日本文化と科学的思想

石原純




 種々の学術の中で科学、特に数学や自然科学は純粋に客観的なものであり、したがって最も国際的なものとして考えられてきたのはほとんど当然と見なされていたにもかかわらず、ひとたびドイツにおいてナチス政治がはじめられるにおよんで、その強烈な国粋主義の実現とともに、ユダヤ思想の排撃が行われ、ついに科学の民族性の主張が叫ばれ、ドイツ数学やドイツ物理学のごときが強調せられるに至ったのは、世界における一つの驚くべき思想的異変といわねばならない。
 ところで国粋主義のしょうどうは日本においても近時いちじるしく盛んであるのは、あたかもドイツに似ているともいわれるであろう。たとえここにはかのごとき政治的強圧は行われていないとはいっても、口に日本精神を称えないものはあたかも非国民であるかのごとくに見なされるばかりである。まことに恐ろしい世の中であるといわねばならない。だが、しかしわれわれはどこまでも冷静にこの日本精神なるものの内容を検討してゆくことを忘れてはならない。そこにはわれわれが今日ぜひとも必要とする科学的思想がどれほど含まれているのであるか。もしこれが十分でないとするならば、それはそもいかなる事情に由来するのであるか。これらに関する根本的な考察は、われわれの日本文化を将来において正しく導くために絶対に必要であって、かような考慮なしに単に国粋主義を固執するのはむしろはなはだ危険な思想的傾向であるとせねばならないであろう。
 私の見るところでは、日本精神といえども、その中には民族に固有な、いわば先天的な要素もあり得るであろうが、しかし同時に歴史的に日本文化が形作られて来た過程における環境によって支配された多くの要素をも含んでいるのである。それ故にすでに環境の異なる有様に到達した上では、われわれはむしろここに適応する精神内容を十分に発達させねばならないのであって、そうでなくては国家や民族の発展も期し得られないのは、これこそ進化学の普遍的原理である。環境のいかんにかかわらず、従来の精神思想を単にそのままに固守することを原理とするごとき国粋主義は、それの偏狭性と独断性とによって、やがてそれ自身を衰滅せしめるであろうことは、恐らく科学的に実証されるのである。すなわち国粋主義はそれの精神内容が現実の環境にどこまで適応するか否かをつまびらかに検討した上で、はじめてその価値を判断し得るのであって、これを欠いて単にそれに走ることは、あたかも断崖にむかって盲目的に突進すると同様の危険性をさえ包蔵すると考えられる。
 私は従来の日本文化が科学的思想においてきわめて貧困であったことをいいたかったのである。日本のみでなく支那やインドを含む東洋において何故に自然科学が興らなかったかということについては周到な検討を要すると思う。これをもって単に東洋精神のなかに科学的思想が欠けているということに帰するだけでは何の価値もない。それは確かな事実であるにはちがいないが、この事実を結果せしめねばならなかったところの過去の歴史的環境がどんなものであったかを、われわれは分析考究しなくてはいけない。その上ではじめて民族的本質の姿が真に闡明せんめいせられるのであって、だからこそ私は一定の環境のもとにのみあらわれた過去の精神内容をただちにわれわれに固有なものと思惟するのを誤っているとするので、これについても真に科学的な心理考察を要すると考えるのである。
 すでに一般に知られているとおりに、日本文化の特質は、いつも具象的な直観的な事物考察においてあらわれ、しかもそれが他に比類を見ないほどな緻密細微の域に到達しているのである。同一の意の言語の表現様式がきわめて多種類にわたるというわが国語の特異性や、日本文学および他の芸術における情趣的感覚の一種の風格やいわゆる諸芸道の独自的な発達のごときは、ことごとくこれに属するものである。ところがこれに反して抽象的な論理的な思考に至ってはその見るべきものがきわめてまれであるということは、実に驚くばかりである。だが、しかしこの事によってただちにわが日本民族にはかような抽象的論理的思考が先天的に欠如けつじょしていると速断してはいけない。むしろ多年の歴史的環境がわれわれをしてかくあらしめたと考えることができるからである。
 私はしかしここに注目すべき一つの事実をとらえることができるように思う。日本人が具象的な直観的な事物考察のみを行っていたということは、与えられた自然的環境のなかに満足をもとめていたのを意味するのである。たといその国土が各自の生活に対して恵まれたものであったとしても、それ以上多くを求めることにあえて進まなかったというのは、確かにそれだけ楽天的もしくは諦念ていねん的であったゆえではないであろうか。西欧人がむしろ陰惨深刻な性情をもっているのにくらべて、日本人はかえって安泰明朗である。支那において仏教が著しく厭世的否定的であるのにくらべてさえ、日本に伝来しては確かにその傾向を薄くしている。もしかようなものがわれわれの民族的特質であるとするなら、それはややもすればわれわれを偸安とうあん的に導くものとして大いにいましめねばならないと思われる。
