可愛い山

石川欣一




山へ入る日・山を出る日



 山へ入る日の朝は、あわただしいものである。
 いくら前から準備していても、前の晩にルックサックを詰めて置いても、いざ出発となると、きっと何か忘れ物があったのに気がつく。忘れ物ではなくとも、数の足りぬ物があるような気がしたりする。すっかり足ごしらえをした案内や人夫が、自転車で走り廻る有様はちょっと面白い。
 それもまア、どうにかこうにか片づいて、いよいよ歩き出す。たいていの場合、町なり村なりを離れると、林の中か野原を横切って行くのだが、二、三時間も歩くと、くたびれて了う。一つには身体の鍛練が出来ていないからで、二つには暑いからである。草のいきれ程うれしからぬ物はない。
 時々馬にあう。林の中の路を、荷をつけた馬だけがポカポカやって来るので、驚いていると、大分あとから呑気そうな顔をして、樵夫が来たりする。一本路だし、馴れてはいるし、すてといても馬は家へ帰るのであろう。路はだんだん狭くなる。馬の糞も落ちていないようになる。と、思いがけぬところに林を開いて桑が植えてあったりする。落葉松、白樺等の若葉が美しく、小さな流れの水を飲んでは木陰に休む。野いちごの実を見つけて食うこともある。
 昼の弁当をつかう頃には、水もつめたくなっている。
 かくて一歩一歩、山へ入って行くのだが、比較的路が容易なので連れがあれば話をするし、無ければ何か考えながら行く。連れがあっても、そう立て続けにしゃべるわけには行かない。時々は考えこんで了う。
 私は大して臆病ではないつもりだが、山へ入る前には不思議に山のアクシデントを考える。何か悪いことが起りそうな気がしてならぬのである。そんな気持ちを持っていられる間は山もたのしみだろうと、ある友人がいったが、まったくそうかも知れない。一種のアドベンチュアをやっている気なのだから……。従って山へ入る日の私は、決して陽気ではない。むしろ憂鬱な位である。そして最初の夜は、殊にそれが野営であれば、とても淋しく、パイプをくわえたまま吸いもしないで、ボンヤリ焚火の火を見つめては、子供のことを考えたりする。
 山を出る日は、恐ろしく景気がいい、天幕をたたむにしても、山小舎の中を片づけるにしても、非常に迅速に仕事がはかどる。平素無口な案内者までが冗談口をたたいたりする。
 もちろん山によって違うであろうが、たいていの路は尾根を走らず谷によっている。で、山を出るにしても、先ず谷へ下るのであるが、これが川の生長に伴うのだから面白い。朝、雪解の水が点々と滴り落ちているあたりを立って、昼には広い河原で最後の弁当を食い、夜は大河の畔の宿屋で寝ていたりすることがよくある。
 山へ入る時憂鬱な私は、出る時は、多くの場合陽気である。もちろん山に別れる悲哀はあるが、これはむしろ翌日汽車の窓から振りかえる時に多く感じるので、現に山を下りつつある時には、ひたすら、一刻も早く、麓の町に着こうと努める。やはり、人が恋しいのだろう。
 山から下りながら、人間の力が如何に山にはい上りつつあるかを見るのは、まことに興味が深い。一本二本、木が伐ってある。急な斜面に粟がつくってある。掘立小舎、芝土を置いた橋、小さな祠、そして最後に人家。
 一昨年の六月、信州から立山たてやまを越して富山へ出た最後の日には、女が目についた。紺の香りも新しい揃いの単衣ひとえに、赤いたすき、姉さんかぶりで田植をしているのを見た時には、美しいとさえ思った。立山温泉から芦峅寺あしくらじまで、人のいやがる長い路だが、一里ごとに人間の仕事の跡が増して行って面白かった。だんだん路幅が広くなり、馬糞の数がふえ、ついに夕暮の芦峅寺へ着くと、村唯一の銭湯の前に田植馬の湯銭は三銭とか書いた札がはってあった。
 いよいよ麓の町にさしかかる。多くの人は山に登って来たというので、一種のエクザルテーションを感じるらしい。凱旋将軍のような気持ちになるらしい。私は、初めて白馬しろうまに登って大町に帰って来た人が、対山たいざん館の三階で酔いつぶれたのを見た。学生を率いた中学校の先生が、部屋が無いというので怒号しているのを見た。かかる種類の興奮は、もちろん人にもよるのだろうが、山に登る数と反比例して減じて行く。
 去年上高地へ行った帰りには大阪のある女学校の生徒たちと一緒になった。男の先生二人とは名前を予ねて知り合っていたので、岩魚いわなメで名乗り合い、松本まで後になり先になりして歩いたが、流石に娘たちは男の学生みたいに騒ぎも威張りもせず、誠に気持ちがよかった。島々へ入るすこし手前で、ルックサックからスカートを出して、ブルーマースの上からはいていたりしたが、如何にも山を下りて里へ出る有様をあらわして、私は思わず微笑した。島々から電車は満員で、先に乗った男の生徒や案内者が坐って了った為に、立っていた娘も多かったが、私が連れて行った大町の老案内は、私が立ったのを見て、自分も娘の一人に席を譲ってくれた。
 六月になった。この頃湿気の多い、いやな日が続く。早く山へ行きたくて仕方がない。山の話を書くことが苦痛なくらい、山を思っている。
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平の二夜



 こころみに地図を開いて見る。信州と越中との国境は、南は標高二八四一米のレンゲ岳(また)に始まり、うねうねと屈曲していはするものの、大体において真北を指し、野口五郎のぐちごろう烏帽子えぼし蓮華れんげはりじい鹿島槍かしまやり五龍ごりゅう唐松からまつ等を経て北、三千米に近い白馬しろうま岳に至る約二十里の山脈の上を走っている。故に信州から直接越中へ出るには、どうしてもどこかで山を越さねばならぬ。大黒だいこく(二四〇五)を越して祖母谷ばばだに猿飛さるとびへ出るのもよい。中房なかふさから東沢乗越ひがしさわのっこしを経て高瀬たかせ川の上流へと下り烏帽子へかかってみなみ沢から黒部くろべ川へ出ることも出来る。かご川入りをしておうぎ沢から爺(二六六九)の西南に当る棒小屋乗越を越し、棒小屋沢を下って黒部川に落ち合うのも一つの路である。だがこれらのルートは、いずれも長く、且つ困難であるから、単に登山の目的で採用するのならとにかく、実用としては適していない。もっとも実用といえば、汽車のある今日、長野から直江津を経由して富山へ出れば一日で楽々と行けるが、比較的興味があり深山幽谷の気分が充分味わえ、而も大した労力なしに信州から越中へぬける路は、やはり昔ながらの針ノ木越えによることである。
 松本から北へ、信濃鉄道の高速度電車で約一時間行くと、大町へ出る。大町のすこし手前で、レールは長い橋を渡っているが、この橋の下を流れている水は、鹿島川、籠川、高瀬川の三流が合したものである。くわしくいうと、鹿島、籠の二川は高瀬川の支流であるが、そんなことはどうでもいい。要するに川が三つ。従って谷が三つ、鹿島入り、籠川入り、高瀬入りと呼んで、この三つが大町から北アルプスへ入る自然の道路を、なしているのである。
 針ノ木峠へ行くには、籠川入りをしなくてはならぬ。籠川は加賀川から来たのであるという。この川を溯って行くと加賀の国へ出るというので、加賀川と呼んでいたのが、いつの間にか籠川になったのであろう。石ころの多い磧をゴロゴロと歩いて、足を痛くしたのは昔のことで、今は立派な道が左岸を走っている。白沢、黒沢、扇沢、丸石まるいし沢などという激流が、左右から白い泡を吹いて落ちこんでいるのを見ながら行くと、一日で大沢の小舎まで行くことが出来る。女でも楽に行ける。
 大沢の小舎は標高約二千米のところにあるから、夏でも寒い。ここに一泊して翌朝はすぐ針ノ木峠へかかる。たいてい雪が小舎のすぐ上まで来ている。所謂針ノ木の雪渓で、上の方は中中急である。何しろ直線を引けば僅か二十町くらいのところを、二、三時間かかって七、八百米登って行くのだから。
 針ノ木峠は蓮華岳(二七九八)と針ノ木岳(二八二〇)との中間の鞍部あんぶにある。峠といっても二千五、六百米の高さを持っているのだから、下手な山よりは遥かに高い。峠の茶屋とか、「雲雀ひばりより上に」の俳句なんぞを考えて来る人は吃驚びっくりして了う。偃松はいまつと赤土と岩ばかりである。だから大抵の人はここで弁当をつかわず、鎗(三一七九)や穂高の大観を眺めた後、すぐ峠を下りはじめる。一歩下りかければそこは越中で、所謂針ノ木谷が、つんのめるように黒部川へ落ちている。弁当は紫丁場むらさきちょうばでつかうがよい。雪解けの水が小さな滝をなしている。
 針ノ木谷を流れる水は、南沢を合して勢を増し、飛ぶようにして黒部の本流へ流れ込む。その合流点にささやかな、而も黒部の渓谷では唯一の平地があり、ここがたいらなのである。標高約千四百米。人々はここで一泊して、翌日は温谷ぬくいだにをさかのぼり、右手にスカイラインをなす刈安峠かりやすとうげを越して更にザラ峠を越し、湯川の谷を下って立山温泉に一泊、常願寺じょうがんじ川に添って芦峅あしくら千垣ちがきから汽車で富山へ出る。
 この針ノ木越えの歴史は古いものである。戦国時代の勇者、佐々成政さっさなりまさが軍勢をひきいて、冬十二月にこのルートを通過して以来(もっともこれは歴史的に証明はされていない)明治になっても十何年代までは物資を積んだ牛が、夏には列をなして針ノ木越えをやった。現にその時代の道路の一部が残っているし、また牛小舎の遺物もある。
 大町から富山まで、大沢、平、立山温泉と三泊であるが、三ヶ所ともに立派な小舎があり、食料、寝具は勿論、すべての物資がふんだんにあるから、大した苦労をしないで旅行することが出来る。刈安、ザラの二峠で参った人や、山の好きな人は、ザラ峠を下るかわりに五色ヶ原に出ればよい。ここにも小舎がある。一泊して翌日は雄山おやま(立山神社がある。二九九二米)に登ると面白かろう。
 以上長々と針ノ木越えの説明をした。これ位のことは山岳好きの人ならば誰でも知っているであろうが、まるで山のことを知らぬ人や、山に登って見たいが、どこがよかろう等と考えている人もあることと思って、すこしくどい位くわしく書きしるした。
 この平で今年(大正十五年)の六月のはじめ、大町の百瀬慎太郎君と、案内者の北沢清志氏と、それから私と、三人が二夜とまった記録を、以下数枚にわたって、書こうと思う。針ノ木越えは十数年前に一度と、今回と、都合二回で、大して珍らしくもないが、平の泊りにはいろいろと面白いことがあったから……

第一夜


 大沢小屋から平までは、楽な一日行程であるが、朝出発するのが遅かったのと、途中で――殊に針ノ木谷を下りる途中――気持のいい所がある度ごとに長いこと休んで駄弁ったのと、只でさえ歩きにくい路の所々に残雪がかかって径を閉鎖していた為に、つまらぬ迂回を屡々行ったのとで、黒部の本流に出たのはもう七時に近かった。今迄歩いて来た渓谷に比べると、ここはさすがにあかるい。すばらしい水量で激しく流れて行く川の向う岸には、消えかけた雪の中に板づくりの家が二軒見える。上手の小さいのは毎日新聞が県に寄贈した小舎で、下手の大きいのは日本電力の出張所である。あすこには人がいる筈なので、こちら側にある東信電気の小舎の前を素通りして、急な絶壁へ取りかかった。
 平で黒部川を越す方法は従来二つ。一つは有名な籠渡しによるので、もう一つは籠渡しの少し上流を徒渉するのである。籠渡しは太い針金に滑車をかけ、滑車から縄でぶら下げた板に乗って、ブランブランと向う岸へ渡るのである。徒渉とはいう迄もなく、ザブザブと水の中を歩いて渡ることである。夏向きでよかろうなどと思う人はやって見るがいい。深い所は腰の上まで、川底はゴロゴロな石で、流れは疾い。ともすれば足をすくわれる。すくわれたら最後、手足がそろって日本海へ出られれば幸福である。もう十何年か前になるが、私は朝九時頃にここを徒渉した。盛夏で、水の量はすくなかったが、それでも一行八人、向う岸へ着いた時は唇を紫色にしていた。今は水の多い最中で、おまけに水温も気温も低い。とうてい徒渉は出来ぬ。籠渡しもこわれている。だが幸い、昨年の秋、二町ばかりの下流に吊り橋がかけられた。我々はこの吊り橋を渡るべく、細い路に足を踏み入れたのであった。
 二町下流といい、川添の路というと、黒部を知らぬ人は五、六分にして吊り橋に達し得ると思うであろう。だが黒部川は「その水源地より愛本あいもとに至り、山地を離るるまで蜒々約二十里の間は、本邦稀に見る絶壑ぜつえいを成し、滔々として奔流の両崕に激越せるを見る。其の立山・白馬両山脈の間は、地域狭隘にして支流の発育極めて短く、直ちに本流に注ぐを以て、至る処に懸谷けんこくがある。」――(吉沢庄作氏著「立山」)――ので、この路も絶壑をからみ、懸谷を横切っている。而も幅は僅か一尺か二尺、ある場所は露出した岩石に、足跡をつけた程度である。我々は先ず小さな残雪を越して、木の生い茂った崖にとっついた。北沢、百瀬、私の順序で行く。もう薄暗くなって来て足もとがあぶない。疲れてもいる。朝から午後四時頃まで、絶えず雪の上を歩いていたので、軽度の日射病にでもかかったらしく、頭が痛む。唇がカサカサになる。黙々として一歩一歩、注意しながら進むと、小さな谷にでくわした。吉沢氏の所謂懸谷で、いずれ路はついているのであろうが、雪が残っているので判らぬ。慎太郎さんが先に立って、ステップを切りながら越した。雪を渡り切ると一間ばかり砂土が露出している、足がかかると共にザザラ! と音がして、砂ごと身体が下へ落ちる。その身体に落ちるだけの時間を与えず、ヒョイと二の足を踏み出して、続いてヒョイヒョイと下へ引っぱる力に敢て抵抗するでもなく、なかば落ちながら身体は前に進めて、無事に土砂の斜面を渡り切る。
 渓のこちら側に立って、バットに火につけてこれを見ていた私はいやな路だなと思わざるを得なかった。雪のグラディエントは、素人の目には六十度近くに見える。とても上り下りは出来ぬくらい急である。然しステップが切ってある以上、又夕暮と共に雪が幾分固くなっている以上横切ることは大して苦にならぬ。よしんば辷っても、ピッケルの使用法をあやまらなければ、自分一人の身体くらいはとめることが出来る。雪は平気だが、あんな風に露出した土砂は、実にいやである。一度すべったら手も足もピッケルも用をなさぬ。下を見ると、水が狼の牙のような白い泡を、噴き上げている。落ちた日には、助かりっこない……と考えはしたものの、そこがやはり山を知る者の強味で、別に恐怖を感じるでもなく、雪渓にさしかかる。グン、グンと靴さきをステップに打ち込んで渡り切る。片足を砂にかける。ザラッ! と落ちる。ザザザザと通過して了う。しっかりした路についた時には、やれやれと思った。
 路は崖のかたちそのままに、急に右へ入っている。ここにも谷が切れ込んでいるのである。Vの字を水平に置いたようなきれ込みである。こちらには路があるが、向う側は一面の砂土で――一体が風化しやすい岩石なのであろう。それが雪をかぶって更にもろくなった所へ、上から雪崩が落ちて来たので、ザラザラになっている――その灰色の断崖には、いくら見ても、どう考えても、路らしいものが見えぬ。
 Vの字の底には固い雪が残っている。北沢は荷を下して、雪の所まで様子を見に行った。私と慎太郎さんとは、立ったまま、ルックサックを唐檜とうひの根にもたせかけて、休んだ。非常に傾斜の急なところに路をつくったので、こんなことが出来るのであろう。
「おい。その辺に下へおりてる路はねえかい。」
 北沢がこう声をかけたので、私は二、三間引きかえして見た。
「ないよ。」
「上へ行ってる路もあるめえな。」
「ない。」
「向うにゃ路がねえだな。」
「雪崩で崩れちまったんだろう。」
「どうするかね。」「どうしましょうね?」――これは慎太郎さんが私に聞いたのである。
「さあ。」
 北沢が帰って来た。日電の小舎には、人がいないのじゃあるまいかという。なるほど燈火あかりが見えない。一度呶鳴って見ようというので北沢がオーイ、オーイと大きな声を出したが、返事もなければ燈火を出して見せるでもない。
 再び、どうしようという相談が起った時に私は言った――「帰りましょう。こんな所でウロウロしていても仕方がない。大分つかれて来たし、足もとが悪いから、若し辷りでもしようものなら莫迦ばかげている。今晩は東信の小舎で泊って、あしたゆっくり路をさがしましょう。日電の小舎が面白かったら、あした一日遊んでもいいし、若しいよいよ路が分らなければ大町へ引きかえしてもいいんだから……」
 籠渡しの二、三丁下に、吊り橋の出来ていることは知っている。路があるにせよ無いにせよ、とにかく右岸を伝って、吊り橋に出られることは知っている。現に五日の日、富山から大町にぬけて来た法政と商大との学生は、日電の小舎から吊り橋を渡って、針ノ木谷、針ノ木峠、大沢と、我等の路を逆に来たのである。対山館で泊り合わしたのだから、あの二人、ことに芦峅から案内して来た光次郎に、もっとよく聞けばよかったのだが、こちら三人、殊に慎太郎さんと北沢とは、平の附近をよく知っているので、行けば判るだろう、で出て来たのであった。もちろん行けば判るのだが、こう暗くなって来ては、如何な山男でも猫か梟でない限り、視力が利かなくなる。
「そうですか。それじゃ帰りましょう。別に急ぐんでもなし……」と慎太郎さんは私の提議に同意した。三人は引きかえした。
 東信の小舎は東西に長く、十何畳ぐらいは敷けるであろう。西、即ち黒部の本流に面した方が入口になっていて、さし出した屋根の下には四角な風呂桶、燃料等が置いてある。ガタビシャな戸を明けると、中は鼻をつままれても判らぬ程のくらやみで、キキキと鼠が鳴く。とりあえずルックサックを投げ出した私は、日と雪でピリピリする顔の筋肉を収縮させて、ニヤリとした。私の知人で鼠を非常に嫌う人が二人いる。往来を歩いていて鼠の死骸でも落ちていると、横丁へ曲って了うくらい嫌いなのである。私がニヤリとしたのは、この二人を思い出したからである。「慎太郎さんと俺でなくて、MさんとBちゃんとがここに立ったら、二人はどうするだろう。入らないで、熊笹の上に寝るかしら」と、詰らぬことを考えたからである。
 とりあえず蝋燭に火をつけて、まっくらな小舎の内に入ると、中央が土間兼囲炉裏で、左右がアンペラ敷きになっている。その土間に足を置いたまま、アーンとアンペラの上にねころがる。今宵の宿もきまったという安心に、急につかれが出て、靴をぬぐのも億劫になる。
「御免よ!」と北沢が焚木をかかえて入って来た。火をつける、勢よく燃える。「ゆんべとちがって乾いているので、よく燃えるだ」と言ったのは、前晩泊った大沢小屋が雪に埋れていた為にしめっぽく、火を燃しつけるのに三十分ばかりかかったからである。
 燃え上る焔に照らされて、小舎の内部がハッキリする。奥の方には夜具やら米俵やらが屋根に届くまで積み上げられ、上から大きなキャンヴァスがかけてある。
 ふと天井からつるしたランプに気がつく。どうやら石油が入っているらしい。急いで靴をぬぎ、しめった靴下三足をむしり取って、ランプを見に行く。果して石油が入っているので、こいつは豪遊! と、学生みたいなことを言いながら、火をつけた。
 小舎の隅から鍋をさがし出して、それを洗いに行った北沢が帰って来た。山独活うどと、ウト蕗と袮するすこぶる香の高い草とを手に持っている。このくらやみで、どうしてこんなものを発見して来たのか、我々には見当もつかぬ。
 前夜泊った大沢の小舎は、雪のために水に不自由したが、ここはすぐ前を雪解の水が流れているので、至って便利である。慎太郎さんのと私のと、二人の飯盒に半分以上も入っている昼飯の残りを鍋で煮て、ミンチビーフの鑵詰をあけ、うまいのだかまずいのだか、ちょっと判断に苦しむようなオジヤをこしらえた。これと、独活及びウト蕗の味噌汁と、干鱈の焼いた奴とで晩飯にする。北沢はどこからか目覚時計をみつけて来て、しきりにいじくり廻していたが、「四時半に鳴るようにしてくれねえか」と言うから、焚火ごしに手をのばして、アラームを調節する。あしたは四時半に起きて路をさがしに行くとのことであった。
 飯が済むとすることが無い。濡れた靴下を炉の上につるし、長々とアンペラに横たわって寝る。
 焚火が消えかけると足が寒い。新しい薪をくべると、やけどしそうになる。夜中に何度も目が覚めた。鼠が騒ぐ。柱の釘にかけた私の上衣の、襟の裏についているひつかけが切れてドサンと顔の上に落ちて来た。風の音、黒部の瀬の音。

第二日


 目をさますと、向う側にねていた北沢がいない。ランプの光に、目覚時計だけが光っている。眼鏡をかけて見ると五時ちょっと前。囲炉裏のとろ火には味噌汁とお茶とがかけてある。
 まだ早いから、もう一度ねようかと思ったが、目が覚めて了うと小舎の中の煙っぽくて埃っぽい空気がたまらなくなる。お茶を一杯と、横にころがった瀬戸引きの水飲みを取り上げると、中には灰が沢山入っている。ズボンのポケットから、前二日間の汗と水っぱなとでヨレヨレになったハンケチを出し、それで拭って茶を飲む。きたないことが平気になるから山は不思議といわねばならぬ。
 慎太郎さんはよく眠っている。この人も私同様、宵っぱりで朝寝坊だから、いかに山でも六時や七時には目をさまさぬ。私が早く起きたのも、実はお腹がいたかったからである。
 昼間のままの服装で寝るのだから、起きるにしても手がかからない。上衣をひっかけ、素足に靴をはいて小舎を出る。小舎の前の、幅一尺ぐらいの流れで顔を洗う。口をゆすぐ。……と、誰でもやることを不思議そうにいうのには理由がある。我々は山に入ると、めったに顔を洗わないからである。
 ぐずぐずしていると寒くなって来た。いそいで小舎にもぐり込み、白樺の太い枝を炉にくべる。ねころがって、さてすることがない。靴下を外して見ると乾いている。さるおがせのような油煙がついている。それを丁寧に払い落してはく。スウェッタアを着て、また戸外へ出る。
 ふと見ると黒部川の向う岸に、人が二人立っている。一人は北沢で、もう一人は羽織を着た人である。二人は話をしながら上の方へ行く。籠渡しの所で立ちどまった。こちら岸の籠渡しまで行くには、大分広い雪を歩かねばならぬ。私は急いで靴の紐を結び直した。小舎の入口の、風呂桶の上においたピッケルを取りに戻った。
 私がピッケルを取りに戻っている間に、向う岸の二人は籠渡しの針金に添うて目を走らせた。二人は当然その針金の終りにいる私に気がつく。私は右手を上にあげて挨拶した。和服の人は腰をかがめた。
 見ていると北沢が、籠渡しの板に乗った。破損して用をなさぬと聞いていたが、これで見ると役に立つかも知れぬ。私は、「占めたぞ!」と思った。籠渡しが使用出来さえすれば、昨日のようないやな路を通らなくても済む。北沢はブランブランと針金を伝い始めた。長い針金が、重みにつれてさがる。板はスラスラと四、五間河の中央へ近づく。和服の人は何か言いながら、盛に縄を繰り出す。
 そのうちに、バッタリ板がとまって了った。どうやらちっとも動かぬらしい。と、向う岸の人が縄を手ぐり込む。北沢は両手を横に振って見せる。右手をあげて、こちら岸の崖を指し、ずうっと下の方へ動かす。籠渡しは駄目だから、崖をへずって下流の吊り橋を渡って来いという信号なのであろう。二、三度腰をかがめたと思うと北沢は狭い河原へ飛び下りた。そしてスタスタと下って行く。和服の人は上の路を、小舎の方へ歩く。
 小舎に帰って、まだ眠っている慎太郎さんを起した。籠渡しの一件を話している所へ北沢が帰って来た。彼等山男は、七、八貫の荷を背負って我々と一緒に歩くのであるから、空身だと飛ぶように早い。「飛ぶように」ではなく、実際、石でも岩でも丸木橋でも、ヒョイヒョイと飛んで行くのである。
 山としては遅い朝飯を食いながら、北沢が向う岸の人の話をする。「大将みてえな人が一人と」――あの和服を着ていた人か? と聞くと、ウン、あの人だと答えた。――「越中の衆が一人いただ」という。あんまり口を利かない、おとなしい男だろう? と慎太郎さんが聞く。
「ああ、若え男だ。」「そんなら重吉だ。」「あれが重吉かね。」
 北沢は四時半に起きて、飯の仕度をしてから小舎を出たのである。前夜引きかえした所まで行くと、前につき出した崖を廻った所に、新しい吊り橋が見えた。路が無いと思った面には果して路が無い。引きかえして、前晩ステップを切った雪渓の横を登り、谷を一つ越して、急な藪をすべり下り、存外容易に吊り橋に出ることが出来た。日電の小舎へ着いたら大将みたいな人が、腹がへったろうと言って、麦飯を喰わしてくれたが……「へえ、うまかったでえ……。えれえいい小舎だな。大きな熊の皮なんぞが敷いてあってな、新聞屋と宿屋のむすことを連れて来たと言ったら、そりゃあ面白い、早く来な、御馳走するぞってた!」
 慎太郎さんと私とは、この「新聞屋と宿屋のむすこ」に至って、顔を見合わせて苦笑した。なるほど慎太郎さんは大町の対山館の長男であり、私は新聞やであるが、こんな山の中まで、かかる商売――それも一般からは、あまり柄がよくないように思われている――がつきまとうのであっては、いささかニヤリとせざるを得ない。
 小舎の内外を綺麗に片づけて、出かけたのは九時半ごろであった。前日に比較すると、身体が疲れていないだけ、悪い道も楽に歩けたが、それでもいやな場所が多かった。雪解の水が流れている狭い谷を登る時なぞは、袖口や襟から、泥と水とが流れ込んで、気持が悪くて仕方がなかった。ずいぶん危険な所もあった。が最後に、若い木と熊笹とが茂った急斜面を、がむしゃらに辷り降りて、大きな落葉松からまつの林に、まだ誰の足跡もついていない雪田を踏んで立った時には、うれしかった。雪を渡り切ると五、六尺の崖、すぐ下は川であるが、極めて浅い。砂利が出ている所もある。ストンと下りて、先ず一口、黒部川の水を飲む。
 二、三間歩いて岩の鼻を廻ると、吊り橋である。ユラユラと左右にゆれながら渡る。三人そろって日本電力の出張所へ入り込んだ。

