味覚の美と芸術の美

北大路魯山人




 すべての物は天が造る。天日の下新しきものなしとはその意に外ならぬ。人はただ自然をいかに取り入れるか、天の成せるものを、人の世にいかにして活かすか、ただそれだけだ。しかも、それがなかなか容易な業ではない。多くの人は自然を取り入れたつもりで、これを破壊し、天成の美を活かしたつもりで、これを殺している。たまたま不世出の天才と言われる人が、わずかに自然界を直視し、天成の美を掴み得るに過ぎないのだ。
 だから、われわれはまずなによりも自然を見る眼を養わなければならぬ。これなくしては、よい芸術は出来ぬ。これなくしては、よい書画も出来ぬ。絵画しかり、その他、一切の美、然らざるなしと言える。

 仮りに私の食道楽から言っても、ここに一本の大根があったとする。もし、その大根が今畑から抜いて来たという新鮮なものであるならば、これをおろしにして食おうと、煮て食おうと、美味いに違いない。だが、もし、この大根が古いものであったならば、それはいかなる名料理人が心を砕いて料理するとしても、大根の美味を完全に味わわせることは出来ない。天の成せる大根の美味は、新鮮な大根以外にこれを求めることが出来ないからである。
 また、ここに一枝の花があったとする。その花が、新しく今咲き出たばかりのものであるならば、それはそこに何気なく投げ出してあっても美しい。だが、もし、これがすでに萎れかかっているような花であるならば、いかなる名手が、いかなる名器に活けようと、花の美は天成的に味わうことは出来ない。人工人為は所詮天成に代え難いからである。

 以上述べた如く、美の源泉は自然であり、美味の源泉もまた自然にある。こんなことは非常に簡単なことであり、これを証する例を挙げよとなればいくらでもある。だが、この簡単な事柄がなかなか一般人には解らない。そのために無益な努力をして、例えば、料理ひとつにも、つまらない小細工をして、余計な味をつけたり、絵ひとつ描くにも、才に任せて無理に形を整えたり、無闇に絵具を濫用する。
 料理の技術だけなら、絵画の技術だけなら、現在も人はいくらでもある。しかも、私が現代に画人がなく、料理人がないと断言して憚らないのは、実にこの自然界がもつ美を掴み得る人がいないからにほかならぬ。これについては、なお述ぶべき事柄は多いが、ここではすべて省略して次に進むこととしよう。要は、まず自然の美を発見することから学ばねばならぬということである。

