吉野葛

谷崎潤一郎




その一 自天王


私が大和やまとの吉野のおくに遊んだのは、すでに二十年ほどまえ、明治の末か大正の初めころのことであるが、今とはちがって交通の不便なあの時代に、あんな山奥、―――近頃の言葉でえば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。―――この話はまずその因縁いんねんからく必要がある。
読者のうちには多分ご承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川とつかわ、北山、川上のしょうあたりでは、今も土民によって「南朝様」あるいは「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔こうえいに関する伝説がある。この自天王、―――後亀山帝ごかめやまてい玄孫げんそんに当らせられる北山宮きたやまのみやと云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。ごくあらましをまんで云うと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中げんちゅう九年、北朝の明徳めいとく三年、将軍義満よしみつの代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐ごだいご天皇の延元えんげん元年以来五十余年で廃絶はいぜつしたとなっているけれども、そののち嘉吉かきつ三年九月二十三日の夜半やはんくすのき二郎正秀と云う者が大覚寺統だいかくじとうの親王万寿寺宮まんじゅじのみやほうじて、急に土御門つちみかど内裏だいりおそい、三種の神器じんぎぬすみ出して叡山えいざんに立てこもった事実がある。この時、討手うって追撃ついげきを受けて宮は自害し給い、神器のうち宝剣ほうけんと鏡とは取り返されたが、神璽しんじのみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智おち氏の一族さらに宮の御子みこ二方ふたかたほうじて義兵を挙げ、伊勢いせから紀井きい、紀井から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へきちのがれ、一の宮を自天王とあがめ、二の宮を征夷せいい大将軍たいしょうぐんあおいで、年号を天靖てんせいと改元し、容易に敵のうかがい知り得ない峡谷きょうこくの間に六十有余年も神璽をようしていたと云う。それが赤松家の遺臣にあざむかれて、お二方の宮はたれ給い、ついに全く大覚寺統のおんすえの絶えさせられたのが長禄ちょうろく元年十二月であるから、もしそれまでを通算すると、延元元年から元中九年までが五十七年、それから長禄元年までが六十五年、実に百二十二年ものあいだ、ともかくも南朝の流れをみ給うお方が吉野におわして、京方きょうがた対抗たいこうされたのである。
遠い先祖から南朝方に無二むにのお味方を申し、南朝びいきの伝統を受けいで来た吉野の住民が、南朝と云えばこの自天王までを数え、「五十有余年ではありません、百年以上もつづいたのです」と、今でも固く主張するのに無理はないが、私もかつて少年時代に太平記を愛読した機縁から南朝の秘史に興味を感じ、この自天王の御事蹟じせきを中心に歴史小説を組み立ててみたい、―――と、そう云う計画を早くからいだいていた。川上の荘の口碑こうひを集めたある書物によると、南朝の遺臣等は一時北朝方の襲撃しゅうげきおそれて、今の大台ヶ原山のふもとしおから、伊勢の国境大杉谷の方へ這入はいった人跡稀じんせきまれな行き留まりの山奥、さん公谷こだにと云う渓合たにあいに移り、そこに王の御殿ごてんを建て、神璽はとある岩窟がんくつの中にかくしていたと云う。また、上月記こうつきき、赤松記等の記す所では、あらかじめいつわって南帝にくだっていた間嶋まじま彦太郎以下三十人の赤松家の残党は、長禄元年十二月二日、大雪に乗じて不意に事を起し、一手は大河内の自天王の御所ごしょを襲い、一手はこうたにの将軍の宮の御所に押し寄せた。王はおんみずか太刀たちふるって防がれたけれども、ついにぞくのためにたおれ給い、賊は王の御首みしるしと神璽とをうばってげる途中とちゅう、雪にはばまれて伯母おばみねとうげに行き暮れ、御首を雪の中にめて山中にひと夜を明かした。しかるに翌朝吉野十八ごう荘司しょうじ等が追撃して来て奮戦するうち、埋められた王の御首が雪中より血をき上げたために、たちまちそれを見附みつけ出して奪い返したと云う。以上の事柄ことがらは書物によって多少の相違はあるのだが、南山巡狩録なんざんじゅんしゅろく、南方紀伝、桜雲記おううんき、十津川の記等にもみなっているし、ことに上月記や赤松記は当時の実戦者が老後に自ら書きのこしたものか、あるいはその子孫の手に成る記録であって、疑う余地はないのである。一書によると、王のおとしは十八さいであったと云われる。また、嘉吉かきつの乱にいったん滅亡めつぼうした赤松の家が再興されたのは、その時南朝の二王子をしいして、神璽を京へ取りもどした功績に報いたのであった。
いったい吉野の山奥から熊野くまのへかけた地方には、交通の不便なために古い伝説や由緒ゆいしょある家筋の長く存続しているものがめずらしくない。たとえば後醍醐天皇が一時行在所あんざいしょにおてになった穴生あのうほり氏のやかたなど、昔のままの建物の一部が現存するばかりでなく、子孫が今にその家に住んでいると云う。それから太平記の大塔宮だいとうのみや熊野くまの落ちの条下に出て来る竹原八郎の一族、―――宮はこの家にしばらくご滞在になり、同家の娘との間に王子みこをさえもうけていらっしゃるのだが、その竹原氏の子孫も栄えているのである。そのほか更に古いところでは大台ヶ原の山中にある五鬼継ごきつぐの部落、―――土地の人はあれは鬼の子孫だと云って、決してその部落とは婚姻こんいんを結ばず、彼等かれらの方でも自分の部落以外とは結ぶことを欲しない。そして自分たちはえん行者ぎょうじゃ前鬼ぜんき後裔こうえいだと称している。すべてがそんな土地柄であるから、南朝の宮方にお仕え申した郷士の血統、「筋目の者」と呼ばれる旧家は数多くあって、現に柏木かしわぎの附近では毎年二月五日に「南朝様」をお祭り申し、将軍の宮の御所あとである神の谷の金剛寺こんごうじにおいておごそかな朝拝の式を挙げる。その当日は数十けんの「筋目の者」たちは十六のきくのご紋章もんしょうの附いたかみしもを着ることを許され、知事代理や郡長等の上席にくのである。
私の知り得たこう云ういろいろの資料は、かねてから考えていた歴史小説の計画に熱度を加えずにはいなかった。南朝、―――花の吉野、―――山奥の神秘境、―――十八歳になり給ううら若き自天王、―――楠二郎正秀、―――岩窟の奥に隠されたる神璽、―――雪中より血を噴き上げる王の御首、―――と、こう並べてみただけでも、これほど絶好な題材はない。何しろロケーションが素敵である。舞台には渓流けいりゅうあり、断崖だんがいあり、宮殿きゅうでんあり、茅屋ぼうおくあり、春のさくら、秋の紅葉もみじ、それらを取り取りに生かして使える。しかもり所のない空想ではなく、正史はもちろん、記録や古文書が申し分なく備わっているのであるから、作者はただ与えられた史実を都合つごうよく配列するだけでも、面白い読み物を作り得るであろう。が、もしその上に少しばかり潤色じゅんしょくほどこし、適当に口碑や伝説を取りぜ、あの地方に特有な点景、鬼の子孫、大峰おおみね修験者しゅげんじゃ、熊野参りの巡礼じゅんれいなどを使い、王に配するに美しい女主人公、―――大塔宮のご子孫の女王子おんなみこなどにしてもいいが、―――を創造したら、一層面白くなるであろう。私はこれだけの材料が、なにゆえ今日まで稗史はいし小説家の注意をかなかったかを不思議に思った。もっとも馬琴ばきんの作に「侠客きょうかく伝」という未完物があるそうで、読んだことはないが、それは楠氏の一女姑摩姫こまひめと云う架空かくうの女性を中心にしたものだと云うから、自天王の事蹟じせきとは関係がないらしい。ほかに、吉野王をあつかった作品が一つか二つ徳川時代にあるそうだけれども、それとてどこまで史実に準拠じゅんきょしたものか明かでない。要するに普通ふつう世間に行きわたっている範囲はんいでは、読み本にも、浄瑠璃じょうるりにも、芝居しばいにも、ついぞれたものはないのである。そんなことから、私はだれも手を染めないうちに、自分が是非共ぜひともその材料をこなしてみたいと思っていた。
ところが、ここに、幸いなことには、思いがけない縁故えんこ辿たどって、いろいろあの山奥の方の地理や風俗を聞き込むことが出来た。と云うのは、一高時代の友人の津村と云う青年、―――それが、当人は大阪の人間なのだが、その親戚しんせきが吉野の国栖くずに住んでいたので、私はたびたび津村をかいしてそこへ問い合わせる便宜べんぎがあった。
「くず」と云う地名は、吉野川の沿岸附近ふきんに二箇所かしょある。下流の方のは「葛」の字をて、上流の方のは「国栖」の字を充てて、あの飛鳥浄見原天皇あすかのきよみはらのすめらみこと、―――天武てんむ天皇にゆかりのある謡曲ようきょくで有名なのは後者の方である。しかし葛も国栖も吉野の名物である葛粉くずこの生産地と云う訳ではない。葛は知らないが、国栖の方では、村人の多くが紙を作って生活している。それも今時いまどきに珍しい原始的な方法で、吉野川の水にこうぞ繊維せんいさらしては、手ずきの紙を製するのである。そしてこの村には「昆布こんぶ」と云う変ったせいが非常に多いのだそうだが、津村の親戚もまた昆布姓を名のり、やはり製紙を業としていて、村では一番手広くやっている家であった。津村が語ったところでは、この昆布氏もかなりの旧家で、南朝の遺臣の血統と多少の縁故があるはずであった。私は、「入の波」と書いて「シオノハ」と読むこと、「三の公」は「サンノコ」であることなどを、この家へたずねて始めて知った。なお昆布氏の報告によると、国栖から入の波までは、五社峠の峻嶮しゅんけんを越えて六里に余る道程であり、それから三の公へは、峡谷の口もとまでが二里、一番奥の、昔自天王がいらしったと云う地点までは、四里以上ある。もっともそれも、そう聞いているだけで、国栖あたりからでもそんな上流地方へ出かける人はめったにない。ただ川を下って来る筏師いかだしの話では、谷の奥の八幡平はちまんだいらと云う凹地くぼちに炭焼きの部落が五六軒あって、それからまた五十丁行ったどんづまりかくだいらと云う所に、たしかに王の御殿の跡と云われるものがあり、神璽を奉安ほうあんしたと云う岩窟もある。が、谷の入り口から四里の間と云うものは、全くみちらしい路のないおそろしい絶壁ぜっぺきの連続であるから、大峰修行の山伏やまぶしなどでも、容易にそこまでは入り込まない。普通柏木辺かしわぎあたりの人は、入の波の川のふちいている温泉へゆあみに行って、あそこから引き返して来る。その実谷の奥をさぐれば無数の温泉が渓流けいりゅうの中に噴きで、明神みょうじんたきを始めとしていくすじとなく飛瀑ひばくかかっているのであるが、その絶景を知っている者は山男か炭焼きばかりであると云う。
この筏師の話は、一層私の小説の世界を豊富にしてくれた。すでに好都合な条件がそろっているところへ、またもう一つ、渓流から湧き出でる温泉と云う、打って付けの道具立てが加わったのである。しかし私は、遠隔えんかくの地にいて調べられるだけの事は調べてしまった訳であるから、もしあの時分に津村の勧誘かんゆうがなかったら、まさかあんな山奥まで出かけはしなかったであろう。これだけ材料が集まっていれば、実地を蹈査とうさしないでも、あとは自分の空想で行ける。またその方がかえって勝手のよいこともあるのだが、「せっかくの機会だから来て見てはどうか」と津村からそう云って来たのは、たしかその年の十月の末か、十一月の初旬しょじゅんであった。津村は例の国栖の親戚をおとなう用がある、それで、三の公までは行けまいけれども、まあ国栖の近所をひと通り歩いて、大体の地勢や風俗を見ておいたら、きっと参考になることがあろう。何も南朝の歴史に限ったことはない、土地が土地だから、それからそれと変った材料が得られるし、二つや三つの小説の種は大丈夫だいじょうぶ見つかる。とにかく無駄むだにはならないから、そこは大いに職業意識を働かせたらどうだ。ちょうど今は季候もよし、旅行には持って来いだ。花の吉野と云うけれども、秋もなかなか悪くはないぜ。―――と云うのであった。
で、大そう前置きが長くなったが、こんな事情で急に私は出かける気になった。もっとも津村の云うような「職業意識」も手伝っていたが、正直のところ、まあ漫然まんぜんたる行楽の方が主であったのである。

