鮎の食い方

北大路魯山人




 いろいろな事情で、ふつうの家庭では、鮎を美味く食うように料理はできない。鮎はまず三、四寸ものを塩焼きにして食うのが本手であろうが、生きた鮎や新鮮なものを手に入れるということが、家庭ではできにくい。地方では、ところによりこれのできる家庭もあろうが、東京では絶対にできないといってよい。東京の状況がそうさせるのである。仮に生きた鮎が手に入るとしても、素人しろうとがこれを上手にくしに刺して焼くということはできるものではない。
 鮎といえば、一般に水を切ればすぐ死んでしまうという印象を与えている。だから、非常にひよわなさかなのように思われているが、その実、鮎は俎上そじょうにのせて頭をはねても、ぽんぽんおどり上がるほど元気溌剌はつらつたる魚だ。そればかりか、生きているうちはぬらぬらしているから、これをつかんでくしに刺すということだけでも、素人しろうとには容易に、手際てぎわよくいかない。まして、これを体裁よく焼くのは、なまやさしいことではない。
 もちろん、ふつうの家庭で用いているような、やわらかい炭ではうまく焼けない。尾鰭おびれがして、真黒まっくろにしてしまうのなどは、せっかくの美味おいしさを台なしにしてしまうものだ。いわば絶世ぜっせいの美人を見るに忍びない醜婦しゅうふにしてしまうことで、あまりに味気ない。
 こういうわけで、家庭であゆが焼けないということは、少しも恥ずかしいことではない。見るからに美味うまそうに、しかも、つややかに、鮎の姿体したいを完全に焼き上げることは、鮎を味わおうとする者が、見た目で感激し、美味さのほどを想像する第一印象の楽しみであるから、かなり重要な仕事と考えねばならぬ。だから、一流料理屋にたよるほかはない。
 いったい、なんによらず、味の感覚と形の美とは切っても切れない関係にあるもので、鮎においては、ことさらに形態美を大事にすることが大切だ。
 鮎は容姿端麗ようしたんれいなさかなだ。それでも産地によって、多少の美醜びしゅうがないでもない。
 鮎は容姿が美しく、光り輝いているものほど、味においても上等である。それだけに、焼き方の手際のよしあしは、鮎食いにとって決定的な要素をもっている。
 美味く食うには、勢い産地に行き、一流どころで食う以外に手はない。一番理想的なのは、釣ったものを、その場で焼いて食うことだろう。
 鮎は塩焼にして食うのが一般的になっているが、上等の鮎を洗いづくりにして食うことも非常なご馳走ちそうだ。
 私がまだ子どもで、京都にいた頃のことであった。ある日、魚屋が鮎の頭と骨ばかりをたくさん持ってきた。鮎の身を取った残りのもの、つまり鮎のあらだ。小魚のあらなんていうのはおかしいが、なんといっても鮎であるから、それを焼いてだしにするとか、または焼き豆腐やなにかといっしょに煮て食うと美味いにはちがいない。
 それにしても、こんなにたくさんあるとはいったいどういうわけだろうと、子ども心にふしぎに思って聞いてみた。すると、魚屋のいうのには、京都の三井みついさんの注文で、鮎の洗いをつくったこれはあらだという。
 私はずいぶんぜいたくなことをする人もいるものだなあと驚き、かつ感心した。それ以来、鮎を洗いにつくって食う法もあるということを覚えた。しかし、その後ずっと貧乏書生であった私には、そんなぜいたくは許されず、食う機会がなかった。それでも、今からもう二十五年も昔になるが、ついに私もこの洗いを思う存分賞味する機会を得た。加賀の山中やまなか温泉に逗留とうりゅうしていた時のことである。
 山中温泉の町はずれに、蟋蟀こおろぎ橋というゆかしい名前の橋があり、その橋のたもとに増喜楼ぞうきろうという料理屋があった。あゆとか、ごりとか、いわなとか、そういった深い幽谷ゆうこくに産する魚類が常に生かしてあって、しかも、それが安かった。ひなびた山の中の温泉には、ろくに食うものがないから、めしを食おうと思えば、どうしてもそこへ行くよりほかはなかった。
 そんなわけで、私はよく増喜楼へ人といっしょに食いに行った。そうした渓魚けいぎょを食っているときに、ふと子どもの頃知った鮎の洗いのことを思い出した。鮎も安かったからではあるが、さっそく鮎の洗いをつくらして食ってみた。驚いた。とても美味うまいのだ。なるほど、三井みついが賞味したわけだと合点がてんした。
 美味いに任せて、その時はずいぶん洗いを食った。そうして人が訪ねて来るたびに、増喜楼へ案内して、洗いをつくらせてはご馳走ちそうした。ところが、習慣とは妙なもので、たいがいの人は、あっさり食わない。頭はどうしたとか、骨を捨てちゃったのかと心配する。当時、京都相場なら二円くらいもする鮎が、一尾三十銭ぐらいで始終食えたのだ。それが洗いにすると、一人前が一円以上につく。鮎をそんなふうにして食っては、なんとなくもったいないような、悪いような気がして、美味いとは知っても、勇気の出にくいものである。
 しかし、ところを得れば、洗いは今でもやる。この鮎の洗いからヒントを得て、私はその後、いわなを洗いにして食うことを思いついた。
 いわなは五、六寸ぐらいの大きさのものを洗いにすると、鮎に劣らぬ美味さを持っている。
 鮎はそのほか、岐阜の雑炊ぞうすいとか、加賀のくず葉巻はまきとか、竹のつつに入れて焼いて食うものもあるが、どれも本格の塩焼きのできない場合の方法であって、いわば原始的な食い方であり、いずれも優れた食い方ではあるが、必ずしも一番よい方法ではない。それをわざわざ東京で真似まねてよろこんでいるものもあるが、そういう人は、鮎をトリックで食う、いわゆる芝居食いに満足するやからではなかろうか。
 やはり、鮎は、ふつうの塩焼きにして、うっかり食うと火傷やけどするような熱いやつを、ガブッとやるのが香ばしくて最上である。





底本:「魯山人の食卓」グルメ文庫、角川春樹事務所
   2004(平成16)年10月18日第1刷発行
   2008(平成20)年4月18日第5刷発行
底本の親本:「魯山人著作集」五月書房
   1993(平成5)年発行
初出:「星岡」
   1932(昭和7)年
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月4日作成
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