平の半日


 向う岸からこっち側まで、二時間ばかりもかかったので、かなりつかれた。あてがわれた二階の部屋に通って窓から見ると、すぐ目の前に大毎だいまいの小舎が、白い雪に対して殊に黒く、きたなく立っている。私は何故か dilapidated という英語を思い出した。さっき崖を登る時、上から墜ちて来た岩で膝を打った北沢が、メンソレータムを貰いに入って来る。
「打ち傷にはこの方がいいだろう。」と沃度を持って、宮本さんが入って来られた。今朝の和服の人で、日本電力の出張員である。この山の中に住んで、黒部川の水量、速度、温度等を測定しておられるのである。
「どうです。もうお昼に近いしするから、今から温泉まではちょっと無理でしょう。今日は遊んでいらっしゃい。岩魚いわなでも釣ったら半日ぐらいはすぐ立ちましょう。」
 私どもは大いによろこんで了った。実はこちらから、今日一日遊ばせて下さいと言いたい所だったのである。第一小舎が気に入った。第二に平で遊ぶということが、またと得られぬ快いことのような気がしていた。
 小舎――それも富山から十二哩汽車に乗り千垣で下車してから芦峅まで二十町。この芦峅から一里半で藤橋ふじはしに出る。藤橋には人家が五、六軒もあろうか。あとは常願寺川に添うて登ること三里半、ここが立山温泉。ザラ峠を登って下りて、又急な刈安峠を上下する都合四里。富山から平地としても十五里半の山の中にある小舎は、果してどんなものであるか、想像もつかぬ人が多いであろう。私はノートを出して、この小舎の部屋の配置をうつしとった。実は、自分もこんな小舎を、山の中に一軒持ちたいと思ったからである。「南北三間、東西五間。二階建、下は土間で、南側が炊事場。他は薪炭糧食置場。西北隅にある階段は二階に通ず。外側の同じ位置にも階段があり、これはバルコンに達している。板敷き、畳敷き、押入を中心に、西は大きな押入と人夫室兼用食堂。東は事務所と寝室とになる。二階の天井に戸がついているのは、二階の窓まで雪に埋った時の出入口。屋根及び東西面羽目(二階天井より高く)出入口あり。」――私の手帳には二階のプランの横に、こう書いてある。
 昼飯を済ましてから慎太郎さんと二人で、すぐ向うにある大毎の小舎を見に行った。この小舎は雪の中に建っている。南の方の入口から入る。ひどくなっているが、人が来ればすぐ綺麗になるであろう。二階――と言ってもアティックだが――に酒の空瓶がゴロゴロしているには驚いた。
 日電の小舎に帰ると宮本さんが「今夜、岩魚を御馳走したいが、あいにく昨日の残りが二匹しかいません。重君を案内に釣って来られたらどうです」と言われる。岩魚釣とは面白い、品右衛門の話も思い出す。さァ出かけようと我々三人、重吉のあとをついて行く。もっとも釣竿は四人に対して二本である。
 しばらくは若芽の美しい林の中を、雪を踏んで歩く。林がつきて岩になる。岩の下は黒部の水。……あの水の美しさは、只見た人のみがこれを知る……三人から、はるかに後れて、岩をいくつもいくつも越したり、一坪か二坪ばかりの白い砂地に靴のあとをつけたりして行くうちに、ふと、大きな、丸い岩にはらんばいになって、しきりに下の水をのぞいている北沢の姿を発見した。「つれたかい」というと、左手を後に廻して、むやみに振りながら「静かに! 静かに!」と小声でいう。足音を忍ばせて、私も岩に登る。はらんばいになってのぞくと、下は水が物凄いたまりをなして、くるくる渦をまいている。
「あすこにいるだ。」
 北沢は岩魚に聞かれると困ると思ったのであろう。むやみに小さな声を出す。まなこを凝らして見ていると、大きな渦が一つ、するすると本流の方へ流れ出して、その後が油のようにトロリとする瞬間、キラリと蒼黒い魚が二匹、底に近く姿を現わす。北沢は急いで竿を動かし、蚊針を魚のいる方へ近づける。又、渦が来て、スイスイと針を押し出す。
「駄目じゃないか。」
「ああ。岩魚を釣るなあむつかしい。」
「君は今迄に釣ったことがあるのかい。」
「無いだ。」
「そんなとこへ針を下して釣れるのかい。」
「これでいいずら。石川さん釣って見るかね。」
「かして見な。」
 今度は私が針を下したが、中々喰いつかぬ。近くまで来たと思うと、ひょいと逃げる。針が流されて了う。
 考えて見るとどうも蚊針なるものを深淵に沈めて魚をつるとは変である。元来が蚊の形をしている針だから、水面をヒョイヒョイやっている内に、これを蚊と間違えて魚が飛びつくのではあるまいか。私は立ち上って岩を下り、流れに近く立った。ザブザブと白い水沫を飛ばしている瀬にフワリと針を投げる。面白いようにピョンピョン跳るが、魚は一向飛びつかぬ。
 同じ釣れないのなら、魚の顔が見えた方がまだ面白い。私はもとの岩に帰った。二、三度岩魚をだましにかかったが、やはり駄目なので、釣は断念し、岩の上に長々と寝そべって煙草を吸った。目の上の唐檜とうひに、恐ろしく長いサルオガセがぶら下っている。ブランブランと風にゆれる。河の音がする。私はねむくなって来た。
 突然頭の上で、
「オーイ!」と声がした。ねころがったままで「オーイ」と呶鳴ると「なんだそこにいたんですか」と慎太郎さんが姿を現わす。「どこへ行っちまったのかと思った」という。まったくこの黒部川は断崖絶壁が多いので、ちょっとした岩の鼻の向うにいる人でも見えぬことがよくある。我々は二、三間はなれた所で休んでいたのであるが、お互にどこへ行っちまったのかと思っていた。
 流れに添ってすこし下ると、長い吊り橋がある。重吉と北沢とは各々、釣竿を持って、ドンドン橋を渡って行く。向う岸(右岸)の路は、大分高い崖の中腹についている。私どもは写真をうつしたり、話をしたりしながら、あとからついて行った。
 丸い石のゴロゴロした河原に坐って、小さな石を河の中にほうり込んでいると、世間を忘れて了う、何が何でもいいような気がする。まことに呑気である。汗水を流して雪渓を登っているより余程いい。刈安峠なんぞを越えないで、三日も四日もここで遊んでいたいと思う。「こうやっているといい気持ちですね。」「よござんすね。」なんて言っている内に、針ノ木岳の方に当って黒い雲が出て来た。見る見る空にひろがる。ポツン! と勢のいい奴が手の甲にあたる。河の水が黒くなる。こいつはいけない! と言いはしたものの、急ぐでもなし、また急いだ所で岩や崖の路や吊り橋や雪では、すべって転ぶくらいなものである。悠々として帰路につく。上衣、シャツ、ズボン、みな濡れる。濡れても小舎には火があるから平気だ。小舎の近くの雪の林では、雪から盛に湯気を出していた。あれは湯気とは言わぬかも知れないが……
 小舎に着いた時は、いくらか雨も小降りになっていた。早速二階に上り、はだかになって衣類を乾かす。寒くて仕方がないから毛布を身体にまきつける。
「お風呂が沸いたからお入りなさい」と言われて、洋服に下駄、頭からレインコートをかぶって戸外に出る。磧に近く据えたかく風呂、雨が降るので白樺の枝を切り、天幕をかけて急造の屋根が出来ている。そこ迄行きはしたものの、さて上衣やシャツやズボン下を置く場所がない。もう一度小舎に戻って、猿股一つになり、雨の中を走って風呂場に行く。猿股を、なるべく雨のかからぬような、枝にひっかける。蓋を外ずして手をつっこむと熱い。恐ろしく熱い。そこで今度はスッ裸で、馬尻ばけつを持って河まで水を汲みに行く。雨は中々つめたい。つめたいわけである。すぐ横にはまだ雪が残っているのだから……
 首まで湯につかって、いい気持になっていると、雨がこぶりになって、雲が上り始めた。黒部の下流の方から、山が一つずつ現われる。もう夕闇がせまっているので、すべての色は黒と白とである。濃淡の墨絵である。信じられぬ程、日本画そのままである。
「日本画によくこんな景色がある――」私は加減のいい湯で、身体中の筋肉が一つ一つやわらかくなるのを感じながら考えた。――「たいていの人は絵空事だと思う。そして、こまかい写生や複雑な色彩を土台とした西洋画の方が自然に忠実だと思う。だが山の中にはかくの如き景色がある。何百年か前に、すでに深山幽谷を歩き廻ってスケッチしていた日本画家がいたのであろう。」――どうでもいいようなことを考えていると、北沢が、
「風呂加減はどうだね?」と、雨の中を聞きに来てくれた。
 やがてランプがついて、男ばかり五人、飯の卓に向う。岩魚は重吉が二匹、北沢が二匹、都合四匹その日釣り上げたのと、前日のが二匹残っていたのとで六匹。串にさして火にかざすと何とも言えぬ香がする。
 食卓の向う側では重吉が、大きな鍋からモヤモヤと湯気の立つ物を皿に盛りわけている。熊の肉である。岩魚と熊の肉と、いずれも私にとっては初物だから、百五十日生きのびる勘定になる。
 さて岩魚は、何と言ってよいか判らぬ程うまかった。鮎よりも、もうちっと油があって肉が多い。何、山の中で食ったのだから……という人があるかも知れぬが、同じ山の中で食ったのにしても、熊の肉だけは珍味ながら一片か二片で閉口して了った。
 もっとも岩魚は釣ったばかりである。熊は冬とった奴の塩漬である。かるが故に比較は出来ぬであろう。
 この熊は大きなものであったに相違ない。二階に敷いてある皮は、長さが六尺以上ある。雌で、子供を二匹連れていた。その二匹は宮本さんが犬のようにして飼っているが、翌朝までは出すことが出来なかった。運動時間がきまっているのである。
 食事が済むとすることがない。下の釜から山のように火を持って来て炉に入れ、ゴロゴロとねそべって話をする。狸の話に始まって怪談に終った。
 狸の話には我々三人、顔を見合せて笑った。即ち前晩八時近く、宮本さんと重吉とが一日の仕事を終えて一と休みと炉をかこんでいた時、中ノ谷の方向に当って「オーイ!」と呼ぶ声が聞えた。これは変だ、今頃立山から人が来るには、いささか遅いし、それに越中の衆が「オーイ」と呼ぶ訳がない。きっと誰か案内者を連れぬ登山者が、路に迷ってウロウロしているに相違ない。見に行こうと小舎を出て、呶鳴っても返事がない。バルコニイにランプを置いて、この火を見たらどうにかこうにか歩いて来るだろうと、いつ迄待っても誰もやって来ない。
 オーイ! とやったのはもちろん我々である。これが黒部の対岸むこうから聞えずに、反対側の中ノ谷の方から聞えたのは、山の反響であろう。越中の人夫がオーイと言わぬのならば、宮本さん達も反響ということに気がついて、黒部川の方に注意しそうなものと思われるが、宮本さんにして見れば、今ごろ信州からぬけて来る奴がいるとは知る由もない。今年になってから二組平を訪れたが、いずれも富山から来ている。
 我々は我々で北沢が呶鳴っても燈が見えないので(ランプは小舎の向う側に置かれた)、ハテ、日電の人はいないのかな、とも思い、そこで東信の小舎まで引き返した次第であるが、宮本さんと重吉とは気味が悪くなって来た。こんな山の中で人のいる筈がないのに、妙な所から妙な声がして、それっきりである。ふと重吉が「ありや狸だ。狸に違いない!」と言い出した。そこで何時になく戸締をして寝たという話。
 スイスの山地やティロールのある場所にはヨードル(Yodel)なる歌のうたいようがある。はじめは普通に歌っているのだが、突然調子が高くなる。音響学上から見たらどうか知らぬが、我々が聞くとオクターブを二つ三つ飛び上ったような具合である。もちろんあたり前の男に、そんな高い声が出る筈がない。裏声とでもいうのか、すこぶる細く、そしてよく「通る」声である。崖にひびき、岩にぶつかり、遠くの方まで聞えて行く。
 越中の山男は「オーイ!」とは言わぬ。「ヨーホホホオーイ!」と言ったような、妙な声を出す。この「ヨー」が普通の声で「ホ」以下がヨードルになる。
 スイスのヨードルも、いずれ越中の「ヨーホホホイ」みたいな呼び声から発達したのであろう。山が深いと、どうしても遠くに響く呼び声を考え出す。洋の東西にかかわらず、周囲の況態が似ていると、人間は同じようなことをやる。人間ばかりではない。植物でも、日本アルプス一万尺の高峯に咲く花が、千島やカムチャッカでは海岸に咲いているという。
 怪談をしている内に十時になった。久しぶりに、あたたかい布団に、軽い毛布をかけて安眠した。あらゆる意味において平の二夜が、まことに面白かったことを慎太郎さんと話し合っている内に、いつか眠って了った。
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可愛い山



 岩と土とから成る非情の山に、憎いとか可愛いとかいう人間の情をかけるのは、いささか変であるが、私は可愛くてならぬ山を一つもっている。もう十数年間、可愛い、可愛いと思っているのだから、男女の間ならばとっくに心中しているか、夫婦になっているかであろう。いつも登りたいと思いながら、まだその機会を得ぬ。今年の秋あたりには、或は行くことが出来るかも知れぬ。もっとも山には、登って見て初めて好きになるのと、麓から見た方がいいのとある。私が可愛いと思っている山も、登って見たら存外いやになるかも知れぬ。登って見て、詰らなかったら、下りて来て麓から見ればよい。
 この山、その名を雨飾山あまかざりやまといい、[#「といい、」は底本では「といい。」]標高一九六三米。信州の北境、北小谷きたおたり中土なかつちの両村が越後の根知ねち村に接するところに存在する。元より大して高い山ではないし、また所謂日本アルプスの主脈とは離れているので、知っている人はすくなかろう。あまり人の知らぬ山を持って来て喋々するのはすこしいやみだが、私としてはこの山が妙に好きなので、而もその好きになりようが、英語で言えば Love at first sight であり、日本語で言えば一目ぼれなのである。
 たしか高等学校から大学へうつる途中の夏休であったと思う。あたり前ならば大学生になれた悦しさに角帽をかぶって歩いてもいい時であるが、私は何んだか世の中が面白くなくって困った。あの年頃の青年に有勝ちの、妙な神経衰弱的厭世観に捕われていたのであろう。その前の年までは盛に山を歩いていたのだが、この夏休には、とても山に登る元気がない。それでもとにかく大町まで出かけた。気持が進んだら、鹿島槍にでも行って見る気であった。
 大町では何をしていたか、はっきり覚えていない。大方、ゴロゴロしていたのであろう。木崎湖きざきこあたりへ遊びに行ったような気もするが、たしかではない。
 ある日――もう八月もなかばを過ぎていたと覚えている――慎太郎さんと東京のM呉服店のMさんと私とは、どこをどうしたものか、小林区署のお役人と四人で白馬しろうまを登っていた。如何にも妙な話だが、そこまでの時の経過を忘れて了ったのである。Mさんは最初の登山というので元気がよかった。お役人は中老で、おまけに職を帯びて登山するのだから、大して元気がよくもなかった。慎太郎さんと私とは、もうそれまでに白馬に登っていたからばかりでなく、何だか悄気しょげていた。少くとも私は悄気ていた。慎太郎さんはお嫁さんを貰ったばかりだから、家に帰りたかったのかも知れぬ。
 一行四人に人夫や案内を加えて、何人になったか、とにかく四谷から入って、ボコボコと歩いた。そして白馬尻しろうまじりで雪渓の水を徒渉する時、私のすぐ前にいた役人が、足をすべらしてスポンと水に落ちた。流れが急なので、岩の下は深い。ガブッ! と水を飲んだであろう。クルクルと廻って流れて行く。私は夢中になってこっちの岸の岩を三つ四つ、横っ飛びに、下流の方へ走った。手をのばして、流れて行く人の手だか足だかをつかまえた。
 さすがは山に住む人だけあって、渓流に落ちたことを苦笑はしていたが、その為に引きかえすこともなく、この善人らしい老人は、直ちにまた徒渉して、白馬尻の小舎に着いた。ここで焚火をして、濡れた衣類を乾かす。私はシャツを貸した。
 一夜をここで明かして、翌日は朝から大変な雨であった。とても出られない。一日中、傾斜した岩の下で、小さくなっていた。雨が屋根裏――即ちこの岩――を伝って、ポタポタ落ちて来る。気持が悪くて仕方がない。色々と考えたあげく、蝋燭で岩に線を引いて見た。伝って来た雫が、ここまで来て蝋にぶつかり、その線に添うて横にそれるだろうとの案であった。しばらくはこれも成功したが、間もなく役に立たなくなる。我々は窮屈な思いをしながら、一日中むだ話をして暮した。
 次の朝は綺麗に霽れた。雨に洗われた山の空気は、まことに清浄それ自身であった。Mさんはよろこんで、早速草鞋をはいた。然し一日の雨ごもりで、すっかり気を腐らした私には、もう山に登る気が起らない。もちろん大町へ帰っても、東京へ帰っても仕方がないのだが、同様に、山に登っても仕方がないような気がする。
 それに糧食も、一日分の籠城で、少し予定に狂いが来ている筈である。私は帰ると言い出した。慎太郎さんもすぐ賛成した。何でも、同じ白馬に十四度登っても仕方がないというような、大町を立つ前から判り切っていた理窟を申し述べたことを覚えている。かくて我々二人は一行に別れて下山の途についたのである。
 私は、いささか恥しかった。というより、自分自身が腹立たしかった。前年、友人二人と約十日にわたる大登山をやり、大町に帰るなりまた慎太郎さんと林蔵と三人でじいから鹿島槍に出かけたのに比して、たった一年間に、何という弱りようをしたものだろうと思ったからである。だが、朝の山路はいい。殊に雨に洗われた闊葉樹林の路を下るのはいい。二人はいつの間にか元気になって、ストンストンと速足で歩いた。
 この下山の途中である。ふと北の方を眺めた私は、桔梗色に澄んだ空に、ポッカリ浮ぶ優しい山に心を引かれた。何といういい山だろう。何という可愛らしい山だろう! 雨飾あまかざり山という名は、その時慎太郎さんに教わった。慎太郎さんもあの山は大好きだといった。
 この、未完成の白馬登山を最後として、私は長いこと山に登らなかった。間もなく私の外国生活が始まったからである。一度日本に帰った時には、今つとめている社に入ったばかりなので、夏休をとる訳にも行かなかった。翌年の二月には、再び太平洋を渡っていた。
 だが雨飾山ばかりは、不思議に印象に残っていた。時々夢にも見た。秋の花を咲かせている高原に立って、遥か遠くを見ると、そこに美しい山が、ポカリと浮いている。空も桔梗色で、山も桔梗色である。空には横に永い雲がたなびいている。
 まったく雨飾山は、ポカリと浮いたような山である。物凄いところもなければ、偉大なところもない。怪奇なところなぞはいささかもない。只優しく、桔梗色に、可愛らしい山である。
 大正十二年の二月に帰って来て、その年の四月から、また私は日本の山と交渉を持つようになった。十三年には久しぶりで、大沢の水を飲み、針ノ木の雪を踏んだ。十四年の夏から秋へかけては、むやみに仕事が重なって大阪を離れることが出来なかった。だが、翌年はとうとう山に登った。
 六月のはじめ、慎太郎さんと木崎湖へ遊びに行った。ビールを飲んで昼寝をして、さて帰ろうか、まだ帰っても早いし、という時、私はここまで来たついでに、せめて神城かみしろ村の方まで行って見ようと思いついた。一つには新聞社の用もあったのである。北アルプスの各登山口について、今年の山における新設備を聞く必要があった。そこで自動車をやとって出かけることにした。
 木崎湖を離れてしばらく行くと、小さな坂がある。登り切ると、ヒョイと中綱湖なかづなこが顔を出す。続いてスコットランドの湖水を思わせるような青木湖、その岸を走っている時、向うにつき出した半島の、黒く繁った上に、ポカリと浮んだ小さな山。「ああ、雨飾山が見える!」と慎太郎さんが叫んだ。「見える、見える!」と私も叫んだ。
 左手はるかに白馬の山々が、恐ろしいほどの雪をかぶっている。だが私どもは、雪も何も持たぬ、小さな、如何にも雲か霞が凝って出来上ったような、雨飾山ばかりを見ていた。
 青木湖を離れると佐野坂さのざか、左は白樺の林、右手は急に傾斜して小さな盆地をなしている。佐野坂は農具川のうぐがわ姫川ひめがわとの分水嶺である。この盆地に湛える水は、即ち日本海に流れ入るのであるが、とうてい流れているものとは見えぬぐらい静かである。
 再び言う。雨飾山は可愛い山である。実際登ったら、あるいは藪がひどいか、水が無いかして、仕方のない山かも知れぬ。だが私は、一度登って見たいと思っている。信越の空が桔梗色に澄み渡る秋の日に、登って見たいと思っている。若し、案に相違していやな山だったら、下りて来る迄の話である。山には登って面白い山と、見て美しい山とがあるのだから……
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山を思う心



 初めて岩を抱き、夏の雪を踏んでから、もう十数年になるが、私の山を思う心は、その時も今もまったく同じである。
 この十数年間に、私は二度海外の旅をした。私は学校を出て所謂社会の人となった。私は結婚をして二人の親となった。私は色々な経験をし、その経験は私の趣味や思想や人生に対する態度を非常に変化させた。一言でいえば、私はこの十数年間に「変った」のである。人間として進化か退化かは知らぬが、とにかく変ったのである。だが、たった一つ変らぬもの――それは即ち私の山を思う心である。
 十数年前、明けて行く三等車の窓から、寝不足な眼を見張って、遠く朝日に輝く山の雪に高鳴りをした私の心は、今や寝台車の毛布をはねのけ深緑色のブラインドを引き上げて、同様に高鳴る。十数年前、二高の北に面した窓から泉ヶ岳を眺めてボンヤリした私の心は、今や輪転機が轟々として鳴り響く新聞社の窓から、ふと僅かな青空を仰ぎ、その空の下にあるものが、新聞社や商館や乗合自動車ばかりではないことを感じて、ボンヤリするのである。
 花の香漂う宴遊のむしろならぬ四畳半、訳の判らぬ癇癪と我儘に若いおんなたちが脅えたような顔を白く並べる時、金屏をもれる如月きさらぎの宵の寒い風が頸に当って、突然脳裡を横切る黄金色の雲の一片と、その下にそそり立つ真紅のピーク。夕陽にやけているのである。打てば火花を散らす色である。私は一種のさむけが全身に通過するのを覚える。身をねじると役げ入れの彼岸桜が……。私は救われるのである。
「信濃の国は 夏の王国
落葉松からまつの 林を行けば
ふりそそぐ 緑の雨」
 こんなもの覚えていますか――と慎太郎さんに聞かれてびっくりしたのは先日の話。若い昔のことである。「国境」と称する同人雑誌をつくり、山岳文芸を創立する気で諸方に勧誘書を出したが、賛成者僅かに十名でそのままになった。そのころ書いて慎太郎さんに送った詩が、この「信濃の国は」である。
 病気をして、丁度一週間会社を休んだ。父も風邪のあとでブラブラしていたので色々と昔話をしたが、それによると私の先祖は大して古くない時代に信州から江戸に出て来たのらしく、まだ信州のどこかには、お墓があるそうである。曽祖父欣次衛門(私の欣一はこの字を貰った)の父か祖父かが江戸に出たので、それ迄は信州でみすずを刈っていたか、戦争をしていたか、何にしても碌なことはしていなかったのであろう。どこか信州の山の中に、先祖が「これは欣次衛門の曽孫にして山を好む者に与えるものなり」と条件つけた土地を、五、六万町も残していないかな。
 今やジャパニーズ・マウンテンクラフトの進歩は駸々として止る所を知らず、新聞でも「ウェスト・リッジのジャンダルムでアンザイレンし、フェースをトラヴァースしてコルに出で、アイスピッケルをルックサックにトラーゲンしてガレにハッケンを打ち込み、ザイルがアブゲシュニットしたので……」とばかり、英独仏の三ヶ国語をごちゃまぜに入れないと山岳記事ではないような有様になった。かかる人のパレードを、我々は横によけて見送るが、さりとて大した反感を持つ訳でもない。如何なる人が如何なる態度で登ろうと、山は山。山を思う心に浮ぶのは、秀麗な、嶮峻な山だけで、アイスピッケルをトラーゲンしてフェースをトラヴァースする人々の姿は見えはしない。
 山を思う心は以前とすこしも変らぬが、山に登ることは段々苦しくなって来る。年齢の関係で致し方あるまい。幸い山は登るばかりが面白いのでなく、登った山を下から見ることも面白いのだから、命のある間に、せめて大町から見える山は皆登っておこう。もう大したことはない。ひと夏かふた夏かがあれば充分である。
 今年の夏は鹿島槍に[#「鹿島槍に」は底本では「鹿島檜に」]登ろう。大沢を出てマヤクボで泊り――これは三時間位で登れるが、天幕を張っておいてから針ノ木岳あたりで遊ぶのだ――次の日は棒小舎乗越ぼうごやのっこしどまり。ここには野営地がある。次の日は爺を登ってツベタに出、午後は雪解けの池に棲むハコネサンショウウオを追いまわして遊ぶ。翌日は鹿島槍、これもゆっくりやる。越中側の斜面には高山植物が多いから、若返って信濃の国の詩でもつくるのだ。それからノロノロと八峰のキレットを越し、五龍ごりゅう大黒、唐松を参り、白馬まで行って女学生に一場の講演をやり(あそこにはたいてい女学生が登山している)一気に四谷に下って自動車で大町へ。対山館でドライ・マチニ。いいなあ! 天幕を必要とするから人夫二人、全部で十日と見積って人夫五十円、その他五十円、合計百円は辛い。何とかしなくてはなるまい。
 心に浮ぶ山の姿は、前にちょっと書いた夕陽のピークと、偃松はいまつ樹脂やにの香と、尾根越しに吹く風の触感と、痩せた肩にめり込むルックサックの革や、ボロボロな岩でブルブル慄える両足や、カンカラに乾いた咽喉や、天幕を漏る雨滴や、下から上って来る湿気や、霧にくもる眼鏡や……そんなことは、毎年経験していながら、すっかり忘れて了って、借金なんぞして山へ行くのだから、すこし変である。

 思い出す、オーバーバイエルンはガーミッシの寒村、李の花が咲いて鶏が遊ぶ教会の墓地には、山で死んだ人達の十字架が一面に白かった。土地の人の墓は五つ六つ。そうだろう、家は二、三軒しかないのだから。だが、あのツーグスピッツェにもケーブル・カーが出来たと聞く。それはエンジニヤリングの驚異だという。どうでもいい。
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よき山旅の思い出



 ほんの子供の時、葉山はやまに小さな家があって、夏冬には出かけたものである。
 私の家は海岸から大分遠いところにあった。ある夏の日、泳ぎに行くかわりに、何ということはなく、一人で山に登って見た。
 朝晩見ていた山ではあるが、登ったのは初めてであった。細い路を尾根に出ると、驚いたことに、反対側の斜面は茅の一面生えで、そこに点々と大きな白百合が咲いていた。強い香気だった。あまりに茅が深いので、あまりに百合の香気が強いので、そしてその二つが、吹き上げる風に、まるで生あるかの如く揺れているので、恐ろしくなった。だが、家に帰った小学生の私は、日記に「これから三浦半島の山をすっかり登る決心をした」と書いたものである。
 中学の二年の時だったかしら、私は筑波山つくばさんに登った。初夏だった。天気はよかったのだが、下山の途中、突然霧がわいて来た。私達はぶなの林の中を歩いていた。霧はつめたく、ぶなの木は生れてはじめてだった。これが山の霧に洗礼された最初だった。その後何十回も、霧の中を歩いたが、この時、ぶなの木が見えたりかくれたりした有様は、いまだにはっきり覚えている。

 その次の夏、私は日光に行った。何とかいう滝を見に、草の生えた丘をやたらに歩いた。丘を縦に小川が幾筋も流れ、野ばらが咲いていた。日はカンカン照っていたが、高原の風が吹いて一向に暑くはない。私は川のほとりに、ゴロリと横になって空を流れる雲を眺めた。筑波山で山の霧の洗礼を受けた私は、ここで高原の太陽と風とが、如何に楽しいものであるかを知った。このように、極めて自然に、徐々に、私は山に近づき、山に親しんで行ったのである。

 次のステップは私を日本アルプスに導いた。白馬で私は雪渓に狂喜し、高山植物に心を打たれた。それから数年間、年から年中、夜も昼も山を思う時代が続いた。まったく私は若く、壮健であった。がりがりと、山を歩きまわった。だが、この時代にあっても、山の霧のつめたさと太陽と風とを愛する念は私を去らなかった。私は好んで針ノ木岳やスバリ岳のあたりの、アルプに似た草原で、のびのびとした数時間を送った。ひとつには、あの辺が登山家に取りのこされていて静かだったのと、なんだかのんびりしているのに適したような気がしたからである。

 同じ山に何度も行っている結果、私は山の人々を知るようになった。家が面白くないといって東京の私の宅にやって来た若い案内者などもいた。晩春の独活うど、秋の小鳥、冬の山どり、雉……そんな物を、山の人達は送ってくれた。私の生活に山は欠くべからざるものとなった。シーズンを外ずして、私はよく山へ出かけた。

 一度、九月も末になった頃、小谷おたり温泉へ行った。本当は雨飾山あまかざりやまへ登ろうとしたのだが、雨で駄目になった。だが却って、静かな、いい両三日を送ることが出来た。
 糸魚川いといがわ街道をバスで下瀬まで、崖に生えた萩が、花をバスの中に散らした。下瀬から温泉までの路は、雨もよいの午後の光の中で美しかった。温泉では古いラジオをかこんで糸魚川の尼さんやら、近くのお百姓さんやらが、都会人である私の横暴に白い眼を向けたというのが、丁度その晩、AKから私の親友がフランス文学に関する放送をすることになっていたので、私はその時間に、BKの浪花節をスイッチ・オフしたのである。
 翌日、昼すぎまで雨に降られ、すっかり退屈してしまった私は、面白半分馬にのって下瀬まで出た。途中で雨はやみ、谷の奥に虹がかかった。

 十一月の終り、突然大町へ行ったことがある。すっかり枯れ切った林をわけて、東山を登り、日の暮れ方に、何というか名は忘れたが、小さな部落に出た。一軒の雑貨店の囲炉裡にふんごんで、漬菜でビールをのんだ。家の前が街道、その向うが松林。林は街道に向ってゆるく傾斜している。傾斜に添うて妙に白々とした光が流れて来、どこかで子供が歌っていた――
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
 十数年来のよき山の友である大町のSは「ああ、石川さんも山へ来て子供のことを考えるようになった」と、淋しそうだった。まったく、私はその時、家に残した子供のことを考えていたのである。

 最後に登った高い山は、針ノ木岳である。これも九月、小暇を得て出かけた。大沢小舎のすこし上、盛夏雪渓の終るあたりに、たった一本咲いていた紅百合。マヤクボの上の方は、りんどうの花ざかり。その晩は峠から白馬が、うそみたいに美しい色に見えた。
 翌日は、いつもは滝で下りられない沢を、がむしゃらに下りた。真田紐でズボンの下を靴にしばりつけ、土砂が靴の中に入らぬようにしながら、私は黒部の渓谷の向うに見える立山の峯峯に見入っていた。何故だか、もう二度と再びこんな山旅は出来ないぞという予感がしたのである。人夫が、ザラザラと岩片を落しながら沢を下って行く。最後まで私は尾根にいた。私は恐らく溜息をついたことであろう。思いきって身投げをするように、尾根から沢へ飛び下りた。
 その夜、午前一時というのに、私は大沢小舎で、大町から登って来た二人の人夫に起された。「日清戦争が起ったからすぐ帰れ」と東京から電話がかかったというのである。夜明を待って、露の深い径を下った。しとど、私は露にぬれた。蜘蛛の巣が顔にかかった。満州事変が勃発したのである。その時から今日までに、私は米国へ行き、英国へ行った。太平洋の汽船で、シベリアの汽車で、私は時々針ノ木の雪渓の下、ゴロタ石の中に咲いていた赤い百合と、峠に近く咲いていたりんどうとを思った。秋の山の静けさを慕った。
 忙しい最中に、一月元旦、三国山へ登った。山はすっかり凍りついていた。頂上では樹氷の花が咲いていた。私はピッケルを振り廻しながら凍った斜面を滑っておりた。気持のいい時は、相当乱暴な真似をしても怪我なんぞしないものである。

 今度帰って来て、大町のK・Kという案内者が死んだことを知った。奉納相撲で行司なんぞして元気な男だったが――
 もちろん二十年以上の山の旅だ。死ぬ人があるのも当然だが、やはり多少は気がめいる。
 高等学校の時、その頃としては大旅行たった針ノ木――立山――剣――小黒部――大黒――大町のコースに行った人夫の中で、年もとっていたが落着いて親切だったSというのは、山へ入るのをやめて、どうなったか誰も知らない。兵隊から帰ったばかりの、その頃では所謂インテリだったKは、発狂して座敷牢で死んだ。
 酒の好きな、猥談の上手な、ニコニコしていながら妙に理屈っぽいT老は、最後に針ノ木へ私が行った秋、長い間の病気のあげく、弱り果てて死んだ。稲田が軒先まで来ている家へ見舞に行ったら、起きるなというのに起きて来て、もう一度石川さんと暢気に山へ遊びに行きたいといっていたが、素人の私にも、もう治りそうにもないと思われた。
 今度はK・Kだ。六月はじめ立山から富山にぬけた時、立山温泉では湯があついといって、スコップで雪を湯槽にたたき込み、富山の旅館では、遊びに来た若い文学少女が「私、八十やそさんが好きですわ」といったのを、部屋の隅で足の底の皮をむきながら、「お前、この辺は門徒じゃねえのか」と、これは洒落でも何でもなく、真面目で質問したK・Kだったが――

