老残

宮地嘉六




 終戦と共に東京の空が急に平穏にかへつたときは誰もがホツとしたであらう。が、それから当分の間、あの遠くでならす朝夕のサイレンの声が空襲警報のやうに聞えて、いやだつた。鳴らすやつもさうした錯覚をねらつて、からかひ半分にやつてゐるやうにさへ思へたものだ――進駐軍が蜿蜒ゑんえん幾十台ものトラックで米大使館の周辺に乗りつけるやトラックから一斉に飛び降りた兵隊らが、いきなり道路わきにじやあじやあと放尿をやらかすその光景にも何かしら一種のもの悲しさを覚えさせられたものである。それからミズーリ艦上の降伏調印――当時の悲しい思ひ出は、今、口ではいへない。が、それからの二三年間の深刻な困苦の連続をかへり見るとよくも耐へて来られた……と誰しも思ふだらう。雑草もひ、カボチャの大きくなるのが待ちきれずにボールほどのやつをもぎとつて喰つたこともある。胃の弱い私でさへ喰ふ物が乏しいとなると、喰ひ意地が殺気だつてまるで底なしの食慾だつた。今思ひ出してもふき出したくなるが、或る日のたそがれどき、人通りの絶えた溜池通ためいけどほりを歩いてゐると、サツマイモが一つころがつてゐる。相当にでつかいやつ。そのまた二三メートルさきの方にも落ちてゐる。多分、自転車のうしろの荷台からこぼれ落ちたものであらう。おかげで夕飯のたしになつたが、それからといふもの、日の暮れがたに町を歩いてゐると馬糞ばふんがサツマに見えて、ついサンダルのさきで軽く小あたりにつて見たくなつたものだ。
 或る日、米国大使館から芝明舟町の方へとだら/\坂を下りて行く途中、丁度もとの大倉商業の前あたりの電柱の陰に、新聞紙にキチンとくるんだ折箱らしいものがおいてあつたので、恥を忍んで開いて見ると、何ときれいな折箱の中に銀めしのお握りが寿司詰すしづめに入つてゐるのだ。さすがに私は一瞬間考へた。人にほどこすために置いたものか、それとも……と私には判断がつかぬまゝに、もとの通りに新聞紙にくるんで、うしろ髪ひかれる思ひで行きすぎたが、戻りに見るともうそれはなかつた。

 今でこそ赤坂の花柳街もほとんど元通りに待合など建ちそろつたが、終戦直後は見渡す限りあの一円は焼野原で、ところ/″\にポツンと焼け残りの土蔵が盤面に将棋の駒をたてに置いたやうに半壊の姿をさらしてゐ、赤錆あかさびたトタン張りの小舎こやが点在して色のさめた洗濯物やボロ蒲団ぶとんなど乾してあるのが哀れに目立つ戦災風景だつた。日が暮れても街燈は完全につかず、夕闇ゆふやみの中をジープがイタチのやうにすばしこくかすめて過ぎる外は人影もまれだつた。たまにお葬式の万燈まんどうのやうに電車がのろのろ通る姿のわびしさ――。
 或る日、表町の外食券食堂へ行く途中(私達家族三人は主食配給が遅配がちなのと、隣組の輪番制当番がうるさかつたので外食にきりかへたのだ)一人の年増としま婦人からかうたづねられた。
「あの少々うかゞひますけど……、このへんにハンコ屋さんがあるさうですが御存じでは……」
「ハンコ屋ですか、もう少しさきの溜池停留所のへんに一軒ありますよ。この次の停留所の三叉路さんさろのところに文光堂とかいふ看板が出てをりますが……」
「ありがたうございました」
 この婦人は全くこのへんの様子を知らないらしかつた。私はそのまま二三間ゆきすぎてから彼女をふりかへつた。
「もし/\、あなた、ハンコをお頼みになるんですか」
「はあ、あの、ミトメをつてもらひたいと思ひまして」
「あゝさうですか」
「このへんのハンコ屋さん、すぐには刻つてくれませんでせうか」
「さあ、手があいてればすぐにでも刻つてくれるでせうけれど、一日や二日は待たされるかも知れません。お急ぎなんですか」
「はあ、あたくし、引揚げの者でございまして……」
「あ、なるほど……」
「実はミトメがありさへすれば今日中に区役所から更生資金を渡して頂けるんでございますの。引揚げのどさくさで、ついハンコをなくしたものですから……」
「それはおこまりですね。できあひのがあれば、すぐお間にあふわけでせうが、まあ行つてごらんなさいませ」
 表町の外食券食堂で昨日あたり一度見たやうな婦人だと思つたが、さう思つたはずみに、私はつい口をすべらせてしまつたのである。実をいふと、私は素人しろうとながら、ちよつとしたミトメ印ぐらゐなら刻れる自信があつたからで。
「あの、ミトメ印ぐらゐなら私が今すぐにでも刻つてあげてもよろしいんですが……上手じやうずではありませんがお間に合ふ程度ならできます」
「まあ、有りがたうございます。あなたさま、あのハンコ屋さんでいらつしやいますの」
「いえ/\僕はハンコ屋ぢやありませんが、ちよつとぐらゐのことはやれるんです」
「まあ、お器用でいらつしやる……」
「かうしませうか。おひるごろまでお待ち下さるとして、あの食堂でお渡ししませう」
「結構でございますわ」
「遅くもひるすぎの一時頃までには必ず……」
 私はさういつてしまつてからいさゝか後悔に似た気持になつた。田中とか、山田とか、土井、内田などといふやうな、さうした簡単なミトメ印ならわけもなく刻れもするが、斎藤とか、後藤とか遠藤などといふやうな字画のごた/\した苗字めうじは細字になるほど難物だと思ひ、ちよつと心は臆したが、もう引つこみがつかなかつた。
「失礼ですがお姓は何とおつしやるんですか」
「私、あの上田と申しますんですけど」
「ぢや上田とればよろしいんですね」
 私は安心した。そんなミトメ印なら三十分もかゝらず刻れると思つたからである。
 引揚者なら定めし、われ/\罹災者りさいしや以上にこまつてゐる人かも知れない。さしづめ、とりつく島は更生資金より外にはあるまい。見たところ四十近い年頃で、色のさめたみなりからおしても大体は察しられた。
 私は彼女と別れて食堂で朝飯をすませてから壕舎がうしやに戻るとすぐに印章刻りにとりかゝつた。印材といつては持ちあはせがなかつたので、こはれたすゞりのはしをのこぎりつきつて、それを小さな小判形(印章屋では二分小判と称する)に石ですりまろめて、恰好かつかうをとゝのへたが、刻るのは造作ざうさなかつた。もと/\かうした私の余技は少年時代のイタヅラ遊びがその下地なのである。
 できてしまふと少しでも早く彼女に手渡して喜ばせたかつたので、約束の時刻よりも早目に私は食堂へ行つたところ、彼女の方でも気がせいてか、私よりもさきに来て待ちうけてゐた。
「お待たせしました。これでよろしいと思ひますが」私はミトメを写した紙片と現物を彼女に見せた。
「まあ、お上手ですこと。ありがたうございました。こんなにお早く刻つて頂いてたすかりました」
 彼女は喜びと感謝にみちた面持で帯の間から紙入をとり出した。
「あの、おいくらさし上げたらよろしいでせうか」
