忘られぬお国言葉

池田亀鑑




 ○「大山だいせんにや、雪が降つたかしらん、お宮の銀杏の葉がフラフラふる頃になあと大山にや雪がおりるけんなア」△「シェンセイは久古言葉をようおぼえちよんなはあますなア」○「ようおぼえちようわい、大山の麓ほどええとかアないけん。ところでお前パーマをかけたなア、嫁さんに貰ひてががいにああちゆうけんなア、えしこやれよ」△「嫁さんにやいきましェん」○「うそつけ、嫁さんに行きたうて行きたうてどげんならんちゆうて顔に書いたる。子供が三人出来たらやつて来いよ。わすも元気でまつちようけんなア」△「嫁さんのこたアこらへてつかアさい」○「はづかすがつちようなア、いんだら手紙ごしないよ」
 鳥取県西部の出雲方言混入、小生三十年ばかり郷里に帰らず、去年中学卒業の某女見習に上京す、このたび帰国するに当りての会話。久古は部落名。
 ○「大山には、雪が降つたらうか、神社の銀杏の葉がヒラヒラ散る頃になると大山には雪が下の方まで降つて来るからね」△「先生は久古の言葉をよく覚えてをられますね」○「よく覚えてゐるとも、大山の麓ほどよい所はないからね。ところで君パーマネントをかけたね、嫁さんに貰ひ手がたくさんあるといふ噂だからね、うまい具合にやれよ」△「私は結婚しません」○「うそをつきなさんな。結婚したくてたまらんと顔に書いてあるぢやないか。子供が三人出来たら東京にやつて来なさい。わたしも元気で待つてゐるからね」△「ひやかすことは許して下さい」○「恥かしがつてるね。国に帰つたら手紙をくれるんだぞ」
 わたくしは鳥取県の一寒村三方山に囲まれた所で大きくなつた。尋常五年の時に大山の麓に帰つて来た。それからまた中等教育を受けるために鳥取市に出向いたので、比較的お国なまりといふものから解放される生ひ立ちをもつた。しかし、郷に入つては郷にしたがへといふので、三十年後の今日郷土人と話をする時には無論、国語教育をやつてゐるくせに方言がなつかしくてたまらない。田舎の友達がいいおぢいちやんになつたり、いいお婆ちやんになつたりして、東京に来て、方言そのままに話をするのは実に気持がいいものだ。電車の中でもバスの中でも、かうした善意の人達、は遠慮会釈もなくしやべりちらす、降りる時には、「ヘエ皆さんさやうなら」と挨拶をして降りる。実意に満ちた人達だ。
 前掲お国言葉の実例の中に出て来る「つかアさい」について、古典学究の理窟を一こと述べさせていただかう。「つかはす」といふのは遣すであつて、その言葉自身に敬意がこもつてゐる。強ひていふなら遣したまふといふ意味だ。「くだす」も、「おおす」も同様だ。源氏物語などには、天皇の行為についても「遣す」「下す」「仰す」で処理してゐる。鎌倉時代になつてこれ等の言葉の下に「給ふ」といふ敬語がつくやうになる。元来「遣す」と「下す」とは最高の権威者が下に向つてはたらきかける行為で、「給ふ」などといふ敬語を必要としないものだ。それが社会の秩序の混乱とともに命令系統がいくつも現はれるやうになり、「給ふ」といふ敬語の動詞を必要とするに至つたのだ。面白いことにこの動詞は、命令形として生きのこり、「遣はさい」「下さい」といふ風につかはれる。地方によつては「くらッせエ」「つかンせエ」「つかアさんせ」「ごつさんせ」など転訛する事があるがみな古典語の変形である。「ごせ」といふ言葉の変化の系列はどうも確かでないが、「下さい」と目下の者に要求する意味である。中国地方の山間部にはたくさんの古語が残つてゐる。今のうちに蒐集整理しておかないと亡びてしまふ。近頃ラヂオが発達して標準語の勢力を広めてゐるので、なかなかこの仕事は大変な仕事になるだらう。国語政策の方面からいふと方言は撲滅した方がいいらしいが、長い歳月にわたつて素朴な土の香りと暖かい人間の真心によつて育てられた方言は、さう簡単に捨て去られるものではない。
 わたくしが少年時代に、或る村のKさんが入営した、そのKさんが二ヶ年の服務を終へて村の村長さん、助役さんその外多くの人達に迎へられて帰郷した。わたくしも小学校の生徒の身で迎へに行つた。Kさんは出て行つた時と同じで星一つの二等兵で帰つて来た。K二等兵殿は、意気揚々たるものであつた。折から、田圃のほとりの道を牛が通つた。牛もK二等兵殿を歓迎するやうに、モーとないた。するとKさんはエヘンとせき払ひしながら、「村長殿、あのモーとなくムシはなんちゆふムシでありますか」とやつた。みんな一度にどつと笑つた。牛もまたそれに和してモーとないた。村長さんは頭をかいて、「いやどうも……」と苦笑した。二ヶ年で牛とムシを間違へるこの二等兵殿は二年かかつても、やはり星一つの仲間だつたんだな、と幼な心にも大いに感じた。古里の言葉は忘れないでゐたいものである。





底本:「大きな活字で読みやすい本 新編・日本随筆紀行 心にふるさとがある7 歌の調べ 方言の響き」作品社
   1998(平成10)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「日本随筆紀行第一四巻 福井|鳥取|島根 山影につどふ神々」作品社
   1989(平成元)年3月31日第1刷発行
入力:岩下恵介
校正:noriko saito
2017年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード