髪あかきダフウト

フィオナ・マクラウド Fiona Macleod

松村みね子訳




 グラッドロンがブリタニイを領していたアルモリカ人の王であった時、即ちアルヴォルの王であった時、彼の名にまさる名はなかった。ジュートやアングル族の住む北の海辺の砂丘から肌黒いバスクの漁師どもが網を投げてすなどりする南の方まで、グラッドロンの名は人を沈黙させた。アルヴォルは広い土地であった、そこの人たちはフランク人を狼と呼んでいた、そして狼のようにフランク人は狩り立てられていた。デュアルやユエルゴアの森にも又はコルナヴァイユの花崗岩のしんにも今日まで残っている狂暴な叫びごえの A'hr bleiz! A'hr bleiz! はその頃始終きこえていた、しかし狼よりも、やつれ果てたフランクの落人たちの方が、その声を余計に恐れていた。
 アルヴォルの王グラッドロンが剣の渇きを静め得たのはもう中年に達した後であった、そのころ彼はアルモリカ人と同種族であるキムリイ人の地に行ってその人たちを助けてサクソンの遊牧民を討ち、血の潮が流れひくまで戦った。つぎに彼は遠い北国に行った、北のゲエルどももブリトンの矢鳴りの音をおそるるようになり、山国のピクト族はみつぎを納めた。そこから、彼はようやく帰って来た。故国に帰った時、もたらした分捕品のすべての中でことに大切な二つの宝があった、黒い軍馬とましろい皮膚の女と。女は藍いろの湖のような眼を持って、野の秦皮樹とねりこの赤銅いろの実のように赤い髪をながく房々と垂らして、クリームのように肌しろい女であった。馬の名はモルヴァアクといい、女の名はマルグヴェンといった。人々が「御しがたい者」と呼んだのはモルヴァアクのことであった、彼等はやがて女をマルグヴェンとは呼ばずに「女王」というようになった、グラッドロンは彼女をアルヴォルの女王としたので、水泡のようにしろい美しさのためには「白き女王」とも呼ばれ、赤い髪の毛が解きほどかれた時、白い岩の絶壁をながれ落ちる血しおの滝とも見えたから「赤き女王」とも呼ばれた。
 モルヴァアクが何処から来たか、マルグヴェンが何処から来たか、たれも知るものはなかった。人の口から口に伝えられたことは、その大きな真黒な荒馬は地上の産ではなく、あやしい恐しい海獣の種だということであった。馬は、ある暴風の日に、北の方からやって来た。グラッドロンとアルヴォルの人たちがたむろしていた港の大風の叫びの中に、その風のさけびよりもっと荒いもっと狂わしい叫びが聞えた。グラッドロンはたった一人で出て行ったが、朝あけに彼は大きな黒い馬に乗って来るのをみんなが見た、馬は海風のさけびのような叫び声でいななき、濡れた砂を蹄のふむ音は浪のうち砕ける音に似ていた。風に吹きなびくグラッドロンの髪は荒いひき潮に浮きなびく黄ろい海草のようであった、彼の笑い声は巨浪のくるい飛ぶようで、眼は流星のように狂わしかった。
 ブリトンの王グラッドロンがマルグヴェンと一緒にいるのを人が初めて見たのは遠い北方のアルバンの地であった。彼女は剣の獲物ではなかった。火のそばで人々が噂したことでは、はじめ彼女はゲエルの強大な王侯の妻であったともいい、又ピクト人の王の妻であったともいい、その頃、アルバンの島々と西の国々をも自分たちの手に入れようとしていた勇敢なる金髪の民ロックリン人の一人であるともいうことだった。誰もみんな彼女の魔力を恐れていた。グラッドロンは彼女が側にいない時そんな話をきいて笑っていたが、この世に女というものが生れて以来、男の心の上にこれほどの魔力を持つ女はまだ一人もなかったに違いないと言っていた。
 アルバンの国で二人が一緒にすごした数ヶ月のあいだにも、マルグヴェンは捨てて来た男のため又捨てて来た国のために一度でも溜息をついたことはなかった、またグラッドロンにその女を渡せと言って挑戦する騎馬の使者も来なかった。マルグヴェンはアルモリカ語を習いおぼえてからブリトンの酋長等にものいうこともあったが、彼女が求める男はただ一人であった、グラッドロンが彼女を愛した如く彼女もグラッドロンを愛していた。うまれた国のことを訊く人があると、彼女はその人が困るほどじいっと顔を見つめていて、やがて答えた「わたしは風と海の子です」相手の人々はそう言われると猶こまって、もう何も訊く人はなくなった。
 マルグヴェンの子が生れたのは、二人がキムリイの海岸から見わたされる海上に在った時のことだった。
 子のうまれる前三日というもの不思議な声が海の深みからきこえた。ながくあとを引く波のくぼみには昔の死者の姿も見えた。月光にとぶ波の飛沫は白衣と変って、その中から輝く眼が、静かにいかめしく、あるいは恐怖の予知に満されて、おそれふるえている水夫たちを眺めていた。
 三日目になぎが来た。日が沈むと夕やみが蜘蛛の巣のように海から織り出されて、やがて紫いろの暗黒は空の星から星へとかかった。月が昇ると共に急に海の黒いくちびるに泡がただよい走った。波の旅する足もとには「声」がうめいて星にまで震えて行った。人々は眼前にうごく深淵をながめて、そこに、無限の額の上に大洋を載せて泳ぐ「泳ぎ手」の迷える手があるように思った、又あるものは、銀河の砂の中をあおぎ見て、そこに彗星のようなすさまじい眉と、その眉の下に、世に忘られ果てた月のような青じろい天体の眼と長い髪とを見た、古い世界から吹いて来る風に吹きあおられて空の深淵にむなしく垂れ下げられたその髪は遥かに遠い「静寂王」の星もない奥の国にまで吹かれているのであった。
 不思議な「息」が吹き起った時、水夫たちの膝は震える水の中のあしのように震えた。年とったゲエルのドルイド僧は「海神だ! 海神だ!」と叫んだ。
 王グラッドロンは牝狼の毛皮に横たわって脣をかんでいたが、もし誰か口をきく人があったら、その男の心臓をつかみ出して海魔にくれてやると言った。
 その時マルグヴェンが産気づいた。彼女の体がひらけて女の子が生れて来た、その子のはじめての泣き声にかの「息」のような声がたちまち止んだ。無限のうめきが聞えなくなると、やがて泣き声と笑い声が海底からきこえて来た、いくつかの流星が羽のはばたきの如く飛び去った、揺らぐ帆柱の向うには不意にみどりと青の火焔が見えた、それは影の翼を持った魔のかざす羽飾りであった、その火焔の向うには小さい星どもの舞踏が見えた。そういう前兆にグラッドロンは心をなやました。しかしマルグヴェンは微笑して言った「この少女はダフウト――不思議――と名づけて下さい、ほんとうにこの子の美は不思議となるでしょう。この子は水泡のように白い小さな人間の子ですが、その血の中に海の血がながれています、この子の眼は地におちた二つの星です。この子の声は海の不思議な声となり、この子の眼は海のなかの不思議な光となりましょう。この子はやがては私のための小さい篝火かがりびともなりましょう、この子が愛を以て殺す無数の人たちの為には死の星ともなり、あなたとあなたの家あなたの民あなたの国のための災禍ともなりましょう、この子を、不思議、ダフウトと名づけて下さい、海魔のうつくしい歌の声のダフウト、目しいた愛のダフウト、笑いのダフウト、死のダフウトと」
 こうしてアルヴォルのグラッドロンとデンマルク人マルグヴェンとの中の海うまれの子がダフウトと名づけられた。
 アルモリカ人が故郷に帰った時、グラッドロンの代理に摂政となっていた弟が父王の代りに出迎えた、彼等の父なるコルナヴァイユの老王はまだ生きていたが、ロアールの岸の大戦にゴオルの矢を斜に顔にうけて盲目になっていた。その後七年目になってグラッドロンは再び遠征した。彼は三年の月日をキムリイ人の中に、アルバンのゲエル人の中に、島々のピクト人の中に、アイルランドのゲエル人の中に、又エノナのゲエル人の中に過した、その後、いまアングレセイと呼ばれている国まで来た時、ふたたびマルグヴェンに会いたいと思う深い恋しさとたよりなさを感じた、まだ一年とは立たぬ前に、グラッドロンの弟アルヅがフランク人との戦いに戦死したのでマルグヴェンはグラッドロンに代ってアルヴォルを治めるために別れて帰ったのであった。
 マルグヴェンの美しさを見ない月日は彼のために悲しみの月日であった。あけぼのに目を醒ます時、その美しさはのぼる日の中から彼の眼に照り返した、海をながめる時、その美しさが波から波にうごいて彼を招いた、雲にかげった山を眺める時、その美しさがその山に夢を見ながら寝ているように見えた、月の昇るころ外を歩くと、その美しさが巧みにも彼を捕えた、樺の樹の小枝はかつていくたびかマルグヴェンの長い捲毛ともつれ合った彼の髪にかかった、たけ高い羊歯しだの葉のすれ合う音は彼女の白衣のすれる音のように、露ふかい草の上に低いところで光っている二つの星は彼女のかがやく眼のようにも見えた。
 この世にマルグヴェンほど美しい女はいないと彼は知っていた、しかし、人々は予言していた、ダフウトはもっと美しくなるだろうと言って――少女の頃から「髪あかきダフウト」と呼ばれていた、その母に似てつやもかさも人目をおどろかす赤く黄ろい髪のために母よりももっともっと人目を驚かすだろうとマルグヴェンは誇りかに微笑した、ダフウトはその母と同じように神族の一人であったから、きっと彼女はいくつもの焔をもやす篝火となり、ある時は目もはるかに計りがたく大きな火をも燃やすだろうと母マルグヴェンは[#「マルグヴェンは」は底本では「マルグヴエンは」]信じていた。
 ある日グラッドロンは起って「ダフウトのために」と言って剣を折った、「アルヴォルのために」と言って槍を折った、「マルグヴェンのために」と言って捕虜の全部を解放した、それから、いくつかの船に宝と兵糧を積ませた。
 彼がフィニステールの黒い岩の海岸を眺めた時、もう決して故郷とマルグヴェンを離れて何処へも行くまいと心に誓った。
 ケンペルを指して行く道すがら、到るところで彼は「赤き女王」の偉大なる噂とその恐しいほどの美の噂を聞いた、また美しいダフウトの噂も、危険なるダフウト、魔術者ダフウトの噂も。それを聞いてグラッドロンはわずか十にしかならない少女がもうすでにその母の通りであることを考えて笑った、絶え間ない海の嘆きの声も耳にきき倦きた時、彼の心には母も子も恋しかった。彼が始めて味った歓びといえばユエルゴアの森を馬で乗り通して山鳩のひそみ声とみどり葉をたたく南風の和らかい眠いそよぎを聞いた時であった。その頃大都とよばれていたケンペルにグラッドロンが着いた時、城のひくい壁から黒い旗が垂れていた。彼はただ一人真先きに城に乗り入って、マルグヴェンが高い寝床に横たわっているのを見た、頭には金冠をつけたままで、ながい髪を金の輪で束ね、白衣の上に着ていた不思議な彫刻ある鎧の胸当の両側から雪のように白い腕を垂らしていた。その側には盲目の老王がただ一人腰かけていた。
 その日からグラッドロンは笑わなかった。それからの五年というもの彼は王者らしくもない真似をしてにがい時と戦ったがその甲斐もなかった。彼はどうしてもマルグヴェンの美しさを忘れることが出来なかった。一年を、彼は戦争に夢中になって見た。二年目は、野獣を狩りして領内の北から南へ東から西へと、森という森を歩いた。三年目は、女達を愛して見た、ひるは彼等を愛し、眠りがたい追懐の夜々は彼等を呪いながら。四年目には酒に酔った。五年目には、彼の悪行が甚しいので民がみな憤った。「むしろ盲目の老王アルヅ・ダアルか、年わかい魔術者ダフウト自身の方が増しだ」ある者は口に出して言った。
 その年ごろグラッドロンはひと目もダフウトを見なかった。彼女がその母にあまりよく似て、その美しさは母に似てそれよりも勝れていたから、王は彼女をアルモリカの荒い海と荒い磯とつづく北の領内の要害ラズモルに送りやった。この年つきグラッドロンのただ一つの歓びといっては、大きな黒馬モルヴァアクに乗って、さかまく海の浪のそばを、何処までも何処までも、何時間も乗り廻すことであった。アルモリカ人が恐れて海獣と呼んでいたその大きな馬に乗って行く時、グラッドロンはふだん聞くことの出来ない声をきくように思った、そして彼がむかし初めてゲエルの山の中で恐れ震えて聞いたマルグヴェンの長い叫び声もいくたびか聞えるように思った。
 五年目の末ごろ彼がラズモルの荒い海辺をモルヴァアクに乗って行った時、ゆくりなくもダフウトにめぐり会った。彼女のすぐれた美しさをグラッドロンの眼が見つけた時に、彼は荒馬の手綱をひかえた。その胸が動悸した、きっとマルグヴェンが不死のデンマルク人のわかさを以って再び現われたのだと思った。やがて彼は、モルヴァアクが彼自身とマルグヴェンよりほかの人をば決して寄せつけなかったということを思い出して、馬から飛び下りて死んだ者のように地に横わった――すると、モルヴァアクは暴風の風のように激しく高くいなないて、たてがみをふりみだしながら、ダフウトの方に駈けて行った。馬が彼女の前まで来た時、少女は笑って両手を出した、黒馬は少女のクリームのように白い胸に赤い鼻をつけて嘶いた、馬の大きな眼は岩をも沈めかくす黒い浪のようであった、馬が低く頭をさげ、ダフウトの赤い髪が白い岩から流れおちる血のようにその白い肩に流れた時、それはちょうど陽の照る白い絶壁の下に夜の海の恐怖と不思議が潜んでいるのかとも見えた。
 その時ダフウトはモルヴァアクに飛び乗って父王の方にのり返した。彼女が進んだ時、大洋のうめきが砂を越えてひびいて来た。風もないぎの海から波が立って、雷のわたって行く時のような空虚の音を立てた。筋もなく流れる水の平野のおもてには、乱れた鬣を持った大きな獣のような巨濤きょとうが立って、長い低いはっきりとしたうなりをしてあちこちに動き廻っていた。岩や岩窟の中へは無数の小波さざなみがすがる手を投げ入れ、又進んでは水のしたたる岩をつかみ、恐しく強い塩の力を持った、すばしこくべこく長い水の指を遠い陸の方へ振っていた。
 グラッドロンはダフウトを見、いななく馬のモルヴァアクを見、不意に目ざめて波の立つ海を見た。
「風、すべては風だ! 風のようにむなしく、風のように空虚だ」グラッドロンが叫んだ。
 彼は胸が躍るばかりに美しいと思ったその女はほかならぬ自分の娘ダフウトであると知った、彼女のおそろしいまでに世に類いない美しさにも、御しがたいモルヴァアクのなじむ姿にも、彼女を愛する海の兆にも、まことにこれこそ神代ながらのダナの不死の子孫マルグヴェンの女であると悟った。
 グラッドロンがダフウトを抱いて黒馬に乗ってケンペルの市に帰った時、見たものはみんな地にひざまずいた。ダフウトの美はすさまじく、この海のむすめである魔術者の不思議な噂はすでに世間にも聞えていたから。ダフウトの皮膚の白さは新しい乳にも鳩の胸にも似ていた。髪はながく濃くすばらしく、日光の照る木の実のように、火のうつる銅のように、赤かった。眼は海のように変りやすく、海のように、はかりがたい欲望に満ちて、恐れと美しさの溢れるかがやきを持っていた。
 ダフウトはその愛するあら海から遠くはなれて暮すことができなかった、彼女はグラッドロンに頼んで、波に洗われている岬に四角な城壁の見えるラズモルのほとりに新しい大きな市を造らせた。
 こうしてアルヴォルの王グラッドロンの手でイスの市が造られた、謎であり歓びであり不思議であり恐れである「髪あかきダフウト」のために。
(Proem)





底本:「かなしき女王 ケルト幻想作品集」ちくま文庫、筑摩書房
   2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「かなしき女王 フィオナ・マクラオド短編集」第一書房
   1925(大正14)年発行
入力:門田裕志
校正:匿名
2012年5月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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