 さて、次に問題となるのは、しからば、自然であれば、すべて美であるか、自然のものはすべて美味であるか、という疑問が起こることだ。およそ自然ほど不可思議にして玄妙なるものはない。天の成すや、一定の目的あるが如く、またなきが如くである。天は光を注ぎ、熱を与え、また雨を降らして草木を育成する。そこになんらかの目的があるように思えぬことはない。しかるに、また天は時に雷鳴をはためかして、何百年という長年月はぐくみ育ててきた老樹をも一瞬にして焼き捨ててしまう。樹木を育てるのも自然であれば、これを枯死せしめるのも、また自然である。人に智を与えて生存を可能ならしめたのも自然であり、また、その智によって、戦争の如き破壊を行わしめるのもまた自然なのだ。人はよく自殺は不自然であるというが、私をして言わしむれば、自殺もまた明らかに自然である。しからば、自然はなにを目指し、なにを行わんとするか、けだしわれわれ人智のよく量り得るところではない。
 ただわれわれが成し得ることは、かかる自然の力の存在を悟るということだけである。われわれがこの世で生を享けたのも自然であれば、また死に行くのも自然である。そこには、われわれがどうしようとしても、どうにもならないあるものが厳として存在しているのである。それが自然であり、これを運命と呼ぶことも出来る。少々話が飛躍し過ぎたようだ。そういう大きな根本的な意味での自然については、また別な機会に述べるとして、当面の問題は、自然がつくり出した個々のものの良し悪しということだ。
 さきに、私はまず自然を見る眼を養わねばならぬと言ったが、これは言い換えれば、自然の中にある美を見出すことである。自然は美の源泉であると言ったが、自然そのものにも、美なるあり、美ならざるあり、美味なるもあり、美味ならざるもある。
 ここに美と言い、美味と言うのは、もちろん、われわれ人間の感情から判断する言葉であって、自然そのものにとっては、いずれも同じ価値であるに違いなかろうが、それはそれとして、例えば、同じ大根でもその種類により、また、その生い育った土地の状態、すなわち、風土の如何によって美味なるもあり、美味ならざるもある。そこで、よい料理をしようとすれば、まず大根の持ち味を活かすために、新鮮なる大根を手に入れることが必要であり、第二には、よい種類の大根を選ぶということが料理人の心得として必要である。
 こう考えるとき、すべてよいものは、よい自然から生まれるということが言える。言い換えれば、自然がよければ、そこに生まれるすべてのものがよいと悟ってよい。私はなぜこういうことを言うか。私はこんなことをわざわざ考えたわけではないが、こういう考えを抱くに至った径路から言えば――
 私は美味いものが好きで、昔から手の及ぶかぎり、事情の許すかぎり、美味いものを食って来た。私は美術を愛するところから、これも力の許すかぎり美術の鑑賞を試みて来た。私は書を愛するところから、これも力の許すかぎり、書を見て来た。その他、建築にせよ、庭園にせよ、およそわれわれの生活を美化する一切のものについて、力の及ぶかぎり手を伸ばして来た。しかるに、初めはいろいろ外国のものなどに魅惑されるのであるが、やがて眼が肥えるに従い、次第に日本のものがよいということが分って来る。これは書にせよ、絵にせよ、陶器にせよ、料理にせよ、建築、音楽、花にもせよ、庭にもせよ、すべてについて言えるのである。例えば書である。書は誰でも初心の頃は、一応中国人の書に惹きつけられるようである。私も初めは、中国人の書をよいと思った。しかるに、少しく書が分って来ると、自然と日本人の書に帰って来る。
 中国人の書は、形態はよいが内容において欠けている。言わば、役者の殿様が衣冠束帯をつけたようなもので、なるほど、見てくれは殿様らしく立派だが、所詮、役者の殿様であって、本物ではない。すなわち、内容がないのである。風采容貌だけだ。これは陶器についても言える。中国で出来た古染付などというものは、時代の反映となって、中国のものとしては、なかなか秀れたものである。けれども、現在このよい陶器を生かし得るものは、中国人ではなく、日本人である。また、日本に陶器が移ってからは、単なる陶工の造りものであったに過ぎないものが、立派な芸術と化して創作されるに至っているのを見ても分る。
 翻って、料理を見るならば、その差は一層明らかに看取される。まず日本は、第一に料理の材料たる魚類でも、野菜でも、肉でも、あらゆるものが、比較にならないほど立ち優っている。料理の技においても、私から見て、中国人に学ぶべきなにものもなしと言ってよい。
 絵でもそうである。印刻においてもそうである。だが、これはひとり中国に対して言えるばかりでなく、広く欧米諸国に対しても同様のことが言えるのである。
 私は洋画というものが、形や柄の表面美に囚われていて、ものの真髄を掴む点においては、到底日本の線描名画に敵し得ないものであると思うが、仮りに百歩を譲って、洋画には洋画でなければならない点がありとするも、日本人は、立派に描き得るが、外国人にして日本画をよくするものあるを聞かない。ただに絵ばかりではない。建築でもそうである。音楽でもそうである。日本人は西洋人の建物を立派に自分のものとして造り、洋画も相当なものであるが、外国人にして日本音楽を解し、これを日本人の洋楽における如く、一人前によく成し、よく歌うものあるを聞かない。まして延寿太夫の如き清元を、あるいは義太夫を、あるいは謡曲を解し歌い、且つ語る者に至っては、恐らくただのひとりもないであろう。彼らには安来節ひとつ満足に歌うことが出来ないのである。
 ここにおいて、私はなぜこう日本人のみが独り世界に冠絶した素質を有するかを考えざるを得なくなった。これは、なにもお国自慢でもなんでもない。あらゆる方面における作品と行為を見れば見るほど、私のみでなく、誰だってその感を深くすることであろう。
 なるほど、科学の進歩や工業の発達においては彼らが秀れていた。しかし、それは日本が鎖国という特別の事情が存在していたからであって、一度彼らと文通するや、たちまちにして世界の知識を学びとり、科学であれ、産業であれ、すべての文化において彼らを凌駕して一歩も引けを取らない。それはなぜであるか。
 私は地球上日本が、優れた自然天恵を享けて成り立っているからだと思う。そして、このような地理的に秀れた環境のもとに、日本人が育てられ、民族としての優秀な素質を培われたにほかならぬと考えざるを得ないのである。日本の自然が、日本の気候風土が世界に冠絶していることは、今さら私が改めて言うまでもないと思うが、日本人の秀れた素質は、偏えに、この自然の天恵何万年を経た結果に帰すべきであろう。
 山紫水明、あまつさえ四囲に青海をめぐらして、気候の調節的温和なること、地味の肥沃なること、いずれの点より見るも、これが生物によっては優れた自然天恵の日本であることが分る。だから、さかなひとつに見ても優れた魚族であり、樹木一本較べてみても、秀れた良質と言えよう。
 例えば、日本の杉の木をアメリカ杉に較べてみるがいい。草花一茎眺めてみても、日本の草花は西洋のその種の花に比し、優れた美を持っている。このごろカーネーションとか、チューリップとか、その他いろいろ西洋種の花を見るが、そのいずれを見ても、子どもの玩具に似て、単に赤いとか黄色いとかいうだけで、花にも葉にも持ち味が浅く、含蓄というものがない。スイトピーを日本の豌豆えんどうに較べてみるもいい。スイトピーの花の美しさなどというものは、実にうすっぺらな造花美に過ぎない。しかるに、日本の豌豆の如きは、花も奥行きのある上品な美を持ち、葉も深々と色艶に潤いを持ち、その上、豆までが優れた香味を有する。造花職人が、西洋の草花は造り易いが、日本の草花は造りにくい、と言っていたということを人から聞いたが、たしかにさもあろう。言わば西洋の草花は、最初から人の手でも容易にできるような、玩具のような花であり、日本の花は深い美を蔵し、含蓄ある深味をもっているので、これを模造することは容易でないわけだ。
 さらに食料品においても全く同じことが繰り返して言える。例えば、すっぽんは朝鮮にも中国にも産するが、いずれも日本のすっぽんの美味にかなうものはない。ところが面白いことに、朝鮮のすっぽんでも、中国のすっぽんでも、これを日本に持って来て、三年も飼養するときは、質を全く変えて良鼈りょうべつと化しおわる。これは、自然がいかにその産物に影響するかのよい例であるが、ともかく、そういう自然の中に、太古の昔から長い間培われて来た日本人は、おのずから、すべての点において優れた素質を持つに至っているのであろう。
 以上のように、花ひとつ見ても含蓄がある。そういう優れたものの中に美を求めて来た日本人の芸術がおのずから含蓄ある、内容の優れた芸術となることは、むしろ当然と言わねばならぬ。
 日本は元来、そういう恵まれた国柄であり、従って、内容的に美において根本からすぐれている。アメリカの杉がいかに太く高かろうとも、また、その木目が揃っていて、ちょっと見にいかばかり美しかろうとも、日本の杉の有するよさには較ぶべくもない。すべてがそれであり、その源泉は日本に恵まれた自然の影響ということになる。
 これ私が前々から感じている日本讃美の由って来るところであるが、近来流行の日本自慢はよくこの自覚に立っているかどうか。今流行の日本主義はともかくとして、幸いにその気運が昂揚されている折柄でもあるから、この機を逸せず日本の真髄をしかと掴み、真に日本の特徴、美点についての自覚を高め得れば、まことに結構である。切にそれを望んで止まぬ。
(昭和十年)





底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
   1980(昭和55)年4月10日初版発行
   1995(平成7)年6月18日改版発行
   2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年5月14日作成
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