいるということにでもなったのであろう。
 ハッピイが病院に来た晩、大型の輸送機が不時着した。はじめ低空で東へ飛んだのが引返して来て、アパリの上空を、何回も旋回したり、はるか西方の空に姿を消したかと思うと再び爆音を立てて現れたりした。最後に赤い信号弾を発射し、病院のテントを引っかけはしまいかと思う程低く飛んだ。ハッピイはいつの間にか入口の衛兵所を離れて僕たちと一緒になり「ああ可哀相に、何をしているんだろう? また帰って来た! 着陸場が見つからないのかしら。乗ってる人達はどんな気持でいるだろう?」と、しきりに心配していたが、興奮しながらも、兵隊がのべつ幕無しに使用するスウェアの言葉をただの一つも出さない。やがて飛行機が二、三マイル向うとも思われる地点に着陸すると、ハッピイはほっとしたように僕のコットに腰をおろし、何と思ってか「自分は物心がついてから、ただの一度も教会へ行かなかったということがない。戦争が始まってからは教会へ行くことも自然不規則になったが、今朝は――その日は丁度日曜だった――アパリのメソディスト教会へ行って来た」と話した。アメリカの兵隊で、宗教の話をしたのは、ハッピイだけである。
 間もなく僕はコットに横になって眠った。この寝入ばなを起しに来たのがハッピイである。日本の捕虜が柵に登っているのを見つけて制止したが、何の為にそんなことをしたのか聞いてくれというのである。病院の周囲は高さ二間ぐらいの柱に有刺鉄線を張り渡したものでかこんである。この柵に登ったとは厄介なことが起ったものだと思いながら、靴をはいて柵に一番近いテントに出向いた。患者約二十人と衛生兵一人とが、それぞれのテントにいる。「誰かこの中で柵に登った人がいるそうだが……」というと、「自分です」と出て来たのが衛生兵である。何故そんなことをしたのかと聞くと、さっき飛行機が不時着したが自分のいた所からはよく見えなかった。気がつくと右の方で米兵が柵に登って見ているので、自分も真似をしましたとの返事である。少々あきれ返った話だが、その通り訳して聞かせると、ハッピイは「柵に登ることは逃亡と見られる。射殺されても仕方がない。事実比島兵が発見したならば、この兵隊は死人になっているだろう。好奇心は、人間誰でも持っているが、“好奇心が猫を殺したキューリオシイ・キルド・ア・キャット”ということもある。これからそんなことをするなといってくれ給え」といった。当然銃の曳金を引いてもいいのに、「何の為にそんなことをしたのか」まず知ろうとしたところに、ハッピイの人間味がある。
 ハッピイはその翌日交代したまま、再び病院に来なかったが、数日後、病院が一哩ばかり離れた仮収容所の一部に移転した時、また出会った。十哩ほど東方にあたるゴンサカという町に近い山中に、日本兵が出没して掠奪を働く、終戦を知らないらしいから、投降勧告に行けという大隊本部の命令で、ゴンサカまで出かけた帰りである。乗っていたジープが仮収容所の入口でとまると、丁度三百名ばかりのPWがバタアン群島の島から着いて、地面に腰を下し、その近くに米兵が数名かたまっていたが「イシが来た!」と飛び出して来たのが彼である。ゴンサカ行の噂を聞いていたのであろう。ゴンサカ行に際して、こちらはもちろん文字通り寸鉄をだに帯びていない。ゲリラからも、また友軍からも、襲撃される危険は十分あったのである。「イシ! イシ! よく帰って来た!」と、ハッピイは僕を抱かんばかりにした。日本の兵隊さんは不思議そうに見ている。米兵は二人のまわりに集まって来た。ハッピイはうれしそうに「これがイシだ」といい、何と思ってか「イシキーだ」と繰返した。それまでに会ったことのない若い兵隊が「お前、英語を話すか」と僕に聞いた。間髪を容れず「お前より英語がうまいぞ」とハッピイがいったので、大笑いになった。
 ホームに帰ったら手紙をよこしなといって、アドレスを僕の手帳に書いた兵隊もあるが、ハッピイはそんなことはしていない。ハッピイというのはもちろんニックネームで、僕は彼の本名さえ知らないのである。特徴のある顔でもなし、今後万一どこかで出喰わすことがあっても、お互にレコグナイズ〔認識〕するかどうかは疑問である。それにしても何故ハッピイは僕がゴンサカから無事に帰ったことをあんなによろこんだのだろう? 恐らくハッピイとしては、僕でなくとも、誰であろうと、危険な場所から無事で帰れば、心からよろこんだのであろう。それが米人であろうと、比島人であろうと、日本人であろうと、とにかく人間である以上は、同様だろうと思う。ハッピイのことだから、馬や犬に対しても、同じ感情を持っているとしても、僕は驚かない。
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坑夫



 アパリ仮収容所の、入口に一番近いテントには、邦人婦女子が寝起きしていた。晩方など、用のない米兵が遊びに来て、小さい子供にバナナやチョコレートをやったりする。比島兵は柵外の警備、米国兵も遊びに来てはいけないことになっていたのだが、とにかく入口のすぐ右手にテントがあるので、三々五々、入って来ては、何だかんだと賑やかに騒ぐものもあった。
 ところが、いつからともなく、晩の六時頃になるときまって入口にしゃがんで、子供たちの方をじーっと見ている兵隊のいるのに、僕は気がついた。いかにも精悍な感じの中年男で、誰とも口を利かず、いつもひとりきりでしゃがんでいる。何か腹を立てているのかと思った程である。
 ある晩、用があって入口の近くを通りかかると、その兵隊が僕に声をかけた。向うがしゃがんだままなので、僕もしゃがみこむと「あの子にバナナをやりたいとおもって持って来たんだが、呼んでくれないか」という。あの子というのは、五つになる可愛い女の子で、人気者になっていたが、呼ぶとすぐやって来た。すると兵隊は黙ってバナナを差出し、ニコリともしないで、女の子に手渡した。女の子が「お母ちゃん、バナナ貰ったよ」と走って行く後を見送りながら、兵隊はキャメルを僕にくれ、自分も一本咥えて、まず僕のにライターで火をつけてから、話を始めた。俺はヴァージニアの坑夫で、家は丘の中腹にあり、すぐ前を鉄道が通っている。女の子が二人いて下の子はあの子と同じ位だ。女房の手紙によると、子供は汽車がダディを連れて行ったと思っている。だから汽車がダディを連れて帰って来るといって、汽車が通るたびごとに窓の所へ走って行く……という話から、兄弟のこと、細君の兄弟のこと、誰かと喧嘩したことなど、およそ三十分も、南部なまりで喋った。
 このヴァージニアの坑夫とは、その後二、三回会った。柵外に事務所と呼ばれるテントがあり、色々な用事で僕は一日に数回そこへ行ったが、ある時そのテントに、彼を入れて三人の米兵が集まり、何が一番食いたいか話していた。若い男は「お袋のつくるパイだ」――これは米国での月並文句である――といい、もう一人はフライド・チキンだといった。どうしてこうしてと、微細に話すのを、黙って聞いていた坑夫は、僕に向って「俺が一番ほしいのは山の渓流の水だ」といった。突然ポッツリ口を切ると、後はまったく山の渓流のように喋り出すのが、この男である。この時も山の水の讃美――僕も山に登った経験があるので、水の美味はよく知っている――から始めて、若い時、ウェスト・ヴァージニアに拳銃を持ちこんでどうとかしたということまで、一生懸命に話して聞かせた。「どうとかした……」は頼りないが、話に夢中になると恐ろしく早口になり、訛がまざって、僕にはよく分らぬことがあるのだった。
 彼に最後に会ったのは、仮収容所が閉鎖される前日だった。例の事務所へ行くと、丁度居合わせて、今日郵便が届いてワイフからこんなに沢山手紙が来たといい、五、六通の航空便を見せた。「いよいよ君ともグッドバイらしい」というと、上衣やズボンのポケットに手を入れて、しきりに物をさがしていたが、最後にシャープ鉛筆の尻をひねって何本かの芯を取出し、「何も無いからこれをお前にやる」といった。いかにもブッキラ棒ないいようだったが、それだけに僕は感動させられた。だが、僕のは極めて旧式なシャープで、芯の太さがあわないのである。「いや、いい。君に会ったことと、君の思出だけで十分僕はうれしいのだ」といって別れた。ハッピイだったら握手したことだろうが、この男はただ「そうか」といっただけ。山間の渓流の水の如く淡々として別れた。
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ルイジアナ・サム



 Bという不思議な兵隊がいた。彼はルイジアナ生れで、その名が示す通り、フランス系の市民である。すごいガニ股で、妙に上半身を振って歩くと思ったら、カウボーイが職業だった。英語が、また、一風変っていて、ニューイングランドや英国の言葉に馴染みの深い僕には、分らぬことが度々あった。我々は「地下鉄サム」から思いついて、彼を「ルイジアナ・サム」と呼んだ。PWの一人である僕が、彼のことを「ヘイ、サム!」などと呼ぶことは、甚だ異様だが、それ程サムは、僕にとって、親しみやすい青年だったのである。
 サムはアパリの収容所勤務兵として、例の事務所テントに、ほとんど毎日やって来た。一体米国の兵隊には呑気者が多く、彼も極めて呑気であり、しょっ中歌をうたっていたが、面白いことに、サムが歌うと、どの歌もみんな同じように聞えた。
 サムの得意は「クレージイ・ウォア」という歌だった。一度僕に教えるといって、書簡箋に書いたのを見せた。何でも、兵隊になれといわれてなりはしたものの、小銃をうって見るとちっともあたらないで、キャプテンに叱られたり何かするので「こんなことなら女の子に生れて来ればよかった」というような文句もあり、一節ごとに「クレージイ・ウォア」という折返しがつく。いまこれを書いていても、調子はずれなサムの声を思い出す。日本の兵隊が歌ったら――兵隊でない一般人でも――反戦思想といわれて、銃殺されたことだろう。
 ある晩、フラリと僕のテントへ遊びに来た。一体サムは非番の時、よく僕の所へ遊びに来たが、この晩も例の如く、身体をブラブラと振って入って来るなり、「俺はもうスルーだ」と宣言した。何がお仕舞いなのかと思うと、ガール・フレンドが一向手紙をよこさないというのである。サムは十八の時に結婚して一年で離婚し、出征するまで仲よくしていたガールがいるのだが、ここ四週間もその子から手紙が来ない。「自分の方からはせっせと書いているのに、ひどい女もいるものだ」――これがそれだと、サムは札入のセロファンの中に入っている写真を見せた。「俺はもうスルー・ウィズ・ハアだ。今度帰ったら別のモリーと仲よくするからそう思えと書いてやる」としきりに憤慨する。僕はまんざら冗談でもなく、「僕は人相を見るが、この娘は忠実な顔をしている。君を裏切ったりするような娘ではない。病気をしているかも知れず、そんな手紙は書かない方がいいだろう」といった。サムはそれ以来、彼のガールの話をしなくなった。恐らく再び手紙が来るようになったのだろう。
 別の晩、やって来た時「サムよ、君はそのクレージイ・ウォア以外に何か歌を知らないのか」と聞くと「知っているさ」という訳で、新しい歌をうたった。曲はクレージイ・ウォアとどこが違うのか、僕には分らなかったが、その中に「将校は鶏の胸の肉と脚の肉を食い兵隊は翼と尻とを食わされる」という文句があり、僕は大きに笑った。米本国のことはいざ知らず、比島の野戦陣地では、将校も、下士官も、プライヴェート〔兵〕も、まったく同じ食物である。将官でなければ、いわゆる当番兵はつかない。兵隊と同じように食器を持って炊事場に並び、食事する場所は違うが、食前の食器消毒も、食後の清掃も、自分でするのである。これが本当のデモクラシーだと思っていたが、プライヴェートにすれば、同じ鶏にしても、将校にばかり胸の白い肉や脚の赤い肉が行くと、ひがむのであろう。
 と、こう書いて来ると、いかにもサムはイージイ・ゴーイングな、歌ばかりうたっている兵隊みたいだが、中々どうして、サムぐらい真面目に勤務する男は珍しかった。彼はいつも大きな拳銃をぶら下げて、雨が降ろうと夜中であろうと、何かあるとすぐ飛出して行くのであった。アパリの仮収容所はすこぶる広く、アコーディオン・ワイヤを張りめぐらした外側に、携帯テントを張ったり空箱を置いたりして、比島兵が十二箇所で張番しているのだが、夜など、どうかすると、そのポストを離れるのがいる。サムはどこで見張っているのか知らぬが、そんな時、必ず、おっ取り刀ならぬおっ取り拳銃で駈けつけては、注意するのだった。
 これ等の比島兵は、謂う所の事務所から、二十メートルばかり離れた所に、大型のテントを張り、三交代で勤めていた。朝昼晩、トラックが食事をはこんで来ると、食器を持ってテントから出て来るのだが、当番の兵隊が見張場所から飛び出して来ることもあった。ある時サムがこれを発見し、平素に似合わぬ厳格な態度で、そんな兵隊をそれぞれのポストに追い返したばかりか、トラックをかこんでワイワイいっている連中を、一列に整列させた。アコーディオン・ワイヤのこっち側からそれを見て我々は「サムは大したものだ。中々やるじゃないか」とほほえましくも感心した。
 どういう訳か、サムはほかのGIにくらべて、事務所勤務の度数が多かった。それに、とにかく面白い男ではあり、いよいよお別れという時、僕は何か記念品をやりたいと思ったが、捕虜の身分で、もちろん何も持っていはしなかった。とうとう僕は、たった一本しか持っていなかったパイプを、サムに贈呈した。このパイプは初代のマニラ新聞社長、故松岡正男さんが二十二年前ぼくにくれたので、僕としては愛着も持ち、また手離しては困ることは分っていたのだが、それでも、何だか、何かしらサムに、それによって僕を記憶して貰えるような品物を、贈りたい気持で、一杯だったのである。サムは別にうれしそうな顔もしなかったが、僕にそんな気持を起させ、そんなことをさせたのは、何かしら、サムに人徳とでもいうものが、あったのだろう。まったくサムは不思議な青年である。
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AB



 頭文字をAとする兵隊三人と知合になった。AB――が陸軍、AS――とAR――とが海軍である。
 ラロの仮収容所から、病院の一部がアパリの海岸に移転し、僕は病院の通訳をすることを命じられた。はじめは、新聞社の同人H君が行くというので、僕は安心していたが、どういう訳か、突然「別のインタープレター出て来い」という声がかかり、あわてて装具をまとめて、入口へ走って行ったのである。
 中型の幌トラックは、もうエンジンをかけていた。両側のベンチには、衛生兵と一般使役兵とが、ぎっしり腰をかけている。装具を中央に投げ込み、すこし席を譲って貰って一番端っこに腰を下すと、あまり若くない兵隊がやって来て、僕の真向に窮屈そうに腰をかけた。二枚目ばりではないが、しっかりした、いい顔をしている。そればかりか態度がとても真面目なのである。自動小銃を膝によこたえ、端然として腰をかけている。トラックは国道五号線を北へ走った。概ね良好な道路だが、所々に穴があいている。ある場所でトラックは猛烈にバウンドし、僕は天井に頭をぶつけた。警乗兵は「おい、ドライバー、気をつけてくれよ。そっちはよくっても後の方にはひどく来るからな」といい、僕の顔を見てニコリと笑った。
 ABとはこんな風にして知合になったが、その後ほとんど毎日彼に会った。本当は、会わないで済めば、それに越したことはなかったのである。というのが、彼はいつからか、病死者の遺骸を運搬する役を引受けていたからである。
 病院での僕の仕事の一つは、毎朝八時現在の報告書を出すことだった。それまでの二十四時間に、何人が入院し、退院し、死亡したかが、報告書の主要点であり、死亡者は氏名、階級、病名をも書きこむ。この報告書を持って、事務所テントへ行くと、本部へ電話で申告し、死亡者のある場合には、その日の中にトラックが迎えに来る。死骸は古い担架にのせ、毛布をかぶせて、トラックに積みこむのだが、十中八九素足が毛布からはみ出し、これまた十中八九マラリアか、あるいはマラリアを併発しての病気なので、黄色い皮膚が南国の太陽に照らされ、いたましい光景を呈するのを常とした。親しい戦友か、あるいは常備使役の兵隊が四人、スコップと十字鍬を持って乗りこむ。埋葬地はどこか、とにかく、病院や収容所からは見えぬ所にあった。
 アパリの収容所事務を扱ったのは、独立水陸両用戦車大隊の一中隊であった。ABは戦車の運転手だったそうで、いわば歴戦の勇士なのだが、実に物静かで、黙々と死体の運搬をやった。いやな仕事に違いないのに、いやな顔をするでもなし、文句をいうでもなかった。
 ある時、死亡した患者の遺骸を、埋葬するまで、日陰に安置しておいたのではあるが、暑気が激しいので、早くも臭いがして来て、埋葬に行く日本の兵隊が「くさいくさい」という程だったが、ABは何ともいわず、僕の前を通る時右手をハンドルから外して、鼻のさきの空気を払いのける手つきをして見せただけである。表情たっぷりな米国人としては、珍しいといわねばならぬ。すぐ愛人の写真を見せたり、家庭の事情を話したりする兵隊が多いのに、ABは最後までそんなことをしなかった。いかにも大人という感じだった。
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「おとな」という感じを与えたもう一人はFである。年もとっていたが、落着いていて、しかもいい英語を話した。はじめは伍長だったが、間もなくサージェントに昇級し、そのクラスも短期間にもう一つ上った。
 アパリでは Ten-in-one という糧食が給与になった。これは十人一日分の食糧(煙草や便所の紙も入っている)が大きな箱に入っているのだが、PWはほとんど何の仕事もしないし、分量も米国人ほどは食わないので、一箱を十五人でわけることになっていた。で、毎朝の現在人数を事務所に届け、その人数分だけの糧食を受取るのであるが、しょっ中異動があり、また百五十人とか三百人とか、十五できちんと割り切れる数になることはめったにないので、そのたびごとに計算する必要があった。
 これはどういう理由か知らぬが、少くとも僕と交渉のあった米兵は、みんな揃って算術が下手だった。レーションの計算といった処で、そう大してむずかしいことはなく、数学が至って不得手な僕でも、ちょっと鉛筆を持って計算すれば、すぐ正しい数字が出るのに、たいていの兵隊が勘定を間違える。間違えない兵隊はなかったといってもいい位である。僕の片腕みたいになって、よく働いてくれたE衛生曹長は「米国では計算器が発達しているから、暗算や算術は出来ないのでしょう」といっていたが、いくら米国でも、一般家庭にまで計算器がある訳ではない。これはいまだに疑問として残っている。
 ところが暗算が早く、しかも決して間違えなかったのがFである。話を聞くと、ロスアンゼルスで、どこか会社につとめていたとのこと。カウボーイや坑夫よりも、その方の心得があったのも自然である。
 ある時このFが、僕にたのみたい用があるといった。どうして手に入れたのか、戦争中日本で出版された時局漫画集の説明を、英語に訳してくれというのである。百二十五頁ばかりの小冊子で、一頁に一つずつ出ている漫画が、稚拙そのものであるのはまずいいとしても、チャーチルがベソをかいたりルーズヴェルトが頭をかかえていたり、戦争に負けてしまった今日となっては、恥かしくて見ていられぬようなものばかりである。「どうも、これを訳すことは困るが……」というと、Fは自分が決して単なる好奇心から、翻訳をたのむのではないと、前置きして、次のように語った。
 Fの細君はロスアンゼルスで図書館の司書をしている。その図書館には、前大戦中米国で製作されたポスターが、無数に集めてあり、現在から見ると、戦争中の国民は、こんなプロパガンダに踊らされたのかと思うようなのもある。だから日本のこのパンフレットの中に、いかに馬鹿げきった漫画があろうとも、それを恥じる必要は絶対にない。のみならず、この中には、国民に元気をつける意図で書かれたに違いないが、すこし考える人から見れば、戦慄すべき事実としか受取れぬものさえ含まれている。例えば――といって、Fは一枚の漫画を示した。国民学校卒業生の何百万人だかが、校門から直接工場へ、列をくんで入って行く画であり、上にローマ数字でその総数が示してある――「例えばこの漫画だ。下に書いてある日本語は自分には分らないが、この建物は学校らしく、このチムネーがいくつか出ている建物は、工場に違いない。こんな子供が工場で働かねばならぬとは、米国では夢想だにも出来ぬことであり、日本がいかにマン・パワーの不足に苦しんでいるかを何よりもよく示している。プロパガンダをする者がよく考えなくてはならぬ点ではあるまいか」と、理路整然たるものだった。