「いえ/\、それはあなたに進呈しませう。僕はハンコ屋ぢやないんです。イタヅラにハンコを刻つて見たい方で……」
「あれ、さうおつしやらずに……どうぞ……ではこれは少しでございますけれど、あの、お煙草たばこでも……」
 彼女は拾円札を三枚私に押しつけるやうにさし出し、別に外食券を二枚ほどそへて、どうしても受けてくれといふのである。
「いや、それには及びません」
と私は一応は辞退したが、強引にそれをしりぞけ得る現在の境遇でもなかつたので、つひに受けることにした。

 その婦人のミトメ印を刻つてやつたことから、私はふつと思ひついて自分で忘れてゐた余技に気がつき「おれは現金稼げんきんかせぎにハンコ屋になつて見ようか知ら……」とさう思つたのである。もと/\少年の頃、近所の印章屋に毎日入りびたつてハンコほりの真似まねをしたのが手ほどきみたいなことになつたわけで、日支事変中、新聞関係で中支南支を飛びあるいたが、到るところの小都会で支那人の篆刻師てんこくしが町角などで露店をはつてコツ/\とハンコを刻つてるのをよく見受けた。終戦直後の東京でも家を焼かれた印章屋が焼跡の路傍で、道ゆく人の註文を受けてコツ/\俯向うつむきながら安印章を刻つてるのを見て、靴みがきと同様、これも敗戦国共通の風景だと知つた。が、まさか、自分もハンコ屋にならうなどとはつひぞ考へはしなかつた私である。
 しかし、多くもない預金は封鎖され、限られた月々の生活費をひき出すにも金融通帳なるものに一々町会長の証明書を添へて出さねばならぬ時世。どんなにきりつめたとて限られた生活費では足りつこはないので、預金の有無はさておいて、手つとり早く現金稼ぎをするより手はないのだつた。これでも文士のはしくれだ、とすましてはゐられない時が迫つてゐた。世才があればこんな混乱期にこそ世の中の随所に空洞くうどうを見つけて縦横に金儲かねまうけの手を打つこともできるわけだが、私のやうなものはハンコ屋にでもなるのが最上の思ひつきだつたのだ。
 そこで先づ私は、平素自分に好意を持つてゐてくれさうな有力な先輩知己に宣伝の手紙を飛ばせ、どんな印章でもすみやかに応じます、住所バン、蔵書バン、何でも御註文に預りたいといふ手紙を出したところ五六個ほど註文申込があつたが、註文もなしに平素の親しみをたよつて蔵書バンを刻つてとゞけた分は、御進物ごしんもつと見られて結局印材が損になつた。本来かうした余技的作品は社交の具として御進物にすべきであらうが――と私は考へたので、これでは先輩知己の好意にすがつてなまなか註文を待つよりは、いつそのこと路傍のハンコ屋になつて、見ず知らずの通行人の註文をとる方がましではなからうか、それには場所をどこにしようと考へた末、もとの海軍省の西側の柵沿さくぞひの狭い通りを選ぶことにした。一方はモータープールの金網のへいが続いてゐて、その二間幅ほどの通路を進駐軍将兵がひつきりなしに往来してゐる所なのである。二三の靴磨屋が間隔を置いて猿のやうに腰をおろしてゐた。その他にマフラや絹地の刺繍物ししうものを売る女、フォチュンテラーと英文字で書いた腕章をつけて、色のせた背広を着、中風の気味らしくよろ/\する脚をステッキでさゝへながら通行の米兵によびかけてゐる易者、似顔かきの老画家、これらの先輩にお仲間入りの挨拶あいさつをして、どうやら私は自分の場所をそこに獲得した。ところで易者も似顔かきの老画家もすこぶる会話が達者らしいのに先づ私は敬意を表したのである。「運命は君にとつて姿なき同伴者である。時には君の脳裡なうりに運命は巣くふ。或るときは君の心臓に宿る。更に或るときは君の行くてに待ちうけてゐる。また或るときはおくれせに後方から執拗しつえうに君を追ひかけても来る。だからそれらを常に予知することは運命を克服し打開し乗り越えることである。すなはち君自身を守護することである……」
 易者さんは英文と日本文とでそのやうに書いた紙を柵にはりつけて米兵の注目をひいてゐた。科学主義のアメリカの兵隊でも運命判断にはやはり興味を持つものと見えて、易者さんは相当繁昌してゐた。米兵らが占ひによつて知りたいことは、大抵「いつ頃に帰国できるだらう……」とか、「国許くにもとにゐる恋人はどんな風にくらしてゐるだらう……」といつたやうなたわいもないことであつた。とき/″\、ロングライフとか、ベリーハッピーとか、さうした易者の言葉の断片が私にも聞えた。
 私は英字で『スタンプショップ』と書き、日本字で『印章速応』と書いた厚紙の看板を柵にぶらさげ、川べりで釣りをたれて魚のくひつくのを待つこゝろで、静かに照り輝く小春日和こはるびよりの下に時をすごしたが、第一日は全く何の手ごたへもなかつた。
 ところが二日目に、一人の米兵が立ちどまつて近寄りながら私に問ひかけた。
「キャン、ユー、メーク、スタンプ?」
「ィヤー……」私は易者さんや似顔かきの真似をしてイエスと答へるところをィヤーと答へたのである。よほど会話に堪能たんのうででもあるかのやうに……が、それからさきが私にはわからなかつたので、早速似顔かきの老画伯に救ひを請うた。
「こんな数字のスタンプをこしらへてくれるか……どのくらゐの時間でできるか、料金はいくらだ、と訊ねてゐます」と画伯が通訳の労をとつてくれたので、私は皮きりとして最初の註文に応じたわけだ。
 私が註文をうけた数字のスタンプは M-3194 といふナンバーであつたが、かうした数字のスタンプを彼等は被服類その他におすために入用らしい。私は一個五十円で刻つてやつた。その日はたゞ一個の註文で終つたが、その一個が宣伝の効果をもたらしたわけか、翌日はドカドカと五六個の註文がやつて来た。更にその翌日からは殺到的に来た。誇張のやうであるが、私は大車輪でほつて/\ほりまくつた。ハンコを刻る仕事はかうなるとらくではない。腕に全身の力をこめて、その力を殺して細心にコントロールしなければならぬので存外疲れるものだ。胸部疾患には悪いといはれるのもそれなのであらう。が、毎日続くさはやかな小春日和の下でポケットがお札でふくれるのは快適だつた。さうした快適な日にはプールの屋上からレコードが拡声器で送られてそこらぢゆうに聞え渡る。きはめて抒情的なアメリカの歌謡曲である。私にはその歌詞が分らなかつたけれど、易者さんは教へてくれた。「働く者の喜びは夕暮と共に来る――」と、いふのださうである。もう一つの曲は「ドント、ファゲット、プリーズ」といふのださうで、日本語でいへば「忘れないでね……」なのである。表題は『港町の乙女をとめ』と易者さんは説明した。彼はなか/\よく何でも知つてゐる――。

 私の毎日のかせだかは少いときで四五百円だつた。ナンバースタンプばかりでなく、いろ/\こまかい洋文字のこみいつたスタンプもやつてのけたが、この好景気が続けば私はやがて町に一戸の印章店を構へ、幾人かの下職したしよくを使つて美しいショーウィンドの主人になれさうだつた。私の幻想のなかには一軒の瀟洒せうしやな印章屋の影像が浮ぶのだつた。東京の町のどこかで、さうした、小ざつぱりとした印房を私はかつて見たことがあつたやうだ。硝子戸ガラスどの店頭の一方に篠竹の小藪こやぶをあしらひ、こけ石燈籠いしどうろうのもとにはつくばひがあつて、かけひからは涼しげな垂水たるみが落ちてゐる……硝子戸越しに見える店主らしいのが照明燈の下で静かに黙々と印章を彫つてゐる……それが私なのである。晴耕雨読……印章の註文に応じながら、一方では悠々いう/\本来の創作の仕事に没頭する……そこには揺ぎのない生活の安定がある――とこれが私の空想だつたのである――。
 しかし私のスタンプショップもクリスマス前後が繁昌の絶頂だつた。それからは急転直下でさびれて行つた。どうしたのだらう……私はその原因をたしかめるために大いに反省した。
 似顔かきの老画伯にいはせると、米人は総じて飽きつぽいさうである。その飽きつぽいところが彼等の進歩性でもあるといふのである。似顔にしてもはじめは相当にはやり、一時は応じきれないほど殺到的だつたさうだが、この節ではトンと寄りつかなくなつたとのこと。
「この節はあべこべに、似顔の註文よりも、僕の顔をモデルにして、ジャパニス・サンタクロースだといつてカメラを向けるのです。そしてとつた写真を本国に送りやがるですよ。モデル料よこせといふと、オーケーと笑つて逃げるですよ」と老画伯はいふのであつた。
 なるほど画伯の顔は白い長髯ちやうぜんで埋められてゐて、そのニコ/\顔にベレー帽をかむつてゐるところ、どう見ても和製サンタクロースだつた。
 ところで、私のスタンプショップがいよ/\はやらなくなつた原因をやつとつきとめることができたのだ。或る日、町の印章店の前を通るついでに何気なしにそこのショーウィンドをのぞくと、果たせるかな、そこには最早もはや、ゴム製の米兵向きにできたナンバースタンプの見本が飾られてあつた。私は「まゐつた……」と内心手をあげて鼻で吐息をした。私はしよげてしまつた。これまで私のこしらへたスタンプはゴム印ではなく、ロー石だつたのである。ロー石の印は朱肉をつけておせば写りがよいけれど、スタンプインキをつけておしたのではからだめである。しかるに米兵らは朱肉をつかふことを知らないので、ロー石のスタンプにインクをつけてゴム印同様に習慣的にポンとたゝきつけるのである。彼等はよく私に「ラベル、ラベル」とくりかへしいふので、何のことだらうと最初のほどはトント合点がゆかなんだ。すると靴のかゝとのゴムを指すのであつた。ゴムのスタンプはできないのか……といふ意味が分つたのである。ナンバースタンプを以ていち早く米兵の需要に応じ得た先駆者は私だつたかも知れないが、最早それは自慢にならない時が来た。
 よろしい。今からでもおそくはない。ゴム印で再出発をして見ようと私は奮起のカケ声だけは心に叫んで見たが、さてめんだうなのはゴム材の入手方法だ。ゴム材は統制品で、ゴム印組合に入らねば配給を受けられないのである。それにゴム印となると私はズブの素人しろうとなのだ。が、数字の活字を註文の通りに組みあはせて、それをば紙型に移して、溶解したゴムを流しこむぐらゐのことは私にだつてやれる自信がなくもなかつた。残る問題はやみのゴム材をどうして入手するかであつた。
 私といふ男は元来、企業家的意欲があるやうで実はないのである。露店の印章屋も単なる思ひつきからだつた。これで私に企業意欲があれば、タイプ、謄写版、名刺の早刷、その他プリント一切を含む店鋪にまで進出しただらう。ところがもと/\趣味として篆刻てんこくを楽しむ程度以上にこのみちに深入りする気はなかつた私である。
 でも、いろ/\考へて見た揚句あげく、何とかしてもうしばらく印章屋でねばつた方が得策だと思ひ、或る日のこと、ハンコ屋になりすまして浅草鳥越町一円の印材問屋を一軒々々あたつても見た。そこには既製品の数字のゴム印が大小幾種類もあつたので、私は初号型のゴム印で1から0までそろつて箱入りになつてるやつを二三箱ほどためしに買つて、家に戻つてから工夫一番智慧をしぼつてみたが、どうもかんばしくない。かりに1から0まで、ひとそろひになつてゐるゴム印の中から入用の数字だけをひつこぬくとすれば、大半は無用になることを予想しなければならなかつた。それではソロバンがとれないのだ……。
 或る日、虎ノ門の霞山かざん会館の前でA通信社の文化部のK君に出あつた。
「しばらく……」と双方は親しさのあまり頓狂とんきやうな挨拶をはした。
 終戦後久しぶりに会つたのでそこらの喫茶店にでも一緒にはひりたかつたが、私はひざの破れたズボンをはいて、彫刀などを入れた道具箱をぶらげ、靴みがきみたいな姿をしてゐたので、さすがに気がひけた。
「出あつたついでに頼みますが、随筆ものを五六枚書いてとゞけてくれませんか。何でもいゝですよ。なるべく早い方がいゝ。稿料は一枚百円は出します。毎月二回ぐらゐ、五六枚のものを送つて下さい」
「承知しました。では早速……」
 そのまゝ、あつさりと別れたが、米兵相手のスタンプショップも極度にさびれてゐた矢さき、私は大いに力づけられた。一枚百円の原稿料ときいてひそかに驚き、聞きまちがひではないのかと思つた。戦前夢にも見ないことだ。が、あとでわかつて見ると最早その時分の一枚百円は最低の部だつたのである。終戦後、トント原稿市場に遠ざかつてゐた私はそれほど迂濶うくわつだつた。もうハンコ屋の真似など続けてはゐられない。実のところを告白すれば、文芸の道のきびしさと戦後の苦難に堪へきれずして逃避根性からハンコ屋を思ひついたともいへる。だが職業といふやつは一度それでめしを喰つたが最後、吸ひついたひるのやうになか/\おいそれともぎはなせるものではない。かりそめに唯五六枚の随筆原稿を頼まれたからとて、書くべきヒントをつかむまでには時日を要するのだ。そして、できあがつた原稿を先方に送りとゞけたにしてもすぐには稿料が手に入るものでもない。で、その間の喰ひつなぎに、どうしても現金かせぎが必要であつた。とはいへ、このまゝスタンプショップを続けるにしても、米兵相手は最早思はしくないから、今度は向きをかへて邦人相手にミトメ印の註文を目ざしてそれ一本でゆかうと考へた。そして心機一転、家庭裁判所寄りのあたりのよい一角に場所をかへることにした。場所を変へた動機のもう一つは、さる日曜日の午後、なま酔ひの米兵から不意に喉首のどくびをしめられたりしたからでもある。易者さんが達者な英語でとめ役をしてくれたので私は救はれたが、理由といふほどの理由も何もなく、唯、私が元陸軍将校であつただらうといふ風な見そこなひをされ、からかひ半分にノドワをかけたものであつた。