 死んだといえば有明のNも雪崩でやられた。兵隊靴を背負って歩き、里へ出ると草鞋を靴にはきかえたりしていた男だった。

 山への私のイニシエーションは極めて自然であった。山頂ばかりでなく、山麓の丘や村や、そこに住む人々とも、自然に親しくなっていった。知人が死ぬのは悲しいが、これはやむを得ない。私はまだまだ、嶺や丘や森に、よい旅を持つことだろう。(「大阪弁」)
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鹿島槍の月



 たけかんばの密林中で熊の糞を踏んづけたり、唐檜とうひの下を四ツンばいに匐ったり、恐ろしく急な雪渓をカンジキもはかずに登ったり、岩角にチョコナンと坐って人の顔を見ると同時に「キャッ!」といって逃げたおこじょを追っかけたり――つまり、所謂いわゆる登山法の本には書いてないような乱暴といえば乱暴だが、元気にまかせて心ゆくまで山と戯れたような登りようをして、鹿島槍の南の尾根に取りかかろうとする地点の野営地に着いたのは、たしか五時頃であった。
 まったく今から考えると、我れながらうらやましくなる程の元気であった。友人二人、案内や人夫五人、合計七人にリーダー格として、大町、針ノ木峠、平、刈安峠、佐良峠、五色ヶ原、立山、剱、祖母谷ばばだに大黒だいこくという当時としてはかなり大きな旅行を済ませたばかりであるのに、二人の友人が東京へ帰るのを見送ると共に、また山に入ったのだから。おまけに、同行者が、都会人ならばとにかく、大町のN君と、日本アルプスの案内者としては、その当時大臣級で今は元老であるところの林蔵。山中二泊の旅とはいえ、三人分の食糧と草鞋と、それから旧式な天幕、毛布等で、随分重い荷物があった。それを「なアに人夫なんざ入らねえだ」といって、ひっしょってた林蔵は偉かったが、私共も相当に荷を分けて背負った。それに、さっきもいったように、おこじょを追っかける、熊の糞をふんづける……雪渓ですべることが恐怖よりも先ず哄笑を惹き起したような、ほがらかな健康に充ちた気持の一行だった。
 で、とにかく、あたり前の登山者よりも余程早く予定の野営地に着くと、お客もなければ案内者もない、ごちゃまぜの我々である。誰が天幕を張ったか、草を刈ったか、偃松はいまつの枯枝をひろったか分らぬ内に、チャンと今宵の宿が出来上った。すなわち、生乾きの、香しい草が厚さ一尺、その上に着茣蓙を敷いた一坪ばかりの座敷、屋根は純白の天幕である。いつ夜になってもいいように、ポールには小田原提灯がぶら下っている。毛布は皺をのばして、一隅に重ねてある。
 すべての準備は整った。盛な焚火がパチパチと音を立て始めた。林蔵は、まっ黒な薬鑵に、どこからか、水をいっぱい満たして持って来た。太い白樺の枝を、斜めに地面につきさす。針金で薬鑵を火の上にぶら下げる。米をとぐ。玉葱の皮をむいて味噌汁を作る……
 その間、我々は、濡れた足袋を乾いた足袋にかえ、グシャグシャになった草鞋を新しい藁草履にかえ、天幕から二、三間はなれた草地に腰を下して、四周を眺めていた。鹿島槍は信濃と越中との境界をなす山脈中の一つである。東は北安曇あづみの平原を見下し、西は黒部の渓谷をへだてて立山の山彙さんいと相対する。山の景色としては申分ない。
 鹿島槍それ自身の主峯は、我々の右手に聳えている。まっ黒な岩の尾根、危くかかる雪、絶壁、これが信州側である。なだらかな土砂の傾斜面、草地、偃松――ここには高山植物が多い――越中側は、このように穏やかである。
 やがて飯が出来た。味噌汁、干鱈、それ以外には何の御馳走もなかったが、三人は野獣のようによく喰った。岩つばめが低く飛ぶ、黒部の瀬の音が時々聞える、いつの間にか日が暮れた。
 食器類を洗って了うと、我々は焚火をかこんで、山の話にふけった。キャッ! といったおこじょの嗚き声は、何度真似をしてもおかしかった。鹿島入りを下駄ばきで、たった一人、立山様に参るのだといって歩いて行った老婆の話は、神秘的で物すごかった。もう寒い。天幕から毛布を出して、それにくるまって話にふけった。いつの間にか空に、満月がかかっていた。いつの間にか……本当にいつの間にかである、我々は、濃い、ムクムクした白い雲によって、完全に下界と絶縁されていた。安曇の平野から、また黒部の谷から起った雲は、べっとりと一面に、中空に敷きつめたのである。その雲の上にあるものは、明かな月と稀なる星と、鹿島槍の中腹以上と、我々三人だけとであった。
 私は急に恐ろしくなった。自然の大を感じたとか、我が身の小を知ったとかいうのではない。只、社会を組織する本能を持つ「人」がその社会――ある時はうるさく思い、いまわしく思う――から、絶対的に切り離された淋しさが身にこたえたのである。
 月は静かであった。鹿島槍も静かであった。我々も黙っていた。ふと、近くの草地で、ゴソゴソとかすかな音がした。林蔵は、
「や、兎の奴、小便をなめに来ただな」
と沈黙を破って、手近の枯枝を一本、焚火に投げ込んだ。

 生れてから今迄に、諸処方々で、随分いろんな月を見た。だが何といっても、この月の思い出が一番深い。いまだに鹿島槍が大好きで、一年に一度は必ず、見るだけでもいいから、この山に近づきたいと思うのには、こんな思い出も関係しているのであろう。
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たらの芽



 信州から「たらの芽」を送って来た。「うど」に似ている。「うど」と同じように葉のさきを取り、あっさりとゆでて食った。本当は胡桃くるみあえがうまいのだが、県外移出禁止とかで手に入らず、胡麻味噌にして食った。

「たらのき」はこの近くにも生えている。根元から上まで太さに変化なく、枝などは出さずに幹一面長い針をつけた馬鹿みたいな木だ。春になると頂上に芽を出す。その芽をつけ根から綺麗に切りとったものが「たらの芽」である。

 面白半分に植物の本を調べたら、これは山野に自生する亜喬木で五加科に属するとある。五加科とは何と読むのかと思って、同じ仲間の植物二、三について読んでいると、五加というのがあり、「うこぎ」とある。八ツ手なども同じ仲間である。

「たらのき」は馬鹿みたいな木だが、ラテン名はアラリア・シネンシスで、ちょっと優美な感がする。別名が「うどもどき」。これは明瞭に芽の味と形から来ているのだろう。

 もう一つの異名はイカラポカラという。これは植物の本には書いてない。かつて仙台にいた時、早春郊外を散歩していたら、一緒に行った男の子が「これはイカラポカラという」と教えてくれた。長いトゲがやたらに出ているのが如何にもイカラポカラという感じで、面白いことをいうものだなと思った。

「近く香味とうとぶきも送ります」と、手紙に書いてあった。香味は当字で本当は「こごみ」だろうという。「ぜんまい」の大きなようなもので多肉柔軟、田舎ではせいぜいおひたしだが、僕はホワイトソースであたたかいうちに食う。夏山でもよく味噌汁のみにするが、そのころは固くなってしまって、さきだけしか食えない。このごろのは根の近くまで食える。
「うとぶき」もいずれ何とかいう名があるのだろうが、うどの香と蕗の歯ざわりを一緒にしたような山菜である。

 この「うとぶき」や「あざみ」は、うまく塩につけると一年中新しい緑の色をしている。信州式に後からついでくれるお茶のお茶受に、指でつまんで食うのはたのしいことだ。

 山の食物に「あけび」の蔓がある。バスケットに編むような丈夫な奴はもちろん歯が立たぬが、出たばかりの若い蔓は松葉のような色でシャリシャリして、うまいとかまずいとかいうよりさきに、何よりも洒落ている。シャリシャリといえば花の咲く前の蕎麦の軸も、ちょっと赤味がかった美しさで、おひたしには持って来いである。

「またたび」の実も塩漬にするとオリーブに似て、もうすこし仙骨というか俳味というか、とにかく日本的な味がする。僕は上越地方へスキーをやりに行って一瓶買った。

 薬屋で売っている「またたび」はこの実におできが出来たような物らしい。火をつけて隣近所の猫を集めたことがある。ところが驚いたことに塩漬の実を庭に投げ出すと、やはりどこからともなく猫が集って来て、狂態ともいうべき大騒ぎをやった。

 これからは根曲竹の筍が美味になる。丁度いまごろ妙高山麓に旅をして、こいつはうまいとほめたら、何から何まで筍づくめの料理を出されて、のぼせたことがある。おまけに後から一俵も送ってくれたが、大半はむれてくさり、ズルズルになっていた。すべてこのようなものは少量を珍重するに限る。

「たらの芽」から思いついて、いろいろと山菜のことを書いている内に、山に行きたくなって来た。まったく梅雨前の山はいい。残雪は多く、きれいで、日は永く、鳥は盛んに鳴き、おまけに何やかや、食える植物がふんだんにある。秋の山もいいが、どうも悲しい気持がする。これに反して初夏の山はワーッと景気がいいのだ。青春の山という感じが満ちているのだ。
(「樫の芽」)
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初夏の高原――信州大町から――



 もう六月に入ったのに、まだ、れんげ草が咲いている。菜の花も盛りを過ぎてはいない。昨日裏山へ登ったら、素晴らしく大きなつつじが咲いていた。この辺では、鬼つつじと呼ぶんだそうである。

 山の斜面、木を切ったあとを歩いていると、鶯、ほととぎす、カッコウ鳥。ほととぎすは、やっぱり「一声は月が鳴いたか」の方がいい。昼ひなか、こう方々で、キ、キャッコ・カッケッキョーキ、キャッコ・カッケッキョとやられると、うるさくなる。

 高原のまひる、燃えるような落葉松の若葉の色に、ボンヤリしている時、どこからか聞えて来る、あの間ののびたカッコウ鳥の声は、私をねむたがらせる。「夏が来た。クックウよ、声高く鳴け!」という、古いイギリスの詩を思い出させる。私は山腹のくぬぎの林に坐って、カッコウ鳥の声を聞いた。目の下は平地でそこには大町の町が南北に長く、その向うは山である。連華、爺、鹿島槍、五龍……大変な雪だ。真白で、目が痛い。やがて梅雨になると、その雪は大部分とけて了う。惜しい。だが、雪のとけるのを待っている、いろいろな草のことを考えると、大して惜しくもない。

 まっ白な雪渓に、すこしばかり茶色がかった「ザラ」の見えるのがある。それは雪崩が持って来たザラである。やがて人が上を行くようになると、雪はだんだんきたなくなる。

「爺の種蒔き爺さんはあれです」と、一緒に行った慎太郎さんが指さして教えてくれるが、一向判らない。そこでマッチの軸で地面に絵をかく。なるほど、三つある爺のピークの、左二つの間に、そういわれればそうと見える雪の消えた場所。左向きのプロファイルだ。鍬をかついで、笊を持って。よく見ていると元気そうなおじいさんにも見えるし、またとんでもない物、例えば出来そこなったビール瓶とも思われる。ポロニアスに同情する。

 こうみ――香味か――というものの、おひたしを食った。細いわらびみたいなもので中々うまい。だがそれよりうまかったのは、鹿島入りから炭焼きのじいさんが持って来たという、生の椎たけであった。やわらかくて、あまくって、――それに、第一鹿島入りから持って来たというのが気に入って了った。
 青々とした木の枝を積んだ馬が山から下りて来る。田に入れて肥料とする青葉である。すれちがうと緑の香が鼻を打つ。むかし、景気のよかった江戸は、いけぞんざいな鰹売りの声に夏を感じた。昔でも今でも、大して景気のよくないらしい大町は、このかるしきがもたらす緑の香に夏を感じ、爺ヶ岳の種蒔き爺さんを見ると、めんくらって、豆を蒔くのである。

 山の麓のささやかな平地に、ゴタゴタと家が建っている大町だが、それでも人が住んでいる以上は、いろんなことが起る。釣の好きな小間物屋の主人公は、二月ばかり前に細君を貰った。赤いてがらをかけて、二階を掃除している所をチラリと見た。これはお芽出度い話だが、悲しい話も二つほどある。一つは巡査と芸者の心中で、一つは山の案内人の狂死である。どっちも慎太郎さんに聞いた。

「そこで金につまって、官金消費てな事になったんですか。」
「いや、原因というのが、どこかへ転勤になって、もう逢えないからなんです。若い、元気な巡査でね、青年野球だなんてと、いつでもピッチャをしていましたが……」慎太郎さんと私とはこんな話をした。

 今から十年あまりも昔のこと。まだトリコニイとかクリンケルとか、ザイルとかラテルネとかいったような、物すさまじい登山用の七つ道具が我が敷島のあきつ島に乱人しないで、山も平和だったその頃、大町から針ノ木を越して立山へ出、剣に登って大黒――大町と、一週間あまりの山の旅をした私が連れて行ったGという男。若くって、軍隊式で、すこぶる気に入ったものだが、果してその後、私が外国をウロウロしている間に一人前の案内者になった。この男が去年の秋、気がちがって死んで了った。気ちがいになった直接の原因がある。それを聞いて、私はいささか暗涙を催した。何でも二、三年前に、あるお客を山へ案内して行った時、ふとしたはずみでその人の荷物を川に落したことがあり、それを非常に気にやんでいたが、いよいよ気がちがってからも「俺は山へ行って金の塊を取って来るだで」と、しきりに言っていたという。金の塊でお客に損害賠償をする気でいたものらしい。もともと正直な、小心な男だったから。

 今でもよく覚えているが、あの旅の時、針ノ木を下ると黒部川で、籠渡しがこわれていて徒渉ということになった。だが流れは早し、雪どけの水は冷たくはあるし、一同いささかためらっていると、「よオシ」とか何とか言って、素っぱだかになったこのGが、大きな荷物を肩の上へしょい上げて、奮然、ザブザブやり出した。ものの二、三間も水を渡ったかと思うと振り向いたが「水がつめたいで、きんたまが腹ン中へへいっちまったぞ」と、白い歯を見せて笑いながら、ブルブル震えて見せた。

 いよいよ本式に発狂すると、乱暴をして仕方がないので、座敷牢みたいなものをつくって、中へ入れた。それでも夜具、布団、衣類、そんなものをすべてズタズタに裂いて了う。寒いのに裸でいる。家のものがこまって、「[#「仝」の「工」に代えて「丁」、屋号を示す記号、66-7]の兄さん」なら言うことを聞くずらと、慎太郎さんのところへ頼みに来た。行って見ると身体中生傷だらけで、何だかしきりにしゃべっている。それでも慎太郎さんの顔が判り、もらったキャラメルを子供のようによろこんで食ったという。で、「お前は今、あんばいが悪いんだから、おとなしくしてねていなくってはいけない」と言って聞かせると、おとなしくねようとするんだが夜具はズタズタだ。それをまるめて、縄のようになって、さて何と思ってか荷づくりをする手つきを盛にやるんだが、それがまるで山でキャンプを引き払って出発する時の恰好にそっくり。そして「もうそろそろ山へ行く時分だ。お客があったら知らしておくんなさいよ。俺どこへでも飛んで行くから」――これはこの辺の方言で聞かねば本当の味が出ない――と、くりかえし、くりかえし頼んだということ。こう書いていても、私には達者だったGの顔が見える。とにかく兵隊から帰ったばかりで、多少は文字も解し、且つは五万分の一の地図が「読める」ので、こいつは大いに有望と思って、東京へ帰るなり、はやぶさ町の小林へ買いに行って、この辺の山の地図を送ってやったりしたものだ。

 今さら古めかしいが、人生いろんなことがある。山だけは昔のままだが……。
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偃松の臥榻



 一度、偃松はいまつのカウチに横たわったことのある人は、一生その快さを忘れぬであろう。
 雪渓を登ること半日、初めの間こそは真夏の雪の珍らしさに、用もないのにステップを切って見たり、わざわざ四、五間も向うのクレヴァスをのぞきに行ったりするが、やがて傾斜が急になり、ある場所では実際必要があってステップを切ったりするようになると、もう面白味よりも労苦の方が多くなる。襟くびに太陽が痛い。雪眼鏡はくもって来る。僅か一貫五百目のルックサックが、大磐石でも背負っているかのように、肩にこたえる。両手が妙にふくれて見える。咽喉がヒリヒリする。どこかで水の音はするが、目には見えない。雪を口に入れれば、冷くはあるが一時に口が熱して来る。喘ぎ喘ぎ振るアイスアックスに、キラリと雪片が飛んで、眼鏡に当ってすぐとける。その水気を拭ひ取ろうとして出すハンケチは、もう汗でベトベトである。こうなると、口も利かず、峰も仰がず、ただ「自然」と闘う気で、一歩に一息、一息に一歩と登るだけである。いよいよ苦しくなると、俺は何の必要があってこんな莫迦な真似をしているんだろうと思ったりする。涼しい風の吹き通す二階で、籘椅子にねそべって、ウイスキー・グラスにシュッと冷えたサイフォンの音を立てつつある奴が、あっちにもこっちにもいるような気がする。癪にさわる。
 だが、このような二、三時間をすごして、最後に、文字通り胸をつく急斜面を斜めに登り切って、尾根越しの風を真向に感じる時の気持! 雪の平地にカンジキの跡をつけて二、三間行くと土が出ている。アイスアックスは雪につき立てる。両手を後に廻してルックサックをゆすぶり落す。帽子を向うの岩にたたきつけて、さて雪眼鏡を外ずすと、一時に夜が明けたように、前にひろがる雪の峰、岩の巓の大パノラマ。その中のどれが槍であろうが薬師であろうが、今の自分には無関係である。自分には別の用事がある。
 右手のピークから続いている細い尾根、その上にベタッと繁った偃松。私は帽子をひろって、その偃松の方へ歩み寄る。恰好な場所を見つけて、長い身体を枝の上に横たえる。枝はしなって、やわらかく身体を受ける。思わず「フーッ」と息をつく。
 雲片一つだに見えぬ大空、風、岩燕の声、血を新たにするような松脂の香、黄金の花粉、もつれ合って咲いている石楠花しゃくなげの白くつめたい花弁、すぐ向うの黒い岩塊、風に乗って来る渓谷の水音、どこかで岩の崩れ落ちる音、下で湯をわかしているらしい焚火の煙、……これ等のすべてがいつの間にか見えなくなり聞えなくなり、私は帽子を顔にのせたまま、世にも美しいユートピアの眠りに落ちるのである。十数年前の、世間を知らず酒を知らず恋をも知らぬ学生時代から、三十の坂を越してすでに二人の親になっている今日にいたるまで、夏が来ると山を思い、山に行けぬと鬱々として楽しまぬのは、実に山が偃松のカウチというアトラクションを持っているからである。
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嘆きの花嫁――山での話――



 ちょっと映画の題――それも五、六年前にでも流行したらしい――を思わせるし、山と花嫁とどんな関係があるのかと不審に思う読者もあろう……と、それをねらった味噌ではなく、この「嘆きの花嫁」は、うそ偽りの更にない Mourning Bride の直訳である。
 自慢にはならぬが、僕は極めて物覚えが悪い。記憶力はゼロである。だから中学時代から、歴史では落第点に近いものばかり取っていた。人の名前など、すぐ忘れて了う。いや、名前は覚え、顔も覚えるのだが、その二つを正確に関連させて覚えていることが困難なのだ。人は胡麻塩の僕の頭を見て、「お年のせいですよ」という。お年のせいならいいが、僕のは昔からそうなんだから救われない。而もこれが人の名前ばかりでなく、動物、植物、鉱物の三王国キングドムを通じてのことなのである。

 今日、昭和医専の人たちが来て、白馬に高山診療所を設けて以来五年間の、いろいろな経験を話して行った。今度、立山たてやまにも同じような設備をつくりたいという。その話は別問題として、白馬岳の山小舎には一泊十円の部屋があるという。僕はびっくりして了って、僕が白馬に行った時の小舎といえば云々……と、つまり時代に取残された人間が、誰でもいうような事をしゃべったが、さて僕が最後に白馬に行ったのは今から二十年を遥かに越している。そして、僕はいまだに山が好きで、山に登り、時に老人らしく冬山でころんで怪我なぞしているのだが、要するに二十数年、山に登っていながら、山の名を覚えねば、高山植物の名も覚えないというのは、「お年のせい」ではない、それについての「記憶力ゼロ」がたたっているのであろう。

 やたらに話の範囲をひろげて行っても仕方がないから、「嘆きの花嫁」に関係のある高山植物に限定すると、僕は、二十年も山に登っているのだから、自然、無数の高山植物を見、無数の名前を知っている。が、その中で、どこにあっても、明確に実物と名前とを一致させ得るのは、松虫草だけである、それで口の悪い一人の山友達は松虫草を「石川さんの植物学」と呼ぶ。石川さんの植物学の知識はこれにつきるの意味なんだろう。
 ところで、松虫草は高山植物ではない。北海道から本州、四国、九州に至る山野に生ずる……というのだから、何でもない雑草だ。しかし最初に松虫草を意識して見てその名を知ったのが、北アルプスの山々へ入る第一日であったため、どうしても松虫草と山とを離して考えることが出来ない。千葉の海岸の松林の中にも咲いているが、若しもそれを最初に見たものなら、恐らく僕は「日本アルプスの麓に、千葉の海岸にある花が咲いてやがらア」と感心したことであろう。

 大町から籠川の谷に入るのに、若い稲の水田の間を歩き、大出という部落を過ぎると、雑木まざりの松林に入る。松蝉が嗚き、かけすがギャーギャーいって瑠璃色の羽根を落す。この雑木林に、松虫草が沢山咲いている。
 僕は何回この林をぬけて山へ入ったことだろう。山へ入る第一日のたのしさ。空はあかるく荷は重く、はきなれぬ草鞋は足の底で妙にデコボコする。歩き出して一時間、小さな流れがあって、そこで第一回の休息をする。水は生ぬるいが、その日の晩方には、もう、手を入れるとちぎれそうな雪どけの水が流れる、大沢の小舎に着いているのだ。
 この林に来て、背の高い松虫草を見るたびごとに、僕は「今年も山に来た」としみじみ思うのである。

 ある時、とても暑い八月の一日、もうお昼近くであった。一緒に行った英国人の登山家は、ここの松虫草を見て「君、表面にこまかく露がうき出したグラスに、シャートルーズでつくったカクテルを充たし、その上にこの花を浮かべたらどうだろう」といった。山が好きで、時間をつぶし、銭を費し、精力を消粍して山に入りながら、その第一日の朝から人間は食物、のみ物の話をする。人情、東西相同じとでもいうか。

 新渡戸先生のお伴をして米国へ行った時、ハドソン河上流のトロイという小さな都会に先生の友人がいて、そこのロータリイ・クラブの昼飯に講演をしてほしいと申し出た。先生はウイリアムスタウンにおられたが、自動車でトロイに行かれ、一晩とまってあくる日講演ということになった。
 先生の友人は老婦人で、小さな家に住んでいた。僕は二、三軒はなれた家に泊ったが、翌朝食事のためにその老婦人の家へ行くと、驚いたことに、食卓に松虫草が、花瓶一ぱい盛りあげてある。この松虫草は大きく、而も純白である。
「へー、こんな花があるのか。これは何といいますか」
とたずねると、老婦人は「自分は知らないが、この花をくれた人は園芸が好きで、花の名前ならなんでも知っている。聞いて上げましょう」といって、電話で聞いてくれた返事が「モーニング・ブライド」。

 気持のいい、朝の食事に盛り上げられた花は、まったく「朝の花嫁」のように健康で、美しかった。朝顔が「モーニング・グローリイ」で松虫草が「モーニング・ブライド」。なんと素晴らしい名前だ! だが冗談半分、「これは morning bride ですか、mourning bride ですか」)と聞くと、どっちか分らぬとのこと。どこでもそうだが、別して米国の知識階級の家庭だ、しっかりした辞書が二つや三つあるのに、引きもしなかったが、数年後の今日、辞書を引くと、「Mourning bride ナベナ属の装飾用栽培草木、羽状深裂の葉、通常濃紫色のひらべったい頭の花を持つ」とある。学名は Scabiosa atropurea。これがスタンダード辞典。英和辞典には単に「まつむしそう」とある。大丈夫なんだろうが「僕の植物学」では teazel family(辞典のいわゆる「ナベナ属」)がどんなものか判らないし、念のために大百科辞典というのを引くと Scabiosa japonica Miq. と学名が出ている。間違もなく mourning bride は松虫草なのだ。

 だが、これは一体何という名なのだろう。松虫草のどこに「嘆きの花嫁」の感じがあるのだろう。何か伝説でもあるのだろうか。

 夏の山には、ずいぶん長い間御無沙汰している。籠川かごかわの入口の松虫草も、長いこと見ていない。だが米国から帰って、僕は方々で松虫草を見た。松虫草との因縁は中々につきない。
 楽に日帰りが出来て、割合に面白いところから、僕は小仏峠に何度も行ったが、あすこから尾根をつたって出る景信山の頂上を、東の方へちょっと下ったところに、松虫草がウンと咲いている。はじめてこれを見た時にはうれしかったが、同時に、「なんだ、こんな所にまで咲いていやがる」という気持もした。
 更に前に書いたが、千葉の海岸に咲いているのを見るに至って、僕は松虫草の無節操に憤慨した。もちろん憤慨する方が間違っているんだが、――千葉あたりになると、色はいやに白ちゃけて、ほこりぽく、見るも無残である。「北は北海道から、本州、四国……」云々の花であっても、高地に咲くものほど、色はあざやかである。

 去年の秋、僕は朝鮮を旅行した。新義州まで直行し、引きかえした京城から半島を横断して清津に行ったが、その最後の宿り塲は朱乙温泉であった。朝鮮にいること二週間、何ともいえぬいい天気の連続で、紫外線が強いのかどうか知らぬが、我れながら呆れるほど立派な写真がとれたりした。
 朱乙には早朝着き、その晩の夜行で京城経由帰京する筈だったが、二週間の強行旅行に、さすがにつかれを覚えたので、すすめられるまま、朱乙温泉一泊と腹をきめ、朱乙川でヤマメ釣りをこころみた。古い文句だが、水晶をとかしたような水がほとばしって流れている川の、瀬になった場所を選び、その上方のとろみに、鮭のたまごを餌につけた針を投げ込むと、針は流れて瀬の石を越す。と、あたりがある。僕を案内してくれた人は名人だから、竿を持つ手首のひねり具合で、完全に魚を釣るのだが、こっちはなにぶんかけだしの、釣魚つりといえば武州金沢で二、三寸の沙魚をつったことしか無いのだから、手ごたえにあわてて了い、エイッ! とばかり竿を持ちあげる。ヤマメは頭の上で、昼間の三日月みたいに光って背後の河原に落ちる。そこには白砂に小松が生え、九月もなかばを過ぎたのに、松虫草とハマナスが咲いていたが、およそ、こんなにあざやかな色の松虫草は、見たことが無い。やはり紫外線の関係だろう。高山植物の色をしていた。

 今、拙宅の庭の一隅に、松虫草が四本、ヘナヘナしている。過日新宿の夜店で買ったものだ。コヤシをウンとやったら、トロイのみたいに大きな花を咲かすかも知れない。多年生草本だというからには、毎年咲くことだろう。たのしみにしている。(昭和十一年「夏ひとむかし」)
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山の秋



