料理する心

北大路魯山人




 料理と食器の話などいう、こんな平凡な事柄は、今さら私がおしゃべりしませんでも、みなさんは毎日のことでありますから、うにこれに関心をお持ちになり、研究もお出来になっておりますことと思いますが、この平凡事も、興味を持って向かってみますと、際限なく面白いものでありまして、私どもは毎日のようにこれを楽しみ、これをよろこびまして、時には踊り上らんばかりに、食事を摂ることも珍しいことではないのです。その代り、また、下手なことになりますと、せっかくの食事を前にしながら、ちょっとした気儘で箸もとらないというようなことも、間々あるのです。まあ一利一害というのでありましょう。
 さて、今日ここでお話ししますことは、料理と食器というのですから、愚かながら、私の四、五十年の経験から得ましたところの所感、すなわち、料理というものは、大体こんなものではないのかと思います点を、かいつまんで簡単に概念的に申し上げ、ご参考に供したいと思っております。要するに、私の今日のお話は、料理一々の拵え方を言いますのではなく、総大観を申したいのであります。いつ、誰が、どんな料理をするにしましても、こんなことだけは心得ておいた方が、心得なしでいるよりは、はるかに増しではないかという事柄であります。
 そこで、まあ私の考えを申しますと、料理にも、料理の要訣と申しますか、奥義と申しますか、そう言ってもよいと思うものがあるのであります。ところで、それとて特別なものがあるのではありません。ほかのなにごととも共通するものであります。およそ物を成功させようという要諦は、いずれにしましても、道はひとつであると言えるようです。
 その第一は人間の真心です。これなども口で言っている分にはなんでもないことのようでありますが、実際には、なにを措いても、この真心というものがなくてはなりません。料理の上にも一番大切な条件となります。
 次は聡明の必要であります。まあこれも言いますれば、変な言い方かも知れませんが、賢くなくてはいけないということであります。頭が悪いとあっては、どうしようもありません。
 その次は熱意と努力でありましょう。よい料理が生まれ出ますまでには、人の知らない苦心と努力がつきものとなっております。しかも、行動が敏活で、時間に間に合う働きがなくては、せっかくの努力も残念なことに了らないともかぎりません。苦心のご馳走は、ようやく出来たが、お客さんはもう帰られたというようではいけません。まあこれらは、料理常識としまして、ぜひとも身につけていたいものであります。しかし、これも好きでするのですと、頭も働き、からだもおのずと動き、よい知恵も出まして、自然と料理に必要な条件も具わるものであります。
 それでぜいたく言いますと、元々好きでするのでなくては、料理というもの所詮うまくいかないものであるとも言えます。
 さて、以上述べました条件が身に具わりまして、いよいよ料理をつくる段取りになりました際において、是が非でも心得ておかなければならぬことは、材料の吟味であります。美味しい料理も、立派な料理も、要は材料が根本でありますから、料理のよしあしは材料次第というモットーを堅持しまして、さかなを択ぶにも、蔬菜類を手に入れますにも、充分な関心を持ちたいものです。いずれも新鮮でなくては、いけないことは申すまでもありませんし、しかもその上に質のよい、言わば性の善いものでなくてはいけないのであります。この善良な材料さえ手に入れますれば、まあどうせんでも、すでに美味い料理は出来ていると言いましても、過言ではありません。
 材料の悪いのは、名料理人の手でいかに塩梅しましても、よい料理とはならないのです。労して功なしという結果を見るばかりですから、かつおぶしにしましても、昆布にしましても、あるいは醤油のごとき、味醂の場合でさえ、およそ材料に用いるものは、良い悪いの選択を注意深くすることです。
 さて、その次に考えられますことは、ものの加減ということであります。この加減ひとつが技術上の命の綱でありまして、料理人の腕なのです。
 煮加減、焼き加減、塩加減、水加減、火加減と、加減の大事が次々とかぎりなくあります。料理を殺すも生かすも、技術としまして、実に、この加減ひとつにあるのであります。しかし、これをうまくするためには、一朝一夕によくするところではありませんから、数多く実地について経験するより法はないのであります。たびたびの経験こそ、加減の先生であると言ってよいかと思います。
 次は美の問題であります。美しさのことであります。美的価値のない料理は、よい料理とは申されないのであります。ひとり料理にはかぎりませんが、眼に見て美しいに越したことはないのでありますから、この点、充分関心を持つべきであると思います。食指が動くというのは、色や組み立ての美しさ、よい香気でありますから、料理はまず第一に眼鼻にサービスしてかかる必要がありましょう。
 その次はお料理の盛り付け方であります。出来た料理を容器にうまく盛り付けることが大事であります。これは生花をなさる心と同じであり、絵を描く心とも通じるのであります。出来上がったお料理で図案するのだと解釈されて宜しいのであります。色の組み合わせ、形の取り組み、いずれも美術的の仕事でありまして、美的趣味を持っておられる方ならば、打ってつけの興味ある仕事であります。果物を鉢に盛る静物画と同工異曲であります。
 次にお料理は即刻即用が大切であります。つまり出来たてを直ぐに食べるのがよいのであります。熱くてよいものは熱く出し、冷たくてよいものは冷たく出すという敏活な行動が必要であります。香りの高いうち、色の失せないうちと、種々の心づかいが、結局、お料理上手となるようであります。お座敷てんぷらや、立ち食いずしが美味しいということは、とりも直さず、出来たては美味いという証拠であります。グリル食堂が美味いもの食いからよろこばれますのも、この理由にほかなりません。
 それに今ひとつの大事な秘訣は、料理する者の心得として、腹を空らしておいてつくることです。料理人が腹を満たしておりますと、味覚が鈍重になりまして、デリケートな味付けが出来難いということがあるのであります。でありますから、料理する者は、なるべく空腹であることが、よい結果をもたらすものであるということを知っておくべきだと思います。
 さて、お料理の概念は、こんなことにしておきまして、取り急いで食器のことを申して見たいと思います。よく世間で言いますことに、裸で道中なるものか……というのがありますが、全くここで申しますお料理も、やはり、裸では道中が出来ないのであります。火事場ででもありますなら知らぬこと、なべからじかに食べることも出来ませんし、まないたの上から直接口に入れるわけにも参りませんから、この場合、ぜひとも食器というお料理のきもの、あるいは家とでもいうものが要るのであります。ここではまあ、食器をお料理のきものと言っておきましょう。馬子にも衣裳と言いますが、お料理も衣裳次第で、美味くも不味くもなります。お料理の器量をよくするには、よい適当なきものが選ばれなくてはなりません。お料理のために食器を考えるということは、ある意味での経済でありますし、賢明な策でありましょう。従来とてもこの点は注意されてはおりますが、人間のきものから比較しますと、ずいぶん等閑に付されております。
 衣裳が婦人の生命でありますならば、食器はお料理の生命であると言えましょう。食器の上等、下等も、分相応に考えなければなりませんが、大きさ、深さの形、いろどり等を料理に合わして調和を計ることを考える必要があります。つまり、食器は食物の容れものであると同時に、趣味のきものであるからであります。中身さえ美味ければ、容器なんか何でもよい、容器は食えるもんじゃないからと言うのは、きものは暑さ寒ささえしのげばよいという実用面だけを強調する議論と同じでありまして、畢竟、無理解から起こる暴論でありましょう。それにも拘らず、お料理の本にも食器の講座がありませんのは、片手落ちであるように考えられます。お料理の講演、あるいは講習にも、ほとんど食器が料理と五分五分に講ぜられないのは、趣味の偏食でありまして、完全料理とは申し難いのではないかと思います。分相応、適材適所を常識として、料理と食器を工夫しますことは、充分研究してよいことであると、私は信ずる者であります。
 話は違いますが、絵画のような独立した芸術でありましても、表装と表具という絵画のきものが要ります。その裂地きれじもかぎりなく吟味されております。いわんやお料理のように独り歩きの出来ないものにおいてをやであります。幸いなことには、三百余年前より日本の茶道が充分研究を進めていることでもありますから、これを時代に合わして工夫しますことは、楽しみであり、栄養上の効果であり、あるいは経済であり、よりよくする能率であると考えるのであります。簡単ではありましたが、私のお話は、この概念だけを以て失礼することに致します。
(昭和十四年)





底本:「魯山人味道」中公文庫、中央公論社
   1980(昭和55)年4月10日初版発行
   1995(平成7)年6月18日改版発行
   2008(平成20)年5月15日改版14刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月5日作成
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