馬鹿げた見そこなひもあつたものだ。が、よくあることらしい。軍人はなやかなりし頃なら光栄ともいへるが、迷惑千万なはなしである。米兵の多くはゼントルマンと思つてゐたが、中にはへんなのもゐた。妙な手つきをして見せて、パン/\をとりもつてくれろなどと、小うるさく持ちかける兵隊もあつて、私はそんなとき、答へにこまつたものである。然し私の方にもそんな誤認を受ける若干のひけ目がなくもなかつた。といふのは、私のスタンプショップにはよく、うら若い洋装の娘がやつて来て「ハンコ屋さん少しの間、あなたのそばにゐさしてね……」といつて三十分も一時間も私のそばにへばりついて離れないのがあつた。それは約束の時間に米兵とふためだつた。或ひは昵懇ぢつこんな兵隊から金をいたぶるためでもあつたらう。このあたりはパトロールがきびしいので年若い女がうろうろしてゐるとすぐに見とがめられ、手帖に書きとめられ、間が悪いと連行されるので、私のそばにゐて、ミトメでも刻つてもらつてゐる風を装ふのである。さうした若い女がよく私のそばにゐるのを見た米兵達は、私がスタンプショップを表看板として内々パン/\嬢のとり持ち役でもしてゐるやうに見たのであらう。で、つひに思ひきつて場所を変へることにしたのである。

 家庭裁判所の傍に場所を移してからは米兵との交渉はほとんどなくなつた。邦人のミトメ印の註文はポツ/\だつた。
 或る日、ルンペン風の男が近づいて来て、いきなり、
「をぢさん、ハンコつておくれよ」といふ。見ると三十前後の、黒光りの顔をした、あかだらけのお客さんだ。
「ミトメ、いくらで刻つてくれる?」
「さうだなあ、安くして三十円だ」
 よく/\見ると見覚えのある男。虎ノ門の焼けビルの跡などに古いベニヤ板を三角に立て合はせて、その鶏小舎然たるうちに寝泊りしてゐるその男である。雨の日など、やつとそのぶざまな小舎の裡にカラダを縮こめて寝てゐるその男。よく国民酒場の行列でも見かけるその男であつた。
「何といふ姓かね」
「サヲトメといふんです。ちよつとかはつてゐますしやらう」
「サヲトメとはどう書くのかね」
「五月女と書くんです」
「……五月女……ステキだなあ。名まへは」
「名はヨシヲです。五月女美男、と書くんです」
 全く柄にもない姓名の持主だつた。私はその人の人相や人柄の感じで、この人は田中とでもいひさうだな……とか、津村とでもいひさうだな……とか、予感することがよくある。そしてたまにはそれが的中するのである。然し五月女美男君だけは全く意表に出られてしまつた。
 言葉の調子では関西者らしい。
「君、関西かい」
「大阪です」
「あちらは働く者にはくらしよいやらうがな……」
「そりやな、よろしけど、自分の故郷やさかい、ぐあひ悪うおますねや。こないなルンペン風をして故郷にはをれしめへんがな」
「なるほど、それはさう……」
 戦時中は兵隊にひき出されて南方へ行き、終戦になつて帰還して見ると親兄弟も女房子も行方がわからず、更に手がゝりがなく、遂に現在のやうな境遇に自然にちこんだといふのである。戦後、到るところで聞かされる悲話の一つであつた。
「失礼だが、拾ひ屋で一日にどれくらゐのかせぎになる」
「さうだんなあ、まあ二百円。多いときで三百円くらゐなりまつけど、雨の日もあり、風の日もあるよつて、平均百五十円ぐらゐですわ」
 月曜日、水曜日は進駐軍の教練がある日で、午後一時から兵士達は中隊別に各広場に集合する。隊長がやつて来るまで兵士達は巻煙草をくゆらせて談笑する。隊長の姿が見えると兵士らは手にしてゐるシガレットを矢庭にはふてて整列する。その棄てられた巻煙草をモク屋達は待ちかまへて飛びついて拾ふ。吸ひさしではあるが、かなり長いのばかりである。彼等モク屋はそれを『おかひこ』とよんでゐた。長い吸ひかけの巻煙草はその一方が黒くこげてゐて、胴体が白いのでお蚕の姿に似てゐるからで――。
「前へ進め」と各部隊は宮城前の広場をさして行進する。それ……とばかりモク屋達はあとを追つかける――五月女美男君もその一員だつた。宮城前でも前述の通りの収穫である。
 何とか兵(濠洲兵がうしうへいのことだつた)の通つた跡には草もえないが、米兵の通つた跡にはスミレが咲く、とは、彼等拾ひ屋のよくいふことだつた。(彼等は女兵士達のすてた口紅のついた吸ひさしの巻煙草をスミレと称してよろこぶ)。拾ひ屋の中には元輜重兵しちようへい中佐や老朽官吏のくづれもゐた。総司令部(元の大蔵省ビルのGHQ)の周囲には銀製のライターだの、シガレットケースや万年筆などが植込みの中にどろにまみれて落ちてゐる。持ち物の豊富な兵士達が窓からドン/\放り棄てるのである。拾ひ屋にとつては唯一のパラダイスだつた。
「ねえ君、一日に二百円平均も稼ぐなら、あんな虎ノ門の焼けビルの跡なんかに寝泊りしなくつても、安宿に泊れるだらうに」
「え、千住の簡易ホテルだつたら一晩三十円で泊めてくれまつけどな、僕、夜中にイビキをかく癖がおますよつてな、簡易ホテルでは他の客の迷惑やいうて、僕、行つてもていよく断られるんです。僕のイビキと来たら特別すごいので評判だんね。自分ではわかりまへんけど、夜中によく寝言をいうたり、戦争の夢見て飛び起きて壁をたゝいたりするいひますわ」
「へえ、それはこまつたもんだなあ」私は笑つた。
「まあ夏場だけは野宿でも結構眠れますよつてなあ……南方で露営してなれつこになつてますよつて」
 南千住あたりの簡易ホテルに泊つて一夜三十円払ふよりは、カストリ一杯のんでビルの焼跡で野宿した方がましだといふのである。然し私は彼の酒ずきなのには同情と理解がもてた。
「君、よほど好きなのかい」
「量は二合以上のめまへんけど、一日中ちよい/\やらんと元気おまへんな――をぢさん、その方は……」
「まあ少々はね」
「酒には苦労しますぜ。かういふ時世になると何ぞボロイまうけでもせなんだら酒のために落ちぶれまんな。第一にナリがくづれますぜ。この通り、乞食こじきみたいに……」
 私はひそかに身につまされて刺される思ひがした。頭髪を刈つて銭湯へ入らうと思つてゐても、その理髪代と風呂銭ふろせんとがついカストリ一杯で消えてしまふことになる。さうしたことにれるに従つて生活は荒廃してゆくのは私にもよく分る。
「いよ/\、あしたから、リンタク屋にならう思ひますね」と彼はいふ。「それには車の賃貸契約書にハンコおさんなりまへんよつて、それで、をぢさんにミトメ刻つてもらはう思うてな」
 リンタク屋になれば少くとも一日千円は稼げるといふ。
「結局人間は自分の体力を消耗して生きなきやなりまへんな。自分のエナジーを喰うて生きるのやさかい、おのれの脚を喰らうて生きるタコと変りまへんがな……」と五月女君のタコ哲学の一席。
