濃緑のあかだもの木の下にて
三十を越えた
四十あまりの人の話をきく
二十余年北国の地に流浪して
絶えず山水に親しみながら
生活を続けて来た人の話である
面は陽に
ひげはおとなしくあご一面に
ぼうぼうと生えている
アイヌとも妥協して
或は
事もあると言う
熊狩りに魚捕りに
野に山に宿した事もあると言う
長い半生にありし物語の
さも面白そうな話ぶり
ちょうど今頃である
雌と雄の二疋の鱒が
だんだんと小川をさか上って来る
彼らは卵を生む為めに
遠い川下から来て
日当りのいい浅瀬に
雄が尻尾をもて砂を掘り
雌に卵を生ませ
自分の白子をふきかけて
砂と共によくからみ
そして元の如くに装いて
雄は再び川下へ帰ってゆくけれども
雌はそれを最後に
最早すべてを失って
死につつ浪のまにまに
流れてゆくと
そうして二疋の鱒は
卵を生む為めに命を懸けて
清い流れを求めつつ
上下している
自分らは親しくそれを見て
再び彼らを捕る事が出来なかったと
やさしいあたたかい内地人の性格で
その人は語った
ああ涙ぐましい話ではないか
愛のために生命のために
殉ずる彼の魚達の行いを
人の心として見るとき
そはまことに美しい愛の発露である
一九二三・六