大森彦七と名和長年

松本幸四郎




「大森彦七」は師匠団十郎が福地桜痴居士に書卸していたゞき、明治三十年十月の明治座で初演され、大好評を博した狂言で、後日新歌舞伎十八番の中にも加へた当り芸なのですが、居士が脚本を書き上げて内読をした時、団十郎は正成戦死の物語を素で行きたいと希望し、更に狂乱になつて踊りたいから文句を書加へてほしいと注文したところ、居士は即座に承諾して「太平記」の中にある俗謡「この頃都で流行るもの云々」を生ではめこみ、居士の博職と機智に感心させられたといふ話が残つてゐます。そんなわけで「大森彦七」の後半は団十郎の創意によつたもの、のみならず振附師の花柳寿輔がつけた振が気に入らず、殆ど全部御自分で振りをつけてしまつたのですから、此の狂言の成功は師匠の功といへませう。
 その頃活歴物の評判があまりよくなく、悪口ばかり叩かれるので、団十郎は特に座方に注文して、小番附の絵を鳥居風の極く古風な荒事様に描かせることにし、観客はその絵を見て昔風の芝居だらうと思つて来てみると、意外にもそれが活歴もので、しかも非常に面白かつたため、以来活歴の人気が勃興したといはれてゐます。
 私は運が悪く、師匠の大森を殆ど見てゐないのです。その明治座の時には折悪しく出勤してゐなかつたし、裏木戸から度々入つて見せて貰ふのもいやでしたし、といつて表から行く程の力もない頃でしたので、一度師匠の楽屋へ挨拶に行つた時、そつと揚幕へ廻つて終りの方だけ少しのぞき見したことがあるだけなのです。その後大阪梅田の歌舞伎座で此の狂言が出た時には、私も一つ芝居に出てゐならがら北の新地へ毎日踊を教へに行つてゐて時間がなく、とう/\師匠の大森をゆつくり見る機会がなかつたのでした。
 そのくせ師匠ゆづりの当り芸のうち、此の大森は勧進帳に次いで私の上演数の多い狂言なのです。初演は明治三十八年九月に師匠の追善芝居を歌舞伎座で興行した時で、当時猿之助といつてゐた段四郎と一日交替で演じたのですが、段四郎も師匠の大森を一度も見たことのない人だつたのです。で、私は初演の時相手役の千早姫を演つた女寅(後の門之助)に聞きましたが、何分女形のこととて立役の方のことはよく分りません。あつちこつち聞き廻つたりして随分苦労をして纏め上げたのですから、師匠ゆづりといつても師匠のとはかなり違つてゐると思はれます。
 いつでしたか或る雑誌で「団十郎の事を聴く座談会」といふのがあり、その会に出席してゐた或る人から、師匠の大森は正成からとつた宝剣を袋に入れず、普通に差してゐたが、さうしないとはじめから千早姫に出逢ふのを知つて持つて歩いてゐたやうだ、との説が出たことがありました。私は自分の考へで袋に入れて持つて出ますが、あれは御物を忝けなくも正成に賜はつたもので、正成戦死の後は大森の台詞にもある通り、「肌身離さず守護致しまかりある」のです。私は肌身離さずといふのは懐中に入れてゐるやうに響きますので、「寸時も離さず」といつてゐますが、そんなに大切にしてゐる御物のことですから、大森が大和錦の袋に入れて、大切に所持してゐても差支へないと心得てゐるのですが、どんなものでせうか。
 それから或る時、私の大森の舞台を御覧になつたといふ元騎兵将校であつたといふ方から、大森が馬に乗るのに右から乗つたが、馬は左から乗らなければいけないと、御親切な注意のあつたことがありました。しかし御親切は有難いですが、西洋鞍の場合は軍人が軍刀を下げてゐるから左から乗るので、さうしないと軍刀で馬の尻を叩くからなのですが、昔の武士が大小を差してゐる時左から乗るのは危険なので、日本鞍の場合は右から乗らなければいけない、さうすれば大小で馬の尻を突くやうなことがなく、馬の尻を越してしまふのだといふことを、私が馬の稽古をする頃草刈先生から教へられてゐるのです。それで私は和鞍は右、洋鞍は左といふ具合にやつてゐるわけなのです。
 大森では一度、私は大変な失策を演じて、もう少しでボロを出しそこなつたことがありました。それは師匠の追善興行を三升会一派の俳優のみで、歌舞伎座に開演したことがありましたが、その二日目のことです。私が大森を勤めて舞台に出て、狂乱の姿となつて道後左衛門の乗馬を奪ひ、引込みの時あまり車輪になりすぎて汗がひどく、八の字髭の右の方が落ちて来たのです。近頃はスピリツト・ガムがありますから、滅多にそんな失態を演じることはありませんが、その頃は不完全なヒゲラツクといふのをアルコールで溶いて、附髭の裏面に塗つて貼つたのです。大森はべら/\と能くしやべる役なので、附髭が浮き加減になつてゐたところへ、額から流れる汗がしみこんだのだからたまりません。右の髭がとう/\はがれてしまひ、それも落ちてくれゝばまだいゝのに、引毛の毛筋に縺れてブラ/\してゐるのです。これには流石の豪傑大森彦七もすつかりあわてゝしまひました。幸ひ馬上の狂乱態でしたから急いで扇子を開いて右手に持ち、それと袖とで顔をかくして、義太夫にのつて辛くも揚幕へ逃げ込んだので、観客からは判らなかつたでせうけれど、私は滝の如き汗の上に冷汗の上塗りをしてしまつたものでした。師匠も私に輪をかけた汗かきでしたが、その追善興行に私が大汗をかいたのも何かの因縁でせう。
