念仏の家

小寺菊子





 私の家の祖先は、越中の国水橋といふ小さな漁村の生れであつた。
有磯ありその海」といふのである。枕の草紙に、「渡りはしかすがの渡、こりずまの渡、みづはしの渡」とある。その水橋である。文治二年正月末、源義経主従十七人が山伏の姿となつて奥州へ落去の途次、京都堀川を忍び出て、越前に入り、安宅あだかの関をすぎ、倶利伽羅峠をこえて、越中に入り、水橋川を渡つた――といふ史話がある。鎌倉時代、富山城より二十四年おくれて、小さな城が築かれ、天正六年に姉崎和泉守が、水橋城で討死うちじにしてから廃城した――と伝へられてゐる。
 明治十一年――明治天皇が北国御巡幸ほつこくごじゆんかうの際、九月三十日午前十一時五十分、鹵簿ろぼ粛々として東水橋町に御着輦ごちやくれんになり、慮瀬といふ旧家に御座所を設けたが、その時の行列は八百三十五人、乗馬は百十五頭で、天地開闢以来曾てない壮観を極めた――と郷土小史に書きのこしてある。その水橋である。短歌俳句の愛好家が多く、芭蕉の像を祀つて運座の会が開かれたりすることは、富山市と変りがなく、私の父もその水橋の旧家に生れた一粒種の青年であつた。土地柄売薬を業としてゐたが、明治十一年ごろ富山市に移り、前田藩の士族で、祖父は町奉行、父は和歌俳諧の先生をして御殿に使へた浅野家の娘(私の母)を嫁に貰つた。悠長な士族の家に育つて、遊芸三昧に日を暮らした私の母は、商家の家風とは何事も合はず、姑に苛られて、年中出るの入るの騒ぎをしてゐたのである。
 汽車が水橋近くに進むと、私の心が動揺した。二十年前にちよつと帰省したときも、酒屋をしてゐる「尾島屋」といふ本家に一泊したが、その後お互ひに年賀状さへも絶えてゐるので、家族の生死すら今は不明なのである。なんとしても感傷的にならざるをえない。蜃気楼で有名な魚津、それから滑川なめりがは、そして水橋、水橋とよんだ。昨日は黒部峡谷の秋色を探るために宇奈月うなづき温泉で一泊したが、宴会や何かでひどく盛つてゐた、けれど今日の列車は殆ど空つぽで、私は一人悄然と下車した。午後四時ごろで、空がどんよりとくもつてゐた。落莫らくばくとした小さな駅だから、赤帽なんかもゐない。荷物をどうしたものかと、そこに立つてゐる駅長に訴へると、それでもバスの車掌をよこしてくれた。長い年月、都会生活に慣れた私の眼には、心の底から寒々するほどの佗しい村であつた。

 土地の人たち四五人と一しよに小さなガタバスに乗り、酒屋の前でおりた。昔と同じに七八間もずつと紅殻格子の入つた北国風の軒下に、開け放された店の入口がある。そこの土間へトランクを一つ宛運び、酒倉につゞく内廊下のだゝつ広い茶の間へ顔を出した。
「お客さんが来られました。」
 勝手の方からひよいと出て来た婆やらしいのが、すぐに奥へ知らせた。
「まあ、よう来られましたね、昨日からあんた、どないにか待つとりましたぞいね、待つて待つて…………」
 懐かしさうに私の手を取つたのは、年老としよつた主婦のお文さんであつた。この人が生きてゐてくれなかつたら、折角せつかく訪ねて来ても、私には取附端がないのである。お文さんは老いた眼にもう涙を一杯ためて、
「長生きしてをりますと、かうやつて又逢はれるもんでござんすね、ほんとうによう来られましたこと、なんといふ珍らしいことでござんせうか…………」
 としみ/″\私を見るのだつた。私の家が零落したころは碌すつぽ顧りみてもくれなかつたこの家の主人はじめ一族の冷淡さを、今彼女は代つて詫びてゐるかのやうに思へた。私の胸に過去の悲しい記憶のかず/\がよみがへり、眼がしらに涙がにじんだ。十七歳の秋、断然生家を出る決心したのは、このお文さんの弟の義雄といふ青年との縁談が、私に無断で祖母だちが定めかけた為めだつた。そのことも思ひ出されて、お文さんとの邂逅に複雑な哀感が湧くのであつた。


 奥の座敷に落ついてから、いろ/\と懐古的な話のつきないうちに、あの人も死んだ、この人も死んだ、と二十年のあひだに幾人も死んでゐる話が、私と何等交渉のなかつた人達であつても佗しく思はれたが、土産に持つて来た海苔の缶をそこへ列べながら、