その二 妹背山いもせやま


津村は何日に大阪を立って、奈良ならは若草山のふもと武蔵野むさしのと云うのに宿を取っている、―――と、そう云う約束やくそくだったから、こちらは東京を夜汽車で立ち、途中とちゅう京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。武蔵野と云う旅館は今もあるが、二十年前とは持主が変っているそうで、あの時分のは建物も古くさく、雅致がちがあったように思う。鉄道省のホテルが出来たのはそれから少し後のことで、当時はそこと、菊水きくすいとが一流の家であった。津村は待ちくたびれた形で、早く出かけたい様子だったし、私も奈良は曾遊そうゆうの地であるし、ではいっそのこと、せっかくのお天気が変らないうちにと、ほんの一二時間座敷ざしきの窓から若草山をながめただけで、すぐ発足した。
吉野口で乗りかえて、吉野駅まではガタガタの軽便鉄道けいべんてつどうがあったが、それから先は吉野川に沿うた街道かいどうを徒歩で出かけた。万葉集にある六田むつだよど、―――やなぎわたしのあたりで道は二つに分れる。右へ折れる方は花の名所の吉野山へかかり、橋を渡るとじきに下の千本になり、関屋の桜、蔵王権現ざおうごんげん吉水院きっすいいん、中の千本、―――と、毎年春は花見客の雑沓ざっとうする所である。私も実は吉野の花見には二度来たことがあって、幼少のおり上方かみがた見物の母にともなわれて一度、そののち高等学校時代に一度、やはり群集の中に交りつつこの山道を右へ登った記憶きおくはあるのだが、左の方の道を行くのは始めてであった。
近頃は、中の千本へ自動車やケーブルが通うようになったから、この辺をゆっくり見て歩く人はないだろうけれども、むかし花見に来た者は、きっとこの、二股ふたまたの道を右へ取り、六田の淀の橋の上へ来て、吉野川の川原かわら景色けしきを眺めたものである。
「あれ、あれをご覧なさい、あすこに見えるのが妹背山いもせやまです。左の方のが妹山、右の方のが背山、―――」
と、その時案内の車夫は、橋の欄干らんかんから川上の方をゆびさして、旅客の※(「筑」の「凡」に代えて「おおざと」、第3水準1-89-61)つえをとどめさせる。かつて私の母も橋の中央にくるまを止めて、頑是がんぜない私をひざの上にきながら、
「お前、妹背山の芝居しばいをおぼえているだろう? あれがほんとうの妹背山なんだとさ」
と、耳元へ口をつけて云った。幼いおりのことであるからはっきりした印象は残っていないが、まだ山国は肌寒はださむい四月の中旬の、花ぐもりのしたゆうがた、白々しろじろと遠くぼやけた空の下を、川面かわづらに風のく道だけ細かいちりめん波を立てて、幾重いくえにも折り重なったはるかな山のかいから吉野川が流れて来る。その山と山の隙間すきまに、小さな可愛い形の山が二つ、ぽうっと夕靄ゆうもやにかすんで見えた。それが川をさしはさんで向い合っていることまでは見分けるべくもなかったけれども、流れの両岸にあるのだと云うことを、私は芝居で知っていた。歌舞伎かぶきの舞台では大判事清澄の息子久我之助こがのすけと、その許嫁いいなずけ雛鳥ひなどりとか云った乙女おとめとが、一方は背山に、一方は妹山に、谷にのぞんだ高楼たかどのを構えて住んでいる。あの場面は妹背山の劇の中でも童話的の色彩のゆたかなところだから、少年の心に強くんでいたのであろう、そのおり母の言葉を聞くと、「ああ、あれがその妹背山か」と思い、今でもあのほとりへ行けば久我之助やあの乙女にえるような、子供らしい空想くうそうふけったものだが、以来、私はこの橋の上の景色を忘れずにいて、ふとした時になつかしくおもい出すのである。それで二十一か二の歳の春、二度目に吉野へ来た時にも、再びこの橋の欄干にもたれ、くなった母をしのびながら川上の方を見入ったことがあった。川はちょうどこの吉野山の麓あたりからやや打ちひらけた平野にそそぐので、水勢のはげしい渓流のおもむきが、「山なき国を流れけり」と云うのんびりとした姿に変りかけている。そして上流の左の岸に上市かみいちの町が、うしろに山を背負い、前に水をひかえたひとすじみちの街道かいどうに、屋根の低い、まだらに白壁しらかべ点綴てんてつする素朴そぼく田舎家いなかやの集団を成しているのが見える。
私は今、その六田の橋のたもとを素通りして、二股の道を左へ、いつも川下から眺めてばかりいた妹背山のある方へ取った。街道は川の岸をうてぐにび、みたところ平坦へいたんな、楽な道であるが、上市から宮滝、国栖、大滝、さこ、柏木を経て、次第に奥吉野の山深く分け入り、吉野川の源流に達して大和と紀井の分水嶺ぶんすいれいえ、ついには熊野うらへ出るのだと云う。
奈良を立ったのが早かったので、われわれはひる少し過ぎに上市の町へ這入はいった。街道にならぶ人家の様子は、あの橋の上から想像した通り、いかにも素朴そぼくで古風である。ところどころ、川べりの方の家並やなみがけて片側町かたがわまちになっているけれど、大部分は水の眺めをふさいで、黒いすすけた格子こうし造りの、天井裏てんじょううらのような低い二階のある家が両側にまっている。歩きながら薄暗い格子の奥をのぞいて見ると、田舎家にはお定まりの、裏口まで土間が通っていて、その土間の入り口に、屋号や姓名を白く染めいたこん暖簾のれんっているのが多い。店家みせやばかりでなく、しもうたやでもそうするのが普通であるらしい。いずれも表の構えは押しつぶしたようにのきれ、間口まぐちせまいが、暖簾の向うに中庭の樹立こだちがちらついて、離れ家なぞのあるのも見える。おそらくこの辺の家は、五十年以上、中には百年二百年もたっているのがあろう。が、建物の古い割りに、どこの家でも障子しょうじの紙がみな新しい。今りかえたばかりのようなよごれ目のないのが貼ってあって、ちょっとした小さな破れ目も花弁型の紙で丹念たんねんふさいである。それがみ切った秋の空気の中に、冷え冷えと白い。一つはほこりが立たないので、こんなに清潔なのでもあろうが、一つはガラス障子を使わない結果、紙に対して都会人よりも神経質なのであろう。東京あたりの家のように、外側にもうガラス戸があればよいけれども、そうでなかったら、紙が汚れて暗かったり、穴から風が吹き込んだりしては、捨てて置けない訳である。とにかくその障子の色のすがすがしさは、軒並のきなみの格子や建具たてぐすすぼけたのを、貧しいながら身だしなみのよい美女のように、清楚せいそで品よく見せている。私はその紙の上に照っている日の色を眺めると、さすがに秋だなあと云う感を深くした。
実際、空はくっきりと晴れているのに、そこに反射している光線は、明るいながらすほどでなく、身にみるように美しい。日は川の方へまわっていて、町の左側の障子にえているのだが、その照り返しが右側の方の家々の中まで届いている。八百屋やおやの店先に並べてある※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)かきが殊に綺麗きれいであった。キザ※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)御所※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)ごしょがき美濃※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)みのがき、いろいろな形の※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)つぶが、一つ一つ戸外の明りをそのつやつやと熟し切った珊瑚さんご色の表面に受け止めて、ひとみのように光っている。饂飩うどん屋のガラスのはこの中にある饂飩の玉までがあざやかである。往来には軒先にむしろいたり、を置いたりして、それに消炭けしずみしてある。どこかで鍛冶屋かじやつちの音と精米機のサアサア云う音が聞える。
私たちは町はずれまで歩いて、とある食い物屋の川沿いの座敷で昼食を取った。妹背の山は、あの橋の上で眺めた時はもっとずっと上流にあるように思えたが、ここへ来るとつい眼の前に立つ二つの丘であった。川をへだてて、こちらの岸の方のが妹山、向うの岸の方のが背山、―――妹背山いもせやま婦女庭訓おんなていきんの作者は、恐らくここの実景に接してあの構想を得たのだろうが、まだこの辺の川幅かわはばは、芝居で見るよりも余裕よゆうがあって、あれほどせまった渓流ではない。りに両方の丘に久我之助の楼閣ろうかくと雛鳥の楼閣があったとしても、あんな風にたがいに呼応することは出来なかったろう。背山の方は、尾根おねがうしろの峰につづいて、形が整っていないけれども、妹山の方は全く独立どくりつした一つの円錐状えんすいじょうの丘が、こんもりと緑葉樹のころもを着ている。上市の町はその丘の下までつづいていて、川の方から見わたすと、家の裏側が、二階家は三階に、平家ひらやは二階になっている。中には階上から川底へ針金はりがね架線かせんを渡し、それへバケツを通して、つなでスルスルと水をげるようにしたのもある。
「君、妹背山の次には義経千本桜よしつねせんぼんざくらがあるんだよ」
と、津村がふとそんなことを云った。
「千本桜なら下市しもいちだろう、あそこの釣瓶鮨屋つるべずしやと云うのは聞いているが、―――」
維盛これもりが鮨屋の養子になってかくれていたと云う浄瑠璃の根なし事が元になって、下市の町にその子孫と称する者が住んでいるのを、私は訪ねたことはないが、うわさには聞いていた。何でもその家では、いがみ権太ごんたこそいないけれども、いまだにむすめの名をおさとと付けて、釣瓶鮨を売っていると云う話がある。しかし津村の持ち出したのは、それとは別で、例の静御前しずかごぜん初音はつねつづみ、―――あれを宝物として所蔵している家が、ここから先の宮滝の対岸、菜摘なつみの里にある。で、ついでだからそれを見て行こうと云うのであった。
菜摘の里と云えば、謡曲ようきょくの「二人静ふたりしずか」にうたわれている菜摘川の岸にあるのであろう。「菜摘川のほとりにて、いずくともなく女のきたそうらいて、―――」と、謡曲ではそこへ静の亡霊ぼうれいが現じて、「あまりに罪業ざいごうのほど悲しく候えば、一日経書いてたまわれ」と云う。後にいのくだりになって、「げにはずかしや我ながら、昔忘れぬ心とて、………今三吉野みよしのの河の名の、菜摘の女と思うなよ」などとあるから、菜摘の地が静に由縁ゆかりのあることは、伝説としても相当に根拠こんきょがあるらしく、まんざら出鱈目でたらめではないかも知れない。大和名所図会などにも、「菜摘の里に花籠はなかごの水とて名水あり、また静御前がしばらく住みし屋敷あとあり」とあるのを見れば、その云い伝えが古くからあったことであろう。鼓を持っている家は、今は大谷姓を名のっているけれども、昔は村国の庄司しょうじと云って、その家の旧記によると、文治ぶんじ年中、義経よしつねと静御前とが吉野へ落ちた時、そこに逗留とうりゅうしていたことがあると云われる。なお附近にはきさの小川、うたたねの橋、柴橋しばはし等の名所もあって、遊覧かたがた初音の鼓を見せてもらいに行く者もあるが、家重代いえじゅうだいの宝だと云うので、しかるべき紹介者しょうかいしゃから前日にたのみでもしなければ、無闇むやみな者には見せてくれない。それで津村は、実はそのつもりで国栖くずの親戚から話しておいてもらったから、多分今日あたりは待っているはずだと云うのである。
「じゃあ、あの、親狐おやぎつねの皮で張ってあるんで、静御前がその鼓をぽんと鳴らすと、忠信ただのぶ狐が姿を現わすと云う、あれなんだね」
「うん、そう、芝居ではそうなっている」
「そんなものを持っている家があるのかい」
「あると云うことだ」
「ほんとうに狐の皮で張ってあるのか」
「そいつはぼくも見ないんだからえない。とにかく由緒ゆいしょのある家だと云うことは確かだそうだ」
「やっぱりそれも釣瓶鮨屋とおんなじようなものじゃないかな。謡曲に『二人静』があるんで、誰か昔のいたずら者が考え付いたことなんだろう」
「そうかも知れないが、しかし僕はちょっとその鼓に興味があるんだ。是非その大谷と云う家を訪ねて、初音の鼓を見ておきたい。―――とうから僕はそう思っていたんだが、今度の旅行も、それが目的の一つなんだよ」
津村はそんなことを云って、何か訳があるらしかったが、「いずれ後で話をする」と、その時はそう云ったきりであった。