 林の小径、踏みしめて行く一歩一歩に木の葉が落ちる。丸いかつらの葉、細い白樺の葉、それよりも粗末に出来たまかんばの葉。いずれも黄色い。
 この朝、風がまるで無いので、木の葉は、ふんわりと、自分勝手に落ちて来る。或る木の葉は帽子にあたる。別の木の葉は小径に落ちる。また、林の下草をなす、羊歯しだと、つはぶきに似た草と、いろいろな蔓草とにひっかかる葉もある。
 夜中降った雨が、やっと上った所である。白樺の幹は艶々と白く、落葉松の幹は濡れて、ひとしお黒い。こまかい小梨の実の一つ一つには、まだ雨の滴が残っている。
 径は、雨上りでしっとり濡れて……といいたいが、山の雨だ、急な坂だ、ゴロゴロと石が出ている。ガジリ、ガジリ、靴の底に打った鋲が音を立てる。その一歩一歩に、木の葉が散り、その一歩一歩が、重いルックサックと私とを、山から都会へ近づける。もっと地理的に説明すれば、上高地から松本へと、徳本とくごう峠を越えつつある私……
 峠の中途で、丸太のベンチに荷物を下して、振り向いた。雲にかくれて山は見えない。見えるものは、明神みょうじん岳の裾と、それに続くあずさ川の白い河床、白っぽい川柳の木立。疲れ切った私の心は、過去の上高地と、現在の上高地と、近き将来における上高地との三つを、ひたすらに思うのであった。過去といっても一月ばかり前と、十日ばかり前と、将来というのが、さア、今日は八月の三十日、あと一月で十月に入る、すると先ず、やっぱり一月ばかりさきのことになる。
 一月前の上高地には、美しい乙女たちの面影が多い。雨のはれ間を、清水屋の座敷からすぐ前の広場へまろび出た十五、六名は、S女学校の生徒たちである。みんな、さっぱりした、派手な浴衣を着ていた。そこへ、声高く語りながら入って来た二、三人の外国人。男の子ばかりだと思っていたが、一人びしょ濡れの帽子をかなぐり棄て、器用な手つきで思い切り短くボッブした頭髪をかき上げた。山で見たからばかりでない、本当に美しい少女であった。
 十日ばかり前の上高地にいた私は、焦躁と混乱とに、旅舎五千尺の帳場をウロウロした私である。高貴なお方の御登山を報道すべく特派された私である。東京から、大阪から、大町から、集って来た社の関係者が六人、臨時に委嘱した人が一人、仕方がない、一緒にお出でなさいで連れて行った社外の人が一人、これ等八人に対する案内と人夫とが十七人、通信用として上高地から出す予定になっていた人夫が五、六名……合計三十名を越える人達の、防寒具、食料、草鞋。から沢へは誰々が先発する、人夫が何人ついて行く、米は何斗持って行く。飛脚が何人帰って来る、何時頃五千尺に着く、島々からはもう電車が無い、自動車に乗って行け。松本から電話がかかって来た、誰か清水屋へ聞きに行ってくれ。……殿下が帰ってこられた、障子をしめろ。写真を持って行かせろ。いや、S君のも一緒に送ろう、S君はどこへ行ってしまったんだ。「石川さん、今風呂で聞いたんですが、あしたA社の人は西穂高にしほだかへ行くそうです。」「だってNとKとを連れて行かれたら、あとがこまる。」「火事場へ飛び込むようなもんだ。」……コッヘルを忘れるなよ。薪は小舎へ行って貰えばいい。米袋に穴が明いていた……
 で、とにかく、それから十日たって、御登山は終えた。上高地は現在の上高地になる。昨日の昼すぎ、飛騨ひだから中尾なかお峠を越して入った上高地は、泣きたくなるくらい静かであった。帰るべき人は帰り、帰すべき人夫は帰した後の我々は、山の友人M君と、私が愛し且つ信頼している老案内勝野玉作と私との三人きりであった。清水屋もガランとしていた。五千尺もガランとしていた。そのガランとした五千尺の帳場に尊く見えるほど蒼白なMさんの顔を見出した時、「Mさん、帰って来ました」といった私の語尾は、我ながらいやになるくらい震えていた。あの焦躁と混乱との十日前にくらべて、これはまた何と静かな、秋の上高地なのであろう。疲れ切った私の神経には、堪え得ぬ程の静けさである。山の秋である。白樺の幹に抱きついて大声をあげて泣くか、明神池の藻の花の間に顔をつっこんで絶息する迄じっとしているか……三十を越して、二人の子供まである私は、子供が母に甘えるように秋の山に甘えたのである。山の秋に。
 木の葉が散る。落葉は日ましに数を増すであろう。時雨。ななかまどの紅に、落葉松の黄金。一月はたたぬ内に、山には雪が来るであろう。そして、誰もいなくなる上高地……
 山の旅を終えて、所謂下界に下りる時、人は誰でもある種のエクザルテーションを感じる。北アルプス登山口の一つなる大町に、多くの夏を送った私は、よくこれを知っている。また私自身、そのような経験を持っている。だがこの日、私はただ憂鬱であった。
 峠を登り切る。下りにかかる。岩魚いわなメ、島々しまじま、松本……この辺の路、掌に地図を持っているようにくわしい。その地図に、赤い鉛筆で記号を書き入れるように、私は私自身の感情の動きを予知した。松本通信部で新聞を見る。きっと違ったことが書いてある。A社はきっと西穂高行きを大きく書いている。大町へ行って天幕を返し、人夫賃を払う。あすこには親しい山の友達が二、三人待っていてくれる筈だ。せめて一日はゆっくりしよう。だが、それから大阪。旅費の精算、いくらやっても間違う計算。ルーティン・ワーク。毎日きまった時間に出勤して、きまり切った顔を見て、きまり切った判を、同じような原稿に押して……
 私はのび上って、梓川の岸に咲く松虫草を見ようとした。もちろん見えはしない。私は目をつぶって、槍の肩に咲く千島桔梗の花を思った。朝風にそよいでいる。また深山龍胆みやまりんどうは、小さなベルを鳴らし、つがざくらは私のためにクッションになるとて腰をかがめ、すべて秋の山は私を呼ぶのである。
 Komm' her zu mir, Geselle, hier find'st du deine[#「deine」は底本では「doine」] Ruh'!
 このままに五千尺へ帰ろうか。登山具はすべて持っている。常になく、ザイルさえも持って来ている。せめて二、三日は、一週間は、十日は……
 ふと私は足がかりも、手がかりもない人生の岩壁に、私という弱い、細い、いつどこでスナップするか判らぬザイルを、ライフ・ラインとしてぶら下っている三つの命を思い浮べた。ほうり出されたら小学校の先生になる資格さえも持たぬ妻、朝も晩も、目をさましている間は、私が家にいる間は、私にまとわりついて離れぬ三つになる女の子、半月前、旅に出る頃から、ようやく腹ンばいになって、両手の力で顔をあげるようになった男の子――
「玉さん、出かけよう。もうすぐだ」
 私は急な坂を、一目散に、徳本峠の頂上まで、息もつかずに登った。折から降って来た雨に、臍まで濡れながら一と休みもしないで、島々へ。走って来た乗合自動車に荷物ごところげ込んで島々駅へ。雨のあがった松本へ。ラジオのジャズが往来へ流れる松本へ。クリンケルが三つ四つふっ飛んだ私の登山靴は、重いルックサックと、五尺八寸五分の私とをのせたまま、ジャズに合せて妙なステップを踏んでいた。
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秋の山



 やっと都合をつけた土曜日と日曜日。金曜の午後大阪を立って名古屋で乗りかえ、塩尻しおじりで目をさまして窓を覗くと空は真暗である。松本下車、いやにあたたかい。これはいけない、折角の二日間を雨にでも降られた日にはことだ……と思いながら、一時間ばかり経って大町行きの一番電車に乗った。十一月六日のことである。
 電車が動き出す頃には、まったく夜が明けた。果して雨模様である。東の方はまだいくらかましだが西の方は大変な雲で、前山のあたり、渦を巻いていたりする。もちろん山は見えない。
 もうすっかり冬の景色である。綺麗に刈りとられた水田はカラカラに乾き、真白く霜さえ見える。借金までして山を見に来たのに、この調子では先ず絶望らしい。仁科にしなの炬燵にもぐり込んで白馬錦はくばにしきをのみながら、ばあさんのみ声でも聞くのが関の山かと思う。「仁科」はうどんや。「白馬錦」とは地酒の名である。大町から山に登る人は大勢あっても、こんな妙なことを知っている人は、たんとはあるまいと、威張ったところでうどんやと地酒では仕方がない。
 穂高ほだか有明ありあけ安曇追分あずみおいわけと行くうちに、突然空の一部分が口をあいて、安曇平野の一部に、かなり強い日光を投げつけた。直径約一里ぐらいであろうか。山の裾と、山に入って行く広い谷の一部分とを含む不規則な円形。そこは、他の場所の鼠色に比較して、毒々しいまでに鮮かな色彩を見せた。全体の調子は、もう全く枯れ切った雑草や灌木の、黒ずんだ褐色である。それに、何の木か、血のような紅葉、更に浮き上るような黄色い落葉松。我々が大阪附近でいうもみじは、如何に多くかたまっていても、こう一時に紅葉しないから、たとえ一本の樹であっても、紅、赤、黄、緑、茶というような色々の色彩が集って、何とも形容の出来ない、やわらかな美しさを見せる。それに反して、ここ信州も北の方の高原では、紅葉するものは何から何まで一度に紅葉してしまい、二度三度と霜が来るに従って、むやみに色を濃くする。殊にこの朝、灰鼠色グレーいろの天地の中に、ポカリと浮いた木々の紅葉は、植物というよりも何か動物の臓腑を見ているようで気味が悪かった。
 大町に着いて電車を下り、クルリと空を眺め廻す。天頂てっぺんいささか雲切れがして青が見えるが、それでも雲の動きが早いので、いつ隠れるか判らない。冬外套の襟を立てて、ガランとした広い路を歩く。
 対山館の三階の山に面した部屋。三重に覆いをかけた大きな炬燵に肩までもぐり込んで、S、K両氏と話をする。一昨日は悪い天気で心配したが、昨日は実にいい天気で、この調子なら二、三日は大丈夫と思っていたのに今日はまたこんなありさま、だが午後からは晴れるかも知れないと、亀の子のように首をのばして、硝子ごしに北西の方角を見ると、籠川かごがわのあたり濛々と霧雨が渦をまいている。時々、バラバラと時雨れて来る。これが山では雪、カラッと晴れると、本当に綺麗な雪の尾根が見えるんだが……と言ったところで、カラリと晴れないのは仕方が無い。バットを喫い茶をのみ、むなしく数時間を送ったが、さりとて無聊に苦しんだのでもない。半年ぶりに逢った友達とは、かなり話の種がわいて来る。
 昼からちょっと東の方の山へ行った。この山、乗越のっこしを越えた所に鳥焼きの場所があり、実は天気さえよければ天幕をかついで出かけ、明日未明に鳥がカスミにかかるのを見て帰るつもりだったが、第一天気はこの通り、おまけにヒューヒュー風が吹くので、山の裾から引っ返して予定の如く仁科へ寄り、店の炬燵にがんばって、じいさま、ばあさまの昔話を聞いた。座敷があるのに通らず、店に坐り込んで只の茶を飲むことを、大阪のお茶屋でも油むしというそうだが、その油むしをやった訳になる。だが、じいさまも――名古屋の生れで大阪にいたり大連にいたりした――ばあさまも一向いやな顔をせず、その中に若い芸者が遊びに来たので、ますます昔話がはずんだ。ところへ隣から薬湯をわかしたからとの招待が来た。ばあさま、我等に向って、
「今日は早くけえって、あすまた遊びにおいで。」
 往来に出ると、もう暗い。カサカサになった桑の葉に、冬の風が音を立てる。Sさんと私とは、並んで立小便をした。
 旅のつかれに、いささかなる酒の酔が加わって私はグッスリ眠った。そして暁近く、何故ともなく目をさまして、見ると障子のガラスと硝子戸とを通して、黒い空に白い山。白い山と、後で知ったからこそ言うが、その時は只一面に白いものが、北西の方に当って黒い空をさえぎると思った丈であった。
 またひとねいり、話声に目をあけると、あたりは明るい。頭をもたげる……ハッとばかりに飛び起きて、床の間に置いた眼鏡をかけた。何という素晴らしい景色だったろう。
 私は寝間着のまま廊下に出た。硝子戸をくって物干台に出る。霜を踏む。寒い空気が身体をとりまく。それ等のみの故にもあらず、私は異常な緊張を感じて、骨の髄まで身を震わせた。蓮華れんげじい鹿島槍かしまやり、五りゅう……とのびて、はるか北、白馬しろうまやりにいたるまで、折からの朝日を受けて桜色というか薔薇色というか、澄み切った空にクッキリと聳えているではないか。里の時雨は山の雪、その雪は恐らく金曜日の夜から始まって土曜日一日降りつづけ夜半に至って止んだのであろう。降ったばかりの雪、それも高い山の、煙も埃もない空気を通じて降った雪である。何が清浄潔白だと言って、これほど綺麗なものはあるまい。
 しばらくしてから私は、真赤な足と真赤な手と――恐らくは真赤な鼻とを部屋に持ち帰った。いつの間にか炬燵に火が入っている。もぐり込んで、身震いしながら考えた。面白くない、下らない日を送っては徒らに酒をのんで身体を腐らしている私に、万一ほんのチョビッとでも、いわゆる真善美を信じる心がありとすれば、それは一年に一度か二度接する山の、このような素晴らしい景色によって続けられつつあるのではあるまいか。
 寒い国は朝が遅い。仕度が出来て対山館を出かけた時は、かれこれ十一時に近かったであろう。ルックサックに登山靴というSさん、肘やお尻のピカピカする背広の私、饅頭やによって鳥焼きの話を聞いていると(饅頭やさんが冬になると小鳥も売る)チリンチリンと音がして、Kさんが自転車で通った。一足さきに行っているから……という後姿を見ると、これまた登山服にルックサック。荷物をすっかり二人に持たせて了った私は、さしずめ殿様の格である。
 製糸場、養鯉池、田。田はもう庭しめ(恐らく庭仕舞にわしめえであろう。すっかり稲を刈り取ったことをいう)を終えてカチカチになっている。前の日ここを歩いた時は、実に荒涼たる光景であったが、この時は正午に近い陽が、うららかに照るので、何とも言えず陽気である。小さな谷その谷の南に向いた方を、路が上って行く。日溜りに風さえ除けて、額のあたり汗ばむ程あたたかい。だが、谷の向う側は北を受けて、枯れた羊歯の葉に霜が白く光っている。あの霜は一日中消えないのであろう。
 路が急に曲った。かん高い女の唄声と笑声とが耳に入る。見ると左手にちょっとした枯草の平地があって、年頃の娘が五、六人、登って来る我々には気がつかぬらしく、しきりに歌を唄いながら踊っている。「安曇あずみ踊りの稽古をしている!」と誰かが言った。我々は立ち止って、小さな楢の木のこちらから、踊の稽古を見た。どこかの工女か何からしい。野暮な、派手な襟巻が草の上に投げ出してある。カルメンのような櫛が光る。
 ふと一人が叫び声をあげた。一同は歌と踊をやめた。我々が見ているのに気がついたのである。キャッとか、ワッとか言ったかと思うと、中には草に身を投げて、ゴロゴロころがりながら笑うのもある。大胆らしいのが「鳥焼きにつれてってくれ!」と叫んだ。ひとしきり、若い笑声が小山の沈黙を破った。
 しばらく行くと一杯水。路の右手は雑木林の急斜面、左は芝の平地が約十坪、それに続く、雑木林の上に大きな落葉松が、まっ黄色な針葉をつけて、スックリ立っている。
 我々はここ迄来て休んだ。歩くのをやめるとさすがに冷える。と、一陣の風が谷から吹き上げた。枯れ切った林の木の葉が、一時にざわめく。ざわめくと言って了えばそれ迄だが、木によって音が違う。ガサガサ言うのもあれば、サラサラと言うのもある。何か囁くもの、不平らしいもの、いろいろな声である。Sさんはここで弁当をつかった。Kさんは鎌を振って杖をつくった。私は芝の上にねころがって、落葉松を見上げた。落葉松の梢から、目が痛くなる程澄んだ空を見た。
 山の中腹に、たった一本生えた落葉松である。高さ何十尺か。幹がすーっとのびて、その幹には犬の毛が植えたように、短い枝が密生している。上は見事にひらいて、箒草の形である。元来が短い、細い葉だから、枝から生えたというよりも、枝に巻きつけた気持がする。若葉の時は、まるで煙のよう。黄葉は金粉。
 灌木の中に二間ばかりの栗の木が立っている。栗は気が早い。すっかり葉を落して了っているが、枝のさきにいがを二つ三つつけているので、ガサガサと根もとまで登って見た。
 草を分けると毬は沢山ちらばっている。だが実は一つも見えない。どうしたのだろう、こんな小さな栗を拾いに来る人もあるまいし、また落葉に埋れた筈はなし……と思っていると、下からKさんが声をかけた。
「栗は無いでしょう。栗鼠りすがみんな持ってっちまうから。」
 栗鼠が栗を持って行く。冬の仕度に、自分の家へ、貯蔵庫へ、両手でかかえて行く。私はその姿を思い浮べながら、一生懸命にさがし求めた。そしてやっと見つけたのは、私の拇指の爪より小さい奴三つ。栗鼠の忘れた栗――これ丈が家へのおみやげである。大切に、チョッキのポケットへしまい込んだ。
 尾根に近く落葉松の林を歩いた。
 落葉松の林には下生えがしない。只一面に針葉の絨氈。しかもこれは余程上等の絨氈である。柔く、適度の弾力をもって足に触れる。また太陽は頭上から、黄金色の梢を通して照る。静かな、あたたかい、高貴な光線が我々をつつむ。何だか宮殿にいるような気持がした。
 登りつくとズラリと山のパノラマ。左手、前山の肩から首を出す鹿島槍から、右手かすかに霞む浅間まで、遠い山、近い山、高い山、低い山、まっ白な山、雪の筋を持つ山、茶褐色の山。真正面に当る妙高は、いくらか姿を見せているが、雨飾あまかざり山は雲にかくれて、僅か左の山腹だけしか出していない。
 半日の山歩き。霜柱を踏んだり落葉を蹴ちらしたり、またはカスミを張って鳥を取る人を小舎に訪れたり。そして山の裾に家が五、六軒かたまった相川という部落へ出たのは、日の暮れかたであった。
 ここからトンネルが山を貫いて大町への道をなす。我々は最初から相川の茶屋でビールを飲もうときめていたので、軒の低い、すすけた家まで来て立ち止った。
 家の前は道路、その向うが松林、銀鼠の薄明がつめたく流れる。松林の中から、子供の歌が聞えて来た――
夕焼こやけで日が暮れる
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないでみな帰ろ――
 Sさんと私とは、何故か顔を見合せた。
 家の中はまっくらであった。炉べりで串にさした鳥を焼いていたお内儀さんは、不意にドヤドヤ人って来た三人の洋服姿に、ちょっと驚いたらしかったが、それでも愛想よく、
「さア、踏んごんであたっておくんなせえよ」と、炉に松の根を投げ込んだ。
 板の間に大きく切った炉、まさに踏ん込むことが出来るようになっている。パチパチと松が燃えて、つぐみの腹から脂肪が滴る。
 折からの停電に、お内儀さんは蝋燭を酒樽の上に立てた。菜の漬物でビール二本。風が障子を鳴らして、蝋燭の焔がゆらゆら振れる。
 出がけに、ルックサックを背負いながらKさんが言った――「お内儀さん、ここらは朝がいいだろうね。」お内儀さんは、変なことを聞く人だという調子で、しばらく黙っていたが、「寒いでね」と、しみじみ言った。
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峠の秋



「峠の秋」と書いただけで、私の心には高い空と、汗ばんだ膚を撫でる涼風と、強い日光とを感じる。小仏こぼとけ峠、長尾峠、十国峠、三国峠、徳本とくごう峠、針ノ木峠……即座に思い出す秋の峠のいくつかである。
 小仏峠は東京から日帰りが楽なので、何度か行った。浅川からも越え、与瀬よせからも越えた。春秋夏冬、季節にかかわらず訪れたが、秋は麓のおとぎり草、中腹の梅鉢草、頂上近くの松虫草、また美女谷へ下りる急坂が、雑木紅葉してあけびが口をあいていたのは晩秋の思い出である。
 長尾峠の秋の一日は、あいにくの雲で富士は見えず、その上御殿場ごてんばへ下る途中、猛雨に襲われた。バスが来る迄、橋の下で雨をさけようという人や、用心よく持って来た雨外套を小松の枝にかけ、その下にかたまり合えば三、四人は濡れずにいられるという人や、十人に近い一行が、めいめい勝手なことをいったが、結局一同ぬれ鼠で御殿場に着き、駅前の旅館で衣服をかわかした。丁度東京では早慶戦が行われていて、ラジオが興奮しきった声を立てていた。
 十国峠はあたたかい枯草の香と海の色。三国峠は法師温泉の朝の冷たい水と囲炉裏の焔、温泉の端れの橋は霜、登りにかかる林道は露がしげかった。峠は猛烈な霧が越後側から捲き上げて、苗場山は見えなかったが、その霧の中へ、いわば遮二無二とび込んで、二十町下の浅貝は、明るすぎる秋の日の中に、うら悲しい灰色の姿を浮せていた。
 上高地は、ホテルが出来、自動車が通う今日よりも、徳本のバカツ峠を上下した昔の方が、煙が深かったような気がする。何度か越した徳本だが、別して、一度、長い辛い山旅を終り、もうすっかり静かになった上高地を後に、今は故人になった大町の玉作老人とここを越えた時は、一歩一歩に木の葉が散り、私はそれから出て行って生活せねばならぬ都会と、後に残して行く山との二つに、板ばさみになった自身の心を見出して、足は重かった。
 針ノ木峠の小舎を根拠地に、蓮華、針ノ木、スバリ等の山遊びをした数日はたのしかった。朝晩こそ寒かったが、日中の空気はシャンペンのように甘く濃く、岩も日中はポカポカして、昼寝するには持って来いだった。この清澄の秋の空気に浮き上る山々は、槍も白馬も、まるで絵空ごとの如く美しかった。
 高山植物は盛りを過ぎ、僅かにきばなのこまのつめが、偃松の根もとに咲き残るに過ぎなかったが、苺は触れるとポロリと落ちるまでに熟し、この上もなく美味だった。
 針の木峠にいた時、満洲事変が突発し、わが国の情勢は一変した。私の身辺も、また大変化を来した。これを最後に、私は日本アルプスに行っていない。もう、これ切りということはあるまいが、それにしても、当分の間の最後の山旅に、いい場所を選んだものだ。

 右の二つは思い出話であり、いずれも針ノ木が僕の最後の山だったことを語っている。本当に最後の山になっても一向構わない。すでに、読者は御存知の通り、僕の子供が登っているのだ。思えば不思議な気持ちがする。すくなくとも「山」に関する限り、後継者が出来たのだから。而も彼等の山に対するイニシエーションは、先ず一夏を麓の人々に可愛がって貰って送り、その翌年、本当の遊びに登山しているのだから、これほど自然な方法はない。
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晩秋の山麓



 十一月のはじめ大町へ行った。私はもう何十回か行っているが、家内は大町を知らず、従って高い山を見たことが無いので、鳥焼きにさそわれた機会に、家内と家内の姉と姪と、つまり女性を三人案内して出かけたのだった。そろそろ老境に入ったものと見え、がりがりと登山するよりも、こうやって麓から山の名前を説明する方が、具合がよくなって来た。
 大町見物の第一楷梯は仁科三湖である。百瀬慎太郎君と五人で四家まで自動車を走らせたが、曇っていて白馬は見えなかった。前山の所々、別して尾根に山毛欅が白髪のような、きたない色を見せている。一番早く落葉して了ったのだ。冬には樹氷を咲かせる木である。
 晩方から寒くなって、山はすっかり晴れた。友人、平林卓爾君が経営する林檎園に行った時には、太陽が蓮華岳の向うに落ちかけ、鹿島槍の尾根に雪が輝いていた。この雪は、まるで冗談みたいに、尾根に一線を描いている。越中から吹きつける雪が、尾根越しに信州の領分をのぞいているので、これがやがて雪庇にと成長する。
 林檎園を流れる水は澄んでつめたく、また晩生種の国光はまったく枝が下るほど沢山なっていた。枝から下っている林檎に噛りついたら定めし美味だろうと思ったが、消毒液がふきつけてあるので、それは出来なかった。
 林檎園から山案内の桜井一雄の家へ行った時は、もうあたりは真暗だった。桜井君はこの朝山へ御夫婦の登山者を案内して行って、駅でちょっと立話をしただけだったが、是非家へよってくれとのことだった。丁度田の仕事が終ったばかりで、あした来てくれといっていたが、その明日はどんなことになるか分らぬので、不意打ちに訪問したのである。お父さんも嫁さんも留守で、お母さんが一人でいたが、よろこんで炉ばたに座布団を敷いてくれた。火は勢よく燃え、そこで栗やいなごや蜂の子や漬物を御馳走になった。いなごと蜂の子は、女の人達にも好評を博した。
 翌朝はまたうそのようによく晴れた。鳥屋場として、なるべく歩かずに済む場所をというので、相川のトンネルの向うまで、一行七人、自動車からはみ出しそうになって乗って行った。握飯、外套、煮しめ等が相当のかさになるので、老案内の伊藤久之丞が来てくれた。自動車を下りて、山妻は雪ばかまをはいた。紅葉した樹々の間を歩くと、赤い実が沢山なっている。実にいろいろな木が赤い実をつけている。ぐみも赤くなっていたが、これはまだ渋かった。
 鳥屋場は東側の斜面にあり、裏が雑木林で前が蕎麦畑、右手にちょっとした松林がある。カスミ網は蕎麦畑の下に三ヶ所に張ってあったが、もうお昼に近いので小鳥は二羽しかかかっていず、朝早く取れた分と、大町から持って来た分とを料った。羽根をむしり、鋏で腹をさいてワタを出す一方、久さんは対山館から持参した破れ雨傘の骨を削って一本に四羽ずつさし込むのであった。もちろん焚火はとっくに出来ていて、いざ焼こうという時には灰になって了っていた。
 竹串からジージーと油とたれが滴り始めた頃、私は串にささぬ小鳥をベーコンでいためた。東京から忍ばせて行ったベーコンだ。フライパンは対山館のを借りた。松の木や白樺は、生れて初めてベーコンの香をかいだことだろう。この小鳥のベーコン焼きがとてもうまく、大町の人たちもよろこんで、これは大発見だといった。ところがベーコンが薄く切ってあるので、いくらでも出て来る。慎太郎さんは「なるほどこれがベーコン不滅ですね」といったが、大町の駄洒落としては傑作である。久さんはニコニコと、まめに働いた。
 みんなで一升の酒をのみ、握飯をたいてい平げてから、鳥屋場の小母さんに礼をいって発足した。この小母さんは、トンネルの出口に雑貨店をやっていて、よほど以前、この日もここに来た曾根原耕造氏と百瀬君と僕と三人、あれは十一月もなかばを過ぎていた頃だが、東山めぐりをやり、日暮れにこの小母さんの店の炉にふんごんで、ビールを飲んだことがある。丁度停電で、蝋燭をつけ、鳥をやき、菜漬で飲んだ。そしてトンネルを出ると、目の前に爺ヶ岳が、すごい光線を背に受けてそびえていた。
 我々は植物をいろいろと採集しながら、秋晴れの山路を切久保の部落の方へ歩いた。途中大根をぬいていたお婆さんが、曾根原氏の知り合いで、大根を五、六本くれた。久さんの荷物はえらく大きくなって了った。
 南鷹狩山たかかりやまの山腹を、ゆっくらゆっくら歩きながらも、我々は植物から目を離さなかった。姉が植物が好きで、妙なものの名を知っているものだから、一同俄然植物学に興味を持った次第である。それで山牛蒡の枯れたのや、一杯に実を持ったグミの大枝や、とにかくマクベスなら林が動き出したと思うであろう位を、めいめいが持って、日暮れの大町へ帰った。役にも立たぬものばかり背負って来たと、町の人々は思ったことであろう。
 もう百姓は田の仕事を終り、大町は冬籠りの準備をしていた。朝晩は寒く、食事はすべてひろぶたの上でする。昼間はあたたかいが、それでも鳥焼きをした時、木の下に入るとひやりとつめたかった。日本で一番いい秋を、秋が一番いい信濃の高原で経験したことは、とてもいいことだった。そして、要するに、苦しんで山に登るよりも、気の合った者と山の麓や低い山を歩いている方が、呑気でいいということを確認したのだった。(昭和十年「ひとむかし」)
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山の初雪



 山に関するニュースは多いが、どこそこに初雪が降ったということは、他のあらゆるニュースよりも私に大きな感動をあたえる。ナンダ・デヴィの成功、ナンガ・パルバットの悲劇、日本人がK2に登る計画を立てていること、その他、本当にスリリングなものがあるのに、どういうものか、それには、あまり心を惹かれない。恐らく、あまりに大きく、激しく、私の山についての経験では、その真の意味をつかむことが出来ないからであろう。
 ひと頃、スキーに夢中になっていた時、スキーのシーズンが来たという点で、その前ぶれとしての初雪の記事をたのしんだ。まったく、まだ清水トンネルが出来ていない頃だが、午後の汽車で水上まで行き、猫額大ともいうべき百姓家の裏の土地でラテルネをつけて一時間ばかりすべり、最終列車で東京へ帰って来たことがあるが、こんな時代には花の便りがうらめしく、もう世の中にたのしみというものが無くなったかのように、内濠の柳の芽にため息をついたものである。初雪のニュースに祝盃を上げたのも当然であろう。
 だが、この頃は、もちろん正当な時間があれば依然スキーをたのしみはするものの、初雪と聞いても、そんな風な、心のはずむ喜びは感じない。静かな喜びであり、考え方によっては、しんみりとさえしている。私は時雨を、炬燵を囲炉裏を思うのである。稲の取入れ、軒端に積んだ薪、土聞の馬鈴薯……冬が山から下りて来る、その冬に対して里が、いわば長い合戦の準備を終えた心強さと、内に籠ることのあたたかさとを、都会に住んでいて想像するのである。
 山に登っていて初雪にあったことは、只の一度しか無い。十五年ばかり前の秋、ドイツにいてリーゼンゲビルゲの麓に行き、シュネーコップフというのに登った。初めの間はいい天気だったが、八合目あたりから霧により[#「霧により」はママ]、登るに従って霙まじりの猛烈な風に変った。一体霙というと、雪と水の合の子みたいなものだが、この時のは雪よりも氷に近く、手や頬が痛く、その烈しい吹き降りの中を、平な頂上で路に迷い、女をまぜての六人の一行だったが、悲鳴をあげた者さえあった。それでもやっと下山口が見つかり、草地から樅の森をぬけると、あかるい日が照っていた。朝から七時間も歩いて、ヘトヘトになった一行は、大きなホテルのガランとした食堂で弁当をくい、珈琲よりも豆の方が多いようなカフェをのんだ。このカフェが、すくなくとも私には素晴らしく利いて、そこから三時間ばかり麓の宿屋に着く迄、ほかの人のルックサックを背負ったりした。
 あくる日は快晴、樅の梢の上に頂上が真白に光っていた。熱を出してねこんで了った一人を残して、我々は森の中へブラウベーレという小粒の木の果を摘みに行った。ジャムにするのである。
 実際初雪が降っている山を歩いたのは、この時きりだ。今年は十月のはじめに高瀬川を入って槍に行く予定で、すでに同行者もきまっていたのだが、シナの事件で駄目になった。行っていたら、どこかで初雪、あるいは二番目の雪にあったことであろう。厳冬ではないが、アノラックだけは持って行く気でいた。
 山の麓にいて初雪を見たことは、何回かある。大抵の場合、里は時雨れていて、夜など、どうにも寒い、炬燵でのむ酒が思わず定量をすぎる。こんな時だ、朝、目をさますと山は雪。粉砂糖をふりかけたように見える。中腹は黒ずんだ紅葉、麓はあざやかな黄や紅。たびたび時間が訪れ、はれ上るたびに雪が山を下りて来て、ついには里も冬になる。日本アルプスだけではない。私が今住んでいる場所でもそうだ。これから追々冬になるにつれ、とても冷える夜など、六甲はきっと雪だと思い、翌日はやく目をさますと、六甲は晴れていれば果たして雪。雲がかかっていればきっと雪が降りつつあるのだ。スキーをかつぎ出す人もある。
 箕面の山の初雪は、今年の二月に降った。丁度日曜日の午後で、二階の窓をあけ、時雨を見ていると、それが霙になった。私の宅からは一キロぐらいの所が箕面渓谷の入口で、そこからほぼ西へ、三百米ぐらいの山がのびて猪名川で終っている。時雨がやみ、山をかくしていた雲がすこしずつ消え、登って行くと山の上の方の松に雪がかかっていた。低い山なので雪はベトリとしていたので、すぐ見えなくなったが、ここでも、小さいながらに、「里の時雨は山の雪」を見せたのである。
 山を愛する人は多く、その中には、どうしても登らずにはいられぬ人がある。いくつになっても青年時代と同じ情熱を持つ羨ましい人々である。また、ある年齢に達すると、実際登ることはやめ、文献を集め始める人もある。いい趣味だと思う。自分のことをいうならば、私は登ってもよし、登らなくてもいいのである。というのは、山に登れば確かに気持ちはいいが、さりとて時間や体力に無理をして迄、山に登ろうとは思わない。だが、高い山を見ないで暮すことは苦痛である。それで私は休みの日には、一日ついやしていい時は靴をはいて、二、三時間しか無い時には下駄ばきで、所謂摂北の山を歩き廻るし、一年に一度か二度は、単に爺や鹿島槍を見るだけの目的で大町へ出かける。見る対象としての山の最も好もしいのは初雪の頃である。早朝炬燵から首だけ出して、バラ色に光る「雪庇の子供」を見るのもよし、鳥屋場の枯草にねころがって、葡萄酒のような空気に、ぽっとしながら、落葉松の幹の間に眺めやるのも悪くはない。現在の私には、これが何よりも、たのしみである。そして、このたのしみは、恐らく死ぬまで続くことだろう。そう思うと、「生」はたのしいものだ。
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山湯ところどころ



 八ヶ岳の本沢温泉、蔵王ざおう山の遠刈田とおがった、青根、黒部の祖母谷ばばだに、上高地、蒲田等々、考えると、これでも相当方々の山の温泉に行っている。それらの中で本沢温泉こそは僕が最初に登った山らしい山の温泉なのだが、大きな樅の林の中に板屋根の家屋があったことだけしか印象に残っていない。二十名を越す団体だったので、何か用事を持ち、その方に気をとられていたのかも知れない。

 祖母谷は、今はどんな風だろうか。もう二十五年に近い昔のこと、大町から針ノ木を越して剣に登り、池ノ平、猿飛を経て、大黒を越え細野へ出ようという旅の途中で一泊した。まだ日の高い内に着いて見ると、無残に崩壊した建造物が残っていて、ブクブクの畳や水ぶくれの坊主様が薄気味悪かったが、泊り準備は人夫衆にまかせ、僕等は河原の砂を掘って浅い浴場をつくり、砂の中から出て来る湯が、あまり熱くなると、川の水を流し込んではうめた。その夜は残りすくない食糧を、ありったけ出し、ひろって来たビールの空瓶に蝋燭を立てて盛大な宴会を開いた。あすの晩は大黒鉱山で泊めて貰える見込がついていたからである。地熱のせいか、この付近には大きなガマが沢山いて、僕等は泉鏡花の話などしたものである。

 蔵王山は二高にいた時登ったが、遠刈田や青根でブラブラしたのは高等学校から大学へうつる間の夏休みだった。その頃の遠刈田は不潔で蚤が多く、青根の宿は部屋と部屋との境が紙よりも穴の方が多い障子で――「その頃の」というよりも、「当時の僕が通された部屋は」といった方が穏当かも知れない――一向に有難くなかったが、両方の中間にある早川牧場で暮したいく日かは、温泉こそ無けれ、いまだに楽しい思い出である。僕はここで霧の深い朝晩を送り迎え、掛樋の水にひたした野生の菜のたぐいの美しさに心をひかれ、更に長い乾燥し切った昼間は牧場に出て草にねころび、何とかいう名の中年輩の牧夫と長話をした。この牧夫は、どういう了見か知らぬが、兵隊帽の庇のとれたのをかぶっていた。三年間の仙台生活で東北弁も了解できたのであろう。ながっぱなしの内容はもちろん忘れて了ったが、まざまざと思い出すのは空を動く雲の形の面白さと、大小厚薄の異なる雲が山に投げかける蔭の美しさとである。後年メレディスの詩を読み、描写された自然の美をいきなり感得した素質の一部分は、恐らくこの東北の牧場で身につけたことだろうと思う。
 飛騨ひだの蒲田に一泊したのも、長い山旅の終りであった。而もそれは新聞社の特派員として、あるお方のお伴をした山であったし、とにかく、相当以上に気づかれのした山だった。それが無事に終って、高貴のお方は蒲田で御中食後、直ちに高山方面へと出発され、随員、警察官、新聞記者団合計四十名も前後にしたがったが、僕は万事を岐阜通信部に一任して、蒲田から上高地に引返すことにした。
 その日の中に、中尾峠を越して上高地へ出られぬこともなかったのだが、僕は蒲田がとても好きになり、ここに一泊ときめた。嵐のあとみたいに静かになった蒲田の部落は、午後の太陽の中で、如何にもねむそうだった。百日草が咲き、玉蜀黍の葉が風に鳴り、日かげは秋である。ここの温泉も河津波で流されたばかりで、道路を下った河原のゴロタ石の間に深さ一尺ばかりの溜り水に過ぎなかったが、日暮れに近く、長々と身をよこたえて、あれで三十分ものびていたことだろうか。その晩の食事に、一尺を越す岩魚とささげが、大きな吸物椀のふたから首尾を出していたことは忘れられぬ。岩魚はもちろん焼いて串にさし天井裏にさして置いたものである。便所には紙が無く、きれいに削った杉の板片が揃って箱に入っていた。

 伊香保いかほも箱根も山の温泉には違いないが、少々便利すぎて僕等の所謂「山」に入るかどうか、これは考えものだと思う。浅間温泉も同様、山の温泉といえるかどうか知らぬが、ここは山への出入以外には寄らないので、すくなくとも僕にとっては、このカテゴリイに入れてもいいような気がする。それだけにまた有名な浅間情緒は全く知らない。殊にこの頃は大変の繁昌だそうで、山のドタ靴などはいて行ったら、恐らく玄関ばらいを食うことだろう。幸か不幸か、僕は不況時代にばかり行っているので、いつも大事にされた。だから浅間温泉の悪口を聞くと不思議なような気がする。
 ある年の夏、友達三人で西石川に泊った。あしたから山へ入ろうという前晩である。風呂に入り、軽く一杯やって床に入ると、大雨がふって来た。こんなにいい温泉の出るいい宿屋があるのに、俺達は何を好んで櫛風沐雨の生活に身を投じようとするのかとか、何とかゴテゴテいい合ったものだが、翌朝の島々行初発電車には、もうニコニコと乗込む我々であった。

 妙高温泉と沓掛の星野温泉は、高原の温泉といった方がいいだろうが、妙なことで印象に残っている。妙高温泉へは初夏の候、高田に講演に行った帰りによったのだが、それ迄両三回スキーに行った時のことを考えると、まるで別の所へ来たように感じられたし、閑散だったからでもあろうが、真実家族的に大事にしてくれた。星野温泉は盛夏、軽井沢に出張して一泊、まだ日の暮れきらぬ内に入浴していると、高原特有の物すごい雷鳴があり、硝子一枚の浴室で素裸になっていた僕は、雷に臍を取られる心配をした。というと変だが、何も着ていないで自然の暴威に立ち向うことが、如何に恐ろしいかを経験し、人間は着物を着ていなくては仕方が無いように馴致された動物だ、ということを、しみじみ感じた。

 最後に上越国境の法師温泉。考えると、もう六、七年も行っていない。その間にどんな風に変ったか思いもよらぬが、あそこは春行っても夏行っても冬行っても、何かしら山の温泉らしいいいところがあった。一緒に行った人も、紹介した人もみんなよろこんでいたが、近頃はどんな工合か。東京にはちょいちょい出かけるが、いつもギリギリ一杯で、法師まで足をのばす時間が無いのは残念である。(「樫の芽」)
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山に登る理由



 山の旅から帰って来ると、どうもあとがよくない。いろいろなことが詰らなくなる。何をしていいのか判らない。「ワーッ!」と騒ぎでもしないと、やり切れないような気がする。仕事が手につかぬ。――つまり急激な変化が生活に起こった後だからであろう。心とからだとのエクイリブリウムが打ちこわされるからであろう。
 まったくこれぐらい、急激な変化はあるまい。山の道具をつめたスーツケースを梅田の駅にあずけておいて、自分は会社に出る。所謂五分の隙もない夏服、ネクタイ、靴下、白い靴、その晩は二等の寝台にねて、翌朝はもう山の麓である。宿屋なり、友人の家なりに着くとスーツケースをあけて、登山の仕度をする。夏帽子は古いフェルトに変る。瀟洒な[#「瀟洒な」は底本では「蕭洒な」]夏服は、十年着古したホームスパンに変る。やわらかい、薄いシャツは、ゴバゴバしたカーキのシャツになる。クロックスの入った絹の靴下を脱いで、あつぼったい、不細工な、ウールの靴下を三足もはく。白い、どうかするとダンスでも踊りそうな靴のかわりに、大きな鋲をベタ一面に打った登山靴をはく。一年中ペンと箸とナイフぐらいしか持ったことのない右手は、アイスアックスの頭を握る。かくて山へ!
 すでに一歩山へ入ると、その前日までコクテールグラスの外側に浮く露を啜っていた唇は、直接に雪解けの渓流に触れる。大阪ホテルのシャトウブリヤンを塩からいと思っていた舌は、半煮えの飯を食道に押し込み、固い干鱈の一片を奥歯の方へ押してやる。更に夜となれば、前夜寝台車のバースがでこぼこで眠れなかったという背中が、あるいは小舎のアンペラに、又は礫まじりの砂の上に、平気で横たわって平気でねる。
 夜があける。顔を洗うでもなければ、歯をみがくでもない。一つには水がつめたくて手を入れたり、口にふくんだり出来ないからもあるが、それよりも「ここは山だ、顔なんぞ洗わなくってもいいんだ!」という気がするからである。髯はもちろん剃らぬ。これが自宅にいると、顎の下に三本残っても気にする性質の男なのである。
 今度私は山へ行って、つくずくと考えて見た。自分は一体何をしに登山するのだろうかと。
 もちろん六根清浄を唱える宗教的なものではない。岩石や植物を研究するには素養が足りぬ。遊覧を目的とするにしては、労働が激し過ぎる。「征服する」べく、北アルプスの山々はあまりに親し過ぎる。高い所に登ることが、別に精神修養になるとは思わぬ。三十を越した私に取っては、深夜酒に酔って尾崎放哉の句を読む方が、よほど精神修養になる。もとより山岳通にならんが為ではない。ローカルカラーを得る為でもない。
 要するに何の目的もないのに私は登山する。常に登山がしたい。絶えず山を思っている。
 山、山、というと大きいが、実を言えば私の登っている山の数は至ってすくなく、また地方的にもかぎられている。即ち、蔵王、磐梯、赤城、筑波、八ヶ岳その他若干の低い山を除いては、信州大町から針ノ木峠、五色ヶ原、立山温泉と線を引いた、その線の北の方ばかりである。これは原因がある。即ち白馬は私が最初に登った高山であり、従って、自然、あの方面に引きつけられるのと、十数年前最初に白馬に登った時以来のよき友、百瀬慎太郎が大町に住んでいるのとの二つである。
 かくの如く私の知っている山はすくないが、山を愛する心は人一倍深い。何故であろうか。
 私は第一に私自身が、完全なる休息を楽しまんが為に山に登るのであることに気がついた。即ち、ありとあらゆる苦しみをして山を登って行く。平素運動をすこしもしていないのだから、ひどく疲れる。日光と風と雪の反射だけでも疲れる。汗水を流して登って行くと、咽喉は乾く、ルックサックが肩に食い入る。かかる時、例えば針ノ木峠のてっぺんに着いてあのボコボコした赤土の上に、ルックサックを投げ出し、横手に生えた偃松に、ドサリと大の字になった気持ち。あれこそ完全に休息、Complete rest である。
 もっとも疲れて休むことを望むのならば何もわざわざ山に登る必要はない。庭で草をむしってから、縁側に腰をかけてもいいし、須田町から尾張町まで電車と競争してから、カフェー・タイガアに入ってもいい。いいわけだが違う。まるで違う。
 Complete rest は自宅の縁側や、カフェーの椅子では得られない。
 その理由は、私が思いついた第二の目的に関係している。私は考えた。私が山に登りたいのには、野蛮な真似、換言すれば原始的な行為を行いたい希望が、私の心の中にひそんでいるからではあるまいかと。
 都会における私は一個の文明人である。衣食住すべて、現代の日本が許すかぎり、また私の収入において可能なる丈、文明的にやっている。また衣食住以外の不必要品――而も一個の文明人にあっては必要品である所のものについても、かなりな程度のディスクリミネーションを持っている。ワイングラスで酒を飲まず、リキュールグラスにコクテールを注がぬ等の知識は、生活には不必要にして而も必要なことなのである。
 ところが一度山へ入ると、先ず第一にかくの如き「文明人なるが故に必要な条件」が、ことごとく不必要になる。単純に生きることだけを営めばよいのである。都会にあっては、銀のシェーカーを振る指も、山では岩角につかまる。つかまらなければ下の雪渓に墜ちて死ぬからである。かなり洗練された、うるさい口も、山では半煮え飯を平気で喰う。喰わなければ腹が空って、死んで了うからである。寝台車のバースを固いという身体が、小舎の板の上で安眠する。その日の運動につかれた身体は、また次の日の労働を予期して、文明人のディスクリミネーション以上に睡眠を強いるからである。タクシーはスプリングが悪いから、ハイヤーに限ると言っている脚も、山では無理に歩かせられる。どうでもこうでも、野営地まで着かなくては仕方がないからである。(こう書いて来ると如何にも私が贅沢な、豪奢な生活をしているようだが、実はそうでない、ここには只「文明人」としての私の半面を高調したにとどまる。)
 万事かくの如くである以上、山に入る服装は極端に「人としての必要品だけ」を標準として行われる。文明人としての必要品は、一切不用なのである。帽子は、日光や雨や風をよける為にかぶるので、文明人だからかぶるのではない。靴は、素足では痛いからはくのである。登山服は、普通の背広よりも丈夫で、且つ便利だから着るのである。アイスアックスは手が淋しいから持つのではなく、急な雪渓にステップを切る必要があるから持つのである。
 服装は人の心を支配する。都会にいる時には、椅子に腰をかけるにもズボンの折目を気にする人も、山に入れば古ズボンをはいているのだから、平気で土の上に膝を折る。また、如何に新しい登山服を着ていても、「この岩の横裂面は、四つん匐いにならなくては通れぬ」とすればズボンなどは構っていられなくなる。命にかかわるからである。
 服装、準備、その他がすべて必要品だけであるから、登山者も、必要品だけを使用して必要なことだけを行い、必要なことだけを考える。むつかしく言えば原始的になる。瀬戸引のコップ一つが水飲みになり、汁椀になり、茶碗になり。ある時は傷を洗う盤になる。一本のナイフが肉を切り、枝を切り、独活うどの根を掘り、爪を切る。一着の衣服が寝間着になり、昼着になる。山中で人に逢えば即ち訪問服となる。これらはみな人類の先祖がやっていたことである。
 更に、疲れたらどこでも構わず腰を下し、小便がしたかったらどこへでもジャージャーやる自由さ――人間としては当然のことであるが、文明人としてはゆるされていない。――殊に星空の下、火をたいて身体をあたためる快楽については、いずれも我等の先祖が経験したところのものである。
 私がいた頃、米国では盛に Back to nature ――自然にかえる――ということが流行した。何をしたかというと、きたない着物を着て、野原や林へ出て行くだけである。つまり野蛮な真似がしたいのである。又、ボーイスカウトなんてものも、やっている連中はいろいろと七面倒な規則や理屈をつけるかも知れぬが、要するに、路をさがしたり、焚火をしたり、つまり子供の持っている野蛮生活へのあこがれを、巧に利用した企てなのである。
 米国ついでに、もう一つ米国の話を持ち出すと、私のいた大学、プリンストンの寄宿舎には全部ではないが、オープン・ファイヤプレースを持つ部屋が沢山あった。大きな薪を燃やす炉である。寄宿舎にはもちろん完全なスチームが通っているのであるから、何も顔ばかりほてって背中の寒い炉を置く必要はないようだが、それでも、わざわざスチームを閉め切って、薪を燃す連中が沢山いた。何故薪の方がいいのか判らぬ。どうも人間、あまりに文明的になると、反対に野蛮な生活が恋しくなるものらしい。すくなくとも私はそうである。そして、最も野蛮に近い生活が許されるが故に、私は山に登るのである。
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アル中種々相




総論


 このアル中は、アルコール中毒ではなくて、アルプス中毒である。
 アルプス中毒とは何かというに、それは登山者が登山中、又は時として都会生活(日常生活の意味)中に示す、一種のマニアックなシンプトンによって、それと知られる一種のマニアで、所謂山岳病が肉体的で異常であるのに対し、これは精神的の異常である。従って精神的山岳病と呼んでもいい訳だが、アル中の方が人が間違いそうで面白いから、わざとこうしておいた。
 以下、各項にわけて、アル中の各シンプトンを詳説するに当り、一言申し述べたいことがある。登山者の性癖を、あるいはメタルオンチとか、道具オンチとかに分類し、もってキャンプ・ファイヤの談笑の材料とすることは、決して新しいことではなく、すでに、すくなくとも、僕等の間にあっては、数年前から行われている。僕は然し、それをここに蒸しかえそうとはしない。事実、その後の数年間における登山界の進歩は目ざましいもので、登山者の数が増すと共に以前は精々「オンチ」で済んでいたのが、今ではマニアになった患者が多い。だから、昔ながらのシンプトン以外に、新しいものが大分多くなって来た。
 最後に、筆者としての僕の立場について、多少の説明をする。ある本屋さんの新聞広告によると、僕は「最もスマートな山男」だそうだが、そんなことはなく、僕は「最も懶惰なる山男」で、即ち山は登るよりも、その中腹の草原にねころがって、煙草を吸った方が遥かにいいと思い、且つそれを実行している。そんなことなら、山へ行かなくてもよさそうなものだが、僕自身がかなりアル中患者なので、どうもやはり、山へ行かぬと気が済まぬ。このような僕だから、かなりの同情と理解を以て、アルプス中毒のことを書き得ることと思っている。

アル中種々相


 1 徒渉マニア[#「徒渉マニア」は底本では「徒歩マニア」]
 学名を Hydromania といい、恐水病の反対の親水病である。山中渓流にあえばジャブジャブと徒渉しなくては気が済まぬ。丸木橋なんぞ渡らず、石から岩へ飛んで落ちたりする。時に命を失うことあり。監視を要す。
 2 道具マニア
 学名を Equipomania といい、運道具店のカタログに出ている品全部、及びそれ以上を山に持ち込む患者である。金満家の子供が最もこの素質を持っている。生命には危険は無いが、人夫賃がかかる。
 3 抱付マニア
 性欲的に抱き付くのではないから、警察の御厄介になることは稀であるが、都会でこれを行う――例えば東京駅の東ジャンダルムに抱きついたり、自宅の石垣を深夜登攀したりする――とひっつかまる。
 この患者は、自然的なると人工的なるとを問わず、岩さえ見れば抱きついて了うのである。学名を IVmania という。IV は即ち Ivy で、蔦が岩にからむことは、先刻御承知の通りである。生命に危険甚し。
 4 ケーザリズム
 これは学名で通用する。ユリウス・ケーザルが、かつて、Veni, vidi, vici, と叫んだことから来ているので、高いものさえ見れば、敢然その頂角を征服せねば気が済まぬのである。主として山だが、立木でも、煙出しでも、屋根でも、土手でも、ゴミためでも、何でもかまわぬ。
 山麓或は都会では、ヴィーナス山脈を征服したりする。
 5 国粋マニア[#「国粋マニア」は底本では「国粹マニア」]
 学名 Ducmania は、恐らくムッソリニから来ているのだろう。新しい名である。この患者は日常生活では洋服を着、靴をはいているが、いざ山へ入るとなると、草鞋わらじ脚絆きゃはん股引ももひき、ドンブリ、半纏はんてん、向う鉢巻で、ルックサックの代りに山伏が使用するような物を背負い、山頂快晴ならば日の丸の鉄扇を振って快を叫び、霧がまいて来ると梅干をしゃぶり、いよいよ路に迷うと鰹節を囓りほしいを噛む。
 6 外国マニア
 学名はない。5と反対に何から何まで外国製品を使用し、霧がまいて来ると酸っぱいドロップをしゃぶり、路に迷うとサラミを囓り、ドッグ・ビスケットを噛み、キャンプでは、味噌汁のかわりにビーフ茶を飲み、キャベツにマギ・ソースをぶっかけて食う。5と6が同じ場所で野営すると面白い。
 7 リーダーマニア
 リーダーの責任の重大と、隊員が絶対服従を守らねばならぬこととを痛感する余り、途中で隊員が無断小便しても怒りつける患者。
 8 迅速マニア
 俗称スピードマニア。七月一日午前六時松本着。六時三分松本発信鉄にて七時三分大町着。途中汽車弁を食い、大町から自動車で大出着。七時三十分。直ちに歩き出して午後零時五十分大沢小舎通過。午後五時十九分針ノ木峠の頂上から二丁下まで行って、へたばって了い、上から下りて来た越中の人夫に荷物ぐるみ背負って貰って午後七時大沢小舎着。ヘドを吐き青くなる。
 9 落着マニア
 学名を Nombilism といい、シンプトンとしては非常に屡々立ちどまり、景色に感心し、煙草を吸い、写真をうつし、靴と靴下を脱いで素足に風をあて、小便をし、だべる。同行者あまりに早く歩けば、「近頃耳に入れた」猥談を好餌として引きとめ、人が一日で行くところに三日費し、これでなくては山の面白味はわからぬと放言する。
 10 地図マニア
 Mappanism ――断然五万分一の地図を信用し、地図に万一間違いがあると、深い谷にまぎれ込んで了う。単独マニア患者に多い。
 11 単独マニア
 真に山を理解するには単独登山に限るというマニアックで、どこへでも一人で出かける。従って荷物多くなり、時にペシャンコになることあり。
 12 メダルマニア
 この患者は近来激減した。やたらに何々山岳会に入り、そのメダルを帽子や襟につけて歩く病人で、ドイツ・タイプである。
 13 セオリスト
 学名を theoromania と呼び、中年者に多い病気である。とにかく、とても理論にくわしく、岩登りをやったことが無いのに、マウエルハーケンと木製楔との関係を知っていたり、氷河を歩いたことも無いのに、クレヴァスに墜ちた時の処分法を論じたり、進んではシェンクのピッケルの力学的優秀点を知っていたりする。
 少々うるさいが勝手にしゃべらせておけば他人に害は加えない。
 14 謙遜マニア
 セオリストの反対で、何でも知っているのに、何も言わず、ニヤニヤしている患者。薄気味悪し。
 15 縦走マニア
 学名 Onoemania ――初めから二番目の o には、ウムラウトが着くのが本当だが、そんな活字はあるまいと思って e をつけておいた。この患者は、とにかく尾根ばかり縦走して歩くのであって、毎年、白馬――唐松からまつ――五龍――鹿島槍かしまやり――はり――蓮華れんげ――烏帽子えぼし――野口のぐち五郎――三俣蓮華みつまたれんげ――黒部くろべ五郎――かみたけ――楽師やくし――鷲岳――雄山おやま――大汝おおなんじ――別山べっさん――剣……といったような計画を立てるが、費用や時間の関係でうまく行かない。はじめから、費用も時間も不足であることを知りながら、計画を立てるところが、即ちマニアである所以で、これを実行している人は、普通の、立派な山岳家である。
 16 本マニア
 Bibiliomania はアル中に限った訳でもないが、要するに山の本をウンと集め、洋の東西と時の古今を問わぬ。これは奨励すべきマニアである。
 17 感激マニア
 何にでも感激して了うのである。山に感激し、雷に感激、雷鳥に感激し……そこ迄はいいが、山の案内者がみな英雄で、山であった女がみな美人で、山小舎の主人がみな聖人みたいに見えるに至っては、立派なマニアックである。
 18 非感激マニア
 これはまた、何にも感激しない。至って詰らなそうに見える。而も毎年山へ入るところから考えると、まんざらでもないらしい。

結論


 鬼も十八、番茶も出花という十八に達したから、ここ等でやめにしよう。まだこの他にいろいろあるが、あまり微に入り細を穿つと、自分の悪口を自分で書いているような、所謂自ら墓穴を掘ることになる。御退屈さまでした。僕も、メランコリックになって了いました。病人のことばかり書いていたので……。(「山・都会・スキー」)
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山を急ぐこと



 我々が最も愛する山の本、バドミントン・ライブラリーのマウンテニヤリングに、マセウ氏が「一登山家の思い出」なる一章を寄せていることは、知っている人も多かろうと思う。今、この一章の中から、次の数行を書写し、それについて私が平素考えていることをいささか書きたいと思う。

 He was a mountaineer of old school, and feats were not in his way. The woods, the meadows, and the flowers charmed him as much as the rocks and snows. He enjoyed a fine climb with all his heart, but seemed equally happy on a quiet day.
 ――彼は旧派の登山家であり、目覚ましい芸当というようなことは、彼の畠ではなかった。彼にとっては、森や牧場の花が、岩や雪と同じ程度の魅力を持っていた。彼は心からよき登攀を楽しんだが、然し静かな一日にあっても、同様に幸福そうに見えた。
 右の翻訳において、feats を「目覚ましい芸当」としたについては、異議を申立てる人があるかも知れぬ。事実、この「芸当」なる言葉には多少侮蔑の念が入っているようであるが、これは三省堂の英和大辞典によったので、即ち該書には、
一、目ザマシイ芸当、力芸、離レワザ、妙技、早ワザ、軽ワザ、曲芸。
二、武勲、勲業、偉業、云々。
とある。それはとにかく mountaineering に於ける feats とは、如何なることを言うのであろうか。日本でいえば、槍の肩から穂先まで十三分三十秒で往復したとか、小槍こやりのてっぺんにザイルを結びつけ、そのザイルを振子として、身自らを肩の小舎に投げ出したとか(若しそんなことが可能なりとせば)いうことがあれば、それは即ち feats であろう。これらは正に「芸当」であり、「離れ業」である。西洋でいうならば――西洋のことは知らぬが――この「彼」即ち Thomas Woodbine Hinchliff がしなかったようなことが feats なのであろう。
 ウインパアのマッタアホーン、槙さんのアイガア、浦松氏のウェッターホーン等は、やはり feats だろうと思う。だが、これらは同じ feats でも、「早ワザ、軽ワザ、曲芸」等の同類項に入る性質のものではない。科学的の知識に基礎を置いているからである。もちろん空中ででんぐり返しを打つ曲芸でも、科学的の法則に従って行っているのは事実である。小槍からザイルで肩の小舎へ飛びつくのだって、若し出来るとすれば、それは物理的に可能だからである。曲芸は、多く練習によってこれを行い、行った結果である所の feats を、後から解剖して見て科学的の基礎が発見されるのであるが、曲芸に対する「勲業」、即ちウィンパーや槙さんがやったことは、最初から意識して科学的の法則を探究し、それを一歩一歩実行化したものである。
 が、これは飛んでもない横路へ入り込んで了った。とにかく「彼」は旧式な登山家で、「曲芸」にせよ「勲業」にせよ、目覚ましいようなこと、人をあっといわせるようなこと、新聞や雑誌に出るようなことはしなかったのである。これで feats 問題は打切ろうと思う。私が今日ペンを執った最大原因は、実は「彼」のノンビリした態度に感心したからであった。
 近頃我国の登山界には、非常にいやな傾向が見られる。むやみに山を急ぐことである。他の登山口はいざ知らず、大町口においては、これが顕著である。
 私はこの夏、二度大町へ行った。第一回は六月の終りで、これは会社の用事で行ったのであり、第二回は八月の初め、休暇をとって行ったのである。
 大町では対山館にとまる。対山館の百瀬慎太郎さんとは、親しい間である。従って――こんなことは書かなくてもいいようだが書くだけの理由はある――対山館における私は、お客様と友人をゴチャマゼにした変な存在なのである。多くの場合、私は三階の客間の床柱によっかかって傲然としていはせず、帳場附近でゴロゴロしている。不意にお客が入って来ると、いらっしゃい、おつかれ様! くらいなことはいう。殊に対山館食堂では、注文を聞く。時々帳場の前に置いてある絵葉書をくすねるが――これは脱線した。
 夏の初めには、対山館へ登山に関する問い合せの手紙、端書、電報等が、ウンと来る、オホマチニコメミソロウソクアリヤという電報も来たというが、これは見なかった。これらの問い合せはいう迄もなく、大町を登山口とする山々に関するもので、十中八、九迄は私にも返事が出来る。そこで、慎太郎さんがあまり忙しい時には[#「あまり忙しい時には」は底本では「ありま忙しい時には」]、私が返信を手伝う。もっとも必ず同君の検閲を受けてから投函するから、大丈夫間違いはない。
 ところで驚くことは、これらの手紙をよこす人の殆ど全部が、何故だが非常に急いだ、[#「急いだ、」は底本では「急いだ。」]切りつめた日程を立てている。山中の日程は、恐らく信濃山岳会の登山要項なり、あるいはそれに依った他の登山日程なりを、そのまま採用したものであろう。登山要項としては、無用な時間を日程につけ加える必要はないから、切りつめたと迄は行かなくとも、先ず普通、山に登れるだけの健康を持つ人の体力を標準に、どこからどこ迄何時間という風に発表する。それを採用するのは当然だから、第一日大町――大沢。第二日大沢――平。第三日平――立山温泉。第四日立山温泉――富山という日程を書いてよこされても、私は何とも思わぬが、一番びっくりするのは登山前後のあわただしさである。
 関東方面からも関西方面からも、夜行を利用すると、早朝松本へ着く。信濃鉄道に乗換えて大町へ着くのが、先ず八時とする。駅から対山館まで十五分とすると、登山者の大部分は、案内者をやとう人であれば、八時四十五分には対山館を出て行こうとする。「何時何分大町着、直ちに出発するから間違えなく人夫一人準備してくれ……」という手紙がそれである。
 人夫はもちろん朝早くから来て待っている。お客様の荷物を受取り、しょいこにくくりつけている間、お客様は対山館の食堂でお茶位のんでいる。多くの場合慎太郎さんが「ああお手紙は拝見しました。人夫はここにいます。黒岩といって、あっちの方面はよく知っています」という。お客様は黒岩に向って「よろしく」という。そこでガリガリズラズラ出かけて行って了う。人夫をやとわぬ人は、対山館に寄る必要はないが、それでも草鞋を買ったり、礼をいったりする為にちょっと顔を出す。この方は、然し、もっと早く、入口に腰をかけるだけで出て行く。朝飯は松本の汽車弁当。昼の弁当も汽車弁当を持って来るのが多い。
 勿論目的は山である。だから大町みたいな麓には、いる必要もなければ、いたくもない……という気持も、分らぬことはない。だが夜汽車でゆられて来た、いい加減フラフラした頭で、いきなり高瀬なり籠川なりへ入って了って、何か面白いんだろう。せめて一日の「静かな日」を楽しむ余裕は、あってもよいと思う。
 麓は山の始りである。麓に無関心で、いきなり山へ入り込むのは、女の心に無関心でいきなり身体を我が物にしようとするようなものである。もっとも、「だまされているのが遊び」の「遊び」をまだるっこしとなし、玉ノ井へ直行する方がいいといえばそれ迄の話。これは各人の自由ではあろうが、我々のとるところではない。
 朝着いたら、対山館で靴をぬぐべきである。(対山館でなくてもよい。ほかに宿屋も多い。また大町ばかりの話ではない。が話の都合上、大町を主にして述べて行く。)そして部屋へ通り、ゆっくり顔でも洗い、荷物を全部部屋へはこんだ上、連れてゆく人夫に来て貰って、荷物のふわけ、その他を相談すべきである。
 昼飯後は人夫をつれて大町公園にでも行き、目の前にそびえる山々の名を聞き、籠川と高瀬川と鹿島川との三つの谷をポイント・アウトして貰うとよい。
 晩には湯に入り、食事後は人夫に安曇あずみ踊にでも案内して貰うがよい。
 何故、右のようにした方がよいか?
 第一、一日の休養は必要ある。誰だって一晩中汽車に乗っていれば疲れる。身体が余計疲れる人と、頭が余計疲れる人との別はあろうが、疲れることは事実である。そんな疲れた心身で、登山の第一歩を踏み出しては勿体ない。
 次に、登山前に山を見て置くことは、必要である。大体を見ずに、いきなり細部へとつついて行くことは、莫迦気てもいるし、危険も多い。
 ここにいう迄もないが、大町から見ると、蓮華の長い尾根が一つ手前へのびて、籠川の谷と高瀬の谷とを別けている。誰が見ても、これは間違いのない事である。然るに、この籠川の谷へ、どうしても入れぬ人がある。田の畦や林の中をクルクル廻って、大町へ帰って来るのはまだしも、高瀬の谷へ入って了い、気がついて尾根を越したら日が暮れたナンテのもある。如何にもウソみたいだが、現に今年そういうことをした青年がある。私は実にナイーヴな、可愛い所のある彼の手紙を持っている。
 何故こんな莫迦な真似をするか。つまり大体を見ず、五万分の一の地図ばかり見て行くからである。山に入る登山家山を見ず、足もとばかり見て行くからである。
 勿論案内なり人夫なりをつれて行けば、このようなことは絶対にないが、それにしても、先ず地形の大体を見るということは、RECONNOITRING の第一条件として、養成しておくべき習慣である。
 第三に、これは人夫をつれて行く場合の話であるが、せめて一日はゆっくりして、彼、或は彼等と知り合いになっておく方がよい。人夫をつれぬ人は、ことさら登山前の休養を要するし、また登山路その他について、慎太郎さんなり、あるいは帳場附近でゴロゴロしている者共(たいてい二、三人はいる。慎太郎さんの弟の孝男さんとか、彼等の友人とか)に、よく地図について説明して貰うべきである。
 時間できりつめる人々は、同時に経費の上でも極度のきりつめを行う。この点でもノンビリした所が更にない。即ち、案内者をやとう方がいいのだが、費用がないから連れずに行くとか、小舎へ泊る費用を倹約して携帯天幕をひっかぶって野営するとか、ひどいのになると、「案内をやとう費用が無い。二十日乃至二十五日間に、大町を出発して立山方面へ向う登山者中、案内を連れて行く人があったら至急乞御通知。あとからついて行く」とかいうのもある。
 ガイデッドとガイドレスとの優劣問題は、ここに論じるべくあまりに長く且つ専門的であるが、「案内者は必要と思うが費用がない」場合には、全然山へ入らぬがよい。この論断があまりに苛酷ならば、案内者を必要としない山へ入るべしと、モディファイしてもいい。例えば天気のいい日に白馬へ登るとか、燕へ行くとか、上高地から槍へ行って帰って来るとかすればよい。
 ここで一言したい。私は山の案内者を、単に、路の案内をするだけの者と思うことは、大間違いであると信じている。路は判っていても、「山」を知らぬ我々は、濃霧にまかれたりすると、路まで判らなくなる。小さな事故にも面喰って、更に大きな事故を引き起したりする。案内者を連れて行った登山者に、如何に事故がすくなく、またあったにしても程度が軽微であったかは、統計的に立証出来るであろう。
 以上長々と、時間と費用とを切りつめること、即ち山を急ぐことについて饒舌を弄したが、このような人は、実際山へ入っても只無茶苦茶に目的地へ着くことばかり考えていて、はたから見ると、まるで一刻も早くこの苦難から逃れたいとあせっているかの如くである。麓の牧場、中腹の森、岩角の花……それらは全然目に入らぬらしい。いや、事実、目に入る時間もないであろう。これが多いのを見ると、Hinchliff の如きは「旧派」――現にそう書いてある――で山を急ぐ人々が「新派」なのかも知れぬ。新旧いずれが優れているか判らぬが、私には旧派の方がうれしい。私自身は、断然旧派に属する。
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山の道具



 私はここ数年間毎夏必ず山に登っている。登り始めたのはもっと昔のことだが、途中で外国へ行っていた為に中絶した。それから、これも高等学校時代に一度か二度やったことのあるスキーを改めてやり出した。ところが登山もスキーも、私が中絶していた間に長足の進歩をなし、いろいろな道具類が容易に手に入るようになった。それで私も若干の道具を持っているが、これらが登山期及びスキー期以外に如何なる役目を演じているかを考え、何とかこじつけて「山の道具とホーム・エコノミックス」といったような小論文をでっち上げて見ようと思う。うまく行くかどうかは、やって見なくては判らぬ。

 山及びスキーの道具として、最もポピュラーなのはルックサックであろう。御承知の如き四角な袋で背中に負うように幅の広い紐がついており、そしてよく出来た物は軽くて完全な防水がほどこしてある。
 私はルックサックを二つ持っている。一つは墺国製でノッペラ棒だが、他は日本製で外側にポケットが二つあり内側の背中に当る所にもポケットがある。この日本製の奴が最近非常に役に立った話をする。
 この前の日曜日に妻子を連れて熱海へ行った。あるいは一晩泊るような都合になるかも知れないと思ったので、子供の寝間着やその他こまごました物を中型のスーツケースに入れたが中中入り切れぬ。女房はあけびのバスケットをもう一つ持って行くといい出したが、上の子が四つで下は赤坊なのだから荷物が二つになっては大変である。そこで私はルックサックを持ち出して、これに荷物全部を楽々と入れ、そして出かけた。
 汽車に乗ると子供づれだから中々手がかかる。キャラメルがほしくなったり、おしめが入用になったり、水っぱなをふく為に紙を出したりしておやじ立ったり坐ったりだったが、ルックサックの有難さに、網棚の上にあげて置いた儘で必要の品を出すことが出来る。キャラメル? キャラメルは右の外ポケットに入れておいた! とばかりに、棚の上に手をのばせば、手さぐりでキャラメルが取れる。……といった次第である。品物によって入れるポケッ卜をきめておき、それを手さぐりで取り出すのは狭いテントの内などで自然癖になることでもあるが、一々棚からカバンを下し、蓋をあけて内部をかき廻すことに比べて非常に便利である。おまけ万一汽車が崖から落ちたなんて時には、赤坊や上の子供ぐらいはスッポリと入るから、背中に背負えば両手を使って岩角を登ることも出来る。
 次に便利なのはスイス製の畳み提灯である。これは雲母とアルミニュームとから出来ていて非常に軽く、雨にも風にも消えぬ。停電の時、急用が出来て雨中外出する時等にも適しているが、殊に便利なのは軽いので口で柄を啣え得ることである。夜、高い戸棚の奥に入っている品を探す時大いに役立つ。
 以前住んでいた大阪郊外の家は電力で井戸水をタンクに入れ、そこから家々にパイプで配水する仕掛けになっていたが、このスイッチがどうかして故障を起すと、誰か梯子を登ってスイッチ・ボード迄行かなくてはならぬ。一度とても偉い雨風吹き降りの夜、故障が起ったことがある。提灯は駄目、懐中電灯では片手しか使えぬ、大騒ぎをしていた時、畳み提灯を口に啣えて梯子を登った私が見事故障を直した(といったところでちょっとしたレヴァーを引張るだけの話だが)ことがある。
 それから飯をたく飯盒、焚火の上にかけてうまい飯が出来るのだから、大地震の後なぞは定めし調法だろうと思うが、そんな経験はしたくない。
 今度はスキーの話になって、スキーその物ばかりは如何にこじつけても家庭内にあっては何の役にも立たぬが、修繕用の七つ道具、プライヤ、スパナー、ねじ廻し等はどの家庭に備えつけてあってもいい品物である。またスキーの裏に白蝋を塗る小さな鏝(内部に固形アルコールを入れて熱する)はちょっとしたアイロニングに非常に能率的である。我々階級のサラリーマンはよく経験するが、出がけになってソフトカラーに鏝がかかっていないことを発見し、急いで電気アイロンを出すと停電で駄目だなんてことがある。そうでなくとも何故昨夜鏝をかけておかなかったとばかり女房の横っ面を張ったりする代りに、メタをポキンと半分に折ってマッチで火をつければ、カラーの一本や二本なら食卓の上ででもアイロニングが出来る。どうだ、お前は俺がスキーの道具ばかり買って子供の靴下を買わないとて腹を立てたが、パラ一丁あれば云々とばかり、家庭円満。
 ここらで結論を開始すると、そもそも山の道具類はすべて自然のエレメントに対抗して負けぬように出来ている――負けるのもあるが、それは製作者が悪い。また軽く、且つ使用法によっては、いろいろな用途に役立つ。この事を頭に置いて我々の実生活を考えると、我々は家屋によって雨風等から離れて住み、電灯によって夜と昼とを同じもののように思い、汽車は切符代さえ払えば完全に目的地まで我々をつれて行くものと信じているのだが、さていつ地震があって家が潰れるか分らず、暴風雨の夜モモンガーが高圧線にひっかかって東京中が闇になるか知れず、汽車が決して崖から転り落ちぬものとは神様でも断言出来まい。つまり我々――殊に都会人――はあまり文明なるものに馴れて、常に我々の周囲にある自然のエレメントのポテンシャル暴力を忘れて了っている。で、一朝その暴力があらわれると、かかる場合に対して造られた山の道具が非常に役に立つということになる。そこで皆さん山に登らなくっても山の道具だけはお買いなさいなんて莫迦なことは決して申さぬが、如何なる大都会にも自然の暴威は手をのばすことを忘れてはいけません……とまア、変な決着になって了ったが、実は今朝パラでカラに鏝を当てたことから思いついて以上の如き雑文一篇。
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アイスアックス



「私のアイスアックスはチューリッヒのフリッシ製」……と書き出すと、如何にも「マッタアホーン征服の前日ツェルマットで買った」とか、「アルバータを下りて来た槙さんが記念としてくれた」とかいうことになりそうであるが、何もそんな大した物ではなく、実をいうと数年前の夏、大阪は淀屋橋筋の運動具店で、貰ったばかりのボーナス袋から十七円をぬき出して買ったという、甚だ不景気な、ロマンティックでない品なのである。だが、フリッシ製であることだけは本当で、持って見ると中々バランスがよく取れている。その夏、真新しくて羞しくもあり、また、如何に勇気凜々としていたとは言え、アイスアックスをかついで大阪から汽車に乗りこむわけにも行かないので、新聞紙に包んで信州大町まで持って行った。この時は針ノ木峠から鹿島槍かしまやりまで、尾根を伝うのだから大した雪がある筈は無く、真田紐で頭を縛って偃松の中や岩の上をガランガラン引きずって歩いたもんだから、石突きの金員や、その上五、六寸ばかりのところがザラザラになって了った。
 この年から大正十五年の六月まで、私のアイスアックスは大町の対山館に居候をしていた。居候と言っても只安逸な日を送っていたのではなく、何度か対山館のM氏に伴われて山に行った筈である。今年六月、まる二年振りで対山館へ行って見たら、土間の天井に近い傘のせ棚に、大分黒くなった長い身体を横たえていた。即ちこれを取り下ろし、大町から針ノ木峠、平、刈安峠、五色ヶ原、立山温泉、富山という旅行に使用した。非常な雪で、また大町――富山の大正十五年度最初の旅行だったので、アイスアックスが大いに役に立った。
 富山から同行者二人は長野経由で大町へ帰り、私は直接大阪へ帰ることになった。従ってアイスアックスも大阪へ帰って来たが、何もすることがない。戸棚の隅でゴロゴロしているだけである。時々令夫人が石突きで石油の缶をあけたり、立てつけの悪い襖をアックスを用いてこじあけたりする。山ですべてを意味するアイスアックスも、大阪郊外の住宅地では、かくの如く虐待されている。
 ところで、私はアイスアックスが非常に好きである。時々酔っぱらうと戸棚から出して来て愛撫したりする。アイスアックスが登山のシンボルであるような気がするからである。元来私が、氷河の無い日本の山を、而も夏に限って登るのに(将来あるいは冬登るかもしれないが)大して必要でないばかりか、ある時には却って邪魔になるアイスアックスなんぞ買い込んだ理由は、実にこれなのであった。刀剣の好きな人が、日本刀に大和魂を見るように、私はアイスアックスに登山者の魂を見出す。それにまた、冬の夜長など、心しきりに山を思う時、取り出して愛撫する品としては、アイスアックス以外に何も無い。
 登山者としての私は、道具音痴ではないから、あまり色々な物を持っていはしないが、それにしても若干ある登山具を、一つ一つ考えて見る、座敷に持ち込んで愛撫し得るものは、アイスアックスだけである。登山靴――これはツーグスピッツェの麓なるパルテンキルヘンで買った本場物には相違ないが、酒盃片手に泥靴を撫で廻すことは出来まい。ルックサック――これも登山にはつきものであるが、空の頭陀袋を前に置いた所で、何の感興も起らぬ。たかだか山寺の和尚さんみたいに、猫でも押し込んでポンと蹴る位が関の山であろう。飯盒――飯盒はいたる処で、私の為にふっくらした飯を提供してくれたが、さりとて食卓の上にのせて見ると、どうもしようがない。お箸でたたくとカチンカチン音を立てるから、赤ン坊はよろこぶが、一家の主人として威厳を保つ必要がある身分として、そんなことは出来ない。然らばロープか。ロープは一昨年の春、大阪の人西岡氏がいろいろ考えたあげくつくったものを百呎ばかり、使って見てくれとて持って来られたのがある。ロープこそはアルプスのシンボルと言えよう。登山、ことにロック・クライミングには必要欠くべからざる品である。現にアブラハム氏の「コムプリート・マウンテニヤ]の第三章「登山具」を読むと、第一に登山靴、第二にロープ、次でアイスアックス、ルックサックなる順序に説明してある。また、かの有名なるウインパアが、マッタアホーン登攀に成功した話、下山の途中起った悲劇、それらに関してロープが如何に重大な役目をつとめているかと思えば、これこそ登山具中の王者とも言うべきである。だが不幸にして私は本式のロック・クライミングをやったこともなければ、実際ロープを必要とするような山を登ったこともない。その上、如何に山を思えばとて、直径五、六分もある太い縄を百呎、座敷へかつぎ込んだ日には、井戸替え屋の新年宴会みたいで、面白くも何ともない。
 そこでいよいよアイスアックスが出て来る。アックスは鋼鉄を冠った鍛鉄である。柄はグレインの通ったアッシで出来ている。長さ三尺、重量は手頃と来ているから、よしんば振り廻しても大したことはない。右手に持ち、左手に持ち、あるいは柄の木理を研究し、アックスをカチカチ爪でたたいて盃の数を重ねて行けば、いつか四畳半の茶の間も見えなくなり、白皚々たる雪を踏んで大雪原に立つ気になったりする。寒風身にしみてくさめをし、気がついたらうたた寝をしていたなどというのでは困るが、とにかくアイスアックスは、我をして山を思わしめ、山を思えば私はアイスアックスを取り出して愛撫する。
 一九〇二年のことである。モン・ブランの頂上から四人の登山者が下りて来た。内二人はスイスのガイドであった。グラン・プラトーと呼ばれる地点まで来た時、突然物凄い雪嵐あらしが一行を襲い、進むことも退くことも出来なくなって了った。止むを得ず、アイスアックスで雪に穴を掘り、四人がかたまって一夜をあかすことにしたが、気温は下降する一方で、ついに暁近く二人は凍死した。
 翌日はうららかに晴れ渡った。残った二人は、とにかく急いで下山することにしたが、あまり急いだので、その中の一人が深いクレヴァスに落ちて了った。クレヴァスとは氷河や雪田に出来る裂目である。深いのも浅いのもあるが、この男の落ちたのは二百尺近くもあったという。そんな処に落ち込めば、命は無いものであるが、この人は不思議に、大した怪我もせずにいた。
 一行四人が、今はたった一人になった。この最後の一人は、これは大変だ、どうしたろうと、しきりにクレヴァスをのぞいている内に足をすべらして、自分もまた同じクレヴァスに落ち込んだ。同じクレヴァスと言ったところで万古の堅氷に、電光のように切れ込む裂目である。もちろん前に落ちた男は、自分の仲間がクレヴァスに落ちて即死したとは知る由も無い。どっちを見ても氷ばかりの狭い場所で、早くあいつが麓に着いて、救援隊をよこしてくれればいいとばかり思いつづけた。だがその、救援隊を求むべき人は、今はもう死んでいるのである。これほど頼り無い、心細い話は無い。
 ところでその地点から一万尺下に、シャモニの町がある。この町には非常に強力な望遠鏡が据えつけてあり、この日もある人が晴れ渡ったモン・ブランを山嶺から山麓まで、しきりに観察していると、ふとレンズに入ったグラン・プラトーの人の姿。どうやらクレヴァスを覗き込んでいるらしい。はてな、今頃たった一人で、何をしているんだろう、と思った次の瞬間、もう黒い姿は、どこをさがしても見えない。
 グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちた。すぐ救助に行かなくてはならぬ。この叫び声によって救援隊は立ちどころに組織された。選りぬきのガイド達、手足まといの登山客がいないだけに足が早い。羚羊かもしかのように岩を飛び雪を踏んで、遮二無二に急ぐ。
 一方、グラン・プラトーの上方に五、六人のガイドが、無事に前夜を送った登山者達と一緒に休んでいたが、ふと気がつくと麓から一群の人々が登って来る。只登って来るのなら何の不思議もないが、恐ろしく足が早い。とても普通の登山ではない。何か起ったに相違ない。応援に行こう、とばかり山を下りかけた。
 数時間の後、救援隊とガイド達とは落ち合った。グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちたと言う。それでは一緒にさがして見ようということになって、さてグラン・プラトーに来て見はしたものの、果たしてどのクレヴァスのどの辺に落ちたのかハッキリしない。あちらこちら覗き込んでは呶鳴って見ても、一向返事がない。さては死んで了ったのか、さっき望遠鏡で見た時から、七時間余も経っている。よしんば即死しなかったにしても、もう死んだのだろう。仕方がない、帰ろう……と話し合っていると、どこか変なところで変な声がする。まだ生きている! と一同急に元気を出して、又、あちらこちらと覗いては呶鳴り、呶鳴っては覗くうちに、とうとう落ちている場所を発見した。そら、ここにいる。縄を下ろせ。だが、どのくらい深いところにいるのか判らぬ。一番長い奴を下ろせ。かくて百五十呎が、スルスルと氷の裂目に呑まれて行った。すると下から声がする――まだ四十呎ばかり足りないと言う。そこで五十呎のをつぎ足した。都合二百呎である。
「よし、引っ張ってくれろ!」という声を聞いて、一同は力を合せて縄を引いた。二百呎の氷の裂目を、ブランブランと上るのは、危険至極である。氷の壁にたたきつけられたら、頭を割るか、足を折るか、とにかく碌なことは無い。だが、どこ迄も運のいいこの男は、無事に表面まで出て来た。
 前夜、すくなくとも十時間は雪に埋った穴の中で凍え、二人に死なれ、たった一人でクレヴァスにうずくまること八時間、たいていの人間なら、もう山は沢山、ガイドなんぞするよりは、山麓のホテルで門番でもした方がいいと思うであろうが、この男はどこからどこ迄アルプスのガイドに出来上っていた。もう弱り切って、ヒョロヒョロしているにもかかわらず、「誠に申訳ないが、もう一度縄でしばって、クレヴァスに降してくれ」という。救援隊の声を聞いた悦しさに、つい夢中になって、アイスアックスをクレヴァスの底に忘れて来て了ったのである。懇望するままに、また二百呎の縄を彼の胴に縛りつけて、クレヴァスに降してやる。後生大事にアイスアックスをかかえ込んだ男が、再びクレヴァスの口に顔をだしたのは、それからしばらく経ってのことである。
 この話はコリンスという人の書いた「マウンテン・クライミング」なる本に出ている。アルプスのガイド達は登山中如何なる事情があってもアイスアックスを置きざりにしてはならぬという不文律を、固く守るのだそうである。ちょっと面白い話だから、うそか本当か知らないが――まさかうそではあるまいけれど、コリンス先生の著述目録を見るとカメラ、ワイヤレス、飛行機、山、等、いろいろな物に関して本を出しているので、いささか当世流行の大衆向きライタアらしく、従って面白く書くことを目的としているから、ひょっとしたらこの話も又聞きぐらいかも知れぬ。――アイスアックスの話のついでに紹介する。
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山と酒



 広い世間には一を読んで十を考える人が随分いるらしい。私がパイプの話を書くと、私なる者は朝から晩までパイプを啣えっきりにしているに違いないと思ったり、酒が好きだとどこかに書いたのを読んで、私のことを年がら年中酒ばかり飲んでいる野郎と思い込んだりする。このような人がどうにかして、私が山に登ることを知ると、「お前のように酒をのんでも山に登れるかい」なんて質問をする。
 山登りばかりでなく、如何なる運動にも、酒のよくないことは判っている。私とてもちろん登山の最中に酒をのみはしない。一日の行程を終えて山の小屋なり野営地なりに着いた時、若し酒があれば極めて小量を摂取するだけである。それにしても山と酒……但し私ひとりの経験にとどまるが……という問題を考え出すと、かなりいろいろなことがある。
 そもそも私が一番最初に山に持って入った酒はウイスキーであった。そのウイスキーが何であったかを覚えていない。これは出発に際して父がいわゆる気つけとして、小さな平瓶にいれてくれたものである。
 気つけとしてウイスキーなりブランデーなりを山に持って行くことは、合理的であり、且つ必要である。水にあたって急に腹が痛くなったりした時、シャツであろうと手拭であろうとルックサックであろうと、何でもかでも腹にまきつけ、そして熱い湯をわったウイスキーかブランデーをグッと飲むと、たいていは治る。
 この故を以て十数年前、仙台の第二高等学校で第一回山岳部講演会兼展覧会をやった時、展覧会場の一隅にしつらえた「登山必要品」の中には、片パンやウェーファースやコールゲートの練歯磨と共にウイスキーの平瓶が一つ置かれた。片パン及びウェーファースには、およそ山に入っている間は、いつ、どんなことで、連れとわかれるかも知れぬ、たった一人で深山幽谷を迷って歩くような場合に陥るかも知れぬ、かかる時取り出して食うためで、決しておやつの代りにがりがり噛るべきものではないという説明書を、つけたような気がする。噛るといえば鰹節も同じ意味で必要品に加えたように記憶する。コールゲートの練歯磨に至っては、実にびっくりすべきもので、その当時誰だったか日本山岳会の一員が、甲州の山で路に迷い、流れに従って下れば必ず里に出るとの信念を以て、ある渓流に添うて下るうち、一日二日三日と、ビスケットも食っちまい、ドロップスもしゃぶり尽し、ヘトヘトになった時、ルックサックの底にコールゲートの練歯磨が入っているのを発見、これを舐めては水を飲み、水を飲んではこれを舐め、ついに命を全うして里に着いたという話が伝わっていた。我々二高の山岳部幹事は、いたくこの話に感激し、さてこそ練歯磨のチューブを陳列したものである。
 ところでウイスキーの話に立ちかえると、この展覧会非常な大盛況で、二日だか三日だか続いたが、これでいよいよお了いという時、ウイスキーの瓶を見ると、大分内容が減っているばかりでなく、変なあぶくが浮いている。誰か見物人が……恐らく二高の生徒であろう……そっと手をのばして喇叭ラッパをやったに違いない。会が済んだら飲んでやろうと、実は心まちに待っていた我々幹事は、大いに憤慨した。飲んだ奴が判っていれば弁償させるなり何なり方法もあるが、それは判らず、第一きたないや、なんて言っていたが、その内に誰がのむともなく飲み始めて、とうとう空にして了ったことがある。
 今年(大正十五年)の六月、百瀬慎太郎氏と二人、案内者北沢清志をつれて大町から富山へぬけた時、二人とも至って酒が好きなくせに、およそアルコール分を含んだものとては一滴も持たずに出かけたものである。何故またそんな真似をしたのかというと、すくなくとも私自身は、それまでさんざん酒をのんで、詰らない、下らない日を送っていたのだから、せめて山の中では酒精分は一切口に入れまいと思った。
 これは誠にいい決心であったが、さて大沢の小舎に着いて炉で火が燃え、鍋で白い飯がフツフツいい出すと一杯やりたくなる。どこかに残っていやあしないかと、心は同じ両人が薄暗い蝋燭の光をたよりに、鼠の糞や埃で一杯の小舎の内をゴソゴソかき廻して、樽という樽、缶という缶をゆすぶって見たが、コトンともドブンとも音を立てぬ。泥まみれの瓶を見つけ出して、やああったぞとばかり、苦心惨憺、栓をぬいて嗅ぐと醤油だったりした。仕方がない、あしたは平で、日電の小舎には屹度酒があるだろうと、その日はそのまま寝て了い、さてその翌日、針ノ木峠から蓮華の裏の大雪渓を通って平に着く。日が暮れて路が判らず、東信の空小舎を借りて一泊するのにも、若しやどこかに酒がありはしまいかと、キョロキョロした。次の日は対岸の日本電力の出張所で、手あつい歓待を受け、岩魚いわなや熊の肉の晩飯となる。一行三人、キチンと坐ると出張所長の宮本さんが、お酒を上げたいがあいにく切らして……と言われる。いいえ、一向不調法でして……と言いはしたものの、また実際酒があった所で、とても恐縮でそう呑めはしないにきまっているものの、とにかく世界中にこんな美味いものはあるまいと迄伝えられる黒部くろべ川の岩魚が、ジジリ、ジジリと焼けて、その香が鼻を打つと、家にしあれば一升瓶だが、あの徳利にコクコクと移して銅壺につける。北ではあすこの酒場のおやじが、松竹梅、白鷹はくたか、菊正宗、都菊とそろえているのを、私が行けばむろん「菊」。徳利を持ち上げて、如何にももっともらしく底にさわって見る。南のあの家では桜正宗、青磁色の猪口で……と、実に意地のきたない話ながら大阪の酒が目の前にチラチラして、今頃酒をのんでいるであろうところの、日本国中の何十万人かが、皆不倶戴天の仇のような気がして来た。
 その次の日は立山温泉どまり。刈安峠から尾根をつたって五色ヶ原、佐良さら峠、一日中雪の上ばかり歩いていた。そしてはるか下に温泉の低い屋根を見た時、我々は今夜こそ酒がのめるぞ! と口に出して言った。若しまだ番人が来ていなかったら、錠前をねじ切って倉庫に入っても酒をのんでやろう等と、物騒な考えを起したりした。
 温泉には番人と若い男と二人いた。だが、まだ時期が早いので、何の準備も出来ていない。ヘトヘトに疲れて口をきく気もしない身体を炉のわきに横たえながらも「おじさん、酒はあるかね」と聞いたものである。さあ、あるか無いか、蔵へ行って見なくては判らないという心細い返事に、済みませんが行って見ておくんなさい、若しあったら二合瓶を二本ばかり頼みますと言っておいて、ようやく掃除の出来た部屋へ行く。そこへ、温泉に入りに入った北沢が二合瓶を二本さげて帰ってきた。温泉というのが野天で、あつくて什方がねえからスコップで雪を三杯たたき込んだという素晴らしいもの。(もっともこれは、まだ温泉場を開いていなかったからの話で、本式に始めればここから湯を引いた立派な浴場が出来る。立山温泉の名誉のために、一言弁じておく。)それはともかく、そら酒が来たというので急に元気づいて、見ればそのレッテルの色もあざやかな桜正宗である。早速燗をして飲んで見ると、うまくも何ともない。苦くって、ピリピリして、猫いらずを溶いた水を飲んでいるような気がする。三人かかってやっと二合瓶を一本あけた頃には、頭がガンガンして来た。二本目は封を切っただけで、番人たちに贈呈して了った。
 あんなに飲みたかった酒が、どうして飲めないのだろう――我々は不思議に思った。だが考えて見ると相当な理由がある。第一桜正宗が非常にいい酒であるとしても、二合瓶につめられて大阪から富山へ送られ、それから何里かの山路を立山温泉まで持って来られる内には、多少どうかするに決っている。つづいて冬、どんな倉庫だか知らないが、いずれ雪に埋って一冬を送るのだから、酒の味それ自体もすこしは変ろう。だがそれ以外に、私たちの身体の状態が、どんな酒を飲んでもうまいとは感じないようになっていたのではあるまいか。
 要するに日本酒は浅酌低唱というところ、小さな猪口を口にふくんで、気長にチビリチビリやるべき性質の飲料である。盃洗でひっかけたり、デカンショに合わせてあおったりするのは邪道である。衣食足って――礼節の方は知らぬが――銀行に特別当座預金でもあろうという泰平の逸民が、四畳半の投げ入れを見ながら、一杯一杯、「河豚汁や」を考えて、頭からピシャピシャやって飲むべきものである。
 かくの如き日本酒を、立山温泉で飲んだ我々は、一体どんな「我々」だったろう。三日も四日も激しい労働をやって、而も紫外線の多いという高山の日光と雪の照りかえしとで、手や顔の皮がむける程まっ黒になっていた。自然のぼせる。唇には縦にひびが入って、笑ったり、欠伸あくびをしたりすると血が吹き出す。口腔はネチネチして、いくら水やお茶を飲んでも平常状態にならぬ。両眼は雪眼鏡をかけていたにもかかわらず、やはり充血している。歯はみがかず鬚は生えっぱなし。こんな野蛮人にでくわしては、酒の方から忌避しても、一向不思議でない。
 過激な筋肉労働をする人々が、一日の仕事を終えると、電気ブランとか焼酎とかいう強烈な酒を呑むのには、あるいはこれらの酒が日本酒に比べると安価で、早く酔いがまわるという原因もあるであろう。だが、あるいはそれ以外に、肉体の疲労が甚だしい時には、燗をした日本酒のチビチビ飲みが、何等の快楽を持ち来たさぬというような理由も存在するのかも知れぬ。
 大正十三年の夏、黒岩直吉の兄弟と、針ノ木から鹿島槍まで行った時には、ウイスキーを一瓶持って行った。大瓶一本、山ではかなりの荷物になる。やめようかとも思ったが、何、俺が持ってゆくというので黒岩に頼んだ。第一夜大沢。天幕も張れ、飯も出来たという時コルクをぬいて、氷のような水に割って一息に飲んだ。冷たい水が胃の腑に達すると同時に、ふーっと、何とも言えぬ酔が出て来て、疲れが一時に消えて行く。飯もうまければ元気も出る。その後マヤクボ、棒小舎の乗越し、つめたノ池と三個所で野営するごとに皆で――と言って、主に黒岩と私だが――一杯ずつやり、とうとう一本空にして了った。棒小舎乗越のウイスキーは、もう二年半になる今日、まだ忘れられぬくらいうまかった。元来、前夜はマヤクボで野営する筈ではなかったのに、雨が降って来たため急に予定を変更したのである。従って乗越に着いた時は、まだ日が高かった。早速天幕を張る。いつでも寝られるようにしておく。塹壕のような形をした窪地に火を焚いて、その上に太い枝をさしかける。黒岩の兄は近くの水溜りへ米を洗いに行った。同行者のT君は、如何にも光線が面白いからというので、写真器を持って天幕のまわりをウロウロしている。私はウイスキーの瓶と瀬戸引のコップとをさげて、黒岩の横に腰を下した。
 コップを差出しながら「直吉さん、どうだね、一杯」と言うと、びっくりしたような顔をして、「そうかね、えれえ済まねえな」といいながら、底に一寸ばかり受ける。そいつをキュッ! 「うめえね」と手の甲で口を拭く。
 私も一息にやってから、コロリと草の上に長くなった。この辺の草はまことに短く、そして柔かい。風もなければ鳥も鳴かぬ日暮れ時。足のさきでパチパチはねる枯枝の音を聴きながら、ウイスキーの酔が、適度につかれた身体中の筋肉を一つ一つ、ほぐして行くのを感じる。山に登るたのしみ! 私は前人未踏の所謂処女峰を征服しようも思わないし、エヴェレストの絶頂に日章旗を押し立てようとも望まない。かくの如き草の柔かい場所にねころがって、野営地をさがす心配もなく、飯をたく水に不自由もせず、ウイスキーの軽い酔を感じていさえすれば、私は満足する。
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山と女



 酒の話のすぐ次に、女の話が出て来ると、すこし、よろしくないようだが、婦人と登山とについて心に浮ぶままを、ボツリボツリ書いて見ようかと思うのである。
「婦人と登山」と言えば日本体育叢書の第十五篇「登山」において、著者田中薫君は「婦人の登山者の為に」なる見出しの下に、詳細に服装のことを書いている。どうもブラウスとかナイトキャップとかワンピースとか富士絹とか、いやにくわしいと思っていたら、今年の夏は婦人同伴鹿島槍に登っている。これではくわしいのがあたり前である。
 閑話休題――と言ったところで私の話、ことごとく閑話ならざるはなしだが――ここに英国ケジックの住人、ジョージ・アブラハム氏の著『コムプリート・マウンテニヤ』は、日本にも沢山来ているから、たいていの登山家は知っているであろうが、一九〇七年の十一月に第一版を出し、翌年二月、ただちに第二版を出した。飛んで一九二三年に改訂第三版が出たことは、著者自身も書いているように、一般向きとは言えぬ登山なるスポーツ界ではエポックとも考えるべきである。然し別の考えようをすれば、この『コムプリート・マウンテニヤ』は、山登りの技術だけを書いた本なのではなく、いろいろなアネクドートや、エピソードが沢山入っているので、いわゆる読物としても面白く、従ってよく売れたのであろう。
 それはとにかく、『コムプリート・マウンテニヤ』を開くと、先ずリッフェルアルプから見たマッタアホーンの写真、タイトルページ、それに続いて全一頁のまん中に小さく
    TO
HER WHOM I MET
 ON THE ROCKS
と、三行にわけて印刷してある。申す迄もない、デディケーションで、著者ジョージ・D・アブラハムはこの本を「岩の上で逢ったところの彼女に」ささげているのである。
 私はアブラハム氏の私生活を知らないから、「岩の上」の彼女が誰だか、もちろん判らぬが、このデディケーション、ちょっと気になる。気が利いているような、思わせぶりなような、変な文句ではないか。高等学校の山岳部員が感激しそうである。いや、事実、高等学校時代の吾人は、大いに感激して、いろいろと岩頭の彼女を空想したものである。だがその頃、富士や筑波はいざ知らず、いわゆる日本アルプスに登る女は至って少数であった。たまに登る人は奥さん方で、これでは著述をデディケートするわけにも行かない。
 その後十数年、今日では大分女の登山者が増加した。女学生の洋服、女子スポーツの隆盛が今後ますます若い娘をして登山せしめるようになるものと思う。すると、これからさきの若い登山家たちは、「岩の上で逢った彼女」に、著書なり一生涯なりを捧げる機会を多く持つようになるので、これはまことにうらやましい話だ。何もここで婦人問題を論じようとは思わないが、元来登山なるものは、平素運動をしている人にとっては、その性の如何を問わず、大して過激なものではない。というより、登山は、プランの立てように依っては、比較的楽な、愉快なスポーツである。だから、夏休みなり何なりに、夫婦でルックサックを背負って山に出かけることはまことに面白いと思う。
 余程以前、ウェールスの山、スノードンに登ったことがある。この山、高さは僅か三千五百七十呎だが――それでもイングランドとウェールスでは一番高い――、実にいい形をしているので、普通「ブリティッシュ・マウンテンスの女王」と呼ばれている。殊にワッツ・ダントンの小説『エルウイン』に出て来るので、私は大分昔から、いわゆる憧憬を持っていた。
 ところでこのスノードンは、ロック・クライミングで有名な山であると同時に山岳鉄道が麓から絶頂まで走っていて、おまけにその絶頂にはホテルが建っている。アブラハムの言によれば「絶頂に達するガリースの中の若干は、今や頂上ホテルのゴミ卸樋シュートになって了い、如何に登山術を心得た人でも、スノードンの秀麗なる北側面を殆ど絶え間なく落ちて来るジンジャ・ビアの空瓶や、鰯の空缶や、その他の物品を避けるだけの技能は持ち合わさぬ」のであり、また「ラスキンのいわゆる『山の憂鬱と山の栄光』とは不信心な旅行者の群をはこび上げる、キーキーいう煙だらけな山岳鉄道によって攪乱されている」のである。私もこの「不信心な旅行者」の一人として、ある美しい秋の日の午後、スノードンの峰に立った。別に弁解するのでもないが、その後一月足らずで日本へ帰る時だったので、金も無く時間も無く、とても悠々と山を登っている訳に行かなかったのである。
 やがて汽車が出るというので、停車場の方へ足を運んだ時、突然横手の岩角から、かなり大きなルックサックとロープとを背負った男があらわれた。登山服、登山靴、汗ばんだ顔。ああ、ガリースの一つを登って来たのだなと思う間も無く、続いて今度は、まったく男と同じような身なりをした女が顔を出した。頭をキリッと絹のハンカチで捲いている。引きしまった身体つき、日に焼けた頬。その晩は恐らくホテルで泊るのであろう。下山する汽車には目もくれず、大股に絶頂の方に歩いて行った。
 私と一緒の汽車で下りる人々は、いずれも不思議そうな、好奇的なまなざしで両人を見送っていたが、私はうらやましかった。時間さえあれば、金の方はどう都合つけても、エルウインの路をたどってスノードニアを歩いて見たいと思った。
 それから日本へ帰ってからのある夏。私は久しく登る機会を得なかった鹿島槍を再び訪れるべく、信州大町へ向った。暑い七月の終り、寝不足な身体を信濃鉄道のせまい窓にもたらせて、松本から大町まで、汽車の速度の極めて遅々たるのに、いささか癇癪を起こしていると、とあるステーションで、こちらの汽車を待避していた列車。キャー、ワーという黄色い叫び声にびっくりして見ると、丁度真向に当る車室は一杯の女学生である。鼠色によごれた上衣、紺のスカート、ナイト・キャップみたいな帽子、中には鉢まきをしている娘もある。「白馬登山の女学生が帰って来た!」と同室の地方人の話に、なる程この連中、白馬へ行ったのかと知ると同時に、汗くさい、日向っ臭い女学生数十名に、一どきに絶頂を踏んづけられた白馬が可哀そうになった。「岩の上の彼の女」は単数にかぎる。若し「彼女等」になるならば、せいぜい二人か三人までのこと。数十名の彼女等に取りかこまれた日には、如何なる Lusty knight of Alpenstock も、たじたじになることであろう。
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山と煙草



 酒の話を書いたからには、煙草のことも書かねば義理が悪い――という訳でもないが、筆のついでに一言して見たい。
 G・W・YOUNG氏の編纂した『マウンテン・クラフト』は、いろいろな意味において私の愛読書である。読み物としての面白味からいえば、ジョージ・アブラハム氏の著書の方に遥かに面白いのがあるが、登山のテクニックに関する知識を得る点から見ると、このマウンテン・クラフトが一般的の役に立つような気がする。
 話はいささか横路に入るが、ヤング氏がこの本に書いた緒言は愉快な言葉で始っている――「この本はマウンテニヤスの為に書かれたものである。而してマウンテニヤとは登山をする人だけを指すのでは無く、好んで山の周囲を歩き、好んで山のことを読み、且つ考える人の誰もをいうのである。」
 私はこの言葉が非常に気に入った。そこでマウンテニヤなる英語は果して何を意味するのか、調べて見ようと思い、手近の辞書類をひっくり返して次の結果を得た。
 第一に三省堂の「模範新英和大辞典」。これによると名詞の一が「山住みの人、山人やまびと」。二が「登山者」。別に「山に登る」なる自動詞があげてある。
 次に中学校時代かに使用した斎藤秀三郎氏の「英和中辞典」を見ると「山国の人、山人、登山(業)者」としてある。三省堂のに比較すると自動詞以外は殆ど同じだが、ただ「登山(業)者」として、登山者と登山を職業にする者とをわけたところが面白い。
 これ丈で沢山なのだが、どうせ乗りかけた船だと、机の引き出しに入っているのだしするから、ウェブスターのリットル・ジェム・ディクショナリイを引いて見ると、マウンテンには「丘より高い高所」と説明してあるが、「マウンテニヤ」は只かかる語があることを示してあるだけで説明はしてない。
 そこで最後に英語の字引としてはこれ以上のものが無いといわれる、ジェームス・マレー喞の「新英語辞典」を、図書館に出かけて読んで見ると、
(一)山間の土民、あるいは住人。
(二)マウンテン党の一員。
(三)登山(マウンテン・クライミング)に熟練せる人、あるいは登山を職業とする人。
と、こう三通り出ている。第二を除くと斎藤さんのと同じになる。しかもこの(二)は、フランス革命時代の山岳党(la montagne)のことだから、この場合吾人とは無関係なのである。
 かくの如くどの辞書によっても、マウンテニヤとは山間に住む人か、山に登る人かになるが、ヤング氏の緒言があるので、私もこんな風なことをマウンテニヤの為に書いていると意識することが出来て、甚だ有難いのである。
 ところで道草ばかり食っていないで、煙草の話にうつると、「マウンテン・クラフト」の第一章が「管理と指導」「食料飲料」と二つ区分があって、その次に「喫煙」の項が出ている。この章はヤング氏自身が執筆しているが、同氏の意見によると、煙草を吸うとか吸わないとかいう問題は各人がそれぞれ決定すべきことで、別に一定の規則は立てられぬ。但し実際山を登りながらパイプを吸うことは「肺にとって不愉快、パイプ・ステムにとって費多し」と書いている。続いて次のような文句が現れて、大いに私をよろこばせる。私ばかりでなく、世のパイプ党、並びにマウンテニヤ達をよろこばせそうだから書いて見る――

「パイプは食物、飲料、あるいは睡眠の、よき一時的代用品となる。それは待つことのつめたき幾多の瞬間を慰め、困難に際しては心をやすめてくれる助言者になる。煙草を吸い得ること、従って登山者の真の親交を特長づけるところの努力なき沈黙中に彼自身を支持し得ることは、如何なる登山仲間も持っていねばならぬ資格である。」

 この訳は、夏目さんの「巨人引力」みたいだが、意味は判るだろうと思う。またヤング氏が恐らくパイプを好むであろうことも想像出来る。パイプを吸うものは沈黙を愛する――これは登山家ばかりではない、誰でもそうである。もちろんパイプを啣えたまま話をすることは出来ぬからであろう。
 それはそうとして、まったく、目的の峰に達した時、ルックサックを下に置いてから、手頃の岩に腰をかけて吸う一服は、恐らく最もうまい煙草の吸いようであろう。ことに天気がよくて、遠近の山々がいわゆる手に取るように見える時なぞは、どの山が何だとか、どこの尾根がどうとかしゃべられると、うるさくて仕方がない。かかる時には、只、黙って紫の煙を空に吹き上げるに限る。
 私はパイプとシガレットとを山に持って行く。シガレットは上衣のポケットに入れておいて時々吸うが、パイプはルックサックに入れて、大休みする時、例えば目的地に達した時か、昼飯の時かに吸うようにしている。一日中雪を踏んだり岩を匐ったりして野営地に着く。先ず上衣を脱いで厚いスウェッタアを着込み、天幕を張ってから、パイプを啣えて焚火の傍らに坐る時の気持は、ちょっと説明出来ない。説明を試みてもそれは山を知らぬ人にはピッタリ来まいと思う。かかる時、煙草を吸わぬ人が、しみじみと「ああ、俺も煙草が吸えたら……」と、よくいうことだけを記してこの稿を終えよう。
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山の本



 僕が持っている山の本のことを、何ということなしに書いてみようと思う。
 先ず第一にウインパアの『スクランブルス』の初版をあげねばなるまい。どうもそれが順序であるような気がする。ロンドンのバンパスで買った。幾らだか覚えていないが、Rev. J. J. Muir というスコットランドの名前が書いてある。
 Rev. で思い出すのはウェストンさんだが、そのことは後廻しとして、『スクランブルス』の初版に関連して不思議な本が二冊、僕の書架におさまっている。大きさはどちらも二三×一六センチ、表紙の背には Scrambles amongst the Alps by Edward Whymper ――一方のは背の下に J. B. Lippincott Co. とあるが、一冊には何ともしてない。『スクランブルス』に間違いないのだが、タイトル・ページをあけると SCRAMBLES AMONGST THE ALPS,/BY/EDWARD WHYMPER;/AND/DOWN THE RHINE,/BY/LADY BLANCHE MURPHY/WITH ILLUSTRATION/PHILADELPHIA:/J.B. LIPPINCOTT & CO. と、これはリッピンコットの方だが、もう一つには出版者の名は明記してなく、ただ巻尾の広告が THE BURROWS BROTHERS CO., CLEAVELAND, OHIO 出版の書物で、速記術とかなんとか、そんな風な詰らぬ本の間に、この本の名も見えていることでバロウス兄弟が出版したことが知られる。どちらにも出版のデートは無く、頁数は『スクランブルス』だけが一六四(原書は四三二)、活字は小さくし、行間をつめ、新聞一コラムぐらいの幅で二段ぐみにしたものである。リッピンコットの方は挿画など、まだまだ鮮明だが、バロウスの方はぐちゃぐちゃで、これを Mutilation といわずして何ぞやである。買価一弗、買ったのが一九三二・六・一二、場所はフィラデルフィアの LEARY ――日本人にはいいにくい名だ。いやに詳細をきわめるようだが、実は本の中から受取が出て来たのだ。その頃の米国は相当ひどいことをやったもので、パイレート版の見本によかろうと思って買って来た。研究したい方には貸して上げてもいい。
 貸すといえばウエストンさんの『日本アルプス』が見つからぬ。誰かに貸した覚えはあるのだが……これにはウエストンさんが聖書の中の文句を書いてくれた。
 コンウエーの『カラコラム・ヒマラヤ』(二冊本。署名入。百二十一部限定)は、自慢してもいいだろう。誰が持っていたのか、名前は書いてないが、おそらくこまかく読んだもので、二冊とも巻頭の白紙は、旅程の書きぬきでベッタリ埋っているばかりか、第二巻の最後のインデックスに Lamayuru, 617-20, 662 とある最後の2が1に直してある。本もそうまで読めば本格的だ。恐らくはカラコラムに入ろうとしたか、又は入った人が、調査の材料にしたのであろう。

 登山のテクニックを書いた本では、バドミントンがとてもうれしい。もちろんバドミントンはその後改訂されはしたが、一八九二年のもので、一九三四年に出版されたロンスデール・ライブラリイのマウンテニヤリングとは比較にはならぬであろうが、ごろんと横になって読むにはもって来いである。我々四十前後の者にとって、バドミントンの名が大きな魅力を持っていること、これは否定出来ぬ事実である。
 テクニックに関する数冊を比較すると面白い結果が出るであろうが、あまり専門的になる危険があるから、それはやめにしよう。アブラハムの The Complete Mountaineer など、今では「ケジックの写真やか」とか何とかいわれて、誰も相手にしないが、相当これで我々の血をわかしたものである。
 How to Become an Alpinist なんて本、今日でも読む人があるかしら。著者はバーリンガム。タイトル・ページにも口絵の写真にも、The Man who Cinematographed the Matterhorn としてある。先生曰く、

 そもそも、誰でもがアルピニストになれるものではない。身体がズングリしてよく働く心臓を持つ人々のみが、このような激しい骨折仕事をなすべきである。めまいをする傾向の者は牝牛がしばしば訪れる頂上にかぎって登るべし。肉体的且つ精神的に資格ある初心者は、高さと断崖とに馴れる迄は簡単な登高を、騾馬路を外れずに行うべし。そこで馴れたら山羊路を歩いてもよろしい。

 牝牛、騾馬、山羊と三段にわけたあたり、「鹿も四肢、馬も四肢」と叫んだ源氏の大将より、よほど動物学の知識はあるが、これ、少々コハイみたいな訓示である。

 一番はじめに米国のパイレート・エディションの話を書いたが、米国だからとて、ちゃんとした本も出している。その例の一つが、ティンダル教授の著述をアップルトンが出したもの(1896)INTERNATIONAL SCIENCE SERIES の第一巻が同教授の The Form of Water であるが、立派にオーソライズされているし、又スクリブナア The Out of Door Library の Mountain Climbing(1897)の如き、コンウェーをはじめ一流どころの書き下しである。

 僕は蔵書家でも愛書家でもないらしい。こう書いて来て、まだティンダルの本があったような気がし、書架をさぐったら Hours of Exercise in the Alps が出て来た。ウインパアの版画が二枚入った一八七一年の初版で、これは大切な本として扱わねばならぬと思った。一弗と鉛筆で書いてある。やはり例の Leary で買ったものだ。忙しい旅の最中に買い込み、ろくに調べもしなかったのである。

 とても面白いのは、一度紹介したこともあるが Anthony Bertram の To the Mountains という本だ。ひとりで面白がっていやがると思われては心外だから、ここに書いておくが、深田久弥氏に話したら是非かしてくれとのこと。大分経ってから同氏わざわざ自身で返しに来られ、面白かった礼として『わが山々』をくれた。バートラムの『山へ』はツーグスピッツェ、もちろん山としては大したことはないのだが、本全体の構成が実に奇抜で、ちょっとトリストラム・シャンデイといった点があり、写真はつまらぬがカットが素晴らしい。丸善で偶然ひろった本である。

 I have heard a man complain of German Girl because, when she reached the summit, she cried, “Ah, that is beautiful, that is wonderful. I must my sausage eat.”
 But how right she was! Only those who go up in funiculars stand and blather. When you have climbed, when you have conquered, then indeed should you sit down and your sausage eat. Let joy be unconfined ……

 僕はこよなく、この本を愛する。

 まだこの他に英語の本は沢山あるが、カタログをつくるのではあるまいし、この辺でいい加減に打ち切ることにしよう。さて英語の次はドイツ語だが、これはあまりよく出来ないので、よほど、さしせまった必要がない限り精読せず、従って厚い本は写真のきれいなのや挿絵が沢山入っているものという、甚だ恐縮な次第である。
 薄い本は相当あるが、その一つの DAS SKIBUCH 一九二二年ウインで出版され、エマ・ボルマンという婦人の木版画と詩とを満載している。詩の方は手紙の型式になったスキーの教則だというが、大したこともなく、それより木版画の方を御紹介したいが、文章ではちょっと手に負えぬ。一本杖、両杖半分ぐらいの時代で、とても変てこりんな漫画式のものだが、おかしなことに、現代日本の各ゲレンデで、この本にあるような変てこりんなシーロイファを、ちょいちょい見受ける。

 ヘンリ・ヘックの『雪・太陽・スキー』は私の好きな本の一つだ。大分知られているので、改めて紹介する必要もあるまいが、高山の春を書いたもの、写真が――製作技術はあまりよくないが――実にいい場所を撮影してあり、我々をして、ひたすらに山を思わせずにはおかない。――例えば十三頁にある「太陽の中で憇ふ(アロサ)」の如き、ゆるい傾斜の草原には一面にクローカス、花咲く草地に接して雪田、その雪にスキーを立て、草原には若い男女が五人ねころがっている。雪田の向うは雪が残る岩山……僕等は、何度「ああ、いいなあ!」と叫んだことだろう。この本の写真は、みんなきれいで、みんな小さく、「見てくれ」のおどかしが一向に無い。

 およそ溌剌、颯爽たる女性スキーヤァを見たかったら、ドイツの雑誌 DER WINTER を買いたまえ。この頃は少々地味になって来たが、三、四年前までは、素晴らしい色刷りの表紙で、素晴らしいシーロイフェリンが、素晴らしいポーズをしていた。こんな人達と一緒にスキーに行ったら、Stemm! Stemm! とソプラノ……むしろアルトかな……でいうのが、Je t'aime, je t'aime! と聞えそうで――この辺でやめておこう。四十を越しての被恋妄想など、おかしくも何ともないから。

「シュテム!」と「ジュテム!」なんざ、中々芸がこまかいだろう。残念ながら、僕の思いつきではなく、フランスの雑誌に出ていたと教えてくれた人があったのだ。その話を応用して書くと、どこかでそれを発見し、「原稿料を半分頂戴」といって来たには恐れ入る。今度は印税を半分と来るだろう。油断もすきもならぬ世の中だ。
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山へ




 私は丸善へ行くと、たいていの場合、先ず第一に伝記のところを見、次にエッセイの部を眺め、新刊書の棚の両側に目を走らせ、それが済むとお隣のスポーツの部を瞥見する。先日、といっても二月前だが、この順序で最後のスポーツへ到達したら、時しも頃は若人の心が高きに向う晩春なので、山の本が沢山来ていた。私はその中の一冊、To the Mountains つまり『山へ』というのに特に目をつけ、取り上げて頁をパラパラ拾い読みすると、マルセーユのライセンスド・クオータアのことや、貨物船のことばかりが目についた。妙な本だと思って買って帰ったが、事実これは妙な本で、而も面白い本である。


 特にこの表題に注意を引かれたのには、大きな原因がある。去年私は主として山に関する雑文を集め、『山へ入る日』という題をつけた小さい本にした。この表題に相似ている。私のこの本の名については、あるスマートな現代的青年が、「これは足下が山へ入るその日のことを意味するや、又は西へ沈む太陽を意味するや」と質問した。それは本を読めば判ることだから買って読み給え……と、私は答えたが、青年は単に会話を社交のために使用したものと見え、その後、本は買っていないらしい。
 閑話休題、『山へ』の著者はアンソニー・バートラム、小説家で芸術批評家、『ソード・フォールス』『ペーター・パウル・ルーベンス伝』等の著述あり……と書いて来ると、如何にも調べ上げたようだが、これは同書のジャケットに書いてあることで、これだから本の上被い紙はやたらに棄てるわけに行かぬ。事実世間でいわゆる「物知り」なるものは、雑誌の広告や、新聞の切抜きや、あるいは往来でくばるビラみたいな物を沢山集め、他人が忘れたか、又は全然看過している種類のインフォーメーションを、豊富に持ち合している人間であるらしい。


『山へ』の山はツーグスピッツェである。著者はジェレミーと呼ぶ友人と一緒にこの山に登るのであるが、途中いたる所で何かにひっかかっては、以前の経験を思い出し、横路へ入り込んで了う。トリストラム・シャンデー、ちょっとあんな調子だが、もちろんあんなに七面倒ではない。以前の経験というのが、いずれも旅のそれで、しかもカフェーやビヤ・ガルデンの話が多い。山の本としてはこれだけでもいい加減変っていて、いわゆる「厳格な、教義と実行とを持つ」登山者並に山岳文学者は、寛大な微苦笑を以て、「他愛ない」という前に、先ず憤慨しそうであるが、読物としては確かに面白く、殊に著者が旅行しながらこの本を書いていることが意識的に明瞭に出してある点、甚だ愉快である。


 文壇の現状では、あんな物は許されまいが、昔ある文士が十何枚かの原稿を依頼され、机に向いはしたものの何も書くことが無い。締切は迫っているし、これを書かねば米櫃は空のままでいなくてはならぬ。何とかしなくてはならぬと困っていると、遠くで工場の汽笛が鳴ったり、天井で鼠が騒いだり、そんなことを、べんべんだらだら書いて雑誌に発表したのを読んだ覚えがある。あれ、或いは写生文とでもいう性質のものだったかも知れぬが、今度の『山へ』にも、追々と本が出来て行く過程が書きしるしてある。


 二百七十頁ばかりの本で、その百五十六頁に来て、初めて「山へ」という題がきまる。場所は目的の山、ツーグスピッツェを一目に見るパルテンキルヘン。内容的にいえば、第五章「葡萄酒と食物とについて」の第十三節。著者は原稿を書いている内に、かつてロンドンのコヴェント・ガーデンで食った朝飯のことを読者に知らせたくなる。ジェレミーの言葉で第十二節は終っている――
「そうかい、そんなら君のその下らぬ話を、何でも構わないから読者に話して了えよ。それが済んだら寝ることにしよう。」
 第十三節 コヴェント・ガーデンの朝飯
「考えて見ると話すだけの価値は無さそうだが、要するに、ある時コヴェント・ガーデンで朝飯を食っていたらね、僕の真向いに、まるで無言劇の野蛮人が使用する藁の腰巻みたいな、だらりと下った髭を生やした男がいてね、茶托からコーヒーを飲んでいるんだ。見ると髭が何本か、心配のある触手みたいにコーヒーの表面を漂っている。と突然この男が――おめえの飲んでるなあ、そりゃ茶じゃねえかい? といった。僕はその通りだと白状した。すると――コーヒーの方がどんなにいいか判らねえ。飲んでみな……っていって、茶托を僕の唇にさし出した。かなたの岸には依然髭が漂流している。だが君、僕あそこのコーヒー飲んだよ。飲まないわけに行かないじゃないか。いや、まったく、恐ろしいことだった。」
「で、話というのはそれだけかい?」
「ああ、これだけだよ」
「そうかい」と彼は立ち上りながらいった。「僕あ寝るよ、あした僕等は山へ行くんだからね。」
「そうだ、それが……」と私は勝ち誇っていった。「僕のタイトルになるんだ。」
「何がさ?」
「山へ。」


 この本は著者とジェレミーとがツーグスピッツェの登山を終えて、ホッホ・アルム・ヒュッテという山小舎へ帰って来たところから始まり、前に書いたような経過で、再びこの山小舎へ下りて来たところで終っている。小舎には「小父さん」と呼ばれる太った老人や、学校の先生や、若い娘や、案内者のイシドルやがいて、二人の英国人を愛想よく迎え入れ、盛に麦酒をのんではドイツ式の歌を唄っていると、案内者が一人入って来て、何か話す。すると――
 奇妙な沈黙が起った。不安な気分である。微笑は消え去り、真面目な調子の会話が行われた。そこで小父さんが我々のところへやって来た。彼さえも真面目な顔つきをしていたが、これは何故か悲哀的なものだった。
「登山家が四人ツーグスピッツェで行方不明になったのです」と彼はいった。「案内者は捜索に行かねばなりません。昨日の晩方以来行方不明なのです。」
「どこで?」私は真顔で訊ねた。
「ヘレンタールへの路でです。氷河の上で路に迷ったに違いないということです。霧が起って来ましたからな。」
「そうですね。知っています」と私はいった。
 ジェレミーと私とは顔を見合せた。


 二人が危険な氷河を外れると殆ど同時に、霧がまいて来たのだった。だから二人は思わず顔を見合せたのである。ツーグスピッツェは頂上に大きなホテルがあり、またケーブルカー(もっともこれはエリアル・ケーブル)で容易に頂上に達することが出来るが、而も危険な山で、毎年相当な人数が遭難する。


 山の麓のパルテンキルヘン――
「バヴァリアと[#「バヴァリアと」は底本では「バウァリアと」]ビヤ」と私は考えながらいった。「これ以上美しい言葉の組合せを見つけることは困難だろう。バヴァリア――山岳――刺繍したシャツ――波をうつ羽根――太った、陽気な娘たち――ゲミュートリッヒカイト――。ビヤ――ああそうだよ。」
 私はグーッと麦酒を飲んで、絶対的幸福を感じた。人間が絶対的幸福を感じることは極めて稀だと思う。人間は時々幸福を感じなければならぬのだと考え、そしてどうやらこうやら幸福だということにして了うが、全人間か否抵抗的に完全に、素晴らしく光り輝く幸福に照り映えるように思われることが、如何に稀であるか。私は山から離れていては、殆どこんな経験は持たぬ。山以外では、これほど豊富な感情がコンセントレートすることは出来ない。山では完全な肉体的健全、つまり我々の骨と血と肉との力と驚異の意識があり、我々を昂然たらしめる所の継続的努力があり、激流やそそり立つ峰々が構成する荘厳との親交があり、足がかりの正確な形や構造、我々がすがりつく草の一群の正確な性質、岩と氷とガレとの正確な触感……それらを鋭敏に理解する点に、自然との親交があり、また誇るべき孤独(中略)山巓と、暑い太陽と、冷たい風との狂喜、空気の天蓋を支持する冷静な峰々の驚異がある。
 だが、こんなことをいっていても役に立たぬ……
 ある男が、あるドイツの娘について苦情をいった事がある。山巓に着くと彼女は、「ああこれは美しい、これは驚くべき景色だ。私はソーセージを喰わねばならぬ」と叫んだというのだ。
 だが、如何にも彼女は正しい。立ち上ってツベコベやるのは、索条鉄道で登って来た者達だけだ。本当に登攀し、本当に勝った者は、まったく腰を下してソーセージを食う……


 山に近くいて感じる本当の幸福。バヴァリアとビヤ。数年前の私自身を思い出す。五月、私はたった一人でパルテンキルヘンを訪れた。朝十時頃着いて宿屋に荷を下すなり、窓の真向いに聳えるツーグスピッツェからドライ・トア・スピッツェ迄の山容に、私は狂喜して写真をやたらにうつした。午後は足ならしに、重い靴をはいて四里の路を歩いた。晩には色の濃い、味の濃い麦酒を何本かあけた。このベルリン出来の靴のおかげで右足の腱を痛め、ツーグスピッツェにはとうとう登れなかったが、それは後の話で、要するに最初の一夜を熟睡したその翌朝である、私は山腹の牧場へ行く羊のベルで目を覚ました。

 何百か何千か分らぬ程の鈴の音がする。カラン、カランと朗らかなテナアに交って、チリン、チリンと甲高い、然し澄んだソプラノが聞える。時々犬が狂喜したように吠えて、性急にカラカラチリチリと乱れる他、ある一定のリズムを持って際限なく聞えて来る。しばらくは夢心地であったが、やがて明け放した窓から冷たい朝風に送られて、桜の花の香が忍び込んでいるのに気がつく。そこで目を開くと、身体を起す迄もない、ツーグスピッツェが聳え立つ。私は生きていることを感謝した。

 当時の旅行記に、私はこう書いた。否抵抗的な、完全な、素晴らしい幸福でなくて、これが何だろう。(「山・都会・スキー」)
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雪線の下にて



 ダグラス・フレッシフィールドの『雪線の下にて』―― Below the Snow Line: Douglas W. Freshfield ――名前は前から聞いていたが、実物は今日初めて手に入れた。別の用で丸善へ行ったらあったのである。コンステブル発行で、コンステブル式に高価だが、それでも私の貧弱な「山の図書」が一冊増したと思えばうれしい。
 うれしいといえば、この本の序文には、うれしいことが書いてある。前半を訳して見る。

 ――生涯を通じて私は山については、私のより厳格な教義と実行とを持つ登攀の友人達が「人の顧みぬ詰らぬことを拾い上げる」と称する者であった。私は雪線の上で登攀したり、エッチラオッチラ歩いたりしたのと同じぐらい屡々、雪線の下をぶらぶらした。私は体操術の範囲を含まぬ容易な登山に興味を見出した。私は時としてアイスアックスの代りにアンブレラを持って山へ行ったことさえあるのを自白する。一言でいえば私は登攀者であると同程度に旅人だったのである。
 ところで、人はしょっ中最高の伴侶ばかりと一緒にいる訳には行かぬ。岩と雪とだけしか無いことが、単調に思われる時もある。人はヒマラヤやロッキースへ、ちょいちょい手軽に出かけることは出来ぬ。又、いつになったら霜の気に満ちたコーカサスの山々に再遊することが出来るであろうか。我々の親しきアルプスでも、如何な季節に於ても登るという訳には行かぬ。我々がヤンガー・ジェネレーションの為に、アルプスの冬季の魅力と富源とを発見して教えたことは事実だが、復活祭の休暇に於けるアルプスは僅かなアトラクションと多くの危険とを持っている。より低い場所は雪のマンテルを失って、而もまだ緑色ではなく、褐色の芝土の背地の上に、よごれた白色の筋と綴布とを見せるだけである。より高い雪の間では雪崩が重々しく落ち、そこ迄行く人は突然な、そして不面目な埋葬(a sudden and inglotious entombment)の危険を冒して行くのである。この季節にアルプスとピレネーとの両方を試みた私は、経験無しで以上を語るのではない。――

『雪線の下にて』は一九二二年出版の本である。今さら新刊紹介ということも出来ないし、翻訳することは時間が許さぬ。つまり、ここに訳出した序文の上半部が説明しているような態度で書かれた本で、「日本の僻路」なる一章もあり、我々にも興味は深い。
 この序文に「アイスアックスの代りにアムブレラを持って山へ行った」とある一事は私に二つの事実を思わせる。その一つはジェームス・ブライス卿がアムブレラを持ってアララットへ登ったこと――もっとも途中でアイスアックスに代えた――で、これはもう既に詳しく書いたから、ここでは書かぬ。その二は、百瀬孝男君と私とが番傘を持って槍ヶ岳へ行ったことである。
 孝男君は慎太郎さんの弟で、山を歩くことにかけては、昔の慎太郎さんに髣髴たるものがある。といったところで、昔の慎太郎さんも今の孝男君も知らぬ人には見当もつくまいが、簡単にいえば実によく歩き、よく頑張り、そして夜になると木の根草の根石の上、何でもかまわず癪にさわる程よく睡る人なのである。去年の夏、ある用事を帯びて、二人で上高地から槍の肩まで行ったことがある。実はもっと遠く迄行ったのだが、それは書く必要がない。ところが上高地を出かける朝、どうも天気模様が面白くない。今にも降って来そうに思われた。そこで、靴もはき、ルックサックも背負って了って、さて五千尺の玄関で丸山さんに、
「丸山さん、番傘を一本かして下さいませんか」と申し出た。
 丸山さんは二人が清水屋へでも行くものと思ったらしい。用があるなら使いをやりますといわれた。いいえ、山へ持って行くのです、というと、いささか呆れたらしいが、それでも大きな番傘を一本かして下さった。
 孝男さんと私とはその二、三日前、島々から徳本とくごう峠を越して上高地まで五時間あまりでかけつけた元気を以て――これはウソみたいな話だが本当である。二人ともかなり重いルックサックを背負っていた――雨傘を振り振り五千尺を出発した。牧場をぬけ、一ノ俣で弁当を喰い、さて槍沢の小舎を過ぎると沛然たる大雨である。有名なる私の「晴天防水」――雨が降ると役に立たなくなるレインコート――なんぞは何にもならぬ。二人は早速傘をひろげ、アイスアックスを結びつけ急造の屋根をつくった。アックスを地面に立て、石をひっくりかえして乾いた方を出し、それに坐って雨にけむる四方の景色を眺めながら扱ったパイプの味は、いまだに忘れられぬ。
 この雨は、やがて小降りになったが、晩まで続いた。二人は相々傘で雪のまるで無い槍沢を登った。片袖濡れたる筈が無いとか何とか、鼻歌で槍を登るのは、すこ敬虔を欠いたやり方だったかも知れぬが、濡れずに済んで大助かりだった。大槍の小舎なんぞで入口をがらりと明け、今日は! とすぼめた傘の滴を切る気持は、ちょっと面白かった。
 殺生小舎せっしゃうごやの下は急である。二人はいつか離れて了った。私は杖にすがって登ったが、孝男君は相変らず傘をさし、医科大学へ通学する靴をはいて、いやな石ころの上を「長いまつ毛がホオーッソリと」と、いやにセンチメンタルな歌を歌いながら元気で歩いて行った。
 我々が番傘をさして槍ヶ岳へ行ったことを以て山を冒涜するものと做す登山家――「より厳格な教義と実行を持つ人々」――もあるかも知れぬ。実は孝男君と私も、そんな気がしないでもなかった。気持の問題ばかりではなく、密林中や尾根は、とても傘なんぞさして歩けはしない。だが、上高地から槍沢を通って槍へ行く途中には、ウソみたいに良い路が多く、かつその日は風が余り強くなかったので、こんな真似も出来たのである。とにかくユニークな経験ではあった。
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ノアの山



 ここに述べる迄もないが手近に聖書があるから書きぬいて見よう――

 亦わだの源と天の戸閉塞とぢふさがりて天よりの雨やみぬ。ここに於て水次第に地より退き百五十日を経てのち水減り、方舟はこぶねは七月に至り其月の十七日にアララテの山に止りぬ。

 ――すなわち「人の悪の地におおいなると其心の思念おもいすべ図維はかる所の恒に惟悪これあしきのみなるを見たまへ」るエホバが、地上の生物すべてを洪水で亡そうとしたが、ノアの家族だけは方舟にのせて救った話。その方舟がアララテの山、アララット山の山巓にひっかかったというのだから、私はつい近頃まで、アララットなる山は上野の山か愛宕あたご山――どちらも東京の――くらいな岡だとばかり思っていた。ところが、ふとしたことで小アジアの地図を見ると、中々どうして、アララットは富士山なんぞよりずっと高い。欧州第一の高嶺、モン・ブランよりも高い。大変な山である。これに興味を感じて、あれやこれや、本をひっくり返して集めた知識を、ささやかながらここに書いて見ようと思う。ノアの洪水の話、方舟がアララットに坐礁した話を知っている人は世に多いが、そのアララットの正確な所在地や高さを知っている人は余り多くはあるまいと思うから。
 アララットはアルメニヤとトルコとペルシャとの三国が合する地点に聳えている。どんな風に聳えているか、私は見たことがないから困るが、何でもあの辺は一帯プラトーで、その最高地点が、アララットの大塊マシーフになっているらしい。この大塊は大体に於て孤立しているのだが、北西に当って六千九百呎ばかりの col があり、それが火山性の山々の長い尾根につながっているのだそうである。
 この col という語は、よく山の話に出て来る。峠を意味するフランス語だが、鞍部あんぶとでもいった方が判りが早いであろう。つまり二つの高い峰をつなぐ尾根の最低部を指すのである。
 ところで、このマシーフから峯が二つ立ち上っている、その高い方が大アララットで、高さ一万七千呎――「大きな、肩幅の広い塊で、円錐コーンと呼ぶよりも寧ろ円屋根ドームと言いたい」と記述されている。低い方、即ち小アララットは一万二干八百四十呎、これは前者に比較すると形もよく、険しい面を持つ峰であるという。
 アララットの雪線は極めて高く、一万四千呎。降雨量がすくないのと、麓なるアラレックスの平原から乾燥した空気が吹き上げるからである。
 山それ自体の説明はこの位にしておいて、アララットに関する伝説と登山の歴史とを簡単に紹介しよう。
 アララットの伝説は、ノアの方舟に関するもの以外に何もない。然るに、幸か不幸か、私は基督教信者では無く、殊に聖書の歴史に関しては全然無知であるから、変てこな本を拾い読みしては間違ったことを書く恐れがある。むしろ別所梅之助先生の「運命以外の一路」の一節を拝借した方がよいらしい。別所先生はこの著述中「背景としての山」なるチャプタアに於て、次のように言われている――

 スメリアの文明は、ユーフラテス、チグリス両河の流域に起れるもの乍ら、神々の怒りに洪水来りて、全地の人溺れ死せるをり、「人種の保存せる者」といふ英雄の、一家と共に難を船に避けて、遂に山に住んだといふ伝へがある。このつたへがバビロニヤのギルガメシの詩の中に収められて「生を見いでたる者」といふ英雄が、人皆の大水に土と化せるをり、御座船やうの大船をニシルといふ山につないで、生を得たとなり、それが更に旧約書中に入つては、方舟をアララットの山によせたノアの物語となつてをる。

 如何にもそうであろう。大洪水がどんなに大規模であろうと、一万七干尺の山をかくす程の水が出たとは思われぬ。だが、それにしても、黒海とカスピアン・シイとのほぼ中間に、アラクセスの平原を北に、メソポタミヤの平原を南にしてよこたわるこの一大プラトー中、最も高く、最も荘厳な山を仰ぐ人々が、ここから我等人類の祖先が下って来たと思ったのは、無理のない話である。伝説はアララットの附近に、大洪水に関係のある多くの場所を持ち来した。エデンの園はアラクセスの谷に、ノアの妻の墳墓はマーランドに、という風にされている。またアーフユリにはノアが最初に植えた葡萄の木なるものがあった。これは一八四〇年に地震があり、山の上から落ちて来た岩と氷と雪とが、アーフユリの村も、そこにあったセント・ジェームスの僧院も、また葡萄畑も押しつぶして了うまでは、見ることが出来たという。創世記の第九章には「爰にノア農夫となりて葡萄ばたけつくることを始めしが、葡萄酒を飲て酔ひ天幕の中にありて裸になれり」ということが記してある。素裸になって眠って了い、忰のハムに醜体を見られるのである。やがて「ノア酒さめて其若き子の已に為したる事を知れり。是に於て彼言ひけるはカナン[#「カナン」は底本では「カンナ」]のろはれよ、彼はしもべ等の僕となりて其兄弟につかへん」と言っている。ハムはカナンの父であるが、ハムの父ノアは、自分が酔っぱらって醜体を演じながら、「カナン詛はれよ」もないもんだと言うような気がする。
 それはどうでもいいとして、とにかくアララットはこんな山であるから、アルメニアの僧侶達は長い間、この山の「秘密の頂」には神聖な遺物があり、人間は登ってはならぬものと、信じていた。山の上に何か神聖な、恐るべき物があって、登ってはならぬという迷信は、大分方方にあったらしい。マッタアホーンの如きもそうである。麓の住人たちは、マッタアホーンの頂上には荒廃した都会があり、悪魔が住んでいるものと思っていた。地質構造上、この山は時時大きな岩片を落すが、それは悪魔の仕業だと信じていた。
 最初にアララットの頂を極めたのはパロット教授の率いた一隊である。彼は一七九二年に生れて一八四〇年に死んだドイツ人で、当時ロシヤの政府に雇われていた。このパロットが一八二九年の九月二十七日「永遠の氷が形づくる円屋根ドーム」に立ったのである。第一夜を山腹の僧院で送って、翌朝、山の東面を登り、一万二千尺の地点まで行った時、険しい氷の斜面に出喰わして引返した。それで今度は北西の方からとっついて見た。第一日に雪線まで達し、翌朝は一同、昼までには山嶺に達するつもりで、大元気で出かけたが、又しても急な傾斜面にぶつかって、立往生して了った。この時は一万四千四百十呎の点まで達したと言われる。
 パロットは第三回の登山を計画した。今度は人員も増し、道具類も前より多く準備した。それ迄の経験によって、氷雪の斜面は斧でステップを切って登り、それに天気もよかったので、絶頂を極めることが出来た。この時パロットが観察したところによって、アララットは火山であったこと、恐らくアジア大陸で一番古い山であること、ノアの遺物は何も無いこと等が判った。
 これが一八二九年の話で、引き続き一八三四、四三、四五、五〇、五六、六八、七六、という年に登山が行われた。場所がらロシヤ人が一番多く登っているが、中にも一八五〇年にコーディケ、カニコヴ、モリッツ等が、ロシヤにつかえるコザックの一隊を引率して登山したことと、一八七六年に有名なジェームス・ブライスが、たった一人でブラブラ登山したことは、色色な点で人の注意を引いている。前者は非常な困難をしながらも――あと九百歩で絶頂という所で三日二晩を天幕で送ったりした――ついに大きな十字架と重い測量機械等を山嶺まで運び上げた。コーディケは彼の報告書の最後に「アララット登山がこれほど困難であることから考えると、どうもノアの方舟がこの山の絶頂に流れついたという説は本当らしくない。何故かというに、かかる急な、険しい雪の斜面を下るということは獣類の多数にとっては致命的であったに違いないからである」と書いている。御承知の通り、ノアは彼の妻、子、子の妻と共に方舟に入ったばかりでなく、鳥獣昆虫その他すべての「生物、総て肉なる者を」一つがいずつ連れ込んだ。そしていよいよ洪水がひくと、これらのすべてを率いて方舟から出、そして山を下ったことになっている。
 これらの登山家が遭遇した困難に対して、ブライス卿――有名な歴史家、外交官なるジェームス・ブライスに関しては何も書く必要があるまい――のアララット登山は、あっけ無い程、呑気なものである。先ず武装したロシヤ兵士六人、案内者二人、通弁一人と、都合九人を引きつれて麓を歩いて行くと、恐ろしく暑い。そこで洋傘をさした。一万七千呎の山に登ろうという人が、洋傘をさすというのだから面白い。その日は八千八百呎ばかりのところで野営。翌日は何でも早く出発するに限るというので、夜中に起きて一時には登り始めた。傾斜はかなり急だったが別に大したこともなく、間もなく一万三千呎の点まで来た時、困ったことが起った。それは兵隊や案内や通弁共が、それぞれ異なる人種に属するのでお互に意思の疎通を欠き、仲間喧嘩を始めたのである。
 この地方における人種、従って言語が複雑していることについては、ハロルド・レーバン氏も『マウンテンクラフト』――一九二〇年出版――に書いている。バベルの塔はこの附近にあったそうだが、今でもバクの市ではすくなくとも百種の異なる言語と方言とが使用されていると。
 ブライス卿は、手のつけようが無いから、黙って仲間喧嘩を見ていたが、その中にどうやら話がまとまったらしいと思うと、もうこれよりは一足も上に登らないということである。そこで彼は「そんなら俺一人で行く」とばかり、アイスアックスを提げてスタスタ登り出した。外套も持たねば毛布もかつがず、あたり前のトゥイードの服を着た丈であったという。この調子で、寒くなれば上衣にボタンをかけ、霧の中を磁石を頼りに登って行くと、やがて岩の斜面に出た。恐ろしく寒い上に、霧がひどくて見当がつかぬ。迷いでもしたらそれっ切りだから、とにかくこれから一時間登って見て、どこ迄行くか判らぬがどこからでも引き返そうと思っていると、突然岩が無くなって平坦な雪田に出た。そこで、帰途に迷わぬよう、アイスアックスを引きずって、雪に跡をつけながら進んで行く内に、どうやら下り加減になった。こいつは変だな、と思っていると、この時パッと霧が晴れた。見るとアララット山の絶頂に立っていたという。
 ブライス卿はこの旅行に関して Transcaucasia and Ararat なる著述をしている。雪線近く大きな丸太を見つけ、これこそノアの方舟の破片だろうと笑ったことなど、有名な話である。
 最後にこの山、普通にアララットと呼ばれるがこれはもちろん聖書から来た名で、アルメニア、トルコ、ペルシャにそれぞれ異なる名を持っている。中にもトルコの Fgri Dagh は「苦しみ多き山」を意味し、ペルシャの Koh-i-Nuh は「ノアの山」を意味するという。「ノアの山」! いつか一度は登って見たい山である。

* 前に書いたコリンスは一万七千二百六十呎という数字を出しているが大英百科辞典によると一万七千呎。エンサイクロペディア・アメリカナも同様一万七千呎。ニュー・インターナショナル・エンサイクロペディアは「一万六千九百十二呎。但し別の測量によれば一万七千二百十二呎と書いている。更にマイエルのレキシコンによれば、大アララットが五一六五米で、小アララットが四〇三〇米。ラルースだと大が五二一一米で小が三九六〇米となっている。
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アルプスの思い出
―― ON HIGH HILLS: Geoffrey W. Young



 これはサブタイトルの「アルプスの思い出」でもわかる通り、著者ヤング氏の思い出の記である。高い丘というと低い山々のことみたいだが、出て来るのはモン・ブランといいワイスホーンといい、いずれもアルプス第一流の高山である。それをわざわざ「高い丘」といったのは著者の謙遜であろうか。それとも静かな炉辺でパイプをくわえながら思い出にふける時には、一万五千フィートを越える山々も高い丘のように思われるであろうか。如何に困難な嶮峻な山でも、一度その気まぐれな情緒を呑み込んでしまうと、高い丘として思い出に浮ぶものである。恐らくヤング氏――英国が生んだ偉大なる登山家の一人、また文筆の才にかけては比類すくない人――は、謙譲の念からばかりでなく、この親しみやすい表題を選んだものであろう。

 この本は、単なる記録の連続ではない。自然の最も崇高なる産物「山」に登り、或はそのふところに抱かれる「人」が、山の容貌なり情調なりの変化に如何に反応リアクトするかを書いた本である。ヤング氏は「自分はこれを書く時、山及び山に登る理由に興味を持つ人々を念頭に置いた」といっているが、「我々が山に登る理由」を知りたい人にとっては登山路の説明や岩登りのテクニックは、それが如何に詳細を極めていようとて何にもならぬ。この点で我々はこの本が限られた登山家だけに読まれず、ひろく一般に、いわゆる「よき本」として愛読せらるべきだと信ずる。
「登山の一日を通じて経験の線はただ一本だが、それは我々が行いつつあること、我々が見つつあるもの、我々が感じつつあるもの、この三つのストランド(線)が撚り合って出来たものである。」序文に、このようなことが書いてある。この三つを同時に書き現すことは出来ないが、然しいずれも欠いてはならぬ。これでこの著に対するヤング氏の態度は不充分ながら了解出来ようと思う。「三つのストランドが撚り合って」……を読む人は、英国人が世界に誇る岩登り用のロープが、事実三本のストランドをより合わせてつくったものであることを思い出し、心地よく微笑する。

 本文三百六十余頁、巻頭の「丘と男の子」から巻末の「最後のアルプス登山」に至るまでの十六の異なった章を含む。挿絵は二十四枚、口絵は「暁」と呼び、アルプスの雲海の写真、最後のは「日暮の雲」と呼び、暮れかかるマッターホーンのピークに吹きつける雲の写真、その他いずれも山を知る者にはなつかしい思い出の急激な苦痛を、山を知らぬ者には憧憬の念を起させるほど美しいものである。
 この本で特に私が好きなのは、ヤング氏が描き出した山の案内者達の身体と心との肖像である。例えば「ヒョロヒョロして思いがけぬ所に妙な角度が見える身体つき」をしていながら「ひとたび岩に触れ氷を踏む」となると、「こんな調子の悪さがすべてなだらかな力のカーヴに変る」オーバーランドの山案内クレメンツ・ルッペン。それからヨセフ・クヌーベル――誰でもかれを好きにならざるを得ない――その他の簡単な、しかも要所をつかんだ写生。「我々が山に登る理由」の一つに、かかる案内者兼好伴侶があることを誰が否定しよう。

「我等に先立ちたる、我等と共にある、我等の後に来るべき、すべての登山者に」この本はデディケートしてある。が、その最後の条件にある登山家に向っても、ヤング氏は「我々がこうしたようにせよ」とも「我々がこうしたことをするな」ともいっていない。かれはただ Go ahead and do something というのである。それだけで充分である。
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あとがき



        *
 ここに集めた随筆の一つでも書いたように、私は大正のはじめの頃いわゆる日本アルプスへ行き、それから夢中になって山を歩いたが、間もなく米国へ行ったため、しばらく山から遠ざかった。然し帰国してからは、又しばしば山――といっても、山麓もこめて――を訪れた。大町の百瀬慎太郎君との友情が、私をひきつけたようなものである。同君の話は、何度もこの本に現れる。
        *
 さてエヴェレスト、アンナプルナ等の高山が次々に征服され、わが国からもヒマラヤに登山隊が出ている今日、私の登山というのはまことに他愛がなく、頼りなく、いわば滑稽千万である。それにどういう訳か、私の山に対する態度は、いわば厚顔無恥にセンティメンタルである。「山のアクシデント」などといっているが、アンナプルナのフランス隊や、K2の国際登山隊が遭遇したアクシデントを考えると、それこそ「バッカじゃなかろうか」である。今は山についてばかりでなく、一般について、こんなにセンティメンタルではなくなった。敗けた戦争や、その戦争末期の比島のジャングルの中での生存――生活とはいえない――が、私をタフにしたのだろうか。それとも大正の終りから昭衵のはじめにかけての、いわゆる「善き古き日々」が、われわれ日本人を全体に甘い人間にしたのだろうか。
        *
「ふと私は足がかりも、手がかりもない人生の岩壁に、私という弱い、細い、いつどこでスナップするか判らぬザイルを、ライフ・ラインとしてぶら下っている三つの命を思い浮べた。ほうり出されたら小学校の先生になる資格さえも持たぬ妻、朝も晩も、目をさましている間は、私が家にいる間は、私にまとわりついて離れぬ三つになる女の子、半月前、旅に出る頃から、ようやく腹ンばいになって、両手の力で顔をあげるようになった男の子――」

 この男の子は大阪郊外の牧落という所で生れた。これを書いた翌年、私は東京に勤任になり、仙台の高等学校でちょっとやったスキーを、再び、今度は本式に、やり始めた。一度東京で大雪が降り、玄関から門までスキーを走らせたことがある。この時は子供が三人になっていて、上の二人は家の中で物差しや鰯の味醂干にのって畳の上を歩き、まだ歩けない赤ん坊は、女中さんにおぶさったまま、「アーバカバカ」と興奮して連呼した。それがこの本にカットを描いた貞二である。貞二は結婚しているが、上の二人ももちろん結婚し、女の子には子供が二人いる。今後まさか子供たちを、ライフ・ラインにしようとは思わないが、とにかく皆大きくなり、「妻」はいまだに小学校の先生になる資格を欠いていても、私が死んでも子供たちが何とかするだろう。存外こんなことが原因して、私の感傷癖は、どこかへ行って了ったのかも知れない。
        *
 忘れない内に書いておきたいのは、カバーのことである。お分りだろうと思うが、これは梅鉢草であって、その花は純高山植物ではない。割合低い場所に群って咲く。亜高山植物とでもいうべきだろう。それにしても、この本に出て来る松虫草でも、いわば私の山――中山、低山――の花であって、氷雪や岩の山には縁が遠い。エーデルワイスなどは、おこがましくてとても出せない本だから、梅鉢草にした。
        *
 日本アルプス登山は、この本の中の一つの文章でも書いた通り、満洲事変の年の秋のが最後になった。その後秋が深い頃、大町へ行って山麓を歩き、晩方慎太郎さんと一杯やっていると、又しても東京から電話で、ロンドン支局長として二週間以内に出発すべし、という新聞社の命令を伝えて来た。
 一番最後に登った山は富士山である。京大の人たちがデマヴェンドへ行く計画を立て、いろいろな実験をやるので、私もついて行った。御殿場から二つ塚まで行き、そこをベイス・キャンプにして、十日間近く、呑気な生活をした。四月で、往きには馬返しから雪があったが、復りには雪はなく、その代り木々の芽が一時に出て、実にきれいだった。
 いよいよ戦争が始まると、比島へ派遣され、負け戦となるとルソン島を、北へ北へと逃げた。山岳州という山ばかりのプロヴィンスを、昼間は飛行機がこわいので夜歩いたが、やはり昔山を歩いていたせいか、存外つかれず、それよりも自分で飯をたいたり、竹やぶの中でねたりすることが、楽しくはなかったがちっとも苦にならなかった。これは昔風の登山、つまり匐松の枝を結び、その上にゴザと油紙をかけて寝たり、川の水をくんで自分で食事を準備したりした経験が、口を利いたのだろうと思う。「これは乞食の生活だ」という人もいたが、私はちっとも乞食になったような気がしなかった。
 それから、いよいよバギオを出て、これから放浪の旅が始まるという時、私は自分でシュラーフ・ザックを縫った。顔だけの蚊帳もつくった。それかあらぬか、あとで新聞通信報道関係の人、三十数名と一緒にジャングルの中にかくれた時にも、私だけはデングにもマラリアにもかからなかった。若い時の山登りが、こんなことの役に立ったわけである。
        *
 さて戦争が済んで捕虜になって送還され、一年近く単身、横須賀の山の中で自炊生活をした。子供の時登って驚いた山――といっても低いものだが――を歩いたりしている内に、大町からしきりに来ないか、といって来たが、何しろあの交通事情だし、その後も忙しくて東京を離れることが出来ずにいる内に、慎太郎さんが死んだ。丁度大阪へ出張する用事があったので、中央線廻りとし、夜行で新宿を立つと、朝の松本は曇天。それが大糸南線で大町へ近づくと、突然空がはれて、三月はじめの雪を頂く爺と鹿島槍が、全貌を現した。これこそ私が「鹿島槍の月」で書いて、その後何度も行った山なのである。然るにその日の午後、いよいよ埋葬となると、大変な雪になって、山は勿論かくれた上に、「友人二人、案内や人夫五人合計七人」でやった山の旅の、案内者の筆頭が、何と墓掘人夫――専門の――になって、水っぱなをすすり上げているので、実に情ない気がした。
        *
 去年の秋、私は松本へ講演に行った。入山辺の霞山荘からは、槍その他がよく見えるが、逆光線ではっきりせず、反対側の袴腰とか、王ヶ鼻とかいう山をスケッチした。本当によく晴れた午後で、あしたは早く起きて……とたのしみにしていたのに、そのあしたの朝は大変な雨だった。その雨の中を松本に出て、講演の始まる前に軽く昼飯といわれて寄った家が、松本第一の蕎麦屋ということだったが、何とこれが昔は大町にあったのである。
        *
 ところで山と私とは、将来如何なる関係を持つことになるだろう。慎太郎さんのいない大町が、従って北安曇の山々と山麓が、魅力をなくして了ったことは事実である。やたらに忙しくて、日曜も祭日も仕事をしていることも事実である。さりとて人間の能力には限度があり、今みたいに働いてばかりいては早晩へたばることだろう。するとやはりレクリエーションの意味で、ひまをつくってどこかへ出かけることになるだろうが、それもせいぜい日帰りの、まずは梅鉢草や松虫草の山だろう。
        *
 そんな予告はどうでもいい。私はこの本を読んで下さった方に感謝し、失望なさらなかったであろことを心から希望する。

昭和二十九年六月




底本:「可愛い山」白水社
   1987(昭和62)年6月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「雪解」と「雪解け」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「可愛い山」中央公論社、1954(昭和29年)年7月15日発行の表記にそって、あらためました。
入力:富田晶子
校正:雪森
2016年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「仝」の「工」に代えて「丁」、屋号を示す記号    66-7


●図書カード