 しかしこれとても穏和な美しい風土に恵まれたとともに、従来日本が国際的孤立の環境に置かれて、外敵を憂えることをほとんど要しなかったような多年の歴史が国民にかような習性を形作るに至らしめたと見ることがおそらく正しいのであって、単に抽象的にこの歴史的地理的環境から引き離して民族性を考えることは人間心理の発展過程を無視したものであろう。
 ともかくこのようにして東洋の学術はほとんど具象的直観的思考の上に成り立っている。自然科学的なものとしては、わずかに暦学や漢方医学や本草ほんぞう学のごときがあるに過ぎないが、それらがまったく直観的経験の上にのみ形作られ、一歩も抽象的に進まなかったのは、むしろ顕著けんちょな観を呈している。多くの実用的な諸技術のまた同様であったのも注目されねばならない。
 ところがこの間にあってひとり数学がはなはだ抽象的に進んだのは一見奇異の感がある。すなわち和算わざんと称せられるものは最初は支那の算法から発展したものであるが、十七世紀以後大いに進み、関孝和せきたかかず(一六四二―一七〇八)に至っては、筆算式代数学の創案をはじめとし、方程式論、行列式論、無限級数、極大極小の問題、整数論、三角術等に関する高等数学をとりあつかい、その著しい発達を実現せしめたことは、実に驚くに足りる。爾後じご明治の初年に至るまで多くの和算家が輩出したが、この一事は日本人においてもまた抽象的論理的能力が決して欠けているものでないことを示す一つの実証として、われわれの大いに意を強うするに足りるものである。だがしかもそれは一般にいえばかえってあまりにも抽象的に過ぎるものであった。つまり、これらの和算家のとりあつかった問題はすべてそれ自身知能的技術を誇示するものでしかなかった。それはあたかも碁、将棋のような知能的遊戯と同等の観さえある。しかも当時の封建的社会にあって、これらの知識はいたずらに秘伝として隔絶せられて、一般的普及の機会を失うとともに、この抽象的思考を他の具体的事物の上に利用することがまったく行われなかった。
 関孝和がニュートン(一六四二―一七二七)と同年に生れていることは、歴史的に大いにわれわれの興味をひくところであるが、ニュートンが万有引力の問題を解くために微積分学を発明したのに反して、関孝和が純粋に抽象的に種々の数学的関係を導き出したという点において、たとい数学上の功績に関して多く差等を論じないとしても、それの一般学術的効果に対する重大な差別が生じたのであった。これについては既述のごとく社会的環境が大いに作用しているのはもちろんであるが、ともかくニュートン以後西洋においてあれほどすばらしく自然科学が発達しきたったという事実と、わが国においてそれの微細な萌芽ほうがさえも見られなかったことを対比して、われわれはいまさらに両者の著しい相違に驚かないわけにはゆかないであろう。
 西洋の自然科学がわが国に輸入されて、今日ではともかく同等な科学的知識を獲得するに至ったのは、幸慶に値いする。だが、私のとくに注意したいことは、知識は一朝にして学び得るものではあっても、これが根本をなすところの科学的思想の涵養かんようはけっしてさほど容易ではないという点である。今日までの日本文化においてこの科学的思想をいていたのは、一に従来の環境によるのであると解したところで、さて環境の変化が民族思想に具体的な影響を持来さしめるまでには、実にその間における多大の努力と奮励とを必要としなければならない。今日もとより国家存立の重大性について十分に眼ざめているものにとって、この異常な決意の遂行の可能性を疑うべきではないとしても、われわれはなおそこに一抹いちまつの憂慮を消し去るわけにはゆかないのである。
 わが国の科学的研究においてなお創意的なるもののはなはだとぼしいのは現に否定せられない事実である。これは一面において科学的思想の涵養かんようの不足をものがたると共に、他面においては上述の多年の偸安とうあん的な習性が災いしているのではないかと考えられる。この事をもって、ドイツ人が由来世界において科学的思想に最も長じているのと対比するならば、いたずらに表面的にのみドイツ国粋主義を模倣することの危険性を明らかにすることができるであろう。同一の国粋主義の名目のもとに、だがドイツ科学に対比するどんな日本科学があり得るのであるか。しかも今日は科学の有無こそ国家の運命を決定する最大の要素であることは疑うべくもない。それ故に日本文化を将来において一層盛んならしめるために私は何をおいても科学的思想の涵養こそ最も重要であるとしないわけにゆかないのである。





底本:「現代日本記録全集9 科学と技術」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月28日初版第1刷発行
底本の親本:「科学と社会文化」岩波書店
   1937(昭和12)年12月20日第1刷発行
入力:sogo
校正:高瀬竜一
2016年6月19日作成
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