「海に落ちこんだら思ひきつてドン底まで沈んで、底に足がついたらドンとあがるのが浮ぶ方法や思ひますのや……その気であしたから力いつぱいリンタクのペダルを踏んで蹴あがりますわ」
 彼は普通商業を出てから兵隊に行く直前まで或る会社の計理事務をとつてゐたといふ。さうした下地があるので、改正法による公認計理士(会計士)の試験を受けて資格を得たら会社入りをする考へだと語つた。彼にも人並の希望がある――。
 翌日、二人乗りのリンタクに大男の米兵を二人乗せて霞ヶ関かすみがせきの大通りをエツサラホツサラとペダルを踏んで走つて行く男、それが彼だつた。
 五月女美男君と同様、私も酒のためには並々ならぬ苦労をした。煙草には無関心でゐられたが、酒のためには東奔西走した。毎月、食堂での食べ越しの結果は、高い食券の闇買ひと、代用食の買ひあさりに狂奔した。雑炊ざふすゐ食堂の行列と国民酒場の行列とは、今思ひ出しても悪夢のやうにいやである。町のカシラとか、顔役とか、料飲業者組合長などといふ男が官僚の真似をし役人面をして幅をきかせる国民酒場なるものは、愛酒家の市民を深刻に侮辱した。私はさうした深刻な侮辱を感じながら、抽籤ちうせんにはづれてもなほ性懲しやうこりもなく、怨霊をんりやうかれたばちあたりのやうにその日その日の国民酒場を西へ東へと追つかけまはつたものである。
 或る日、芝田村町のビルの焼跡で不意に国民酒場が開かれたので行列に加はつたところ、この日はことに割りこみ騒ぎで殺気立ち、その列中の若者の一人は柄のよくない与太者と見えたが、喇叭らつぱのみにのみ終つたビールの空壜あきびんの口をバンとつかいだかと思ふと相手の首筋にグサと突き刺し、そのまゝ逃げ去つた。刺された方は血みどろになつて最寄もよりの医院へつれこまれたが、それを見てからはさすがに私も、その酒場だけは足遠くなつた。概して新橋界隈は柄がよくなかつた。
 私には国民酒場の抽籤といふやつが実にニガテだつたので、抽籤でなくのめるところなら高い足代をもいとはず遠征した。西は飯能はんのう、八王子、東は茨城水海道みつかいだうへんまでも長駆した。
 あまりに籤運くじうんが弱いので、神様にお願ひの心で、酒代だけは手垢てあかのつかない、きれいなお札を用意して酒場の行列に立つやうにした。お札のないときは銀貨を洗面所の水で洗つて浄化した。それでも籤にはづれて一杯のチユウにもありつけないときがまゝあつた。帝劇裏の国民酒場の抽籤のやり方は、底の深い筆筒やうの筒に割箸わりばしが沢山に入れてあつて、その割箸の尖端せんたんの赤く染めてあるやつを引つこぬけば当り籤なのであつたが、私はあまりにはづれてばかりゐたので、抽籤のとき、筒の中の箸を、そつと三本ばかり一緒にまんで中途まで引き上げてから目早くそれを見わけて赤でないやつを上手に手ばなすことにした。そのやり口が巧妙になつてからは断じてはづれなくなつた。正しかるべき人間が、いつしか狡智かうちと謀略にたけてゆく過程を私は身を以て知つた。赤坂溜池から、中野宮園町の国民酒場までけつけて、籤にはづれて秋風身にしむ夕暮の焼跡の町を歩いて帰つたこともある……長男のやつ、籤運の弱い親父おやぢに一杯のませてやりたいと思つたらしく、殊勝にも一緒に五反田まで同伴して行列に立つてくれたが、おかげでその時は二杯のむことができ、しみ/″\と親孝行なやつだと思つた……。
 赤坂福吉町の『ゆかり』といふ小つちやなバラック建ての喫茶店では内しよでカストリをのませると聞いたので、或る日の夕方入つたところ、なんと、その店のおかみが「あれ、まあ、おめづらしい……」と声をはなつて迎へたので、よく見ると、このおかみ、いつぞや山王下の焼跡の通りで、すれあつたときハンコ屋の所在を私にたづねた彼女だつたのである。
「あゝ、あなたはいつぞやの……」と私も思はず声をはなつた。
「まあ、あのときは有りがたうございました。おかげさまで、あれから後、たうとうこんなお店をはじめたんですのよ。よくいらして下さいました……」
「よいお店ですなあ、今日は、あなたがこの店のおかみだとは知らずに、一杯のませて貰へるときいて飛びこんだのですよ……」
「お安いこと、どうぞ、まあ、こんな狭苦しいところですけど、お上んなすつて……」
 店には紅茶と貧弱なケーキぐらゐがあるのだつた。しやにむに、上れといはれたので、なるほど内しよで一杯のませてもらふには店さきではぐあひが悪いので、こちらも気をきかせて、唯一室きりの茶の間に、カーテンをくゞつてあがりこむと、そこには五十がらみの、親方風の職人が、茶ぶ台のそばにあぐらをかいてのんでゐた。私は早速一杯カストリをついでもらつた。十六七の娘が狭い台所で夕飯の支度したくをしてゐる。十二三の男の子が裏口から入つて来たが、またすぐに出て行つた。どうしたのか主人らしい影は見えない。
「あのお住ひはどこやらと、おつしやつてゐましたわねえ。さう/\、永田町でしたわね」
「溜池の停留所の近くです。永田町の総理大臣官邸の崕下がけしたにゐます」
「あれから、大分たちますわ。御商売は、ハンコ屋さんぢやないとおつしやつてゐましたわね、つて頂いたミトメは大事にして持つてをりますのよ。あなたとは印縁といふのでせうか……」と彼女はしやれをいつて笑つた。
「あなたのミトメを刻つてあげたことから、ふつと思ひついて、今、ハンコ屋みたいなことになつてしまひましたよ。ミトメでも、ところ判でも、何でも刻ります」
「あらさうですの」といつて彼女は親方風の客に向ひ「この方、お器用で、ハンコを刻んなさるんですのよ。井上さん、何か刻つておもらひなさいよ。町のハンコ屋さんに頼むよりは、安くてとくですわよ」
「さうかい。ぢや刻つてもらはう」と親方はシャツのポケットから手帖をとり出して鉛筆で何か書きはじめた。
「こんなのを刻つてもらひてえな」といつて手帖のページを裂きとつて私に突きつけた。
 見ると『東京都港区麻布仲ノ町二ノ三五八、銅鉄板金工事請負、井上徳平』と書いてある。幅六分、たけは一寸五分位にして刻つてもらひたいといふ。いくらで出来るかと訊ねるので、私は、町のハンコやよりも二割ほど安くして刻つてゐるといふと、もかく内金としてこれだけ取つといてくれと、内ポケットから札束をつかみ出して百円札を二枚引き抜いて突き出した。気前を見せられたが、品物が出来てからで結構だからと私が辞退すると、おかみは、横合から「こちらはとても堅いお方ですのよ」といひそへた。
「その堅いところが気に入つた。おかみ、ハンコやさんに別に一杯ついでやつておくれよ」と親方はいふのだ。建築関係の職人の景気のよさに私はのまれてしまつた。私は好きではあるが二杯以上はのめないし、それにこんなところで、長つたらしく腰をゑてのんではゐられない性分しやうぶん。そこへ裏口から常連らしいのが二人ばかり入つて来たので、それと入れ代りにさやうならをした。すると、あとからおかみが追ひかけて来た。
「あたし、一度お宅にお邪魔にゆきたいんですけれど……」といふのであつた。
「来て下さるのはよいが、とてもひどいトタン張りの壕舎がうしやですから」

 彼女は最初、山王下であつたときの感じとちがつてゐた。喫茶店のおかみらしく人さばきのよさにすつかり私は酔はされてしまつた。いつたいどんな用事でおれの住ひをたづねたいなどと、わざ/\追ひかけて来ていふのだらう、と私はへんな気がした。一度お訪ねしたいなどと、亭主持の女にいはれて、それをまにうける私も愚かであつたが、正直のところ、不在中、もしかしてやつて来はせぬかと禁足された気持だつた。
 ところが、よもやと思つてゐると、その翌々日ひよつこり彼女はやつて来た。さすがに焼けトタンを張りめぐらした壕舎を見て、彼女は、思つたよりもひどい家だとびつくりしたにちがひない――流行のすその短いチンチクリンのモンペの上衣うはぎを羽織のやうに着てゐた。
「さあまあ、こんなところですがどうぞ……」
 彼女のとりなしで註文を受けたブリキ屋のハンコを刻りかけてゐたところだつたのでそれを見せたりした。これからいくらでもハンコの註文など世話をしてやると彼女はいふ。
「あたしの店に来る人達にすゝめてあげますわ。ゴム印もできますの」
「さあ、そのゴム印がどうも……」
「あのブリキ屋さんといふのは屋根屋なんですのよ。トタン屋根の方で、とても今、仕事が多くて景気がいゝんですの。ハンコ代の五百円や六百円、何とも思つてやしませんから、町のハンコ屋より二割安くするなんて、そんな弱いことおつしやらないで、よそなみにお代はおとんなさいよ。あたし、五百円くらゐもらつてあげますわ。六百円出さしてやりませうか」
「あとのこともありますからね。あんまり高くいふとこれからの註文がとれなくなりますから」
「あ、それから、あたしもお願ひがありますの。小つちやく『ゆかり』と平仮名でほつていたゞけませんか知ら……」
「お安いこと……」
「ところが少し註文がやかましうござんすのよ」と笑ひながら彼女はその『ゆかり』といふ平仮名のハンコの使用について語るのだつた。
 彼女は内しよで自家製の手巻の煙草を店に来る客に売り出してゐるので、その手巻の煙草の一本々々に『ゆかり』といふハンコをおして専売局製の『ひかり』に見せかけようとの思ひつきであつた。さうすれば『ゆかり』が『ひかり』に見えて店の宣伝にもなるといふのである。その思ひつきに笑はせられた。
「『ゆかり』と小つちやく『ひかり』と同じ字体にこしらへていたゞけますかしら」
「早速こしらへませう」
 彼女は表面、喫茶店を営み、内々カストリを売り、その上、手巻の煙草をもこしらへてゐるのだ。
「さうでもしなければ母子三人がたべてゆかれませんもの」と彼女はいふ。
「御主人は」
「御主人なんてありませんのよ。あつたんですけど、別れてしまひましたの」
 私はさうきいて、ふと思ひあたることがあつた。いつだつたか、六本木の国民酒場の行列で常連達がはなしてゐたのは、このおかみのことだつたのか……と思つた。はなしの前後はわからなかつたが、る引揚者夫婦のことで、亭主は横浜の進駐軍関係の自動車工場に勤めてゐて、情婦ができたので妻子をかへり見なくなり、遂に女房の方から別ればなしを持ち出し、今は別居して喫茶店をはじめてゐる……といふやうなうはさばなしの一端が私の耳に聞きとれたが、そのおかみではなからうかと私はひそかに思つた。
「あの、はなしは別ですけれど、あなたは、以前、裁判所に勤めていらしたとか……山王下の食堂でそんなはなしをきゝましたんですけど」
 私はちよつと意外に感じたが、七八年前のこと『法律新報』といふ旬刊誌編集部の嘱託で公判傍聴記を担当してゐた頃、毎日のやうに大事件らしい公判を法廷の記者席で筆記したが、その頃の私の横顔を傍聴席からでもながめた人が、たま/\山王下の食堂ではなしてゐたものと想像された。世間は広いやうでせまい……。
「わかりました。裁判所に勤めたことはありませんが、二年あまり法廷に出入しました」
「ぢや、裁判所のことはよく御存じですわねえ。実はあなたに裁判所のことを教はりたくて今日はお訪ねしたんですの。弁護士さんに頼めば相当お金がいるさうですから、あなたにお智慧をかして頂きたいんですけど」
「さあ……あまり大したことは知りませんが、なんなら、知つた弁護士さんにきいてあげてもいゝんです」
「あたし達夫婦は事実上別れたことになつてをりますが、法律上はまだきつぱりと解決してはをりませんですの。それについて、どうしたらよいかと思ひまして」
「さういふ問題なら今は家庭裁判所に持ち出せば無料で解決してくれますよ。家庭裁判所の受附へ行つてそのことをうち明けると審判官があつてくれますから、一通り事情をのべて、あなたのいひ分として、離婚請求、慰藉料ゐしやれう、今後の子女の養育費のことなどをおつしやれば、相手方をび出して双方話し合ひの上、審判官が判決してくれます」
「それはいゝことをうかゞひました」
 彼女の打ち明けばなしを聞くと、いつぞや六本木の国民酒場の行列で常連がはなしてゐたのとぼ符合したので、やつぱりさうだつた……。
 彼女は奉天の一旅館の娘だつたが、今から十七八年前、媒妁人ばいしやくにんなしで合意上の結婚をした。亭主は元来機械屋で、大陸育ちで大酒をのむたちの男。終戦後内地に引揚げてからも高い闇酒やみざけを一日も欠かしたことがなく、それにはさん/″\悩まされたといふのである。大連では収入も多く、酒代にこまりはしなかつたが、敗戦と共に内地に引揚げてからは、ほとんど無一物の上に亭主は無理して酒をのみたがるのには泣かされたとのこと、青山の引揚者寮に入つてから、その寮の前に空地があつたので、屋台店を思ひつき、今川焼をはじめたところ、それが意外に繁昌したので、どうやら子供達の冬着の支度も間にあつて、一つ二つの寝具も手に入れたが、今川焼が繁昌するのをよいことにして、亭主は店の売溜うりだめつかみ出してはのみあるくなど、手のつけやうがないところへ、その空地が急に売却ときまつて屋台は追立てを喰ふことになつたが、よいあんばいに亭主の就職がかなひ、横浜の方の進駐軍関係の自動車修理工場に採用ときまつたので、やれありがたやと思ふと、今度は亭主に情婦ができて、一万何千円の月収の中からろくに妻子の生活費をみつがうとはせず、それどころか、寄りつかなくなつてしまつたので、彼女は名古屋で景気づいてゐる弟から資本を借りて現在の福吉町のバラック建の喫茶店を譲りうけ、どうやらくらしをたててゐるのだが、二人の子供を背負はされた上、ビタ一文もよこさない亭主の仕打はあんまりだと語るのだつた。
