わたくしは歌のことはよくわからず、広く読んでいるわけでもないが、
しかしこれは先生の歌が無技巧だなどということではない。あれほど一字一句の使い方、置き方に気を配った歌、あれほど浮いたところのない、中味のびっしりとつまった歌、またあれほど
もののさびものの渋味はおのづからいたりつく時はじめて知らゆ
と歌っていられるが、そういう先生の境地が先生の歌を味わうものの心にもしみじみと伝わってくるように感ぜられる。それはまことに達人の域である。何事にもあせりが目立ち、どぎつい表現があふれている今の世の中で、こういう達人の歌に接し得ることは、不幸に充ちたわれわれの生活の中で、まことにありがたい幸福だと言ってよい。歌集『
ここには戦争の災禍に押しつめられた、苦しい、いたましい生活がある。が、その生活には、山村の四季のさまざまな物の姿がしみ通っている。時おりの心のゆらぎを示すものも花や鳥の姿である。それを読んで行くと、いかにも静かではあるが、しかし心の奥底から動かされるような気持ちがする。特に敬服に堪えないのは、先生のいかにも柔軟な、新鮮な感受性である。都会育ちの先生が、よくもこれほど細かに、濃淡の
蓮華草この辺 にもとさがし来て犀川岸 の下田 に降 りつ
げんげん田もとめて行けば幾筋 も引く水ありて流に映 る
おほどかに日のてりかげるげんげん田花をつむにもあらず女児 ら
さきだつは姉か蓮華の田に降 りてか行きかく行く十歳下 三人
という一連の歌などは、ほとんど強い酒のように、わたくしを蓮華草の花の匂いや感触や、ふくふくと生い茂った葉の肌ざわりなどの中へ連れ戻して行った。流れに映るげんげの姿に目を留められたのも驚くべきことであるが、しかし蓮華草の田のなかにいる子供たちの幸福な気持ちを捉えられたのは、一層驚くべきことに思われる。そういう類のことがいくつでも出てくるのである。蓮華草の田がすき返され、塀の外田に蛙が鳴き、米倉の屋根に雀が巣くう、というような情景もそうであるが、やがてげんげん田もとめて行けば
おほどかに日のてりかげるげんげん田花をつむにもあらず
さきだつは姉か蓮華の田に
弟と笹の葉とりに山に行き粽 つくりし土産 物ばなし
ここへ来る一里あまりの田のへりを近路 といへばまた帰り行く
などと歌われている。農村の生活が実にしみじみと心に浮かんでくる。田植えの歌のなかにも、ここへ来る一里あまりの田のへりを
苗代ののこりくづして苗束 をつくり急げり日の暮れぬとに
などというのがある。田植えのころの活気立った農村の気持ちのみならず、稲の苗、田の水や泥、などの感触をまでまざまざと思い起こさせる。こういう仕方でやがて夏になり、野萩の咲くころとなり、秋に入り、雪を迎え、新年になる。遅い山国の春にも紅梅が咲き、雪が解け、やがて猫やなぎがほほけ、つくしがのび、再び蓮華草の田がすきかえされ、初雷の聞こえるころになる。その間の数多い歌が、実に豊かに山村の風物を描き出している。しかもその歌がそれぞれに玉のように美しい。実に得難い歌集である。
老年の先生を信州の山の中に追いやった戦禍のことを思うと、まことに心ふさがる思いがするが、しかしそれが機縁になってこの歌集が生まれたことを思えば、悪いことばかりではなかったという気もする。
田舎住なま薪焚 きてむせべども躑躅 山吹花咲くさかり
(昭和二十三年十一月)