その三 初音の鼓


上市から宮滝まで、道は相変らず吉野川の流れを右に取って進む。山が次第に深まるにれて秋はいよいよたけなわになる。われわれはしばしばくぬぎ林の中に這入はいって、一面に散り敷く落葉の上をかさかさ音を立てながら行った。このへんかえでが割合いに少く、かつひと所にかたまっていないけれども、紅葉こうようは今がさかりで、つたはぜ山漆やまうるしなどが、すぎの木の多い峰のここかしこに点々として、最もくれないから最もうすい黄にいたる色とりどりな葉を見せている。ひと口に紅葉と云うものの、こうして眺めると、黄の色も、かつの色も、紅の色も、その種類が実に複雑である。おなじ黄色い葉のうちにも、何十種と云うさまざまな違った黄色がある。野州やしゅう塩原の秋は、塩原じゅうの人の顔が赤くなると云われているが、そう云うひと色に染まる紅葉も美観ではあるけれども、ここのようなのも悪くはない。「繚乱りょうらん」と云う言葉や、「千紫万紅せんしばんこう」と云う言葉は、春の野の花を形容したものであろうが、ここのは秋のトーンであるところの「黄」を基調にした相違そういがあるだけで、色彩の変化に富むことはおそらく春の野におとるまい。そうしてその葉が、峰と峰とのから渓合たにあいへあふれ込む光線の中を、ときどき金粉きんぷんのようにきらめきつつ水に落ちる。
万葉に、「天皇幸于吉野宮」とある天武天皇の吉野の離宮、―――笠朝臣金村かさのあそみかなむらのいわゆる「三吉野乃多芸都河内之大宮所みよしぬのたぎつこうちのおおみやどころ」、三船山、人麿ひとまろの歌った秋津の野辺のべ等は、みなこの宮滝村の近くであると云う。私たちはやがて村の中途から街道をはずれて対岸へ渡った。この辺でたにはようやくせばまって、岸がけわしい断崖になり、激した水が川床の巨岩につかり、あるいは真っ青なふちたたえている。うたたねの橋は、木深い象谷きさだにの奥から象の小川がちょろちょろとかすかなせせらぎになって、その淵へ流れ込むところにかかっていた。義経がここでうたたねをした橋だと云うのは、多分後世のこじつけであろう。が、ほんのひとすじの清水しみずの上に渡してある、きゃしゃな、危げなその橋は、ほとんど樹々のしげみに隠されていて、上に屋形船のそれのような可愛かわいい屋根が附いているのは、雨よりも落葉を防ぐためではないのか。そうしなかったら、今のような季節にはたちまち木の葉でうずまってしまうかと思われる。橋のたもとに二軒の農家があって、その屋根の下を半ば我が家の物置きに使っているらしく、人の通れる路を残してたきぎたばが積んである。ここは樋口ひぐちと云う所で、そこから道は二つに分れ、一方は川の岸を菜摘の里へ、一方はうたたねの橋を渡り、桜木の宮、喜佐谷きさだに村を経て、かみの千本からこけの清水、西行庵さいぎょうあんの方へ出られる。けだししずかの歌にある「峰の白雪けて入りにし人」は、この橋を過ぎて吉野の裏山から中院の谷の方へ行ったのであろう。
気が付いてみると、いつの間にか私たちの行く手には高い峰がまゆ近くそびえていた。空の領分は一層狭くちぢめられて、吉野川の流れも、人家も、道も、ついもうそこで行き止まりそうな渓谷であるが、人里と云うものは挟間はざまがあればどこまでも伸びて行くものと見えて、その三方を峰のあらしで囲まれた、ふくろの奥のような凹地くぼちの、せせこましい川べりの斜面しゃめんに段を築き、草屋根を構え、畑を作っている所が菜摘の里であると云う。
なるほど、水の流れ、山のたたずまい、さも落人おちうどみそうな地相である。
大谷と云う家をたずねると、すぐに分った。里の入り口から五六丁行って、川原の方へ曲った桑畑くわばたけの中にある、ひときわ立派な屋根の家であった。くわたけ高く伸びているので、遠くから望むと、旧家らしい茅葺かやぶきの台棟だいむね瓦葺かわらぶきのひさしだけが、桑の葉の上に、海中の島のごとくいて見えるのがいかにもゆかしい。しかし実際の家は、屋根の形式の割合いに平凡へいぼん百姓家ひゃくしょうやで、畑に面したふたつづきの出居でいの間の、前通りの障子を明け放しにして、その床の間つきの方の部屋に主人らしい四十恰好かっこうの人がすわっていた。そして二人の姿を見ると、を通ずるまでもなく挨拶あいさつに出たが、固く引きまった日に焼けた顔の色と云い、ショボショボした、人の好さそうなつきと云い、首の小さい、肩幅かたはばの広い体格と云い、どうしても一介いっかい愚直ぐちょくな農夫である。「国栖の昆布さんからお話がありましたので、先程からお待ちしていました」と、そう云う言葉さえ聞き取りにくい田舎なまりで、こちらが物を尋ねてもはかばかしい答えもせずに、ただ律義りちぎらしく時儀じぎをして見せる。思うにこの家は今は微禄びろくして、昔のおもかげはないのであろうが、それでも私にはかえってこう云う人柄の方が親しみやすい。「おいそがしいところをおさまたげして済みませぬ。お宅様ではお家の宝物ほうもつを大切にしていらしって、めったに人にお見せにならぬそうですが、無躾ぶしつけながらその品を見せていただきに参ったのです」と云うと、「いえ、人に見せぬと申す訳ではありませぬが」と当惑とうわくそうにオドオドして、実はその品物を取り出す前には、七日の間潔斎けっさいせよと云う先祖からの云い伝えがある、しかし当節はそんなやかましいことを云ってもいられないから、希望の方には心安く見せて上げようと思っているけれども、日々耕作こうさくに追われる身なので、不意に訪ねて来られては相手になっている時間がない。殊に昨今は秋蚕あきごの仕事が片附かないので家じゅうのたたみなども不断は全部げてあるような訳だから、突然とつぜんお客様が見えても、お通し申す座敷もないと云う始末、そんな事情で、前にちょっと知らせて置いて下すったら、必ず何とかり合わせてお待ちしている、と、真っ黒なつめびた手をひざの上に重ねて、云いにくそうに語るのである。
して見れば、今日は特に私たちのために、このふた間の部屋へわざわざ畳を敷きめて待っていてくれたに違いない。ふすまの隙から納戸なんどの方をうかがうと、そこはいまだに床板のままで、急にそちらへ押し込めたらしい農具がごたごたに片寄せてある。床の間にはすでに宝物の数々がかざってあって、主人はそれらの品を一つ一つ、うやうやしく私たちの前に並べた。
菜摘邨来由なつみむららいゆ」と題する巻物が一巻、義経公より拝領の太刀たち脇差わきざし数口、およびその目録、つばうつぼ陶器とうき瓶子へいし、それから静御前よりたまわった初音はつねつづみ等の品々。そのうち菜摘邨来由の巻物は、巻末に「右者五条御代官御役所時之御代官内藤杢左衛門もくざえもん様当時に被御出御中付候ニ付大谷源兵衛げんべえ七十六歳にて伝聞之儘のままを書記し我家に残し置者也」とあって、「安政あんせい二歳次乙卯きのとう夏日」と云う日附けがある。その安政二年の歳に代官内藤杢左衛門が当村へ来た時、今の主人の何代か前の先祖にあたる大谷源兵衛老人は土下座どげざをして対面したが、この書付けを見せると、今度は代官の方が席をゆずって土下座をしたと伝えられている。ただし、巻物は紙が黒げに焦げたごとく汚れていて、判読に骨が折れるため、別に写しがえてある。原文の方はどうか分らぬが、写しの方は誤字誤文がはなはだしく、仮名がな等にも覚束おぼつかない所が多々あって、到底とうてい正式の教養ある者の筆に成ったとは信ぜられない。しかしその文によると、この家の祖先は奈良朝以前からこの地に住し、壬申じんしんの乱には村国庄司男依むらくにのしょうじおよりなる者天武帝のお味方を申して大友皇子おおとものみこたてまつった。その頃庄司は当村より上市に至る五十丁の地を領していたので、菜摘川と云う名はその五十丁の間の吉野川を呼ぶのであると云う。さて義経に関しては、「また源義経公川上白矢ガ嶽にて五月節句をお祝あそばされそれより御下りこれあり村国庄司内にて三四十日被御逗留ごとうりゅう宮滝柴橋御覧有りその時御詠およみの歌に」として二首の和歌がっている。私は今日までまだ義経の歌と云うものがあるのを知らないが、そこに記してある和歌は、いかな素人眼しろうとめにも王朝末葉の調子とは思えず、言葉づかいも余りはしたない。次に静御前の方は、「その時義経公の愛妾あいしょう静御前村国氏の家にご逗留あり義経公は奥州おうしゅう落行おちゆき給いしより今は早頼はやたのみ少なしとてお命を捨給いたる井戸あり静井戸ともうし伝え候也そうろうなり」とあるから、ここで死んだことになっているのである。なおその上に、「しかるに静御前義経公に別れ給いし妄念もうねんにや夜な夜な火玉となりて右井戸よりいでし事およそ三百年そのころおい飯貝村に蓮如上人れんにょしょうにん諸人を化益けやくましましければ村人上人を相頼あいたのみ静乃亡霊を済度さいどし給わんやとねがいければ上人左右そうなく接引し給い静御前乃振袖ふりそで大谷氏に秘蔵いたせしに一首乃歌をなん書記し給いぬ」としてその歌が挙げてある。
私たちがこの巻物を読む間、主人は一言の説明を加えるでもなく、だまってかしこまっているだけであった。が、心中何の疑いもなく、父祖伝来のこの記事の内容を頭から盲信もうしんしているらしい顔つきである。「その、上人がお歌を書かれた振袖はどうされましたか」と尋ねると、先祖の時代に、静の菩提ぼだいとむらうために村の西生寺と云う寺へ寄附きふしたが、今はだれの手に渡ったか、寺にもなくなってしまったとのこと。太刀、脇差、うつぼ等を手に取って見るのに、相当年代の立ったものらしく、殊に靱はぼろぼろにいたんでいるけれども、私たちに鑑定かんていの出来る性質のものではない。問題の初音の鼓は、皮はなくて、ただどうばかりがきりはこに収まっていた。これもよくは分らないが、うるしが比較的新しいようで、蒔絵まきえ模様もようなどもなく、見たところ何のもない黒無地の胴である。もっとも木地きじは古いようだから、あるいはいつの代かにえたものかも知れない。「さあそんなことかも存じませぬ」と、主人は一向無関心な返答をする。
ほかに、屋根ととびらの附いたいかめしい形の位牌いはいが二基ある。一つの扉にはあおいもんがあって、中に「贈正一位大相国公尊儀」と刻し、もう一つの方は梅鉢うめばちの紋で、中央に「帰真 松誉貞玉信女霊位」とり、その右に「元文げんぶん二年年」、左に「みずのえ十一月十日」とある。しかし主人はこの位牌についても、何も知るところはないらしい。ただ昔から、大谷家の主君に当る人のものだと云われ、毎年正月元日にはこの二つの位牌を礼拝するのが例になっている。そして元文の年号のある方を、あるいは静御前のではないかと思います。と、真顔まがおで云うのである。
その人のさそうな、小心らしいショボショボした眼を見ると、私たちは何も云うべきことはなかった。今更元文の年号がいつの時代であるかを説き、静御前の生涯しょうがいについて吾妻鑑あずまかがみや平家物語を引き合いに出すまでもあるまい。要するにここの主人は正直一途いちずにそう信じているのである。主人の頭にあるものは、つるおかの社頭において、頼朝よりともの面前で舞を舞ったあの静とは限らない。それはこの家の遠い先祖が生きていた昔、―――なつかしい古代を象徴しょうちょうする、ある高貴の女性である。「静御前」と云う一人の※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろう幻影げんえいの中に、「祖先」に対し、「主君」に対し、「いにしえ」に対する崇敬すうけい思慕しぼの情とを寄せているのである。そう云う上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)が実際この家に宿を求め、世を住みびていたかどうかを問う用はない。せっかく主人が信じているなら信じるに任せておいたらよい。いて主人に同情をすれば、あるいはそれは静ではなく、南朝の姫宮ひめみや方であったか、戦国頃の落人であったか、いずれにしてもこの家が富み栄えていた時分に、何か似寄によりの事実があって、それへ静の伝説がまぎれ込んだものかも知れない。
私たちがして帰ろうとすると、
「何もお構い出来ませぬが、ずくしを召し上って下さいませ」
と、主人は茶を入れてくれたりして、ぼんに盛った※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)かきの実に、灰の這入はいっていないからの火入れをえて出した。
ずくしはけだし※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)じゅくしであろう。空の火入れは煙草たばこの吸いがらを捨てるためのものではなく、どろどろれた※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)の実を、その器に受けて食うのであろう。しきりにすすめられるままに、私は今にもくずれそうなその実の一つを恐々こわごわ手のひらの上にせてみた。円錐えんすい形の、しりとがった大きな※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)であるが、真っ赤に熟し切って半透明はんとうめいになった果実は、あたかもゴムのふくろのごとくふくらんでぶくぶくしながら、日にかすと※(「王+干」、第3水準1-87-83)ろうかんたまのように美しい。市中に売っている※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)たるがきなどは、どんなに熟れてもこんな見事な色にはならないし、こうやわらかくなる前に形がぐずぐずに崩れてしまう。主人が云うのに、ずくしを作るには皮の厚い美濃※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)みのがきに限る。それがまだ固くしぶい時分に枝から※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)いで、なるべく風のあたらないところへ、はこかごに入れておく。そうして十日ほどたてば、何の人工も加えないで自然に皮の中が半流動体になり、甘露かんろのようなあまみを持つ。ほか※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)だと、中味が水のようにけてしまって、美濃※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)のごとくねっとりとしたものにならない。これを食うには半熟の卵を食うようにへたを抜き取って、その穴からさじですくう法もあるが、やはり手はよごれても、器に受けて、皮をいでたべる方が美味である。しかし眺めても美しく、たべてもおいしいのは、ちょうど十日目頃のわずかな期間で、それ以上日が立てばずくしもついに水になってしまうと云う。
そんな話を聞きながら、私はしばらく手の上にある一顆いっかつゆの玉に見入った。そして自分の手のひらの中に、この山間の霊気れいきと日光とがり固まった気がした。昔田舎者が京へ上ると、都の土をひとにぎり紙に包んで土産みやげにしたと聞いているが、私がもし誰かから、吉野の秋の色を問われたら、この※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)の実を大切に持ち帰って示すであろう。
結局大谷氏の家で感心したものは、鼓よりも古文書よりも、ずくしであった。津村も私も、歯ぐきからはらわたの底へとおめたさを喜びつつ甘いねばっこい※(「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「柿」の正字」、第3水準1-85-57)の実をむさぼるように二つまで食べた。私は自分の口腔こうこうに吉野の秋を一杯いっぱい頬張ほおばった。思うに仏典中にある菴摩羅果あんもらかもこれほど美味ではなかったかも知れない。

