浮浪学生の話
RECIT DU GOLIARD
マルセル・シュヲブ Marcel Schwob
上田敏訳
抑われは寄辺ない浮浪学生、御主の御名によりて、森に大路に、日々の糧を乞ひ歩く難渋の学徒である。おのれ今、忝くも尊い光景を観、幼児の言葉を聞いた。われは己が生涯のあまり清くない事を心得てゐる、路の傍の菩提樹下に誘惑に負けた事も知つてゐる。偶われに酒を呑ませる会友たちの、よく承知してゐる如く、さういふ物は滅多に咽喉を通らない。然しわれは人を傷け害ふ党とは違ふ。幼児の眼を剞り抜き、足を断ち、手を縛つて、これを曝物に、憐愍を乞ふ悪人どもが世間にある。さればこそ今この幼児等を観て、心配いたすのだ。いや勿論、これには御主の擁護もあらうて。自分の言ふことは、兎角出放題になる、胸一杯に悦があるので、いつも口から出まかせを饒舌る。春が来たといつては莞爾、何か観たといつては莞爾、元来があまり確りした頭でないのだ。十歳の時、髪剃を頂いたが、羅甸の御経はきれいに失念して了つた。わが身はちやうど蝗虫のやうだ、こゝよ、かしこよと跳回る、唸つて歩く、また或時は色入の翅を拡げて、小さな頸の透きとほつて、空な処をみせもする。伝へ聞く聖約翰は荒野の蝗虫を食にされたとか、それなら余程食べずばなるまい。尤も約翰様と吾々風情とは人柄が違ふ。
われは日頃約翰様に帰依信仰してゐる。此御方もやはり浮浪の身にあらせられて、接続の無いお言葉を申されたでは無いか。嘸かし温かいお言葉であつたらう。さう言へば、今年の春も実に温和だ。今年みたいに、紅白の花がたんと咲いた歳は無い。野は一面に眼が覚めるやうな色だ。どこへ行つても垣根の上に主の御血潮は煌々してゐる。御主耶蘇様は百合のやうにお白かつたが、御血の色は真紅である。はて、何故だらう。解らない。きつと何かの巻物に書いてある筈だ。もし自分が文字に通じてゐたなら、ひとつ羊皮紙を手に入れて、それに認めもしよう。さうして毎晩うんと旨い物を食べてやる。又諸所の修道院を訪つて、もはや此世に居ない会友の為に祈を上げ、其名を巻物に書きとめて、寺から寺へと其過去帳を持回つたなら、皆も嘸悦ぶ事であらうが、第一、死んだ会友の名を知らないのだ。事に依つたら、主の君も、それをお知りにならうとなさらないのだらう。時に、あの子供たちも名が無いやうだ。主の君は却つて其方が好いと仰有るだらう。幼児は白い蜜蜂の分封のやうに路一杯になつてゐる。何処から来たのか解らない。ごく小さな巡礼たちだ。胡桃の木と白樺の杖をついて十字架を背負つてゐるが、その十字架の色が様々だ。なかに緑のがあつたが、それはきつと木の葉を縫ひつけたのだらう。皆野育の無知の子供たちで、どこを指して行くのだか、何しろずんずん歩いてゆく。唯耶路撒冷を信じてゐる。何でも耶路撒冷は遠い処だ、さうして主の君は、われわれのごとく傍にお出遊ばすのだ。衆は耶路撒冷まで往かれまい。耶路撒冷が衆のとこへ来るだらう。丁度自分にも来るやうに。凡べて神聖な物の終は悦に在る。われらが主の君はこの紅い茨の上に、このわが口に、わが貧しい言葉にも宿つていらせられる。なぜといふに、自分は主の君を思ひ奉ると、其聖墓が心の中にもう入つてゐるからだ。亜孟。どれ、日射のいゝ此処へでも寝転ばうか。これこそ聖地だ。われらが御主[#ルビの「おんおるじ」はママ]の御足は何処をも聖くなされた。さあ、ぐつすり眠るとしよう。耶蘇よ。十字架を負ふあの白い幼児たちをも、夜々眠むらし給へ。われ真にかく願ひ奉る。あゝ眠むくなつた。われ真にかく願ひ奉る。事に依つたら御覧になつたかも知れないが、幼児のことゆゑ、気を付けてやらねばなるまい。真昼時で気が重くなる。物皆悉く白つぽい。しかあれかし、亜孟。
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