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AS



 アパリの仮収容所が閉鎖され、病人と婦女子と一般将兵とは、二艘の上陸用舟艇で、マニラに送られることになった。それまでに、陸軍はいいが海軍は乱暴で、腕時計をとったり、何もしないのに蹴飛ばしたりするという噂が、どこからともなく伝わってひろがっていたので、心配する人もあったが、実際はまったくそんなことがなかった。
 僕は一隻に通訳として乗込んだ。病人と婦女子は第一船艙の壁に取外しの出来るズック製の物――米海軍ではサックと呼んでいる――を三重につるしてそこに寝る。ほかの者は船艙に入ってもいいし、甲板に寝てもいいということだった。が、何がさて、足の踏み場もないほどに積込まれた上に、荒天続きの後を受けて、決して穏かな海ではない。便所だって、人数に対しては不十分である。船酔いが出たら――当然出るべきものと考えねばならぬことだ――どうするか。女と男の便所使用時間をきめるかどうか。あっちこっち、無茶苦茶によごすのではあるまいか……これ等の心配は、海軍側の頭痛の種子でもあった。僕は乗艦するなり、相当厳重な心得をいい渡された。幸なことに、みんなよくその心得を守ってくれたが、はじめはどうなることかと思った。殊に直接、私に何かと指図する水兵長がものすごく恐ろしい顔で、口の利きようもきびしく、これはえらいことになったぞと、それまでアパリで、あまり呑気にやって来ただけに、心中大きに恐れをいだいたのである。この水兵長がASである。
 アパリからマニラまでは二晩かかった。その二晩目、つまり明朝はマニラに入港するという時、ASが僕に「君はコーヒが好きか」と聞いた。「好きだ」と答えると、「砂糖とクリームが入っている方がいいか」とさらにたずねた。「しかり」と僕はいった。「プレンティ・オヴ・クリーム?」「イエス」。それでは明朝、そのようなコーヒをつくってやろうというのである。
 船中での食事も、例の Ten-in-one であり、これにはコーヒもココアも入っている。だが、湯というものがなく、リスター・バッグと称するズック製の水袋に、消毒した飲料水が入っているのを使用するので、コーヒにしてもココアにしても、つめたいのしか作ることが出来ない。熱い国のことだから、もちろんそれで結構なんだが、朝の一杯は、フーフー吹いて飲むようなのに、越したことはない。ASの申出を私は大きによろこんだ。
 翌朝は、入港と上陸の準備で、ゴタゴタした。朝飯も早目にすませたが、ASも忙しいらしく、姿を見せなかった。見せたところで僕は「コーヒはどうした」と聞く図々しさは、持ち合せていなかったが……。
 船が防波堤の内に入ると、ASがやって来た。作業服を脱いで、パリッとした白の水兵服である。ちょっとこっちへ来いと、僕を甲板の一隅に連れて行ったが、手には大きな空缶を持っていて、それには一杯コーヒが入り、いい香がする。約束通りのキャフェ・オ・レーである。あたり前のスープ匙よりも、余程大きな銀の匙で、缶の中をかきまわしながら「俺は急に下船して国に帰ることになった。君も早く国に帰れることを希望する。帰ったら便りをくれ」と、紙片に書いたアドレスを渡した。ケンタッキーの古い都会である。
 僕は礼をいい「あなたが早く家庭ホームに帰れることを、僕は非常にうれしく思う。家族はいるのか」と聞くと、「女の子が二人……」といいかけて、突然銀の匙の滴を切り、「これをポケットに入れて行きなよ」といったまま、急いで向うの方へ行ってしまった。(その後、別の場所で書く機会があると思うが、実に色々なことが起って、僕は所持品のほとんど全部を失ったが、この匙と、アパリでG中尉に貰った機械化部隊の徽章と、同じ船の別の水兵がくれたシャツ一枚とだけは、いわば肌身を離さず、持って帰った。)
 その日の午後、一同は上陸したが、僕はそれから二週間ばかりも、この船にとどまった。ある時、副長のB中尉にASの話をすると、「あれも気の毒なことに、家庭にトラブルが起って、ひとつはそれで、早く帰国することになったのだ」といった。子供が二人もいるのに、留守中に細君が家出をしたというのだ。まんざらお世辞ではなく、僕は彼が早く帰国出来ることをよろこぶ、といったのだが、そのホームも、どんなことになっているのか、ASにはよろこばしさよりも、心痛の方が強かったであろう。B中尉は、さらに、ASが非常によく働く男で、海軍でも類がない位であること、酒をのむと手に負えぬ程のトラにはなるが、どんなに酔っていても、自分のいうことだけには必ず服従する、という話をした。ASが酔っぱらうのも、あるいは、家庭生活の心配が、原因になっていたのかも知れない。どんな理由で細君が家出したのか知る由もないが、僕は、戦争が終り、ASが帰国したのを機会に、細君も元の枝に帰って、あたたかい家庭生活の再出発を開始するようになったら、どんなにいいだろうかと、心から希望している。
 ――(B中尉の名前を出したついでに、ちょっと書いておきたいことがある。この拙文を読まれる方々もお考えのことと思うが僕は、PWとして、すくなくとも米国の兵隊との間柄においては、ユニークな経験をした一人であろう。これには、アパリのG中尉とLSTのB中尉とが、大きに関係している。いずれ近く書きたいと思っているが、ここでも一言触れておきたい。)
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AR



 アパリから来た人々は全部マニラで上陸したが、僕は二十名あまりの兵隊が使役のために残るので、通訳として残ることを命じられた。甲板の錆を落し、ペンキを塗るのが主な仕事だったが、それに五日かかった。上陸用舟艇は防波堤の外に出て行き、そこから僕はマニラの市街を眺めた。大きな建物はほとんど全部残っているし、小さい建物はあるのか無いのか見えないから、マニラは以前と同じような外見を呈している。港務所、市役所の塔、さてはアルハンブラ、ペラルタ、ベイヴュウ等、海岸通に並ぶ高級アパート等を見やって、僕はかつてのマニラ生活を思い浮べた。
 艦内での仕事の指揮者は副長のB中尉だったが、直接指図したのはAR――水兵長である。僕より背の低い、ちょっといなせな男で、一向に口を利かないが、よく気がついた。毎朝甲板で Ten-in-one の食事が終ると、道具を持ち出し、どこで何々をしろと命令する。はじめの間は一々通訳していたが、仕事が仕事で至極簡単だから、二日目の午后あたりから、もう僕の用事はなくなってしまった。さりとて皆が日のあたる甲板で働いているのに、僕一人日かげで本を読んでいる訳にも行かないから、時々はスクレーパーを持って鉄板をガシャガシャやったり、箒を持って錆を掃いたりすると、B中尉かARかのどちらかが発見し、「イシ、君はそんなことをしなくてもいいのだ」と制止するのであった。
 ARは三十分おき位に銀盆にシガレットを入れて持ち出し、皆に休むようにいってくれといった。シガレットは Ten-in-one から沢山出て来るので、それだけでも充分だったが、十一月とはいえマニラは暑く、おまけに海水の照り返しがきびしかったので、使役の兵隊はよろこんで一服した。まったくARは無愛想で、しかもよく気がついた。
 ある日B中尉が僕に「本艦は米をウンと持っているのだが誰も食わない。日本人は米を食うそうだが皆にやったらよろこぶだろうか」と聞いた。兵隊達は三度三度、Ten-in-one の御馳走を食いながらも、彼等のいわゆる「主食」がビスケットなので「ああ、これで飯があったら……」と感慨を洩していた。B中尉の申出が彼等をよろこばせたことは想像以上であった。早速炊事場のあいている時、飯を炊かせて貰うことにした。炊事場が狭いので下士官一人が代表になって炊くことにしたのだが、すっかり準備をし、僕が甲板に出て仕事を手伝っていると、間もなくやって来た彼が「石川さん、何かいっていますから一寸来て下さい」という。台所へ行くとARがレンジの前にたっていて「イシ、この男は米を煮るのに塩も砂糖も入れない。牛乳をやろうかといっても分らないらしい。必要な物があればやるから、そう通訳してくれ」といった。僕は好意は有難いが、日本人は水だけで飯をたくのだと説明した、ARは「そんなものがうまいのか」といった。やがて飯が出来、めいめい甲板に車座になって飯盒の蓋や何かに飯を分け始めると、水兵や警備の兵隊がゾロゾロと見に来た。
 Ten-in-one は前にもいったように、十人前が一箱に入っている。アパリではそれを十五人で分けた。この船では二十三、四人だかで分配するので、アパリでやっていたように帳面で計算して、二箱あけると何回分残るから明日は一箱あけて云々とやると、ARは必要なだけ食えばいいので―― Sure, you go ahead ! と針金切を渡すのだった。
 仕事が終って使役兵は上陸したが、僕はさらに東海岸へ行くことになった。たった一人だから Ten-in-one をあけるまでのこともない、軍艦の食事をすればいいということで、三度三度ARが食事を甲板に持って来てくれた。B中尉がそうきめたのか、ARが自分で仕事を買って出たのか、そこは分らないが、何ということなしに、ARは僕の世話係みたいになった。朝などきまって僕のねている前甲板の船艙の天窓から「イシ、チャウ〔メシ〕!」と声をかける。余計なことはまったく喋舌しゃべらずしかもちゃんちゃんとすることはしてくれた。
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 Pというドイツ系の名を持つもう一人の水兵長も、どういう訳か、とてもよくしてくれた。そして、ARと同じように、細君のことや家庭のことは、いっさい喋舌らなかった。陸軍にくらべて、年が多いせいか、あるいはこれが海軍の伝統なのか、とにかく陸軍の兵隊がすぐに細君や恋人の話をするのとはだいぶん違っている。
 Pは大きな男で、何かいってはニヤリと笑う癖があった。そして、一体に僕と何等かの交渉があった米国の兵隊は、みんな親切だったが、Pはまったく何故か知らぬが、特に親切にしてくれた。
 艦では午后になるとビールを売った。一本十セントで、別に制限はないらしい。Pはビールが好きだと見えて、毎日五、六本も買い込んでは飲んでいたが、時々僕に一本か二本くれる。冷凍室の入口、ロビイと呼ばれる小部屋においてあるビールは、適当に冷えていてとてもうまい。これは有難かった。
 ルソン島の南端を廻って、目的地のカシグランに着き、海軍の士官二名と陸軍のR大尉とが上陸するのに、僕も通訳としてついて行ったが、ここが物すごい遠浅で、ボートが砂に坐り込んでしまい、四人ともジャボジャボ水の中を歩いた。用事を済ませて帰り、ズボンだけは余分のがあったのではきかえたが、靴は一足しかないので素足でいたら、Pがそれを見つけ、「代りをさがしてやるから一緒に来い」といって水兵の部屋へ僕をつれて行った。そして大きな物入袋をひっくり返し、新しい靴やシャツを取出しはしたものの、シャツの背中にステンシルした頭文字に気がつくと「ああ、いけねえや、こいつはまだこの艦に乗ってやがる」といいながら、泡を食って仕舞い込んだ。僕は「P、僕の靴は明朝になれば乾くから心配しないでくれ」といって、自分の部屋に帰った。
 もう九時すぎていた。久振りでボートをこいだり、陸地を歩いたりして疲れていたので、僕は電灯を消して眠っていた。その電灯がパチッとついて「ヘイ、イシ!」とPが鉄のはしごを下りて来た。半靴と白い靴下と下シャツとカーキのシャツを持っている。「下シャツは少々よごれているが、よかったら着ていな」というのである。
 数日後、再びマニラに入港した時、僕はこれ等の品をPに返そうとした。水が無くて洗うことが出来ず済まないが……というと、Pはいかにも意外だという顔をして、「俺は君にそれ等を持ってキープいて貰いたいのだ」といった。官給品は一つもなく、みんな自分個人の物だから返すには及ばないという。Pのくれたカーキのシャツは、いまだに着ている。両方のポケットと背中に、Pの頭文字がステンシルしてあるのもいい記念である。
 その日の午后、上陸用舟艇は防波堤の外に仮泊していた。いつの間にか白い服に着かえたPがやって来て、「一寸来い」といった。舳の所が高くなり、ここに高射砲があり、その周囲は一方を残してまるく鉄板でかこってある。その内側に入ってしゃがむと、艦の他の場所からも、また艦橋からも、そこは完全にかくれる。Pはいった――「俺は今から上陸する。君は誰かに手紙を出したくはないか。封筒と切手を持って来たから、何か書くことがあったら早く書きなよ。陸へ上ってポストに入れてやるから」と。そして彼は航空郵便用の封筒と六セントの切手を二枚僕に渡した。捕虜である僕に文通の自由が許されている訳はない。Pはそれを察して、僕の代りに投函してやろうというのである。だが僕はさしあたって誰に手紙を出すあてもなかった。そういうと、「それならそれでいい。その内に役に立つかも知れないから、封筒と切手は持っていなよ」といった。この封筒も僕はPの友情の記念として、いまだに保存している。
 つづいてPはポケットから比島の紙幣を三枚ばかり取出した。何かの必要があるかも知れないから、これを持って行けというのである。これも僕は断った。上陸してPWの収容所へ送られれば、金は持っていても何にもならぬからである。するとPは、何か本当にいる物はないかと聞くのであった。「君は何も持っていないじゃないか。困るぞ」という。「いや、大丈夫だ。何もいらない、本当にいらない。だが、君の親切はとても有難い」というと、「本当にいいのかい」と念を押していたが、やがてランチが来たので舳を去り、後甲板に横付けになったランチに飛びのった。僕は砲塔の上から下を走って行くランチを見下した。Pは僕の顔を見て、ニヤリとした。それきりPにはあっていない。
 何度も同じことをいうが、僕にはPが、どうしてこんなに親切にしてくれたのか分らない。この軍艦で、僕は礼儀正しくしていたが(例えば朝晩の軍艦旗のあげさげに、気がつけば必ず直立不動の姿勢をとった)また、捕虜の身分を忘れず、万事控目に遠慮深くしていたが、僕のこととてお世辞をつかうでもなく、お追従をいうでもなかった。もちろん卑屈な真似はしなかった。Pばかりではなく、米国兵の誰に対しても、強いて気に入られようとつとめたりしたことは一度もないのに、どうしてこんなに大事にしてくれたのか、自分でも分らないが、新聞記者であることと、逃避行の間にひどく白くなった僕の頭髪が、同情をひいたのかも知れない。
 Pの姿が見えなくなると、僕は船艙に下りて行った。大体あしたは君も上陸することになるだろうといわれていたので、僅かではあるが荷物を整理しておこうと思ったのである。すると僕を追いかけるようにして鉄梯子を下りて来たのが、ポーランド系の名前を持った陸軍の警備兵である。数度話したことがあるが、ペンシルヴェニヤの田舎のハイスクールを出たばかりの、酒も煙草ものまず、太ったお母さんの写真を持っている素直で可愛らしい子供ボーイだった。「イシ、君にこれを上げる」といって、ビールの瓶を二本出した。一本ずつ飲むつもりだろうと思って、「おや、君はビールはのまないんじゃないか」と聞くと「僕はのまないよ、ビールを買ったのも今日が初めてだ。二本とも君のだよ」といった。僕はなんだか瞼の裏があつくなって来て、二本ビールを立てつづけにラッパのみにした。四、五日前に、この青年は「日本に帰ったら絵はがきを送ってくれ」といって、自分のアドレスを僕の手帳に書き込んだ。早く米国に通信が出来るようになるといいと思っている。僕には絵はがきを出したい相手が多数いるのだから……。
[#改丁]



サージェントG



 ルソン島の東海岸カシグランに、山越しをして来た日本兵がいて、その四十名が担送患者リッター・ケースだという情報に、僕が乗っていたLSTは僚艦と共にルソン島の南端をまわって、カシグランへ航行することになった。陸軍側からR大尉が、Gというテック・サージェント以下数名を引率して乗込み、マニラ湾を出帆した。日本人は僕一人である。それで、乗組員と同じ食事をすることになった。士官と水兵の食事が終る頃、きまってARという水兵長が「イシ、チャウ」と知らせに来る。僕は遠慮して甲板でひとりで食事をした。この時のことは既に書いた通りである。
 ある朝、ひどい時化しけで甲板にいられず、兵員の食堂で食事をした。オイルクロースを張った食卓の一番端に、皿を持って行って坐ると、丁度食事を終って立上ったGが、実にさりげなく、塩と胡椒の小瓶を右手の甲で押して食卓の上をすべらし、僕の前に置いて出て行った。
 朝飯にはベーコン・エッグスが出た。塩と胡椒は僕からすこし離れた所にあり、そこには水兵が二、三人まだ食事をしていたから「取ってくれ」といえば取ってくれたに違いないが、PWである僕は遠慮していたのである。それと察してかどうか、Gは出がけに、黙って僕に親切をしてくれたのである。特に捕虜に情をかけるとか、武士の思いやりとかいうのではなく、なんということなく、習慣みたいに、こんなことをしたのである。これは何が原因しているのだろう。家庭の躾であるとしか、僕には思われない。それにしても、何といういい躾だろう。僕にはGの家庭が、目に見えるような気がした。僕の胸には、何か暖かい霞みたいなものが、一ぱいになった。
[#改丁]



J・G



 エル・パソを故郷とするJ・Gのことも、忘れられない。
 その名が示す通り、彼はメキシコ人で、国境を越したテキサス州にうつり、米国市民になったのである。僕は通訳として彼と知合ったのではない。帰国する時に乗せられたリバティ船に、護送兵の一人として乗込んだ彼と、それもたった一度、話をしただけである。話をしたというよりも、彼のモノローグを聞いたといった方が、真実に近い。
 僕は千五百人のPWと一緒に、リバティ船に乗り、正式な通訳もいるので、何の仕事もしないでいた。ある晩、甲板に出て煙草を吸っていると、丁度当番をしていたGが、ふらりとやって来て、僕の横に腰を下した。彼の名は、銃の負革に書いてあったので、知っていたが、それまでに話をしたことはなく、僕が英語を知っていることなど、Gが知っている筈はなかったのである。
 黙って煙草をふかしていたGが、突然口をきいた。向うの舷板によりかかっている、若いPWの方に顎をしゃくって見せ、彼は「ザット・ボーイ」といった。
That boy don't want to kill me : I don't want to kill him.
 といい出したのである。
「あのボーイは、何も俺を殺したいと思っていやしない、俺だって、あのボーイを殺そうと思いもしない。だが、上の方にいる大物が戦争をしろというので、あのボーイは俺を殺さなければ自分が殺されるので俺を殺したいと思い、俺だって同じことだ。戦争っていやなものだ。俺は嫌いだ」と一気にいって、そのまま黙りこんでしまった。僕に聞かせるというよりも、単にひとりごとをいったのであろう。「君のホームはどこだ」と聞くと、なんだ、お前、英語が分るのか、というような顔をしていたが、「エル・パソだ」と答えた。He don't は文法的に間違っているけど、こんな間違いはざらにあるし、我々だって、必ずしも、文法的に正確な日本語ばかりを話していはしない。この一事で、米国の兵隊は無学だなぞと、早呑込みをしないように、ちょっと断っておく。
 それはそうと、Jは無口な男で、それきり僕にあっても何もいわないし、僕も黙っていた。浦賀で上陸する日の朝、さよなら! といっただけである。だが、あの晩の「ザット・ボーイ」だけは、僕はいつまでも忘れないだろうと思う。





底本:「比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦」中公文庫、中央公論社
   1995(平成7)年2月18日発行
底本の親本:「比島投降記」大地書房
   1946(昭和21)年11月
初出:「比島投降記」大地書房
   1946(昭和21)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※〔 〕内の註は、著者の子息石川周三氏による加筆です。
入力:富田晶子
校正:雪森
2017年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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