その四 ※(「口+會」、第3水準1-15-25)こんかい


「君、あの由来書きを見ると、初音のつづみは静御前の遺物とあるだけで、きつねの皮と云うことは記してないね」
「うん、―――だから僕は、あの鼓の方が脚本きゃくほんより前にあるのだと思う。後でこしらえたものなら、何とかもう少し芝居の筋に関係を付けないはずはない。つまり妹背山の作者が実景を見てあの趣向を考えついたように、千本桜せんぼんざくらの作者もかつて大谷家を訪ねたかうわさを聞いたかして、あんなことを思いついたんじゃないかね。もっとも千本桜の作者は竹田出雲いずもだから、あの脚本の出来たのは少くとも宝暦ほうれき以前で、安政二年の由来書きの方が新しいと云う疑問がある。しかし『大谷源兵衛七十六歳にて伝聞のままを書記し』たと云っている通り、伝来はずっと古いんじゃないか。よしんばあの鼓が贋物にせものだとしても、安政二年に出来たものでなく、ずっと以前からあったんだと云う想像をするのは無理だろうか」
「だがあの鼓はいかにも新しそうじゃないか」
「いや、あれは新しいか知れないが、鼓の方も途中でえたり造り換えたりして、二代か三代立っているんだ。あの鼓の前には、もっと古いやつがあのきりはこの中に収まっていたんだと思うよ」
菜摘の里から対岸の宮滝へ戻るには、これも名所の一つに数えられている柴橋しばはしを渡るのである。私たちはその橋のたもとの岩の上にこしかけながらしばらくそんな話をした。
貝原益軒かいばらえきけんの和州巡覧記に、「宮滝は滝にあらず両方に大岩ありその間を吉野川ながるるなり両岸は大なる岩なり岩の高さ五間ばかり屏風びょうぶを立たるごとし両岸の間川の広さ三間ばかりせばき所に橋あり大河ここにいたってせばきゆえ河水はなはだ深しその景絶妙なり」とあるのが、ちょうど今私たちの休んでいるこの岩から見た景色であろう。「里人岩飛いわとびとて岸の上より水底へ飛入て川下におよぎ出て人に見せ銭をとる也とぶときは両手を身にそえ両足をあわせて飛入水中に一じょうばかり入て両手をはれば浮み出るという」とあって、名所図会にはその岩飛びの図が出ているが、両岸の地勢、水の流れ、あの絵の示す通りである。川はここへ来て急カーヴを描きつつ巨大ないわおの間へ白泡を噴いてたぎり落ちる。さっき大谷家で聞いたのに、毎年いかだがこの岩につかって遭難そうなんすることが珍しくないと云う。岩飛びをする里人は、平生この辺でりをしたり、耕したりしていて、たまたま旅人の通る者があれば、早速さっそく勧誘して得意のはなわざを演じて見せる。向う岸のやや低い岩から飛び込むのが百文、こちら岸の高い方の岩からなら二百文、それで向うの岩を百文岩、こちらの岩を二百文岩と呼び、今にその名が残っているくらいで、大谷家の主人も若い時分に見たことがあるけれども、近頃はそんなものを見物する旅客もまれになり、いつか知らずほろびてしまったのだそうである。
「ね、昔は吉野の花見と云うと、今のように道がひらけていなかったから、宇陀うだ郡の方を廻って来たりして、この辺を通る人が多かったんだよ。つまり義経の落ちて来た道と云うのが普通の順路じゃなかったのかね。だから竹田出雲なんぞきっとここへやって来て、初音の鼓を見たことがあるんだよ」
―――津村はその岩の上に腰をおろして、いまだに初音の鼓のことをなぜか気にかけているのである。自分は忠信狐ただのぶぎつねではないが、初音の鼓をしたう心は狐にも勝るくらいだ、自分は何だか、あの鼓を見ると自分の親にったような思いがする、と、津村はそんなことを云い出すのであった。
ここで私は、この津村と云う青年の人となりをあらまし読者に知って置いて貰わねばならない。実を云うと、私もその時その岩の上で打ち明け話を聞かされるまでくわしいことは知らなかった。―――と云うのは、前にもちょっと述べたように、彼と私とは東京の一高時代の同窓で、当時は親しい間柄であったが、一高から大学へ這入る時に、家事上の都合と云うことで彼は大阪の生家へ帰り、それきり学業をはいしてしまった。その頃私が聞いたのでは、津村の家はしまうちの旧家で、代々質屋を営み、彼のほかに女のきょうだいが二人あるが、両親は早く歿ぼっして、子供たちは主に祖母の手で育てられた。そして姉娘はつとに他家へ縁づき、今度妹も嫁入り先がきまったについて、祖母も追い追い心細くなり、せがれそばへ呼びたくなったのと、家の方の面倒を見る者がないのとで、急に学校をめることにした。「それなら京大へ行ったらどうか」と、私はすすめてみたけれども、当時津村の志は学問よりも創作にあったので、どうせ商売は番頭任せでよいのだから、ひまを見てぽつぽつ小説でも書いた方が気楽だと、云うつもりらしかった。
しかしそれ以来、ときどき文通はしていたのだが、一向物を書いているらしい様子もなかった。ああは云っても、家に落ち着いて暮らしに不自由のない若旦那わかだんなになってしまえば、自然野心もおとろえるものだから、津村もいつとなく境遇きょうぐうれ、平穏へいおんな町人生活に甘んずるようになったのであろう。私はそれから二年ほど立って、ある日彼からの手紙の端に祖母が亡くなったと云う知らせを読んだ時、いずれ近いうちに、あの「御料人様ごりょうにんさん」と云う言葉にふさわしい上方風かみがたふうよめでもむかえて、彼もいよいよ島の内の旦那衆だんなしゅうになり切ることだろうと、想像していた次第であった。
そんな事情で、その後津村は二三度上京したけれども、学校を出てからゆっくり話し合う機会を得たのは、今度が始めてなのである。そして私は、この久振ひさしぶりう友の様子が、大体想像の通りであったのを感じた。男も女も学生生活をえて家庭の人になると、にわかに栄養が良くなったように色が白く、肉づきが豊かになり、体質に変化が起るものだが、津村の人柄にもどこか大阪のぼんちらしいおっとりした円みが出来、まだ抜け切れない書生言葉のうちにも上方訛かみがたなまりのアクセントが、―――前から多少そうであったが、前よりは一層顕著けんちょに―――交るのである。と、こう書いたらおおよそ読者も津村と云う人間の外貌がいぼうを会得されるであろう。
さてその岩の上で、津村が突然語り出した初音の鼓と彼自身にまつわる因縁いんねん、―――それからまた、彼が今度の旅行を思い立つに至った動機、彼の胸に秘めていた目的、―――そのいきさつは相当長いものになるが、以下なるべくは簡略に、彼の言葉の意味を伝えることにしよう。―――