 その後、私は巡業で伊予松山へ行つた時、その近くに大森彦七の墓があると聞き、小さな汽車に乗つて砥部といふ土地へ行つてみたことがありました。そこは昔大森の城のあつた所で、今は砥部焼といふ陶器の出来る所なのです。
 彦七の墓は、山の中腹にある小丘の四坪か五坪位の平地になつてゐる所へ、幅一尺二三寸の台石に高さ四尺ばかりの石塔があるだけで、ふとその墓石をみると、上から三四寸、ちようど笠のところあたりに一つ、それから真ん中に一つ、割れ目がついてゐるのです。火に逢つたのでないことはすぐ分りますから、どうしたのであらうと案内の土地の人に訊ねますと、
「これは中学校の生徒達が正成に詰腹を切らせた逆賊の墓だといつて、二三人集まつては彦七の墓を持上げてズシンと投げ出したりして、いつの間にか割つてしまつたのです。」
 といふ答へでした。
 私は大森彦七を屡※(二の字点、1-2-22)上演するので弁解するわけではありませんが、大森は明智光秀のやうに主殺しなどといふのではなく、その当時は南朝、北朝とも天子を戴いてやつてゐたことですから、一口に逆臣逆賊などとはいひ難いと思ひます。南朝の忠臣に楠正成があれば、北朝の忠臣に大森彦七があつて、共に身分こそ違へ家来の身であつたなら、正成を討つも亦是非ないことではないかと思ふのです。殊にたとへ罪ある人でも地下に眠つてしまつたものを、その墓石を投げて割るなどは中学生にも似合はぬこと、などと案内の方に話しましたのが評判になつて、その興行は大当りをとつたものでした。その後、墓の周囲には鉄柵が張り廻らされ、墓石も金網で四方を囲み、針金で巻いて動かないやうにしましたが、後には香華を手向ける人も多くなつたさうで、誠に嬉しいと思つて居ります。
「名和長年」は幸田露伴先生が私の為にお書き下すつた本です。もつとも私はその前にも江見水蔭先生のお書きになつた「長年劇」を演じてゐますし、その後右田寅彦先生がお書きになつたのも私が演じてゐまして、長年を扱つた脚本は三つとも私が演つてゐるわけです。師匠団十郎の活歴の当り狂言が、北朝の忠臣大森彦七で、私が南朝の忠臣名和長年で当てるといふのも、何かの因縁のやうな気がされなくもありません。
 名和長年卿は実際は「長高」といつた方が当つてゐて、以前は長高といつてゐたのを、畏くも後醍醐帝が長くて高いのは折れたり挫けたりするおそれがあると仰せられ、長く年を重ねて忠勤を励むやうにと、この名を降し賜つたのだと伺つて居り、又長年卿がはじめて立籠られた所が船上山であつたところから、鎧の袖じるしに舟を用ひるやうと、後醍醐帝からお授けになつたものと承つて居ります。
 此の劇の上演の際の守田勘弥の苦心の話は前に記しました。忘れられない思ひ出を残してくれた人です。
 私は伯耆の米子へ興行で行つた時、一日暇を得て長年卿の名和神社へ参詣したことがあります。米子から自動車で二時間足らずで、千波の浜辺へ出ますが、その日は晴天だつたので左手に隠岐の島がはつきり見えました。運転手がこんなにはつきり島の見える日は、一年の中にも珍しいといつて居りました。神社へお詣りしますと、偶然にも恰度その日が長年卿の祥月命日であると神主から聞かされ、私はそこでも何か因縁のやうなものが感じられるのでした。ところが神社は平常の通りで、何一つお祭りのやうな様子が見えませんから、不審に思つて訊ねますと、大祭は桜花の咲き競ふ四月十五日に執行することになつてゐるとのことでした。
 此の神社の所在地は長年卿の屋敷跡とかで、あらゆる物を焼き捨てゝ君の御供をされた由、その昔の焼けた米や何や彼や、それとおぼしいものが今も猶ほ発掘され、懇望すれば参詣者にもそれが下げ渡されるさうです。そこから再び山を降つて東の方へ行きますと、御舟の着いた所といふのへ出ます。それも三尺位の細い路次を二十歩程、ほんの一寸入ると海なのです。そこに「元弘帝お腰掛の石」といふのがありました。ここは舞台にも出して居ります。
 さうして自分の当り狂言の古蹟を尋ねるのも面白いもので、何かしら必ず得るところがあるものです。





底本:「日本の名随筆 別巻10 芝居」作品社
   1991(平成3)年12月25日第1刷発行
底本の親本:「一世一代」右文社
   1948(昭和23)年7月
※著者の「松本幸四郎」は「七世松本幸四郎」です。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2011年5月28日作成
2021年12月8日修正
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