「それでしたら、家庭裁判所に持ち出せばきつと貴女あなたのいひ分が通りませうよ」
 金がかゝらずに裁判所の方で受けつけてくれるときいて彼女は安心したらしい。
「今日はほんとに、うかゞつてよかつたですわ」
「唯ねえ、かういふことは一応腹に置いていらつしやい……たとへば御亭主の方でです。貴女に情人があるといふ風なことを裁判官に申立てる場合がないとも限りません。法廷といふところは往々、まことしやかに、あることないことを双方がいひ出して泥仕合の場所になりがちですから……」
「そんなときには私のために証人になつて下さる方はいくらもございますのよ」
「人間は道にはづれたことをしたり行きすぎをしたりすると後になつて反省しなければなりませんからねえ……それだけは確実です。反省なんかしてゐないやうな顔をしてゐても心では自分の非を気づいてゐるんです。今に御主人は再びあなたのそばに戻つて来るでせう」
「今でも情婦と面白くないときはのこ/\私んところへ来ますのよ。でも寄せつけませんの。追つぱらつてやりますの」
「それはまだ脈がありますね。やつぱり、あなたと断然別れてしまふ気はないんですね」
 彼女はさういはれて包みきれないよろこびをほのかな夕映ゆふばえのやうに、その美しいまゆのほとりにたゞよはせた。
「でも、その情婦との間に子供まで生れてしまつたんですから」
「別に子供が生れたことが貴女がその御主人を失はねばならぬといふ絶対の条件にはなりませんからね。おせじに、気やすめをいつてるんぢやありません、まあ、あまり考へない方がいゝです」
 彼女は一通り自分のことを打ち明けてしまふと、今度は私のことを問ひかけた。おつれあひは、とか、御家族は、とか、私の一人ぼつちなわびしい状態を見て、いたはりの心からたづねるのであつたらう。で女房はこれ/\の事情で二十年も前に別れたこと、二人の子らは罹災者寮りさいしやれうに入れてもらつてゐることなどを語つた。
「お一人でまあ、おさびしいでせう。一つあたし、恰好かつかうなお話相手を見つけませうか」
「ありがたう。かう、あぶらがぬけきつてしまつてはどうにも仕方がありませんよ。すべては過ぎ去つてしまひました」
「失礼ですが、おいくつでいらつしやいますの」
「ぢきに七十です」
「あれ、まあお若く見えますわねえ」

 彼女は家庭裁判所に事情を訴へ出ることにきめてその日は辞し去つた。それから三日たつての月曜日の午前、私は約束通り家庭裁判所の前で彼女とおちあつた。この日の彼女は唯、家庭裁判所の大体の様子を見たいといふほどの煮えきらない心持だつたやうだ。女一人ではじめてこんなところに来るのは心おくするのも無理はない。ところで月水金は既願人の続行審理の日となつてゐた。新来の訴願者は火木土といふことになつてゐたので、いづれにしてもこの日は受附けてもらへない日だつた。
 で折角今日、此所こゝまで出向いて来た彼女に無駄足踏ませるのも心ないことと思つたので、私は彼女を誘つて、すぐお隣りの地方裁判所の民事部九号法廷に同伴した。家庭裁判所では一切傍聴は禁止となつてゐるが、地方裁判所の民事部では離婚事件といへども傍聴できることになつてゐる。此所で取扱ふ事件はこと/″\く本訴で、相変らず月水金の日は複雑な離婚事件の多くが展開されてゐるのだつた。
「参考になるでせうから少し傍聴しませう」
 丁度、そこでは慰藉料問題にからむ離婚訴訟の審理中であつた――しうとめ小姑のある家庭に嫁入つたが面白くゆかぬ……する内に姑の衣類が一枚なくなつた……占師うらなひしに訊ねたところが家の中の者が盗んでゐるといふ。てつきり嫁だといふことになつたので若い嫁はぬれぎぬをきせられた。それが無念さに若嫁は里へ帰つたきり戻つて来ない。ところが嫁は妊娠してゐることが婦人科医によつて分つた。すると亭主の方では里へ帰つてゐる間に不義をして妊娠したものといひはつて取り合はない。嫁側はいよ/\憤慨して医者の証明を添へ、貞操蹂躙じうりん、名誉毀損きそんで離婚と共に慰藉料請求の訴訟を提訴したものであつた。次回公判にはその占師も参考人として登場することになつてこの日は閉廷となつた。
 彼女は傍聴の間しきりと涙ぐんでゐた。二人は法廷を出てからエレベーターで降りて刑事部の廊下をゆくと、すぐとつつきの法廷では女の殺人犯の公判がはじまつてゐたので、またしても彼女をそこへ誘ひこんで三十分程傍聴した――亭主は会社員で情婦ができ、毎晩帰宅がおそいので細君はいらだゝしくなり、或る日の夕暮れどき、駅までふらふらと出かけてゆくと、亭主が情婦と二人づれで駅の改札口を出て来るところを見たので細君は身をかはしたが、亭主は自働電話のボックスに入り、情婦はボックスの外にたゝずんでゐるので、細君はまんざら知らない間柄でもないその情婦に近づいて言葉をかけた。そして亭主が電話をかけてゐる間に附近の暗い空地へと言葉巧みに誘ひゆき、むらむらと妬情とじやうが胸いつぱいに燃ゆるはずみに帯どめをはづしてその細ひもを情婦の首めがけて後方から投げかけると、細ひもはへびのやうに情婦の首にからみついたので、あれ、と叫ぶとたん、細君は情婦に飛びかゝつて組み伏せ、巻きついた細ひもでそのまゝ絞殺してしまつた……といふ事件であつた。
 彼女はそこでも一心に傍聴しながら、涙ぐみ、ハンカチで鼻をかんだ。
「もう出ませうか」と彼女はいふ。
「今日はいゝところを見せて頂いて、おかげさまで……あの細君が情婦を殺したくなる気持はあたしによく分りますわよ」と彼女はいつた。

 冬が来て終戦後三度目の年末が近づいた。毎年ながら年の暮といふものは年月の経過を回顧させる。ほゝけ立つ尾花すゝきのそよぎにまかせた焼跡の冬のきびしさはしみ/″\こたへた。これでも戦災前は知名人の門標もちらほら目立つほどの静雅な邸宅続きのブルジョア小路だつたのである。さらにさかのぼつて回想すると、このへん一郭は佐賀藩主N侯爵の屋敷で、今の崕上がけうへの総理大臣官邸が昔は御殿と称してゐた洋館建の侯爵本邸だつたのだ。大正十二年の震災後、藩主の本邸は渋谷に移された。私は母方の親戚しんせきがN侯の側近を勤めてゐたわづかの関係が縁で本邸をめぐる家来長屋の一棟ひとむね寄寓きぐうし、少しの間、神田の学校へ通つたことがある。それから早くも五十年――。今は回顧するもいやだ。私の回顧は自己嫌悪と悔恨と社会に対する憎悪ぞうをと運命の飜弄ほんろうにいきどほりをよびさますものにすぎないからである。
「今日は……」と年もおし迫つたある日、モヂリを着た男が戸口にやつて来た。
「あのてまへは福吉町のチン餅屋もちやでござんすがね……」
「家ぢや、チン餅屋さんには用はないんだが……」と私はつつけんどんに答へた。
「いえ、実は、お宅の裏にころがつてる松の丸木を譲つていたゞきたいんですが、どうでせう」
「松の丸木、あ、あれかね、さうだなあ……」
「実はたきゞにしたいんでお願ひに来たんですが譲つておくんなさいな。あゝして打つちやらかして置いちや勿体もつたいなうござんす。今に木の子が立つちやあ薪にもつかへやしませんぜ。どうでせう……」
 いはれて私も気がついたが、まんざらでもないお客さんだと思ひ、あまりそつけない応対もならなかつた。
 松の丸木といふのは官邸の崕の斜面に百年の緑を誇つてゐた老松のブツぎりで、昭和二十年五月二十五日の夜の空襲で焼かれて枯死したのを、終戦後、人夫がこと/″\くきり倒し、その一部を私の壕舎の裏に放りすてて行つたしろ物。直径七八寸、長さ一間たらずの赤松黒松のブツぎりの胴体が全部で七本ほどころがつてゐた。もらつた当時から、どう処置したものかと実は持てあましてゐたしろもので、或る日、荒い歯ののこぎりを借りて来て木挽こびきのまねをやつては見たが、薪にこしらへたとて所望者があらうわけもないので、腹をへらすだけ馬鹿らしいと、そのまゝ打つちやらかして置いたそれなのだ。
「おいくらで譲つていたゞけませうか」と、ちん餅屋は私の顔をまじまじ見ながら笑ひを含んで、「失礼ですが、旦那だんなはこの方がお好きださうですが、どうでげせう……配給のウィスキーが、てまへのところに二本あるんですが、わつしやその方はいけねえんで、そいつと、とつ換へつこしませうか、何なら、別にのし餅を二枚さし上げやせう」といふ。
 どこできいて来たのか、私の酒くらひであることまでも知つたかぶるので、忌々いま/\しくはあつたが、歳の暮れのウィスキー二本は、まさに虎の子だと思ふとこちらが弱気だつた。
「いゝから持つて行きなさい」
 むづかしく考へるほどのことではなかつた。
「ぢや、さういふことに……」と、ちん餅屋は早速リヤカーをとりに行つてウィスキー二本と、のし餅二枚を持つて来た。わりに正直な男で、ねぎを背負つて来たかもみたやうなはなし。こんな偶然事がまひこんで来ようとは、たつた今しがたまで予感もしなかつたことだ。私はそのウィスキーを机代用のリンゴ箱の上に飾つて、正直のところ、かしは手をならして合掌した。これはまさに奇蹟だと思つた。神の存在については今もつて半信半疑の私であるが、神を信じたいと思ふことは、思つてはならないことではないはずだと知つた。私には時々かうした偶然事が訪れて来る……。
 かういふことに出あふと、人生は全く水ものだといひたくなる。よい偶然と悪い偶然の交互作用だ。どんな細心な計画でも、うまくゆくか、ゆかないかはふたを開けた上でないとわからない。それは偶然といふやつがコンディションを助ける場合と、さうでない場合とによつて結果はちがふからであらう。これでいよ/\大晦日おほみそかを迎へる準備はできたといふわけだつた。
旅館寒燈ひとり眠らず
客心何事ぞうた凄然せいぜん
故郷今夜は千里の思ひ
霜鬢さうびん明朝また一年
 さすがにこの除夜の詩はいつの大晦日に低吟してもぴつたりと胸に来るものがある。私は炉端ろばたでウィスキーをみながらこの詩を低吟した。一杯のウィスキーには一杯だけのイリュージョンが展開する。長い間、孤独でくらしてゐると、自然にひとりごとをいふ癖がつくものである。酔と共にいろ/\の追懐や幻想が頭の中で展開をはじめた。
 過去を聯想するには、その時代、その時分にはやつた流行歌をうたつて見るに限る――日清談判破裂して……この歌を低吟すると霜やけのゆかつた幼年時の冬が思ひ出される。赤い夕陽ゆふひに照らされて……友は野末の石の下……と口ずさむと日露戦争中の哀愁が、そして野戦病院生活がまざ/\と思ひ出される……勝つてくるぞと勇ましく……あゝいやだ……見よ東海の空あけて……いやだ……いやだ……もう御免だ……春が来た春が来た、どこに来た……これを低吟すると四歳と三歳の二児を育てるに苦労した時分の当時の姿が思ひ出されて油然いうぜんたる悲哀が胸にこみあげて来る――お手々つないで野道をゆけば……山のお寺の鐘が鳴る、からすと一しよに帰りませう……この歌をうたふと冬の寒夜に二児を抱いて寝た夜ごとの男やもめの自分の過去の姿がむせびたくなるほど哀れに思ひ浮ぶ……子らの唄、思ひ出深し四度の冬……。
 ウィスキーの酔ひで幻想と追憶がます/\奔放に展開し出した。机代用のリンゴ箱の上の蝋燭らふそくの灯が静かに上下にゆらいでゐる。それを眺めてゐると、遠からず来るであらう自分のお通夜つやのさまが聯想された。不吉な聯想であるが、どうせ来るべく決定的なものなら予習的に今からさうした場面にれ親しんで置くのもよからうと思つた。『死』よ、いつでもおいでなされて下さい……脳溢血なういつけつでも心臓麻痺でもおいでなされませ……といふ気持になつた。さて、それでは告別式の弔詞を一つ……模擬告別式……。
「――君は天才ではなかつたが、よく六十五歳の長きを生きた。君は貧乏といふものにどこまで堪へ得られるかを身を以て実験した。また孤立と孤独でどこまで生きてゆけるかを実験した人でもあつた。し君が二十代で死んでゐたら一個の労働者で終つたことになつたらう。若しまた三十歳前後で死んでゐたらいたましい一個の文学青年として終つたであらう。更にまた四十歳前後で死んでゐたら惜しむべき新進作家といはれたかも知れない。若しまた五十歳前後で死んでゐたら、女房に逃げられて二児をかゝへながら悶死もんししたといはれたであらう。更にまた、終戦前後に死んでゐたら栄養失調で倒れたといふことになつたであらう。しかるに君はよく粗食欠食に耐へて今日まで生きながらへた。君の一生はまことに恵まれざる一生ではあつたが、今や二児は成人せり。君の使命は果たされたりといふべきか。以てめいすべし。弔詞終り――」
 ゴーン……とはるかに除夜の鐘が聞えて来た――ゴーン……またゴーン……。
 おう私はまだ生きてゐた……と、ひとりでひやうたくれながらこの大晦日の夜を、ぐびり/\と独酌どくしやくでのみ明かしたが、実をいふと悔恨の生涯に慟哭どうこくしたい気持をまぎらすためであつた……。
(昭和二十七年三月)





底本:「現代日本文學大系 49 葛西善藏 嘉村礒多 相馬泰三 川崎長太郎 宮地嘉六 木山捷平集」筑摩書房
   1973(昭和48)年2月5日初版第1刷発行
初出:「中央公論」
   1952(昭和27)年3月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:青空文庫
校正:荒木恵一
2014年12月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード