合本三太郎の日記の後に

阿部次郎




 私は昨日合本三太郎の日記の初校を了へた。もうこれからは永久に手を觸れることを罷めるつもりで、今囘は初校も再校も三校も凡て自分で眼を通すことにしたのである。さうして二度も三度も舊稿を讀みかへしながらどんな心持を經驗したか、私は今これを語ることをやめようと思ふ。此處に集めたものは既に一旦公けにしたものであれば、今更自ら恥ぢ自ら躊躇してももう及ばない。現在の自分がよいと思ふものと惡いと思ふものとをよりわけて、我慢が出來るものだけを殘すことにするにしても、そのよきものと惡きものとが分つべからざるほど絡み合つてゐる以上は、これも亦如何ともすることが出來ない。私は唯思想上藝術上人格上未熟を極めたる此等の文章も、猶當時の混亂せる内生から直接に發芽せる生氣の故に、私の如く内密な、恥かしい、とり紊したる思ひの多い人達に、幾分の慰藉と力とを與へ得ることを、せめてもの希望とするばかりである。
 改めて云ふまでもなく、三太郎の日記は内生の記録であつて哲學の書ではない。若しこの書に幾分の取柄があるとすれば、それは物の感じ方、考へ方、並びにその感じ方と考へ方の發展の經路にあるのであつて、その結論にあるのではない。單に結論のみに就いて云へば、其處には不備や缺陷が多いことは云ふまでもなく、又相互の間に矛盾するところさへ少くないであらう。殊に本書の中にある思想をその儘に、今日の私の意見と解釋されることは私の最も不本意とするところである。私の哲學は今も猶成立の過程の最中にあつて、未だ定まれる形をとるに至らない。この問題に就いては他日又世間の批評を請ふ機會があることを期待する。併しこの三太郎の日記に於いては、特に内生の記録としてのみ評價せられむことを、親切なる讀者に希望して置きたい。
 併し三太郎の日記の中には、少くともこれを書ける當時に、或種類の問題の解釋を求めて、その結果到達せる處を記録せる文章も亦少くない。從つてそれが餘りに現在の意見と背馳するか、あまりに一面觀に過ぐるか、若しくはあまりに大膽なる斷定を下してゐる場合には、現在の立脚地から見て、如何にもその儘に看過し難き拘泥を感ぜずにはゐられない。故に私はせめて二三の點に就いて、一言の註釋を附記して置きたいと思ふ。それは註釋のない部分は凡て現在の意見と合致するといふ意味ではない、唯註釋のある部分が到底そのまゝに通過し難きほど、現在の私にシヨツクを與へると云ふ意味なのである。

三太郎の日記 第一


人生と抽象

(三〇―三三) 私は今このやうな廣い意味に於いて「抽象」といふ言葉を使ふことを躊躇する。世界の改造、並びに經驗の主觀的抑揚をも悉く「抽象」の概念の中に包括するのは、人の思索を迷路に陷らしむる虞がある。併し狹義の「抽象」にも世界の改造や經驗の主觀的抑揚と共通の動機あることを認めて、その意義を是認する點に於いては、私は今日と雖も猶この章の主旨に同感する。

影の人

 「自然的科學的の立場がぐるりと其姿を代へて神祕的形而上學的の立場に變る刹那の經驗を持たない者は氣の毒である。甚だ稀有ながら此刹那の餘光を身に浴びて、魂の躍りを直接に胸に覺えることが出來る自分は幸福であつた」(六九)。自分は三太郎にかう云はしめる資格があるだらうか。現在の自分はこの言葉を書いたことを恥かしく思ふものである。

内面的道徳

(七六―七八) 現在の自分は、「何をなすべきか」の問題にも、この文章を書いた當時以上の意義を認めてゐる。併し内面的道徳それ自身の重要なることを感ずる點に於いても、私の思想は當時以上に深くなつてゐると信じてゐる。故にこの文章の一面的な點を補へば、その趣旨は現在の自分の意見としてその儘に通用させても構はない。

個性、藝術、自然

 「ロダンが彫刻と共に素描に長じ、カンヂンスキーが繪畫を描くと共に詩を作り、ワーグナーが音樂と共に劇詩と評論とを能くする等、近代的天才には精神的事業の諸方面に渉る者次第に多きを加へて來たとは云ふものゝ云々」(八五)。自分はこの一節を取消したく思ふ。實際十九世紀の中葉等にくらべれば、現今は稍※(二の字点、1-2-22)綜合的精神の――從つて綜合的天才の時代が始まりかけてゐるといへるかも知れない。併しミケランジエロやレオナルドに比べれば、ロダンでさへその傍により付けないであらう。況してカンヂンスキーの如き名を此處に並べたことを私は非常に恥かしいことに思ふ。この文章を書いた時私は確かに流行に動かされてゐたに違ひない。私はその後彼の版畫といふものを見、彼の油畫の寫眞も可なり見て、特に珍重するに足るものでないことを感ずるやうになつた。さうして彼の Ueber das Ceistige in der Kunst といふ論文集を少し讀んでから、この人は一種の野次馬に過ぎないのではないかとさへ疑ふやうになつた。最後にワーグナーは十九世紀中葉の人であつて、彼は彼の時代にとつての除外例と云はなければならないであらう。一體に現在の私は「精神的事業の諸方面に渉る者」が多くなつて來たことを以つて「近代的天才」の特徴となすには、まだ實例が足りないと思つてゐる者である。

三太郎の日記 第二


聖フランシスとステンダール

(一五一―一八〇) 私は今でもドン・ホアンを此處に用ゐたやうな意味の Classname に用ゐることを、それ自身に於いては不都合だと思つてゐない。しかしドン・ホアンそのものゝ心理に就いてはもつと深い解釋を下す餘地があり又必要があるに違ひないと思ふ。さうして我等はステンダール自身がドン・ホアンの味方ではなくてエルテルの味方を以つて自任してゐたことを記憶して置かなければならない(De l'amour LIX)。併しこの事實は彼が余の意味に於けるドン・ホアンであることの反證にはならないと思ふ。彼が L'amour ※(アキュートアクセント付きA小文字) la Don Juan, L'amour ※(アキュートアクセント付きA小文字) la Werther 等と名づけた命名の仕方が、既に彼の態度のドン・ホアン流であることを證明するものである。
序でながら Stendhal はベールがその崇拜するヰンケルマンの生地に因んで名づけた雅號である。これを佛蘭西風にスタンダールと發音するも、半ば獨逸風にステンダールと發音するも、共に大して差支はあるまいと思ふが、自分は大學の佛蘭西文學の教授H氏(佛蘭西人)の發音に從つてステンダールと云ひ馴れたのでこの方に從つたのである。Don Juan は New Standard Dictionary に Don hwan とあるのに從つた。

碎かれざる心

 「固よりこれはこの時だけの氣分に過ぎないことを知つてゐた」(二三一)。私は今になつてこの言葉の當りすぎてゐたことを恥かしく思ふ。私は今この類の憧憬を語ることさへ身分不相應であるやうな氣がしてゐる。

三太郎の日記 第三


去年の日記から

(二四八―二五八) これは私の實際の日記からの抄録である。(No. 21 を除く)。今ならばこの類の、斷片的な中にも斷片的なものを公にする氣にはならなかつたであらう。併し流石に捨て難い部分もあつて此處に編入した。大正三年の始めに、私は弟や妹と共に谷中の方に居り、妻は子供と共に柏木の方に別に家を持つてゐた。五月、一家は柏木の方に一緒になつて、私は一人鵠沼の方へ移轉した。これだけの事を註記して置かなければ讀者には大體の事情さへ通じないであらう。

五、六、七

 當時近親に大病人があつて、妻は一年許り毎日病院の方へ行つてゐたために、私は小さい子を預つて女中と共に留守をしてゐなければならなかつた。私は丁度頭の中に醗酵してゐる仕事を持ちながら、何も出來ずいら/\して一年間を空過しなければならなかつた。此等の文章は當時の亂れた、斷片的な生活の記念として、全篇の中でも恐らくは最も落付かないものである。さうして讀者はその後に書いたものが急に理屈つぽくなつたことを感じられるであらう。事實上三太郎の日記はあの混亂せる時期を以つて死んでゐるのである。三太郎の日記の水脈は今後暫くは唯地下をのみ流れてゐなければならない。さうしてもつと纒つた形に於いて、何時か泉となつて噴出する時期が來ることを待つてゐなければならない。それはもつと蓄積して恐ろしいものとなる必要があるのである。

附録


西川の日記

 西川の日記の思想に就いては私は直接に責任を負ふ必要を認めない。故に此等の文章に關する註釋は無用である。私は唯、今になつては、「自分は讀者に向つてそれだけでは理解し得ないやうな文章を提供するほど無責任な人間ではないつもりである」(三八五)と云へる山口生の豪語を信じないことと、「自分は自分の死ぬまでの間に、彼を主人公とした幾篇かの小説を書くことを堅く決心した」(同上)といふその決心が「堅い」ことに就いて疑を懷いてゐることを云つて置きたい。後の點に就いて云へば、私は、今にも降り出しさうにした夕立の雲の、いつの間にかあらぬ方に逸れてしまつてゐることを恐れるものである。
(大正七年五月九日記)





底本:「合本三太郎の日記」角川書店
   1950(昭和25)年3月15日初版発行
   1966(昭和41)年10月30日50刷
初出:「合本三太郎の日記」岩波書店
   1918(大正7)年6月
入力:Nana ohbe
校正:富田倫生
2012年3月5日作成
2012年4月4日修正
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