自分のこの心持は大阪人でないと、また自分のように早く父母を失って、親の顔を知らない人間でないと、(―――と、津村が云うのである。)到底とうてい理解されないかと思う。君もご承知の通り、大阪には、浄瑠璃じょうるりと、生田いくた流の箏曲そうきょくと、地唄じうたと、この三つの固有な音楽がある。自分は特に音楽好きと云うほどでもないが、しかしやはり土地の風習でそう云うものに親しむ時が多かったから、自然と耳について、知らずらず影響を受けている点が少くない。取り分けいまだにおもい出すのは、自分が四つか五つのおり、島の内の家の奥の間で、色の白い眼元のすずしい上品な町方まちかたの女房と、盲人もうじん検校けんぎょうとがこと三味線しゃみせんを合わせていた、―――その、ある一日の情景である。自分はその時琴をいていた上品な婦人の姿こそ、自分の記憶きおくの中にある唯一ゆいいつの母のおもかげであるような気がするけれども、果してそれが母であったかどうかは明かでない。後年祖母の話によると、その婦人は恐らく祖母であったろう、母はそれより少し前に亡くなったはずであると云う。が、自分はまたその時検校とその婦人がいていたのは生田流の「※(「口+會」、第3水準1-15-25)こんかい」と云う曲であったことを不思議に覚えているのである。思うに自分の家では祖母を始め、姉や妹がみなその検校の弟子であったし、その後も折々おりおり※(「口+會」、第3水準1-15-25)の曲をかえいたことがあるから、始終印象が新たにされていたのであろう。ところでその曲のと云うのは、―――
いたわしや母上は、花の姿にえてしおるるつゆの床の内智慧ちえの鏡もくもる、法師にまみえ給いつつ母も招けばうしろみ返りてさらばと云わぬばかりにて、泣くより外の事ぞなき、野え山越え里打ち過ぎて来るは誰故たれゆえさま故誰故来るは来るは誰故ぞ様故君は帰るかうらめしやのうやれ我が住む森に帰らん我が思う思う心のうちは白菊しらぎく岩隠れつたがくれ、しのの細道け行けば、虫のこえごえ面白や降りそむる、やれ降りそむる、けさだにもけさだにも所はあともなかりけり西は田のあぜあぶないさ、谷みねしどろに越え行け、あの山越えてこの山越えて、こがれこがるるうき思い。
―――自分は今では、この節廻ふしまわしも合いの手もことごとくそらんじてしまっているが、あの検校と婦人の席でこれをたしかに聞いた記憶が存しているのは、何かしらこの文句の中に頑是がんぜない幼童ようどうの心を感銘かんめいさせるものがあったに違いない。
もともと地唄じうたの文句には辻褄つじつまの合わぬところや、語法の滅茶苦茶めちゃくちゃなところが多くて、殊更ことさら意味を晦渋かいじゅうにしたのかと思われるものがたくさんある。それに謡曲や浄瑠璃の故事こじまえているのなぞは、その典拠てんきょを知らないではなおさら解釈に苦しむ訳で、「※(「口+會」、第3水準1-15-25)こんかい」の曲も大方別にもとづくところがあるのであろう。しかし「いたわしや母上は花の姿に引き替えて」と云い、「母も招けばうしろみ返りて、さらばと云わぬばかりにて」と云い、げて行く母をしたう少年の悲しみのこもっていることが、当時のいとけない自分にも何とはなしに感ぜられたと見える。その上「野越え山越え里打ち過ぎて」と云い、「あの山越えてこの山越えて」と云う詞には、どこか子守唄こもりうたに似た調子もある。そしてどう云う連想の作用か、「※(「口+會」、第3水準1-15-25)こんかい」と云う文字も意味も分るはずはなかったのに、そののちいくたびかこの曲を耳にするにしたがって、それがきつねに関係のあるらしいことを、おぼろげながらさとるようになった。
これは多分、しばしば祖母に連れられて文楽座ぶんらくざ堀江座ほりえざの人形芝居へ行ったものだから、そんな時に見たくずの子別れの場が頭にんでいたせいであろう。あの、母狐が秋の夕ぐれに障子しょうじの中ではたを織っている、とんからりとんからりと云うおさの音。それからている我が子に名残なごりをしみつつ「いしくば訪ね来てみよ和泉いずみなる―――」と障子へ記すあの歌。―――ああ云う場面が母を知らない少年の胸にうったえる力は、その境遇きょうぐうの人でなければおそらく想像もおよぶまい。自分は子供ながらも、「我が住む森に帰らん」と云う句、「我が思う思う心のうちは白菊岩隠れ蔦がくれ、篠の細道掻き分け行けば」などと云う唄のふしのうちに、色とりどりな秋の小径こみちを森の古巣ふるすへ走って行く一ぴき白狐びゃっこの後影を認め、その跡をしとうて追いかける童子どうじの身の上を自分に引きくらべて、ひとしお母恋いしさの思いに責められたのであろう。そう云えば、信田しのだの森は大阪の近くにあるせいか、昔から葛の葉を唄った童謡どうようが家庭の遊戯ゆうぎと結び着いて幾種類か行われているが、自分も二つばかり覚えているのがある。その一つは、
ろうよ、釣ろうよ
信田の森の
狐どんを釣ろうよ
と唄いながら、一人が狐になり、二人が猟人かりうどになって輪を作ったひもの両端を持って遊ぶ狐釣りの遊戯である。東京の家庭にもこれに似た遊戯があると聞いて、自分はかつてある待合まちあいで芸者にやらせて見たことがあるが、唄の文句も節廻しも大阪のとはやや違う。それに遊戯する者も、東京ではすわったままだけれども、大阪では普通立ってやるので、狐になった者が、唄につれておどけた狐の身振みぶりをしながら次第に輪の側へ近づいて来るのが、―――たまたまそれがえんな町娘や若いよめであったりすると、こと可愛かわいい。少年の時、正月の晩などに親戚の家へ招かれてそんな遊びをした折に、あるあどけない若女房わかにょうぼうで、その狐の身振がすぐれて上手な美しい人があったのを、今に自分は忘れずにいるくらいである。なおもう一つの遊戯は、大勢が手をつなぎ合って円座を作り、その輪のまん中へおにをすわらせる。そして豆のような小さな物を鬼に見せないように手の中へかくして、唄をうたいつつ順々に次の人の手へ渡して行き、唄が終るとみなじっと動かずにいて、誰の手の中に豆があるかを鬼にてさせる。その唄の詞はこう云うのである。
ゥんで
よもぎ摘ゥんで
お手にお豆がこゥこのつ
ここのゥつの、豆の数より
親の在所が恋いしゅうて
恋いしィくば
訪ね来てみよ
信田のもゥりのうゥらみくず
自分はこの唄にはほのかながら子供の郷愁きょうしゅうがあるのを感じる。大阪の町方には、河内かわち和泉いずみ、あの辺の田舎いなかから年期奉公ぼうこうに来ている丁稚でっちや下女が多いが、冬の夜寒よさむに、表の戸をめて、そう云う奉公人共ほうこうにんどもが家族の者たちと火鉢ひばちのぐるりに団居まどいしながらこの唄をうたって遊ぶ情景は、船場せんばや島の内あたりに店を持つ町家まちやにしばしば見受けられる。思うに草深い故郷を離れて、商法や行儀ぎょうぎを見習いに来ている子弟は、「親の在所が恋いしゅうて」と何気なく口ずさむうちにも、茅葺かやぶきの家の薄暗い納戸なんどにふせる父母のおもかげしのびつつあったであろう。自分は後世、忠臣蔵の六段目で、あの、深編笠ふかあみがさの二人侍が訪ねて来るところで、この唄を下座げざに使っているのを図らずも聴いたが、与市兵衛よいちべえ、おかや、お軽などの境涯きょうがいと、いかにも取り合わせのうまいのに感心した。
当時、島の内の自分の家にも奉公人が大勢いたから、自分は彼等があの唄をうたって遊ぶのを見ると、同情もし、またうらやましくもあった。父母の膝元ひざもとを離れて他人の所に住み込んでいるのは可哀かわいそうだけれども、奉公人たちはいつでも国へ帰りさえすれば、会うことの出来る親があるのに、自分にはそれがないのである。そんなことから、自分は信田の森へ行けば母に会えるような気がして、たしか尋常じんじょう二三年の頃、そっと、家には内証で、同級生の友達を誘ってあそこまで出かけたことがあった。あのへんは今でも南海電車を降りて半里も歩かねばならぬ不便な場所で、その時分は途中まで汽車があったかどうか、何でも大部分ガタ馬車に乗って、よほど歩いたように思う。行ってみると、くすのきの大木の森の中に葛の葉稲荷いなりほこらが建っていて、葛の葉ひめの姿見の井戸と云うものがあった。自分は絵馬堂えまどうかかげてある子別れの場の押絵おしえの絵馬や、雀右衛門じゃくえもんか誰かの似顔絵の額をながめたりして、わずかになぐさめられて森を出たが、その帰り路に、ところどころの百姓家ひゃくしょうやの障子のかげから、今もとんからりとんからりはたを織る音がれて来るのを、この上もなくなつかしく聞いた。多分あの沿道は河内木棉かわちもめんの産地だったので、機屋はたやがたくさんあったのであろう。とにかくその昔はどれほど自分のあこがれをたしてくれたか知れなかった。
しかし自分が奇異に思うことは、そう云う風に常にしたったのは主として母の方であって、父に対してはさほどでもなかった一事である。そのくせ父は母より前に亡くなっていたから、母の姿は万一にも記憶に存する可能性があっても、父のは全くないはずであった。そんな点から考えると、自分の母を恋うる気持はただ漠然ばくぜんたる「未知の女性」に対する憧憬どうけい、―――つまり少年期の恋愛れんあい萌芽ほうがと関係がありはしないか。なぜなら自分の場合には、過去に母であった人も、将来妻となるべき人も、等しく「未知の女性」であって、それが眼に見えぬ因縁いんねんの糸で自分につながっていることは、どちらも同じなのである。けだしこう云う心理は、自分のような境遇きょうぐうでなくとも、誰にも幾分かひそんでいるだろう。その証拠しょうこにはあの※(「口+會」、第3水準1-15-25)こんかいの唄の文句なども、子が母を慕うようでもあるが、「来るは誰故だれゆえぞ、さま故」と云い、「君は帰るか恨めしやのうやれ」と云い、相愛の男女の哀別離苦あいべつりくをうたっているようでもある。恐らくこの唄の作者は両方の意味に取れるようにわざと歌詞を曖昧あいまいにぼかしたのではないか。いずれにせよ自分は最初にあれを聞いた時から、母ばかりをまぼろしに描いていたとは信じられない。その幻は母であると同時に妻でもあったと思う。だから自分の小さな胸の中にある母の姿は、年老いた婦人でなく、永久に若く美しい女であった。あの馬方三吉うまかたさんきちの芝居に出て来るおひとしげ、―――立派な袿襠うちかけを着て、大名の姫君ひめぎみに仕えている花やかな貴婦人、―――自分の夢に見る母はあの三吉の母のような人であり、その夢の中で自分はしばしば三吉になっていた。
徳川時代の狂言きょうげん作者は、案外ずるく頭が働いて、観客の意識の底に潜在せんざいしている微妙びみょうな心理にびることがたくみであったのかも知れない。この三吉の芝居なども、一方を貴族の女のにし、一方を馬方の男の児にして、その間に、乳母うばであり母である※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうの婦人を配したところは、表面親子の情愛をあつかったものに違いないけれども、その蔭にあわい少年のこいが暗示されていなくもない。少くとも三吉の方から見れば、いかめしい大名の奥御殿おくごてんに住む姫君と母とは、ひとしく思慕しぼの対象になり得る。それが葛の葉の芝居では、父と子とが同じ心になって一人の母を慕うのであるが、この場合、母が狐であると云う仕組みは、一層見る人の空想を甘くする。自分はいつも、もしあの芝居のように自分の母が狐であってくれたらばと思って、どんなに安倍あべの童子を羨んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿をりて現れない限りもない。母のない子供があの芝居を見れば、きっと誰でもそんな感じをいだくであろう。が、千本桜の道行みちゆきになると、母―――狐―――美女―――恋人―――と云う連想がもっと密接である。ここでは親も狐、子も狐であって、しかも静と忠信狐とは主従のごとく書いてありながら、やはり見た眼は恋人同士の道行とえいずるようにたくまれている。そのせいか自分は最もこの舞踊劇ぶようげきを見ることを好んだ。そして自分を忠信狐になぞらえ、親狐の皮で張られた鼓の音にかされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した。自分はせめて舞を習って、温習会おんしゅうかいの舞台の上ででも忠信になりたいと、そんなことを考えたほどであった。
「だがそれだけではないんだよ」
と、津村はそこまで語って来て、早や暮れかかって来た対岸の菜摘の里の森影を眺めながら、
「自分は今度、ほんとうに初音の鼓に惹きせられてこの吉野まで来たようなものなんだよ」
と、そう云って、そのぼんちらしい人のい眼もとに、何か私には意味の分らない笑いを浮かべた。

その五 国栖くず


さてこれからは私が間接に津村の話を取り次ぐとしよう。
そう云う訳で、津村が吉野と云う土地に特別のなつかしさを感ずるのは、一つは千本桜の芝居の影響によるのであるが、一つには、母は大和の人だと云うことをかねがね聞いていたからであった。が、大和のどこからもらわれて来たのか、その実家は現存しているのか等のことは、久しくなぞに包まれていた。津村は祖母の生前に出来るだけ母の経歴を調べておきたいと思って、いろいろ尋ねたけれども、祖母は何分なにぶんにも忘れてしまったと云うことで、はかばかしい答は得られなかった。親類の誰彼、伯父伯母おじおばなどに聞いてみても、母の里方さとかたについては、不思議に知っている者がなかった。ぜんたい津村家は旧家であるから、あたりまえなら二代も三代も前からの縁者が出入りしているはずであるが、母は実は、大和からすぐ彼の父にとついだのでなく、幼少の頃大阪の色町へ売られ、そこからいったんしかるべき人の養女になって輿入こしいれをしたらしい。それで戸籍こせき面の記載きさいでは、文久三年に生れ、明治十年に十五歳で今橋三丁目浦門喜十郎のもとから津村家へとつぎ、明治二十四年に二十九歳で死亡している。中学を卒業する頃の津村は、母に関してようようこれだけのことしか知らなかった。後から考えれば、祖母や親戚の年寄たちが余り話してくれなかったのは、母の前身が前身であるから、語るを好まなかったのであろう。しかし津村の気持では、自分の母が狭斜きょうしゃちまたに生い立った人であると云う事実は、ただなつかしさを増すばかりで別に不名誉ふめいよとも不愉快ふゆかいとも感じなかった。まして縁づいたのが十五のとしであるとすれば、いかに早婚そうこんの時代だとしても、恐らく母はそういう社界の汚れに染まる度も少く、まだ純真なむすめらしさを失っていなかったであろう。それなればこそ子供を三人も生んだのであろう。そして初々ういういしい少女の花嫁はなよめは、夫の家に引き取られて旧家の主婦たるにふさわしいさまざまなしつけを受けたであろう。津村はかつて、母が十七八の時に手写したと云う琴唄の稽古本けいこぼんを見たことがあるが、それは半紙を四つ折りにしたものへ横に唄の詞をつらね、行間ぎょうかんに琴のしゅ丹念たんねんに書き入れてある、美しいお家流いえりゅう筆蹟ひっせきであった。
そののち津村は東京へ遊学したので、自然家庭と遠ざかることになったが、そのあいだも母の故郷を知りたい心はかえってつのる一方であった。有りていに云うと、彼の青春期は母への思慕しぼで過ぐされたと云ってよい。行きずりにう町の女、令嬢れいじょう、芸者、女優、―――などに、あわい好奇心を感じたこともないではないが、いつでも彼の眼に止まる相手は、写真で見る母のおもかげにどこか共通な感じのある顔のぬしであった。彼が学校生活を捨てて大阪へ帰ったのも、あながち祖母の意に従ったばかりでなく、彼自身があこがれの土地へ、―――母の故郷に少しでも近い所、そして彼女がその短かい生涯しょうがいの半分を送った島の内の家へ、―――惹き寄せられたためなのである。それに何と云っても母は関西の女であるから、東京の町では彼女に似通った女に会うことが稀だけれども、大阪にいると、ときどきそう云うのにつかる。母の生い育ったのはただ色町と云うばかりで、いずこの土地とも分らないのが恨みであったが、それでも彼は母のまぼろしに会うために花柳界かりゅうかいの女に近づき、茶屋酒に親しんだ。そんなことから方々に岡惚おかぼれを作った。「遊ぶ」と云う評判も取った。けれども元来が母恋いしさから起ったのに過ぎないのだから、一遍いっぺんも深入りをしたことはなく、今日まで童貞どうていを守り続けた。
こうして二三年を過すうちに祖母が死んだ。
その、祖母が亡くなった後のある日のことである。形見の品を整理しようと思って土蔵の中の小袖箪笥こそでだんす抽出ひきだしを改めていると、祖母の手蹟しゅせきらしい書類にまじって、ついぞ見たことのない古い書付けや文反古ふみほぐが出て来た。それはまだ母が勤め奉公時代に父と母との間に交された艶書えんしょ、大和の国の実母らしい人から母へてた手紙、琴、三味線、生け花、茶の湯等の奥許おくゆるしの免状めんじょうなどであった。艶書は父からのものが三通、母からのものが二通、初恋にう少年少女のたわいのない睦言むつごとりに過ぎないけれども、たがいに人目をしのんでは首尾していたらしい様子合いも見え、殊に母のものは「………おろかなりし心より思しおぼめしをかえりみず文さし上候あげそうろうこなた心少しは御汲分おんくみわけ………」とか「ひとかたならぬ御事のみ仰下おおせくだされなんぼうかうれしくぞんじ色々はずかしき身の上までもおはなし申上げ………」とか、十五の女の児にしては、筆の運びこそたどたどしいものの、さすがにませた言葉づかいで、その頃の男女の早熟そうじゅくさが思いやられた。次に故郷の実家から寄越したのは一通しかなく、宛名あてなは「大阪市新町九軒粉川様内おすみどの」とあり、差出人は「大和国吉野郡国栖村窪垣内くぼかいと昆布助左衛門内」となっていて、「此度其身そのみの孝心をかんしんいたし候ゆえ文して申遣もうしつかわし参らせそろ左候さそうらえば日にまし寒さに向い候えどもいよいよかわらせなく相くらされこのかたも安心いたしおり候ととさんともうしかかさんと申誠に誠に難有ありがたく………」と云うような書き出しで、やかたの主人を親とも思い大切にせねばならぬこと、遊芸のけいこに身を入れること、人の物を欲しがってはならぬこと、神仏を信心することなど、教訓めいたことのかずかずが記してあった。
津村は土蔵のほこりだらけな床の上にすわったまま、うす暗い光線でこの手紙をかえし読んだ。そして気がついた時分には、いつか日が暮れていたので、今度はそれを書斎へ持って出て、電燈の下にひろげた。むかし、恐らくは三四十年も前に、吉野郡国栖村の百姓家で、行燈あんどん灯影ほかげにうずくまりつつ老眼のやにを払い払い娘のもとへこまごまと書きつづっていたであろう老媼ろうおうの姿が、そのたひろにも余る長い巻紙の上に浮かんだ。ふみの言葉や仮名づかいには田舎のばばが書いたらしいおぼつかないふしぶしも見えるけれども、文字はそのわりにまずくなく、お家流の正しいくずし方で書いてあるのは、満更まんざら水呑みずのみ百姓でもなかったのであろう。が、何か暮らし向きに困る事情が出来て、娘を金にえたのであることは察せられる。ただ惜しいことに十二月七日とあるばかりで、年号が書き入れてないのだが、多分このふみは娘を大阪へ出してからの最初の便びんであろうと思われる。しかしそれでも老い先短かい身の心細く、ところどころに「これかかさんのゆい言ぞや」とか、「たとえこちらがいのちなくともその身に付そいしゅつせいをいたさせ候間」などと云う文句が見え、何をしてはならぬ、をしてはならぬと、いろいろと案じ過してさとしている中にも、面白いのは、紙を粗末にせぬようにと、長々と訓戒くんかいを述べて、「このかみもかかさんとおりとのすきたる紙なりかならずかならずはだみはなさず大せつにおもうべしその身はよろずぜいたくにくらせどもかみを粗末にしてはならぬぞやかかさんもおりともこのかみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんとろういたし候」と、二十行にもわたって書いていることである。津村はこれによって、母の生家が紙すきを業としていたのを知り得た。それから母の家族の中に、姉か妹であるらしい「おりと」と云う婦人のあることが分った。なおその外に「おえい」と云う婦人も見えて、「おえいは日々雪のつもる山にくずをほりに行きそうろうみなしてかせぎためろぎん出来そうらえば其身にあいに参り候たのしみいてくれられよ」とあって、「子をおもうおやの心はやみゆえにくらがりとうげのかたぞこいしき」と、最後に和歌が記されていた。
この歌の中にある「くらがり峠」と云う所は、大阪から大和へ越える街道にあって、汽車がなかった時代には皆その峠を越えたのである。峠の頂上に何とか云う寺があり、そこがほととぎすの名所になっていたから、津村も一度中学時代に行ったことがあったが、たしか六月頃のある夜の、まだ明けきらぬうちに山へかかって、寺でひと休みしていると、あかつきの四時か五時頃だったろう、障子の外がほんのりしらみ初めたと思ったら、どこかうしろの山の方で、不意にと声ほととぎすがいた。するとつづいて、その同じ鳥か、別なほととぎすか、た声も三声も、―――しまいには珍しくもなくなったほど啼きしきった。津村はこの歌を読むと、ふと、あの時は何でもなく聞いたほととぎすの声が、急にたまらなくなつかしいものに想い出された。そして昔の人があの鳥の啼く音を故人のたましいになぞらえて、「蜀魂しょっこん」と云い「不如帰ふじょき」と云ったのが、いかにももっともな連想であるような気がした。
しかし老婆の手紙について津村が最もあやしい因縁を感じたことが外にあった。と云うのは、この婦人、―――彼の母方の祖母にあたる人は、その文の中に狐のことをしきりに説いているのである。「………ずいぶんずいぶんこれからは御屋おやしろの稲荷いなりさまと白狐びゃくこ命婦之進みょうぶのしんとをまいにちまいにちあさあさは拝むべし左候さそうらえばそちの知ておる通りととさんがよべば狐のあのようにそばへくるようになるもみないっしんの有る故なり………」とか、「それゆえこのたびのなんもまったく白狐さまのおかげとぞんじ参らせ候これからは其御内そのおんうちの武運長久あしきやまいなきようのきとう毎日毎日致し参らせ候随分ずいぶん随分と信心なされるべく………」とか、そんなことが書いてあるのを見ると、祖母の夫婦はよほど稲荷の信仰にり固まっていたことが分る。察するところ「御屋しろの稲荷さま」と云うのは、屋敷のうちに小さなほこらでも建てて勧進してあったのではないか。そしてその稲荷のお使いである「命婦之進」と云う白狐も、どこかその祠の近くに巣を作っていたのではないか。「そちの知ておる通りととさんがよべば狐のあのようにそばへくるようになるも」とあるのは、本当にその白狐が祖父の声に応じて穴から姿を現わすのか、それとも祖母になり祖父自身になり魂が乗り移るのか明かでないが、祖父なる人は狐を自由に呼び出すことが出来、狐はまたこの老夫婦の蔭に附添つきそい、一家の運命を支配していたように思える。
津村は「このかみもかかさんとおりとのすきたる紙なりかならずかならずはだみはなさず大せつにおもうべし」とあるその巻紙を、ほんとうに肌身はだみにつけていただいた。少くとも明治十年以前、母が大阪へ売られてから間もなく寄越よこされた文だとすれば、もう三四十年は立っているはずのその紙は、こんがり遠火とおびにあてたような色に変っていたが、紙質は今のものよりもきめ緻密ちみつで、しっかりしていた。津村はその中に通っている細かい丈夫じょうぶ繊維せんいの筋を日にかして見て、「かかさんもおりともこのかみをすくときはひびあかぎれに指のさきちぎれるようにてたんとたんと苦ろういたし候」と云う文句をおもかべると、その老人の皮膚にも似た一枚の薄い紙片の中に、自分の母を生んだ人の血がこもっているのを感じた。母も恐らくは新町のやかたでこの文を受け取った時、やはり自分が今したようにこれを肌身につけ、押し戴いたであろうことを思えば、「昔の人のそでぞする」その文殻ふみがらは、彼には二重にゆかしくも貴い形見であった。
その後津村がこれらの文書を手がかりとして母の生家をきとめるに至った過程については、あまり管々くだくだしく書くまでもなかろう。何しろその当時から三四十年前と云えば、ちょうど維新いしん前後の変動に遭遇そうぐうしているのだから、母が身売りをした新町九軒の粉川と云う家も、輿入こしいれの前に一時せきを入れていた今橋の浦門と云う養家も、今では共に亡びてしまって行くえが分らず、奥許しの免状めんじょうに署名している茶の湯、生け花、琴三味線等の師匠ししょうの家筋も、多くは絶えてしまっていたので、結局前に挙げた文を唯一の手がかりに、大和の国吉野郡国栖村へ尋ねて行くのが近道であり、またそれ以外に方法もなかった。それで津村は、自分の家の祖母が亡くなった年の冬、百ヶ日の法要を済ますと、親しい者にも其の目的は打ち明けずに、ひとり飄然ひょうぜんと旅におもむ体裁ていさいで、思い切って国栖村へ出かけた。