「義雄さんは今どちらにお住居すまゐですか? たしか大分前から富山にゐられるときゝましたが……」
ときくと、
「それがあんた、七年前に流感で死にましてね、可哀さうなことをしました……」
 と、お文さんは袖口で涙をふき/\語つた。私に嫌はれて三年の後、気の進まない結婚をしたときいてゐたが、七年も前に死んでゐようとは思はなかつた。少女時代、私が読みものが好きだからと云つて、田舎には滅多にない雑誌や書物を、どつかゝら探し出して来ては持つて来てくれたりして、実直一方の堅い青年だつたが、どうも私は嫌ひであつた。義雄と結婚して、一生田舎で安全な生活をしようなどゝいふ心は毛頭なく、東京へ出て勉強したい願ひで、十七歳の少女は一杯だつたのである。
「まあ、亡くなられましたか、そんなに早くね、随分お丈夫さうな方でしたのに………」
 お文さんの涙につりこまれて眼を伏せると、ひそかな哀感が私の胸にしみた。たとへ、東京へ出ないとしても、私にはただ規丁面きちやうめんでこち/\にかたまつた義雄のやうな青年に、なんの魅力をも感じられなかつたのだ。私はむしろ、幼少の時から許嫁であつたといふ、このの主人の次兄、当時の医学生であつた政二の方をよつぽど好きだつた。だが、彼は加賀の医学専門学校へ入つてから底なしの放蕩者になり、私の父にもさん/″\迷惑をかけたので、親類一同愛想をつかしてしまひ、私の縁組は解消したのである。
 お文さんは私が金ピカの袋に入れて持つて来た母の歯骨を仏壇に飾つて拝んだ。聖武天皇時代既に越中文化の中心として仏教が開けてから、この国の人々の楽しみは、ひたすら他力信心に縋るより他ないのだつた。その盲目的信仰によつて生れたものは、かうなるのも前世の約束といふ宿命的「諦め主義」であつた。
 私は最近に撮つた母の写真と、若い時分の父の写真とを出して、お文さんに見せた。お文さんも過去の人々の写真を出して来た。皆それ/″\に見覚えのある人達が、一人々々この世から消えて行つたことを思ふと、実に淋しい気持だつた。
「お実家さとへ帰つたと思うて、ゆつくり泊つて下はれませぬ。」
 昔から優しい性質の女で、容色きりやうよしのお文さんは、私のために「ばい、蟹、いかの刺身」などこの国自慢の献立をして私を悦ばせた。ピチ/\とした男児の孫が三人もあるし、家の中がにぎやかだつたが、せがれ――孫の父親――の嫁が去年病死してから、伜は非常に落胆がつかりして、神経衰弱で寝てゐると云つて私に会はせない、それが私にある疑問を抱かせずにおかなかつた。
「又呼吸器ぢやないかな?」
 今の主人の兄もそれだつた、その妹もそれだつた、そして、その兄の娘もさうだつたし、まだ他にもその病気で倒れてゐる筈だつた。家がいたづらに広いばかりで陽が当らない――一つは雪が五尺も六尺も一晩に降るために、防寒を第一の目的として建てられたこの国の家屋は、南のえんでも庇が深くて日当りがわるいから、自然古寺のやうに陰気である。その陰鬱な薄暗い室々に、或は天井に、柱の木目に、額の裏に、先代が、その妹が、その娘が、次々と残して行つたであらう数知れぬ黴菌が、如何にのんきに悠々といつまでもり廻り、家中で一番弱い人間の頭の上へと落ちて来たのではあるまいか? 衛生知識の乏しい上に、仏教思想の影響で、早くも世の無常を観ずる習慣から、肺病といへば、あゝさうか、又か、倉も屋敷も持つてゆかれるぞ、今のうちに用心しよう、とすぐに匙を投げ出して、いくら金があつても徹底的の療治をしてやらぬ習慣になつてゐる、病人こそ実に気の毒であるのだ。私はそれを感じてうそ寒くなつた。十九歳で肋膜から肺になつて死んだ私の兄も、大方こゝの家から始終黴菌を撒らしに来てゐたゝめだらう、と思つておぞましかつた。


 夜になつてから、私は二男に案内されて、医者の家に行つた。
「ほう、大変珍らしいんぢやね」
 幼少のころ私と許嫁いひなづけになつてゐた、昔の道楽医学生の彼は、晩酌後の機嫌のいゝ顔をして、少し背を丸くしながら出て来た。大分もういゝ年な筈だのに、案外若々しい。私は本家の酒屋よりもこのうちの方が、それゆゑにずつと親しまれるので、二十年の月日を一足飛びにとびこえたやうな気安さで、とん/\と二階に上つた。近頃このごろ新築したといふ立派な医院で、まだがぷんとしみた。細君は四十五六の善良さうな人で、たしか二度目だつた。皆で愛想をつかさないで、この医者と結婚させられてゐようものなら、両鬢りやうびんを首人形のやうに張り出した丸髭まるまげなんぞに結つて、私はこの細君とおきかへられてゐたのだらうか――と思ふと、可笑おかしくてならなかつた。
「こんな立派な家に棲んで、お茶をたてたり、香を焚いたり、俳句を作つたり、随分あなたはのんきなお医者様ね。」
 私はそちこち見廻しながら云つた。
「いや、さうでもないさ、これでなか/\忙しいんぢやよ、何しろこの地ぢや医者らしいのが、僕の外にたつた一人しかゐないんぢやからね。ときに、お母さんや妹はどうしとるかね。」
「母は一昨年死んだの、妹は丈夫でぴん/\してゐますよ、九年前主人に別れて、三人の娘を育てゝ独立でやつてますの!」
「ほう、そりや大変ぢやね。それから、あの、……おふささんはどうしたかね。」
「震災後だつたでせうか、とうに死んぢやつてよ。」
「ふむ、さうかね、もう死んでしまつたかね。ふむ!」
 彼は独りで感に堪へてゐる様子だつた。私の唇がそのとき或記憶の連想から、自然に徒らつぽくほぐれて来た。
「もういくつぢやつたかな、たしか僕より三つほど若かつたと思ふが………」
「そんなもんでせうか……医学校時代あの人とあんた少しあやしかつたんぢやない? ちよつとそんな噂があつたやうに思ふわね、はつはつはつはつ。」
 無遠慮に云はれて、彼は青年のやうに眼元を紅くした。お房さんといふのは、私を初めて東京へつれて来てくれた私の従姉いとこである。十五の時家老の二男が婿に来て、二十の年にもう未亡人になり、髪を切らされた叔母の長女で、我儘一杯に育つた従姉である。彼女がまだ田舎で女子師範に通つてゐたころ、同じ師範の生徒で、近在の寺の息子の英さんといふ男と出来、ある夜英さんが寄宿舎へ帰る時間がおくれ、学校の塀をまたいでゐるところを門衛に見つけられ、卒業間際になつて退校処分にあつた。それからしばらく従姉は英さんと同棲してゐたが、彼女は自分が卒業すると、ぢきに又新しい恋愛におちいり、英さんを置き去りにして東京へ出てしまつた。そのあひだに金沢の医学専門学校に入つてゐたこの医者とも、ちよつと関係したものらしいのだ。
「お房さんも最後はあんまり幸福ぢやありませんでしたよ、社会党の旦那さんを持つて大分苦労して十年も経つてから、又若い愛人を作つて一緒になつたりして、結局はその人とも別れて独りになつてね。変化の多い生活でしたよ。」
「ふゝむ、さうかね、容色きりやうはよし学問は出来るし、中々才女ぢやつたがね。ふゝむ。」
 この男は幼少のころ許嫁いひなづけであつた私になんの未練も興味も持たないで、あのお房さんのことを今だに忘れないでゐるのか、と思ふとちよつと憎らしかつたが、それは不思議でない。彼と彼女との関係がほんの軽い遊戯であつたにしろ、その時代としては相当モダンな二人が、傍の思惑なんかちつとも念頭にかけないで、徹底的に自分たちの恋愛本能を満喫したに違ひないのだから。
 医者は煙管きせるにタバコをつめながら始終ニコ/\して、そんな昔語むかしかたりが楽しさうだつた。強い近眼鏡をとうして見える彼の眼は、正午の猫のやうに細くて愛嬌がある。
「何しろ、あんたとの噂はたしかだつたわね、今なら白状してもいゝでせう、私、子供なりにもそんな噂きいてゐたんですもの…………」
「馬鹿ぢやね、そんなことないよ、ありや兄貴の方さ。」
 いよ/\眼を細めて嬉しさに笑つて見せる。
「へい、お兄さんもだつたの、あきれたわね、あの従姉、一生恋愛生活に憧れてゐて、結局ひとつも最後まではつかめなかつたのよ、一体いくつ恋愛したか知れないわ。私なんかをやかましく監督しい/\、自分が恋愛ばかりしてゐたんですもの、でもね、子供はなし、末は淋しかつたのよ。男なんて女が年老つてきたなくなると、もう構つちやくれないんだから、あんたなんかも随分女にや罪作らせた方でせう!」
「若いときやお互ひさ、君だつて東京へ行つてからどんなことがあつたか分らんからね。今の旦那さんとのことも評判ぢやつたぜ。」
 私たちは明けつ放しで賑やかに笑つた。
「本家の長男は、どうなすつたんですの? 又例のぢやない! 子供が三人もあるのに……」
 私は話をかへた。
「いや、神経衰弱なんぢやよ。」
「さう云つてるまに例のになつてゐやしないか知ら? 私そんな風に直感したんだけど……一体この土地の人南無阿弥陀仏にばかり凝つてゐて、あの病気を少し早目に諦めすぎるんでせう、なんとか精一杯の努力でもつと治療したら、なほるもんでもなほさずにしまふんぢやないかと私思ふわ。東京でも今仏教復興と云つて騒いでるけど、科学の力が進歩するほど、お念仏の効能が薄くなりやしない? 伯父さんのあんたがお医者なのに、こんな差出口いちや悪いけど。」
 医者はちよつと、ドキリとしたらしく、
「そんなことないよ、呼吸器はなんともないんぢや、只少し気が弱くてね、去年家内が死んでから、あんなになつたんで…………」
「あんなに日当りのわるい部屋に寝かしとかないで、どつかへ養生に出したらどう? 大切の息子ぢやないの、お金はうんとあるんだしね、お念仏主義はいゝ加減にした方がいゝわね」
 医者は軽くうなづくだけだつた。今だにやつぱり「人間の生命」よりも、先祖代々から伝はつてゐる財産の方が大切なのだらうか? だが、私はこの医者と久しぶりな思ひで対談してゐることは悪い気持でなかつた。


 その夜遅くまで本家の座敷で、私はお文さんと話し込んだが、お文さんは長男の病気について私に一言も語らなかつた。私に隠す必要はなからうと思つても、肺病ばかりはどこへ行つても人は隠すものだつた。私は富山の寺にある墓の話をはじめた。
「どうもあんまり長い間ほうつてあるので、心に懸つて仕様がないもんですからね。私考へたんですよ、水橋にあればこちらでちよい/\おまゐりもして下さるんだしするから、この際それを一つ御相談したいと思ひましてね。」
「いゝところへ気がつかれましたね、水橋においてあれば、私どもはどないにでもお守りをしますけれどね、富山にありますとね、どうしてもわざ/\行くことが出来ませんさかい……たまには分家のお墓まゐりもせにやならん/\云ひながら、ほんとに申訳のないことでござんす。」
「私、明日お寺へ行つてその話をしようと思ひますの、どうぞ御主人ともよく相談しといて下さいまし、お盆の月にはたまに読経料を少々送つたりしましたが[#「しましたが」は底本では「しましたか」]、とかくおこたりがちになりましてね、あのお寺さん、今どんな風ですか!」
「今はあんた、立派なお寺さんになられましてね、何年か前に住職が死なれて、今はそのお稚子ちごはんの時代で、まだ学校へ行つとられますぢや?」
「ほう、すると、私の知つてゐるお稚子はんと云つた方が、住職になつて亡くなられた訳ですか知ら?」
「いえ/\、あんたの知つとられるお稚子はんが住職なつてとうに死なれて、今のはそのお稚子はんの、又そのお稚子はんですぢや。」
 お文さんは二度までも語尾にこの国独特の力瘤ちからこぶを入れた。
「お稚子はんの又そのお稚子はん、すると、あの昔美しかつた、評判の奥さんの孫に当るんですか?」
「さう/\。」
 二人は笑ひ出してしまつた。二十年も顔を出さなければその位の変遷はある筈だつた。
「地面はぽつちりでようござんすから、どうか手頃なところを探しといて下さいましね。そしてこつちへ移してしまへば私もう安心ですから……」
「それがようござんすね、もと/\此地こつちかたでござんすさかいね、どないにか仏さんたちも悦ばれませう。」
「あんなに一生寺のためにばかり尽くしてゐたお祖母さんでしたけど、死んでしまへばお寺だつてそれつきりのもんですからね。」
 仏教にこつて夜も日もなかつた私の祖母は、年がら年中お寺ごとでせわしく暮した女で、私の少女時代は毎晩仏壇の前によび出され、お経ばかりよまされた記憶が、身も寒くなるほど、私の肝に銘じてゐるのである。
「代が変れば、それも仕方がありませんね、けれど、あのやかましや(有名)の美しい後家さんね、あの方まだ丈夫でをられますよ。」
「へい、さうですかね、もう随分おばあさんでせうね、一体この国の人、若いもんの方がどんどんさきに死ぬやうな気がしますね、やつぱりもつと日光をとり入れなくちやいけませんね。」
 うつかり云つてから、奥に寝てゐる長男のことが思はれたが、全く日光の入らぬ家に医者が入るのである。然かも頑迷な彼等は、その医者の注意さへも、仏教の因果説などに重きをおいて肯かないのである。
 仏壇にはいつまでも燈明がちよろ/\とゆらめいて、燃えのこつた抹香のかほりが広い家ぢうに漂つてゐる。仏を拝め、仏を拝め、と教へられた幼時が、ぞつとするほど思ひ出される。お文さんは話半ばにでもなんでも、とき/″\念仏をとなへた。溜息ためいきくやうな、あの淋しさうな念仏こそ、なんとわれ/\の血気に充ちた青春の覇気を挫き、因循なものにしたことか? 私たちの幼時をおどや[#ルビの「おどや」はママ]かし、早くも厭世観念を吹き込んだのは、全くあの無常迅速おくれさき立つ世の習ひと、物悲しげに人間の生活を掻き口説いた、愚昧な年老りたちのお念仏の声ではなかつたか?


 朝になつてから、私は酒倉を一わたり見物しながら、この念仏の家を今日は出発しようと思つた。百年二百年、三百年とつゞく、このお念仏の家には、年ごとに何程かの富が殖え、それを守るために、皆は節約に節約を重ね、真黒まつくろになつて働いてゐるのである。一樽二十一石入りの大桶が、倉の中に高々と列んでをり、酒臭くて歩けない。雪の降る時分から漬け込みにかゝるので、今はかうぢを造る準備中であつた。
 大穴のやうなむろの中に、すつぽり頭を包んで眼だけ出した酒男だちが、むろの周囲三尺ほどの層を「もみがら」で埋めてゐる。仄かなカンテラの灯に映る男らの手足が、黒ん坊の影絵のやうに黙々として動いてゐるのである。せつぽくて口が利けないのらしい。二男はかうやつて酒が出来るまでの順序を、私に語つてきかせた。
「とにかく結構なことですわね、代々かうやつて沢山のお酒を造つては売り出して、身代がますます殖えるばかしなんだから、ほんとに好いですわ。」
「然し、僕だちに云はせると、こんな小さい村に永住して、一生酒の匂ひを嗅いで暮すなんてことは、どう考へても面白い生活だとは思へないんです。今のところ、兄貴が病気なんで、どうしても僕が働かなくちやならないんですが、兄貴が丈夫になつたら、僕も一つ東京へ出て、何か自分の仕事がしてみたいと思つてゐるんです…………」
「でもね、考へようですよ、地方に落ついてゐて、しつかりと土台の定まつた生活をしてゐるといふことは、実に必要なことですわ。失業者のあふれてゐる都会に憧れを持つなんてことは、もはや地方青年の理想として許されないんですもの、あなたなんかこそ腰を据ゑて、村の疲弊を救ふために、一生懸命努力なさることですね、それが一番急務なんでせう!」
「まあ、さう思つて出来るだけのことは、やつてみてゐますが……」
 商業学校出のこの二男はなか/\健康さうで頼もしい、こんな好い二男が控へてゐるので、病身の長男が、一層諦められてゐるのではなからうか? と私に逢はせない長男の青い顔が、気味わるくまぼろしに映つた。やがてはその長男も死んで行くのだらう、そして、いよ/\この家にお念仏の声が高まるのだらう!
 有磯ありその海にしと/\と秋雨が降り、陰鬱な空気が低い屋根々々を圧してゐた。私はみんなにとめられるのを断り、仏壇から母の歯骨をおろして、夕方再び汽車に乗り、三里さきの我生れ故郷富山に向つた。
 一台の自動車に八人も乗つて来て、私を見送つた彼等の一行を、もう一度この世で逢へるかどうかと佗しく思ひながら、私は汽車の窓から顔を出して、いつまでも眺めるのだつた。





底本:「ふるさと文学館 第二〇巻 【富山】」ぎょうせい
   1994(平成6)年8月15日初版発行
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2011年4月4日作成
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