大阪と違って、田舎はそんなにはげしい変遷へんせんはなかったはずである。まして田舎も田舎、行きどまりの山奥に近い吉野郡の僻地へきちであるから、たとい貧しい百姓家であってもわずか二代か三代の間にあとかたもなくなるようなことはあるまい。津村はその期待に胸をおどらせつつ、晴れた十二月のある日の朝、上市かみいちからくるまやとって、今日私たちが歩いて来たこの街道を国栖へ急がせた。そしてなつかしい村の人家が見え出したとき、何より先に彼の眼をいたのは、ここかしこの軒下に乾してある紙であった。あたかも漁師町りょうしまち海苔のりを乾すような工合に、長方形の紙が行儀よく板に並べて立てかけてあるのだが、その真っ白な色紙しきしを散らしたようなのが、街道の両側や、丘の段々の上などに、高く低く、寒そうな日にきらきらと反射しつつあるのを眺めると、彼は何がなしに涙が浮かんだ。ここが自分の先祖の地だ。自分は今、長いあいだ夢に見ていた母の故郷の土をんだ。この悠久ゆうきゅうな山間の村里は、大方母が生れた頃も、今眼の前にあるような平和な景色をひろげていただろう。四十年前の日も、つい昨日の日も、ここでは同じに明け、同じに暮れていたのだろう。津村は「昔」と壁ひとの隣りへ来た気がした。ほんの一瞬間いっしゅんかん眼をつぶって再び見開けば、どこかその辺のまがきの内に、母が少女の群れに交って遊んでいるかも知れなかった。
最初の彼の予想では、「昆布」は珍しい姓であるからじきに分ることと思っていたのだが、窪垣内くぼかいとと云うあざへ行って見ると、そこには「昆布」の姓が非常に多いので、目的の家を捜し出すのになかなからちが明かなかった。仕方がなく車夫と二人で昆布姓の家を一軒々々尋ねたけれども、「昆布助左衛門」を名乗る者は、昔は知らず、今は一人もいないと云う。ようようのことで、「それならあそこかも知れない」と、とある駄菓子屋だがしやの奥から出て来た古老らしい人が縁先に立って指さしてくれたのは、街道の左側の、小高い段の上に見えるむねの草屋根であった。津村は車夫を菓子屋の店先に待たして置いて、往来からだらだらと半町ばかり引っ込んだ爪先つまさき上りの丘の路を、その草屋根の方へ登って行った。めっきりと冷える朝ではあったが、そこはうしろになだらかな斜面しゃめんを持った山をめぐらした、風のあたらない、なごやかな日だまりになった一廓いっかくで三四軒の家がいずれも紙をすいていた。坂を登って行く津村は、それらの丘の上の家々から若い女たちがちょっと仕事の手を休めて、この辺に見馴みなれない都会風の青年紳士しんしが上って来るのを、めずらしそうに見おろしているのに気づいた。紙をすくのは娘やよめ手業てわざになっているらしく、庭先に働いている人たちはほとんどみな手拭てぬぐいをねえさんかぶりにしていた。津村はその、紙や手拭いのえ冴えとしたさわやかな反射の中を、教えられた家の軒近く立った。見ると、標札には「昆布由松」とあって、助左衛門と云う名は記してない。母家おもやの右手に、納屋なやのような小屋が建っていて、そこの板敷の上に十七八になる娘がつくばいながら、米のぎ汁のような色をした水の中へ両手をけて、わくふるってはさっすくい上げている。枠の中の白い水が、蒸籠せいろうのように作ってあるすだれの底へ紙の形に沈澱ちんでんすると、娘はそれを順繰りに板敷に並べては、やがてまた枠を水の中へ漬ける。表へ向いた小屋の板戸が明いているので、津村はひとむらの野菊のすがれた垣根かきねの外にたたずみながら、見る間に二枚三枚といて行く娘のあざやかな手際てぎわを眺めた。姿はすらりとしていたが、田舎娘らしくがっしりと堅太かたぶとりした、骨太ほねぶとな、大柄なであった。そのほおは健康そうに張り切って、若さでつやつやしていたけれども、それよりも津村は、白い水にひたっている彼女の指に心をかれた。なるほど、これでは「ひびあかぎれに指のさきちぎれるよう」なのも道理である。が、寒さにいじめつけられて赤くふやけている傷々いたいたしいその指にも、日増しにびる歳頃の発育の力をおさえきれないものがあって、一種いじらしい美しさが感じられた。
その時、ふと注意を転じると、母家の左の隅の方に古い稲荷のほこらのあるのが眼に這入はいった。津村の足は思わず垣根の中へ進んだ。そしてさっきから庭先で紙を乾していたこの家の主婦らしい二十四五の婦人の前へ寄って行った。
主婦は彼から来意を聞かされても、あまりその理由が唐突とうとつなのでしばらく遅疑ちぎする様子であったが、証拠の手紙を出して見せると、だんだん納得が行ったらしく、「わたしでは分りませんから、年寄に会って下さい」と、母家の奥にいた六十恰好かっこうの老媼を呼んだ。それがあの手紙にある「おりと」―――津村の母の姉に当る婦人だったのである。
この老媼は彼の熱心な質問の前にオドオドしながら、もう消えかかった記憶の糸を手繰たぐり手繰り歯の抜けた口から少しずつ語った。中には全く忘れていて答えられないこと、記憶ちがいと思われること、遠慮えんりょして云わないこと、前後矛盾むじゅんしていること、何かもぐもぐと云うには云っても息のれる声が聴き取りにくく、いくら問い返しても要領をつかめなかったことなどがたくさんあって、半分以上はこちらが想像で補うよりほかはなかったが、とにかくそう云う風にしてでも津村が知り得た事柄は、母に関する二十年来の彼の疑問を解くに足りた。母が大阪へやられたのは、たしか慶応けいおう頃だったとばあさんは云うのだけれども、ことし六十七になる婆さんが十四五歳、母が十一二歳の時だったそうであるから、明治以後であることは云うまでもない。それゆえ母はわずか二三年、多くも四年ほど新町に奉公ほうこうしただけで、じきに津村家へとついだことになる。おりと婆さんの口吻くちぶりから察するのに、昆布の家は当時窮迫きゅうはくこそしていたものの、相当に名聞を重んずる旧家で、そんな所へ娘を勤めに出したことをなるべく隠していたのであろう。それで娘が奉公中はもちろんのこと、立派な家の嫁になった後までも、一つには娘のはじ、一つには自分たちの耻と思って、あまり往きをしなかったのであろう。また、実際にその頃の色里の勤め奉公は、芸妓げいぎ、遊女、茶屋女、その他何であるにしろ、いったん身売りの証文に判をついた以上、きれいに親許おやもとえんを切るのが習慣であり、その後の娘はいわゆる「喰焼くいやき奉公人」として、どう云う風に成り行こうとも、実家はそれに係り合う権利がなかったでもあろう。しかし婆さんのおぼろげな記憶によると、妹が津村家へ縁づいてから、彼女の母は一度か二度、大阪へ会いに行ったことがあるらしく、今では大家たいけ御料人様ごりょうにんさんに出世した結構ずくめの娘の身の上を驚異をもって語っていた折があった。そして彼女にも是非大阪へ出て来るようにとことづてを聞いたけれども、そんな所へ見すぼらしい姿で上れるはずもなし、妹の方もあれなり故郷を訪れたことがなかったので、彼女はついぞ成人してからの妹と云うものを知らずにいるうち、やがてその旦那だんな様が死に、妹が死に、彼女の方の両親も死に、もうそれからはなおさら津村家との交通が絶えてしまった。
おりと婆さんはその肉親の妹、―――津村の母のことを呼ぶのに「あなた様のおふくろさま」と云うまわりくどい言葉を用いた。それは津村への礼儀からでもあったろうが、事によると妹の名を忘れているのかも知れなかった。「おえいは日々雪のふる山にくずをほりに行きそうろう」とあるその「おえい」と云う人を尋ねると、それが総領娘で、二番目がおりと、末娘が津村の母のおすみであった。が、ある事情から長女のおえいが他家へ縁づき、おりとが養子を迎えて昆布の跡をいだ。そして今ではそのおえいもおりとの夫も亡くなって、この家は息子の由松の代になり、さっき庭先で津村に応待した婦人がその由松の嫁であった。そう云う訳で、おりとの母が存生の頃はすみ女に関する書類や手紙なども少しは保存してあったはずだが、もはや三代を経た今日となっては、ほとんどこれと云う品も残っていない。―――と、おりと婆さんはそう語ってから、ふと思い出したように、立って仏壇ぶつだんとびらを開いて、位牌いはいの傍に飾ってあった一葉いちようの写真を持って来て示した。それは津村も見覚えのある、母が晩年に撮影した手札型の胸像で、彼もその複写の一枚を自分のアルバムに所蔵しているものであった。
「そう、そう、あなた様のお袋さまの物は、―――」
と、おりと婆さんはそれからまた何かを思い出した様子で附け加えた。
「この写真のほかに、ことが一面ございました。これは大阪の娘の形見だと申して、母が大切にしておりましたが、久しく出しても見ませぬので、どうなっておりますやら、………」
津村は、二階の物置きをさがしたらあるだろうと云うその琴を見せてもらうために、畑へ出ていた由松の帰りを待った。そしてそのひまに近所で昼食をしたためて来てから、自分も若夫婦に手を貸して、ほこりうずたか嵩張かさばった荷物を明るい縁先へ運び出した。
どうしてこんな物がこの家に伝わっていたのであろう、―――色褪いろあせたおおいの油単ゆたんを払うと、下から現れたのは、古びてこそいるが立派な蒔絵まきえ本間ほんけんの琴であった。蒔絵の模様は、こうを除いたほとんど全部に行きわたっていて、両側の「いそ」は住吉すみよし景色けしきであるらしく、片側に鳥居とりい反橋そりはしとが松林の中に配してあり、片側に高燈籠たかどうろう磯馴松そなれのまつと浜辺の波が描いてある。「海」から「竜角りゅうかく」「四分六」のあたりには無数の千鳥ちどりが飛んでいて、「荻布おぎぬの」のある方、「柏葉かしわば」の下に五色の雲と天人の姿がいて見える。そしてそれらの蒔絵や絵の具の色は、きり木地きじが時代を帯びて黒ずんでいるために、一層上品な光をしずませて眼を射るのである。津村は油単のちりぬぐって、改めてその染め模様を調べた。地質は多分塩瀬しおぜであろう、表は上の方へ紅地に白く八重梅やえうめもんを抜き、下の方にから美人が高楼にして琴をだんじている図がある。楼の柱の両側に「二十五げん弾月夜」「不堪清怨却飛来」と、一対のれんかかっている。裏は月にかりの列を現わしたかたわらに「雲みちによそえる琴の柱をはつらなる雁とおもいけるかな」と云う文字が読めた。
しかしそれにしても、八重梅は津村家の紋でないのであるが、養家の浦門家の紋か、あるいはひょっとすると、新町のやかたの紋ではなかったのであろうか。そして津村家へ嫁ぐについて、不用になった色町時代の記念の品を郷里へ贈ったのではないか。恐らくその時分、実家の方に年頃の娘かなんぞがいて、そののために田舎の祖母が貰い受けたと云うことも考えられる。またそうでもなく、嫁いでからも長く島の内の家にあったのを、彼女の遺言か何かによって国元くにもとへ届けたとも想像される。が、おりと婆さんも若夫婦も、一向その間の事情に関して知るところはなかった。たしか手紙のようなものがいていたと思うけれども、今ではそれも見あたらない、ただ「大阪へやられた人」からゆずられたものであることを聞き覚えている、と云うのみであった。
別に、附属品を収めた小型の桐のはこがあって、中に琴柱ことじ琴爪ことづめとが這入っていた。琴柱は黒っぽい堅木かたぎの木地で、それにも一つ一つ松竹梅しょうちくばいの蒔絵がしてある。琴爪の方は、大分使い込まれたらしく手擦てずれていたが、かつて母のかぼそい指がめたであろうそれらの爪を、津村はなつかしさに堪えず自分の小指にあててみた。幼少の折、奥のひと間で品のよい婦人と検校けんぎょうとが「※(「口+會」、第3水準1-15-25)こんかい」を弾いていたあの場面が、一瞬間彼の眼交まなかいかすめた。その婦人は母ではなく、琴もこの琴ではなかったかも知れぬけれども、大方母もこれをらしつつ幾度かあの曲をうたったであろう。もし出来るならば自分はこの楽器を修繕しゅうぜんさせ、母の命日にだれしかるべき人をたのんで「狐※(「口+會」、第3水準1-15-25)」の曲を弾かせてみたい、と、その時から津村はそう思いついた。庭の稲荷のほこらについては守り神として代々祭って来たのであるから、若夫婦たちもその手紙にあるものに相違ないことを確かめてくれた。もっとも現在では家族の内に狐を使う者はいない。由松が子供の頃、お祖父じいさんがよくそんなことをしたと云ううわさを聞いたが、「白狐の命婦之進みょうぶのしん」とやらはいつの代にか姿を現わさないようになり、祠のうしろにあるしいの木のかげにむかし狐がんでいた穴が残っているばかりで、そこへ案内をされた津村は、穴の入口に今はさびしく注連縄しめなわが渡してあるのを見た。
―――以上の話は、津村の祖母が亡くなった年のことであるから、宮滝みやたきの岩の上で彼が私に語った時からはまた二三年前にさかのぼる事実である。そして彼がこの間中から私への通信に「国栖くず親戚しんせき」と書いて来たのは、このおりと婆さんの家を指すのであった。と云うのは、何と云ってもおりと婆さんは津村に取って母方の伯母おばであり、彼女の家は母の実家に違いないのだから、そののち彼は改めてこの家と親類の附き合いを始めた。そればかりでなく、生計の援助えんじょもしてやって、伯母のために離れを建て増したり、紙すきの工場を拡げたりした。そのお蔭で昆布の家は、ささやかな手工業しゅこうぎょうではあるけれども、目立って手広く仕事をするようになったのである。

その六 しお


「で、今度の旅行の目的と云うのは?―――」
二人はあたりが薄暗くなるのも忘れて、その岩の上に休んでいたが、津村の長い物語が一段落へ来た時に、私が尋ねた。
「―――何か、その伯母さんに用事でも出来たのかい?」
「いや、今の話には、まだちょっと云い残したことがあるんだよ。―――」
眼の下の岩にくだけつつある早瀬はやせの白いあわが、ようよう見分けられるほどの黄昏たそがれではあったが、私は津村がそう云いながらかすかに顔をあかくしたのを、もののけはいで悟ることが出来た。
「―――その、始めて伯母の家の垣根の外に立った時に、中で紙をすいていた十七八の娘があったと云っただろう?」
「ふむ」
「その娘と云うのはね、実はもう一人の伯母、―――亡くなったおえいばあさんの孫なんだそうだ。それがちょうどあの時分昆布の家へ手伝いに来ていたんだ」
私の推察した通り、津村の声は次第に極まり悪そうな調子になっていた。
「さっきも云ったように、その女の児は丸出しの田舎娘で決して美人でも何でもない。あの寒中にそんな水仕事をするんだから、手足も無細工ぶさいくで、れ放題に荒れている。けれども僕は、大方あの手紙の文句、『ひびあかぎれに指のさきちぎれるようにて』と云う―――あれに暗示を受けたせいか、最初にひと水の中に漬かっている赤い手を見た時から、みょうにその娘が気に入ったんだ。それに、そう云えばそう、どこかおもざしが写真で見る母の顔に共通なところがある。育ちが育ちだから、女中タイプなのは仕方がないが、みがきようによったらもっと母らしくなるかも知れない」
「なるほど、ではそれが君の初音はつねつづみか」
「ああ、そうなんだよ。―――どうだろう、君、僕はその娘を嫁にもらいたいと思うんだが、―――」
和佐わさと云うのが、その娘の名であった。おえい婆さんの娘のおもとと云う人が市田なにがしと云う柏木附近の農家へ縁づいて、そこで生れた児なのである。が、生家の暮らし向きが思わしくないので、尋常じんじょう小学をえてから五条の町へ下女奉公に出たりしていた。それが十七の歳に、実家の方が手が足りないのでひまを貰って家に帰り、そののちずっと農事の助けをしているのだが、冬になると仕事がなくなるところから、昆布の家へ紙すきの手伝いにやらされる。ことしももうじき来るはずだけれど、多分まだ来ていないであろう。それよりも津村は、まずおりと伯母さんや由松夫婦に意中を打ち明けて、その結果によっては、至急に呼び寄せて貰うなり、訪ねて行くなりしようと思うと云うのである。
「じゃあ、うまく行くと僕もお和佐さんに会える訳だね」
「うん、今度の旅行に君を誘ったのも、是非会って貰って、君の観察を聞きたかったんだ。何しろ境遇があまり違い過ぎるから、その娘を貰ったとしても果して幸福に行けるかどうか、多少その点に不安心がないこともない、僕は大丈夫と云う自信は持っているんだが」
私はとにかく津村をうながしてその岩の上からこしもたげた。そして、宮滝でくるまやとって、その晩めて貰うことにきめてあった国栖くずの昆布家へ着いた時は、すっかり夜になっていた。私の見たおりと婆さんや家族たちの印象、住居の様子、製紙の現場等は、書き出すと長くもなるし、前の話と重複もするから、ここには略すことにしよう。ただ二つ三つ覚えていることを云えば、当時あの辺はまだ電燈が来ていないで、大きなを囲みながらランプの下で家族達と話をしたのが、いかにも山家やまがらしかったこと。炉にはかしくぬぎくわなどをくべたが、桑が一番火のちがよく、熱もやわらかだと云うので、その切り株をおびただしく燃やして、とても都会では思い及ばぬ贅沢ぜいたくさにおどろかされたこと。炉の上のはりや屋根裏が、かっかっと燃え上る火に、りたてのコールターのように真っ黒くてらてら光っていたこと。そして最後に、夜食のぜんっていた熊野鯖くまのさばと云うものが非常に美味であったこと。それは熊野浦でれた鯖を、ささに刺して山越しで売りに来るのであるが、途中、五六日か一週間ほどのあいだに、自然に風化されて乾物ひものになる、時には狐にその鯖の身をさらわれることがある、と云う話を聞いたこと。―――などである。
翌朝、津村と私とは相談の上、ようやくめいめいが別箇行動を取ることにめた。津村は自分の大切な問題を提げて、話をまとめて貰うように昆布家の人々をせる。私はその間ここにいては邪魔じゃまになるから、例の小説の資料を採訪すべく、五六日の予定でさらに深く吉野川の源流地方をきわめて来る。第一日は国栖を発し、東川うのがわ村に後亀山ごかめやま天皇の皇子小倉宮の御墓をとむらい、五社峠を経て川上の荘に入り、柏木に至って一泊。第二日は伯母ヶ峰峠うばがみねとうげを越えて北山の荘河合に一泊。第三日は自天王の御所ごしょ跡である小橡ことち竜泉寺りゅうせんじ、北山宮の御墓等にもうで、大台ヶ原山に登り山中に一泊。第四日は五色温泉を経てさんの峡谷を探り、もし行けたらば八幡平はちまんだいらかくだいらまでも見届けて、木樵きこりの小屋にでもめてもらうか、しおまで出て来て泊まる。第五日は入の波から再び柏木に戻り、その日のうちか翌日に国栖へ帰る。―――私は昆布家の人々に地理を尋ねて、大体こう云う日程を作った。そして津村との再会を約し、彼の成功を祈って出発したのであったが、津村は事によると、自分も柏木のお和佐の家まで出向くような場合があろう、それで私が柏木へ戻って来たら念のためにお和佐の家へ立ち寄って見てくれるように、それはしかじかの所だからと、出がけにそんな話があった。
私の旅はほぼ日程の通りにはかどった。聞けばこの頃はあの伯母ヶ峰峠の難路にさえ乗合自動車が通うようになり、紀州のもとまで歩かずに出られるそうで、私が旅した時分とはまこと隔世かくせいの感がある。が、幸い天候にも恵まれ、予想以上に材料も得られて、四日目までは道のけわしさも苦しさも「なあに」と云う気で押し通してしまったが、ほんとうに参ったのはあのさん公谷こだに這入はいった時であった。もっともあそこへかかる前から「あの谷はえらいところです」とか「へえ、旦那だんなは三の公へいらっしゃるんですか」とか、たびたび人に云われたので、私もあらかじめ覚悟かくごはしていた。それで四日目には少し日程を変更して五色温泉に宿を取り、案内者を一人世話して貰って明くる日の朝早く立った。
路は、大台ヶ原山にみなもとを発する吉野川の流れに沿うて下り、それがもう一本の渓流と合するまたと云う辺へ来て二つに分れ、一つは真っすぐに入の波へ、一つは右へ折れて、そこからいよいよ三の公の谷へ這入る。しかし入の波へ行く本道は「道」に違いないが、右へ折れる方は木深い杉林すぎばやしの中に、わずかにそれと人の足跡を辿たどれるくらいな筋が附いているだけである。おまけに前夜降雨があって、二の股川の水嵩みずかさがにわかにえ、丸木橋が落ちたりくずれかかったりしていて、激流げきりゅう逆捲さかまく岩の上を飛び飛びに、時には四つ這いに這わないと越えることが出来ない。二の股川の奥に「オクタマガワ」があり、それから地蔵河原じぞうがわらを渡渉して、最後に三の公川に達するまで、川と川との間の路は、何じょうと知れぬ絶壁ぜっぺきけずり立った側面をうて、ある所では両足を並べられないほどせまく、ある所では路が全く欠けてしまって、向うの崖からこちらのがけへ丸太を渡したり、さんを打った板をけたり、それらの丸太や板を宙でつなぎ合わして、崖の横腹を幾曲いくまがりも迂廻うかいしたりしている。こんな所を歩くのは、山岳家さんがくかなら朝飯前の仕事であろうが、私は元来中学時代に機械体操が非常に不得手ふえてで、鉄棒やたな木馬もくばにはいつも泣かされた男なのである。その頃は年も若かったし、今ほど太ってもいなかったから、平地を行くのなら八里や十里は歩けたけれども、こう云う難所は四肢ししを使って進むので、足の強弱の問題でなく、全身の運動の巧拙こうせつに関する。定めし私の顔は途中幾たびか青くなり赤くなりしたことであろう。正直のところ、もし案内者が一緒でなかったら、私はとうにあの二の股の丸木橋の辺で引っ返したかも知れなかった。案内者の手前きまりが悪いのと、一歩進んだら後へ退くのも前へ出るのと同じように恐ろしいのとで、仕方がなしにふるえる足を運んだのであった。
そう云う訳で、その谷あいの秋色は素晴すばらしい眺めであったけれども、足もとばかり視詰みつめていた私は、おりおり眼の前を飛び立つ四十雀しじゅうからの羽音に驚かされたくらいのことで、はずかしながらその風景を細叙さいじょする資格がない。だが案内者の方はさすがにれたもので、きざ煙草たばこ煙管きせるの代りに椿つばきの葉に巻いて口にくわえ、けわしい道を楽に越えながら、あれは何と云う滝、あれは何と云う岩、と、はるかな谷底を指して教えたが、
「あれは『御前ごぜん申す』と云う岩です」
と、ある所でそんなことを云った。それからまた少し行くと、
「あれは『べろべど』と云う岩です」
と云った。私はどれがべろべどで、どれが御前申すと云う岩やら、こわごわ谷底をのぞいただけではっきり見届けなかったが、案内者の云うのに、昔から王の住んでいらしった谷には、必ず御前申すと云う岩と、べろべどと云う岩がある、だから四五年前に東京からある偉いお方、―――学者だったか、博士だったか、お役人だったか、とにかく立派なお方がこの谷を見に来られて、やはり自分が案内をした時、そのお方が「ここに御前申すと云う岩があるか?」とお尋ねになったから「へい、ございます」と云って自分があの岩を示すと、「ではべろべどと云う岩はあるか?」と、重ねてお尋ねになったので、「へい、ございます」と、又その岩を見せて上げたら、「なるほど、そうか、それならここは自天王のいらしった所に違いない」と、感心してお帰りになった、―――などと云う話をしたが、その奇妙きみょうな岩の名の由来は分らなかった。
この案内者は外にもまだいろいろの口碑を知っていた。昔、京方きょうがた討手うってがこの地方へしのんだとき、どうしても自天王の御座所が分らないので、山また山をさがし求めつつ、一日偶然ぐうぜんこの峡谷へやって来て、ふと渓川たにがわを見ると、川上の方から黄金が流れて来る、そこで、その黄金の流れを伝わってさかのぼって行ったら、果して王の御殿があったと云う話。王が北山の御所へお移りになってから、毎朝顔をお洗いになるのに、御所の前を流れている北山川の川原へ立たれるのが例であったが、いつも影武者かげむしゃが二人お供していて、どれが王様か見分けがつかない。討手の者がたまたまそこを通り合わせた村の老婆ろうばに尋ねると、老婆は、「あの、口から白い息をいていらっしゃるのが王様だ」と教えた。そのために討手は襲いかかって王の御首みしるしを挙げることが出来たが、老婆の子孫にはその後代々不具ふぐの子供が生れると云う話。―――
私は午後一時頃に八幡平はちまんだいらの小屋に行き着き、弁当箱を開きながらそれらの伝説を手帳にひかえた。八幡平から隠し平までは往復更に三里弱であったが、この路はかえって朝の路よりは歩きよかった。しかしいかに南朝の宮方みやがたが人目を避けておられたとしても、あの谷の奥は余りにも不便すぎる。「のがれ来て身をおくやまのしばの戸に月と心をあわせてぞすむ」と云う北山宮の御歌は、まさかあそこでおみになったとは考えられない。要するに三の公は史実よりも伝説の地ではないであろうか。
その日、私と案内者とは八幡平の山男の家に泊めて貰って、うさぎの肉をご馳走ちそうになったりした。そして、その明くる日、再び昨日の路を二の股へ戻り、案内者と別れてひとり入の波へ出て来た私は、ここから柏木かしわぎまではわずか一里の道程だと聞いていたけれど、ここには川の縁に温泉が湧いていると云うので、その湯へ浸りに川のほとりへ行ってみた。二の股川を合わせた吉野川が幾らかはばの広い渓流けいりゅうになった所にばしかかっていて、それを渡ると、すぐ橋の下の川原に湯が湧いていた。が、試みに手を入れると、ほんの日向水ひなたみずほどのぬくもりしかなく百姓ひゃくしょうの女たちがその湯でせっせと大根を洗っているのである。
「夏でなければこの温泉へは這入はいれません。今頃這入るには、あれ、あすこにある湯槽ゆおけみ取って、別にかすのです」
と、女たちはそう云って、川原に捨ててある鉄砲風呂てっぽうぶろを指した。
ちょうど私がその鉄砲風呂の方を振り返ったとき、吊り橋の上から、
「おーい」
と呼んだ者があった。見ると、津村が、多分お和佐さんであろう。娘を一人うしろに連れてこちらへ渡って来るのである。二人の重みで吊り橋がかすかにれ、下駄げたの音がコーン、コーンと、谷に響いた。

私の計画した歴史小説は、やや材料負けの形でとうとう書けずにしまったが、この時に見た橋の上のお和佐さんが今の津村夫人であることは云うまでもない。だからあの旅行は、私よりも津村に取って上首尾じょうしゅびもたらした訳である。
(昭和六年一月〜二月)





底本:「ちくま日本文学014 谷崎潤一郎」筑摩書房
   2008(平成20)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十三巻」中央公論社
   1982(昭和57)年5月25日
初出:「中央公論」中央公論社
   1931(昭和6)年1月〜2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード